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ムトゥ踊るマハラジャライアースウィート・ヒアアフター
孤独の絆モル・フランダースBE MY BOY
普通じゃないUターンツイン・タウンバタフライ・キス

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ムトゥ踊るマハラジャ

大地主ラジャの元で働くムトゥ(ラジニカーント)は、ラジャ専属の馬車の御者にして彼の無敵のボディガード。
主人のラジャは母親から結婚を急かされていたが、
母親がラジャの花嫁にと連れてきた娘・バドミニには目もくれず、
芝居や映画に明け暮れる毎日で、ムトゥはそんな主人に困惑していた。
そればかりか、ラジャは旅回りの劇団女優・ランガ(ミーナ)に一目惚れをしてしまい、
彼女との結婚を夢見るようになる。
しかし、ある日ランガが悪者に襲われそうになったのをムトゥが助け、
ムトゥとランガはそれをきっかけに恋に落ちてしまう。
ラジャがランガに夢中になっていることを承知のムトゥは、
ラジャがバドミニと結婚するまで、ふたりの仲を隠し通そうとするが・・・。

日本でも話題を振りまいている大人気のインド映画ですが、とにかく凄い作品でした。
“インドのキムタク”と称されている主役のラジニカーントはインドのスーパースターで、
タイトルロールのテロップに“SUPERSTAR RAJINI”と、
映画のタイトルよりも派手に紹介されるのに、まずはびっくり。
(ちなみにラジニカーントは、こんなおっさんです)
つまり、インドの人たちは作品を楽しみに行くのではなく、
まるで五木ひろしの公演を観に行くおば様たちのように、
“スーパースター・ラジニカーント”を観に、劇場に足を運んでいるわけです。
映画が始まるとまもなく“使用人・ムトゥ”に扮したラジニカーントが、馬車を疾走させてド派手に登場。
その姿は“暴れん坊将軍”のようで、使用人の役ながらまるでヒーローの登場そのもので、またまたびっくり。
そこからがもう凄い、凄い。
吉本新喜劇のようなコテコテのギャグをベースにした作品ながら、
“インドの小室哲哉”と称される作曲家が作った曲に合わせ、
バックにダンサーたちを従えたラジニカーントが、マイケル・ジャクソンのように歌い、踊り、
別のシーンでは、首にかけた“手ぬぐい”をヌンチャクのように振り回しては、
ブルース・リーやジャッキー・チェンばりのカンフーアクションを見せてくれるのです。
どうでもいいようなシーンに多分にスローモーションが使われ、無理矢理盛り上げようとしたり、
意味も無くカメラ目線を送って、ファンのハートをキャッチしようとしたり、もう、何でもあり。
ついには“使用人・ムトゥ”には出生の秘密があり・・・・という、メロドラマチックな展開になり、
観客の涙を誘うのですが、それもただのギャグにしか見えないところが何ともオツです。
ラストは、インド映画お決まりの大ハッピーエンドで幕。
恐るべきインドパワーに圧倒され、なんとも不思議な2時間45分でした。
レベル4

観て損はない作品です。
このインドの大娯楽作品をぜひとも体験して頂きたいと思います。

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ライアー

エリザベス(レネー・ゼルウィガー)という娼婦が殺された。
重要参考人としてウェイランド(ティム・ロス)が警察署の取調室でポリグラフ(嘘発見器)にかけられる。
被害者のポケットからウェイランドの電話番号が書かれたメモが発見されており、
ブラクストン(クリス・ペン)とケネソウ(マイケル・ルーカー)の2人の刑事は
ウェイランドが真犯人に間違いないと踏んで、質問を開始する。
しかし、ウェイランドは金持ちの自信家で、おまけにIQ151という天才的な頭脳を持っていた。
刑事たちはウェイランドのペースに乗せられてテストは全くはかどらない。
しかも、彼は“TLE(側頭葉てんかん)"という持病をもっており、
極度の緊張状態に陥ると発作的に異常行動をとり、その間の記憶を無くしてしまうのだった。
尋問は2度に渡って中断を余儀なくされるが、その2日後、ウェイランドは自ら出頭を申し出る。
裏で2人の刑事の秘密を探りまわっていたウェイランドは、
彼らの前で娼婦殺しの証拠となる、一本のビデオテープを取り出した。

