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名古屋から帰省
昭和20年は日本にとって大変な年だったが、我が家にとっても多事多難の年だった。
前年から、自分は名古屋に勤労動員されていたが、年末から感じていた頭痛がひどくなり、名古屋大学病院で診てもらったところ蓄膿症診断され、手術のため一時帰郷することになり、1月17日の中央線の夜行で新潟に向かった。
ところが折からの大雪で長野から先の信越線は不通、上越線はなんとか動いているとのことで、そこから高崎へ出、新潟行きの列車に乗り込んだ。
のろのろ運転ながら宮内に何とかたどり着いたが、それから先、長岡で30分、矢代田で2時間、新津で3時間もストップしたまま動かず、暖房はなし、食べ物はなし、じっとしていると足の先が痛いので、ガラガラの車内を檻の中の熊のように動きまわってこらえた。
新潟駅に着いたのが19日午前2時、名古屋から30時間かかったわけである。
翌々日の21日、寄居町の黒岩医院なる耳鼻科に診てもらったら、「これはひどい、すぐ手術だ。」といまにも始めそうな口ぶりだったが、そうもいかず翌22日に小手術から始めた。随分痛かった。
予定では、小手術を2回やってから大手術を2回やるとのことで、これはえらいことになったと思った。
ところがそれと前後して父方の叔父と母方の叔母が相次いで病死という不幸が続いたかと思うと、30日には弟が生まれ、加えて母が産後肺炎にかかるという騒ぎになり、とても自分が入院大手術ができるような状態でなくなり、結局手術は途中でやめてしまった。
(蓄膿症は治ったわけではなく頭痛は続いたが、我慢して翌年の5月に別の医院で本格的な手術をしてもらった。)
後日談になるが、実は小手術の止血のためのガーゼを鼻の奥に残したままにしておいたのである。
医者から注意もされずこちらも気がつかないまま、およそ半年たったある時、鼻がムズムズするので指で引っぱり出したら、なんと細長いガーゼがズルズルと1メートルも出てきたのには驚いた。
勝手に治療をやめたのだからこちらの責任だろうが、少し出血したが後は何事もなかったので良かった。