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CUBE
警察官・クエンティン、中年の女性医師・ハロウェイ、脱獄のプロ・レン、女子学生・レブン、
そして謎の男・ワースという何の共通点も無い5人は、
気がつくと囚人服のようなものを着せられ、一辺が約5メートルの奇妙な正六角形の部屋にいた。
誰に何のためにここに連れてこられたのか、一体ここはどこなのか、知っている者はだれも居なかった。
水も食料も無い状態で、この部屋にじっとしていても死ぬだけである。
入口があったのだから出口もきっとあるはずだと考えた彼らは、部屋を移動して脱出を試みる。
6面の部屋の各壁にはハッチがついており、そこを開けるとそれぞれ隣には
色の違う同じような部屋につながっている。
彼らはそれが様々な殺人トラップが仕掛けられている部屋と、安全な部屋があることに気づく。
脱獄のプロであるレンが靴を投げ込んで様子を見るという方法で安全な部屋を見極め、皆を先導した。
しかし、レンは安全を確認して降り立ったある部屋でトラップに掛かり、あっけなく死んでしまう。
残された4人は途方に暮れるが、やがて数学科の女子学生レブンが、
ハッチに刻まれた3桁の3つの数字に、ある法則が隠されていることに気づいた。
と同時に、彼らは自分たちがここに閉じ込められた理由が、
それぞれの存在に何らかの意味があるのではないかと感じ始める。
レブンの見出した法則に乗っ取り、彼女の先導で部屋を移動している時、突然もう1人の青年が現れる。
カザンという名のその青年は、精神障害者だった。
そして彼がチームに加わったことにより彼らの和は乱れ、極限状態に追いつめられた彼らは、
恐るべき人間の本性をむき出しにして行く。
非常に難解な作品でした。
迷路を解く鍵として数学が用いられ、「素数」とか「因数分解」とか
「デカルト座標」とかいう言葉が出てくるのが、
この作品をより小難しい印象にさせていることは間違いありません。
しかし、それよりも「誰に」「何のために」彼らが閉じ込められたのかというのが謎のままで、
ラストシーンが意味しているものも極めて抽象的なため、
それが観終わった時に「難しい・・・・」いう印象を残すこととなってしまいました。
結果的に監督が伝えたかったメッセージが、
私には伝わりきらないまま終わってしまったような気がしたのです。
確かにとても怖い作品でもありました。
人間が精神的に追いつめられた時に、普段とは全く正反対の隠れていた性格が出てしまったり、
黒幕と目的が分からない状況の中で、自分以外の人間が信じられなくなってしまう現象などは、
観ていてゾッとするものがありました。
ただ、映像の中では時間の経過がはっきりしていなかったため、
極限状態に追いつめられた彼らの精神状態に、今ひとつ乗り切れない感じもしました。
閉じ込められた部屋での緊迫感やそのデザイン性は一見の価値があり、
ゲーム感覚でスリルを味わうには最適の作品ですが、
人間の醜さだけを見せ付けられた悲劇的なストーリーは、後味の悪いものでした。
レベル3
チェイシング・エイミー
ホールデン(ベン・アフレック)とバンキー(ジェイソン・リー)は、コンビでマンガを書いている売れっ子作家。
ふたりは参加したコミックフェアで、アリッサ(ジョーイ・ローレン・アダムス)という女性マンガ家を紹介される。
ホールデンは一目で彼女を気に入り、会話を交わしたふたりはすぐに意気投合した。
しばらくして、ホールデンはアリッサからパーティの誘いを受ける。
彼は大喜びで会場のバーに出掛けるが、そこで彼が見たものは、女性と激しいキスをするアリッサの姿だった。
彼女はレズビアンだったのだ。
ショックを隠しきれないホールデンに対し、バンキーは何故かその事態が愉快でたまらなかった。
それからのホールデンは、何となく浮かない気持ちが続き、仕事も乗りきらない。
そんなある日、仕事場を訪ねてきたアリッサがホールデンに対して、
自分の唯一の男性の友達になって欲しいと切り出した。
もともと気の合っていたアリッサとホールデンはデートを重ねることで、だんだん親密度を増していった。
一方、ひとり取り残されてしまったバンキーは、ホールデンがレズの女性のとりこになっているのが気に入らない。
20年間崩れることなく続いていた男同士の友情に、少しずつヒビが入り始めていた。
