沖縄ミレニアム旅行記6



1月2日 (日) 曇り時々晴れ

最近ちょっと運動不足なので、日の出前、港までランニングしました。桟橋のベンチには、何人か日の出を見ようと来ていた人がいましたが、残念ながら、ちょっと今朝は雲が厚い。昨日の初日の出は本当にラッキーだったんだ、と、改めて実感しました。
朝食後、島旅MLの大谷さんが帰ります。これから沖縄本島に移動して、本島近辺の島に行くそうです。

港の近くにある電話ボックスのかたわらで、ドコモPHSによるメール送信に挑戦。なんらかの電波は届いているらしいのに、不安定なせいか、全然つながりません。残念。
いったん宿に戻って、西桟橋に行ってみました。少し天気がよくなってきたので、海がとてもきれいですが、ちょっと波は荒い。今日は風が強いのです。

西桟橋から浜づたいにコンドイ浜のほうに歩いていくと、途中に「ニーラン石」があります。島にいろいろな種子を持ってやってきた神様が、ここに乗ってきた船をつないで上陸したという伝説のある石です。この前で神に仕える司(つかさ)さんや島の女性たちが祈りを捧げている写真を見たことがありますが、とても印象深いものでした。わたしも石の前で、しゃがみこんでみました。石のむこうに青い海がひろがり、その向こうには小浜島、西表島が見えます。

ニーラン石

ニーラン石。島と「ニライ・カナイ」をつなぐ石。

友人に「ピイヤーシの匂い」の話を聞いたので、石垣のかたわらを通り過ぎる時、ちょっと意識して匂いを嗅いでみます……確かに匂う。乾燥して粉にした製品にくらべれば、かすかなものだけど……ああ、なんだかお腹が空いてきた。
みなさんも、一度試してみてください。本当に匂いがしますよ。

お昼は「竹の子」で八重山そばを食べました。ここは竹富島でもけっこう有名な店なのですが、入るのは今回がはじめて。いつも「やらぼ」で海老入り野菜そばを食べているものだから……。お店はけっこう満員でした。お正月期間は、さすがに竹富島でも開いている店は少ない、というせいもあるようです。店の壁には、川満聡、浅野忠信、きんさんぎんさんなど、島を訪れた著名人の色紙がたくさん飾ってあります。

島の中心部に戻って来ると、三線の音が聞こえてきました。お正月といえども、いやお正月だからこそ、水牛車もフル稼働。集落を歩いているとあちこちからきこえてくる三線の音は、たいていそういった水牛車に乗っているガイドのおじさん(おばさん、おにいさんの場合もアリ)が弾いているものなのです。3日もいると、人によってその弾き方も弾いている曲もさまざまなのがわかってきます。時には「春の小川」がきこえてきたことも……

これがなくっちゃはじまらない、という安里屋ユンタ(メロディはこちらも、どうやら人によって節回しや間奏の付け方など、さまざまなバリエーションがあるようです。あっ、この微妙に「中(ちゅう)」の音が下がる弾き方、どっかで聞き覚えがあるぞ……ああ、NHKの「新日本探訪」に出てきた水牛車で唄ってたおじさんだ〜、なんて。
何ヶ月か滞在してたら、風に乗ってきこえてくる三線のひとふしを聴いただけで、どこの誰が唄っているのか判定できそうな気がします。

水牛車もお正月仕様。 水牛車

午後、庭で三線の練習。

今日はわたしに来客があります。石垣島のユースに滞在中の長谷川さんです。実はこのご対面、なかなか面白い経緯で成立することになりました。長谷川さんは新潟の人で、以前島旅メーリングリストで、「おけささん」というハンドル名で発言していました。旅行に出発する一ヶ月ほど前、確か今はアジアあたりを放浪しているはずだな……と思って、久しぶりにホームページを訪問してみると、なんと、「年越しは石垣島のユースホステル八洲旅館で」と書いてあります。わたしはさっそく「よかったら、お正月に竹富島に遊びに来ませんか。こんなところでニアミスするのもなにかの縁ですし(笑)」と手紙を出しました……長谷川さんの次の滞在先だというベトナム宛に。

連絡がつけばもうけもの、と思っていたら、長谷川さんから松竹荘に電話がかかってきました。新潟県民と千葉県民が、ベトナム経由の手紙によって沖縄県の竹富島でご対面……ここまでのメッセージの流れを考えると、いやーグローバルな世の中になったなぁ、と思ったりして。