この3人の男たちの、密室でのやり取りが中心となっている心理サスペンスで、
『嘘をついているのは誰なのか』というミステリー仕立てにもなっています。
こういう作品ではネタばらしは厳禁なので、ここでラストを明かすことは出来ませんが、
私がボーっとしていたのでしょうか、そのオチが良く分かりませんでした。
この作品には『リピーター割引(2度目以降は1000円で観られる)』というめずらしいサービスがあり、
この作品を観る前に、私なりにその理由を考えていました。
いくら観客が予想しない展開になるといえ、観客にそれを2度も観ようと思う気持ちを起こさせるには
それなりの理由があると思ったのです。
きっと作品の中に真犯人を示す、色んなヒントが隠されているのだと思っていました。
2度目に観れば『なるほど』と思い、もう一度楽しめる作品なのかと。
でも、違うんですね。
私のように、ボーっとしていて大事な部分を見逃し、
それによってオチが分からなくなってしまった人のために設定されたサービスなのでしょう。
きっとそうに違いありません。
それくらい、分かりにくい作品だとも言えるでしょう。
だからと言って、2回観に行こうと思うほどの魅力は私には感じられませんでした。
ビデオになったら、怪しい部分だけもう一度見直せばいいかな、と思う程度です。
オチが分からなかったせいで、良くも悪くも感じられず、消化不良の気持ち悪さだけが残った気がします。
ティム・ロスはいい演技をしていましたが、
「ザ・エージェント」で素朴な役がすごく似合っていたレネー・ゼルウィガーは
娼婦の割にはあまりエッチっぽくなくて、何か違和感がありました。
レベル3

で、結局どれくらいの人が『リピーター割引』の制度を利用したのでしょうか。
そっちの方が気になったりして。

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スウィート・ヒアアフター

雪に囲まれたある小さな町で、子供たちを乗せたスクールバスが凍結した道路でスリップし湖に転落する。
乗っていた22人の幼い命が奪われ、助かったのは少女ニコール(サラ・ポーリー)と
バスの女性運転手のふたりだけだった。
事故を聞きつけ、都会から弁護士・スティーブンス(イアン・ホルム)が悲しみに包まれたこの町にやってくる。
彼は子供を亡くした親の怒りをあおり立て、悲しみのやり場を求めていた人々に、集団訴訟を起こすよう説得する。
しかし、住民がみな知り合い同士という小さなこの町で独自に保っていたバランスが、
この悲劇的な事故と、よそ者弁護士が巻き起こした訴訟沙汰で崩れかけてしまう。

97年カンヌ映画祭でグランプリを受賞、97年アカデミー賞では監督賞と脚色賞にノミネートされた作品です。
物語は、仮に弁護士が町にやってくる時間軸を“現在”とするならば、
事故が起きる前の町の人々の結びつきと生活を描いた“過去”、事故が起きた時の様子を描いた“近い過去”、
それに弁護士自身の“遠い過去”と“現在”、そして弁護士が去ったあとの町と弁護士自身の“未来”という、
いくつもの異なる時間軸のシーンをカットバックで見せるという手法で撮られ、作風としては面白いと思いました。
作品自体も悪くはありませんし、大切なことも教えてくれています。
でも、何か観終わった時にすっきりとしないものを感じてしまったのです。
ストーリーを追って行くうちに、私の興味は“弁護士が善なのか悪なのか”ということと、
“事故の本当の原因は何なのか”ということに絞られてきました。
しかし、私の予想に反して物語は別の視点へと向かうのです。
バラバラになった町の結束を取り戻すため、ひとりの人間がある決断をし、
その結果、町の人々がどうなったのかという、ひとつの答えを出してエンディング。
私の抱いた2つの疑問には最後まで答えてくれませんでした。
この作品は、もともと原作があるものを脚本化して映画にしたもので、
数々の映画賞受賞の要因は、原作の意志に沿ったものを作った結果、それが評価されたのだと解釈していますが、
原作を知らずにこの映画を初めて観た人には、その“描きたかったもの”は分かりにくいと思います。
町の人々の結束を守るために、ある人間が起こした行動というものが物語の重要なポイントとなるのですが、
その人が弁護士に対してどういう思いを抱き、なぜそういう行動をとろうと思ったのか、
映像を観ているだけではそこに至るまでの気持ちが伝わってこないため、
結果だけ見せられて、その理由が分からないまま終わってしまったのです。
あとで解説を読んで納得はしましたが、よい作品だから、なおさら残念な気がしてなりません。
レベル3

