『戦後革命論争史』に関する上田耕一郎「自己批判書」

 

上田・不破査問と「自己批判書」公表事件の一次資料集()

 

(宮地作成・編集)

 

 〔目次〕

   1、宮地コメント

   2、上田耕一郎「自己批判書」(全文)

   3、『戦後革命論争史』(抜粋)

      第三篇第五章、第二〇回大会後の理論戦線(全文)

   4、『日本共産党の六十年』(抜粋)

      上田・不破査問と「自己批判書」公表事件との関連個所(抜粋)

   5、『日本共産党の七十年・年表』(抜粋)

      ユーロコミュニズムへの急接近と逆旋回データ、1975年〜85年

   6、3つの共産党によるDemocratic Centralism放棄経過

 

 (関連ファイル)           健一MENUに戻る

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    『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕上田・不破査問事件の真相

    『綱領全面改定における不破哲三の四面相』構造改革論者という思想・理論的出自

 

著者上田耕一郎のみ、上下巻・各350円

 

 1、宮地コメント

 

 bP宮本顕治は、のbQ・3査問と「自己批判書」公表事件によって、党中央役員向けの脅迫と恫喝の最大効果を挙げようとした。そして、常任幹部会員・幹部会員・中央委員全員というトップレベルから一挙に逆旋回させる作戦でのメイン・ターゲット(主要標的)にしたのは、兄弟同列ではなく、No.3の上田耕一郎の方だったと考えられる。「自己批判書」の『前衛』掲載順序を、不破・上田という順にしたのは、弟の党内地位の方が幹部会委員長で上だったからにすぎない。

 

 日本共産党をユーロ・ジャポネコミュニズムへの急接近から逆旋回させる上で、宮本顕治が最初から狙ったのは、「自己批判書」の公開だった。なぜなら、2人の査問だけでは、何を問題にしたのかが、常任幹部会員で構成したbQ・3査問委員会以外に分からないからである。2人の「自己批判書」を、理論誌『前衛』で全文公表することこそ、その『前衛』を必ず読む中央役員百数十人・党本部勤務員800人にたいする脅迫効率が最大になる仕組みだった。

 

 ただし、この事件の謎を解明するためには、2人の「自己批判書」内容を分析する以外に、同年発行の『日本共産党の六十年』(1982年)の関連個所、日本共産党のユーロコミュニズムへの急接近とそこからの離脱・逆旋回の経過データ、イタリア・フランス・スペイン共産党のDemocratic Centralism放棄の経過データ、田口富久治教授ら学者党員による民主集中制批判の動向を総合的にとらえ、その中で、この謎を位置づけることが必要であろう。

 

 この事件の謎解きが、なぜ重要なのか。それは、もし、宮本顕治による逆旋回クーデターが成功していなければ、日本共産党は、ユーロコミュニズムの動向、国内・党内動向によって、反民主主義的なDemocratic Centralismという犯罪的組織原則を完全に放棄し、民主主義政党に転換していたにちがいないからである。資本主義国において、唯一生き残っているレーニン型共産党という時代錯誤的な存在はなくなっていたからである。さらに、今や空想的社会主義の性質を持つ革命綱領を廃棄することによって、他党派の共産党にたいする警戒心を解き、他党派との選挙協力協定を結び、民主的な政権を樹立する具体的な展望が開けていたと確信するからである。

 

 逆旋回遂行のための4連続粛清事件において、この上田・不破査問と「自己批判書」公表事件は、そのキーポイントになる。これは、党中央トップ内における逆旋回作戦である。それにたいし、(1)学者党員・出版関係党員らへのネオ・マル粛清、(2)民主主義文学同盟グループ、平和委員会グループ・原水協グループという共産党系大衆団体グループ党員らへの粛清、(3)東大院生支部党員らへの粛清などは、中間機関レベルでもなく、すべて基礎組織レベルの党員にたいする粛清だった。Democratic Centralismは、完全な上意下達の組織原則に変質している。逆旋回の時点では、すでに、宮本私的分派・側近グループ体制になっていた。よって、そのような体質の組織においては、まず、トップを制圧、上から逆旋回させるというクーデター作戦こそが、宮本顕治にとって、キーポイントになった。

 

 上田・不破兄弟の「自己批判書」内容に共通するのは、民主集中制の規律問題である。自由主義、分散主義、分派主義とは、民主集中制からの逸脱・規律違反現象である。宮本顕治は、2人の自己批判論調を通じ、党中央役員百数十人と党本部勤務員800人にたいして、民主集中制の規律を厳守するよう、逸脱する者は査問だとする脅迫と恫喝を加えた。

 

 そのタイミングは、ユーロコミュニズム3党がDemocratic Centralism放棄を指向し、批判的な見直しを開始している時期、そして、日本共産党内の学者党員や出版労連関係党員たちに多数のユーロコミュニズム賛同者=民主集中制批判者が出現してきた時期と一致している。1978年初版の田口富久治『先進国革命と多元的社会主義』(大月書店)は、このジャンルの著書として、驚異的な重版を重ねていた。党中央発行の雑誌『世界政治資料』は、毎号のように、数本ものユーロコミュニズム諸党の論文を翻訳・掲載していた。それは、党本部内にも、ユーロコミュニズムの動向支持・紹介者が、上田耕一郎だけでなく、多数派として台頭し、一握りの「ごますり」「茶坊主」からなる最高権力者私的分派勢力を、張子の虎にする勢いを示した。党員たちも、それらの文献・記事を競って読むようになった。

 

 これらの瞬間、スターリン主義者・宮本顕治と私的分派・側近グループらは、党本部内で、浮き上がった。彼の硬直した民主集中制の規律強化路線は、「ごますり」「茶坊主」たちの横柄な態度によって象徴されるように、古臭い党体質軽蔑されるようになってきた。宮本顕治と彼への盲従的忠誠派は、党本部内において、見掛けだけの最高権力保持グループになり、実態は少数派に転落しつつあった。

 

 また、共産党系大衆団体グループ内でも、党全体のユーロコミュニズム支持という雰囲気の中で、宮本私的分派は、少数派になっていた。ユーロコミュニズムのいま一つの指向は、スターリンのベルト理論を全面拒絶するだけでなく、その誤りの理論的根源であるレーニンの政治の優位性理論をも否定することだった。レーニンは、革命運動における政治・政党活動の優位性を一面的・過度に強調する誤りを犯した。彼は、その内実として、(1)あらゆる革命運動分野におけるボリシェヴィキ、共産党の優位性、(2)政治と文学との関係における共産党の指導権確立、(3)共産党系大衆団体にたいする共産党の絶対的指導権獲得を主張した。

 

 ユーロコミュニズムは、マルクス・レーニンのプロレタリア独裁理論の放棄、Democratic Centralismの組織原則の放棄だけでなく、レーニンのその理論をも一面的な誤りとして批判し始めた。そして、共産党と大衆団体との関係は、レーニン型から脱皮して、対等平等の関係に転換すべきと主張した。日本における民主主義文学同盟グループ、平和委員会グループ、原水協グループ、その他グループは、それぞれの分野における日常体験から、宮本顕治のスターリン主義的ベルト理論の押し付けにたいして、強い反発と批判を強め、彼の大衆団体にたいする干渉・人事介入指令から離脱し、党中央からの自主・自立指向を目指すようになっていた。

 

 彼は、スターリン主義的粛清者として、六全協以降、彼を批判する大量の党員を党内外排除する党内犯罪を遂行してきた。日本共産党が、ユーロコミュニズムの指向と同じく、Democratic Centralismを放棄するようになったら、彼の犯罪にたいする批判が噴出するだけでなく、フルシチョフによるスターリン批判と同じ事態が発生する危険があった。国家権力を握ったマルクス主義前衛党における最高権力者は、おしなべて、表向きの権勢を誇示する姿勢にたいし、その内面では自己の地位保全に汲々とする、小心な臆病者である。党内分派闘争の経験が豊富であり、その中で、少数派転落の悲哀も味わってきた宮本顕治は、ユーロコミュニズムとの関係、それを支持する党内動向から、自分たち私的分派が、少数派に転落し、今度は彼らが排斥される危険を察知した。

 

 そこで、彼は、日本共産党の逆旋回クーデターを決断した。それは、少数派・毛沢東ばりの奪権闘争の性質を持った。私が、ユーロ・ジャポネコミュニズムからの逆旋回の手口を、クーデターと名付ける根拠は、3つある。

 

 〔根拠1〕、宮本顕治は、民主集中制の見直し・放棄指向からの逆旋回をする手法として、通常の党内討論によって多数派の説得をする手段を意図的に排斥した。彼ら民主集中制堅持・絶対擁護の少数派は、4連続粛清事件で、「民主集中制批判者」「大衆団体私物化分子」「反党分子」排斥をする4連続の一大キャンペーンを、『赤旗』『前衛』『文化評論』『民主文学』という党内宣伝武器をフル活用し、暴力的に批判・異論者を粛清する手口を使った。しかも、1978年から85年まで、8年間ものキャンペーン期間中、彼らは、レッテルを張り付けた党員たちや同調者にたいして、機関銃の銃弾のように、たえまなく、長短の論文・記事を発射し続けた。

 

 その批判論文・記事の内容は、口汚いレッテル貼りに止まらず、ありとあらゆる詭弁術を使い、ウソ、事実関係の歪曲をちりばめたレベルになっていた。彼らが常用する詭弁術の一例は、相手の主張・論理を意図的に捻じ曲げておいて、それに打撃的・レッテル貼り的批判を加えるという手口である。『赤旗』しか読まない党員たちは、大量の一方的情報を鵜呑みにするしかなく、判断をすべて党中央に依存し、自主的思考を喪失したタイプに改造されていった。

 

 〔根拠2〕、党中央役員百数十人・党本部勤務員800人内において、実質的な少数派に転落しつつあった最高権力者私的分派が、強引な手法で、党中央内に巣食うユーロコミュニズム派=民主集中制批判派を弾圧し、査問し、「自己批判書」を書かせたやり方である。その査問も、No.2・3が26年前の無名だった時期に執筆・出版し、18年前No.1が絶版にさせた著書の内容・出版行為が誤り・規律違反だったとする、異様な異端審問裁判まがいの行為だった。さらには、再び多数派権力を奪い返すために、その全文を公表し、見せしめにするという誌上処刑のような手口を使った。

 

 戦後日本共産党史上、被除名者個人にたいして、党中央側が断罪的文書を発表したケースはいくらでもある。しかし、2人のような形で、トップレベルの個人に、26年前の“誤り”に関する「自己批判書」を書かせ、その全文を公表させるという異様な形態は一度もない。党史上、前代未聞の出来事である。これは、まさに、少数派に転落しつつあった逆旋回クーデター派が、管制高地にいる打倒対象者にたいして、誌上・公開処刑をしたとも言える性質の違法・犯罪行為である。同時に、この事件は、それを公表させたNo.1の異様な心情=少数派転落の恐怖と抱き合わせのおぞましい心理を、あぶり絵のように浮かび上がらせるものになっている。

 

