やんばるエコツアーレポート(1999.1.30 - 2.1)



今年(1999年)の1月末から2月にかけての3日間、沖縄本島のやんばる地方に行って来ました。ことの起こりは、去年の12月に、三菱総合研究所 が行っていた「八重山・やんばるモニターツアー募集」に応募し、めでたく採用されたのです。
エコツアーとは最近よく耳にするようになってきた言葉ですが、わたしのそれに対する理解といったら、「とっていいのは写真だけ、残していいのは足跡だけ」というコピーに代表されるような、とにかく自然環境の豊かなところへ、なるべく影響を与えないようにそーっと行って帰ってくる旅行のことだ、というくらいでした。
ところが、帰ってきてからちょっと調べてみたら、

エコツアーの条件
 1.自然環境や、その地域の社会環境を破壊しない旅行
 2.地域社会に持続的な利益をもたらす旅行
 3.自然や文化遺産を敬い、観察し、自然から学ぶ旅行
 4.観光の対象である自然・文化遺産保護に貢献する旅行

1.は必須条件、2.3.4.のうち2つを含む旅

(「地球の歩き方」エコツアー・完全ガイドより)


という、実にきっちりした定義があることを知りました。これ、常々わたしが考えていた「よきマレビトたること」に重なるものがあります。そうか、自分のポリシーは間違ってなかったぞ、と、なんだか嬉しくなってしまいました。
エコツアーのメンバーは十数名。首都圏在住の20〜30歳代から選ばれたモニターと、引率役である三菱総合研究所のNさん、沖縄県から参加した職員が男女ひとりずつ、プラス沖縄ツーリストの添乗員さん1名とバスの運転手さん、という顔ぶれでした。


1月30日(土)晴れ

7時15分、羽田空港集合。チェックインをすませ、待合室へ。窓の向こうには、飛行機の背後に雪を頂いた富士山がくっきりと見えます。
JAL901便那覇行きの機内はすいていました。
那覇空港に着いて、そこに待っていたバスに乗り込み、出発。バスは那覇市を出て、やがて高速道路に入ります。

そういえば今から8年前、当時勤めていた会社の社員旅行で初めて沖縄にやってきたわたしは、今と同じようにチャーターバスに揺られて、沖縄高速道路の終点まで運ばれていったのでした。
窓の外の風景は、あの頃とそんなに変わっていないような気がします。

桜まつり会場 やがてバスは許田のインターを出て、名護へと向かいます。
名護は何度か通過したことがありますが、街を歩くのは実は今回がはじめて。
あの「ひんぷんがじゅまる」も、今回初めて見ました。
がじゅまるの木のそばには川が流れていますが、その川岸の道ぞいに、いっぱい屋台が出ています。桜まつりの真っ最中なのです。よく見ると、道沿いにも桜の若木が植えられていて、中にはピンクの濃い花がちらほらと咲いているものもあります。

これから名護の博物館を見学する予定なのですが、まず腹ごしらえ。
名護では有名な沖縄そば屋、「新山食堂」へ。
ここのソーキそばは麺がとても太い。ほとんど「うどん」のノリです。
濃く味つけしたソーキが美味でした。

昼食をご一緒した名護博物館の元館長さん(現在は新しくできた図書館 の館長)が、食べながら沖縄そばについてのウンチクをかたむけて下さいます。ソーキはもともと竹かごの意で、そこからブタの肋骨部分をさすようになったとか、今はちょうどコーレーグース(いわゆる唐辛子)のシーズンなのだとか……

昼食後、元館長さんの案内で、名護博物館を見学。名護博物館は、もとの市庁舎だったそうで、入ってすぐが吹き抜けになっており、そこでお茶などを飲んでくつろげる空間があります。
1階の展示では、沖縄やんばる地方の伝統的な暮らしを紹介しています。

