2001年沖縄の旅3(2001.6.21 - 25)



6月23日(土)晴れ

朝ごはんのとき、ハナさんが言いました。
「お姉ちゃん、島の観光するなら、朝のうちがいいよ」

……外を見るとまだ7時台だというのに、まっ青な空から太陽が思い切り照りつけてくれています。朝の日差しなんてそんなナマヤサシイしいものではなく、ただもうぎらぎらとまぶしいばかり。
確かにこれでは、昼になったら外を出歩くのは無理。できるだけ早いうちに、見るべきところは見ておかねば。

わたしは食事をすませると、全身にしっかり日焼け止めを塗りこんで宿を出ました。まず島唯一の貸し自転車屋さんで自転車を借り、港に行って久高島の地図をもらい、島を西へと横断……しようとしたのですが、ことはそう簡単にはいきませんでした。
わたしが今まで歩いた竹富島や波照間島の集落と違って、久高島の集落はとにかく道が入り組んでいます。まっすぐ抜けられる道はほとんどなくて、すぐにT字路に突き当たってしまうのです。なんだか迷路の中を走っているような気分で、あっちに曲がり、こっちに曲がり、ようやく集落を抜けました。

漁港を眼下に見ながら、島の北へと向かいます。集落のはずれに、いくつかビニールハウスがありました。「海ぶどうの養殖場」です。Nさんは朝から沖縄本島へ出かけて行ったけれど、留守をあずかるUさんに話をしておいてくれたので、養殖場の見学をさせてもらうことができました。

以下はその場で見聞したことと、帰ってから調べたことをまとめた「海ぶどうレポート」。

海ぶどう 海ぶどうは和名「クビレヅタ」という海藻の一種。全身緑色で、枝分かれした先が球状になっている。その形から「海ぶどう」という名前がついたらしいが、食感はぶどうというより子持ちコンブやキャビアもどきのような「魚の卵」系。魚卵系だとちょっとコレステロールが気になるし、大量に食べると気持ち悪くなることもあるけれど(昔数の子で失敗したことがある)、これはもともと海藻だからヘルシーだし、それでいてあの「プチプチ感」を楽しむことができる。

というわけでもっとポピュラーになってもいいはずの食材なのだけど、「知る人ぞ知る」という状態になっているのは、天然モノ海ぶどうは沖縄でもごく限られた場所でしか獲れなかったからなのです。実際、少し前までは「幻の海藻」とか「グリーンキャビア」などと呼ばれて高級料亭でほんのちょっぴり出される、という時代もあったらしい。

ところが、恩納村で養殖が成功して以来、沖縄のあちこちで養殖が始まって、だんだん生産量も増え、最近ではかなりポピュラーな沖縄特産品になってきました。ここ久高島でも、島の産業活性化のために養殖事業がつい最近始められたそうです。

ビニールハウスの中にはコンクリート製の水槽がずらりと並んでおり、海ぶどうはその中で、新鮮な海水を供給されて育てられます。水槽の底に金網のようなものが敷いてあって、その上にびっしりとじゅうたんのように生えた海ぶどうは、一定の長さまで伸びると刈り取り(?)が行われます。
でも、刈り取った海ぶどうをそのまますぐ出荷するわけではありません。大きなポリバケツのような水槽にきれいな海水を入れ、そこに海ぶどうを入れて空気をボコボコ吹き込んでやります。すると、やがて切り口がふさがって新しい組織ができてくる。そうすれば、そのままパックに詰めて発送しても、一週間くらいはちゃーんと生きている。わたしたちの食卓まで、新鮮さとプチプチ感を保ったままたどり着くことができる、というわけです。

ビニールハウス
養殖場
出荷準備中
出荷準備中

……と書いてしまうと簡単な仕事のようだけど、温度管理とか台風対策とか、いろいろ大変なことはあるのでしょう。でもなんとか島の産業として発展してほしいものです。そうすれば、わたしも大好物の海ぶどうをふんだんに食べられるようになるし。