 〔根拠3〕、党中央内における奪権闘争だけでなく、基礎組織党員にたいする4連続粛清事件によって、学者党員、出版労連関係党員、3つの大衆団体グループ党員、東大院生支部・教職員支部党員たちにたいする脅迫と恫喝という4連続キャンペーンを通じ、日本共産党全党における宮本顕治の多数派権威と絶対的権力を再確立する手法を使った。

 

 これらの経過は、実質的な少数派・宮本顕治による奪権の党内クーデターと規定できる。クーデター手法によって、打倒すべき多数派とは、()民主集中制見直し・放棄指向の党中央内、および全党内の勢力、()共産党系大衆団体におけるレーニンの一面的な政治の優位性理論・スターリンのベルト理論の否定と党中央からの自主・自立を指向する勢力だった。ただし、多数派といっても、個々ばらばらで、かつ、雰囲気的なレベルに止まっていた。それにたいして、宮本顕治の最高指導者私的分派・側近グループは、意図的に作られた強固な分派だった。それを解体するには、目には目、歯には歯、分派には分派で立ち向かうしかない。雰囲気的な多数派が、少数派の最高指導者私的分派に対抗しうる分派の結成に動くのにしては、Democratic Centralismと分派禁止規定とを結合させたレーニンの呪縛が、当時の日本共産党内では強すぎた。

 

 1970・80年代当時のヨーロッパには、地続きのソ連・東欧10カ国のすべてが絶望的停滞に陥っているという情報が大量に流れ込み、スターリンの4000万人粛清犯罪データが一段と克明に暴露される状態になっていた。それらの認識は、ユーロコミュニズム諸党内に止まらず、国民全体が共有するレベルになってきた。そこから、ユーロコミュニズムにおけるレーニンの呪縛が、緩み、批判され、ほどけかかっていた。それは、日本共産党員と日本国民のレベルと対称的だった。

 

 彼の逆旋回クーデターが見事に成功したおかげで、日本共産党は、21世紀になっても、資本主義国において、Democratic Centralismという党内民主主義を抑圧・破壊する組織原則を持つ唯一の政党として、生き残れることになった。しかし、その反面、1980年をピークとして、党勢力PHN(党員P・赤旗日刊本紙H・日曜版N)は、それ以後27年間も、歯止めのない減退を続けることになった。8年間に及ぶ、宮本顕治の逆旋回クーデターと4連続粛清事件キャンペーンは、党内で成功しても、日本国民・有権者にたいして嫌悪感を与え、嫌いな政党世論調査における政党拒否率のトップとなっている。それにより、PHNのすべての指標で減り続けることになった。彼の逆旋回クーデターは、党外にたいして逆効果を生み出すという皮肉な、あるいは、しごく当然な結末をもたらした。

 

    『日本共産党の党勢力、その見方考え方』1980年をピークとする23年間の党勢力減退

 

 上田耕一郎「自己批判書」

 

 宮本顕治が、批判・異論者を党内外排除する口実は、いつも2つである。()横断的水平的交流を厳禁している民主集中制に違反し、所属機関・細胞を越えて、党中央批判・宮本批判の分派活動、2人分派・3人分派活動をしたというねつ造口実、(2)ありとあらゆるテーマを党内問題の枠に押し込め、すりかえて、彼が審問官として党内問題と断定したテーマを党外にもちだしたとでっち上げることである。

 

 上田耕一郎は、「自己批判書」において、最大の誤りが、党内問題を党外の出版物にもちだしたという民主集中制違反だったと、自己規定している。これは、『戦後革命論争史』の内容・出版という具体的行為について見れば、宮本顕治の常套手段としての詭弁術の押し付けである。

 

 そもそも、2つのファイルに転載した、第20回大会のスターリン批判めぐる国際理論戦線(不破執筆)と国内理論戦線の動向(上田執筆)、その他の各章・(注)を読んでも、日本共産党問題を当然含むとしても、著書全体は、「党内問題」の範疇を越えている。それらは、当時の日本の論壇、『中央公論』『世界などの』各雑誌や左翼陣営全体が討論したテーマだった。それが党内問題でなかったとなれば、宮本顕治の詭弁も、2人の「自己批判書」の論理も、根底から崩壊する。

 

 このファイルを(宮地作成・編集)とした意味は、「自己批判書」が、数字だけの〔目次〕だったのを、私の判断で、〔小目次〕として小見出しをつけ、また、文中のいくつかを黒太字にしたことである。(〜回目)は、私が挿入した。ただし、文言については、一切訂正・加筆・削除などをしていない。

 

 『戦後革命論争史』第三篇第五章、第二〇回大会後の理論戦線(全文)

 

 この本文とともに、14の(注)を見ても、このテーマを、党内問題と断定するのは、完全な誤りであり、宮本顕治のでっち上げ査問である。不破・上田らが、弟は国際理論戦線、兄が国内理論戦線を分担執筆し、討論し合うシーンは、26歳と29歳で、まだ無名だった兄弟の連携情景として、ほほえましいものがある。ただ、その本文・(注)内容は、石堂清倫ら5人が持ち寄った膨大な資料、討論内容のメモがなければ、その年齢と知識では到底書けなかったレベルにある。もっとも、論文内容には、スターリン批判直後だけに、評価の甘さや一面性がある。よって、その面に関する「自己批判書」内容には、納得できる。

 

 『日本共産党の六十年』より、上田・不破査問と「自己批判書」公表事件との関連個所(抜粋)

 

 上田・不破「自己批判書」は、党中央の弁明(「赤旗主張」)によれば、『日本共産党の六十年』出版に合わせて、兄弟が、自主的に反省し、公表したことになっている。しかし、それは、田口富久治批判キャンペーンと連動した民主集中制の引き締め・規律強化方針の一環、および、ユーロコミュニズムのDemocratic Centralism放棄傾向との絶縁という逆旋回路線の一環であることは明白であろう。

 

 『日本共産党の七十年・年表』より、ユーロコミュニズムへの急接近と逆旋回データ、1975〜85年

 イタリア・フランス・スペイン共産党のDemocratic Centralism放棄経過

 

 これらは、年表的データである。そこの(宮地注)に書いたが、宮本顕治の鋭い嗅覚は、ユーロコミュニズムに急接近しつつも、その多種の会談・相互訪問を通じて、ヨーロッパのすべての共産党が、Democratic Centralismを放棄し、マルクス・レーニン主義とも断絶し、社会民主主義政党に転換していく方向を嗅ぎつけた。彼は、スターリン主義者として、日本共産党の最高権力者として、日本共産党が崩壊するか、それとも、スターリン批判のように、自分が党全体から批判・責任追求されるのではないかという恐怖に打ち震えた。

 

 逆旋回の決断は、徐々に形成されていった。その決意の、日本における最初の現れが、(宮地注)にある中野徹三教授の査問・除名と田口富久治教授批判の大キャンペーンである。国際関係におけるヨーロッパ3党との絶縁の現れは、1978年以降、共同コミュニケ・共同声明という会談結果の発表形式をしなくなったことである。

 

 

 2、上田耕一郎「自己批判書」(全文) 『前衛1983年8月号』掲載

 

 『戦後革命論争史』についての反省―「六十年史」に照らして―

 

 〔小目次〕

   一、理論的内容、とくに精算主義的評価

   二、出版それ自体が誤りで、分派主義的立場

   三、分散主義、分派主義、自由主義の誤り

 

 党創立六十周年を記念して昨年末刊行された『日本共産党の六十年』は、党内外に大きな反響をよびつづけている。

 とくに戦後の党史については、新しく詳細な総括的叙述がおこなわれたこの『六十年史』の発表を機会に、私は、はじめて党の中央役員に選出された第九回大会(一九六四年十一月)のあと絶版措置をとった私の著書『戦後革命論争史』(大月書店、上巻は一九五六年十二月刊、下巻は五七年一月刊)について、その問題点と誤りとを、改めてあきらかにしておきたい。

 

 というのは、この著作が、その絶版後も、戦後の党史や革命運動の理論史をとり上げた論評などに時に引用されることがあったし、今後もありうるからである。また最近、私の著作のなかの叙述が、誤った主張の合理化に持ち出された例も生まれている。二六年前の著作ではあったが、絶版措置が必要だったこの書のもつ誤りをあきらかにしておくことは、現在幹部会副委員長という職責にある私の果たしておかなければならない責任、本来はもっと早く果たしておくべきであった責任であると思う。

 

   一、理論的内容、とくに精算主義的評価

 

 当時私は、東京の中野区の党組織に属して活動していたが、三回目の結核の療養期を利用して、大月書店の『双書戦後日本の分析』のなかの一冊としてこの本を書いた。鉄鋼労連の書記をしていた弟の上田建二郎(不破哲三)とも討論し、彼が全二十一章のうち四章を分担執筆したことは、「はしがき」でふれてあるが、いうまでもなく最終責任は私にある。

 

 「戦争直後から一九五六年末にいたるまでの日本マルクス主義の理論史を、あらためて再整理した報告書」(はしがき)としてのその理論的内容については、第八回党大会(一九六一年七月)の綱領採択ののち、上田、不破両名が『マルクス主義と現代イデオロギー』(大月書店、六三年十月刊)の上・下巻それぞれの序論で、反省点をあきらかにしたことがある。上田は、両翼との偏向との闘争におけるあいまいさ、理論活動におけるきびしい党派性の弱さという二つの思想的弱点について、不破は、社会主義革命という戦略上の誤った見地、民主的改革の理論と戦術についての一面性、二つの戦線での闘争の把握という三つの理論的弱点についてのべた。

 

 しかし『日本共産党の六十年』発表を機に、今回、改めて読みなおしてみると、『戦後革命論争史』で私が展開した内外情勢の分析や展望についても、その後の四分の一世紀にわたる現実の歴史の発展、日本共産党を先頭とした日本の革新勢力の闘争の前進そのものによって、きびしい批判と検証を加えられた多くの問題をふくんでいたことが、当然のことではあるが、痛いまでによくわかった。

 

 二、三をあげておけば、日本共産党の「六全協」(一九五五年七月)、ソ連共産党第二十回大会(五六年二月)の直後などという藉口を許さないような、平和共存への楽観的展望、ソ連、中国とその党にたいする過大評価と期待があり、日本社会党の反共分裂主義や統一戦線の展望についての甘い評価などなどがある。

 

 なによりも大きな問題は、戦前、戦後の日本共産党の党活動の歴史的意義、理論活動をふくめたその積極的役割にたいする精算主義的評価があった(第1回目)という問題である。

 

 『日本共産党の六十年』は、たとえば二七年テーゼや当時の統一戦線問題にかんする評価、あるいは戦後の第四回、第五回、第六回党大会の評価にみられるように、そこにふくまれていた弱点や誤りについては大胆な自己分析的指摘をおこないながらも、それらが果たした積極的役割と歴史的意義とを、事実にもとづいて明確に評価する態度をつらぬいている。

 

