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終戦
 
8月15日、皮肉にもこの日が工専の入学式にあてられていた。
入学式といっても近くの小学校の体育館に集まり、工専からきた教授の教育勅語の奉読に続いて訓話があっただけで、引き続き松根油製造の入所式が行われた。挨拶したのは海軍の士官だった。運営の主体は海軍だったらしい。
午前中にセレモニーは終わり、午後からいよいよ仕事に取りかかるつもりで一旦宿に戻ってまもなく、正午に重大放送があるということでまた小学校に集まった。
天皇陛下自らの”玉音放送”だということだ。”玉音"など聞いたことがないので緊張して待った。
ところが始まってみるとさっぱり聞き取れない。ただ「朕は汝等臣民とともにあり」という文言だけはわかった。
放送が終わると海軍の士官は「ただいまソビエトに対する宣戦布告の大勅が発せられた。我々の進むべき道はひとつ、松根油の生産に励むことである。」と顔を紅潮させていった。
するとソ連が参戦したのでこちらからも宣戦を布告したのか、それにしては少し様子がおかしいと思いながら宿に戻る途中、どこかの家でラジオが鳴っているので立ち寄って、そこで初めて無条件降伏、ポツダム宣言受諾を知った。
宿ではしばらくはみな無言、もう負けだとはわかっていたが、あらためて知らされると力がいっぺんに抜けた。しかしそのうちたれかがポツリと言った。「これで嫁さんがもらえるぞ」。
翌16日、松根油の製造現場へ行ってみたら釜の半分が壊されていた。その後始末を手伝ったが、我々のやった仕事はそれだけ、何のことはない、施設を壊すために来たようなもにだった。
一体、これからどうなることやらわからないので、16日、17日の両日は情勢待ち、裏の畑の芋掘りの手伝いなどをした。18日になって一旦家へ帰れとの通知があった。
その晩は宿でどぶろくを出してくれたので、我々も持ってきた缶詰を前部出して宴会を開いた。あまり騒ぎすぎて隣から苦情が出たそうだ。
手向を離れたのは20日の午前だった。わずか1週間の短い期間だったが、歴史的瞬間を迎えた土地として忘れることはできない。
註1 天皇が神格化されていた時代には、一般の人は陛下自身の姿を直接見ることも、声を聞くことも許されなかった。お召し車が通るときは頭を下げさせられた。声を玉音と称したが、ラジオでで放送されることはなかった。たまたま陛下が出席するセレモニーが放送されて自身が勅語を読む場合があっても、その間放送はうち切られた。