『戦後革命論争史』に関する不破哲三「自己批判書」

 

上田・不破査問と「自己批判書」公表事件の一次資料集(1)

 

(宮地作成・編集)

 

 〔目次〕

   1、宮地コメント

   2、不破哲三「自己批判書」(全文)

   3、『戦後革命論争史』(抜粋)

       はしがき(全文)

       第三篇第四章、第二〇回大会後の国際理論戦線の発展(全文)

       〔目次〕三篇二十一章の内容(全文)

 

 (関連ファイル)          健一MENUに戻る

    『「戦後革命論争史」に関する上田耕一郎「自己批判書」』一次資料集()

    石堂清倫『上田不破「戦後革命論争史」出版経緯』手紙3通と書評

    『上田耕一郎副委員長の多重人格性』上田・不破査問事件の真相

    『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕上田・不破査問事件の真相

    『綱領全面改定における不破哲三の四面相』構造改革論者という思想・理論的出自

 

著者上田耕一郎のみ、上下巻・各350円

 

 1、宮地コメント

 

 このファイルは、『戦後革命論争史』の執筆・出版めぐる問題と、それに関する上田・不破査問、「自己批判書」公表事件の一次資料集である。この事件は、1982年に発生した。それは、宮本顕治と宮本私的分派・側近グループによる日本共産党の逆旋回クーデターの一つに該当する。逆旋回のための4連続粛清事件の第一番目にあたる「ネオ・マルクス主義者粛清」の中に位置づけられる。この謎のNo.2、3査問事件は、日本共産党史の闇に隠されたままである。その闇を暴く上で、以下の4資料は役立つと思われる。

 

 というのも、当時、ユーロコミュニズムに急接近し、ユーロ・ジャポネコミュニズムとまで言われた日本共産党を、一転して逆旋回させるには、常任幹部会員・幹部会員・中央委員という党中央指導部全員の思想・理論動向を、一挙に、一括して大転換させる荒技が必要であり、そのためには、No.2、3査問とその「自己批判書」公表が、もっとも効果的だったからである。宮本顕治が、なぜ逆旋回を決断したのかという動機・背景については、別ファイルで分析した。

 

    『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕日本共産党の逆旋回とその背景

 

 田口富久治名古屋大学教授・不破哲三論争、藤井一行富山大学教授批判、中野徹三札幌学院大学教授の査問・除名、水田洋名古屋大学教授批判などの学者党員批判キャンペーンや除名は、彼らによる(1)ユーロコミュニズム紹介、(2)スターリン批判研究の再開、(3)民主集中制の再検討提案や、(4)加藤哲郎らによる大月書店・青木書店からの連続出版計画などを、強権的に抑圧し、その運動と出版活動中絶させる面では、完璧な効果を挙げた。

 

 しかし、それらとは別に、党中央トップ内にあって、それらの動向と連動、もしくは扇動的役割を果しつつあった“上耕”の人気と論文発表途絶させ、党中央内影響力奪う必要も発生してきた。それには、兄弟の「自己批判書」公表こそが、宮本顕治にとって最上の策略だった。「自己批判書」公表は、宮本顕治と宮本私的分派・側近グループによるユーロコミュニズムからの離脱宣言だった。党中央指導部全員は、その逆旋回路線に服従せよ、拒否する者は上田・不破のように査問だとする、宮本顕治の脅迫と恫喝の真意を誤りなく読み取った。なぜなら、下記の不破哲三「自己批判書」の約6700字には、「自由主義、分散主義、分派主義の誤り」という文言が、5カ所もあり、その日本語こそ、ユーロコミュニズムと絶縁する逆旋回クーデターにおいて、宮本顕治が繰り返し、学者党員たちや、他の3連続粛清事件の被粛清者たちに貼り付けたのと同一文言だったからである。

 

 本当は、このファイルに、上田耕一郎「自己批判書」である「『戦後革命論争史』についての反省―「六十年史」に照らして」も載せたいのであるが、『戦後革命論争史』の3資料を合わせると、全体が長くなりすぎるので、上田耕一郎「自己批判書」は別ファイルにした。2人の「自己批判書」は、いずれも『前衛』6ページの同一字数である。ちなみに、上田耕一郎も、不破哲三とほぼ同一文言を書いている。それは、わずか原稿用紙17枚分の字数中に、「精算主義の誤り」3回、「分派主義におちいりつつあった」3回、「自由主義、分散主義、分派主義の誤り」4回を書き込み、その前後にそれらの誤りの内容・発生経過を縷々(るる)書き綴るという異様な記述形式になっている。

 

 不破哲三「自己批判書」

 これは、『前衛1983年8月号』に掲載された。分量は、『前衛』6ページ分、約6700字である。26年前に執筆・出版した著書は、著者名兄上田耕一郎のみであり、しかも、全体3篇21章の内、不破哲三が分担執筆したのは、4章だけである。彼は、石堂清倫ら5人の10数回の討論会に一度も参加していない。5人は、構造改革論派グループであり、上田耕一郎も「自己批判書」において、自分もその「党員グループのなかにいた」と明記している。不破哲三は、討論内容の筆記役上田耕一郎の討論メモと5人が持ち寄った膨大な国内・国際的資料に基づいて、執筆した。

 

 それにもかかわらず、彼の「自己批判書」には、「自由主義、分散主義、分派主義の誤り」という自己批判文言が5回も書かれている。『前衛』掲載順序も、中心執筆者上田耕一郎よりも、先になっている。この内容と順序が、()謎の査問により強制されたものなのか、それとも、()党中央が『赤旗・主張』(1983年9月25日)において弁明しているように、上田・不破兄弟が、26年前の執筆行為・内容にたいして、かつ、1964年の絶版後18年も経ってから突如、まったく自主的に反省したものなのかは、これを読む人の立場・共産党体験によって異なるであろう。

 

 このファイルを(宮地作成・編集)とした意味は、「自己批判書」が、数字だけの〔目次〕だったのを、私(宮地)の判断で、〔小目次〕として小見出しをつけ、また、文中のいくつかを黒太字にしたことである。(〜回目)は、私が挿入した。ただし、文言については、一切訂正・加筆・削除などをしていない。

 

 『戦後革命論争史』「はしがき」

 これは、上田耕一郎が書いた「はしがき」全文である。末尾に、3篇21章中、不破哲三が4章を分担執筆したことを明記している。そこを、黒太字にした。また、石堂清倫が、大月書店の編集部にいたことも書いている。

 

 「第三篇第四章、第二〇回大会後の国際理論戦線の発展」

 これは、不破哲三が分担した4章の内、最後の1章「下巻、P.173〜210」である。この内容は、「党内問題」ではまったくない。5人のメンバーが10数回の討論会で明らかにしたスターリン批判の国際的受け止めと理論的発展の討議を、筆記役・上田耕一郎メモと国際的な原資料に基づいて、不破哲三がまとめたものである。この内容は、5人が、膨大な資料を持ち寄り、討論で分析したスターリン批判めぐる貴重なデータである。これを執筆した時、不破哲三は、26歳の若さだった。25カ所の詳細な〔注〕があるが、省略する。文中の傍点は黒太字に、人名の傍線は緑色太字にした。

 

 〔目次〕三篇二十一章の内容

 この著書は、5人のメンバーが国内・国際資料を持ち寄り、10数回の討論会で行った内容メモと膨大な資料内容が基本である。これは、幻の名著として、人気がある。〔目次〕全文により、その一端を推察できる。

 

 討論会、執筆者変更、執筆・出版経緯、絶版時期、上田・不破査問と「自己批判書」公表事件などの経過

 1955年六全協は、武装闘争の極左冒険主義の誤りを認めたが、51年綱領という武装闘争路線綱領を正しいとした。

 

    『武装闘争責任論の盲点』日本共産党の朝鮮戦争参戦武装闘争と六全協人事の謎

 

 1956年2月、フルシチョフは、ソ連共産党第20回大会であるターリン批判を行い、世界と日本共産党・日本左翼陣営に衝撃を与えた。

 1956年、石堂清倫ら5人が、大月書店の「日本の分析」シリーズ出版企画の一つとして、膨大な国内・国際原典資料を持ち寄り、10数回の討論会を持ち、その討論内容筆記役として、上田耕一郎を参加させた。予定していた執筆者が遅筆のため、急遽、著書執筆者を、当時29歳・無名の筆記者上田耕一郎に変更した。彼は、弟不破哲三の分担執筆を申し出て、了解された。

 1956年12月「上巻」、1957年1月「下巻」を、大月書店が発行し、売れ行き好調になった。

 

    石堂清倫『上田不破「戦後革命論争史」出版経緯』手紙3通と書評

 

 1964年、不破哲三が共産党中央委員会専従になる同じ年に、『戦後革命論争史』は絶版になった。その時点、すでに、上巻は1964年7月25日7刷、下巻は1964年12月20日8刷で、なお売れていた。このジャンルの著書としては、驚異的な売れ行きだった。この絶版には、「上田・不破が共産党理論幹部専従になることで取引をして、宮顕に魂を売り渡した絶版行為」「彼らは宮顕に鞍替えした」とみなす批判が、5人の中から出た。上田・不破兄弟は、それ以後、党中央理論幹部として、大活躍する。

 

 1982年、上田・不破査問と「自己批判書」公表事件が発生した。この謎の査問事件については、別ファイルで分析してある。

 

    『上田耕一郎副委員長の多重人格性』上田・不破査問事件の真相

    『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕上田・不破査問事件の真相

 

 

 2、不破哲三「自己批判書」(全文) 『前衛1983年8月号』掲載

 

 民主集中制の原則問題をめぐって ―党史の教訓と私の反省―

 

 〔小目次〕

   一、民主集中制擁護の三つの時期

   二、『戦後革命論争史』出版における私の誤り

   三、組織原則からの重大な逸脱という誤りの思想的原因

 

   一、民主集中制擁護の三つの時期

 

 日本共産党中央委員会が昨年発表した『日本共産党の六十年』は、わが党の六十年の歴史を、日本の近代・現代史とともに科学的に解明した歴史の書であるが、そこには、党の今後の活動にとって重要な指針となるべき無数の教訓がふくまれている。

 

 党史がしめすそうした重大な教訓の一つに、党の団結と前進にとって、民主集中制の原則を堅持し擁護することの決定的な重要性という問題がある。『日本共産党の六十年』が明らかにしているように、戦後のわが党の活動のなかには、党の統一と団結が大きな脅威や攻撃にさらされ、民主集中制の原則の意義が歴史的試練をへてためされたといえる重要な三つの時期があった。

 

 第一は、いわゆる「50年問題」の時期である。

 当時、コミンフォルム論評を契機に党内の対立が拡大していたが、徳田書記長を中心とし徳田派は、アメリカ占領軍の弾圧を口実に、中央委員会を事実上解体して意見のちがう中央委員を排除し、それを下部にもおしひろげて、党組織の全党的な分裂をひきおこした。この危機的な事態にさいして、排除された側にも、一部には、党の統一に絶望しての「別党コース」論や、中央委解体を既成事実として容認する無原則的妥協の傾向、あるいはいっさいの党組織から離脱する傍観者的傾向なども生まれたが、排除された中央委員の多数は、「あくまで党中央委員会の組織的統一の回復を基本目的として、どんな分裂主義や個人主義的傍観にもおちいらず、党の隊列の結集をはかること」(『六十年』一三七ページ)を、基本態度とした。

 

 国際的なくりかえしの干渉、極左冒険主義のもちこみもあり、党の統一回復への過程は、屈曲した長期の闘争を必要としたが、党の分裂という危機的事態のもとでも、民主集中制の原則的見地から、党中央委員会の統一の回復をなによりも重視し、そのことを基本目的としてたたかった潮流が確固として存在したことが、一九五五年の「六全協」に始まる転換にむかっての重要な土台を準備する役割を果たしたことは、明白である。

