一九一七年『国家と革命』抜粋
レーニンと『資本論』第5巻
不破哲三
(注)、これは、不破哲三著「レーニンと『資本論』第5巻、一九一七年『国家と革命』」(新日本出版社、2000.2)からの、「まえがき」抜粋(P.3〜6)と、第23章「『国家と革命』を歴史的に読む」のまとめ部分抜粋(P.338〜346)である。いずれも不破哲三によるレーニン批判部分である。TAMO2が『国家と革命』全文を載せた。
〔目次〕
1、「まえがき」抜粋
革命の議会的な道についてのマルクス、エンゲルスの理論は、レーニンの視野の外にあった
(関連ファイル) 健一MENUに戻る
『レーニン「国家と革命」の位置づけ』革命ユートピア・逆ユートピア小説
加藤哲郎『一つの国家論入門──社会科学を志す人々へ』『国家と革命』批判
TAMO2『国家と革命』全文(大月書店国民文庫版)
アエラ『不破氏の今どきレーニン批判』(2000年1月31日号)
1、「まえがき」抜粋
後半の第二三章は、『国家と革命』の研究です。
『国家と革命』でレーニンがマルクス主義国家論の基本原則だとして展開している革命論と、日本共産党が党の綱領でとっている立場とのあいだとには、大きな矛盾があります。私は、今回の研究で、この矛盾が、科学的社会主義のマルクス以来の基本的な立場とわが党の綱領路線とのあいだにあるのではなく、マルクス、エンゲルスの革命論とレーニンが『国家と革命』で定式化した理論的立場とのあいだにある矛盾であることを、歴史的・実証的に解明することに大きな力をそそぎました。研究そのものでは、日本共産党の綱領に直接言及しているわけではありませんが、今回の研究を読んでいただければ、日本の政治的・経済的・社会的な変革をめざすにあたって、変革のどんな段階でも、国民の多数の支持をもとに、「国会の安定した多数」をえて変革の実現をめざすという日本共産党の綱領の路線が、マルクス、エンゲルス以来の科学的社会主義の正統の流れを現代日本的にうけつぎ発展させたものであることを、理解いただけるものと思います。
私たちが、党の綱領路線とレーニンの『国家と革命』の諸命題との矛盾について解明をおこなったのは、今がはじめてではありません。一九六〇年代に、中国共産党の毛沢東派からの干渉主義の攻撃をうけた時、攻撃の一つの焦点となったのは、“日本共産党はレーニンが教えた強力革命必然論や議会否定論に背をむけて、議会や選挙に熱中している”といった非難でした。
(注) 毛沢東の干渉主義の攻撃という歴史問題は、一九九八年六月の日中両党会談で、原則的で、気持ちのよい解決をみました。中国側が、過去の干渉の誤りをきっぱりと認め、その「真剣な総括と是正」を表明し、そのうえにたって、両党間の関係正常化を確認しあったのです。私自身も、その年の七月、訪中して、中国共産党の江沢民総書記と首脳会談をおこない、以後、友好的な交流の関係をたがいに発展させています。この経過は、不破『日本共産党と中国共産党の新しい関係』(新日本出版社、ブックレット)を参照してください。
私たちは、これへの反撃として、一九六七年四月、評論員の名で論文「極左日和見主義者の中傷と挑発」を発表しました(「赤旗」一九六七年四月二九日付)。そのなかで、「国会の安定した多数」をえての革命という路線が、マルクス、エンゲルス以来の科学的社会主義の理論と運動の全体的な流れに合致すること、毛沢東派が依拠しているレーニンの諸命題は、ある歴史的条件のもとで、ある特定の国では有効性をもったかもしれないが、科学的社会主義の革命論の普遍的原則とはなりえないものであることを実証しました。
しかし、当時は、マルクス、エンゲルスについても、彼らが展開した革命論の全体を、全生涯にわたってあとづけるだけの条件は、資料的にもまだありませんでした。そのために、レーニンの命題の評価についても、レーニンがなぜ、そういう命題に到達したかの歴史的な吟味をおこない、命題そのものの是非をつきつめるというところまでは、論を展開しませんでした。