しかしアリッサと楽しい日々を過ごしながら、ホールデンは苦しんでいた。
彼女にとっては自分は友人に過ぎないと分かってはいても、自分は既に彼女を愛し始めていたのだ。
彼女への気持ちに耐え切れなくなった彼は、とうとう彼女に愛の告白をしてしまう。
それは、ふたりの関係を守るためには言ってはいけない言葉だった。
アリッサはホールデンのその言葉に激怒するが、
彼女にとってもまた、彼は失いたくない大切な存在になっていた。
女性しか愛せないと思っていた彼女も、ホールデンを愛し始めている自分に気づいたのだ。
そしてその夜、ふたりは初めて結ばれる。
そんなふたりをますます許せない気持ちになって来たバンキーは、
アリッサのハイスクール時代のクラスメイトから、あるウワサ話を仕入れてくる。
それは、ホールデンと出会うまで生粋のレズビアンだったと語っていた彼女が、
実はハイスクール時代に同時に2人の男性を相手にセックスした経験があるというものだった。
軽めの恋愛ものでは、久しぶりに面白いものを観た気がしました。
軽めのタッチにも関わらず、恋したことがある人なら誰でも経験するような、
恋人同士の気持ちの揺れやぶつかり合いが、実に繊細に描かれています。
叶わぬ恋に悩み、その恋が叶えばまた別の悩みが発覚する。
決して特別ではない、どこにでもあるような恋愛を、こっそり覗き見ているような気分でした。
変わった性癖を持ちながらも、アリッサの言うことは全て的を得ているので、
逆にそんなアリッサをなぜ分かってあげられないのかと、観ながらホールデンに苛立ったりもしてしまいました。
でも、ホールデンの気持ちも分からないことはないんです。
そしてアリッサの出現によってホールデンとの関係が壊れてしまったバンキーの気持ちも。
切ない3人の気持ちがそれぞれダイレクトに伝わって、
知らぬ間に3人それぞれに、変わるがわる感情移入している自分に気づきました。
この作品のテーマが「もしも、自分が好きになった人が同性愛者だったら?」というところにとどまらず、
「あなたは恋人の過去をどこまで許せるか?」というところに達したところが、
自分にも投げかけられた問題定義のような気がして、共感しやすかったのだと思います。
アリッサが自分がレズビアンであることも、自分の過去の性癖も全然恥じることなく、
堂々としているところが、嫌みがなくて良かったです。
ラストシーンの落し方も好きでした。
レベル4
でも、相当どぎついHなセリフの連発です。
付き合いが浅いカップルは一緒に観ない方がいいかも・・・。
始皇帝暗殺
紀元前3世紀、秦国の王・政(リー・シュエチエン)は、全中国を統一してひとつの国にし、
万里の長城を築いて“秦の始皇帝”となるという野望に燃えていた。
彼が心惹かれる幼なじみの女性、趙国の姫・趙姫(コン・リー)は、
秦によって天下が統一されることにより、国同士の争いはなくなり、
人々に平穏で安定した暮らしが与えられると信じて、政にある提案をする。
それは、趙姫が秦のスパイとして燕国に入り込み、政が残酷極まりない人間であるという嘘の情報を伝え、
燕から政を殺させるための暗殺者を送り込む、というものだった。
暗殺者を送り込んだという事実を逆手に取り、秦は戦争なしで燕を支配下に置くことが出来るというのだ。
趙姫は燕に政の横暴ぶりを信用させるため、自分の頬に罪人の証である烙印を押しつけ、燕国へと向った。
趙姫は燕国で有名な殺し屋・荊軻(チャン・フォンイー)と出会い、彼に刺客になってもらうよう頼むが、
荊軻は既に過去に犯した自分の罪を悔い改め、二度と剣を手にしないと心に誓っていた。
一方秦では、政に反感を持つ者が起こした反乱と、自分の生い立ちの秘密が絡む事件によるショックで、
政の人格は大きく変貌し、趙姫の知らぬうちに、彼は残酷極まりない人間と化していた。
私は“社会科”が苦手でした。
日本史も世界史も死ぬほど嫌いで、学校での歴史の授業時間は主に睡眠に当てており、
これまで歴史がらみの映画は出来るだけ避けてきました。
この作品を観る前も“始皇帝って、シンノシコウテイっていう人? 何やったんだっけ?”状態。
だから、もしかしたら寝ちゃうかもしれない、という不安を抱きながらこの中国大河ドラマを観たのですが、
寝ちゃうなんてとんでもないくらいに素晴らしい作品でした!