 

 第二は、その「六全協」から第七回(一九五八年)、第八回党大会(一九六一年)にいたる時期である。

 第七回党大会では、事実と道理にもとづく五〇年問題の全面的な総括が承認され、第八回党大会では、新しい党綱領が採択された。わが党は、この二つの大会で、五〇年以来の分裂と混乱からきっぱりとぬけだし、その後の発展への確固とした出発点をきずいたが、二つの大会を準備する全党討議は、新しい情勢の下で生まれた自由主義、分散主義等々に反対して、民主集中制を擁護する全党的な闘争と、深く結びついていた。

 

 たとえば、『六十年』は、「六全協」後の党内の情勢について、つぎのように書いている。

 「五〇年問題の実情と極左冒険主義の誤りの深刻さがはっきりするにつれ、党内には自由主義、分散主義、敗北主義、清算主義の傾向や潮流があたらしくあらわれた。過去の誤りへの批判の自由ということで、党内問題は党組織の内部で討議・解決するという原則からはずれ、党の民主集中制や自覚的規律を無視する傾向は、党内外にさまざまな形であらわれた」(一四七ページ)

 

 これらの傾向や潮流のゆきつく先として、やがて、春日庄次郎、内藤知周らの反党分派が生まれた。彼らは第八回党大会の直前に党をひぼうする声明を公表してみずから党を脱走し、あからさまな反党分子への転落の道をたどった。

 

 第七回、第八回党大会での党の前進は、これらの誤った偏向や潮流をしりぞけつつ、五〇年問題や綱領問題での討議を、「民主集中制にもとづく自覚的規律ある全党討議」として積極的に展開したことを基礎に、かちとられたものである。

 

 第三は、ソ連および中国からの大国主義的干渉が開始された一九六四、六六年以後の時期である。

 どちらの場合にも、干渉者たちは、日本共産党の路線への非難攻撃とともに、志賀義雄らの「日本のこえ」一派、西沢隆二、安斎庫治、山口県の福田一派など、自分たちに盲従する反党分派を組織育成し、日本の国内で党破壊活動を展開させるという手段に訴えた。しかし、党の路線と規律に挑戦した、大国主義干渉者とその手兵たちのくわだては、全党の断固としたたたかいの前に完全に粉砕され、民主集中制にもとづく党の統一は、これらの開争をつうじて、いっそう強固にきたえられた。

 

 『六十年』は、反党分派主義のいかなるあらわれをも許さず、「民主主義的中央集権にもとづく党の統一を、確固としてまもり強化」するためのこれらの闘争が、「党に打撃をあたえるどころか、科学的社会主義の理論と自覚的規律でむすばれた革命的前衛党として、党をいっそう強じんにきたえる契機となった」(二三一ページ)ことを高く評価している。

 

 五〇年代から六〇年代にかけてのこの二つの時期の歴史的経験は、党がどのように複雑で困難な状況に直面した場合でも、民主集中制の原則とそれにもとづく党の統一的規律を堅持し擁護しなければならないこと、そこに党の団結と前進の保障があることを、全党の経験に裏づけられた深い内容をもって、しめしている。

 

 

   二、『戦後革命論争史』出版における私の誤り

 

 私自身についていえば、いまあげた三つの時期のうち、第一、第二の時期は、大学および労働組合書記局内の党支部(細胞)で、第三の時期は、党中央で活動していたが、民主集中制の問題についての原則的な立場に一応到達しえたのは、第二の時期もかなりおそく、第八回党大会前の反党分子との闘争が次第に表面化しはじめた段階になってからであった。そこにいたるまでは、複雑な状況と私自身の未熟さが結びついた試行錯誤の連続で、党活動の原則的基準をふみはずした誤りや逸脱として反省させられることが少なくない。とくに重大な逸脱は、第二の時期―「六全協」後の全党討論の時期に、党内問題を党外にもちだし、党外の出版物で「50年問題」や党の綱領問題を論じるという自由主義、分散主義、分派主義の典型的な誤りを犯した(1回目)ことである。

 

 『戦後革命論争史』(一九五六〜五七年、大月書店刊)は、そうした誤りの集中的所産であった。この本の主要な執筆者は上田耕一郎であるが、上巻の「はしがき」にも明記されているように、「全篇にわたって討論をくりかえした」うえ、第一篇第六章、第二篇第六章および第七章、第三篇第四章は、私が分担執筆したもので、「事実上両人の共著というべきもの」であった。その出版についても内容についても、私は、共著者の一人として、全体的な責任をおっている。

 

 『論争史』は、一九六四年、出版社との関係では絶版の措置をとったが、党創立六十周年を契機に全党が党史を深くふりかえっているこの機会に、『論争史』の出版でどういう性格と内容の誤りをおかしたのか、私の反省点をあらためて明確にしておきたい。

 

 『戦後革命論争史』を出版したのは、上巻は一九五六年十二月、下巻は一九五七年一月だった。たしか一九五六年の夏に、出版の関係者の側から上田の方に話がもちこまれ、私の勤務の関係もあって、上田が主要部分を、私が一部をという執筆の分担をきめ、書いたものはたがいに読みあって、意見をいい、執筆者がそれぞれ最終的にしあげるといった“工程”で共同作業をしたと、記憶している。

 

 『論争史』の出版の最大の、決定的な誤りは、党内問題を党外の出版物で論じるという事柄の根本そのものにあった。上巻の「はしがき」は、この本の主題を「戦争直後から一九五六年末にいたるまでの日本マルクス主義の理論史を、あらためて再整理した報告書」と特徴づけているが、『革命論争史』という表題からも明確なように、とりあげた「日本マルクス主義の理論史」とは、経済学や哲学などの一般理論ではなく、主として日本共産党の党内論争史であり、なによりもまず、「50年問題」の総括と綱領問題が、ここでいう「論争史」なるものの最大の焦点だった。

 

 これらの問題は、党中央委員会が、当時、全党討議をよびかけていた当の主題だった。党は、五六年九月にひらかれた八中総で第七回大会の開催をきめ、十一月の九中総は、綱領問題についての積極的な討論を全党によびかけた。そのさい、討議のしかたについての地方からの質問にこたえて、中央委員会は「綱領討議にさいしての留意事項」という文書を採択し発表したが、そのなかでは、綱領問題の討議は、他の党内問題(もちろん「五〇年問題」の総括もふくむ)とおなじく、民主集中制の原則をまもり、党内でおこなわれるべきことが、とくに明記されていた。

 

 「綱領問題の討議も他のすべての党内問題の討議とおなじく、規約で定められている党内集会や党会議、党の刊行物で討議される。討議は積極的におこなわれ、全党の知恵と経験が大会をめがけて正しく検討され結集されなければならない」

 「綱領の討議は、党のあらゆる問題とおなじく、党の民主集中制にもとづき党の団結と統一を保持し、党員の創意性と積極面をたかめるとともに、党員の権利と義務を正しく統一的に結合するという党的な組織原則にもとづいておこなわれなくてはならない」

 これらは、党規約で定められた組織原則の当然の具体化であった。

 

 『論争史』は、中央委員会のこの具体的な指示に反して、「50年問題」をふくむ広範な党内問題や綱領問題を、党の民主集中制のわく外で、党外の出版物で論じたものであった。これは『六十年』が指摘した「過去の誤りへの批判の自由ということで、党内問題は党組織の内部で討議・解決するという原則からはずれ、党の民主集中制や自覚的規律を無視する傾向」(一四七ページ)の、もっとも典型的なあらわれであり、民主集中制の党的原則から出版の是非を深く吟味することなしに、この書を出版したことは、「六全協」後の状況のなかで、私がおちいっていた自由主義、分散主義、分派主義の所産(2回目)以外のなにものでもなかった。

 

 それが、分派主義につながる重大な性格をもっていたことは、この書が出版社の側で『戦後日本の分析』という“双書”企画の一つに位置づけられていたことによって、いっそう鮮明になってくる。『論争史』下巻の巻末には、編集部名で、「発刊にあたって」のあいさつがそえられ、そこでは、綱領問題一つの主題とする第七回大会が予定されていることにふれながら、「理論的にわが国での新しい革命の内容と形態を明らかにするとともに、これらをめぐる過去十一年間のいっさいの論争を批判的に概括する目的でこの双書を刊行する」という趣旨がのべられていた。私自身は、この双書全体の企画の相談にあずからなかったし、正直なところ、当時この「発刊」の言葉を注意して読んだ記憶はほとんどない。しかし、この「発刊にあたって」がいうとおり、『論争史』をふくむ出版が、党の綱領討議に党外から影響をあたえることを直接の目的として企画されたものだとすれば、それは、私がこの双書の企画の相談にあずかっていると否とを問わず、また予定されていた他の執筆者と面識があろうがなかろうが、事態の本質としては、『論争史』の出版を、明白に一種の分派主義の出版活動とするに十分なもの(3回目)であった。

 

 党の組織原則に反するこうした誤りは、その所産である『論争史』の理論上の内容にも反映していた。党内討議の原則的な参加者としてではなく、党外の出版物であれこれの問題について「自由な」批判や“総括”をやろうという姿勢そのものが、全党討議の積極的な方向に逆行したり、「五〇年問題」の痛苦の経験を通じてかちとられつつあった党の理論的、実践的な到達点に反する誤った見地を、少なからぬ問題で生みだした。いまここでそのすべてについてふれることはしないが、

 

  ――ソ連共産党第二二回大会や中国共産党第八回大会の結論、その後の国際的な討論の傾向を、国際共産主義運動の理論的到達点として無批判にうけいれた事大主義的傾向、

  ――「当面の段階=民族的・民主主義的段階」を強調しながらも、戦略的には社会主義革命論に傾斜した、綱領問題での誤り

  ――「五〇年問題」の総括に関連して、中央委員会を解体した徳田派と、排除されながら中央委員会の統一回復を要求した中央委員たちの活動とを、党分裂の責任の点で事実上同列にみた“けんか両成敗”論的な批判

  ――統一戦線問題や戦争責任問題について「前衛党」なるが故に、統一戦線が成立しないことや、反戦闘争を組織しえなかったことについても、責任を負うべきだとする、清算主義的な前衛党責任論

 などが、そうした誤った傾向をあらわしたもっとも重要な論点として、指摘されよう。

 

 

   三、組織原則からの重大な逸脱という誤りの思想的原因

 

 私が党の組織原則からの重大な逸脱というこの状態からぬけだすことができたのは、第七回党大会から第八回党大会へすすむ過程においてのことで、なによりも、党の統一と前進にさからって公然と党破壊活動にのりだしはじめた反党分子との闘争を通じて、民主集中制の原則をあらゆる状況のもとで堅持し擁護することの第一義的な重要性を、きわめて具体的な形で、あらためて教えられたからであった。理論問題についても、誤った路線を克服する全党の理論的、実践的な前進のなかで、私自身第八回党大会にいたる時点では、綱領問題をふくむ自分の誤りや弱点を自覚的に認識し、綱領草案や「五〇年問題」総括の正しさを理論的にも政治的にも私なりに把握できるようになっていた。

 

 そうした反省のうえにたって、私は、第八回党大会後、党の機関紙誌上で、反党分子やその「理論」にたいする理論闘争にも参加するようになり、それ以前の時期における自身の理論上の誤りや弱点についても、一定の批判的清算を試みたが(『現代イデオロギーとマルクス主義』下巻まえがき、一九六二年)、『論争史』の出版に代表される無原則的な執筆活動の、党の原則にかかわる誤りの根本について、深い認識と反省ができるようになったのは、より後年のことであった。

 

