終戦前夜 |
ここに掲載した話は、父が当時かかさずにつけていた日記に自ら加筆したものです。当時の見聞によるところをそのまま載せています。 当時の一学生の目を通した、日本が敗戦に至るまでの慌ただしい様子、まさに終戦の前夜というべき状況の一部を伝えることができれば幸いです。 |
昭和20年に入ってからの日本は、先の見えないトンネルの中を歩いているような状態だった。... |
昭和20年は日本にとって大変な年だったが、我が家にとっても多事多難の年だった。 蓄膿症の手術のために動員先の名古屋から一時帰郷することになり、1月17日の中央線の夜行で新潟に向かった。... |
2月19日に機械化のT君等と工専の受験のために米沢に向かった。... |
家では意外なニュースが待っていた。父に召集令状がきてもう仙台へ発ったということだ。... |
3月30日に曲がりなりにも工業学校の卒業式を終え、一応米沢工専の一年生になったが、勉強どころはなく、とりあえず新潟鉄工所の配属された。... |
7月2日午後5時頃、家で本を読んでいた時、ドカン、ビリビリとすさまじい音がした。空襲警報も出ていないのに何事だろうと外に出てみたら、港の方角に水煙のようなものが今まさに落ちつつあった。... |
7月9日、東洋合成で人手が足りないので手伝いに行けということになった。... |
新潟にも夜間B29が飛来するようになった。しかし爆弾や焼夷弾は落とさず、港に機雷を投下し機能を麻痺させる戦術をとった。... |
長岡市が空襲にあったのは8月1日だが、この日も快晴だった。... |
8月10日朝10時頃、空襲警報が発令された。ちょうど自宅にいたが、爆音が聞こえるので外に出てみると南西の空に黒ずんだグラマン機が編隊を組んで飛んでいた。... |
8月11日午前零時半頃、町内の役員が「緊急命令だ。全員立ち退き!」と、怒鳴り歩いた。... |
鶴岡へ動員 |
8月9日に工専から、山形県の鶴岡の近くの山で松根油の製造に行けとの通知がきた。鶴岡に向かったのは、8月12日だった。... |
8月15日、午後からいよいよ仕事に取りかかるつもりで一旦宿に戻ってまもなく、正午に重大放送があるということでまた小学校に集まった。... |
|