幼い子供を犠牲にした事故のエピソードはもとより、弁護士個人ににまつわるもうひとつのエピソードは、
子供を持つ親御さんにはグッとくるものがあるのではないでしょうか。

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孤独の絆

過去に強盗殺人を犯し、6年間の刑期を終えて出所したジョーイ(ティム・ロス)が実家に帰ると、
見知らぬ女が怪訝そうに顔を出した。
彼女はジョーイの兄トミー(ジェームズ・ルッソ)の妻ロレイン(デボラ・カラ・アンガー)で、
ジョーイが服役中にふたりは結婚し、兄弟が育った家で暮らしていたのだった。
家族とはいえ、突然の前科者の弟の帰宅にロレインは警戒心を露わにするが、
トミーはジョーイを優しく迎え、仕事と家が見つかるまでの約束で彼を地下室に住まわせることにする。
軽い知能障害を持っているが、温厚な性格のジョーイに接しているうち、
ロレインはジョーイが強盗殺人を犯した人間には思えなくなり、次第に彼に対する態度が和らいでくる。
やがてロレインに心を開いたジョーイは、実は6年前に強盗を計画し殺人を犯したのはトミーで、
自分はトミーの身代わりとなって刑務所に入っていたことを告白する。

何かひとつ物足りなさが残った作品でした。
タイトルの「孤独の絆」とは、トミーとジョーイの兄弟の絆を意味していると思うのですが、
この兄弟の関係がはっきりしないのです。
弟であるジョーイがなぜ兄のトミーを慕い、かばうのか、それがこの作品の最も重要なポイントのはずなのですが、
その兄弟間の特別なエピソードが物語の中で説明されていないため、
いくら兄弟といえ、自分を犠牲にしてまで相手を守ろうという彼らの気持ちが伝わってこないのです。
知的障害を持った弟を、子供の頃から兄はかばい続けてきたというエピソードでもあるならともかく、
兄は弟の知的障害の原因を作ったことを親に責められ続け、
そのことで兄は弟に対し愛憎相半ばする感情を抱き続けていた、という設定です。
そんな弟に対し、子供の頃から兄はどんな態度を取り、ふたりはどんな関係を続けてきたのか、
その辺りを省略せずにきちんと説明して欲しかったと思いました。
ラストシーンで兄の気持ちが急変するクライマックスシーンも、
何がきっかけでそうなったのか、何が彼の背中を押したのか、
そこに至るまでの“根底にあるもの”の説明が十分にされていないため、
何だかあっけなく終わってしまった気がしました。
レベル2.5

ティム・ロス&ジェームズ・ルッソの演技は良かったと思います。

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モル・フランダース

18世紀のイギリス、小さな盗みを働いた女が警察に捕まり、刑務所の中で看守の子供を身ごもった。
女は刑務所の中で女児を出産すると、その直後に処刑され、
女が産んだ子供はモル・フランダースと名付けられて修道院に引き取られた。
やがて時が経ち、モル(ロビン・ライト)は修道院で心の強い女性に成長し、
上流階級のマザワッティ夫人の家に奉公人として迎えられる。
モルは夫人にかわいがられ、上流階級としての教育を受けるが、
彼女に嫉妬した夫人の娘が起こした事件が元で、夫人の家を出なければならなくなり、
行く場所のない彼女は、売春宿の使用人として働き始める。
厳格な修道院育ちのモルは、オーナーのオールワージー夫人の生き方に反感を持つが、
やがて売春婦として客を取ることを承諾した。
本当の恋愛を知らないまま、辛い気持ちで身体を売っていたモルは、酒に溺れて堕落して行く。
しかしそんなある日、モルは売春宿にやって来た画家のフィールディング(ジョン・リンチ)から
絵のモデルとして雇われ、彼との出会いをきっかけに初めて本当の愛を知り、彼の子供を妊娠する。
モルはフィールディングとお腹の子供と共に幸せな日々を送っていたが、その幸せも長くは続かなかった。