その後、マルクス・エンゲルス全集の日本語版(補巻をふくめて全四五巻・四九冊)の刊行が完了し(一九七七年)、私たちは、マルクス、エンゲルスの革命論の全体を研究する条件をもてるようになりました。
私自身も、この間に、マルクス、エンゲルスの革命論の歴史的な追跡と探究を二度にわたっておこないました。第一回は、一九七六年の「科学的社会主義と執権問題――マルクス、エンゲルス研究」および「自由と国民主権の旗」という二つの論文(いずれも新日本文庫『科学的社会主義と執権問題』に収録)において、第二回は、一九九〇年に発表した論文「自由と民主主義の先駆的な推進者マルクス、エンゲルスの理論と実践から」においてです(『科学的社会主義における民主主義の探究』に収録)。
今回は、これらの研究もふまえて、マルクス、エンゲルスが、「議会の多数をえての革命」という可能性を、まだ普通選挙権が世界のどこにも存在しなかった一八四〇年代〜五〇年代から重視し、その立場から普通選挙権や民主共和制のための闘争に真剣にとりくんだこと、また、「議会の多数をえての革命」という路線が、最初はイギリスの革命論として提起され、ついで一八七〇年代以後には、イギリス、アメリカ、フランスなど共和制の国ぐにに共通する方針として探究されるようになったこと、さらには、民主共和制が、社会主義国家(プロレタリアート執権)の特有な国家形態と意義づけられるにいたったことなどを、歴史的に明らかにすることにつとめました。
これらは、レーニンが『国家と革命』でおこなったマルクス主義国家論の歴史的、理論的な整理とは、まったく対立する流れをなすものです。はっきりいって、レーニンがそこで引き出した結論は、マルクス、エンゲルスの立場にそむく、多くの誤りをふくむものでした。今回の研究では、レーニンが、なぜこのような誤った結論にみちびかれたのかの歴史的な吟味――『哲学ノート』でのレーニン自身の言葉をかりれば、誤った見解の“認識論史的な”根源の吟味にも、私なりの努力をそそいだつもりです。
2、第23章「『国家と革命』を歴史的に読む」抜粋
五 歴史的な検討を終わって
〔小目次〕
1、革命の議会的な道についてのマルクス、エンゲルスの理論は、レーニンの視野の外にあった
2、共通の理論的土台は、レーニンの「執権」論にもふくまれていた
1、革命の議会的な道についてのマルクス、エンゲルスの理論は、レーニンの視野の外にあった
強力革命によって民主共和制をふくむブルジョア国家を破壊し、コミューン型国家におきかえる――これが、パリ・コミューン以後のマルクス、エンゲルスの国家論、革命論だというのが、レーニンが『国家と革命』で明らかにしたマルクス主義国家論の核心でした。しかし、私たちがいま見てきたように、パリ・コミューン以後のマルクス、エンゲルスの国家論、革命論の発展は、レーニンがまとめた結論とはまったく反対の方向をたどっていたのです。
マルクス、エンゲルスは、パリ・コミューンの経験から、強力革命必然論という教訓をひきだすのではなく、逆に、それまで主としてイギリスだけにしぼって語ってきた「議会の多数をえての革命」の可能性を、こんどはフランス、アメリカなど民主的共和制の国ぐに全体にひろげて探究しました。この革命の議会的な道の可能性を探究することは、一八四七年以来、マルクス、エンゲルスの国家論、革命論の重要な一部分となってきたもので、一八七〇年代、八〇年代、九〇年代は、その探究がいちだんと豊かにおこなわれた時期となっていたのです。
また、マルクス、エンゲルスは、コミューンが切りひらいた民主主義の発展の諸経験を高く評価しながら、だからといって、議会制度や民主的共和制をコミューン型国家の対立物として否定する立場をとったことは、一度もありませんでした。反対に、エンゲルスは、労働者階級の解放と社会主義の事業のなかで民主的共和制がはたしうる役割と可能性を発展的に解明し、民主的共和制が、そのもとで労働者階級が権力をにぎりうる唯一の政治形態であり、社会主義国家(プロレタリアートの執権)の特有な政治形態であるということを、マルクスと共同で責任を負うべき結論として、明確に断言しました。