三線の練習を終え、居間でくつろいでいたら、長谷川さんが訪ねてきました。わたしは、「いらっしゃい、どうぞどうぞ」と居間に上がってもらいました……2〜3日もすると、ほとんど「勝手知ったる他人の家」です。
美智江おばさんが、わたしと長谷川さんにコーヒーを出してくれました。ごちそうになりながら、おばさんと3人で話をしました……といっても、ほとんど美智江おばさんの話を聞いていた、といった方が近い。 なにしろ2/3世紀生きてきた人生の大先輩の話です。面白くないはずがありません。
松竹家は昔大家族で、手広く農業もやっていたので人も雇ったりして、おばさんは毎日十数人分の賄いで、一日中台所を離れる暇もなかったとか。それで鍛えた料理の腕なら、毎日毎日、泊まり客を満足させるゴハンを出してくれるのもうなずけます。

それにしても、美智江おばさんも昇助おじさんも元気です。おばさんは60代(年齢ばらしてゴメンね、おばさん)、おじさんは70代なのだそうだけど、とてもそんな年齢には見えません。おばさんは「わたしも立派に老人会のメンバーよ」と言うけれど、その立居振舞を見ていると、「老人会」という言葉はぜんぜん似合わない。おまけに、おばさんはお茶を飲みながら、こんなことを言うのです。

「わたしも人生3分の2頑張ってきたから、残り3分の1はせいぜい楽しませてもらうわ〜、あっはっは」

まいった。人生を百年のスパンで考えるなんてこと、おばさんの年齢になった時にわたしにできるかどうか……
やはり竹富島は「長寿の島」と言われるだけのことはあります。

せっかく長谷川さんに来てもらったのだから、一緒に島を散歩しました。西桟橋に行き、そこからコンドイ浜まで歩いてみましたが、思ったほど遠くありません。島の中の道を通ってコンドイ浜まで行くとけっこう遠い気がしていたのだけれど。泳ぎに行くときは、徒歩だったら西桟橋経由コースのほうが楽かもしれません。コンドイ浜のベンチにすわってしばらくおしゃべりしたのですが、風か強いせいかちょっと寒い。石垣〜竹富便も、けっこう揺れたと長谷川さんは言っていました。

コンドイ浜にしばらくいると、面白い事に気がつきます。何分かおきに、竹富島の中を走り回っているマイクロバスがやってくるのですが、みんな申し合わせたように、浜のところでゆっくりと大きくUターンして戻っていきます。
実はこれ、島内観光のバス。竹富島へ日帰りでやってくる人たちが効率よく島の観光名所をめぐるために利用するものなのですが、有名な「星砂捜し」をするために降りる砂浜は、もう少し南にあるカイジ浜というところです。だからカイジ浜にはちゃんとおみやげ屋の露店があります。

浜としてはコンドイ浜のほうがずっときれいで広いのですが、観光バスは絶対ここでは客を降ろしません。別に意地悪しているわけではなく、ここで降ろしてしまうと、浜の美しさに魅せられたお客さんたちは、みんな思い思いに散らばっていってしまい、なかなか戻ってきません。それを再び集めてバスに乗せるのは、牧場で散らばった羊を集めるような大仕事。バスは船の発着に会わせて運航していますから、スケジュールに遅れが出ないように、「絶対コンドイでは客を降ろさないんだ」そうです。
だからこの浜のすばらしさをじっくり味わうためには、時間の限られた訪問スケジュールではダメなのですよ。

コンドイ浜

昼下がりのコンドイ浜

コンドイからちろりん村、ンブフル丘を通って戻ります。帰途、長谷川さんが高那旅館に行ってみようというので、立ち寄りました。高那旅館は竹富島唯一の「旅館」で、昔、司馬遼太郎が「街道をゆく」の「沖縄・先島への道」を書くために取材に来て泊まったところとして有名。わたしも友人と初めて竹富島に来た時に泊まりました。
ここにはユースホステルも併設されているので若い人が多く、その日も旅館の前庭で、旅行者とおぼしき人が、島の人に三線を習っていました。長谷川さんは顔見知りらしいここの旅館の関係者のひとりと話をはじめました。わたしは食堂で、NHKの「ひとりでできるもん」という番組で竹富島が登場し、ここの「おいちゃん」が「ヤシガニ採り名人」として出演していたというので、その台本を見せてもらいました。
そういえば、わたしが生きたヤシガニと初対面したのも、この高那旅館の玄関先でした。あのヤシガニも、今にして思えば「おいちゃん」が採ってきたものだったのかも……

石垣島に戻る長谷川さんの見送りに、港に行きました。ちょうどどこかの団体さんが帰るところらしく、たくさんの人が港に集まっていました。
どこの民宿でも、けっこう年を越したらどこかに移動、という人が多いらしく、松竹荘も一気に泊まり客が減りました。アメリカ人の先生グループも、一部が残っていますが、彼らは今日からは素泊まりにして、食事はどこかで済ませるようです。夕食はS子さんとふたりだけになりました。急に寂しくなったなあ。

NEXT


HOME