自己を貫く女性の話は好きなので、すごく期待していたのですが、正直言って期待外れでした。
死刑囚の娘として修道院で育てられ、厳格な修道女になることを夢見たモルが、
女としての誇りを持ってエッチな司祭に食らい付くシーンや、
引き取られた先でも他人から中傷にとらわれないで、常に慈悲の心を忘れず、
いつの間にか人々を惹きつけるシーンなどでは、モルに完全に感情移入するかと思われました。
しかし、売春宿に引き取られてお金のために身体を売るシーンからは
同じ女として共感出来るものが無くなってしまいました。
彼女は自己を貫いているというよりは、流されているだけのような気さえしてきたのです。
その後、ひとりの男性と知り合うことで本当の愛を知っていくのですが、
もう、完全に客観的な目でしか彼女を見ることが出来ませんでした。
死んだモルの回想録をモルの娘に読んで聞かせる、という語り口もなんだか。
監督は狙ったつもりだったのでしょうが、その手法がかえって逆効果だった気さえしました。
それに、ラストシーンもあれではね。
監督はあそこで感動させるつもりだったのでしょうか!?
レベル2

なんか、騙されたって感じ・・・・。

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BE MY BOY

奔放でハッピーなゲイの青年サニー(チャン・シウチョン)と、
自分がゲイであることを秘密にしたまま46歳になってしまったロウ(ジョージ・ラム)。
同じ部屋に住み、心から愛し合っているふたりだったが、ロウの幼なじみの女性・チュンの出現、
ロウの別の男性との浮気の発覚、ゲイに対する考え方の違いなど、様々な問題が彼らを襲い、
喧嘩の末にサニーは部屋を出ていってしまう。
ひとりになった寂しさから、ロウは勢いでチュンにプロポーズをしてしまい、
昔からロウを愛し続けていたチュンは、ロウがゲイであることを知りながらそれを受ける。
しかし、結婚式直前、サニーを忘れきっていないロウの気持ちに気付いたチュンは、
彼にサニーのもとへ帰るように促すのだった。

“香港で初めてゲイを真正面から描いた作品”
これがこの映画のうたい文句です。
確かに、この映画はゲイに対して肯定的な作品となっています。
私もそういう恋愛を否定するつもりはありませんが、理解するのが難しいというのが事実です。
同性愛を描いた作品を作るのならば、
私のような人間を理解させるだけの説得力をもった作品に仕上げて頂きたいのですが、
正直に言って、私はこの作品で監督が表現したかったこと、訴えたかったことがよく分かりませんでした。
ロウとサニーのエピソードは、それを男と女に置き換えれば、何の面白味もない単純なラブストーリーです。
それは、私が女の目で見ているからなのでしょうか、
“ゲイゆえの悲しさ”のようなものも、この二人のエピソードからは全く感じませんでした。
それより、花婿衣装で結婚式を逃げ出してきたロウが、サニーを探して町中を走り回る姿や、
スネて振り向いてくれないサニーに向かって、カラオケでセリフ入りの愛の歌をうたうシーンなどは、
決して笑うシーンではないはずなのに、可笑しくて吹き出してしまいました。
これは全て、そのシーンに到達するまでに、私がロウとサニーの関係が理解出来なかったことが原因なのです。
理解できない人を理解させるように出来なければ、こういう作品は成功とは言えないでしょう。
これもこの映画を理解し難いものに仕上げてしまった理由のひとつなのですが、
映画が始まってすぐに“おかしいな”と思ったのは、サニーの話し言葉でした。
自分のことは「アタシ」と呼び、言葉の語尾は「**なのよ」。
これじゃ、ゲイじゃなくてオカマでしょう。完全な翻訳ミスだと思いました。
これでこの作品のイメージが変わってしまったことは間違いないです。
理解できない人間が評価をするのは間違っていることなのかもしれませんが、
ストーリーの稚拙さと、翻訳のミスはやはり致命的だと思います。
レベル2