 『論争史』の出版とそれにつづく時期に、私が、執筆活動において、自由主義、分散主義、分派主義の重大な誤りにおちいり(4回目)、党員としてきわめて危険な地点にたっていたことは、第八回党大会の前後に党から脱走した反党分派勢力が、「六全協」後の、同じ自由主義、分散主義、分派主義を土壌として形づくられていった一事に、明瞭に示されている。

 

 当時、私は、自分が属している党支部では、党生活と党活動の諸原則をきちんとまもり、その積極的一員として活動していた。しかし、執筆活動は、そうした党生活の諸原則とはまったく別の問題として扱い、一応、その都度、党組織に報告し、その了承のもとにあたるようにしていたものの、『論争史』などの執筆活動の是非を、民主集中制の組織原則にてらして、また当時明示されていた全党討議の基準にてらして吟味するという党員の初歩的貴任は、最初から問題にもしないであるまし、そのことと日常の党活動とのあいだに、なんの矛盾も感じないでいる状況にあった。そこには、単に「六全協」後の党内情勢の複雑さや、党員としての私の未熟さ等々に帰することのできない重大な問題―執筆活動を事実上、党の事業から独立した個人の自由な活動とするブルジョア個人主義の思想があり、それが、当時の情勢のもとで、自由主義、分散主義の気分と結びついて、執筆活動における分派主義的逸脱を生んだ(5回目)のである。

 

 レーニンは、ロシあの党内論争のなかで、一部のものが民主集中制の精神にそむく論争態度や手段をとったとき、その危険性を指摘して、「分派闘争の客観的論理」は、誤りを固執するならば、どのような人物をも党に敵対する無原則的な立場に転落させるということを警告したことがある。いまからふりかえってみれば、この時期に私がおかしていたのは、まさに、そういう性格の誤りであった。

 

 以上が、『戦後革命論争史』の執筆と出版をめぐる私の反省である。

 

 冒頭にのべたように、日本共産党は、さまざまな困難を打破して、党の統一と団結を前進させてきた幾多の闘争をつうじて、いかなる状況でも民主集中制の原則を堅持し擁護することの決定的な重要性を、みずからの歴史の問題として証明してきた。それは、私自身が、その原則から逸脱した苦い経験とその反省をつうじて、学びえた教訓でもある。私は、この教訓と反省を、みずからの今後の活動につねに生かしてゆきたいと思っている。

 

(ふわ・てつぞう=党幹部会委員長)

 

 

 3、『戦後革命論争史』(抜粋)

 

 〔小目次〕

       はしがき(全文)

       第三篇第四章、第二〇回大会後の国際理論戦線の発展(全文)

       〔目次〕三篇二十一章の内容(全文)

 

 はしがき (全文)

 

 この書は、ある意味ではフルシチョフのいわゆる「秘密報告」によるスターリン非難から受けた大きな衝撃の結果として生れたものである。ほとんど読みとおすのに困難をおぼえたほどのあの文章によって与えられた苦痛を、私は一生忘れることができないであろう。その苦痛は、私たちに過去を見直すことを強いる。すべてのマルクス主義者が例外なく信じている見解でさえ、まったくまちがっていることがありうるということを、苦渋とともに悟らされた以上、私たちの進路をさぐるためにも、すでに歴史的判定のくだったものと思われているもろもろの過去の足跡の、いくつかの曲り角について、捨て去った方向について、見えなかった道について、その隅々まで新しく自分の目で見直すことを、フルシチョフ報告は強いているともいえよう。

 

 私がこうした立場から、戦争直後から一九五六年末にいたるまでの日本マルクス主義の理論史を、あらためて再整理した報告書がこの書である。実践の指針としてのマルクス主義の理論は、理論一般がそうであるとしても、とくに、人間の集団の行動と生活、大きくいえばその運命についてまで一定の影響を及ぼすものであり、理論の責任がきわめてきびしく重いものであることを、常に痛感させられているだけに、この種の論争史がともすればおちいりがちな机上の空論の危険をできるだけ避けたつもりであるが、なお革命のサロン論議の危険からこの書もまた完全にはまぬかれていないかもしれない。時間的な制約と資料の不備によって、重要な論争の脱落その他の欠陥もなしとしないであろう。さらにまた二○回大会後の理論的発展がすばらしい勢いで各国においておこなわれつつある時に、また国内でも日本革命の見とおしについての、おそらく戦後はじめてといってよい広範な討議がおこなわれようとしている時に、一一年間の戦後論争の総括を提出することについても、いろいろな批判があるかもしれない。しかしこの書が、今後の進路を定めるための広範な討議にたいする私の参加をも意味することとなり、またたくさんの欠陥にもかかわらずその討議の参考資料として少しでも役立ちうるとしたならば、望外の喜びである。

 

 最初のプランには、各分野の戦術上の諸問題やマルクス主義経済学・哲学・文化上の諸問題まで含まれていたが、紙数の関係であるべて省略せざるをえず、国家論・戦略論・一般的な戦術論・農業革命論などのいわゆる「狭義の革命理論」についての論争史の範囲にとどめざるをえなかった。こまかな問題には立ちいることができなかったが、とくに重要と思われるものについては注で触れておいた。注のなかには当然本文に入るべきものなのに、叙述の混乱を避けるために、注にまわしたものも少なくない。出典・引用書などもできるかぎり注でしめした。そのため注の分量がかなり多くなってしまって読みにくくなったことを恐れている。社会党・労農党内の論争にも多くのページをあてたいと考えていたが、紙数の関係や健康上の関係もあって、資料の蒐集も十分とはいえなかったために、重要な論争に触れるのみにとどまってしまったことも残念なことの一つである。

 

 本書の完成には、畏友不破哲三の全面的協力にあずかった。全篇にわたって討論をくりかえしたばかりでなく、第一篇第六章・第二篇第六章および第七章・第三篇第四章は分担執筆をもしていただいた。本書は事実上両人の共著というべきものである。

 最後に、十数回にわたる「戦後日本の分析」研究会において貴重な御教示をたまわった先輩諸氏ならびに若輩の私にこの仕事をする機会を与えてくださった大月書店の小林直衛氏および編集部の石堂清倫・田辺典夫・江口繁雄の三氏に、心からのお礼を申上げたい。

一九五六年一一月一五日

 

 

 第三篇第四章、第二〇回大会後の国際理論戦線の発展 (全文)

 

 〔小目次〕 下巻P.173〜210

   1、歴史的な経過

   2、革命の平和的発展をめぐって

   3、個人崇拝の根源をめぐる論争

   4、プロレタリア独裁理論の再検討

   5、インド共産党の新路線

   6、戦後の運動の評価をめぐって

   7、人民民主主義革命の再検討

   8、ソボレフの反独占理論

   9、各国共産主義運動の相互関係

  10、ハンガリア問題をめぐる論争

 

 1、歴史的な経過

 

 第二○回大会は国際理論戦線に一つの新しい時代をきりひらき、一時その創造性を弱めていたマルクス主義理論に生気を吹きこんだ。もちろん、この時代にはじまったばかりであり、多くの問題がまだはげしい討論のるつぼのなかで熟せられているが、日本のマルクス主義理論戦線も、この国際理論戦線の活発な展開からもっとも大きな影響をうけ、それを直接とりあげがら徐々に新しい胎動を示しはじめているので、本書においても、とくにこの国際的討論の経過をふりかえり、その成果を整理することが必要となる。

 

 第二○回大会後五六年末までの国際的な革命論争は、大きく三つの段階にわけることができる。

 第一段階は大会からコミンフォルムの解散をへて、アメリカ国務省による秘密報告のぬきうち発表までの約三カ月間であり、この時期には、大会で提起され個々の命題、たとえば社会義への移行の諸形態や革命の平和的発展の可能性などの解明が前面におしだされ、そのわくをこえた全面的な展開は、まだおこなわれなかった。スターリン批判についても、衝撃は大きかったが、全貌が明らかにならなかったために中国共産党の発言をのぞいてはみるべきものはなかったし、東欧諸国でもためらいがちの若干の訂正や転換がおこなわれたにとどまった。この段階は文字どおりの論争の序幕であった。

 

 第二段階は、フルシチョフ秘密報告の公表以後の約四カ月間である。六月二八日のポーランドのポズナン暴動は、東欧人民民主主義諸国の内部に起きつつある国民感情の変化の最初の徴候を示していた。ともあれ秘密報告によって二〇回大会における自己批判と転換がもつ意義がより深刻にとらえられるようになったが、この光のなかで第二段階の討論はいくつかの特色をあらわしてくる。その一つは、トリアッティの問題提起に端を発して、ソ同盟における個人崇拝の誤りの根源についてのマルクス主義的分析をめざす国際的な論争が開始されたことであり、いま一つは、第二〇回大会を出発点とする各国共産党の理論と政策の面における大胆な前進が開始されたことである(この時期には、アメリカ共産党全国委員会拡大会議(五・六月)、イタリア共産党中央委員会(六月)、中国共産党の八全大会(九月)、フランス共産党第十四回大会(七月)など重要な会議が開かれた)。

 

 ポーランドにおけるゴムルカ政変とこれにつづくハンガリアの暴動は、国際理論戦線の上でも一期を画するもので、ここから第三段階がはじまった。この時期の特徴は、人民民主主義諸国の政策の根本的な改革が日程にのぼり、それを背景として、社会主義諸国間の相互関係、各国共産主義運動の相互関係、ソ同盟にたいする態度、チトー主義の評価などの問題が中心におしだされてきたことである。そして、これに関連して、新しい形での清算主義や修正主義との闘争が大きく日程に上ってきたことも、この段階の重要な特徴の一つであった。

 

 これらの段階をつうじて各国共産党の内部におきたすべての反響や変化を跡づけていくことは、この書の課題をこえるが、ここでは、わが国に紹介された論文や報告のなかから、日本の革命理論にも重要な影響をもつ問題点のみをいくつかひきだして、その問題点をめぐる国際的討論を紹介・検討することとしたい。

 

 2、革命の平和的発展をめぐって

 

 議会をつうじての平和的発展の可能性についての第二○回大会の決議は、前章でものべたように実践的には新らしい問題提起ではなく、イタリア・フランス・イギリス・アメリカなどの共産党の政策や経験にもとづいてこれを理論的に総括したものであった。しかし、これまでは、政策として個々に平和的発展の方針がとられてはいたものの、深く理論的に究明する仕事はあまりおこなわれていなかったため、大会の決議を出発点として、この方針をより明確にし、より深刻にしあげるための活動が各国で一せいに開始された。なかでも、アメリカ共産党のフォスターとイタリア共産党のトリアッティの功績は大きかった。

 

 フォスターが機関誌『ポリティカル・アフェアズ』の四・五月号に連載した論文『社会主義への道』(『国際資料』二七・二八号訳載)は、フルシチョフ演説の数日前に書かれながら、社会主義への平和的移行の可能性について基本的に同一の結論に達しているだけではなく、部分的にはより詳細な基礎づけをふくむ力作であった。これは『共産党とその指導者を弁護して』(四九年)・『人民戦線と人民民主主義』(五〇年)などの著作で展開した理論をさらに発展させ、現在の資本主義諸国ならびに植民地諸国の諸共産党の基本戦術を総合的に概括しようとしたもので、人民民主主義革命の戦術を一九三五年の人民戦線戦術の直接的な発展として把握する点に、独特の特徴をもっていた。フォスターは、人民戦線戦術の基本的内容はつぎの三点にあったとして、それをそれぞれ戦後の情勢の下で発展させ、社会主義への平和的移行の見とおしを基礎づける。

 

 () ブルジョア憲法のもとで人民戦線政府を選出する闘争―すくなくとも男子普通選挙権があり、ある程度の民主主義が存在している資本主義諸国では、一定の政治的危機が成熟すれば、現在のブルジョア憲法のもとでも、広範な人民戦線を基礎として議会内の多数を獲得し、人民戦線政府を樹立することができる。

