沖縄ミレニアム旅行記7(後半)



1月3日の続き

今日はいい天気なので、明るいうちにもう少し島の風景をあじわっておこうと、集落を歩き回りました。赤瓦の屋根の上に乗っかったシーサーも、一軒一軒個性があってなかなか楽しい。

竹富島の風景はよく「昔の沖縄がそのまま残っている」と言われます。しかし実は、こういう風景になったのは、そんなに昔のことではないのです。なぜなら、明治の終わり頃まで、竹富島の家はみんな茅葺きだったから。今では、茅葺きの家は新田観光の水牛車乗り場のところに一軒残っているのみですが、ごく最近まで、竹富島の家並みには、瓦葺き屋根と茅葺き屋根が混在していました。

竹富島の集落は、「重要伝統的建造物保存地区」、つまり「まちなみ保存地区」に指定されています。昇助おじさんも「まちなみ保存」の委員をつとめていて、島の景観保存のために話し合いをしたり、国の補助を受けるにあたっての島の意見をまとめたりしているそうです。

この「国の補助」というやつ、ただもらえてラッキー、というわけにはいかないのが難しいところ。さまざまな公共事業の計画など、島の実状にきちんと合わせる形にするには、地元住民が常に監視をおこたらず、ちょっとでも違う方向に行きそうになったらすかさず一丸となって抗議の声をあげないと、どんどん実状からはずれたものになっていってしまうようなのです。

実際、現在西桟橋の近くにあるビジターセンターも、大規模な改修をおこなって、もっと竹富島の自然環境などを知ってもらう場所にしよう、という案があったそうなのですが、国と竹富島の意見が合わず(昇助おじさんいわく、「歩いてすぐに海なのに、なんでプールなんか作るかねー」)、保留の状態になっているのだとか。

島のコミュニティの中心でもあり、さまざまな活動の拠点ともなる、新しい「まちなみセンター」 まちなみセンター

竹富島は、八重山諸島の中心地である石垣島市街から船で約10分、という交通の便のよさと、それにもかかわらず静かで絵になる風景の多さ、という好条件が重なって、とても人気のある観光地でもあり、テレビや雑誌などの格好の取材地となっています。しかし、そのことによって、ともすると島の平穏がかき乱されてしまうのは避けられません。マスコミが持ち込む「都会の価値観」は、よくも悪くも島の人々の生活にさまざまな影響を与えてしまうことになるのです。

たとえば、現在島には親盛(おやもり)先生というお医者さんがいます。この人は竹富島出身で、長いこと西表島の保健所に勤めていましたが、何年か前に故郷の島に戻り、5年間閉鎖されていた島の診療所を再開させ、ご自身も80代という年齢でありながら、島のお年寄りの健康を守っています。ですからしばしばテレビの取材を受けることになるのですが、たまたま先生の往診を受けている姿が放映されたために、そのお年寄りのところに、島外の親類縁者から「どこか悪いのか」と心配する電話が殺到してしまう、ということもあるのだとか。

この話などはまだ笑い話の範疇に入れられるからよいとして、時間に追われるテレビや雑誌の世界では、どうしても事前の下調べが十分に行き届かず、島のデリケートな価値観をちゃんとくみ取った取材ができなくて、それが放映されたり出版されたりした時、取材対象になった人たちとその周囲の人間関係に波風を立てる結果になってしまうことも、残念ながらあるようです。このことに関してわたしたちができることは、マスコミが丁寧な取材をしてくれるよう願うことと、さまざまなメディアによって伝えられる島の姿をうのみにせず、自分の目でよく見ること、くらいなのですが。

これはわたしが何度か竹富島を訪れて感じたことですが、竹富島の人たちは、この島を「沖縄のくらしの理想のかたち」を見せるための、一種のテーマパークにしようとしているのではないでしょうか。外から来る「マレビトたち」を最大限もてなしつつも、自分たちの生活のかたちをきちんと守ること、これは他の観光地ではかならずしもうまくいっていない困難な挑戦でもあるけれど、なんとか頑張ってほしいな、と、マレビトのひとりでもあるわたしは思うのです。

お祈りシーサー おいのりシーサー。何を祈るのか……

夕食前のひととき、西桟橋へ散歩に行きました。木立の向こうにぽっかりとあいた空間から、真っ赤な夕日が見えました。それは思わず「うわー」と声をあげてしまうほど、すごい光景でした。