そうそう、新鮮な海ぶどうを入手した場合の注意点。絶対冷蔵庫で保存してはいけません。海ぶどうは沖縄の海が生活できる北限というくらいだから寒いのが苦手。おまけに光があたらないとだんだん色が抜けてきてしまいます。だから生鮮食料品保存の常識に反して、明るい室内に置いておかなければいけないのです。
冷たくて暗い(冷蔵庫の中が明るいのは、ドアをあけている間だけである)冷蔵庫に入れっぱなしにしてしまったらどうなるか……貴重な海ぶどうをそんな実験に使うのはもったいないので、結果報告はできませんが、箱に入れっぱなしにしておいて色の抜けてしまった海ぶどうなら見たことがあります。あれは全然おいしそうに見えません。くれぐれもご注意を。

海ぶどう養殖場を後にしたわたしは、島の西海岸沿いを北上しました。やがて道は久高島の墓所に入ります。久高島では、人が死ぬと魂は沈む太陽にしたがって西へと行き、そこから(海の底をくぐって?)東にあるニライカナイへ行くと考えられていたらしい。道の両側にある墓は全部西の海の方を向いています。まだ午前中だからいいものの、やっぱり夕方以降は近づきたくない雰囲気。

お墓の中の一本道を走っていくと、十字路になっているところに出ました。左の海に下りていく方向には、「ヤグルガー」という標識が立っています。自転車を降りて近づいてみると、すぐに崖を降りていくコンクリートの階段になっていました。そこを降りていくと、下には青い海が広がっていました。


ヤグルガーから見た海
久高の海

自転車のところまで戻ってきて、次は十字路を右に行ってみます。やがて「カベール岬」へ通じている道とぶつかったので、そちらへ行ってみることにしました。カベール岬への道は、クバの林の中の一本道。一服するような木陰はないし、人通りも全然ない。だんだん心細くなってきます。太陽は相変わらずぎらぎらと照りつけ、港近くの自販機で買ったペットボトルのお茶の残り(熱中症予防のため残してあった)も、すっかり生ぬるくなってしまいました。

カペールへの道
カペールへの道

ようやく岬の先端にたどり着きました。やはり誰もいません。岬は波照間島の高那海岸で見たのと同じような隆起サンゴ礁のごつごつした岩場になっていますが、高那海岸のような崖にはなっていないので、打ち寄せる波がまるでどこかの映画のタイトルバックみたいに高く波しぶきをあげています。あたりには一面ハマユウの白い花が咲き乱れ、やはりどこかちょっと「この世の風景」とは違ったものに見えるから不思議。

波しぶき カベール岬

道から岬に入るとすぐ正面に、潮を噴き上げる穴がありました。波の打ち寄せる加減で、ときどきとんでもない高さまで水が噴水のように吹き上がります。帰ってきてから沖縄タイムスの記事を見ていたら、この穴のことが記事に出ていました。驚いたことに、この島の区長さん(島の行政最高責任者。村長さんみたいなもの)は「見たことがない」とコメントしています。それほど島の人たちにとっては、ここは自分たちとの生活圏からかけ離れた場所、いわば「異界」なのでしょう。集落から片道わずか3キロほどの場所なのだけれど。

潮吹き岩
潮を吹く岩
とにかく暑い。 カベール岬

カベール岬から集落へと戻ってくると、自転車をこぎ続ける気力も尽きました。自転車を返しに行くと、「はい、300円ね」と言われました。まだ1時間そこそこしか乗ってないのか〜。でももう限界だぁ。宿に戻ってそのまま畳の上にばたりと倒れこんで昼寝。まだ午前中なんだけど……

そうこうしているうちに昼になりました。さてエネルギー補給してくるか、と、昨日も出かけた港の食堂へ。沖縄昼ごはんの定番、「味噌汁」を頼みます。食堂の壁に貼られたメニューには、「海ぶどう丼」もありました。値段が味噌汁の倍もするし、わたしは沖縄に来ると必ず一度は味噌汁でお昼ごはんにしてしまうので、今回もついそうしてしまったのですが、後ですごーく後悔しました。高いったってたかが1000円じゃないか。東京のオフィス街でランチを食べて食後にコーヒーでも飲めばそのくらい飛んでしまう。ケチケチせずに食べてこればよかったなぁ……