 

 () 「防御から逆襲」に移行する必然性―この人民戦線政府は、危機の圧力のもとでは、ブルジョアジーの必死の攻撃をおさえつつ、逆襲に転じて人民戦線綱領から社会主義の綱領へ前進する「左むきの政策」をとることがさけられない方向となってくる。さもなければ、外部からの資本家の直接の攻撃と内部からの腐敗によって政府は打倒されてしまうだろう。この左むきのコースは、人民民主主義権力=社会主義権力への転化の過程であり、この過程にはブルジョア的憲法の社会主義的憲法への合法的平和的改正と民主的方法によるブルジョア国家機関の社会主義的改造がふくまれている。これは、武力によって国家機関を粉砕するのでなく、もっと長びいた民主主義的改造の道であり、マルクスとレーニンが強調した「国家の破壊」の今日でのあり方である。

 

 () 反動の暴力と抑制と打破―人民戦線政府の樹立と社会主義への前進にたいして、資本家反動が反革命暴力をもってむかってくることが当然予想されるか、この暴力をうちやぶると同時にまえもって抑制するため系統的努力をはらうこと、とくに政府の樹立後は「人民の名において」国家権力をもちいて合法的に抑制(鎮圧)政策をとることが可能かつ不可欠である。

 

 フォスターはこうした基本的分析のうえに立って、世界各国の共産党の戦術を概括し、「ヨーロッパから日本にいたる資本主義国の主要な共産党」がすべてこうした社会主義を目標とした人民戦線政策をとっているとし、「民主的自由が存在しない国々」を例外としたが、しかも植民地・半植民地でも「共産党とその同盟者がきびしい情況のもとで最善をつくして、総選挙にもとづく人民戦線および民族戦線政府の樹立のために闘っている」ことをつけくわえている。

 

 右のようなフォスターの理論は、共産党の暴力主義についての反動のデマゴギーをうちやぶり、現在の諸情勢のもとでの革命の平和的民主主義的発展のより具体的なプランとコースを彫りあげたもので、国際的にもきわめて重要な指導的論文としての地位を占めるものといえよう。しかしこの見解のなかには、敵の狂暴な攻撃にさらされて孤立し非合法化に直面しているアメリカ共産党の状況を多少反映して、現行の「アメリカ憲法の枠内での革命」のコースにとらわれたあまり、若干の問題点が残されているように思われる。というのは、(1)社会主義への平和的移行を保障する本質的な諸条件が、第二次大戦後、社会主義が世界体制になった時期以後生れたのではなく、戦前の人民戦線運動の時代にすでに生れていたかのように主張している点、(2)人民戦線政府樹立の見とおしが一般的な分析のうえに基礎づけられ、アメリカの情勢の具体的な分析がともなっておらず、この闘争そのものが、独占資本の組織的暴力にさらされており、民主的自由を圧殺するための必死の攻撃が現におこなわれている事実、議会的方法が不可能になる可能性も一方においては存在する事実が正当に強調されていない点、(3)人民戦線政府の社会主義権力=プロレタリア独裁への転化の過程は、たんなる漸進的な、憲法のわく内での量的転化にとどまらす、どういう形態であれ大きな質的な変革があると考えられるが、その内容がまだあまり明確になっていない点など、右翼的な一面化の危険が残されているからである。

 

 このようにフォスターが一般的・理論的にこの問題を究明しようとしたのにたいし、トリアッティは、これを現実のイタリアの政治情勢が要求する課題と直接むすびつけて分析し、戦後一〇年間の経験と成果のうえに社会主義へのイタリアの独自な道の見とおしを仕上げる一連の論文を発表した。ここではトリアッティがこの分野で新たにつけくわえた功績を概略紹介するにとどめたい。

 

 トリアッティの第一の功績は、社会主義への平和的移行の基礎を明確にしたことである。すなわち社会主義への道という問題が新しい態度でとりあげられ、議会を決定的な社会変革の手段として利用することが可能となったのは、第一には、数十年にわたる労働者階級の闘争と勝利によって、社会主義諸国の広範な体制の創造と世界支配体制としての植民地主義の動揺がもたらされ、その結果「全世界の客観的機構の変化」が生まれたという国際的条件と、第二には、社会主義へのはっきりした見とおしと綱領をもった大政党を先頭とする強力な労働・社会主義運動が存在するという国内的条件とによるものであるとして、これを忘れてこれが以前から可能であったと考える傾向を完全な日和見主義として批判した。

 

 第二の功績は、議会が本来もっている「人民の代表機関」と「国家の指導機関」という二つの側面について具体的な分析をあたえたことである。第一の側面は、民主主義運動の発展とともに強化され、比例代表制のもとでもっとも完全な発展をみるものであるが、かつては「資本主義体制を組織し強化する道具」であった議会が今日では「社会の社会主義的変革をめざす諸政党の手中の有力な武器」になりうることはブルジョアジーを理解しはじめ、議会のこの側面にたえざる攻撃をくわえていること、第二の側面もまた、ブルジョアジーによって縮小されつつあり、行政権力が独自に時には議会の決定に反してまで勝手に問題を解決する場合がふえているが、労働者諸政党は議会にますます大きな意義を認めるようになり、これを「扇動の演壇」として利用するにとどまらず政府の諸提案を勤労者に有利に変更させることのできる立場にあることが解明された(なお平行して地方自治体の意義と役割も解明された)。

 

 第三の功績は、一般的見とおしに甘んじないで、社会主義への移行のために議会を利用することが可能となる条件を分析し、そのための闘争の目標を明確にしたことである。すなわち、世界情勢の根本的変化という背景のもとに、(1)議会が真に国の「鏡」となるような民主的選挙制度(広範な普通選挙権と比例代表制)の実現、(2)社会主義諸政党の強化と国民にたいする決定的影響力の確保、(3)これらの政党の行動の統一を軸とした広範な政治勢力との協力の確立、の三つの条件をかちとらなければならないとされた。

 

 第四の功績としては、さまざまの社会主義諸政党の協力が、たんに第二〇回の大会でのべられたように当面の平和をまもるために可能であるばかりではなく、この協力を社会主義への移行とその建設の過程でも維持することが可能であること、そればかりか旧植民地国でも資本主義国でも、共産党以外の諸党派の指導のもとに社会主義への前進がはじまる可能性さえあることを分析し、平和的移行の基礎の広大さを示したことをあげることができる。

 

 最後に、トリアッティの第五の功績として、平和的発展の見とおしを絶対化したり、イタリアの社会主義への道を即議会をつうじて道と断定したりする右翼的傾向にたいして一貫してたたかったことをあげなければならない。初期の論文でも、議会をつうじての移行はいくつかの条件が実現した時にはじめて期待される見とおしであり、ファッショ的諸党派が支配的グループのなかで優位をしめるようになればこの見とおしは変更されなければならないとのべていたし、六月の中委報告では「イタリアの道」を「議会の道」と同一視する傾向を批判して「イタリアの道とはすでに実現された条件とすでに獲得された勝利を考慮にいれた社会主義への発展の道である」として一面的な固定化をいましめたが、さらに七月のオノーフリとの論争(後段参照)ではこの傾向にたいして全面的な批判を加え、いかなる資本主義国にも平和的発展の十分な保障は存在しておらず、頑強で不誠実な階級敵はぬかりなく準備しているし、われわれが確保しているのは平和的な発展に役立ついくつかの重要な条件にすぎないことを指摘して鋭い警告を発した。このように資本主義諸国のなかではもっとも強力な組織と広範な影響力をもっているイタリア共産党が、平和的発展の問題についてもっとも慎重な態度をとり、現実の地盤から一歩も足を踏みはずさず少しでも飛躍した一般化におちいることを極力警戒しているのは、前のフォスターとくらべてまことに教訓的であった。フランス共産党書記長モーリス・トレーズもまた、平和的移行と議会の利用にかんしては、トリアッティ同様慎重な分析をおこなっている(『ソ同盟共産党二〇同大会のいくつかの主要な問題』―『恒久平和』五六年四月六日号)。権力問題を日程にのぼせうる実力をもつ共産党ほど、国民にたいするきびしい責任から慎重な分析が要請されるからであろう。

 

 以上に要約したトリアッティの立論は、実践的・現実的分析という点で終始一貫しているが、われわれが日本革命の平和的発展を論ずる場合にも、このトリアッティの現実的態度に多くを学ばなければなるまい。なお、平和的発展の理論のうえで独特の意義をもつものとして、ファシズム独裁のもとにあるスペイン・ポルトガル両国共産党が四月に発した宣言にふれる必要がある。これはファシズム独裁を平和的手段で廃止して民主主義体制を回復する可能性があることを宣言したもので、これが『アカハタ』で報じられた時ここから平和的発展の道がいついかなる場合でも可能であるという早急な結論をひきだした論者も一部にあった。しかしその後紹介された『内乱二〇周年にさいしてのスペイン共産党中央委員会の声明』(『世界政治資料』八号)とエンリコ・リスター『ファシズム下のスペインにおける民主主義的政府樹立の平和的な道』(『国際資料三〇号)によれば、この方針は、ファシズム独裁が事実上崩壊と解体にひんしている特殊な政治情勢が、平和的変革の可能性をうみだしたことを分析したもので、ファシズム独裁のもとで一般的に平和的な改革が可能だとしたものではないことが明らかにされた。

 

 3、個人崇拝の根源をめぐる論争

 

 第二〇回大会がスターリンの個人崇拝をはじめて公然と非難した事実は、当然各国共産党に大きな反響をよびおこしたが、「秘密報告」の全貌が公表されるまではほとんどの党が大会の決議をそのまま肯定する立揚をとり、アメリカのユージン・デニスがこれをアメリカ共産党自身の問題としてうけとり、これまでソ同盟の発展の評価についてある種の一面性におちいっていたことを自己批判した以外はまだ特筆すべき発言はみられなかった。

 

 ややおくれて大会の一カ月後に中国共産党が、論文『プロレタリアート独裁の歴史的経験について』(第三章注1を参照)を発表したが、この論文はソ同盟における個人崇拝の誤りの性格と根源をマルクス主義的に分析しようとする最初の試みであったといえよう。論文は、第一に、プロレタリアート独裁の事業で多くの誤りがおかされるのはさけられないことだが、重要なことは「誤りを個々の局部的な一時的な範囲内にとどめ」これを「全国的な長期にわたる重大な誤りにたちいらせないようにすること」であり、スターリンの個人崇拝の害悪はこれをさまたげて社会主義の事業に重大な打撃をあたえたことにあると指摘し、第二に、この個人崇拝は、もちろんスターリンの個人的資質と結びついてはいるが、本質的には、搾取階級と小生産者に基礎をもつ、くさりはてた思想が、「幾百千万の人々の習慣の力」として生きのびスターリンをもとらえたものと理解すべきであり、個人崇拝の克服の闘争は社会主義社会にある進んだものとおくれたものとのあいだの矛盾にほかならぬと論じ、第三に、スターリンの評価については「偉大なマルクス=レーニン主義者であったが、同時にまた、いくつかの重大な誤りをおかしながらその誤りを自覚しないマルクス=レーニン主義者であった」と特徴づけ、歴史的観点にたってかれの正しい点とあやまった点を全面的に適切に分析すべきだと主張した。その論調は全体が広い歴史的視野と原則的理解に貫かれ、ほとんど独力で中国革命を指導してきた中国共産党のぬきんでた水準と、すでに十数年前に個人崇拝との闘いを開始し、「大衆路線」という集団指導の中国的方式を実現した経験が如実に示されていたが、秘密報告の公表以前という事情も反映して分析が具体性を欠いていたことは否定できない。

