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実家にあった、昭和29年(1954年)の新潟市内地図朝日新聞のおまけだったそうです。)

 

昔の新潟は、よく堀と柳で象徴されます。
かって、新潟市の中心部には、多くの堀が張りめぐらされていました。
もともと新潟は、港を中心に栄えてきた町で、堀は船の物資の集散に動脈としての役割を果たしてきました。江戸時代の前期、明暦のころには、すでに現在と同じ位置に主要な堀ができていたそうです。
その後も、時の施政者によって都市計画は進められましたが、驚くことに主要な道路については、江戸時代の地図がそのまま使えそうなぐらいきれいに残っています。また、かっての堀も、埋め立てられはしたものの、そのまま道路になっているので、跡を追うことは容易です。
私が小学校で郷土の歴史について学んだとき、「昔は堀があったが埋め立てて道路にして便利になった」程度のことしか習いませんでした。物心がついた昭和40年代には、堀は過去のものであり、自分にとっては遙か昔の歴史の一部と同じものだったのです。(当時は『高度経済成長期』で、子供たちには未来だけ向かせていればよい時代だったのかもしれません。)
しかし、私より年上の身近な人々にとっては、堀は見慣れたものだったのです。
私の父の生家は、下町の赤坂町にあり、早川堀と艀川に挟まれていたところでした。母は、結婚する前は、西堀と鍛冶小路の角のすぐ近くにすんでいたそうです。兄が生まれたとき、一家が住んでいたのは白山浦で、目の前が蔵所堀だったそうです

堀に関しては、私と両親の間に記憶の接点はありません。このページを編集していく中で、いろいろな話を聞かせてもらいました。
堀がなくなったのはそう遠い昔のことではありません。新潟に住んでいる方であれば、ご両親やおじいちゃん、おばあちゃんに話を聞けば、いろいろな思いで話がでてくるかもしれません。
このページがそんなきっかけになってくれると嬉しいです。
ここでは、まだ堀が残っていた頃の父が撮影した写真と、思いで話を中心にご紹介したいと思います。
時代にすると、昭和20年代後半から、昭和30年代の話です。堀そのものを撮った写真はあまり多くありませんが、同じ時代の街角の写真も併せて展示してあります。

 


西堀 新潟の堀の代名詞ともいえる西堀のお話。
柾谷小路 今よりも、自動車がはるかに少なく、買い物客がはるかに多かった時代のお話。
一番堀と白山周辺 白山神社とその周辺の昔の姿を紹介。
早川堀と下町 いつも見慣れた、下町の堀のお話。
蔵所堀と学校町界隈 市役所裏から関屋本村付近までの国道116号線は、蔵所堀を埋め立てた後につくられました。
街角寸景 こんな景色もありました。

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