三線十七八節(じゅうしちはちぶし)

今年(2009年)、とうとう最高賞を受けることになりました。本調子の課題曲は「十七八節」です。
いやついにここまで来たかー、と感慨深いものがあります。なにしろ三線はじめた頃は存在すら知らなかった超難曲。演奏時間の長さ(10分を越える)といい、テクニックの難しさ、歌詞の内容の深さといい、まさに最高賞の課題曲にふさわしいものがあります。

夕すずめのなれば あいち居られらぬ (ゆすじみぬなりば あいちをぅらりらん)
玉黄金使の にゃ来らと思ば (たまくがにちけぬ にゃちゅらとぅみば)  

意味:
 夕間暮れになるといてもたってもいられない
 お迎えを知らせる大事な使者が、もうすぐ来ると思えば・・・・

実はこの歌詞、まるっきり違う二通りの解釈がなりたってしまうという曲者(くせもの)なのです。
ひとつは純然たるラブソングで、「恋人からの知らせを待つ十七八頃の娘の心境をうたったもの」。
確かに、民謡にも同じタイトルの「十七八節」というのがあって、こちらは
「十七八の頃は夕間暮れがとても待ち遠しい、夜も暮れれば自由になれる……」
という青春まっただなか(笑)の心境を、うきうきするようなメロディーにのせて歌い上げるものなんですが、古典の「十七八節」のメロディーはそうじゃない。陰々滅々とまでは言わないとしても、愛だの恋だのという華やかさにはほど遠い。

で、もうひとつの解釈が出てくるわけです。お迎えはお迎えでも「あの世からのお迎え」。つまり「人生のたそがれ時を迎えて、極楽浄土からの使いを待ちわびる心境」なんだそうです。その場合、「十七八」の意味も年齢ではなく、阿弥陀仏の第十七願、第十八願にちなむものだという解釈になるとか。
確かに、歌い方がなんだかお経読んでるみたいとか、三線の音が鐘の音みたいとか、ちょっと抹香くさい雰囲気もあるのです。そのため、沖縄では法事とか追悼の場で歌われることも多いらしい。

どっちが本来の意味かというのはいまだに論争されているくらいで、どっちかといえば「あの世からのお迎え」説が優勢、ということだそうですが、さて一見正反対に見えるふたつの解釈、はたして本当に正反対なのかどうか。

ということを思ったのは、「ナビィの恋」という映画を見たからです。この映画のヒロインであるナビィおばぁは、長年連れ添った恵達おじぃという夫がいながら、60年ぶりに島に帰ってきたかつての恋人サンラーと小舟(サバニ)に乗って島を出ていきます。 このサンラー、白いスーツにサングラスという、周りの雰囲気から完全に浮いたオーラを漂わせているし、おばぁとの逢引の場も墓の前。そしてサンラーと「愛してるランド」に船出するおばぁは、沖縄女性の晴れ着ともいえる紺地の琉球絣を身にまとっている……
(すっかり和服生活になじんでいた沖縄の女性が、最後に自分の気に入った反物で琉装の着物を仕立て、亡くなってお棺に入れるときはそれを着せて欲しいと遺言した、という話を聞いたことがあります)

ふたりの船出シーンは単なる駆け落ちというよりも、なんだかニライカナイへの旅立ち的雰囲気さえ感じさせるのです。昔の恋人サンラーは「あの世からの使い」であっても不思議でない。
そう考えると、昔の恋人と旅立ったおばぁを見送り、悲しみも怒りも見せず、その後の人生を娘夫婦や孫たちに囲まれてたんたんと生きていくおじぃの姿は、伴侶に先立たれた後の老人の理想的な暮らし方、と見えなくもないのです。

「恋人からの使い」も「あの世からの使い」もさほど違いはない、という心境にたどり着けるかどうか。それはまだまだ先の話のような気も……

[参考]
「わかりやすい歌三線の世界」勝連繁雄著 ゆい出版
「沖縄三線 節歌の読み方」大城米雄編著 沖縄教販


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