レーニンが『国家と革命』でひきだした結論は、マルクス、エンゲルスのこの展開とは、まったく逆方向のものだったのです。
次に究明する必要があるのは、レーニンはなぜこの誤りに落ちこんだのか、という問題です。この章の(四)で述べたように、ロシアをはじめ、多くの国ぐにで強力革命が必至になっていた当時の歴史的情勢が、レーニンの整理の仕方に影響をあたえたことは、背景をなす事情として、否定できないところでしょう。
しかし、ことはマルクス、エンゲルスの国家論、革命論の理論的総括にかかわる問題ですから、情勢的な背景にすべてを還元するのではなく、レーニンを、理論的に誤った道にふみこませた理論的な原因はどこにあったかを探究することが、とりわけ大事になる、と思います。
その点で、私が、なによりも重大な要因だと考えるのは、レーニンが、「議会の多数をえての革命」についてのマルクス、エンゲルスの発言を、まったく知らないでいた、という事実です。
この論稿ではまず、イギリスでの平和的、合法的な革命の可能性についてマルクス、エンゲルスが語ったすべての言明を、もれなく紹介してきました。
(1)エンゲルス『共産主義の諸原理』(一八四七年)に始まり、(2)マルクス「チャーチスト」(一八五二年)、(3)マルクス「行政改革協会――〔憲章〕(一八五五年)、(4)マルクス「『ザ・ワールド』通信員とのインタビュー」(一八七一年)、(5)マルクス「ハーグ大会についての演説」(一八七二年)、(6)マルクス「社会主義者取締法にかんする帝国議会討論の概要」(一八七八年)、(7)エンゲルス『資本論』英語版への「序文」(一八八六年)。
この七つの文章のうち、レーニンが読むことのできた文章は、どれだけあるでしょうか。(1)(2)(3)(4)(6)の文章は、すべてレーニンの死後に公刊されたもので、レーニンがそれを目にしうる機会はまったくありえませんでした。
(7)の『資本論』英語版へのエンゲルスの「序文」は、レーニンが活動した当時でも、読むことはできたはずの文書ですが、レーニンの著作や手紙、草稿などのどこにも、『資本論』の英語版を読んだという痕跡は残されていないし、エンゲルスの「序文」について言及した箇所も、まったくありません。レーニンは、『資本論』第一巻については、ドイツ語版の第一版と第二版、ロシア語版を利用していましたから、英語版とその序文については、少なくとも『国家と革命』の執筆の時点では、読んでいなかった可能性がかなり高いと思います。
また、(5)のハーグ大会についての演説も、この時点では、その存在を知らなかったと思われます。
(注)、「ハーグ大会についての演説」が問題になるのは、十月革命後の、カウツキーにたいする反論の書『プロレタリア革命と背教者カウツキー』(一九一八年)のなかでです。カウツキーが、ボリシェビキ批判の本のなかで、マルクスが“イギリスやアメリカでは、移行は、平和的に、したがって民主主義的な方法で実現される”という意見であったと述べたことへの反撃としてでした。カウツキーのこの発言は、ハーグ大会についての演説をさしたものと思われます。イギリスとアメリカを併記している文章は、当時公表されていたもののなかには、それ以外にないからです。
レーニンは、帝国主義時代を迎えていることを主な論拠にして、これを、次のように軽く一蹴しています。
「『歴史家』カウツキーは、恥しらずにも歴史を偽造して、独占前の資本主義――その絶頂はほかならぬ十九世紀の七〇年代であった――がその根本的な経済的特質、イギリスとアメリカにとくに典型的に現れた経済的特質のために相対的にいって最大の平和愛好と自由愛好とを特色としたという根本的なことを『わすれている』。ところが、帝国主義、すなわち二十世紀にやっと最後的に成熟した独占資本主義は、その根本的な経済的特質によって、最小の平和愛好と自由愛好と、軍閥がいたるところで最大の発展をとげたことを、特色としている。平和的変革または強力的変革が、どれほど典型的か、あるいはどれほど予想されるか、を考察するにあたって、このことに『気がつかない』のは、ブルジョアジーのもっとも平凡な従僕になりさがることを意味する」(全集(28)二五二ページ)。