入ってすぐ目をひくのが、まっ黒なアーグ(沖縄在来種豚)の剥製。本土の豚よりも精悍な感じがします。館長さんの話によると、絶滅寸前だったこの豚は、博物館が努力して種を保存したのだそうです。「八月十五夜のご馳走にされるところを間一髪救出した」こともあるとか。
そのうしろには、典型的なやんばるの民家と、そこで展開される暮らしの様子が一枚のイラストに表現されています。
名護の博物館は、博物館評論家(?)のわたしをして「あなどれないぞ」と思わせるものを持っています。一見狭い部屋に雑然とした展示がなされているように見えますが、よーく見てみると、なかなかどうして、展示がうまい。

部屋の中央には、沖縄の家庭料理が食堂などに置かれている蝋細工の見本で展示され、その周囲には、生活の中で身近な動物が剥製などで展示され、その後ろにはこの地域で集められた民具、そして壁には、暮らしの様子や祭りのひとこまを捉えた写真がパネルとして飾られています。見る人が見れば、やんばる地方の生活が立体的に浮かび上がってくるという仕掛け。

それを感得するためには、あわただしいスケジュールの中でちらりと見ただけで去る、というようなモッタイナイことをしてはなりません。ゆっくり時間を取ってじっくりと見て回ること、やんばる地方で生まれ育った元館長という、願ってもない名ガイドとまではいかなくても、できれば沖縄に詳しい人の解説が得られることが望ましいし、旅行者ならば、展示を見ていて感じた疑問はどんどん職員に質問するべきでしょう。

そうしてこそ、仏壇にさりげなくはりついているヤモリのレプリカ(妙にカワイイ)、などというしゃれたディテールも発見できるというものです。

さて、ここの2階は、下の文化に対して、自然に関する展示が中心となっていますが、階段をのぼってすぐ右の部屋には、沖縄の冠婚葬祭に関する展示があります。沖縄に来た人がまずカルチャーショックを受ける、あの立派な墓に関する展示もあります。

今ではすたれてしまいましたが、ここやんばる地方でも一昔前までは、火葬にしないで墓に納め、一定の年月の後に骨を取り出して洗い清め、もう一度墓に納める「洗骨」の風習がありました。元館長さんも、「うちのじいさんは洗骨しましたよ」と、事もなげにおっしゃる。いろいろな本を読んで得た知識よりも、こういった当事者のなにげないひとことを聞く方が、沖縄の人々の死者に対する態度といったものが、なんとはなしに感じられるような気がします。

階段の左側にはやんばるの野生生物に関する展示室があります。ここの奥にあるのが、ちょっとばかりショッキングな「ゴキブリの標本」。さまざまな昆虫標本の片隅に、びっしりと貼りつけられ、一部は台紙からはがれ落ちてしまっている無数のゴキちゃんたち。見ているだけで背中がむずむずしてくるような……そこに元館長さんの一言。

「このゴキブリはね、みんな一族」

つまり、どこかの巣にいたやつをバルサンたいて一網打尽にして、一匹一匹全部拾い集めて標本にしたのだそうです。ひと目見ただけで沖縄のゴキブリの繁殖力と、その生命力の豊かさがわかるではありませんか。ひえええ。

そのすぐ近くには、特注の長いガラス瓶の中でホルマリン漬けになっているハブをはじめとする蛇の標本もあります。繊細な神経の持ち主は近づかないほうがいいコーナーでしょう。元館長さん、ここでも、ここにある標本は、まあ標準的な大きさだとか、子どもの頃は蛇なんかよく捕まえてオヤツに焼いて食ってましたよ、とか、都会育ちの人間にとってはなかなか衝撃的なお話をして下さいます。

時間がなくて展示物のすべてを十分に見ることはできませんでしたが、最後に、博物館の裏庭に復元された高倉(高床式の倉庫)と、それにヒントを得て作られた博物館の収蔵庫を見てから、われわれは元館長さんに別れを告げてバスに乗り込みました。