 ところが私の『戦後革命論争史』は、理論的弱点や方針上の誤りと私が考えたものを指摘するのに急で、その結果、全体として党活動と党史を精算主義的にみる誤り(第2回目)おちいっている。たとえば戦前の党についても、丸山眞男の戦争責任論に関連して「反戦闘争を組織しえなかった共産党の政治指導の責任」を問う(上巻、八一ページ)文章があり、戦後米軍占領下に「民族の完全な独立」をかかげた第六回党大会についても、その意義を評価しつつ、反帝闘争を組織する決意を欠いた指導部の「弱さと臆病」を指摘した文章(上巻、四五ページ)がある。統一戦線問題でも、その失敗の主な責任を日本共産党の側のセクト主義に求めて社会党の反共分裂主義にみないという傾向の文章が随所にあるのも、同じ精算主義的発想のあらわれ(第3回目)である。

 

 『論争史』の序「戦後日本革命論争の再検討」のなかの「国際的な水準にたいして、というより日本の現実にたいする日本マルクス主義の大きな立ちおくれは争う余地のない事実であろう」とか、「運動の前進に比較して、政策と理論の立ちおくれはきわだっているといわざるをえない」という文章に鮮明にしめされているように、当時の私は、理論の分野や方針上にあらわれた弱点や誤りと私が考えたものを指摘することによって、戦後の党史を、全体としては失敗と誤謬の連続とみなし、日本の共産主義運動を立ちおくれの典型としてえがきだそうとする史観に立っていた。

 

 ここには、若かった私の未熟さと理論的傲慢さがあったことを認めざるをえない。しかし、より重要なことは、こうした史観は、戦前、戦後の党史の評価として誤っていただけでなく、党綱領採択とその後の日本共産党の、理論的、実践的前進を、まったく説明できないものであったことである。

 

   二、出版それ自体が誤りで、分派主義的立場

 

 こうした史観におちいった原因は、当時の私が、党的見地に立てず、分派的見地に立っていた(第4回目)という、より深い問題と結びついていたと思う。

 その意味では、『マルクス主義と現代イデオロギー』上巻の「序論 六全協後の思想闘争の教訓」でのべた私の反省は、きわめて不十分なものであった。それはもっぱら「私たちの思想闘争には中間派的弱点が現わ」れていた(上巻、二ページ)点にむけられていたが、この反省じしんがなお「中間派的」、自己弁護的なものにとどまっていた。『戦後革命論争史』という著作のもっとも本質的な問題点は、その執筆自体が、誤った分派主義的立場の産物であった(第5回目)という点にある。

 

 すなわち、『戦後革命論争史』執筆のもっとも大きな誤りは、二十年前の私の反省がまだふれるに至らなかった点、党外の出版物で、党史を論評し、五〇年問題の総括や綱領問題の討議に参加し、影響をあたえようとした、私の誤った態度(第6回目)にあった。

 

 この本が書かれた時期は、「六全協」の翌年の一九五六年の後半で、党内で五〇年問題の総括、綱領問題の討議が進行しはじめていた時期であった。『六十年史』をひもとくと、五六年四月の六中総で「五〇年問題の全面的な解明の努力の必要」が指摘され、九月の八中総で「第七回党大会の開催を決定し」、十一月の九中総で、「党大会準備のため、『綱領』『規約』の各委員会とともに『五〇年以後の党内問題の調査』の委員会を設立することを決定」している(一四八ページ)

 

 「党章草案」が採択されたのは翌五七年九月の第十四回拡大中央委員会総会であり、「五〇年問題について」という総括文書が採択されたのは五七年十月の第十五回拡大中央委員会総会だった(一五一ページ、一四九ページ)から、それ以前に書かれた私の著書のなかの綱領問題、五〇年問題についての分析、叙述、主張に、その後の全党的到達点からみて、少なくない逸脱や誤りをふくんでいることは、いうまでもない。

 

 たとえば『論争史』は、『六十年史』が「戦後党史上の最大の誤り」とした徳田派による党中央委員会の解体という問題についても、それを批判しつつも、「解党主義」という明確な見解をとることができていない。逆に統一会議の結成をも「分裂を固定化させた誤り」(上巻、二〇二ページ)とし、原則的党内闘争、すなわち「臨中指導下に結集して、正しい節度ある党内闘争によって中委の分裂その他の指導部の誤りを正すべきであった」(同、二〇三ページ)と書いている。

 

 しかし、こうした不正確な叙述、誤った主張の一つひとつを、今日指摘することが、私の果たすべき責任ではない。これらをふくむ自己の主張を、党の民主集中制にもとづく、自覚的規律にしたがって、私がのべたかどうかという、日本共産党員の基本にかかわることこそが、中心問題であった。

 

 中央委員会は、一九五六年六月の七中総で、綱領問題の全党討議の必要をみとめ、十一月の九中総で「綱領討議にさいしての留意事項」という方針を採択している(『六十年史』、一五〇ページ)。そして七中総決議以後『前衛』で綱領問題にかんする個人論文を掲載しはじめ、五七年二月号では綱領問題の特集をおこない、五七年九月から特別の討論話としての『団結と前進』を五集まで発行して、「民主集中制にもとづく自覚的規律ある全党討議」(一五一ページ)が組織されていった。

 

 ところが、私は党員でありながら、『団結』や『前進』には、1篇も論文を提出することなく、いちはやく『戦後革命論争史』を書き上げ、党外で出版することによって、五〇年問題の総括と綱領問題の討議に参加する、より正確にいえば影響を与えようとする態度をとった。五六年十一月十五日の日付をもつ「はしがき」には、その意図が公然とのべられている。

 

  「国内でも日本革命の見とおしについての、おそらく戦後はじめてといってよい広範な討議がおこなわれようとしている時に、一一年間の戦後論争の総括を提出することについても、いろいろな批判があるかもしれない。しかしこの事が、今後の進路を定めるための広範な討議にたいする私の参加をも意味することとなり、またたくさんの欠陥にもかかわらずその討議の参考資料として少しでも役立ちうるとしたならば、望外の事びである」

 

 当時の党の諸決定を調べてみると、この著書を出版したこと自体が誤り(第7回目)であった。

 

 当時、党中央委員会は、集団指導と民主主義を強調しながらも、党員が自由主義、分散主義におちいることをつよくいましめていた(六中総決議…一九五六年四月)。九中総(五六年十一月)の「綱領討議にさいしての留意事項」は、つぎのように決定していた。

  「綱領についての意見は、個人であると機関であるとにかかわらず、中央委員会に集中する」

  「綱領問題の討議も他のすべての党内問題の討議とおなじく、規約で定められている党内集会や発会議、党の刊行物で討議される」

 

 論文「共産主義者の自由と規律」(「アカハタ」、五六年十二月二十八日)は、「理論および政策の分野で、党の団結と統一にとって有害な論議が一部の同志によって党外へもち出されていること」などを批判し、春日正一統制委員会議長の論文「自由主義に反対し正しい党内闘争を発展させよう」(「アカハタ」五七年四月五日)は、具体的な実例として、当時党の指導機関の構成員だった人びとの問題として、大沢久明同志ほかの『農民運動の反省』の出版、武井昭夫の『中央公論』座談会での党批判をとりあげて、きびしくその誤りを指摘している。

 

 さらに常任幹部会の「綱領問題の討議について」(五七年六月十八日)は、東京都委員会の『日本革命の新しい道』と、党員による『日本共産党綱領問題文献集』の発行が、九中総決定に反したものであること指摘し、全党に民主集中制にもとづく綱領討議を訴えている。

 

 当時のこれらの方針、決定からみても、五〇年問題と綱領問題について、個人的な総括と個人的見解とを、いちはやく党外の出版物で提出した私の著書『戦後革命論争史』は、党規律を守らず、党の決定に反して、自由主義、分散主義に走ったものであることは明白であった(第8回目)と思う。

 

   三、分散主義、分派主義、自由主義の誤り

 

 私は、党規約を自覚的に守る義務をもった党員として、綱領問題について意見があれば、『前衛』や『団結と前進』に論文を提出すべきであったし、その権利は十二分に保障されていた。ところが私はそういう態度をとらず、党外で、綱領問題、五〇年問題を勝手に論ずる著作を出版する態度をとり、しかもそれが党規律や党決定に違反していることを意識していなかった。こうした態度をとったのは、当時の混乱期における私の思想的状況に原因がある。

 

 一つは分散主義(第9回目)である。

 ここで五〇年問題における私の活動にくわしくふれるつもりはないが、「六全協」前後かなりの期間、私は、事実上、一定の理論的傾向をもつ一つの党員グループのなかにいた。大月書店の『双書 戦後日本の分析』も、このグループの企画によるもので、綱領討議をも意識した特定の理論的潮流を代表した出版企画でもあった。このグループのなかには、あきらかに分散主義があった。

 

 当時ひろくみられたこうした分散主義は、容易に分派主義に転化、発展する重大な危険をもっていたし、事実上分派主義におちいりつつあった。そのことは、ほとんどが反党活動に走り除名された、このグループのその後によって、事実で証明されている。

 

 もう一つは自由主義(第10回目)である。

 当時の私は、五〇年問題から「六全協」にいたる経験、そしてフルシチョフ秘密報告によるスターリン批判によって、依拠するものは自分の思考しかなく、党や党の指導者への無批判的追従はいっさいしまいと心に誓うようになっていた。この心的状態は分散主義、分派主義と結合して(第11回目)、党の決定についても、これをないがしろにしやすい傾向をはらんでいた。

 

 『論争史』のなかのつぎの一節は、その危険をしめしていた。

 「こうした立ちおくれの原因が、マルクス主義理論の過去の諸欠陥については異論があるとしても、少なくとも最近数年間の理論家のがわについては、善意と党派性の結果とはいえ、現実よりも公式や共産党の決定を重んじ、現実にたいする敏感な感覚と創造的な分析を欠き、副次的問題については精緻な論理を展開することはできても、もっとも決定的な問題については追及をみずからあきらめがちだった臆病な御用学者的態度にあったことは否定できない。個人崇拝の問題はたんにスターリン個人たいしての問題ではなく、日本ではもっと一般的に、共産党の指導的幹部および指導的理論にたいする無批判な追従の傾向としてとりあげなければならない」(上巻、四ページ)

 

 もちろん党の決定、方針についても、それを実践しつつ、それが現実に合致しているかどうかを、真剣に検証、分析することは、その決定をおこなった党機関とその構成員はもちろんのこと、党員理論家だけでなく、すべての党員にとって、義務的なことである。しかし、その際の意見の提出は、党規約にもとづき、民主集中制の組織原則にもとづいておこなわれなければならない。党は、民主集中制の全的な発揮によってのみ、より正しい認識に到達しうるからである。

 

 ところが先に引いた私の叙述は、党員理論家個人が、党の決定や方針を「誤り」と感じ、みなしたとき、むしろ決定や方針を重んじないで、党内か党外かなどにこだわらず、公然と勇気をもつて自説を発表すべきであるかのような含意をふくんでいる。集団的決定を重んじ、党の組織原則を守りながら、意見をいうことの重要性は、言及されていない。言及されないだけでなく、私自身が自由主義、分散主義の傾向、事実上の分派主義に深くおちいっていたこと(第12回目)は、この書全体がしめしている。

 