結局、マルクスがイギリスに「例外的」地位をあたえていたことをレーニンが知ったのは、唯一、クーゲルマンへの手紙からでした。そこで官僚的・軍事的機構の粉砕が、大陸諸国に限定して語られていたことを読んで、そこからイギリスについてのマルクスの見解を推察したというのが筋道だったのでしょう。だから、イギリスのその「例外的」地位をその後どう見るかの検討は、もっぱら軍隊や官僚機構の存在はどうかという角度からおこなわれて、議会の権限や、労働者階級がそこで多数をしめうる展望があるかどうかなどの問題は、レーニンの視野にはまったく入ってきませんでした。
エンゲルスが、民主的共和制論を展開した九〇年代の文献は、この章の(三)で検討したように、エンゲルスのいちばん立ち入った言明である「一八九一年の社会民主党綱領草案の批判」も、ラファルグヘの手紙(一八九四年三月六日)も、レーニンは、これを読んでいました。しかし、これも(三)で吟味したように、民主的共和制のもとで労働者階級が権力をにぎりうるとか、この国家形態がプロレタリアートの執権の形態になるとかいう言明について、レーニンがその重大性にふさわしい真剣な検討をした形跡は、まったくありません。これは、レーニンらしからぬ読み落としですが、「議会の多数をえての革命」という問題意識がまったく視野の外にあったために、これらの言明の重大な意味を、読み落としてしまったとでも理解すべきでしょうか。
2、共通の理論的土台は、レーニンの「執権」論にもふくまれていた
「議会の多数をえての革命」という方向をまったく視野の外においたレーニンの理論的な弱点は、もっと早い時期に、レーニンの「執権」概念の一面化という形ですでに現れていました。そのことは、第一〇章「ロシア革命と執権問題」(第二巻)ですでに詳しく指摘したところです(このことは、この章の(一)二四四〜二四五ページの注で簡単にふれました)。
レーニンは、一九〇六年、ロシアの第一革命のなかで、当面の問題になっていた民主主義的な人民権力(労働者階級と農民の革命的民主主義的執権)に関連して、「執権」という概念の科学的な内容はなにか、という問題を提起し、次のような定義をあたえていました。「執権という科学的概念は、なにものにも制限されない、どんな法律によっても、絶対にどんな規則によっても束縛されない、直接強力に依拠する権力以外のなにものも意味しない」(「カデットの勝利の労働者党の任務」全集I二三三ページ)。
私は、そこで、レーニンのこの定義をとりあげ、そこには、科学的社会主義の国家論・革命論にとって重大な問題点がふくまれていたとして、とくに次の三つの問題をあげました。
(一) 当時のロシア革命のように、専制政治を武力闘争で打倒して人民権力をうちたてる強力革命の場合には、新しく樹立される革命権力は、旧体制の法律・規則には束縛されず、人民の勝利という政治的基盤を、自分の権力の唯一の源泉とし、そこに基盤をおく。しかし、このことは、強力革命とそれによって成立する人民権力についてだけあてはまる特徴であって、すべての革命権力に共通する特徴ではありえない。
実際、マルクス、エンゲルスは、社会主義革命についてさえ、ある事情のもとでは、革命が平和的、民主主義的な(合法的な)方法でなしとげられることを、想定していた。その場合でも、成立した人民権力は、民主主義的「執権」、あるいは社会主義的「執権」という性格をもつが、この場合には、「いかなる法律にも束縛されない」という特徴は、これらの人民権力にはあてはまらない。マルクス、エンゲルスは、その場合には、「合法性」に反旗をひるがえすのは、反革命派だとして、その立場を「合法的」権力にたいする「反乱」者と特徴づけた。