3時間近くの長編であるにも関わらず、
歴史に関する知識が皆無に近い私のような人間が観ても全く退屈することはなく、
観ているうちに自然にその歴史背景が飲み込めてくるのです。
それに広大な中国大陸を余すところなく見せるスケールの大きさ、製作費60億円が生み出した豪華なセット。
その中で繰り広げられる愛憎の入り組んだ人間関係・・・・。
これが映画だ!という恐るべき中国パワーを見せ付けられた気がしました。
中国のお話なので、当然のことながら人名、国名などが全部漢字で、
読み方すら分からない難しい文字が、字幕に次から次へと映し出されるのですが、
それでもなお、それがストーリーを理解する上で障害にはなりませんでした。
主要な登場人物もそれほど多くなく、それぞれがストーリー上できちんとした“役割”を持っているということが、
小難しい(・・・と私は思う)歴史ドラマを、とても分かりやすい作品として仕上げているのです。
そして、この作品のもうひとつの魅力はコン・リー演じる趙姫の存在です。
政がもくろんでいる天下統一によって人々が争わなければならない事態を避けるため、
自らの策で、自分の頬に罪人の証である烙印を押しつけてしまう潔さ。
国の民たちの流血を避けるためには、自らを犠牲にすることを惜しまない意志の強さには、
心を惹かれるものがありました。
歴史上の主役はあくまでも始皇帝と暗殺者の関係である、政と荊軻なのでしょうが、
その橋渡し役である趙姫をメインに語っていることが、
この作品を面白く魅力あるものに仕上げている気がしました。
レベル5
出生の秘密を持つ残酷極まりない国王を描いた作品という点では
「仮面の男」と非常に良く似た部分がありましたが、
重厚なこの作品を観てしまうと、「仮面の男」が急に薄っぺらな作品に思えてきました。
ボンベイ
ボンベイでジャーナリストになるための勉強をしているセーカル(アラヴィンドスワーミ)は、
故郷に帰省した時に偶然見掛けた女性、バーヌ(マニーシャー・コイララ)に一目惚れする。
バーヌもまたセーカルに惹かれ、2人は恋に落ちるが、
セーカルの家がヒンズー教の寺院の管理を任されているのに対し、
バーヌの家は厳格なイスラム教徒であった。
2人は結婚を決意し、両親にそれを報告するが、互いの父親の猛反対に遭ってしまったため、
故郷を捨てて駆け落ちし、ボンベイで暮らし始める。
まもなくセーカルは新聞記者に昇格し、2人にはすぐに双子の男の子が生まれた。
ふたりはとても幸せな生活を送っていたが、ボンベイでの生活を始めて6年経った頃、
イスラムモスクがヒンズー至上主義の暴徒たちに破壊されるという“アヨディヤ事件”が発生。
ボンベイではヒンズー教徒とイスラム教徒による宗教紛争が勃発し、街は戦場と化してしまう。
インドの映画には“法則”があるそうです。
まず、長い。3時間以上のものはザラで、中には5時間を超えるものもあり、そのため途中で休憩が入るそうです。
そして内容には決まって恋愛が絡み、唐突に始まるミュージカルシーンがふんだんに盛り込まれ、
最後は必ずハッピーエンドなのだそうです。
「ムトゥ・踊るマハラジャ」を観て、そんなインド映画の真髄をとくと見せ付けられた私は、
この「ボンベイ」もまた、「ムトゥ」のようなお気楽な娯楽ものだと思っていたのですが、
全く“色”の違う作品であったことに、まず驚きがありました。
冒頭でセーカルとバーヌが出会い、一目で恋に落ちてしまって言葉もろくに交わさないうちに
「君のためなら死んでもいい」などと言ってしまう唐突さには、やはりついて行けないものがありましたが、
(それがインド人なんだろうか、とも思いましたが)、それはあくまで物語の導入部に過ぎませんでした。
ミュージカル仕込みの前半のコミカルな展開も、後半では一転。
宗教紛争が巻き起こした暴動シーンがメインとなり、異宗教の民家に油を振りまいて火を放つだけではなく、
子供の頭から油をかけて火をつけようとしたり、逃げようとする子供を大人たちが踏みつけたりするような、
目を覆いたくなる残酷なシーンがシリアスに描かれています。