 

 フルシチョフ秘密報告の公表はこの論議を新しい段階におしすすめた。秘密報告によって誤りの全貌が明るみにだされるや、イタリア・フランス・イギリス・アメリカなどの共産党はソ同盟共産党に正式発表を求めるとともに誤謬の責任をすべてスターリン個人に帰することは誤りであり、その原因の科学的究明が必要であるとするかなり烈しい内容の声明をあいついで発表した(『世界政治資料』一号および大月書店刊『スターリン批判と各国共産党』参照)。

 

 その科学的究明の一つの試みはまずトリアッティによって提出された。六月中旬、雑誌『ヌーヴォイ・アルゴメンティ』(五・六月号)に掲載されたアンケートにたいする長文の回答で、党書記局の検討をへたものである(『社会主義的民主主義の問題と社会主義的民主主義の発展』―『中央公論』臨時号および前掲『スターリン批判と各国共産党』所収)。外国の共産党からソ同盟共産党にたいするきびしい批判論文が公表されたのは、ユーゴの場合をのぞいてはおそらくこれをもってこうしとするであろう。いずれにせよコミンフォルム解散後、相互批判と協力という共産党相互の対等の新しい関係が、すでに作り出された事実をはっきりと示すものであつた。

 

 トリアッティ論文の難解な広範多岐にわたる論旨を要約することは不可能に近いが、われわれにとってもっとも重要と思われるいくつかの論点を、個人崇拝の根源の問題にかぎってあえて要約して示せば――

 () 誤りの性格と規模―スターリンの個人的権力の集積によって民主的な生活・活動の官僚主義機構による制限が生まれたが、この権力の集積は「国家と党の指導諸機関の頂点」に集中した部分的なもので、ゾヴェト社会の基本的骨組はおかされなかった。しかし「ソヴェト社会の指導的幹部の大部分」が個人崇拝におぼれ、批判的・創造的能力を失っていたこと、人民全体が個人崇拝を誤りとみなさなかったことは誤りの深刻さを如実に示すものである。

 

 () スターリン批判の性格と結果―批判が下からでなく「上から出た」ことはこうした事情から当然であるが、今後広大な国民を再教育することは長期にわたる活動によってはじめて可能となる重要な課題である。これによってソヴェト政治制度の本質的変更、たとえば多数政党制の採用などが起ることはけっしてありえないが、民主主義的発展の新しい過程は当然予想されるし、現に経済指導の広範な分権化などの一定の制度的変更はおこなわれつつある。

 

() 誤りの原因と共同責任―これまでの誤りのすべての原因をスターリンの「個人崇拝」に帰することはできず、誤謬が生まれ発展し長期にわたって存続しえた原因と条件をマルクス主義的に解明することが必要だが、ここからは当然「今日非難ならびに訂正のイニシアティヴをとってきた諸同志をふくむ政治的指導者グループ全体の共同責任の問題」が生ずる(トリアッティはみずからくわしく個人崇拝を生んだ歴史的事情を分析している)。

 

 トリアッティの問題提起につづいて、アメリカ共産党書記長ユージン・デニスは論文『第二〇回大会とスターリン批判』(『デイリー・ワーカー』五六年六月一八日―『プラウダ』五六年六月二七日――『アカハタ』五六年七月六〜八日号)を発表し、誤謬を生んだ歴史的情勢を分析しつつ「スターリンの指導の後期を汚した犯罪と残虐は……どんな歴史的・政治的『必然性』をもち出して弁護できないものである」と断言し、さらにトリアッティと同様に「今日のソヴェト指導者にかんする問題」を提出した。

 

 つづいて、フランス・ノルウェー・スウェーデン・イギリス・ベルギー・オーストリア・オランダ・インドネシア・フィンランド・ドイツ・カナダなどの各国の共産党が声明を発表した。それはソ連を今なお孤立させている責任をフランス・イタリア共産党に問いつつ、「ソ同盟自身に自分の汚れをあらわせたらよい」としオランダ共産党をのぞいては、ほんどすべてがトリアッティの意見を支持するものであったが、積極的な分析の試みはなかった。ただフォスターが個人崇拝の歴史的基礎として、ソ同盟の歴史的諸事情の分析とともに、旧ロシアがおくれた国家であり民主主義的伝統が欠けていたことをあげ、指導者の共同責任についても後期にはスターリンとの闘争がきわめてむずかしかった事情の例証として、その闘争をおこなったチトーが、社会主義諸国間の「被害甚大な分裂」という結果を招かざるをえなかった教訓をあげていたのが注月されただけであった(『スターリンにたいする個人崇拝』―『デイリー・ワーカー』五六年七月二日―前掲『スターリン批判と各国共産党』所収)。なおこの論争に人民民主主義諸国の共産党が参加せず、ソ同盟声明が発表されてはじめて支持を声明したこと、日本共産党もまたこの論争の埒外にいたことをつけ加えておこう。

 

 以上のような各国共産党の声明ならびに論争にこたえて、ソ同盟共産党中央委員会は『個人崇拝とその諸結果の克服について』と題する決議を『プラウダ』(五六年七月二日)に掲載した(『アカハタ』五六年七月四〜五日号)。

 

 決議は、ブルジョア新聞の反ソ宣伝の意図をばくろするとともに、他方「海外の一部の友人たちがまだ個人崇拝とその諸結果について十分理解せず、ときによって個人崇拝に関係ある若干の問題に不正確な解釈を加えている」と批判して、つぎのような見解をのべた。

 ()個人崇拝は、全帝国主義世界の反ソ侵略の危険の増大、とくに一九三三年以後のドイツ・ファシズムの勝利後の複雑な内外情勢のなかで社会主義への闘争をおこなううえに「もっとも厳重な指導の中央集権化」と「民主主義にたいする若干の制限」が必要となった歴史的情勢のなかであるターリンの個人的欠陥とべリヤの犯罪的集団の活動の結果生まれたものである。

 

 ()中央委員会内には個人崇拝に反対するレーニン的指導中核がきずきあげられており、戦時中のある時期にはスターリンの個人的行動と専制支配に大幅な制限を加えた。しかし、この中核が、スターリンに公然と反対することができなかったのは、第一に、社会主義の成功がすべてスターリンに帰せられていた状況のもとではスターリンに反対するいかなる行動も国民の支持をうけられなかったこと、第二に、多くの犯罪の事実が当時はまだ知られていなかったことによるものである。

 

 (3)したがって、「個人崇拝の根源をソヴェト社会制度の本質に求めようとしたりするのは大変なまちがいであり、トリアッティのように「ソヴェト社会が『一種の改革』に面しているかどうか」という問題を提起する根拠はない。ソヴェト民主主義は偉大な発展をとげてきたし、個人崇拝一掃の大たんな問題提起は、「ソヴェト社会主義制度の力と生命力の最善の証明である。」

 

 この決議による回答は必ずしもトリアッティ論文の焦点と十分にかみあったものでもなかったし、とくに「共同責任」の問題については個人崇拝がこれに反対することが不可能になるほど深く根をおろしてしまう前に、これを矯正する闘争をおこしえなかった主体的条件についての説明を欠いていたが、「秘密報告」の主な欠陥を一応は補う内容をもっていたため、これを受けとった各国共産党の態度いろいろちがっていたものの、約一カ月にわたる論争をひとまず終結させる役割をはたした。しかし実は問題の真の焦点は、『プラウダ』が答えた歴史的事情や共同責任の問題だけにあったよりもむしろ、各国共産党が不満と抗議をもらした事実、「秘密報告」を米国務省から発表されてはじめて知ったという事実にあったことが、その後の諸事件の発展によって明瞭となった。コミンフォルムの構成員たるフランス・イタリアの共産党さえ「知らない事実」とのべたことは、スターリンの個人崇拝の克服の方法にかんする基本方針について、コミンフォルムの構成員たる共産党のあいだでさえ準備討議と意見の一致をはかることなしに、突然「秘密報告」がおこなわれた事実を明らかにした。こうした方法は「秘密報告」の内容が、スターリンの誤謬のみに照明を集中し、功績と誤謬との正しい関係と比重を明らかにしていなかったことと結びついて不可避的に各国共産党を困難な事態に直面させることとなり、とりわけ若干の東欧人民民主主義諸国の内部に危険な政治的危機を成熟させる役割さえ果しつつあったのであった。

 

 その後、ハンガリア事件やチトー主義をめぐる論争に関連して、中国共産党がスターリン批判にかんする一つのしめくくり的な評価を発表したのは注目に値する(五六年一二月二九日『ふたたびプロレタリアート独裁にかんする歴史的経験について』―『アカハタ』五六年一二月三〇日号)。この論文は、スターリンの誤りは社会主義制度に根ざすものではなく正しい基本的制度のもとでの「経済・政治制度の若干の環における欠陥」として理解すべきこと、全体としてのスターリンの生涯は「偉大なマルクス=レーニン主義的革命家の生涯」であり、その誤りはその業績にたいして第二義的なものであることを強調し、「スターリン主義」との闘争という旗のもとに一部の共産主義者のあいだで清算主義的傾向が力をえていることに警告を発していた。

 

 4、プロレタリア独裁理論の再検討

 

 トリアッティは、六月の中央委員会での報告のなかで、一方では革命の平和的発展と社共の協力という見とおし、他方ではソ同盟における個人崇拝の根源についてふれながらここから出てくる問題としてプロレタリア独裁理論の再検討という問題をも提起した。すなわち、これまで一つの傾向としてソ同盟で実現されている形式や特徴をプロレタリア独裁の典型的なものとして一面的にとらえる傾向が存在していたことを指摘し、ここであらためてこの理論全体を見なおしてみる必要があるとして、つぎのように論じた。

 

 () プロレタリア独裁の理論の一部をなすものは国家の階級的性格の肯定、具体的には社会主義社会を建設するための労働者階級の指導権の承認である。そして、この指導が旧支配階級の残存にたいし圧倒的多数の人民の利益において実現されるという事実から、プロレタリア独裁の民主的性格が生じるが、社会主義の完全な勝利にいたる過渡期にはさまざまな諸段階がありうるし、したがってまた民主的発展のさまざまな形式がありうる。

 

 (2) この理論の一つの内容は、ブルジョア国家機関の粉砕とプロレタリア国家による代置というテーゼであるが、社会主義へ前進するために議会的形式を利用することができるとすれば、このテーゼにいくらかの訂正をくわえねばならない。

 

 (3) プロレタリア独裁の制度における権力行使の形式についていえば、ロシアで実現された形式はけっして他国の模型とはならず、社会主義社会におけるさまざまな諸政党の共存と協調の可能性、さらには諸政党の消滅そのものさえ考えられる。

 

 この問題提起は、プロレタリア独裁を労働者階級の政党による政権の占有として理解し、一党制度とソヴェト形式を典型的なものと考えがちだったかたくなな国家理論に根本的な反省をくわえ、民主的性格を最大限に発展させつつ社会主義への移行をかちとるプロレタリア独裁の形式を探求しなければならぬことを示唆したものであった。この問題は論争としては発展しなかったが、前章にのべ中国共産党の八全大会によって、実践的な解答があたえられたとみてよいであろう。

 

 なお、こうした再検討のなかで忘れられかねない基本問題、搾取階級の抵抗を抑圧し、粉砕する「敵にたいする独裁」の承認が、ハンガリア事件に際し改めて強調されたことを見落してはならない。

 

 5、インド共産党の新路線

 