 もちろん、理論的な研究の自由は、最大限に保障されればならないし、党の発展の条件としての党内民主主義は十分に尊重されなければならない。党員理論家の研究の自由は、注意深い扱いを必要とする多くの問題がよこたわっているが、それにもかかわらず党規約にしめされた民主集中組織原則にもとづく党員理論家の自覚的規律の厳守は、どんな場合でも、最大限に守られなければならない。

 

 戦後三六年におよぶ私の党生活をふりかえってみて、この本を書いた頃の私は、みずから自覚してはいなかったが、かなり危険な地点に立っていた時期であったと思う。私が、党員としての軌道をふみはずさずに活動をつづけろことができたのは、安保闘争をはじめとする党と日本の勤労人民の闘争の歴史的な前進のなかで、新しく多くのことを学ぶことができたからだった。

 

 理論の面でも、日本の国家的従属の問題その他について、まずまず誤った態度をとるに至ったそのグループとの対立がひろがり、多くの論争をせざるをえなくなっていった経過もあった。こうして私は、第八回党大会前、綱領草案が発表されたとき、それを支持する理論的見地に立つことができるようになっていたし、またそのグループの少なからぬ人びとの党からの離反から、民主集中制の組織原則の重要性をいっそう痛感するようになっていた。

 

 この一文を草するのは、古い問題をむしかえしたいためではない。内外情勢が大きな転換点に立ち、その理論と政策の自主的、創造的な発展も求められ、党全体がこの分野でも重要な前進をなしとげつつある今日、党員理論家の研究の自由とその前提としての民主集中制の組織原則との関係が、改めて問題とされる実例が、二、三生まれているからでもある。

 

 私は、私自身の経験から、党員理論家が、組織原則を守る党的積極性をもつことと、党全体の政治的、政策的前進に積極的に貢献することが、実は不可分一体のものであることを痛感しており、この一文がそのことの一つの教訓として役立つことを願っている。

 

(うえだ・こういちろう=党幹部会副委員長)

 

 

 3、『戦後革命論争史』(抜粋)

 

 第三篇第五章、第二〇回大会後の理論戦線 (全文)

 

 〔小目次〕 下巻P.211〜231

   1、第二〇回大会と日本共産党

   2、労農派の活躍

   3、社・共の統一について

   4、日本帝国主義の復活

   5、戦後史の問題

   6、日本マルクス主義の批判

   7、農業問題

   8、(注)14個

 

 1、第二〇回大会と日本共産党

 

 以上二章にわたって、第二〇回大会・八全大会を中心とする国際的なマルクス主義理論の動向を紹介したのは、本書の課題であるわが国の革命理論にたいしても、それが決定的影響を及ぼしつつあるからにほかならない。第二〇回大会後の日本のマルクス主義理論戦線は、国際理論戦線の新しい発展の助けを借りて、自己の理論の検証と発展の新しい一歩をふみだす。しかしそれは五〇年から五五年までの時期のような直結的展開ではありえなかった。というのは今回は、かつての国際的指導としてではなく、各国のマルクス主義にたいする自主的な発展の強い要請が問題の提起そのもののなかにふくまれていたからである。

 

 したがって、今までとくに無批判的な追従の傾向におちいりがちだっただけにわが国のマルクス主義の新段階はけっして平坦な道ではなかった。それは自己批判やためらい、混乱や沈黙をともなった、苦痛の多い過程を必要とし、諸外国のマルクス主義のような一挙に解きはなたれた盛観をただちに呈することができず、まず提起された諸命題の正しい摂取の段階をへて、ようやく新しい胎動をみせはじめていく。以下この章では、大会後約八カ月間の理論戦線の動向を概観することとしたい。

 

 まず日本共産党中央委員会は第二〇回大会の一カ月ののち五中総の決議として『ソ同盟共産党第二〇回大会について』(『アカハタ』五六年三月二四日号)という声明を発表したが、内容は第二〇回大会の諸結論の要約と六全協の正しさの再確認にとどまり、とくに積極的な内容をもつものではなかった。党の機関紙誌上での討論もまだ意識的には開始されず、前章でみたような諸外国の共産党がみせた活発な反応といちじるしい対照をみせていた。

 

 四月には六中総が開かれ、六全協の基本方針にもとづく党の任務についての報告と各分野の活動方針案が発表されたが、やはりまだ第二〇回大会の成果は具体的にはとりいれられていなかった。ようやく討議が開始されたのはフルシチョフ「秘密報告」が発表になったのちの六月末からで、七中総の決議『独立、民主主義のための解放闘争途上の若干の問題について』が参院選挙投票の直前に発表され、新綱領の問題の一節「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである」という部分の改訂の必要をみとめ、サンフランシスコ講和会議以後の情勢の変化によって、議会をつうじて「民主主義的民族政府」を樹立する可能性ならびに社会主義への平和的移行の可能性が生まれてきたことを明らかにしてからであった(注1)

 

 この決議は資本主義諸国の共産党の平和的移行の態度表明にならって、革命の平和的発展を否定していたそれまでの方針を転換したものであったが、戦後単独講和にいたるまでの七年間について、アメリカ帝国主義の軍政を理由として「国会をつうじての革命の可能性」を否定していた点は、のちにさかんな党内討議の対象となった。

 

 しかし決議が、若干の問題を残しながらも日本革命の中心的政治目標として民族解放民主統一戦線を基礎とし民主党派によって構成される「独立・平和・民主主義のための政府」の平和的な樹立をかかげ、その政府の任務として「国民の民主主義的制度と権利の確立、国民生活の安定」ならびに「サンフランシスコ条約・日米安全保障条約・日米行政協定の改訂もしくは廃棄」をあげ、この政府が終局的には日本の独立を平和的にかちとりうるし、ついで社会主義への平和的移行の出発点となることを指摘したことは、まだ概略にすぎないとしても日本革命の政治路線についての正しい方向を国民の前に明らかにし、さらに少なくとも理論的な政治路線のうえでは社会党・労農党との革命における長期的な協力関係をはじめて可能にしたもので、非常に重要な意義をもつものであった。

 

 日本マルクス主義の新しい理論的前進は、これ以後この七中総決議を契機として、国際理論戦線の成果を摂取しながらしだいに開始されていく。

 

 2、労農派の活躍

 

 右のような事情によって、第二〇回大会をめぐる討論はまず共産党の外側で、主に『中央公論』『世界』の二つの総合雑誌の誌上で活発に展開されていき、しかもこの討論のなかでは、幾人かの例外をのぞいて沈黙を守っていた共産主義理論家のかわりに、従来スターリン主義および日本共産党をきびしく批判しつづけてきた山川均・向坂逸郎らを先頭とする労農派理論家が一せいに見事な進出をみせ、さかんな論陣をはったことが大きな特徴であった。

 

 まず第二〇回大会全般をあつかったものとしては、向坂逸郎の論文『社会主義の古くして新しきもの』(『世界』五月号)が、大会の諸結論のうち、革命の平和的発展の可能性・平和共存・資本主義の現状分析をほぼ承認して、すぐれた解説をおこなった。このなかで向坂が日本共産党の「新綱領」の改訂を要求し、日本社会党の「議会主義」的偏向をいましめたことは時宜に適した正しい主張であった。ただかれが、現在の時期を第一次大戦後の時期から類推して「相対的安定期」と規定したことは、「直接的に革命的な条件のもとにあるとは考えなとことが正しいとしても不正確である。たとえば英・仏のスエズ侵略一つをとってみても現在がけっして「相対的安定期」ではないことば立証されている。

 

 このほか大会の全般的問題を扱ったものとしては、『フルシチョフ・ミコヤン演説を読んで』(『中央公論』四月号)、座談会『問題は何か』(『世界』五月号)、『スターリン批判以後』(『世界』六月号)福田歓一・気賀健三の論評と討論『ソ連の変貌』(『世界』七月号)などがあるが、いずれもジャーナリスティックな角度からとりあげられた解説的・啓蒙的記事が多く、大会の正確な意味を探り出し、つきとめようという努力がマルクス主義理論家と社会民主主義的あるいはそのほかの政治学者・社会学者たちとによって共通な広場でおこなわれたという積極的現象があらわれたわりには、大きな成果はみられなかった。とはいえ、これらの記事には日本の論壇が第二〇大会を一致して歓迎し、新しい時代の誕生を一致して予感していた実状がよく表現されていた。

 

 3、社・共の統一について

 

 ようやく六月ごろから、日本の論壇にも第二〇回大会の諸結論を基礎として、日本に固有の諸問題を独自に追究していこうとする論究があらわれはじめる。以下、テーマ別にその追求のおおまかな展望をまとめておきたい。

 

 まず第一のテーマは、共産主義と社会主義、したがってまた共産党と社会党との新しい関係についての問題である。この問題を最初に正面からうけとめたのは山川均である。

 

 山川はまず短い論評『ソ連はどう変ったか』(『中央公論』四月号)で、第二次大戦後「ソ連体制がつぎつぎに新しい地域を吸収して膨脹することにによって社会主義の世界が形成される」時期は終りを告げ、「社会主義の世界は、ソ連体制が膨脹することによってではなく、異った独自の道で社会主義に移行した国が、自主的に、しかも緊密に連携しこれらの国々の間に資本主義的な国際関係とはちがった社会主義的な新しい国際関係を創造し発展させることによって形成されてゆくものとみなければならない。

 

 現在まだソ連体制に従属している衛星諸国も、次第に自主性をもち、ソ連との間に正常な社会主義的な国際関係が成立する方向に進むものと思われる」こと、このことと関連して迂余曲折はあってもコミンフォルムは解体されて共産党と社会党インタナショナルの諸党派を包括する新しい国際的機関が創設される方向へ近づくことが予想されると指摘した。用語に混乱はあるが、当時としては卓見というべきである。

 

 この新しいインタナショナルへの展望の一つの裏づけとして、山川均が編集人に名をつらねている『社会主義』四月号はユーゴの理論家ヴラホヴィチの『新しいインタナショナル』の提唱を訳載しているが、このなかでヴラホヴィチは、国際組織の問題は、すでに社会主義諸国家群が形成されている今日では、労働運動が権力獲得の準備時代にとどまっていた時期とはちがったふうに提起されねばならぬこと、コミンフォルムも第二インタナショナルも、新しい時代に古い形式を復活させようとした無益な試みであったこと、現在必要な協力形態は社会主義への道の多様性を基礎としながら「社会主義実現のために戦うあらゆる組織や組織運動や政党をふくむもっとも包括的な広範な連合」であることを主張していた。山川の展望は若干の誤謬をもふくめてほぼこれと一致していたのである。

 

 この問題は、座談会『革新政党』(山川均・大内兵衛・石上良平・高橋徹)(『世界五月号』のなーかでいっそうくわしく展開され、第二〇回大会では過去の人民戦線時代とちがって、「社会民主主義政党それ自身の存在理由を積極的に認めて、それが社会主義革命遂行の一つの主要な勢力となりうる」とされたとみられ、改良主義・修正主義とははっきり区別されねばならぬこと、この社会民主主義と共産主義との統一戦線の気運は今後世界的に起ってくると予想されることを確認し、さらに日本の革新政党の行動の統一をめぐる諸問題を、社会党と共産党の欠陥、両党の階級的基盤の弱さと膨大な小ブル中間層をもつ日本の社会構造との関連、農民層の獲得、国民の政治心理の動向、二大政党と社共両党など、今まであまり追求されたことのない新しい具体的な問題がひろく究明の対象とされた。ここでふれられた諸問題は今後より正確な科学的究明を必要とするものである。