この物語は、異宗教の壁を超えて結ばれた男女の恋愛を通して、
インドで実際に起こった、二つの対立する宗教の信者が起こした血なま臭い紛争が、
いかに無意味で悲しいことであるかを訴える作品となっているのです。
それぞれがお互いに宗教に厳格な家で育ったにも関わらず、当人たちは相手の宗教を決して否定することはなく、
宗教の違いは2人が生活していく上ではさほどの問題にはされていません。
また、セーガルが新聞記者という立場で冷静にこの紛争を見つめたり、
2人の間に出来た双子の子供には、どちらの宗教にも属させなかったりと、
主人公自身が二つの宗教を“中立”の立場で見て物語を語っているので、
“第三者”の目で見ざるを得ない私たちでも、すんなりと主人公に感情移入出来るのです。
無抵抗の市民が次々と殺されていく、サラエボ紛争ものや北アイルランド紛争ものに通じる部分がある作品ですが、
この「ボンベイ」はそういう作品が苦手な社会情勢に疎い人に対しても、
とても分かりやすいストーリーとなっています。
レベル4
ミニシアターでの上映でしたが、シネスコープサイズだったのに驚きました。
キスト
サンドラ(ナターシャ・モーリー)は、12歳の頃から既に「死」に魅了されていた。
小鳥やネズミといった小動物の死体を見つけては、深夜の森でひとり聖なる埋葬の儀式を行うのが、
彼女のひそかな喜びだった。
時は流れ、大人の女性へと成長したサンドラ(モリー・パーカー)は、
衰えぬ「死」への興味から斎場を営むウォリス氏のもとで働くようになる。
彼女の初仕事はウォリス氏の助手を勤めていた若者の葬儀だった。
遺体を車で教会へ運ぶ途中、彼女はそっと棺桶のふたを開け、初めて人間の死体とのキスを経験する。
それは今まで覚えたことのない強烈な悦びを彼女にもたらした。
この出来事をきっかけに、死の秘密をより深く追求したいと思うようになった彼女は、
ウォリス氏の斎場で働きながら、大学に通い防腐処理技術を本格的に学び始める。
そんなサンドラに興味を抱いたのが、医学生のマット(ピーター・アウターブリッジ)だった。
サンドラはマットに不思議な安心感を覚え、驚くほど素直に彼に自分が斎場の死体とセックスしていることを打ち明ける。
そしてマットもまた、ごく当たり前のように彼女の告白を受け入れるのだった。
初めて自分を理解してくれる男性に出会ったサンドラは、その夜自らマットの部屋へと出向き、身体を許す。
しかし、生きた人間とのセックスは彼女に本当の悦びを与えてはくれなかった。
観終わった時に、不思議な余韻が残る映画でした。
一歩間違えばただの「変態映画」になってしまうような題材を、実に奇麗にまとめ上げています。
私は極めてノーマルな人間なので、「死体しか愛せない」主人公のサンドラを理解することは無理ですが、
ああいう愛の形が存在してもいいのではないかな、と思わせてしまう監督の手腕は凄いと思いました。
リン・ストップレウィッチというカナダの女性監督の作品です。
他の人が書いた既存の原作本に監督が感銘を受け、自らの手で脚本化したというだけあり、
監督はこのサンドラという女性を、とてもよく理解していると感じました。
あれほどまでに変わった趣味を持ちながら、サンドラには不思議な魅力があり、
彼女に惹かれるマットの気持ちも何となく分かります。
そして、真の自分を初めて理解してくれた男性に出会い、
その人になら身体を許してもいいかな、と思ってしまうサンドラの気持ちも。
その後、ふたりの気持ちが噛み合わずにお互いが苦悩する様子も、
繊細な心理描写でとても上手く表現されていました。
ラストは予想通りでしたが、この作品にはそれ以外の結末は有り得なかったと思います。
「失楽園」などとは比べものにならない、究極のハッピーエンドとも言えるでしょう。
レベル4
死体しか愛せない。でも、若くて美しい男性でなければダメ、というこだわりがあることが面白いです。
ボクサー
IRAのテロ行為で19歳の時に投獄されたダニー(ダニエル・デイ=ルイス)は、
