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ラブ・オブ・ザ・ゲーム /
ブルー・ストリーク
007/ワールド・イズ・ノット・イナフ /
カーラの結婚宣言 /
アンナと王様
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ラブ・オブ・ザ・ゲーム
ビリー・チャペル(ケビン・コスナー)は、名門デトロイド・タイガースの右腕エース。
しかし、すでに40歳という年齢を迎え、腕と肩に痛みと衰えを感じていた。
対戦相手のニューヨーク・ヤンキースにとって、優勝がかかった一戦でマウンドに立つことになったビリーは、
試合当日の朝、5年間愛をはぐくんできたファッション雑誌のライター、ジェーン(ケリー・プレストン)に
別れを告げられ、おまけにオーナーからは屈辱的なトレード通告を受けてしまう。
複雑な胸中でマウンドに立つこととなったビリー。
デトロイド・タイガースにとってはしょせん消化ゲームに過ぎなくても、
ビリーにとっては、それは自分の人生にけじめをつけるための大切なゲームになっていた。
最近は“オレ様映画”専門になってしまったケビン・コスナーの新作なので、
全く期待して観なかったのですが、これが予想に反してすごく良かったのです。
確かにやたらケビンのアップは多いですし、“オレ様映画”には間違いないのですが、
観ているうちにどんどん引き込まれて行って、それが気にならなくなってしまいました。
ストーリーはビリー・チャペルの人生の勝負を賭けた野球ゲームをひとつの時間軸に、
ジェーンとの出会いから現在に至るまでを回想形式で追って行くのですが、
最初ははっきりつかめなかったビリーとジェーンの関係が、
ストーリーを追うごとに徐々にはっきりしていく…という見せ方が実に上手いです。
冒頭の公園のシーンでは、どうしてわざわざ彼が大事な試合を控えている日の朝を選んで
彼女が別れ話をしなければならないのかと、彼女の無神経さに腹立たしさまで感じていたのですが、
やがて“そうなってしまった理由”というのがはっきりしてくるのです。
ビリーが回想するふたりの出会いのシーンからは、私はジェーンにかなり感情移入して観てしまったのですが、
ひとりの普通の女性がスター選手に恋をした時の複雑な胸中がとても丁寧に描かれていました。
ケビンが演じる40歳の大リーガーは、とんでもない自己中心的オトコで、おまけに女たらし。
普通だったら、オンナは自分が彼にとって大勢の中のひとりであることに満足出来るはずはありません。
しかし、そんなオトコに本気で惚れてしまったが故に彼女は苦しみ、
「彼はスターだから仕方ないのよ。相手をしてもらえるだけで私は幸せなのよ」と
自分で自分に言い聞かせているようで、胸が傷みました。
一方で、“スター”という肩書きに寄って来る数多くの女性の間を渡り歩きながら、
ようやくジェーンというただひとりの女性を見つけたビリーの気持ちや
“スター”であるが故の彼の胸の痛みもきっちりと描かれています。
そして実は、ビリーはジェーンが考えているほど女たらしではないことも。
本当は心から愛し合っているのに、誤解があったり、些細なことで相手を傷つけてしまったり…
ビリーとジェーン、お互いの気持ちの揺れが伝わってくるために、
なかなか噛み合わないふたりの気持ちがもどかしくなったりもしました。
カルト的映画を撮っていた時のサム・ライミ監督の作品はよく知りませんが、
この『ラブ・オブ・ザ・ゲーム』同様、前作『シンプル・プラン』も、
多方面の人間の心理描写がとても上手いと感じることが出来た作品です。
私的には、今後注目していきたいと思っている監督です。
レベル4.5
ブルー・ストリーク
宝石泥棒のプロフェッショナル、マイルズ(マーティン・ローレンス)は、
2千万ドルの秘宝=青い輝きを放つダイヤモンド”ブルー・ストリーク”の強奪に成功するが、
すんでのところで警察に追われ、盗んだダイヤを建築中の建物の中の通風ダクトへと隠した。
その場で警察に捕まり連行されたマイルズは、2年の刑期を終えて早速ダイヤの隠し場所へと向かうが、
そこはロス警察37分署の新築ビルがそびえ立っている。
マイルズは、ダイヤを取り戻すため、37分署に赴任してきた刑事を装い、署内に潜入するが…
映画を見せるというよりも、バックに流れるヒップホップの音楽を聴かせたいがために作った映画という印象。
最初は何となく楽しいのですが、あまりにもそればかりだと、だんだん耳障りになってきます。
ストーリーも、“盗んだダイヤを隠した場所が警察署に建て変わっていた”という
“つかみ”の部分はヨイと思うのですが、そこから先があまりにも稚拙でゲンナリしました。
主役のマーティン・ローレンスも他の黒人コメディ俳優と比べると、
ピンで主役を張るには華がないような気がしますし、無理をして笑わせている感もあります。
いくらこの作品が単なる娯楽作だからと言っても、いくらアメリカ人がハッピーエンドが好きだからと言っても、
この作品のエンディングには少々立腹しました。
レベル2
007/ワールド・イズ・ノット・イナフ
ジェームズ・ポンド(ピアース・ブロスナン)の些細な失敗により、
石油王ロバート・キング卿が暗殺される。
ロバート卿の葬儀でボンドは卿の娘エレクトラ(ソフィー・マルソー)に会い、
主犯がレナード(ロバート・カーライル)という元KGBのテロリストであることや、
