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父に召集令状、仙台へ面会に
 
家では意外なニュースが待っていた。父に召集令状がきてもう仙台へ発ったということだ。
一度支那事変に出征して40歳を越しているような人に召集などないと思っていたのだが。
それもあまりに慌ただしい出発だったため身の回りのものもろくに持っていかなかったそうだ。小包で送ろうとしたら一ヶ月以上かかるという話しだった。それでは荷物運びを兼ねて面会に行って来ようということになった。
3月10日の夕方磐越線の列車に乗り込んだ。切符は新潟ではまだ楽に買えて車内はガラガラだった。郡山に着いたのが午後11時半頃。仙台へ乗り換えるための、青森行きの一本目は満員で乗れず、次の列車を待った。
日付を越えた11日の午前5時頃だっただろうか、待合室でぼろぼろのねんねこに子供をおんぶした女の人がいた。話を聞いていくうちに昨夜東京に大空襲
註1 があり、焼け出されて命からがら逃げてきた人とわかった。顔も手も煤だらけで、隣にいた夫は目をやられて見えず、一度は死を覚悟したそうだ。生々しい状況をきくうち気の毒になり、持っていた手袋をあげた。気が付くとホームのあちらこちらにそれらしい人の姿が見られた。
仙台に着いたのは午前11時頃、全く初めての土地で、しかも父との打ち合わせができているわけでなし、ぶっつけ本番の面会だった。駅から道を聞き聞き連隊にたどりついた。歩哨の兵隊に尋ねたが、証明書がなければ面会はできないが、午後になれば外出の時間があるので、待っていれば見つかるかもしれないとのこと、仕方なく門の外で待ったが、1時になっても2時になっても兵隊はぞろぞろでていくが父の姿は見えない。
門の外に衛兵詰所(守衛室のようなもの)があり、そこにいた兵隊さんが気の毒がって、電話をかけたりしまいには迎えに行ってくれ、ようやく会うことができた。
公式の面会でないから面会所には行かず、詰所の奥にある仮眠室という休憩室のような部屋に入れてくれ、そこで荷物を渡したり魔法瓶に入れた酒を少し飲ませたり、家族のことなど話していた。
そのうち外がなにやら騒がしくなった。耳をすますと、巡回の将校が奥に人の話し声がするのに気づいて詰問しているようだった。これはたいへんだ。みつかったら牢屋に入れられるかもしれないと息をのんで小さくなっていたが、将校は中に踏み込むようなことはせず帰ったようだ。その間数分だったが冷や汗をかいた。
一応目的を果たしたが、新潟へその日の内に着く汽車はもうない。また郡山の待合室で一夜を過ごすのは嫌なので泊まることにし、仙台駅前を探した。まだ青葉通りも広瀬通もないころの町中を歩き、新盛とかいう宿屋があったので頼むと、先着一人と相部屋で良ければとの条件でともかく泊めてくれた。相客は東京の人らしく話好きで、一杯どうかと酒をすすめられ、逆に父の飲み残しをあげたら喜んで、おかずの魚を分けてもらったことを覚えている。 註2
翌日切符を買うのにまた3時間半も立っていなければならなかった。帰りの車中でまた焼け出された人の姿を何人もみた。中には「これできれいさっぱりした。」など強がりを言っていたひともいたが。
3月15日に一旦名古屋に戻り、18日には卒業ということで動員を切り上げて新潟に帰ったが、名古屋駅を発った数時間後に大空襲註3があり、我々がいた寮も全焼した。まさにタッチの差だった。
註1 東京大空襲。3月10日に江東区・墨田区・台東区の一般市民をねらった焼夷弾による無差別爆撃。10万人以上が死亡した。最初の爆撃で逃げ道を絶ってから、住民を生きたまま火葬にしていった。はじめから非戦闘員を目標にしたものだった。
註2 その後7月10日に仙台空襲があり、市内のほとんどが焼け野原になった。1000人以上の死者を出した。父の部隊は黒磯に移動していて無事だった。
註3 3月19日の未明に、B29二百機以上による空襲があり、焼失約4万戸、被災者15万人以上、死者1000人近くの被害を出した。