 五五年六月の歴史的な中央委員会決議(第三章注20参照)で画期的な政策転換をおこなったインド共産党は、第二〇回大会後の四月に第四回大会を開催し、政治決議および『当面の綱領−国家の再建と独立のために』(『世界政治資料』四号)を採択した。政治決議は注意ぶかい現状分析を基礎として、(1)現在のネール政府は「ブルジョアジーがその指導勢力となっているブルジョア=地主政府」であり、「その政策はインドを独立した資本主義的な方向に発展させたいという願望によって動機づけられている」と評価して以前の「ネール政府打倒」のスローガンをとりさげ、(2)民主戦線建設のための闘争の基本政策はブルジョアジーとの「一面統一・一面闘争」の極度に柔軟な政策、すなわち平和と独立をめざす外交政策と国の工業化をめざす政府の進歩的諸政策を支持する闘争と、外国資本と独占資本に譲歩し、人民の弾圧をめざす反人民・反民主主義的諸政策を破棄する闘争と正しく結びつけることにあるとし、(3)民主戦線の統一の方向は会議派との無条件の統一でも反会議派戦線でもなく、会議派内の民主勢力を強め、民主的野党を強化するような「左翼化のための統一」であると主張した。(4)決議はさらに「インドが政治的自由を獲得したこととブルジョアジーがインド国家で指導的地位をしめたことは、インド革命の基本目標と基本戦略をかえるものではない」として五一年の綱領の反帝・反封建の基本任務の正しさを再確認したが、同時にイギリス独占資本の没収のみにとどめていた前綱領と違って新たに政治経済における独占資本の地位を弱め、重要基幹工業を国有化することをかかげ、()民族ブルジョアジーをふくむすべての民主的階級を包含し、労働者階級に指導される人民民主主義政府の樹立」によって、「民主主義革命の任務を完遂するばかりではなく、また国家を社会主義の軌道にのせる」ことを基本的な目標としてさし示した。

 

 インド共産党の新方針は、民族ブルジョアジーの指導する国家的独立と国の資本主義化の進行過程におかれている旧植民地諸国において、共産党のとる基本方針の一つの指標となるべき創造的な成果とみなすべきであろう。これはまた日本の革命理論にとっても、インドとの情勢のちがいについてはいうまでもないが、当面の民主主義的任務と反独占の任務との結合、あるいは二面的性格をもった政府にたいする態度などは、多くの学ぶべき点をもっているといえよう。

 

 6、戦後の運動の評価をめぐって

 

 新しい視野に立ってより正確な方向づけを求めて大胆な前進が開始されると同時に、戦後の運動と理論と政策の再検討が日程にのぼってきたのは当然の成りゆきであったが、この面でもっとも包括的な問題提起をおこなったのはアメリカ共産党であった。同党では五七年二月に予定されている党大会をめざして、政策の全般的再検討と新しい方針の仕上げをめぐって烈しい討論が続けられている。その出発点となったのは四月二八日の全国委員会拡大会議におけるデニス書記長の報告で、それはその大半を「党活動の批判的検討」にあて、戦後の活動のなかにあった情勢評価の誤りとしてつぎの三点――(1)戦争の危険の切迫、(2)ファシズムの危険、(3)経済恐慌の切迫――の過大評価をあげた。その結果として、労働組合の統一にかんするセクト的政策と、四八年の進歩党の結成という二つの重要な誤りをはじめとする戦術的誤謬が生まれたとデニスはのべ、四五年以来のアメリカ共産党の誤りの大部分は「主として左翼セクト主義的性格のものであった」としたのである。さらにデニスはこれまで共産党がアメリカのさまざまな社会主義的潮流やマルクス主義的集団にたいしてもセクト主義的態度をとってきたことを反省したうえ、将来さまざまの社会主義的潮流が合流して「真のマルクス主義的原則にもとづいた幅広い大衆的社会主義党を組織する」可能性があり、共産党の活動はそのための「前提条件の一つ」であるという重要な断定を提出した。

 

 その後きわめて活発な党内討論をへて、九月二二日の全国委員会は大会に提出する「決議草案」(『中央公論』五六年一二月に一部抄訳)を可決したが、はじめに「条件付賛成」を投じた全国委員長フォスターは、のちに「反対」に態度を改め、機関紙『ポリティカル・アフェアズ』(五六年一〇月号)で、決議は戦争とファシズムの危険を過小評価し、党の業績は過小に反対に欠陥は過大にみたデニス報告にくらべれば若干改善されているが、基本的にはそれと同一の欠陥をもち、マルクス=レーニン主義を修正するものであるとして、はげしくその右翼的傾向を批判した(『党内の情勢について』―『世界政治資料』一一号)。フォスターは「新しい社会主義大衆政党」の問題についても、「可能性を心にとめておくべきであるということは原則として誤りではない」が、現在このスローガンをもちだすことは解党主義を強めるものであるとして批判し、全面的修正を要求した。デニス書記長は、草案は情勢の新しい変化を正しく評価した「基本的に正しいもの」としてフォスターを反批判している(『決議草案の討議のために』―『世界政治資料』一一号)。アメリカ共産党の戦後史のなかで全国委員会内部にはじめて起った重要な対立であるだけに、五七年二月の全国大会の結果が注目されている。

 

 これに関連して、イタリア共産党機関誌『リナシタ』誌上で、トリアッティと中央委員オノーフリとのあいだに戦後の運動の評価をめぐって論争が闘わされたことも重要な意義をもっていた(『世界政治資料』九号)。オノーフリは、コミンフォルム結成とともに、イタリア共産党は「社会主義への民主主義の道」を放棄したと主張し、四七年のジダーノフ報告にあらわれた戦争の危険の過大評価にみちびかれて前進から後退に転じたのは決定的誤謬であり、それ以後党は積極的な政策を失って待機主義の立場へ転落しつづけたとして、四七年以降の政策の全面的訂正を主張した。これにたいしてトリアッティは、オノーフリの立場は原則にも事実にももとづかない「無責任な敗北主義」であるとして一つ一つ事実をあげて反駁したのち、現在「きわめて貴重な過去のいっさいを破壊し、否定しようとする」危険な清算主義的傾向があらわれており、こうした敗北主義はただちに撃退しなければならないと警告し、この危険な傾向の根源はスターリン批判の誤った方法にあるとつぎのようにのべた。

 

 「全面的にはうけいれることもできなければ、全面的には正しくもない、スターリン批判のやり方と同志たちへのしらせ方とがあらゆるもの、あらゆる人を否定的・破壊的に批判するという危険な傾向を生みださずにはおかなかったからである。こういった種類の批判からは、かつていかなる政党も利益をひきだすことができたためしがない。」

 

 このトリアッティの警告は、スターリン批判以後、過去の評価にかんしておちいりがちな清算主義にたいするきびしい警告であると同時に、ソ同盟共産党にたいする再三の批判であり、この二つの意味で国際的に重要な発言であった。

 

 デニス報告やオノーフリ論文に盛られた内容は、戦後の国際情勢についてのコミンフォルムの諸決議への批判をもふくんでおり、われわれにとっても無縁なものではない。いずれにせよ第二〇回大会後、セクト的傾向の克服の過程で各国共産党の内部に新しい危険として程度の差はあれさまざまの右翼的な修正主義的傾向が成長しつつあることは、注意すべき現象であろう。

 

 7、人民民主主義革命の再検討

 

 東欧の人民民主主義革命のように、革命が基本的には完了した後にその性格と発展についてさまざまの解釈がくだされ、長期にわたって論争された革命はめずらしい。この点についてはこれまで、この革命をうみだした情勢の複雑さと、民族的・民主主義的・社会主義的諸任務をからみあったまま解決せねばならなかった革命発展の特殊性とにその説明が求められていたが、第二〇回大会とその後の発展は、人民民主主義革命をまったく新しい角度から再検討することを必要にした。

 

 第二〇回大会直後、東欧各国の共産党では三月から四月にかけて一せいに中央委員会がひらかれ、それぞれ大会からの教訓ひきだしたが、ここではソヴェト同盟の政治的・理論的影響がもっとも強く、ユーゴ問題での一致した行動や「チトー主義分子」の粛正にみられるようにスターリンの個人崇拝から直接重大な損害をうけていたうえ、スターリン批判が理論的転換を意味するだけでなく国民の全生活の政治的転換とただちに結びついていたため、各国指導者の自己批判も痛苦にみちたものであったし、かなりの混乱をもまぬかれえなかった。ソ同盟共産党がスターリン死後ただちに集団指導体制をとり、事実上の個人崇拝との闘争を開始していたのに反して、大部分の東欧諸国ではコースの転換が第二〇回大会後、はじめて日程にのぼらされたことは、この混乱の大きな原因となった。

 

 各中央委員会での報告の中で注目される項目をまとめると――

 () それぞれの国の人民民主主義革命の経験の総括――四九年以来理論化が進められていた総括が、第二〇回大会であたえられた新しい方法論的見地に立脚して、共通な歴史的基盤に立ちながらもそれぞれの国の民族的特徴をいっそう考慮した定式化と独自な発展の見とおしが与えられた。しかし、ここでは主として過去にすすんできた道の解釈と定式化にとどまり、今後の発展についての大たんな問題提起はなされなかった。

 

 () 戦後の粛清の自己批判――ユーゴ問題に関連して一せいに各国でおこなわれたチトー主義者の粛清の自己批判と故人の名誉回復がおこなわれた。誤謬の理論的根源としては、スターリンの三つの一面的な命題、すなわち、(1)社会主義建設が進むにつれて階級闘争が不可避的に激化するという命題(モラフスキー・デジ報告)、()日和見主義はかならず帝国主義の手先に転化するという命題(オハブ報告)、(3)社会主義建設期における社会主義国家の第一の機能は抑圧機関としての役割にあり、教育的機能は社会主義の完全な勝利後にのみ発現するという命題(ノヴォトヌイ報告)の致命的影響が指摘された。なお粛清の自己批判の程度は、国によって一様ではなかった。

 

 () 個人崇拝の自己批判――若干の党では最高指導者の個人的責任についての自己批判がおこなわれた。これはフルシチョフ・ミヤンらの態度には欠けていたものである。指導者の自己批判の誠実さと責任のとり方の深浅の度合は、その後の各国の矛盾の克服過程に重要な影響をおよぼした。党の解散と指導者の粛清といういたましい犠牲の歴史をもつポーランドのモラフスキーのりっぱな態度と、自己の誤謬にはふれず地方指導者の独裁的傾向だけを非難したハンガリアのラコシの態度との対照、五二年来すでに部分的ではあれ個人崇拝との闘いを開始していたルーマニアのデジの確信にみちた態度と、故ゴットワルド大統領にたいする個人崇拝の傾向を指摘しながら「上からの自己批判が批判を発展させるより効果的な手段である」として主として中央委員会内の諸欠陥をとりあげたチェコスロヴァキアのノヴォトヌイの態度など、それぞれかなり重要なニュアンスの相違があった。しかし共通した特徴は、それがまだ欠陥や誤謬の部分的指摘にとどまり、戦後の革命の過程でおかされたすべての誤謬を再検討し、経済・政治・国民生活の各分野にあらわれており、少なくとも若干の分野では破局的な事態にまでおよんでいた諸困難を直視し、党と政府の活動の根本的転換をはかる決意に欠け、かえって批判や「民主化」のゆきすぎを主要な危険として警戒していたことである。この路線は、下からの民主化の運動にたいする指導機関の立ちおくれ、はなはだしい場合には旧体制を維持するための抑圧の強化をさえ生み、当然避けえたはずのポーランドのポズナン暴動やハンガリアの十月暴動のような矛盾の爆発を招き寄せたのである。

 

 ポーランドの「ゴムルカ政変」とハンガリア暴動は、人民民主主義革命の経過と現実をより深刻に再検討するという課題を、今後の前進のための不可欠の任務として前景におしだした。第八回中委総会(五六年一○月二〇日)や全ポーランド活動者会議(二月)におけるゴムルカの演説(『世界政治資料』九・一二号―『中央公論』五六年一二月)、暴動の過程で成立したハンガリアの新しい指導部のラコシ・ゲレ一派にたいする激しい告発は、この課題を果すための第一歩であったといえよう。