 

 この間イギリス労働党左派の理論家G・D・H・コールの論文『果して一線を画すべきかき社会民主主義者と共産主義』(『世界』七月号)が紹介されて、かなりの反響をよんだ。コールは四月七日に「社会主義と共産主義とのあいだに何ら共通点もないことを断言する」という行動統一の拒否によってソヴェトの政策転換にこたえた社会主義インター執行局の声明を反ばくし、共産主義と社会民主主義は重要な点において異なってはいるが、少なくとも四つの点、すなわち、()生産手段の社会的所有の実現、()人民のための福祉国家の樹立、()不労所得の一掃、()労働者階級の指導力の承認においては意見が一致していること、社会主義インターが主張している議会主義と暴力主義の無条件的対立は無意味であることを説き、社会民主主義の立場から第二〇回大会の意義を認めて、共産主義者と社会民主主義者とが「資本主義と帝国主義と反動」とに対抗する統一を築きあげる日が近づきつつあると主張したのである。

 

 二つの座談会『議会主義と革新政党』(都留重人、志賀義雄、勝間田清一、羽仁五郎)(『中央公論』六月号)、『日本における社会民主主義と共産主義』(伊藤好道・岡田春夫・志賀義雄・猪木正道・清水慎三)(『世界八月号』は、前者は小選挙区制反対のなかで実現された社共の統一行動を基礎とした現実的討論、後者はコール論文を出発点として日本革命の戦略論におよんだ理論的討論が主題であったが、現実的にも理論的にも日本では社・共・労の三つの革新政党の行動の統一がいろいろな問題をふくみながらも成熟しつつあることを率直に示した企画であった。

 

 ことに後者の討論のなかで、()当面の闘いの主目標の一つが民族独立にあること、()社会党は独立と社会主義とを同時に達成すべきものとし、共産党はまず民主主義をつうじて社会主義へとするちがいはあるが、実践的には対独占資本闘争という点では三党とも同一であることの二点があらためて再認識されたことは少なからぬ収穫であった。これらの一連の政党幹部の参加する座談会では、現在の統一のための主な障害は、社会党の「共産党とは一線を画する」という態度にあるが、これは戦前からの頑固な右翼社会民主主義の反共理論と、もう一つは共産党のがわの誤謬の反映として、主として労働運動の過程で戦後歴史的に形成されてきた共産党不信論との公約数であること、共産党にたいしてもっとも望まれたものは革命の平和的発展についての態度の明確化と方針の一貫性であることなどが明らかにされた。前述した共産党の七中総決議はこれらの要望の一つにこたえたものということができる。

 

 ついで山川均が先の自己のテーマを歴史的に追求した力作『国際主義の新しい課題−社会主義運動の戦線統一のために』(『世界』八月号)が発表された。山川は、戦前の第二インター・第三インターの分裂の歴史的反省をおこない、第二〇回大会によって「ソ連の側が責任を負わなければならない戦線統一への障害はとり除かれ」国際プロレクリアートの統一の新しい希望が生まれてきたとのべ、その見とおしとして「そこで将来に考えられるインタナショナルは、すでに社会主義政権の樹立されている国々の党、資本主義国における党、植民地的な状態、またはそういう状態から新たに解放されたいわゆる後進地域の党という、異った条件のもとにある三つのグループの社会主義政党を包容しうるものでなければならないのであって、これは過去のどのインタナショナルよりも、はるかに複雑な内容と複雑な問題をもつものであって、したがって弾力性のある組織を必要とすることにもなる」とのべた。

 

 山川のこの論文は、新インタナショナルの提唱という部分をのぞけば、その基調はトリアッティの「多数中心体制」の理論と似かよった方向をしめしていると同時に、日本共産党の創立参加者でありながらその後別個の方向を歩いてきた山川じしんの経歴をになって、戦前の日本の革命運動の再評価をもおこなおうとする今後の意図をもうかがうこともでき、重要な問題を提出した論文であった。

 

 その後『社会主義』五周年記念号は、ほとんど誌面の大半をついやして山川均をかこむ社会主義運動史の座談会を掲載したが、このなかで山川は、共産党側から主張されてきた多くの非難を論ばくしながら、労農派と共産党をマルクス主義運動のなかの二つの流れとしてとらえ、組織論から戦略論にまでいたる広範な分析をおこなって両者の相違を明らかにし、日本の社会主義運動史の独自の展開を試みている。山川の評価の正否には多分の問題が残されているが、戦前のプロレクリア運動史の本格的再検討がすでに日程にのぼっていることについては、疑いをいれる余地はない。

 

 社共の統一行動の問題については、『前衛』一二月号のアンケート『共産党と社会党の協力』は重要な位置をしめる。ここにしめされた率直な意見は、前途の曙光をわれわれに認めさせるものであった。しかし一二月に労農党の社会党への合流が決定されたことは、社共両党の関係に若干の変化をもたらした。労農党の入党は、一面社会党内の統一勢力を強めるとともに一面石橋内閣成立後ふたたび新しい意味をもってきた二大政党制の方向を強めることによって社共の統一戦線の実現を遠ざける可能性をももっている。労農党の合流がおこなわれる五七年一月の社会党大会を一つの転機として、社共両党の関係はまたつぎの局面にはいるものと考えられよう。

 

 4、日本帝国主義復活

 

 日本帝国主義復活の問題について最初に討論をよびかけたのは、五四年来、軍国主義復活清問題について論陣をはっていた豊田四郎であった(『日本帝国主義は復活しつつあるか…一つの問題提起として』―『前衛』五月号)。豊田は、ドイツ共産党の綱領的宣言が依拠したドイツ帝国主義復活の事実の経済的過程を、ユルゲン・クチンスキーの著書によってかなりくわしく紹介したのち、日本帝国主義の復活過程を分析し、ドイツのようにすでに現実に復活したとの「性急な結論をくだすのはきけんである」といいながらも、工発生産水準の異常な増加、生産の集中と独占体の強化、商品輸出と資本輸出の増大などの指標から「当面、筆者は、日本経済の現状に、植民地経済的要素とならんで、復活しつつある帝国主義諸関係が前面にでていることをみとめないわけにはいかない」として、共同研究の必要をよびかけ、「戦後一〇年の経済過程を『従属再軍備』という固定化された公式で灰色にぬりつぶす占領制度=カベの理論」(具体的にはかの『岩波講座』(注5)をはじめとして一般的であった理論をきすと思われる)の早急な克服が必要であると主張した。

 

 豊田の問題提出とならんで、帝国主義復活の政治的過程を明らかにしようとした試みが井上清によっておこなわれた(『鳩山内閣諭』―『中央公論』六月号)。井上は鳩山内閣を「アメリカに従属しながらも帝国主義的自立をもとめている」二面性をもった政府とし、吉田派をアメリカ帝国主義の「日本における番頭」として特徴づけ、日本の独占資本は「まだ帝国主義的自立をなしとげるというにはほど遠いが、すでにその傾向を生じており、それは、だんだん早く発展するであろう」と論じた。

 

 右に提出された視角から、日本のアメリカ帝国主義の従属性の評価、さらには現代帝国主義の特徴という問題がふたたび検討の対象となってきたのは当然である。『中央公論』(七月号)の特集『日米関係の再検討』と、『世界(一〇月号)の討論『現代帝国主義』(有沢広已・都留重人・小椋広勝.石川滋・名和統一)はそれぞれのやり方でこの問題を発展させようとしたものである。

 

 後者は、レーニンの「帝国主義論」の分析が、四○年をへた今日の情勢にあって、どのような修正ないしは新しい規定を必要とするかというテーマを追及した討論で、出席者の豊富な問題意識によってさまざまな問題が拾いあげられていたが、この節の主題に関係するテーマでは、名和統一が西ドイツと日本をはっきりと「独占が支配する経済は、とりもなおさず帝国主義である」と断定をくだしたことが注目された。また都留重人は強大な資本主義国による弱少資本主義国の「従属化の問題は、帝国主義の新しい発現形態の問題として、私たちがもっと究明すべき点」だとのべている。政治的にも経済的にも、日本の「従属」構造の理論的解明は日本帝国主義復活の問題の焦点として、今もっとも緊急の任務となっている。

 

 5、戦後史の問題

 

 遠山茂樹らの『昭和史』にたいして亀井勝一郎が提出した疑問に端を発した論争は、第二○回大会を契機として新しい展開をしめし、そのなかから戦後史のかなり根本的な再評価について積極的な立論をおこなった遠山茂樹の二つの論文が生み出された(『現代史研究の問題点』−『中央公論』六月号、『戦後史をどう受けとるか』―『世界八月号』。

 

 遠山は第一の論文では、戦前の歴史を主題としてはいたが、六全協の決議にそって、現実の共産党の立場と、歴史的に可能な変革のコースに立つ「あるべき前衛の立場」とを区別し、両者の混同が『昭和史』のなかにあったことを自己批判しつつ、現代史研究の客観性は後者に正しく立脚することによって成立するとのべ、『昭和史』の科学的自己批判の焦点として戦前の共産党の戦略から戦術を引き出す力を欠いていた「弱さと幼さ」の具体的な実証にとりかかることを宣言した。

 

 遠山はこのような反省のうえに立って、まず第二論文で戦後史についての重要な自己批判をいくつか提示した。

 () 「民主化の時期」の積極的意義――「解放軍規定」のアンチテーゼとしての清算主義におちいらぬためには、その歴史的根拠としての国民の解放実感の実体を探らねばならぬ。その実体として遠山は当時帝国主義的利益の範囲内でも、日本の民主化をおしすすめる一定の歴史的条件が存在した国際情勢の諸要因と、革命的情勢ではなかったが、それに「近似した」条件が存在した国内条件との二つを示唆した。

 

 () 憲法の積極的意義――こうした民主化の時期に制定された新憲法は、帝国主義的要求の反映にもかかわらず、本質的には反ファッショ共同綱領としての「ポツダム宣言の延長として理解すべき性格」をもっていた。以後この憲法に書かれた政治的自由の内容は、国民の力で闘いとられて今国民の手中にある。

 

 (3) 平和運動の理論――今日の政治における中心的目標は、戦後期のすべてをつうじて社会主義か資本主義かの問題ではなく、平和と民主主義を強化するための「社会主義国と資本主義国の平和共存」の実現にあった。日本の平和運動の目標もまたここにあり、占領制度下という特殊条件からくる鋭さと困難さをもってしても例外ではなかった。

 

 以上の三点の自己批判から、遠山は、新憲法の成立は帝国主義政策の一環であるとする従来のマルクス主義的立場から出てくるものは戦術的手段としての憲法擁護闘争でしかなかったとし、実は憲法擁護は「国際的には平和共存の実現に寄与し、国内的には民主主義を樹立するための日本の政治課題の焦点」であると結論した。かれの立論は戦後日本の「土地改革や労働立法などの重要な諸措置の進歩的要素を無視した」というソヴェト東洋学誌主張の自己批判をさらに一歩進めて、問題の所在の一つの焦点をえぐり出したものというべきである。