14年間の刑期を終えて町へ帰って来た。
ダニーはIRAのリーダーを父に持つ、昔の恋人マギー(エミリー・ワトソン)の元へと向うが、
彼女はダニーが投獄された後に彼の親友と結婚し、息子のリアムをもうけていた。
その夫も数年後にダニーと同じく投獄され、マギーはひとりで息子を育てながら夫の帰りを待っている。
テロ行為によって捕まった同志の出所を待つ妻は名誉的なこととされている“IRAの掟”にはばまれ、
今でもお互いに愛し合っていながら、ダニーとマギーは2人きりで会うことすら許されなかった。
投獄前はボクサーであったダニーは、そんなマギーへの想いをぶつけるかのように、
今ではすっかり荒廃したボクシングジムを再建し、再びボクシングを始めるのだった。
しかし、そんなダニーをよく思わない昔のIRA仲間が、彼の試合の日にテロ行為を仕掛ける。
ジム・シェリダン監督と、ダニエル・デイ=ルイスのコンビでは、
「父の祈りを」がとても良かったので、この作品にも大いに期待していました。
「父の祈りを」では、IRAのテロリストと間違えられ投獄された青年を演じていたダニエルは、
この作品ではIRAのテロ行為での刑期を終えて出所した・・・・という役柄。
こんなことは自慢にならないのですが、私は世界各国の情勢にものすごく疎いところがあり、
IRAという輪郭は分かっていても、実際彼らが何を目的にテロ行為を行っているのか、
どことどこが対立しているのか、などという背景はほとんど知りません。
「父の祈りを」もIRAをテーマにした作品だったのですが、
こちらの作品ではIRAというのは主人公とは別なところにあったので、
その程度の知識でも話には十分ついて行けましたし、大いに感動も出来ました。
しかしこの「ボクサー」は、それが分かっていないと十分理解出来ない作品でした。
“IRAの掟”や“国内の宗教対立”などが重要なテーマとなっていて、
それを知っていることを前提とした作りになっているのです。
そういうことをひとつひとつ自分の中で納得させながら観ていたのですが、
その背景が当たり前のようにどんどん物語は進んでいき、すんなりと物語の中に入っていけないまま、
自分だけが取り残されてしまったような気持ちになってしまいました。
今年のゴールデングローブ賞に作品賞でノミネートされた作品でもあり、各方面からの評価はとても高いです。
しかし、この映画の背景になっているものを理解しておかなければ、この作品の良さは分からないでしょう。
レベル3
私のように社会科が苦手な人間には不向きな作品だと思います。
もっと勉強しないとダメですね。
ウェルカム・トゥ・サラエボ
イギリスのテレビ局のジャーナリスト、マイケル(スティーブン・ディレーン)は、
取材のために戦争真っ只中のボスニアヘ訪れていた。
町の人々が何の意味もなく血を流し、次々と殺されていく惨状を目の当りにした彼は、
その悲惨さを世界に訴えかけるために躍起になって取材を続ける。
いくつかの取材を経てある孤児院にたどり着いたマイケルは、そこが戦争の最前線であることを知る。
イギリスの自宅に妻と幼い子供を残してきたマイケルは、戦火の中で容赦なく殺されていく子供たちの姿に胸を痛め、
子供たちをサラエボの町から脱出させるように訴えるフィルムを撮り続けた。
しかし、そんなマイケルの努力も空しく、ロンドンでのトップニュースはヨーク公の離婚話。
世界にとってサラエボは14番目に危険な国に過ぎず、政府はその惨状を他人事のように見過ごしていた。
業をにやした彼は、孤児院で出会った9歳の少女・エミラを国外に脱出させ、
自分の養女として迎え入れる決意をする。
マイケル・ウィンターボトム監督の作品は「日蔭のふたり」「バタフライ・キス」「GO NOW」の
3本を観ているのですが、テーマはそれぞれに違えど観終わった時の印象はよく似ていました。
それは“悪くはないのだが良いのかどうか分からない”というものです。
そして、この「ウェルカム・トゥ・サラエボ」も全く同じ印象を受けました。
確かに良い話です。だから、否定することは出来ません。