 

 これまでの日本の人民民主主義研究は、この革命をすべて一連の勝利の過程としてのみ描きだし、ただ発展の諸段階の規定づけにのみ主要な注意がはらわれていた。もちろんこれは日本の研究者だけの責任に帰せらるべきではなく、社会主義体制の研究における国際的に共通した欠陥であったが、今後は、人民民主主義の発展の過程でおかされた誤謬や欠陥などの否定的な現象の累積を大たんに研究し、とくに赤軍による解放とその後の「温室的」発展のなかで生まれた誤謬や困難や制約の研究によって、革命運動全体にとつての教訓をひきだすことが重要な課題となってくるであろう。

 

 8、ソボレフの反独占理論

 

 人民民主主義革命の再検討という問題にかんして、ソ同盟の専門家ア・ソボレフは、第二〇回大会後社会主義への移行の多様性という思想にもとづいて、その人民民主主義革命論の再整理と、現段階の社会主義革命の理論を創造的に発展させる仕事に精力的にとりかかった。これまでに紹介されたかれの論文は二つで、第一は『社会主義革命の平和的発展の諸問題』(コムニスト)五六年三号―『国際資料』二六号に抄訳)、第二は『資本主義から社会主義への移行のいくつかの形態について』(『国際生活』五六年五月―『世界政治資料』二号)であった。

 

 ソボレフは、ヨーロッパと中国における戦後の革命の重要な特質は、いちじるしくひろがった反帝・反封建・反ファッショ・反独占の「一般民主主義的闘争」が革命の「社会的土台」を戦前よりもはるかに大きく拡大した結果、社会主義的変革を近づけ、反帝・反封建の民主主義革命と社会主義革命とを「二つの別個な孤立した爆発ではなく、単一の力の連続的な革命過程の二つの段階に転化」させ、社会主義革命への移行を平和的に実現させた点にあるとする。かれはこの成長転化の階級的内容は、労働者階級とブルジョアジーとのあいだの闘争によるプロレタリア独裁の樹立であったが、ヨーロッパの人民民主主義国では四五年から四八年までそれが漸次的におこなわれ、中国においては中国の民族ブルジョアジーの特殊な諸矛盾と、中国労働者階級の民族ブルジョアジーにたいする正確な政策とによって、四九年中華人民共和国が樹立され瞬間に急激におこなわれたとして、おのおの詳細な分析をおこなった。

 

 さらにソボレフは、これらの戦後の人民民主主義革命の経験を生かして、現段階の資本主義諸国における社会主義革命の一般的理論を、「広範な反独占戦線」の思想を基軸とした新鮮な構想にもとづいて展開した。

 

 () 「現代資本主義の基本的傾向は、独占資本の経済力と政治的影響力がたえず大きくなり、国家独占資本主義が強まっていくこと」であり、独占の民主主義にたいする反動的傾向が強化されている。

 () その結果労働者階級の一般民主主義的任務はいちじるしくひろがり、民主主義的自由の擁護・平和の擁護・民族主権の擁護の闘争において、「広範な反独占戦線をつくるための現実的な政治的可能性」がつくりだされている。

 () すなわち現在労働者階級の前には「反独占」の原則のうえにたった労働運動の統一を実現し、「反独占を土台とした」農民との同盟、および小ブル・インテリゲンチャとの同盟を樹立する新しい現実的可能性があらわれている。これは社会主義的変革のための政治的軍隊となるであろう。

 () 独占ブルジョアジーがファシズム・クーデクーをおこす可能性はなくなってはいないが、国民の大多数が労働者階級のがわについていれば、これは困難となるし、したがって、議会をつうずる闘争の可能性が議会外の手段による闘争形態の可能性と同時に生まれつつある。

 () 社会主義革命の経済的内容をなす生産手段の社会化の道にも条件のちがいによって、(1)急速かつ決定的国有化の道、(2)漸次的な国有化の道、(3)国家資本主義を経過していく道などのさまざまな方式が生まれ、無償没収でなく「買いもどし」の手段も可能である。

 () したがって社会主義革命はその社会的本質と歴史的内容は同一でも、革命の発展の道、闘争の戦略と戦術、権力掌握の方式・経済的変革の方法・政治組織の形態は、国によってきわめてさまざまであり、その理論もまた新しい経験、新しい命題をくわえて豊富かつ多様となるであろう。

 ソボレフのこの理論はわが国の理論戦線をも決定的に方向づける役割を果しつつある(第六章参照)。

 

 9、各国共産主義運動の相互関係

 

 第二〇回大会後の発展のなかでしだいに焦点の一つとなった問題の一つに、各国共産主義運動の独立性の問題、より具体的にいえば各国の運動の相互関係、とくにソ同盟との関係さらには社会主義諸国間の相互関係の問題がある。スターリン批判の一つの重要なテーマとして、これが提起されたのはけっして偶然ではなかった。

 戦前の国際共産主義運動にあっては、各国の運動の自主性の若干の制限を生んだいくつかの事情が考えられる。

 

 第一は、第二インターの崩壊後、ブルジョア的=改良主義的影響から独立した強固な共産主義運動をつくりだすために、一定の時期までは厳格に中央集権的な国際組織が必要であり、そのなかで経験の豊かな点においても理論的水準においても群をぬいていたソ同盟共産党が当然、政治的=思想的に指導的地位につかなければならなかった事情である。この事情は各国共産党の成長とともにしだいに消滅し、三五年第七回大会における指導方法の転換をへて、四三年のコミンテルンの解散にまで発展していったのである。

 

 第二は、資本主義の包囲下にある史上最初の社会主義国家を擁護し、発展させることが国際共産主義運動全体の利益のために第一の喫緊事であったため、「無条件でソ同盟を擁護する」ことが国際主義の試金石とされたことである。この事情は、第二次大戦後社会主義体制の成立によって大きく変わってきた。

 

 第三は、スターリンの民族問題における偏向(第一篇第一章参照)と個人崇拝の結合が、独特の「大国排外主義」「ソ同盟第一主義」をうみだし、各国共産党の独立性・自主性を軽視する風潮も生んだことである。さきにあげた二つの事情から戦前の一時期に民族的自主性の一定の制限が課せられるのは歴史的にさけられないことだったが、スターリンの誤りはこの制限を必要以上に拡大し、ソ同盟の経験の機械的輸出や各国の民族的伝統の軽視などのイデオロギー上の誤りと同時に、組織上には一種の「従属関係」すらつくりだしたのである。

 

 第二次大戦中、各国共産党が民族解放闘争の先頭にたって国民的影響力を拡大したことは、コミンテルンの解散とも相まって各国の共産主義運動の独立した発展をいっそう促進したが、冷戦の激化とともにソ同盟で個人崇拝が強化されるのと平行して、ふたたび自主性を制限しようとする傾向、戦後の条件のもとではまったく誤った傾向が強まった。それは、一つにはコミンフォルムを運動の統一の機関から一種の国際的指導部にかえようとする傾向(これは実現しなかったが)、一つには人民民主主義諸国との相互関係で各国の主権を制限し平等の原則を侵害する傾向としてあらわれ、チトーとの闘争にその極端な表現が見出された。そして、コミンテルンが解散し、情勢が根本的に変化した後にも、スターリン崇拝の一種の変形としてソ同盟共産党の権威にたいする無批判的信頼が各国共産党に依然として強く存在していたために、この傾向は大きな力をえたのであった。

 以上が、国際関係の分野で大巾な転換を必要とした大まかな事情であった。

 

 第二〇回大会は、第三章でのべたように、この問題ではあまり明確な転換をおこなわず、これまでの誤りについても暗示的な自己批判にとどまったが、大会後、事態は急テンポで進んでいった。

 すなわち、各国共産党が「民族的な特殊性と条件に応じて自己の活動を展開する」必要を強調し、今後「相互の連繋と接触を確立する新しい有効な形態を見出す」ことに期待する声明を発して、九年間の活動をおえたコミンフォルムの解散(五六年四月十七日)、トリアッティによって「共産主義運動の異った区域のあいだにうちたてられる新しい関係であるべきものの模型」として評価された『ユーゴスラヴィア共産主義者同盟とソヴェト同盟共産党の関係にかんする宣言』 (五六年六月二〇日―『アカハタ』五六年六月二二日号)、個人崇拝をめぐって各国共産党間の自立と相互信頼のうえに展開された歴史的な国際論争、各国共産党間の新しい関係は「それぞれの国の民族的特殊性と条件を活動の出発点とし、なによりもまず自国民の民族的利益を十分に表明し」ながら「友党間の団結を固め連帯と協力を強化」することにあるとしたソ同盟共産党中央委員会の声明(『個人崇拝とその結果の克服について』五六年六月三〇日)などは、まさに共産主義運動の相互関係に新しい時代がはじまったことをまざまざと示すものであった。ここでは、この問題をめぐってあらわれた重要な問題点を簡単に指摘するにとどめよう。

 

 (1) トリアッティの「多数中心体制」の提唱――トリアッティはアンケートへの回答のなかで、世界情勢の根本的変化ともに世界共産主義運動の政治的内部構造もまた変化したとして、「多数中心体制」の誕生を提唱したが、中委報告ではこの思想をさらに明確にほりさげ、今日「異なった形式で社会主義社会の方向にうごく傾向のある、異なった組織された勢力間に統一を達成する」新たな方法が必要なのだとして、(イ)「個々の運動と諸共産党の完全な自立、また諸共産党間の双務関係の完全な自立」を主張すると同時に、(ロ)「共産主義運動と非共産主義的な(社会主義的・社会民主主義的・国民解放的)社会主義傾向の運動」との広範な統一の見とおしを提起し、(ハ)新しい情勢に相応する具体的で正確な内容をもったプロレタリア国際主義の精神を鼓舞することを強調した。トリアッティのこの提唱は、新しい幅ひろいインタナショナルの重要な提唱として受けとられたものであるが、その正しさについてはなおいっそうの検討が必要なものと思われる。

 

 (2) 社会主義諸国間の相互関係――社会主義諸国のあいだでも平和五原則が相互関係の基礎にならなければならないことは理論的にはくりかえし明確にされたが、この面で重大な誤りがおかされていたことが不十分ながら公式に認められ、相互関係の正常化がおこなわれたのがポーランドの政変とハンガリアの悲劇的暴動のあとであったという事実は、その事情や経過の詳細はわからないにせよ、今なおこの分野で重大な立ちおくれが存在しており、ハンガリアの事件をひきおこした重要な要因の一つとなっていたことをしめすものであった(ソヴェト政府宣言『ソ同盟と他の社会主義諸国の友好協力関係を発展強化する基礎について』五六年一〇月三一日―『世界政治資料』一〇号、『ソ同盟・ポーランド共同コミュニケ』五六年二月一八日―『世界政治資料』一二号)。なお中国共産党は政府声明(五六年)一一月一日)のなかで、この面でおかされた誤りについて、「社会主義諸国においては思想的基盤と闘争の目標が一致していることから、一部の活動家は相互関係のなかで各国平等の原則を容易に無視しがちになる」とその原因を指摘しながら、これはその性質からいえばブルジョア排外主義の誤りであり社会主義諸国の団結と共同の事案にかならず重大な損害をもたらすものだときびしく批判した(『あカハタ』五六年一一月三日号)。

 