 

 また五月の歴研大会では、五一年以来、歴史問題にたいする民族主義的カンパニアによってかなりの混乱をひきおこした事実にたいして、ねずまさしらによって共産党に属する歴史学者の責任究明がおこなわれ、石母田正の自己批判も発表された(第二篇第五章注13参照)。これは戦後史の評価にも大きくつながるべきものである。

 

 戦後史はこうして今、かなり根本的に書き改められなければならないことが明らかとなってきている。戦後の解放で大きく右に揺れ、コミンフォルム論評で右翼偏向を自己批判して道に大きく左に揺れ、第二〇回大会でもう一度極左偏向を自己批判しなければならなかった日本マルクス主義は、戦後一一年たってみたび、戦後の出発点を科学的に見なおす必要に迫られているのである。

 

 6、日本マルクス主義の批判

 

 六全協・第二〇回大会・フルシチョフ「秘密報告」と共産主義と共産党をめぐる重大問題がこの一年間ひきつづいて起ったため、わが国のジャーナリズムでは共産主義批判や日本共産党批判が意識的にとりあげられる傾向が強まり、このテーマを扱った論文や著書が数多くあらわれた()

 

 なかでも、もっとも流行したものは第二期の日本共産党の極左冒険主義の誤謬をついたジャーナリスティックな批判で、大井広介の著書がその代表的なものである7。大井らの共産党批判は、党外からの事実にもとづく率直な批判としての積極的意義も若干あったが、日本共産党の戦後の歴史を、一面的に誤謬の連続として描きだした点において、理論書ではないとしても危険な清算主義を生む母胎としての役割をはたすものであった。

 

 一般的にいっても、誤謬がとくに大きなものであった場合には、その克服は容易に逆の極端の清算主義におちいりやすい。おかされた誤謬の性質と範囲を正確に見きわめ、その期間に党が達成した基本的な成功の評価と緊密に結びつけてその比重を見きわめることは、もっとも経験ある共産主義者でさえもつまづきやすい困難な課題である。日本共産党の極左冒険主義の誤謬の批判も、当時の歴史的条件からきりはなされ、かつまたその期間でさえ党がおこなっていた独立をめざす反帝国主義の英雄的な闘争、民主主義を擁護し、勤労者の生活権を擁護するためのねばりづよい日常闘争、ある程度まで広範な層を結集しえた平和擁護闘争などの諸成果を無視してあつかわれるならば、批判そのものも不正確なものに転化するばかりか、ただちに階級敵を利する役割を果すものとならざるをえないのである。

 

 たとえば斎藤一郎の『戦後日本労働運動史』(五六年八・九月刊)は、労働運動史という複雑な課題を共産党の誤った指導という基本的観点で整理したもので、こうした清算主義的傾向の一産物であった。また戦前戦後のマルクス主義を新しい観点から整理しようとする労作が小山弘健によって相ついで発表されたが、いずれも日本マルクス主義の歴史を「神山理論」の勝利の歴史として描きだした主観主義的なものに堕していた8

 

 これらの共産主義批判のなかで未開拓の分野に独自のメスをふるって新しい問題を提出していたものは、亀井勝一郎・丸山眞男・篠原一・久野収・鶴見俊輔らであった。マルクス主義とは別の立場に立つこれらの人々の批判に共通していた特徴は、マルクス主義の批判を、その理論の方法論や、あるいは理論のにない手として共産主義者の認識方法や、発想方法の欠陥を分析することによって果そうとしたことである。こうした特徴はその批判に一定の成果と限界とをともにあたえるものであったことは見やすい道理であろう。

 

 亀井はまず文学的手法を駆使して戦前の党史を回顧しながら、日本共産党の思考方法の特徴的欠陥として、第一に、日本固有の国民的伝統・風習・性格や日本固有の諸条件についての「日本の内部そのものからの発想」の欠如、第二に、日本の知識人に特有の「外国盲従」主義、第三に、日本人的性格のあらわれとしての「極端な潔癖性と生命がけ主義」「価値判断における無類の性急さ」などを、日本共産党のセクト主義と公式主義の心理的根源として指摘し、さらに具体的に山川イズムの再評価をはじめとして戦術問題にかんするいくつかの疑問をも提出した。

 

 丸山の労作は、第二〇回大会のテーマそれ自体の追求はしばらくおいて「スターリン批判をめぐる各国共産党の論議を素材として、現実の政治過程に対するマルクス主義者の思考方法に日頃感じていた若干の問題点を指摘」し、「コミュニストが依拠するマルクス主義の思考法にも閉ざされた完結性からの“自由化”を要求」しようとしたものであった。

 

 かれは、コムミュニストの思考法のなかに、個人崇拝の根源論議に見られるように歴史的・具体的究明よりも、究極原因にさかのぼってしまう「遡及法的論理」、これとは逆に「ついにその正体を暴露した」というように本質目的からすべてを流出させて論ずる「本質顕現的思考」、理論とテーゼを尊重するあまりに政治心理の非合理面の認識を拒否してしまう「合理主義」、すべてを資本主義制度や社会主義制度に還元してしまう「基底体制還元主義」などの固有の非科学的思考傾向がふくまれていることを、くわしく指摘した。

 

 篠原は、前掲『昭和史』や井上清・鈴木正四の『日本近代史』にはいわゆる「政治過程」(ポリティカル・プロセス)、つまり議会外勢力・圧力集団・政党・議会・政府などの諸集団の複雑な相互関係をつうじて「政策決定」がおこなわれる「立体的な螺旋的な循環の過程」がほとんど描けておらず、これは「日本のマルクス主義者の現代史研究に欠けている重要なポイント」でここから多くの「独断」が生まれるものと批判した。こうしてかれは歴史学者の任務として、「政治過程」の具体的分析と平行して、経済構造・資本構成の研究、政治的エリートの政治的行動様式・思想構造の実証的分析、「現代政治における大衆の理論的把捉」などが必要だとし、「もっと精巧なレンズ」をとよびかけた。

 

 久野・鶴見は「日本共産党の思想」をすぐれた創意によって分析し、日本の唯物論はその特有の歴史的条件のためにマルクス主義を主として「演繹的方法」によってのみ受けつぎ、その結果「生活の細部にわたっての」現実認識を欠いた「大局的唯物論」としての性格が強く、正しい「弁証法的唯物論」にまで成長していないと批判した。そして日本共産党の今後の課題として、理論を「検証可能の領域(テスタビリティー・ゾーン)にひきもどして」その正否を検するという能力を身につけることを要請した。

 

 これらの人々の日本マルクス主義にたいする誠実な批判は、現代のマルクス主義にあらわれている一部の否定的現象が、マルクス主義の理論体系に内在している本質的欠陥であるかのようにいうかたむきがあるとしても、われわれに深刻な反省を迫るものであった。今後の日本マルクス主義が、その創造的活動によって、どれだけ理論的有効性と指導性とをとりもどしていけるかが、実はこれらの人々の批判の有効性をも判定することとなるであろう。

 

 7、農業問題

 

 第一章でもふれたように、第二〇回大会後、党内討議の前進の結果、ソヴェト東洋学誌主張が、日本の「土地改革」の「進歩的要素」を無視したことを自己批判したこともあって、六全協後、「われわれの陣営にあった二つの意見、マックの農地改革はどんな重大な変化ももたらさなかったという意見と、マックの農地改革によってわが国の農村には封建的残存物は基本的にはなくなったという意見は、ともに誤っていた」という紺野与次郎などの折衷的見解は地を払い、いわゆる「国際派」の見解が正しかったことが一般的に認められてきた。

 

 共産党の六中総(四月)が決定した各分野の活動方針のうち、『当面の農民運動の方針』(『前衛』臨時増刊『日本共産党の任務と方針』)は、農地改革の結果、寄生地主的土地所有が排除されて「農民的土地所有」が拡大され、「農民は新たにアメリカ占領支配と独占資本の収奪にたいする要求を中心として」闘っており、土地改革の任務はなお残されているとはいえ、当面の闘争の重点は税金闘争・価格闘争・営農資金闘争などにあることを明らかにした。土地改革や土地管理組合の評価、運動の組織論や戦術論などにかなりの相違はあるにしても、この方針の基本思想が、第一章であげた常東総協の方針と基本的には同一方向のものとなっていることに争いの余地はないものであった。

 

 さらに八中総(九月)は「新綱領」の農民問題の規定の再検討と改正を提起し、六中総の方針案にもとづく農業・農民問題の理論的討議を全党によびかけた。

 

 なお、六中総の方針案については、方針が一八〇度の「コペルニクス的転回」をとげたにもかかわらず、過去の政策についての自己批判が目的意識的に提起されておらず、その結果常東の闘争の経験も科学的に摂取されておらず、闘争の戦術、組織の形態などにおいて不十分な点が残っていることを批判し、いくつかの問題を提出した遊上孝一の批判が発表されている(『農民運動方針(案)への批判』―『前衛』一〇月一二一号)。

 

 さらにこの時期には農業理論の基礎分野において、はやくもいくつかの論争点が提起された。

 (1) 農民の階層区分の再検討――この問題はまず一柳茂次によって提出された(『日本農民の階級規定の基本問題』―農民運動研究会編『新しい農民運動』五六年七月刊所載)。一柳は、現在の土地所有の基本形態は分割地農民的土地所有ではなく「農民的土地所有」であり、農民経済は「小商品生産」として成立しており、搾取関係は直接的生産関係での収奪から「流通過程での独占資本または国家にたいする関係」としてあらわれていることをまず確認したのち、従来一般的だった階層区分論、富農・中農・貧農・雇農というような区分は、こうした農村の現状にあてはまらぬドグマとなっていると主張した。

 

 かれはドイツのエルスナーの「勤労農民階級」という理論に手がかりを求めつつ独占資本の直接的収奪に全農民がさらされているかぎり、日本農民は「ひとつの階級、勤労選民階級を形成する」とし、日本の農業賃労働の特殊な性格から旧来の古典的な「貧農・雇農」規定はあてはまらず、また日本の貧農経営の自然経済的性格からいって、「独占資本と勤労農民の階級対立のなかで貧農層こそもっとも革命的なエネルギーをもつという従来の理論を実証することはむずかしいときわめて大たんな論証をおこなった。

 

 こうして一柳は、日本の勤労農民の分解過程は、典型的なブルジョア化とプロレクリア化ではなく、一般的には「小ブルジョア的経営に停滞したままでの富裕化」という上向傾向と、「雑多かつ分散的な農業外賃労働につながる貧困化」という下向傾向とであり、双方とも反独占の農民運動のよりどころとなるという結論をみちびいている。

 

 この結論は、常東での長い実践的経験の慎重な理論化であっただけに、従来の理論と根本的に対立した新理論として今後の農業理論の分野における一つの論争の対象となるものと思われる。

 

