戻る | ||||
鉄工丸事件 | ||||
6月25日に我々は新潟鉄工所の勤務を解かれた。このころの動員計画は支離滅裂で、やたらと勤務場所が変えられた。 新潟鉄工にしてから、せっかく石鹸製造に慣れ、木製ではあったが攪拌機や切断機を作ってもらったのに置きっぱなしになった。その後どこへ配属されるかわからないまましばらく家で待機なった。 |
||||
7月2日午後5時頃家で本を読んでいた時、ドカン、ビリビリとすさまじい音がした。 空襲警報も出ていないのに何事だろうと外に出てみたら、港の方角に水煙のようなものが今まさに落ちつつあった。 |
||||
新潟鉄工所は信濃川をはさんで、入船町側に造船、工作機、山の下側に内燃機、車両、鋳物などの工場があり、双方の連絡に鉄工丸という小型のディーゼル船が日に何回か往復していた。 また入船町側唐山の下側へ、反対に山の下側から入船町側へ通勤する人も多かったので、出勤退勤時には100人くらいも乗れるハシケを引っ張って往復していた。 |
||||
7月2日は沼垂では蒲原祭りだった。食料が欠乏していたとはいえ、まだ家庭では祭り用の餅や団子を作るくらいの余裕はあった。 山の下、沼垂地区から入船町側に動員されてきていた新潟工業学校の3年生の数名は、早く帰って祭りをみようと、定時退所の午後5時より少し前に鉄工丸のハシケに乗った。 |
||||
船が川の中程にさしかかった時、川底にあった機雷が爆発し、ハシケの後半部が吹き飛ばされ、工業学校生徒7名のほか、新潟商業学校生3名、佐渡の相川中学校生3名、鉄工所の職員13名が死亡した。註1 ディーゼル船の鉄工丸は無事だった。 犠牲になった人たちは不運としか言いようがない。特に工業の7名は定時に帰れば事故に巻き込まれなかったのだ。しかし、もし爆発がもう一便遅く起こっていたら、定時退社の人達でハシケは満員で、100名以上の犠牲者が出たかもしれない。人の運とはわからないものである。 |
||||
|
||||