監督お得意の残酷シーンも満載で、銃弾を受けて怪我をした人や死んだ人の姿も生々しく、
作りものとは分かっていても、思わず目を背けてしまうほどでした。
そして“戦争”という形で殺し合わなければならない人間の姿が悲しくなったりもしました。
しかし、この作品は“ドキュメンタリー”になってしまっているような気がするのです。
確かに、戦争の悲しさを訴えるには充分の作品に仕上がっているのですが、
“物語”の中の主人公の気持ちが伝わってこないのです。
マイケルが、なぜ孤児院のエミラだけを特に気にかけ、あの子を連れて帰ろうとしたのか。
このストーリーで一番重要な部分のはずなのに、その理由が映像からは読み取れません。
この映画は戦火でのマイケルの行動を伝え、それによって感動を与えてくれるもののはずなのに、
肝心の“感動”の部分にまで至らないのです。
この作品を含み、私が観たマイケル・ウィンターボトム監督の作品はどれも、
ストーリーの構成や、映像の見せ方、音楽の使い方など、とても興味深いものがあったのですが、
どの作品もあまりにも淡々としすぎていて、映像から登場人物の気持ちが伝わって来ません。
特にこの「ウェルカム・トゥ・サラエボ」は実話ベースということですし、
題材がとても良いだけになんだか残念な気がしました。
いくら実話ベースと言っても、“ドキュメンタリー”ではなく“ストーリー”を見せるつもりなら、
それなりの脚色と感情の演出は必要だと思うのです。
ストーリーはあくまでフィクションですが、同じボスニア紛争を描いた作品では
「パーフェクト・サークル」の方が、私の中では上でした。
レベル3
非常に重い作品ですが、戦争の悲しさを知るために観ておく価値はあると思います。
TAXi
フランスの港町マルセイユ。
スピード狂のダニエル(サミー・ナセリ)は、恋人リリー(マリオン・コティヤール)と新しい生活を始めるために
ピザの宅配人から、より高給のタクシー運転手に転職する。
しかし、愛車のプジョー406をタクシーに改造した彼は、無茶な運転をし続けて警察から目を付けられていた。
一方、運転免許試験に8回も落第した新米刑事エミリアン(フレデリック・ディーファンタル)は
何をやっても失敗続き。
警察が追っているベンツに乗ったドイツ人強盗団“メルセデス”の張り込みの現場でまたもや失敗し、
まんまと犯人たちに逃げられてしまったのだった。
そんなある日、ダニエルのタクシーに乗客としてエミリアンが乗り込む。
エミリアンを刑事だと知らないダニエルは、自分の運転の腕を見せ付けるべく、
50キロ制限の市内を190キロでぶっ飛ばし、エミリアンに免許証を取り上げられてしまう。
エミリアンはダニエルのことを、かねてから警察内で噂になっている
スピード違反常習者のタクシー運転手だと気づき、その運転技術を見込んで
“メルセデス”の逮捕に協力したら免許を返すという交換条件を突きつけるのだった。
免許がないとタクシーの仕事も出来ないダニエルはエミリアンとタッグを組み、
“メルセデス”逮捕のために動き出す。
リュック・ベッソンが「フィフス・エレメント」に続き再び、
少年時代からあたためていたストーリーを映画にしました。
但し、今回は彼は脚本と製作だけで、監督は別の人にやらせています。
しかし・・・・またやっちゃったのね、リュック・ベッソン。
変です。どうかしちゃったのでしょうか。
なぜならこの「TAXi」も、「フィフス・エレメント」にも負けず劣らずの幼稚なストーリーに、
どこか思い切り笑えない寒いギャグの連発。
その上、附に落ちない点が満載の作品だったんです。
本当にリュック・ベッソン本人が書いたのかと疑いたくなるような、お粗末な脚本でした。
強盗団の“メルセデス”は、ご丁寧に警察に犯行予告をしてから銀行を襲います。
しかも日時と場所を指定し、真っ赤なベンツで白昼堂々とやって来るのです。
警察は奴等の予告を受け、なぜかこれまたご丁寧に銀行の外で待機。
銀行から出てきた奴等を追いつめて、袋のネズミにしようという作戦を立てるのです。