エイズで死んだ恋人の葬式に参列することを拒否された、もう一組のゲイのカップルのエピソードの方は、
あくまでも客観的にですが、“かわいそうだな”って思いました。

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普通じゃない

天国の警察署では、地上のカップルの離婚率が高いことに頭を悩ませている。
オライリー(ホリー・ハンター)とジャクソン(デルロイ・リンドー)は
「今度のカップルをうまくくっつけなければ、天国へ戻ってくるな」という厳しい指令を受けて地上におりてきた。
そのカップルとは、巨大企業の社長の娘で徹底的に甘やかされて育った、生粋のお嬢様セリーン(キャメロン・ディアス)と、
彼女の父親が経営する会社のビルの清掃員をしながら、
小説家になる事を夢見ているスコットランド人青年ロバート(ユアン・マクレガー)。
もともと境遇の全然ちがうふたりが恋に落ちる可能性は、現時点ではゼロ。
オライリーとジャクソンは、あの手この手で、まず2人を接触させることを企む。

働いていたビルに清掃ロボットが導入されたことで、ロバートは突然のクビを言い渡される。
それと同時に恋人にフラれ、翌朝には取り立て屋に扮したオライリーとジャクソンに車を持っていかれてしまう。
キレた彼は、社長・ナヴィル(イアン・ホルム)のオフィスに乱入するが、あっけなく警備員に捕まってしまった。
そこに居合わせたのがナヴィルの娘・セリーン。
父親に強い反発心を持っているセリーンは、ロバートにさりげなく銃を渡し、自分を誘拐するように導く。
成り行きでセリーンを誘拐するはめになってしまったロバートは、
12歳の時に一度誘拐は経験済みというセリーンの手ほどきで、ナヴィルに身代金を要求する。
そこで、身代金の受け渡しのためにナヴィルに雇われたのがオライリーとジャクソンだった。
ナヴィルは2人に、セリーンの無事保護と身代金の全額持ち帰り、そしてロバートを殺してくるように命じる。
2人はそれを引き受けるが、目的はあくまでもセリーンとロバートを無事カップルにすること。
しかし、その頃セリーンとロバートは、まだお互いに対する恋愛感情など皆無。
そればかりか、セリーンはロバートを見下し、ロバートは高飛車なセリーンが気に入らない。
ナヴィルからの身代金を手に入れれば、2人はそこでバイバイのはずだった。
そんな2人の前にオライリーとジャクソンが現れ、またまたあの手この手で作戦を開始する。
果たしてセリーンはロバートは、無事カップルになれるのか・・・・・・。

イギリス映画「トレインスポッティング」で大注目を浴びたダニー・ボイル監督が、
初めてアメリカ・ハリウッドの市場に進出して撮った作品です。
「トレインスポッティング」は、その斬新さが面白いと思ったのですが、
麻薬をテーマにしているという、ダークさについて行けない部分がありました。
しかし、この「普通じゃない」は、ブラックな要素を持ちながらも100%楽しめる作品でした。
生粋のお嬢様とビルの清掃員という、絶対に出会えるはずも無い、
また出会っても恋に落ちる可能性は無いというような2人を、
天国から派遣されてきた天使が引き合わせ恋愛に導く、というロマンチックなプロットでありながら、
そこに描かれているものはあくまでもブラックな笑い、というところが面白いです。
自分の墓を掘らされたり、血文字の脅迫状を送り付けたりと、
一歩間違えば非常にダークになってしまうようなシーンを、カラリとした笑いで見せてくれています。
ユアン・マクレガー扮するロバートが、バカ正直で気が弱いというところもGOOD!
「ピアノ・レッスン」のオスカー女優ホリー・ハンターの、この作品での彼女の演技も助演女優賞もので、
髪の毛を振り乱したり鼻血を出したりの怪演も見どころのひとつです。
最初に登場する“セリーンに求婚する男”や、途中で登場する“山の上の住人”の再登場のさせ方も
大変上手く、ストーリーに微妙に、かつ重要に関わって来ます。
オライリーとジャクソンの2人の天使が、やけに現実的なところが面白かったので、
最後に少しだけ非現実的なシーンを見せられたのだけが、あえて残念だと思える部分でしたが、
“天使”を登場させた時点で、多少非現実的な部分が出てくるのは仕方ないことなのかもしれません。
レベル4.5

