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B29撃墜 | ||||||
昭和20年4月、5月とB29による本土への空襲はいよいよ激しさを増し、東京、大阪、名古屋などの大都市は言うに及ばず、太平洋側の主な都市はほとんど全てが焼夷弾攻撃で焼け野原と化した。 | ||||||
6月に入ると新潟にも夜間B29が飛来するようになった。註1 しかし爆弾や焼夷弾は落とさず、港に機雷を投下し機能を麻痺させる戦術をとった。そのため機雷に引っかかって沈没した貨物船が何隻かあり、鉄工丸の悲劇が起こった。 |
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B29はかならず単機で海から信濃川沿いに入ってきた。空襲警報が出るが、回を重ねると人々は慣れっこになり、外へ出て見物するようになった。 爆音が聞こえるとサーチライトが上空を探す。機影を捕らえると高射砲の弾がオレンジ色の火の玉となって、まるで打ち上げ花火のようにゆっくりと近づくがなかなか当たらない。何か(機雷)を続けざまに落とすがすぐ見えなくなる。B29が去り、やがて警報が解除されるとぞろぞろ帰って寝る。そんなことが繰り返された。 |
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7月20日の夜、いつものように機雷投下があり、そのうちの1機が市街の上空を離れようとした頃、突然ぱっと空が明るくなった。高射砲の弾が命中したのだ。 見ているものが万歳万歳と手をたたき喚声を上げる中、巨大な火の玉となったB29はしばらく飛んでいたが、やがて左へ外れたかと思うと視野から消えた。後でわかったが京ヶ瀬村の河川敷に落ちたのだ。註2 墜落現場付近の人はB29だと知らず、突然大爆音が響き空が昼のように明るくなったので、何事が起こったのかと仰天して、ナムアミダブツと念仏を唱えたとの話しもあった。 何しろ目の前でアメリカをやっつけたというわけで、翌日の新潟は大騒ぎ、寄るとさわるとそのことで持ちきりだった。 |
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