そして、いつもいつも金を奪われた上に取り逃がします。
・・・・・・・・アホです。
なんで銀行の中で待ち伏せしないのでしょう。
なんで犯行予告のあった銀行に何の通報もしてやらないんでしょう。
強盗の予告があった銀行を通常営業させるなんて、警察は一体何を考えているんでしょう。
自動車学校の教習車が店のショーウインドウに突っ込むシーンも然り。
教官なら、普通ブレーキを踏むでしょう。
あ、フランスの自動車学校だから違うのかもしれないですね。
それより、フランスでは普通免許を持っていなくても刑事になれるんですね。
これまた驚きです。
ラストシーンもなんなんでしょうね。
その前にダニエルがしんみりと語った父親に対する思いはどこに行ったんでしょう。
ああ、もう突っ込み要素満載です。
ストーリーはめちゃくちゃ、ベッソンはただ“カーアクション映画”というよりは
“カーアクションのシーン”を撮りたかっただけなんでしょうね。
一言で言えばただの“くだらない映画”です。
“カーアクション映画”というよりは“中途半端なギャグ映画”って感じでした。
でも、単発ギャグでちょっとだけ笑えたからな。
レベル2.5
リュック・ベッソン様、お願いです。早く目を覚まして下さい・・・・。
アルテミシア
17世紀のローマ、17歳の少女アルテミシア(ヴァレンティナ・チェルヴィ)は修道院で暮らしながら、
夜中に自室で、鏡に映った自分の裸体をデッサンしていた。
彼女の恥知らずな行為を発見した修道院長は、
それを彼女の父親である有名な画家のオラーツィオ・ジェンティレスキ(ミシェル・セロー)に言いつけるが、
彼はむしろ娘の才能に驚嘆し、彼女に絵の勉強をさせるために修道院から連れて帰る。
父の仕事を手伝うようになったアルテミシアだったが、男性の裸体を描く事だけは許されなかった。
“女性であること”を理由に、制約を受けなければならない事実に憤慨するアルテミシア。
しかし諦めきれない彼女は、幼なじみの漁師フルビオに、キスと引き換えに裸体を見せてもらう。
ある日彼女は、弟子たちを従えて海岸で風景画を描いている、一人の男を見かける。
彼は、教会の絵の仕事をオラーツィオと一緒にするため、
フィレンツェからやって来たという、画家のアゴスティーノ(ミキ・マノイロヴィチ)だった。
肖像画を描く父親の仕事風景しか見たことがなかったアルテミシアは、
戸外で“世界”を描いている画家の姿に興味を惹かれるのだった。
“女性であること”を理由に、美術学校の入学を拒否されたアルテミシアは、
男性の裸体をデッサンしたものをアゴスティーノの元に持ち込み、弟子にして欲しいと頼む。
少女の大胆な行動に驚いたアゴスティーノは、一旦はその申し出を断るが、
後日オラーツィオを通して承諾の意を伝えるのだった。
アゴスティーノの元へと通い、絵の勉強を始めたアルテミシアだったが、
お互いの才能に惹かれ合うふたりは、自然に愛し合うようになる。
彼女は父親・オラーツィオには彼から絵を学んでいると誤魔化しながら、
彼のアトリエで抱き合う日々を重ねていた。
しかし、そんなふたりの噂はたちまち弟子たちの間に広まり、やがてオラーツィオの耳にも入って来る。
自分の目でその事実を確かめショックを受けた彼は、
娘の名誉を守るためにアゴスティーノを強姦罪で訴えてしまう。
バロック美術が花開いた17世紀のローマで、男性の領域とされていた美術の分野に
女性として初めて足を踏み入れ、“美術史上初の女性画家”としてその名を残した
アルテミシア・ジェンティレスキの伝記的作品です。
“女性がひたむきに生きるさまを描いた”と謳われた作品では、
最近では「アンナ・カレーニナ」と「モル・フランダース」に裏切られたばかりで、
その上、私自身実話ベースの作品や実在の人物の伝記的作品には
今まであまり心を打たれるものに出会ったことがないので、
この「アルテミシア」は如何なものかという疑心を持って観てしまったのですが、
この作品はすごく良かったです。
“女性であること”を理由に、男性にも負けないほどの才能を持ちながらも