この監督、映像センスもさることながら、笑いの取り方は絶品だと思いました。

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Uターン

1万3千ドルもの多額の借金を作り、マフィアに追われる男ボビー(ショーン・ペン)は、
その金を返すべく、彼らの待つラスベガスに向かって、アリゾナの灼熱の大地で車を走らせていた。
彼は小さな田舎町スペリアの手前で「Uターン可(よそ者は引き返せ)」の標識を目にしたが、
乗っていた車が故障してしまったことから、仕方なくこの町で足止めを喰らうことになる。
車を修理工場に預けている間、ボビーは町で若く美しいグレース(ジェニファー・ロペス)という女に出会い、
彼女の家に招かれるが、すぐに彼女の夫・ジェイク(ニック・ノルティ)が帰宅、
ふたりの関係を怪しんだジェイクに家から叩き出されてしまうのだった。
再び町へと歩き出したボビーだったが、なぜか後を追ってきたジェイクから奇妙な申し出をされる。
「グレースに5万ドルの保険をかけている。妻を殺してくれれば、それをやろう」
一度は断ったボビーだが、その直後に入ったコンビニで強盗に遭い、マフィアに返すはずの現金をオシャカにされる。
しかも、自動車修理工からは法外な修理代金を請求され、金に困ったボビーは、
仕方なくジェイクの依頼を引き受ける。
しかし彼女を殺そうとした矢先、今度は彼女の方からジェイク殺しの依頼をされる。

ヤな映画でした。
言葉が悪いですが“胸くそ悪い”映画です。
自分の意志とは関係なく次々と襲ってくる奇妙な出来事に“仕方なく”対応していくうち、
どんどん深みにハマってしまう男の話なのですが、
人間の汚い部分だけを延々と見せられているような気がするのです。
出てくる町の住民はみんなどこか変で、
それをボビーに感情移入して観ることが出来ればそれなりに面白い作品だったのかもしれませんが、
ボビーも欲望の塊のようなヤツで、とても感情移入なんて出来ず、同情する余地もありません。
第3者の目で成り行きを見守るしかないのです。
そのためか時間がとても長く感じられ、途中で思わず時計を見たら、まだ1時間も経っていませんでした。
変わったアングルからの撮影や、細かいイメージ・カットの挿入が全編に渡って取り入れられているのも、
時間を長く感じた原因になっていると思います。
変わった手法の撮影が、観始めた時は面白そうに思えたのですが、
それが2時間以上も続くとさすがに疲れてしまいます。
こういう手法の作品は、1時間くらいの短編で見せて欲しいと思いました。
人間の内面的に汚い部分を見せ付けられるだけでなく、映像的にもエグかったりもします。
(死体の側でセックスする男女の画には、ちょっと参りました)
途中でサスペンスを観ているのか、ホラーを観ているのか、解らなくなってしまいました。
観終わった時、気分がドーンと落ち込み、それが劇場を出てからも延々と続いた作品でした。
レベル2

こんなに嫌な気分をあとに引きずる映画は初めて。
それはそれで凄いことなのでしょうか。
それがオリバー・ストーン監督の実力なのでしょうか。

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ツイン・タウン

ウェールズの田舎町に住むジェレミー(リス・エヴァンス)とジュリアン(リル・エヴァンズ)は、
3つ違いの兄弟だが、あまりの仲の良さに“ツインズ”と呼ばれている町の厄介者。
いつも一緒に行動し、鎮痛剤、マリファナ、接着剤を吸いまくっては車を盗んで乗り回していた。
そんなある日のこと、町の金持ち・ブリン(ウィリアム・トーマス)から、
クラブハウスの屋根の修理を頼まれた父親のファティ(ヒュー・ケレディグ)が、
ハシゴから落ちて大ケガをしてしまう。
入院したファティを見舞いにもこないブリンに腹をたてたツインズは、
慰謝料をせしめようとブリンの家に乗り込んだ。
しかしイジワルなブリンに小遣い程度のハシタ金を渡されて、言葉たくみに追い返されてしまう。
そこで、二人はおかしくて意地の悪い仕返しを思い付く。
カラオケのステージで気持ち良く歌っているブリンの愛娘の頭をめがけて、立ちションをお見舞いしてやったのだ。
それに激怒したブリンは、また彼らに仕返しを仕掛ける。
こうして“目には目を、歯には歯を”のツインズとブリンの反撃合戦が始まるが、
やがてそれがとんでもない事件に発展して行く。