潮のかげんか風がないせいか、岸に打ち寄せる波も立たないほど海面はぴたりと凪いで、夕日の光があかあかと長い尾をひくように海面に反射しています。空と近くの海の色は茜色というかラベンダー色というか、なんともいえない色に染まって、水平線に近い海は紺とグレーがかったブルーのグラデーション……ううむ。やはり言葉で表現するのは難しい。
「西桟橋の夕日」は竹富島ファンの間では有名なのですが、これを見るまでは、これほどのものだとは思いませんでした。
これを見るためだけでも、2〜3泊する(1泊で見られるとは限らないので)価値はあります。

夕日

写真にも撮れない美しさ……

その日の夜は大浜荘から移ってきた男性ふたり、女性二人組(母娘)と、大坂から来た男性と外人女性のカップルが加わり、またにぎやかになりました。
わたしも最後の夜だしー、と、昇助おじさんと一緒に三線弾いて、盛り上がりまくりました。

昇助おじさんの話は毎晩面白いのですが、その晩は水牛の話になりました。おじさんが戦争中兵隊としてやっていた仕事は兵糧確保で、つまり、「西表島の祖納のあたりで米を作っていた」のですが、その時の貴重な労働力は上原から連れてきた水牛だったそうです。ところが、この水牛、毎晩脱走して上原に逃げ帰ろうとする。
しかし、水牛は融通のきかない性格らしく「決まった道しか通らない」ので、必ず途中の浦内川のほとりで、そこに小屋を造って住んでいたおじいに見つかって捕まえられる。昇助おじさんの毎朝の日課は、浦内川まで出かけていって、そこの木におじいがつないでおいてくれた水牛を連れ帰ることだったそうです。

この水牛の性格を最大限に生かしたのが竹富島名物の観光水牛車。つまり、水牛は一度コースをプロットされると、乗り手が指示しなくてもそのコースを正確にたどっていくので、水牛車に乗ったおじさんたちは、ガイド業に専念できるというわけ。ですから、新入りの水牛君は、夕方になって観光客が帰った後、空の水牛車を曳いて、道順を覚えるまで、何度も何度もコースを回ってトレーニングをするそうです。
つい最近まで、竹富島の集落のゴミ収集は水牛車でやっていました。しかし、ゴミ集めも自動車でやることになり、その水牛君も観光水牛車に転職。ところが、最初のうちは、御者のおじさんが気をつけていないとすぐにゴミ収集コースに行ってしまって大変だったそうな。

みんながそれぞれの部屋に引き上げた後も、まだ話し足りない(呑み足りない?)わたしとS子さん、大浜荘から移ってきた男性ふたりとで、片方の男性の部屋になっている一番座に移動しました。伝統的な民家の造りではだいたい家の中は6つの部屋にわけられていて、一番座というのは一番右の手前の部屋にあたります。ちなみにわたしが泊まっていたのは三番座で、いちばん左の手前の部屋。

[沖縄の伝統的な民家の基本的間取り]



三番裏



二番裏



一番裏

-
- 仏壇 床の間

三番座


二番座


一番座



- 廊下 --

一番座には神棚や床の間があって、お正月なので床の間にはおめでたい鶴の掛け軸(昇助おじさんいわく「確か600ドルくらいしたはずさー」)がかけてあり、西塘御嶽の前にしつらえてあったのと同じようなお供えが飾ってありました。はじめて目にする珍しいお供えに、重箱の上に米を山盛りにしたものがありました。その上には紅白の紙を巻いた昆布と木炭が立ててあります。
みんなが(もちろんわたしも)このお供えを目にしてから、ずっと疑問に思っていたことがありました。「重箱の中はどうなっているのか」ということです。なにか入っているのか、それとも空なのか……

問題のお供え。
これは西塘御嶽に飾ってあったもの。
おそなえ

せっかくだから、ちょっと確かめてみよう、と、お米の山を崩さないように一番上の箱をそーっと持ち上げます。中にはお米が数粒入っていました。下の段も同様。見てしまえば、なあんだ、ということになりますが、とりあえず好奇心は満たされて満足。あとはそれぞれの旅の話(実はみんなひとり旅で来ていた)をはじめとして、いろいろな話に花が咲きました。

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