バスは名護を出ると、本部半島の付け根を横断し、羽地内海の脇を通り、塩屋湾を渡ります。ここには湾の入口をふさぐように宮城島という島があるのですが、58号線はその上を突っ切って走っており、うっかりしていると気づかないうちに通過してしまいます。わたしも行く手に見えてきた真っ赤な塩屋大橋を見て、初めて島の上にいることに気づいたくらいです。これで「行った島コレクション」がひとつ増えたと言っていいものかどうか……

次の目的地は、長寿の里として有名な大宜味村の、これまた「芭蕉布の里」として有名な喜如嘉集落。公民館前でバスを降りたわたしたちは、まず芭蕉布会館で芭蕉布の製造工程について説明を受けました。その後、二階にある工房で、機織りの様子を見学。

明るい外光の入る工房では、数人の女性が機織り機の前に座っています。そのかたわらでは、年輩のご婦人が、染めた芭蕉の糸を真剣な表情で巻き取っています。この人が、芭蕉布という工芸を伝えるのに多大な努力をされた平良敏子さんだと、あとで知りました。

芭蕉布会館の見学を終えた後、喜如嘉の集落を散策。集落のT字路に、珍しい物がありました。普通沖縄のT字路には、「石敢当」または「石敢當」と書かれた魔除けの石が壁にはめこまれています。ところが、そこにある石に刻まれていたのは魑魅魍魎……じゃなかった、なんだか怪しげな、鬼へん(正確には「きにょう」と言うらしい)のつく文字が7つ。なんでも北斗七星を表す文字で、これも魔除けの一種だといいます。

普通の石敢当 喜如嘉の石敢当
通常の石敢当(名護市内) 喜如嘉にあった石敢当

帰ってから調べてみたら、確かにこれは、北斗七星の7つの星を表す漢字でした。「かい・しゃく・かん・ぎょう・ひつ・ふ・ひょう」と読むらしい……いや、これを調べるの大変でした。なにしろ最初の「魁」をのぞいて、普通の漢和辞典なんかにはのっていない字ばかりなんですから。なんで鬼がつくかと言うと、昔の中国では、主立った星は神様と考えられていたからで、鬼がつく漢字は、よいほうにしろ悪いほうにしろ、なんらかの魔力(そういや「魔」にも「鬼」が入ってた)を持つ存在なのです。北斗七星のうちでは、最初の星である「魁」がその代表格で、そのせいかこれだけが当用漢字に入っています。角界には「魁皇(かいおう)」というしこ名の力士がいるし、「さきがけ」と読めば、ついこのあいだまであった政党の名前になる……閑話休題。

あちこちにシーサーを乗せた赤瓦の屋根が立ち並ぶ集落を抜けると、そこに広がるのは一面の田んぼ……でも、現在その水田に植えられているのは稲ではなく、藺草やオクラレルカ(園芸用の菖蒲)などでした。それにしても、この場所のなんとも言えない「なごみ感」はどこから来るのでしょう。よくよく見ると、喜如嘉の集落とこの田んぼを、低い丘陵が取り巻いています。海に面した方向だけが開いていて、まるで両腕でこの土地を抱え込んでいるような感じです。確か以前読んだ荒俣宏の風水の本じゃ、こういうのが理想の地形じゃなかったっけ?

オリエンテーションでもらった資料によれば、ここはもともと浅い入り江になっていて、そこを徐々に干拓して水田を広げていった場所なのだそうです。丘陵のあちこちには桜の木があり、濃い緑に濃いピンクの色が点々と散在しています。

田んぼの一角で、案内してくださった人が、芭蕉からどうやって糸を取るか実演してくださいました。芭蕉の木を一本、根元にナイフを入れて切り倒します。芭蕉は木とはいっても本当の木ではなく草なので、ナイフの刃が楽々と通ります。皮をはぎ、その中の一部分、繊維が通っている所だけを残してむいていくのだそうです。芭蕉の幹(というより茎)を縦に裂いていくと、中に含まれていた水分がぽたぽたとこぼれてきます。その水の多さにちょっとびっくりしました。