数年前のレナード一味によるエレクトラ誘拐事件について知る。
レナードはかつて脳に銃弾を受け、そのためあらゆる神経・感覚を失った不死身の男であった。
ロバート卿に続いてエレクトラが狙われると判断され、ボンドは彼女の護衛をすることになる。
正直なところ、私は『007』シリーズをほとんど観たことがありません。
唯一観たことがあるのが、前々作の『ゴールデン・アイ』です。
『ゴールデン・アイ』には、娯楽作としては「まあまあ」という印象でしたが、
今回の『ワールド・イズ・ノット・イナフ』は、話がスカスカで退屈な作品でした。
タイトルロールが出るまでの“つかみ”のシーン(約15分)は面白かったと思うのですが、
その後は、中身の無いストーリーを補うべく、とにかくアクションを連打しているだけで、
観ていて疲れてしまいました。
ロバート・カーライルが演じた、痛みを感じない男・レナードも、
ジェームス・ボンドの不死身の敵としてもっと派手に使うことが出来たと思うのに、
せっかくのその設定が“好きな女とセックス出来ない”ということだけに
重きを置いているような印象を受け、もったいないような気がしました。
しかし何と言っても、この作品に入り込めない一番の理由は、
ジェームス・ボンドに魅力を感じないということでしょう。
あれこそが『007』なのでしょうか。
観ていて滑稽に思えたのですが…
レベル2
カーラの結婚宣言
軽い知的障害を持つカーラ(ジュリエット・ルイス)は、全寮制の学校を卒業して家に戻って来た。
しかし、過保護な母親エリザベス(タイアン・キートン)は、彼女を自分の意のままに縛り付けようとし、
それに反発したカーラは、自らの意志でコンピュータの専門学校へと通い出す。
そこでダニエル(ジョヴァンニ・リビシ)という、同じ知的障害を持つ男性と知り合ったカーラは、
ひとり暮らしをして自立している彼に触発され、自分もひとり立ちをしたいと考えた。
渋る両親を説得して念願のひとり暮らしを始めたカーラは、やがてダニエルと恋に落ちる。
テーマは悪くないしですし、身障者故に重くならないよう
コミカルなタッチで描いていることも評価出来るのですが、
身障者同士の恋愛を描いた作品としては、中途半端な印象を受けました。
ストーリーだけを拾い上げてみれば、主人公のカーラとその恋人が
身障者でなければならない必然性が感じられないのです。
裕福な家庭に生まれ、過保護な親の観察下で育ったため
自立することが出来なかった娘が、ひとりの男性と巡り逢ったことをきっかけに
自立していくお話…と考えると、彼女を障害者にする必要はなかったように感じるのです。
ただの“箱入り娘”のお話でも充分のはずなのです。
ダニエルは身障者ながら、もう立派に自立しています。
カーラはそれに触発されて、自分も自立したいと考えるようになります。
では、カーラとダニエルがなぜ身障者でなければならなかったのか。
身障者でなければ、この物語が成り立たないというものが見つかりません。
だから余計に、それをテーマにしたことが鼻についてしまうのです。
何を言わんとしているのかが分からなくなってしまうのです。
ジュリエット・ルイスとジョヴァンニ・リビシのふたりは熱演していたと思いますが、
それだけに止まってしまった作品のような気がしました。
レベル3
アンナと王様
19世紀のシャム王国。
古い因習と伝統を守ろうとする保守主義者たちに反して、
新しい近代国家の設立を目指そうとする国王(チョー・ユンファ)は、
ひとりのイギリス人女性アンナ(ジョディ・フォスター)を王子の家庭教師として迎える。
彼女は何かと封建的で融通の効かない王室の中で戸惑いながらも生活を始め、
事あるごとに国王と衝突を繰り返すが、やがて次第に2人は心を通わせていくようになる。
こういう系統の作品は、どうしても長時間ものになってしまいがちだということは分かりますが、
この作品に果たして2時間30分もの長さの意味があったかどうかは疑問です。
数多いエピソードのひとつひとつが、物語をエンディングへと導く鍵となって生かされておらず、
とにかくあれこれ詰め込み過ぎているだけの作品という印象だけを残すのです。
その原因は、視点がジョディ・フォスター演じるアンナと、チョー・ユンファ演じるシャム王の両方に
均等に置いているからだと思います。
一方でシャム王の視点で自分の国をとても肯定的に捉えている部分があるので、
実際にはもっと強烈であったはずのアンナのカルチャーショックが、それほど伝わってこないのです。
それはきっと、作品の中でシャム(=現在のタイ)という国の文化を一方的に否定してしまうと
外交的な問題にもなってしまうからなのでしょう。
(現にこの出来ですら『王室を侮辱している』という理由でタイでは上映禁止になっていると聞きました)
難しいところだとは思うのですが、でも、それをせずにしてこの作品は成り立たないような気もします。
あと、この作品にはシャムの現地語と英語のふたつが使われていますが、
シャム人同士の会話で英語を使うのも不自然で気になりました。
原作では“英語の教師”としてシャムに来たはずのアンナが、
この作品では、英語がある程度浸透しているシャムに“化学の教師”としてやってくる…
というふうに設定が変えられていることも、かなり強引さを感じてしまいました。
有名なお話なので、観ておいてもいいとは思いますが…。
レベル3