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新潟鉄工に動員
3月30日に曲がりなりにも工業学校の卒業式を終え、一応米沢工専の一年生になったが、工専とて全員が動員されている状態では勉強どころはなくそのまま待機ということになり、とりあえず新潟鉄工所に配属され、代用石鹸の製造を言いつけられた。
ヌカ油に苛性ソーダを混ぜて煮て、それにベントナイトを加えて固まらせるというお粗末なものだったが、それでも石鹸が貴重品の時代では喜ばれた。
一方戦局は悪化の一途をたどり、4月1日には米軍は沖縄に上陸開始、日本各地へのB29による空襲も激しさを増し、新潟にも夜間に頻繁にやってくるようになった。ただ爆弾や焼夷弾攻撃はせず機雷を投下して、港の機能を麻痺させる作戦をとった。
そのことが後に鉄工丸の悲劇を生んだ。
6月に入ると工場では仕事をやろうにも材料が不足し開店休業で、機械類を疎開させる作業が始まった。新潟市内でも一般家庭で家族や家具を田舎に疎開させ始めた。
敗戦が決定的になり、誰しも腹の中ではもうだめだと思っていたが、口にするのは強がりばかりだった。