今回取り上げる唄は「秋の踊り」です。
さて、この歌詞を見て、あれあれ、なんだか今までと調子が違うぞ、と思いませんか?空も長月 はじめ頃かや 四方(よも)の紅葉(もみじ)を
そめる時雨(しぐれ)に ぬれて男鹿の なくもさびしき 折につげ来る
雁の初音(はつね)に 心うかれて 互(とも)にうちつれ
出づる野原の桔梗苅萱(ききょうかるかや) 萩の錦を
きても見よとや 招く尾花(おばな)が 袖の夕風
吹くも身にしむ 夕日入り江の 海士(あま)の子どもや
棹のしずくに 袖をぬらして 波路はるかに
沖に漕ぎ出で 月や東の 山の木(こ)の間に 今ぞほのめく
これ、ちっとも「沖縄らしくない」歌詞なんです。
言葉もウチナーグチではなくて、ちょっと昔ふうの日本語だし、だいたい歌われている題材が、紅葉とか、桔梗苅萱とか、萩とか、「そんなもの沖縄にあったかなあ?」というものばかり。鹿だって、確か慶良間諸島にしかいなかったんじゃなかったっけ?
メロディーラインも、たとえば歌舞伎とかに出てきても全然違和感のない大和調。三線をはじめて沖縄の雰囲気にどっぷりつかっていたわたしたちにとっては、逆に違和感がある、というのも、なんか不思議なものです。
でも、これも考えてみると、それほど不思議なことではありません。「上り口説」 にもあるように、こういった歌が作られた江戸時代、琉球王国は薩摩藩を通じて江戸幕府の支配下にありましたから、琉球古典音楽の担い手であった首里の士族階級が江戸に行って、その頃江戸で流行していたさまざまな歌や音楽を覚えて帰る機会もたくさんありました。
わたしたちが沖縄音楽を「カッコイイ」と思うように、昔の首里士族の人たちだって、江戸で聴いた謡曲や小唄を「カッコイイ」と思ったことでしょう。そして、「THE BOOM」の宮沢和史が沖縄音楽に惚れ込んで「島唄」を作ったように、沖縄に帰ってから大和風の唄を作った人だっていたわけです。だからこのような唄も生まれてきたのでしょう。
(と、以前書いたのですが、もしかしたらこの唄、本土から伝わったのかもしれません。邦楽の知識はあまりないもので……真相をご存じの方、いましたらぜひご教授を。)
それに、12月に雪が積もるどころかミゾレさえも降らないことが多いのに、なぜかクリスマスになると「ホワイト・クリスマス」なんぞ歌ってしまうわたしたちですもの。沖縄に秋の紅葉をうたう唄があったって、いいじゃありませんか。ねっ。
この唄は「道輪口説」と呼ばれることもあります。もともと沖縄芝居「義臣物語」で、仇討ちをめざす主人公が人形売りに身をやつしている場面で使われる唄なのですが、歌詞を変えて「秋の踊り」という琉球舞踊に使われるようになったため、こちらの名前のほうがポピュラーになりました。
[参考]
「わかりやすい歌三線の世界」勝連繁雄著 ゆい出版