この作品で、まず鼻に付いたのは言葉の汚さ。
しつこいくらいに“fucking=くそいまいましい”と繰り返します。
例えば「弁当」を表現するには“fucking lunch”、「脚」を表現するには“fucking leg”という具合。
老人も子供も“fucking, fucking”、男も女も“fucking, fucking”。
たぶんワンカットで20回くらい言っています。
わずか1時間40分程度の作品の中で、彼らはいったい何百回この言葉を吐き出すのだろうと思ってしまいました。
観始めた時はそればかりが気になって、なんとなく映画に入り込めなかったのですが、
見舞金をせしめに行ったツインズが追い返され、ブリンに反撃を開始するあたりからは、
なんだか子供の喧嘩を見ているようで面白くなって来ました。
しかしその反撃合戦が、途中から急にエスカレートし、
かなりエグイ行動に出始めてからは、笑っていられるどころではありません。
飼い犬の虐殺なんて、目を覆いたくなるようなシーンでしたが、それすらもギャグにしてしまうんですから。
ブラックコメディが悪いとも言わないし、展開も面白いとは思うのですが、
度を越えて笑えない作品になってしまったような気がします。
レベル3

思わず“fucking”の数を数えてみたくなりました。

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バタフライ・キス

北イングランドの片田舎。ガソリンスタンドに勤めるミリアム(サスキア・リ−ヴス)の元に、
ジュディスという名前の女を探すユーニス(アマンダ・プラマー)がやってくる。
ユーニスの精神状態が普通でないことを悟ったミリアムは、彼女を自宅に連れて帰り泊めてやった。
ミリアムの前で裸になったユーニスの身体には、17ヶ所の刺青とボディピアスがあり、鎖が巻き付いていた。
それを見たミリアムは驚くが、ユーニスと共に時間を過ごすうち、いつしか彼女の魅力に取り憑かれる。
そしてユーニスに対して恋愛感情を抱いてしまったミリアムは、
翌日目覚めた時すでに姿を消していた彼女を追いかけて家を出る。
途中でようやく彼女を見つけるが、彼女は立ち寄った先で、次々と罪の意識のない殺人を犯しているのだった。
それを知ったミリアムは何とかして彼女を救おうと、その死体を隠すことに必死になるが、
ユーニスは殺人を繰り返すことをやめなかった。

「日蔭のふたり」のマイケル・ウィンターボトム監督の劇場映画デビュー作。
「日蔭のふたり」にも負けず劣らずの残酷描写もさることながら、
さすがに“画”の撮り方は興味深いものがあったのですが・・・・・。
作品の内容としては、女性が女性に対し友情を超えた感情を持ち、
その気持ちによって相手のために殺人に荷担までしてしまう、といった点で
ケイト・ウィンスレットが主演した「乙女の祈り」に似たものを感じました。
「乙女の祈り」を観たときも、そういう主人公の気持ちがよく理解出来ませんでしたが、
この作品も、正直言ってよく分かりませんでした。
全身に17ヶ所の刺青を持ち、ボディピアスをし、常に身体に鎖を巻きつけ、
“罪を犯した自分を罰してもらうため”と殺人を繰り返すユーニスは、明らかに精神を病んでいます。
だから観ている側がユーニスを理解出来ない、これは当然のことです。
しかしそんなユーニスに惹かれ、彼女を助けようと必死になるミリアムの気持ちが分からないのです。
劇中のミリアムの告白で、彼女が友達が少ない寂しい生活を送ってきたことは分かったのですが、
だからと言って、突然自分の勤める店に飛び込んで来た“変な客”をその日すぐに家に連れて帰り、
泊めてやるという行動がすでに理解出来ないのです。
同性愛が理解出来る出来ない以前の問題で、
ミリアムが何故ユーニスを好きになってしまったのか、どこを好きになってしまったのか、
それが分からないから、この作品がすべて理解出来なくなってしまったのです。
それが理解出来る人ならば、きっと面白い作品だと思います。
レベル3

決してつまらない作品だという訳じゃないんです。

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