(二) また、強力革命を通じてであれ、平和的、民主主義的な方法を通じてであれ、成立した人民権力を、「直接強力に立脚する」権力と特質づけることも、正確ではない。どの場合でも、強力の行使は、統治する活動に不可欠のものとなるが、人民権力が依拠する基盤、その力の源泉は、なによりも革命に立ち上がった人民の意志にある。人民の意志という最大の基盤をはなれて、強力だけに依拠した権力が、どんな害悪をもたらすかは、二〇世紀の世界史にも無数の教訓がある。また、いったん成立した人民権力にとっては、自分自身の法律や基礎をつくりだし、それにしたがって政治と経済、社会の運営がおこなわれるようにすることが、避けるわけにゆかない課題となる。この点でも、「いかなる法律にも束縛されない」云々は、人民権力の規定としては、不適切なものである。
(三) このように、「直接強力に立脚する」あるいは「いかなる法律にも束縛されない」などを、「執権」概念の本質規定としたレーニンの立場は、ツアーリ専制体制の打倒をめざすロシアの民主主義革命のように、人民の武装蜂起――強力革命が唯一の可能な道とされた条件のもとで、強力革命によって成立する革命政権にはあてはまるものであっても、これをあらゆる革命にあてはまる革命権力一般の特徴としたり、革命後に確立される人民権力の本質規定とすることはできないものである。
レーニンは、当時は、この「執権」論を、ロシアの革命運動の範囲で問題にし、これを世界の革命運動一般に押し広げて議論することはしませんでした。しかし、もともとは、「執権」概念が最初に問題になったのは、社会主義革命によって樹立される革命権力の規定(プロレタリアートの執権)としてでしたから、論理的にいえば、レーニンのこの定義は、あらゆる国の社会主義革命にあてはまる定義という性格をもっていました。そして、その定義のなかには、どの国の社会主義革命も、プロレタリアートの執権を目標とする以上、「直接強力に依拠」し、「いかなる法律にも束縛されない」革命、すなわち、強力革命をめざすべきだという論理が、内包されていたのです。
その意味では、レーニンが一九一七年に『国家論ノート』および『国家と革命』で到達した結論は、一九〇六年の「執権」規定の延長線上にあったと見ることもできます。革命の議会的・合法的な道を原理的に排除するという点では、一九〇六年の「執権」規定も、一九一七年に到達した国家論・革命論も、共通の理論的な土台のうえに立っていた、ということができます。
3、マルクス、エンゲルスの革命論を硬直的なものに変形させた
いずれにしても、レーニンが『国家論ノート』および『国家と革命』であたえたマルクス主義国家論の総括は、マルクス、エンゲルスがその生涯を通じてその可能性を追求し、豊かな肉づけを与えてきた「議会の多数をえての革命」という展望をまったく欠いたものになり、そのために、それぞれの国の情勢にふさわしい多様性を本来の特質としてきたマルクス、エンゲルスの革命論を、強力革命一色に染めあげられた硬直的なものに変形してしまったのです。
そのことは、世界の共産主義運動に長いあいだ根深い否定的な影響を与えました。この運動のなかで、民主的共和制がしかるべき評価を回復するには、一九三五年のコミンテルン第七回大会を待たなければなりませんでしたし、革命の議会的な道についてのマルクス、エンゲルスの理論がその真価を理解されるようになるには、それからさらに二〇年余の年月を必要としました。
私は、この問題は、レーニンがおかした理論的な誤りのなかでも最大のものの一つだと思いますが、それには、十月革命の数年後に、さらにより否定的な方向への展開――多数者革命の路線からの後退というより否定的な展開がつづきます。しかし、この章では、検討はここまでにとどめ、その後の問題は、十月革命後のレーニンの理論展開を吟味するところでおこなうことにしましょう。
以上(P.346まで) 健一MENUに戻る
(関連ファイル)
『レーニン「国家と革命」の位置づけ』革命ユートピア・逆ユートピア小説
加藤哲郎『一つの国家論入門──社会科学を志す人々へ』『国家と革命』批判
TAMO2 『国家と革命』全文(大月書店国民文庫版)
アエラ『不破氏の今どきレーニン批判』(2000年1月31日号)