猫ゆくい ぎらぎらと照りつける日差しの中を宿まで戻って、また昼寝。結局この日は、4時ごろまで昼寝して、起きてぼーっとして、また昼寝……というていたらくでした。とにかく身体がかったるい。これはたぶん、梅雨寒の東京からいきなり灼熱の沖縄に来たために、身体が暑さに適応しきれていないせいでしょう。部屋の窓際にころがっていると、潮騒に混じって、台所でハナさんが見ているらしいテレビの音がかすかに聞こえてきます。今日は「慰霊の日」。ここからほど遠くない沖縄本島南部の平和祈念公園では、たぶん小泉首相も出席して式典が繰り広げられているはず。わたしはちょっぴりうしろめたい気もしながら、うつらうつらと昼下がりの時を過ごしました。

途中一度スコールのような驟雨が降ってきましたが、しばらくするとまた夏の日差しが戻ってきました。猫たちも庭のなるべく涼しいところを探し、そこで無駄なエネルギーを使わないようひたすらじっとしています。猫たちに一番人気があったのが、母屋と離れの間のコンクリートの通路ですが、ここは人間様がトイレに行くための通路にもあたります。おかげでわたしは、「猫またぎ」ならぬ「猫たちをまたいで通る(だってどいてくれないんだもん)」という珍しい体験をすることができました。

すこ〜し日差しが弱まってきたところをみはからって、わたしは再び島内観光に出かけました。まず、島の東側にある伊敷浜へ。

伊敷浜 集落の北に向かって歩いていくと、そこにまだ新しい離島宿泊交流施設があります。これはコミュニティーアイランド事業(波照間島の観測タワーも、これで作られている)で作られた施設で、最近あちこちで始められている、都会の子どもたちの「山村留学」のための寮としても使われます。
以前鳩間島で、民間レベルの試みがなされたことはありますが、公的レベルで行われるのは久高島が県内では初めてなのだそうで、今年の春から、十数人がこの島に「留学」しています。そのせいか、過疎化の進んだ離島にしては子どもの姿をよく見かけました。

この離島宿泊交流施設は、観光客向けの素泊まりの宿としても開放されているようです。事実、この日「西銘」にはもう一組家族連れの客があったのですが、ハナおばさんがひとりで大変、ということもあったのか、急遽そちらのほうに宿替えになりました。

離島宿泊交流施設の横の道をさらに北上。やがて伊敷浜に着きました。ここは、ニライカナイから穀物の壷が流れ着いた神聖な浜とされています。それを見つけた島民は、島の反対側にある「ヤグルガー」で身を清めて、やっと壷を手に入れることが出来たという話があります。
お天気はいいけれど、やっぱり波はかなり荒い。沖合いのリーフでは、白い波が盛大にしぶきを上げています。

それから、午前中自転車で走り抜けた集落をゆっくりと歩きました。集落の北側には、御嶽や拝所がかたまっています。アマミキョ神が腰をかけた石、外間殿、カンジャナ山、イザイホーの舞台となったイザイ山……そこを通り抜けると漁港のそばに出ました。海へと降りていく道のかたわらには大きな木がちょっとした木陰を作っていて、そこに木のベンチがひとつ置いてあります。ベンチにはおじぃやおばぁたちがいて、のんびりとゆんたく(おしゃべり)しています。なんだかちょっとうらやましい風景ではありました。
久高では今まで歩いたどこの島よりも、島民がこうやってあちこちでゆんたくしたり、ゆくっていたりする姿をよく見かけました。

ふたたび集落の入り組んだ道へと戻ります。ここの集落では、道が石畳になっているところがけっこうあります。とはいっても、首里の金城町みたいな、自然石をそのまま敷き詰めたものではなくて、きっちりと四角く切り出したベージュ色の石を敷き詰めてあるのです。最近のものかもしれません。お金はかかるかもしれませんが、アスファルトの舗装よりはずっと風情があっていい。

久高島の集落 三角モー

不思議な空間、三角モー

集落を写真撮影していたら、ここでとんでもないことが起きました。突如としてカメラのシャッターが下りなくなったのです。 電池を交換してみたり、あちこちいじってみたがうんともすんとも言わない。