 (3) ソ同盟にたいする態度――()の問題と結びついてソ同盟にたいする率直な批判がおこなわれはじめたのはこの時期の大きな特徴の一つだが、同時にこれまでのソ同盟との関係についての反省・再検討がおこなわれ完全な自立の基礎のうえに立って真の友好深めようとする方向づけが探求されている。だが、これまでの無条件的信頼にたいする一つの反動として、ソ同盟にたいして行きすぎた非難や攻撃を加える傾向もあらわれているが、これは一種の清算主義的傾向であり、ハンガリア事件をめぐる動きのなかにもっとも集中的にあらわれたのである。

 

 中国共産党が一二月末に発表した前掲『ふたたびプロレタリアート独裁にかんする歴史的経験について』は、これらの諸問題についての原則的な路線を詳細正確に展開した。すなわち、この問題にあてられた論文第四部では、各国共産党ならびに各社会主義諸国の「独立」と「ソ同盟を中心とするプロレタリアートの国際的団結」の「正しい統合」を強調し、大国的排外主義の克服とともに「比較的小さな国々の民族主義的傾向」の克服をも提起した。中国共産党の政治局拡大会議の討論にもとづいたこの論文は、社会主義諸国間ならびに諸共産党の相互関係の問題についての両翼の偏向と若干の混乱を正そうとしたもので、今後おそらく決定的意義をもつものと思われる。少なくともソ同盟を中心とする団結を主張したこと、非共産主義的運動との統一の問題よりもまず「国際共産主義運動の団結」をかかげたことの二点については、明らかにトリアッティの「多数中心体制」の提唱とは重要な相違をふくむものであることも指摘しておこう。

 

 10、ハンガリア問題をめぐる論争

 

 五六年一〇月、ポーランドの「ゴムルカ政変」にひきつづいて勃発した悲劇的なハンガリア事件は、第二〇回大会によってひらかれたマルクス主義理論の新しい局面にまた一つ衝動的な問題提起をおこなった。すでにプロレタリア独裁を確立し成功的な社会主義建設に直進していた国の一つに、それ自体は正当な不満に根ざした大衆的デモが、帝国主義のどんな陰謀があったにせよ、たちまちのうちに共産主義者の一部までまきこんだ一見全国民的な反動的民族暴動にまで燃えあがるなどということは、まったく予想もしえない事態だったし、社会主義体制を反動の攻撃から防衛し、第三次大戦の勃発の危険を未然に防ぐためにカダル政府の要請にこたえておこなわれたソ同盟の軍事的援助が平和五原則の内政不干渉の原則に反するのではないかという印象が、西ヨーロッパを中心とした知識階級のあいだに急速にひろまったし、また各国共産党の一部にもスターリン批判が生んだ不健全な清算主義的現象と結びついて、党の民族的自主性を「証明」して大衆からの一時的孤立をまぬかれるためにソ同盟にたいする非難にのりだしたい心理的動揺さえなかったとはいえなかったために、これらの要因が反ソ宣伝の世界的なカンパニアの大波のなかで、新たな混乱と修正主義的危険を国際共産主義運動のなかに成長させたのである。

 

 この問題をめぐる論争の焦点となったのは二月二日のチトー「プーラ演説」(『世界』・『中央公論』五七年一月、『世界政治資料』一〇号)で、かれはそのなかで、第一回目の干渉は不必要であったが第二回目の干渉は社会主義を救い大戦勃発を防ぐために必要であったとのべ、ハンガリアの悲劇の原因を「強情なスターリン主義者」の誤謬に求め、さらに論旨を拡大してソヴェトの指導者の一部およびアルバニアの指導者らの「スターリン主義」を非難し、東欧各国での「ほんとうの問題」は「スターリン主義的コース」とユーゴスラヴィアにはじまる…‥新しいコース」との闘争の結末にあるとのべたのである。

 

 「プーラ演説」はただちに広範な国際的論争をひきおこした。この論争のなかで新しく提出されてきたのは、いわゆる「チトーイズム」の正確な再評価、とくにそのなかにはらまれている右翼的危険の問題であった。一二月一八日付の『プラウダ』のカルデリ演説批判『このことで利益をうるのはだれか』(第三章注17参照)、『人民日報』の前掲『ふたたびプロレタリアート独裁にかんする歴史的経験について』の二つの論文は、ハンガリア問題をめぐってひきおこされた国際共産主義運動内部の修正主義的潮流をするどく批判した指導的論文であった。とくに後者は第二〇回大会以来のスターリン批判をめぐる国際的論争の結語ともいうべき役割をはたすのではないかと思われる。

 

 この二つの論文は、ハンガリア問題にかんする意見の相異の本質は、実はマルクス=レーニン主義の真髄である「プロレタリア独裁」の理論の承認か拒否かの問題にあること、「スターリン主義」に「ユーゴの道」を対決させ、極端な民主化を要求し、ハンガリアでの反革命の革命的弾圧に抗議するものは、「プロレタリア独裁」を否認し弱め、プロレタリア国際主義を破壊する修正主義にほかならないことを明らかにした。

 

 ハンガリアの悲劇のなかではおそらく多くの局部的誤りがおかされただろうということについては疑いをいれない。その誤謬の代償として、今後のハンガリアでのプロレタリア独裁の強化と発展、ならびに社会主義建設の事業のうえで政府および新しい党(ハンガリア社会主義労働者党)は巨大な困難に直面するであろう。その事葉への国民的動員に党が成功するかどうかが、今まで投げかけられた非難の洪水にたいする真の回答となるにちがいない。

 

 以上、われわれはこの章で二〇回大会後の国際理論戦線の発展を追って、そのなかで提起された主要な問題点を紹介してきた。まさに「百花斉放」の観があるが、まだ問題はようやく提起されたばかりで、より深い理論的究明とともに今後の実践的検証をまたねばならないものであり、新鮮な活力を回復した諸共産党のイデオロギー活動の今後の成果は期して待つべきものがある。スターリン批判のにがくきびしい陣痛のなかから、マルクス主義の「ルネッサンス」がいま訪れつつあるということができるであろう。

 

 (注1〜25)は省略

 

 

 〔目次〕三篇二十一章の内容 (全文)

 

 目次(上巻) 239ページ

 序 戦後日本革命論争の再検討

 第一篇 戦後論争の第一期――平和革命論の展開

 

 第一章 平和革命論の歴史的背景

    戦後の国際情勢−アメリカの占領政策の変化−国際理論戦線の偏向

 第二章 占領下革命論の系譜

    野坂理論の構造−解放軍規定の系譜−第五回大会の方針−第六回大会の民族問題の提起−解放軍思想の残すかすと重大な偏向

 第三章 平和革命論の功罪

    第五回大会の平和革命論−平和革命戦略の理論化と第六回大会の修正−平和革命論の功罪−一九四九年の占領下革命諭−中西意見書

 第四章 民主戦線戦術をめぐる論争

    民主戦線問題の決定的意義−天皇制打倒をめぐる二つの方向−大衆組織のセクト主義−野坂の延安報告−山川・荒畑提唱の民主戦線−労働戦線の分裂−民主民族戦線の提唱

 第五章 平和革命下の戦略論争

    戦後の変革の性質−労農派戦略論の破産−第一次の論争、天皇制はブルジョア化したか−第五回大会宣言と三二年テーゼ−第二次の論争、第六回大会をまえにして−当時の戦略論争の限界−人民民主主義革命をめぐって−中西意見書の社会主義革命論−社会党の戦略論争−森戸・稲村論争

 第六章 志賀・神山論争

    志賀・神山論争の経過−軍・封・帝国主義をめぐって−天皇制国家の階級的性格−戦略・戦術とテーゼについて−論争の意義−その後の論争の継続

 第七章 農業革命の二つの道

    戦後の農業問題論争−農地改革の特徴点−農民運動の方針−封建論争と二つの道理論−第六回大会の農業綱領−伊藤理論の批判

 

 第二篇 戦後論争の第二期−民族解放民主革命のために

 

 第一章 コミンフォルム批判の功罪

    衝撃的だったコミンフォルム批判−批判を生んだ歴史的諸事情−政治局所感と第一八拡中委−中共批判の問題点−劉少奇テーゼと武力方針

 第二章 五〇年テーゼ論争

    志賀・中西・全学連の意見書−椎野論文をめぐる論争−第一九中委と五〇年テーゼ−テーゼ論争の欠陥

 第三章 共産党の分裂のなかでの論争

    分裂の歴史的経過−国際批判による分派闘争の終結−各派の党統一コース論−分裂中の政策論争−平和運動をめぐる論争

 第四章 新綱領の問題点と極左冒険主義

    新綱領による論争の終結−新綱領の理論構造−新綱領のなかにあった誤謬−軍事方針の提起−国際派からの批判−新綱領と軍事方針−極左方針の批判−極左冒険主義の原因

 

 目次(下巻) 258ページ

 第二篇 戦後論争の第二期――民族解放民主革命のために(下)

 

 第五章 植民地論争と民族問題

    植民地か従属国か−『中央公論』誌上の植民地論戦−共産党内への論争の波及−左派社会党の綱領論争−民族的で民主的な革命−民族資本論争−ブルジョア民族主義の偏向−民族解放の二つの道

 第六章 新綱領をめぐる国家論論争

    新綱領の国家論の弱点−戦後国家の階級的性格をめぐる三つの見解−神山理論の総批判−『日本資本主義講座』の失敗

 第七章 社会党との統一戦線をめぐる論争

    主要打撃論の機械的適用−統一選拳をめぐって−重光首班諭−統一戦線政府の問題

 第八章 農業革命理論の対立の激化

    せきを切った農業綱領批判−国際派農業理論の展開−二つの農民運動方針−新綱領の反封建理論−日農六回大会での激突−農地改革の科学的総括−新封建派の農地改革論−伊藤の除名と理論的清算−農林インターの影響−岩波講座の農業理論−講座にたいする批判

 

 第三篇 戦後論争の現段階――社会主義への日本の道

 

 第一章 六全協による共産党の再出発

    再出発の歴史的条件−六全協の理論的準備−六全協決議の意義−六全協の問題点−農業理論の転換−党外からの六全協批判

 第二章 社会党と労農党の新綱領と統一問題

    社会党の統一綱領−統一社会党への批判−小選挙区制と二大政党論−労農党の新綱領−参院選の三分の一論−革新三党の新しい関係

 第三章 第二〇回大会と八全大会

    新方針を明示した二つの大会−第二〇回大会が提起した諸問題−経済理論の分野での諸問題−政治理論の分野での諸問題−党内問題の分野での諸問題−フルシチョフ秘密報告−八全大会が提起した諸問題−中国典産党の新組織路線

 第四章 第二〇回大会後の国際理論戦線の発展

    歴史的な経過−革命の平和的発展をめぐって−個人崇拝の根源をめぐる論争−プロレタリア独裁理論の再検討−インド共産党の新路線−戦後の運動の評価をめぐって−人民民主主義革命の再検討−ソボレフの反独占理論−各国共産主義運動の相互関係−ハンガリア問題をめぐる論争

 第五章 第二〇回大会後の理論戦線

    第二〇回大会と日本共産党−労農派の活躍−社・共の統一について−日本帝国主義の復活−戦後史の問題−日本マルクス主義の批判−農業問題

 第六章 日本革命の理論的展望

    綱領改訂討議の開始−日本革命の性質−民族解放革命の理論−統一戦線と社会主義革命−日本革命の特徴−革命論争の批判的継承のために

 

 あとがき

 

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 (関連ファイル)

    『「戦後革命論争史」に関する上田耕一郎「自己批判書」』一次資料集()

    石堂清倫『上田不破「戦後革命論争史」出版経緯』手紙3通と書評

    『上田耕一郎副委員長の多重人格性』上田・不破査問事件の真相

    『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕上田・不破査問事件の真相

    『綱領全面改定における不破哲三の四面相』構造改革論者という思想・理論的出自