戻る

次へ

     
鶴岡へ動員
 
疎開騒ぎの一方で鶴岡へ行く支度もせねばならず、新津からとんぼ返りで新潟に戻り、鶴岡までの切符を買ったり、宿泊先へ布団を送ったり、家に残っている家財道具のめぼしいものを倉庫会社に預けたりと、休む暇もなく動き回った。
その晩(8月11日)の新潟はほとんど無人で真っ暗、B299も来ず死んだように静かだったと記憶している。
翌12日に再び七日町へ行き、一晩泊まって13日に新津から鶴岡に向かった。もう家族も町もこれが見納めと覚悟しながら。
鶴岡駅からは木炭バス註1で坂道をよたよたと登って、手向(とうげ)に着いたのは午後5時頃だった。
指定された宿は天羽さんという家だった。そこは羽黒山の麓で昔は山伏の基地だったそうだが、人気の少ない静かな山村だった。ここなら空襲の心配はなさそうなのでゆっくり眠れると思った。
先着していた新潟中学の阿部、栃木県からきた石田、鈴木、藤沢等とお互い名乗りあい、宿の人とも初対面の挨拶を交わした。他にもう人家族、東京から疎開してきたという親戚の人たちがいた。
8月14日、小雨だったが明日から働く現場を見ておこうじゃないかと、同宿の連中と出かけた。
山の中腹に建てられた小屋掛けの中に、ドラム缶のような釜が数個並んであり、下で木を燃やして加熱する仕掛けで、冷却装置の末端の筒から黒いタールの混じった液体がポタポタと落ちていた。一日かかってもドラム缶一本もたまるまい。さらにそれをどこかに集めて再蒸留するとのこと。最終的にどのくらいの燃料になっただろうか。
一方蒸し焼きにされた根は木炭になるわけだが、もろい上に火がつくと線香花火のようにはじけるので、危なくて近寄れないというしろものだった。
結局、松根油は航空燃料としては役に立たず、根を掘り返して山を荒らして、土砂災害を増やしただけだった。
 
註1 木炭バス。ガソリンが不足していたので、バスの後部に大きな炉をつけ、木炭を不完全燃焼させて発生する一酸化炭素を燃料として走らせたもの。スピードは出ず故障も多かった。戦後もしばらくの間運行していた。