「あちゃー、やられたぁ」

御嶽や拝所に失礼な撮影のしかたをした覚えはありません。それどころか、イザイホーの会場になった拝所は撮影もしなかったくらいなのです(これは適当なカメラアングルが見つからなかったせいもあるが)。それなのに、えーっなんでよー……
と怒ってみても仕方ありません。なにしろ相手は「島の神さま」です。撮影はあきらめ、すごすごと宿に戻りました。

本日の泊まり客はわたしのほかに昨日からいる男性ふたりのうちひとりと、後から合流したその男性の家族。いつも手伝いにくるハナさんの姪が今日は急用でこられなくなったらしい。ハナさんが言いました。

「お姉ちゃん、配膳手伝ってくれないかな。その分宿代安くしとくから」

最近気がついたことですが、沖縄のこういった離島の民宿には共通の傾向があるようです。それは「主人と客との間の垣根が低いこと」。たとえば、あなたがどこか離島の民宿に予約を入れようと電話をかけたとします。その場合、電話に出るのは必ずしも宿の人とは限りません。実際この日も、わたしがうつらうつらとまどろんでいたら、宿の台所にある電話が鳴りました。しばらくして電話を取ったのは、宿に残っていた男性客でした。

「はい、西銘です……おばさん今ちょっと出かけてます。もう少ししたらまたかけてみて下さいね」

もちろんこの場合、別に電話を取る義務はありません。でもだいたいの場合、みんな「いいじゃない、カタイこと言わなくっても」と、気軽にお留守番を引き受けているようなところがあります。常連客になれば、宿の主人のかわりに予約を受けたり、港へ客の送迎に出かけたりすることだって珍しくないのです。

この傾向は、沖縄のいわゆる「大衆食堂」や、ひいては東京の沖縄系居酒屋(全部ではないが)にもあるようで、常連客が配膳を手伝っていたり、いつのまにかカウンターの中で水割りを作っていたりという光景もよく見られます。店は店、客は客ときっちり区別するプロのサービス精神もそれはそれで気持ちいいけれど、こういうてーげーな雰囲気も結構楽しかったりするものです。

というわけで、わたしはその日「にわかヘルパー」になりました。

夕食後、わたしはハナさんと一緒に三線を弾きました。ハナさんは以前テレビのドキュメンタリーに出たことがあります。子どもの頃一種の「口べらし」として当時日本の領土だったパラオに行ったり、ご主人が漁に出て遭難したあと、女手ひとつで子供たちを育てたりと苦労したハナさんは、今ではようやく穏やかな暮らしができるようになりました。三線も最近始めたもので、テレビでも少し言及されていましたが、昔は「まっとうな女性」には、三線をやることが許されない時代もありました。そういう意味では、わたしたちは恵まれた時代に生まれあわせたわけです。

沖縄の三線音楽にもいろいろ流派があって、まず大きく古典と民謡に分かれます。古典の中でも二大流派が野村流と安冨祖(あふそ)流で、わたしの習っているのは野村流、ハナさんの習ってるのは安冨祖流です。わたしはここではじめて「安冨祖流の工工四」を見ました。工工四(くんくんし)というのは、沖縄の三線独特の楽譜で、音の高さを押さえる指の位置(押さえない開放弦も含めて)をあらわす「合、乙、老、四、上、中、工、五、六……」といった漢字で書きしるしてあります。安冨祖流の工工四は一字一字が大きくて、声楽譜がついていない。ということは、唄のほうは完全に「口承伝承の世界」なのです。

野村流の工工四は、唄の音程も脇に小さい字で記譜してあります。だから、ある程度は「独学」で曲を習得することも可能……とはいっても、これはあくまで「ある程度」ということで、「譜に書かれていないこと」を含め、声の出し方や唄の意味、それを取り巻くさまざまな沖縄の文化を吸収するためにも、やはり先生の存在は大切です。まあ、昔は工工四なんてものはなくて、先生のもとに通って口伝えで教えてもらったわけだから、三線を習うのには相当のヒマとお金が必要だったようです。そういう意味でも、楽譜はもちろん、テープやCD、はては入門用ビデオまである今の時代は、恵まれた環境なんだなぁ……。


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