 大沢久明・鈴木清・塩崎要祏『農民運動の反省』(一一月刊)のうち鈴木清の書いた「第五章・今後の農民運動」は、過去の運動のセクト的傾向の反省という点では一柳と同じ出発点に立ちながら、「中農層」こそ帝国主義と独占資本の収奪という「農民としての矛盾を集中的にうけている」し、共産党は「資本主義的な独立自営農民の経営改善の要求を支持し激励すべきであるという新しい見解を発表している。この見解については一柳がただちに、全勤労農民階級の要求を中農要求にわい小化し、その結果として依然として「貧農依拠論」を雑居させているものとして批判した(農民運動研究会編『独占資本とたたかう農民運動』―五六年一二月刊―の第六章)。

 

 さらに『変革期における地代範疇』(山田盛太郎編、五五年度土地制度史学会の報告―五六年九月刊)で、従来の自己の農業理論の一応の自己批判をおこなった井上清丸が、現在土地をめぐる闘争が後景にしりぞいていたとしても「土地問題はいぜんとして民主主義革命の課題解決の根底に横たわって」おり、「貧農ないし半プロ層の土地欲求の満足」こそ「自由な農民的土地所有実現の現段階的特徴」であると主張していることをみても、第二期における農業理論上の対立が今なお変形しつつ底にひそんでいることがわかる。

 

 (2) 土地所有の規定――農地改革による変化の本質について、第二期の論争につづいて改革後の自作農的土地所有の性格規定があらためて問題になっている。詳論ははぶくが「農民的土地所有」(一柳)、「分割農的土地所有」(栗原百寿『農業問題入門』)、「基本的性格は地主的土地所有」(小池基之(9)どの相対立する見解がすでにあらわれている。『とりわけ変革期における地代範疇』で山田盛太郎が土地制度史学会の討議の結論としてつぎのようにのべたことは、今後「半封建論者」の新しい有力な論拠として適用されるかもしれない。

 

  「畢境するに、今次の農地改革においては半封建的、地主的土地所有は、独占資本による農業危機の解決として、極めて大巾に解体再編されはしたが基盤から一掃されたのではなかった。したがってまた、改革後における土地所有の性格を、封建的土地所有の解体から成立する自由な農民的土地所有、または分割地的土地所有の概念を以って律することをえない。」(同書四三九ページ)

 

 (3) 協同化の見とおし――反封建理論の転換とともに、現段階における「生産の協同化」を日本農業の近代化をおしすすめ、「将来の社会主義的農業を指向するもの」として評価しようとする見解が生まれた(10)。これにたいしては前記農民運動研究会の」一柳茂次遊上孝一らが全面的に反批判をおこなっている(前掲『独占資本とたたかう農民運動』)。

 

 以上のほかに、人民民主主義論について(11)、恐慌理論と景気循環の反省について(12)、マルクス主義哲学の反省について(13)ならびに社会主義の発展法則の解明(14)などの論究がおこなわれているが、これらの問題もすべて論争の口火がきっておとされたという段階で、今までのべてきた諸問題についてと同様に、日本革命論争の現段階は、本格的展開を今後に残しているというべきであろう。

 

 8、()14個

 

1 『アカハタ』にも五六年六月二六日号から解説『ソ同盟共産党第二〇回大会の諸問題』が連載されはじめ、『前衛』にも八・九月号に『ソ同盟共産党第二〇回大会報告・決議の学習要綱』が掲載された。

2(3)(4) イギリス、ドイツのデータにつき、省略

5 経済軍事化の過大評価にたいして最初に批判をくわえたのは井汲卓一の『循環における独占法則』(『世界経済評論』五六年九月号)であるが、これにつづいて内田穰吉も、「日本経済軍事化の定説」の再検討を提唱し、この定説は「あやまりであり、行きすぎである」と結論している(『経済評論』五七年一月)。

 

 6 そのうち理論問題をもふくむ代表的なものをあげると、特集『日本共産党の新展望』(『知性』六月号)、向坂逸郎『日本共産党を評す』(『社会主義』七月号―『社会主義―古くして新しきもの』所収)、『ソ連の変貌と共産主義の将来』(『中央公論』臨時増刊)、福田歓一『スターリン批判をどう受けとるか』(『世界』七月号)、亀井勝一郎『革命の動きをめぐって―現代史の七つの課題()』(『中央公論』一〇月号)、丸山眞男『スターリン批判の批判』(『世界』一一月号)、篠原一『現代史の重さと深き』(『世界』一二月号)、久野収・鶴見俊輔『現代日本の思想』(五六年一一月刊)。

7 大井広介『文学者の革命実行力』(五六年四月刊)、『左翼天皇制』(五六年一○月刊)、『代々木共産党は徒党だ』(『文芸春秋』五六年一一月号)、これに類するものとして三浦つとむ『共産党』 (五六年一一月刊)などがある。なお、戦後の共産党史に取材した小説には窪田精『ある党員の告白』、井上光晴『書かれざる一章』、杉浦明平『細胞生活』、金達寿『日本の冬』などがある。ほかに新聞記者のみた共産党史として村上寛治『日本共産党』(五六年一二月刊)も出版された。

 

 8 小山弘健『日本マルクス主義史』(青木書店五六年四月刊)、『日本資本主義論争の現段階』(青木書店五六年一二月刊)。

9 小池は、農地改革後の「自作農的土地所有」を「一面において地主的土地所有の対立物で」であるが、けっして「自由な農民的土地所有」ではないという二面性格をもっており、なお「基本的性格」は「地主的土地所有」であるとし(『農地改革と土地所有の性格』―『変革期における地代範疇』所収)、別の論文では「土地所有の地主的非農民的形態」とよんでいる(『戦後における土地所有の基本的視点』―『経済評論』五六年一二月)

10 たとえば寺島泰治『農地改革と階級関係の変化』(『前衛』五六年八月一一九号)、宮坂五郎『農地改革と長野県における農業の資本主義的発展』(『前衛』五六年一二月一二三号)。

11 『現代社会主義講座』(東洋経済新報社刊)第五巻および第六巻に掲載された編集委員会の自己批判、野々村一雄『社会主義的国際協力の転回点』(『経済評論』五七年一月号)。

 

 12 杉田正夫『マルクス主義経済分析の新しい発展―戦後景気循環論争』(『アカハタ』五六年一一月一四・一五・一九日号)、井汲卓一『戦後景気循環の研究』(日本評論新社五六年一二月刊)。

(13) 座談会『マルクス主義はどう発展するのか』(古在由重・久野収・鶴見俊輔、『中央公論』五六年八月臨時増刊号)、『日本のマルクス主義』(同上、『中央公論』五六年一二月号)、三浦つとむ『この直言をあえてする』(学風書院五六年五月刊)。

14 『現代社会主義講座』 (全六巻、東洋経済新報社刊)、『社会主義講座』(全八巻、河出書房刊)。

 

 

 4、『日本共産党の六十年』(抜粋)

 

 〔小目次〕 上田・不破査問と「自己批判書」公表事件との関連個所抜粋

   1、六全協後の党内状況、1956年〜58年

   2、第7回大会政治報告における党分裂5つの教訓、1958年

   3、民主集中制批判者たち、田口富久治批判、1978年

 

 1、六全協後の党内状況、1956年〜58年(P.147・148)

 

 また、五〇年問題の実情と極左冒険主義の誤りの深刻さがはっきりするにつれ、党内には自由主義、分散主義、個人主義、敗北主義、清算主義の傾向や潮流があたらしくあらわれた。過去の誤りへの批判の自由ということで、党内問題は党組織の内部で討議・解決するという原則からはずれ、党の民主集中制や自覚的規律を無視する傾向は、党内外にさまざまの形であらわれた。五〇年問題にかんして党中央が開催した会議、集会でも、東京その他の地方の会議でも、参加者が責任の所在の究明を要求して、会議が混乱する場合が少なくなかった。さらに、この間、不当な非難や処分などをうけて傷つき、あるいは党の状態に絶望的になって離党する党員も少なくなかった。壊滅した支部(細胞)も数多くみられた。

 

 また、「六全協」でえらばれた中央委員の一員である志田重男、椎野悦朗らが、党の分裂の時期に、党生活のうえで党の幹部としてゆるすことのできない堕落行為をおこなっていたことがあきらかになった。志田は、党の調査をうけるまえに任務を放棄して逃亡し、逃亡の理由が政治的意見の相違にあるかのようにいつわって反党分派を組織し、党のかく乱をくわだてた。党中央は、志田を除名し、その策動を粉砕した。椎野も党の調査を拒否し、敵対的態度をとったため除名した。

 

 2、第7回大会政治報告における党分裂5つの教訓、1958年(P.155・156)

 

 大会は、政治報告のなかで、一九五〇年の党の分裂とその後の事態について、詳細な総括をおこない、党分裂の直接、最大の原因が、当時の政治局多数による、規約にもとづかない指導的幹部の排除工作と中央委員会の一方的な解体にあったことを指摘し、この不幸な分裂の経験から、つぎの五つの教訓をひきだした。

 

 (1) いかなる事態に際会しても党の統一と団結、とくに中央委員会の統一と団結をまもることこそ、党員の第一義的な任務であること。

 () そのために、家父長的個人中心指導や規律を無視する自由主義、分散主義をきびしく排し、いかなる場合にも規約を厳守し、規定されている大会その他の党会議を定期的にひらき、民主集中制と集団指導の原則をつらぬくこと。

 (3) 中央委員会内部の団結とともに、中央と地方組織との団結のために最善の努力をはらうこと。

 

 (4) 党の分裂が大衆団体の正常な発展を破壊したにがい経験にたって、いかなる場合にも党の内部問題を党外にもちださず、それを党内で解決する努力をつくすこと。

 () 党の思想建設と理論を軽視する風潮を一掃し、党中央を先頭に全党が、マルクス・レーニン主義理論の学習を組織し、党の政治的、理論的水準を向上させるために努力すること。

 

 大会はまた、戦前敵に屈服して党と進歩的人士を裏切り、戦後長期にわたって党かく乱の犯罪的活動をつづけてきた伊藤律の除名を確認した。

 

 3、民主集中制批判者たち、田口富久治批判、1978年(P.401)

 

 この間、袴田転落問題を利用した反共攻撃のなかで、日本共産党の民主集中制にたいする非難が、そこに一つのねらいを定める形でおこなわれてきたこととも関連して、すでに第十四回党大会でも指摘されていた論壇などの一部論者による民主集中制論が、無視できない否定的役割をはたしていた。これらは、日本共産党の民主集中制が、近代政党なら当然の、もっともすぐれた組織的特質の一つであり、前衛党として不可欠のものであることをなんら理解せず、民主集中制を批判したり、分派や派閥の事実上の容認につながるよう規律をゆるめることを主張したり、行動では少数が多数に従うとしてもその党の方針にたいする批判の自由を保障するのが民主的政党としてあたりまえだと主張するなどの傾向をもっていた。

 

 これらにたいしては、不破哲三「科学的社会主義か『多元主義』か」(『前衛』七九年一月号)、「前衛党の組織問題と田口理論」(同八〇年三月号)、関原利一郎「前衛党の組織原則の生命」(「赤旗」評論特集版七七年十一月七日号)をはじめ、多数の理論的労作が深い批判的解明をおこなった。

 