芭蕉布の原料に使われる芭蕉は、島バナナのなる実芭蕉や美しい花の咲く園芸用の花芭蕉とも違う、糸芭蕉と呼ばれる種類で、芭蕉布会館の近くにあった畑の糸芭蕉は、幹が細く、すらりとした感じでした。わざとそういう姿になるよう、肥料などで調節するのだそうです。


糸芭蕉の畑

水田の一部は、さとうきび畑になっています。すすきにも似たさとうきびの穂が、だいぶ低くなってきた日差しを受けて、白く輝いています。穂の出たさとうきびは刈り入れ頃だと、以前聞いたことがあります。今頃は沖縄じゅうのあちこちで、さとうきびの刈り入れ、製糖工場に搬入と、あわただしい作業が展開されているのでしょう。


さとうきびの花


時々足元から飛び立つ鳥(喜如嘉の田んぼは、バードウォッチングのポイントとしても有名です)にドキッとさせられながら、桜がたくさん植えてある喜如嘉の小中学校の校庭へ。段々になった丘の斜面にたくさんの桜の木が植えられ、濃いピンクの花をつけています。以前はここの斜面にパイナップルが植えられていたのだそうです。

喜如嘉の散策を終わる頃、日が暮れてきました。次に向かったのは、やんばるの土地のものを使ったお菓子や料理を作っている金城笑子さんの「笑味(えみ)の店」。自宅の前を改装した店で、見た目もきれいで味もいい「長寿膳」をいただきます。芭蕉布会館にも売られていたシークワーサー入りのカステラやサーターアンダギーを作っているのが、この金城さんです。後で考えると、せめてサーターアンダギーだけでも買っておけばよかった。

長寿膳      長寿膳。おいしかった。

その夜の宿は、国道沿い、辺土名のドライブインの向かい側にある「やんばるくいな荘」という民宿でした。その民宿の駐車場には、一軒のコテージが建っています。中にはいろりがきってあり、ちょっとした宴会の場に使えます。その晩も、最後にそこでの「地元の人たちとの交流会」が待っていました。

いろりにかけられた鍋の中では鴨肉と長命草がほどよく煮え、その傍らには大きな魚の塩煮がのった皿、そして「山原くいな」という銘柄の泡盛が並べられています。やがて大宜味村の三線名人もやってきて、宴会がはじまりました。

鴨鍋もおいしい。塩煮にした大きな魚(ガーラという名だという)も、白くほっこりとした肉がびっくりするほどたくさんついています。長寿膳ですでにおなかが一杯になっているのが残念!

今回のメンバーの中には、実は三線練習生(?)がふたりいました。わたしとKさんです。沖縄の宴会では、少しでも三線が弾けるなら、遠慮せずどんどん貸してもらって弾くのが慣わし(?)です。わたしもさっそく「安波節」に挑戦しましたが、みごと玉砕。まだ場数をふんでいないので、あがってしまって歌詞を忘れてしまったのです。三線名人が唄う「安波節」は、さすが本場の響き。唄のふるさと安波の集落は、ここ辺土名から与那覇岳を越えた反対側、やんばるの東海岸にあります。

その後はKさんとふたりで「固み節」を唄ったり、わたしが歌詞を見せてもらってリターンマッチで「上り口説」を唄ったり、三線名人に応援の女性が加わったりで、にぎやかな宴会になりました。安波節の歌詞ではないですが、できるものなら「夜の明けて太陽の上がるまで」盛り上がりたいところでしたが、いかんせん今日は朝が早かった。もうまぶたが重くて重くて……

わたしは残念ながら中途リタイア。部屋に戻って寝てしまったので、その夜の宴がいつ果てたか知りません。

やんばるの夜
やんばるの夜はふけて……

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