絵を学ぶことを制限される17歳のアルテミシア。
しかし、“女が裸体を描くなんてもってのほか。恥を知れ”と罵られながらも、
彼女は神から授かったその肉体の美しさを表現することに情熱を燃やし、
追求して行くことをやめないのです。
頼み込んでモデルになってもらった幼なじみの男性の裸体を
真摯なまなざしで見つめる姿は、彼女が“女性であること”を超えているように感じました。
父親に“男性の裸体だけは駄目だ”と言われれば、こっそり幼なじみの男性に頼み込み、
学校に“女性は入学させられない”と言われれば、他の画家のところに弟子にして欲しいと頼み込む。
制約に負けずに、ならば違う道を、と常に捜し求め、
自分の才能を信じて真っ直ぐに突き進んで行く姿は、羨ましいくらいに奇麗でした。
そして彼女が美しいのは、女性であるが故に様々な制限を受けながらも、
自分が女性であることを少しも悔やんでいないからです。
悔やむどころか、むしろ女性であることに誇りを持ち、
女性であることに喜びを感じているからです。
女性に閉鎖的であるこの時代からは変わって、現代ではかなり女性の地位は向上されました。
“女性であること”を理由に、学校で絵を学ぶことを拒否されるなんてことは今はありません。
しかし、芸術等の才能に長けている女性が特別視されているという点に関しては、
現代もそれほど変わっていないような気がします。
“女流画家”“女流作家”など、“女流”という代名詞が付いている以上、
彼女たちが女性であることは特別視されている訳です。
それは、映画の世界でも同じでしょう。
この作品は“女流監督”であるアニエス・メルレが撮っています。
美術学校出身だという彼女の、アルテミシアの絵に対する情熱のへ充分な理解力と、
彼女の“女流”と呼ばれることに対しての反発心が
画家・アルテミシアの伝記を、ひとりの女性の真っ直ぐな生き方を描いた
素晴らしい作品に仕上げたような気がします。
レベル4
社会から様々な制約を受けている多くの女性に観て欲しい気持ちはもちろんのこと、
多くの男性に、この作品が訴えているものを分かって欲しいと思いました。
初恋
映画監督エリック(エリック・コット)は“初恋”をめぐる映画を作ろうとストーリーのアイディアを練り上げていた。
やがて彼は思い悩みながらも撮影を開始する。
夢遊病の少女(リー・ウェイウェイ)に、夜間掃除夫ラム(金城武)が恋する物語。
そして、恋に臆病になった青年ヤッピン(エリック・コット)が、
かつて自分が捨てた恋人(カレン・モク)と再会する事で呼び覚まされる過去の初恋。
ふたつの物語が進行するうちに、エリックは映画の撮影は恋する時間に似ていると感じ始める。
「恋する惑星」「ブエノスアイレス」のウォン・カーワァイが、本格的プロデュース業に初挑戦した作品。
撮影は、ウォン・カーワァイ作品でお馴染みのクリストファー・ドイル。
そして、主演は「恋する惑星」で日本での人気がブレイクした金城武と、
同じくウォン・カーワァイ作品である「天使の涙」で“金髪の女”を演じたカレン・モク、ということで
期待して観てみたのですが・・・・。
主演は金城武でも、カレン・モクでもありません。
監督のエリック・コット自身なのです。
監督自身がスクリーンに登場して、「初恋」という映画を撮ることになった経緯を延々と語り、
そこから継ぎ目なく映画本編に突入する、といった風変わりな手法の作品です。
“目新しく、変わったもの”を撮りたいという監督の意向は理解できるのですが、その部分が退屈で仕方ありません。
そして95年度の私の洋画部門年間ベスト1映画「恋する惑星」を意識したとしか思えない
本編の二本のオムニバス作品も、表現力に関してはウォン・カーワァイにとてもかないません。
「恋する惑星」の真似事でとりあえずは作ってはみたけれど、
そこにはとても到達出来なかった惨めさだけが残ったような気がしました。
レベル2
夢遊病の少女、リー・ウェイウェイはすごく可愛かったけどね。
ただそれだけの映画だったと思いました。