 そこでは、民主集中制批判者たちの議論が、日本共産党の民主集中制論が五○年間題をふくむわが党の痛苦の経験のなかからうみだされた日本における科学的社会主義の運動の理論と実践の到達点だということをみずに、ただあれこれの外国の例を基準にして党の組織論を批判していること、ロシア革命の過程でいろいろな時期にレーニンがのべた言葉、とくにロシアの科学的社会主義の潮流が小ブルジョア的潮流と一つの党のなかに連合していた時代にレーニンがいった「批判の自由と行動の統一」という命題を、そのままいまの共産党の基準にすることによって、わが党を小ブルジョア的潮流をふくむ共同戦線的な党にひきもどす議論であること、共産党内の民主主義を論じるのに、これを日本の社会における民主主義の問題と事実上混同し、われわれは国家のない未来社会を望んでいるのだから、われわれの運動の組織も未来社会と同じ原則でつくられなければならないというバクーニン流の議論となっていることなどを、深く詳細に解明した。これらの理論的成果は、世界の共産主義運動にとっても先駆的意味をもつものであった。

 

 

 5、『日本共産党の七十年・年表』(抜粋)

    ユーロコミュニズムへの急接近と逆旋回データ、1975年〜85年

    イタリア、フランス、スペイン3共産党との関係

 

 1975年

 9・20日〜28 イタリア共産党代表団(アルフレド・ライクリン指導部員)が来日、9・22〜24党代表団(団長・西沢富夫常任幹部会委員)と会談、9・29共同コミュニケを発表

 10・12〜19 フランス共産党代表団(団長ポール・ロラン政治局員)が来日、10・13〜14、18党代表団(団長・西沢富夫常任幹部会委員)と会談、10・20共同コミュニケを発表

 11・15 フランス、イタリア両共産党、自由の問題などで共同宣言

 12・14 スペイン・イタリア両共産党共催のスペイン人民との国際連帯集会(ローマ)に西沢富夫常任幹部会委員らが出席

 

 1976年

 2・4〜8 フランス共産党第二二回大会に党代表団(団長・松島治重常任幹部会委員)が出席

 3・27〜31 スペイン共産党代表団(団長・カリリョ書記長)来日、3・28〜29党代表団(団長・宮本委員長)と会談、3・31共同声明を発表

 4・4〜10 フランス共産党マルシェ書記長来日、4・5宮本委員長とマルシェ書記長が会談、4・10共同声明を発表

 4・27 不破哲三論文「科学的社会主義と執権問題―マルクス・エンゲルス研究」の「赤旗」連載開始(〜5・8)

 6・29〜30 ヨーロッパ共産党・労働者党会議(ベルリン)

 

 7・28〜30 第一三回臨時党大会、「執権」問題、「自由と民主主義の宣言」などを採択

  (宮地注)、3党を含むヨーロッパのすべての共産党が、70年代に、プロレタリア独裁理論は誤りだったと、公然とその放棄宣言したこととの関連()。日本共産党だけは、放棄せず、プロレタリア独裁→プロレタリアートの執権→労働者階級の権力と訳語変更して、隠蔽・堅持中。「自由と民主主義の宣言」は、ユーロ・ジャポネコミュニズムを象徴する内容となった。

 学者党員中野徹三札幌学院大学教授は、不破「執権」論文にたいして、あくまで「独裁」とする訳語が正しいとする学術論文を発表した。それにたいして、日本共産党は、他の論文・問題も合わせて、「党内問題を党外にもちだした」規律違反として、彼を査問し、除名した。

 

 1977年

 1・10〜19 党代表団(団長・不破書記局長)、イタリア訪問、1・10〜11イタリア共産党代表団(団長・ジェラルト゜・キアロモンテ指導部員)と会談、1・20共同声明を発表

  (宮地注)、このような共同コミュニケ、共同声明の発表は、1977年が最後である。以後、その共同形式はなくなっている。

 

 3・2〜3 イタリア、フランス、スペイン三党書記長の会談(マドリード)、共同声明発表

 

 11・7 関原利一郎論文「前衛党の組織原則の声明」を「赤旗」評論特集版に掲載

  (宮地注)、この論文は、党中央による第1回目の学者党員・田口富久治批判だった。彼は、1976年7月、「朝日夕刊」に、フランス共産党のデュヴェルジェ理論を紹介したコラム記事『さまざまな「傾向」が党内部で共存する権利』を発表した。それにたいして、党中央は、彼を個別に党内批判・詰問をした。彼が、その事実上の査問に屈服しないので、党中央は、その内容にたいする「関原利一郎」名の批判論文を発表した。「関原利一郎」とは、榊夫、上田耕一郎ら4人共同執筆のペンネームである。その後も、1977年、彼は、雑誌論文『先進国革命と前衛党組織論』を掲載した。そこで、彼は、ユーロコミュニズムの理論内容、傾向をさらに詳しく、肯定的に紹介した。

 

 1978年

 4・19〜23 スペイン共産党第9回大会に党代表団(団長・戎谷春松常任幹部会委員)が出席

 

 12・5 『前衛』七九年一月号に不破哲三論文「科学的社会主義か『多元主義』か―田口理論の批判的研究」発表(民主集中制論など)

  (宮地注)、これは、第2回目の田口富久治批判だった。彼が、1978年3月、上記雑誌論文も含めた『先進国革命と多元的社会主義』(大月書店)を出版した行為と著書内容にたいする、田口富久治批判大キャンペーンの開始である。それは、同時に、日本共産党によるユーロコミュニズム批判、とくに、イタリア、フランス、スペイン3共産党のDemocratic Centralism見直し→放棄方向にたいする全面否定という性格も併せ持っていた。

 

 1979年

 3・30〜4・3 イタリア共産党第一五回大会に党代表団(団長・西沢副委員長)が出席

 59〜13 フランス共産党第二三回大会に党代表団(団長・村上副委員長)が出席

 

 1981年

 7・28〜8・1 スペイン共産党第一〇回大会に党代表団(団長・西沢富夫副委員長)が出席

 12・29 イタリア共産党、「十月革命に始まった社会主義」は「推進力をつかいはたした」との決議発表

 

 1982年

 1・31〜2・17 西沢副委員長、仏、伊、ノルウェー、デンマークを訪問。2・3〜7フランス共産党第二四回大会に出席、2・10イタリア共産党ベルリングエル書記長と会談、共同発表をおこなう

 

 12・9 宮本議長、『日本共産党の六十年』を発表、12・25単行本の初版発行

  (宮地注)、この内容には、(1)六全協後から1958年前後における、民主集中制からの逸脱としての自由主義・分散主義批判、分派活動批判と、(2)1978年前後における民主集中制批判者たちへの反批判があった。その両者を、民主集中制絶対擁護のテーマで結合したのが、謎の上田・不破査問と「自己批判書」公表事件である。上田・不破査問は、12月までの間に行われ、「二人の反省が常幹で討議され、承認されたのは昨年(82年)十二月」(「赤旗主張」83・9・25)であった。それから8カ月後、中央委員会は、『前衛』83年8月号で、上田・不破「自己批判書」を公表した。

 

 1983年

 1・4〜11 スペイン共産党代表団(団長・カリリョ執行委員)来日、1・5、8、10宮本議長と会談、1・11スペイン共産党との会談についての新聞発表

 2・27〜3・11 党代表団(団長・西沢富夫副委員長)、伊共産党大会出席のためイタリアを訪問

 

 1984年

 2・29 イタリア共産党のベルリングエル書記長、スペイン共産党への連帯を表明

 3・7 仏、スペイン共産党、両党関係発展の共同声明

 8・25〜29 フランス共産党代表団(団長・マクシム・グルメッツ政治局員・書記)が来日、8・27党代表団(団長・立木洋国際委員会責任者)会談

 

 1985年

 2・14〜18 党代表団(団長・立木洋常任幹部会委員)、フランス共産党第二五回大会に出席、2・12イタリア共産党のアレッサンドロ・ナッタ書記長と懇談

 9・15〜24 党代表団(団長・金子書記局長)、イタリア共産党のアレッサンドロ・ナッタ書記長と会見

 

 

 6、3つの共産党によるDemocratic Centralism放棄経過

    コミンテルン型共産主義運動のヨーロッパにおける終焉

 

 イタリア共産党――大転換
 一九七六年、党大会で「プロレタリア独裁」の用語を放棄した。

 一九八一年、「十月革命に始まった社会主義」は「推進力をつかいはたした」との決議発表

 一九八六年、「そのたびごとに決定される多数派の立場とは異なる立場を公然たる形においても保持し、主張する権利」の規定を行う。

 一九八九年、第十八回大会、民主主義的中央集権制を放棄し、分派禁止規定を削除した。
 一九九一年、第二十回大会、左翼民主党に転換した。同年十二月、少数派が共産主義再建党を結成した。
 一九九六年、総選挙で中道左派連合政権が誕生した。左翼民主党二一.一%、共産主義再建党八.六%の得票率で、「オリーブの木」全体では、三一九議席を獲得した。
 一九九七年、第二回党大会における党員数は六十八万人で、このうち女性党員が二八.五%を占める。

 

 フランス共産党――民主主義的中央集権制放棄
 一九七六年、第二十二回大会で「プロレタリア独裁」理論を放棄した。

 一九八五年、第二十五回大会頃より、党外マスコミでの批判的意見発表も規制されなくなる。
 一九九四年、第二十八回大会で、民主主義的中央集権制を放棄した。賛成一五三〇人、反対五十二人、棄権四十四人という採決結果だった。

 一九九六年、第二十九回大会で、「ミュタシオン」(変化)を提唱し、党改革を図る。機関紙「ユマニテ」は、第二次大戦直後は四〇万部あった。しかし、六十年代から八十年代まで、十五万部、一九九七年では、六万部、二〇〇一年は四万五千部に減少している。

 二〇〇〇年三月、第三〇回大会で、一層の改革を進めるために、七つのテキストを決定し、それへの党員の意見表明は三万人以上に上った。

 

 二〇〇二年六月、総選挙第一回得票率は、四.九一%であり、それは一九九七年総選挙得票率九.八八の半分に激減した。フランス下院議席は、三五議席から、二一議席に減った。これらの結果は、「ルペン問題」の影響があったとはいえ、フランス共産党史上最大の敗北だった。

 二〇〇三年四月、第三十二回大会で、党史上初めて対案が提出され、四十五%の支持を得た。党改革派が主流だが、反対は二派で、党改革への異議提出派である。党員数は、一九七九年七十六万人、一九九六年二十七万人、二〇〇三年十三万人へと、一貫した党員減退を続けている。

 

 スペイン共産党――3分裂
 一九八三年、親ソ派、カリリョ派、ユーロコミュニズムを党内民主主義の徹底化にまで深化させることを主張する新世代派に三分裂した。
 一九八九年、その後の再建活動の中で選挙ブロックとしての統一左翼を結成する。その年の総選挙で統一左翼は九.一三%を獲得した。一九九三年総選挙では九.五七%獲得した。
 一九九一年、民主主義的中央集権制を放棄した。

 二〇〇〇年三月、総選挙で、統一左翼は一九九六年の二十一議席から八議席に後退、大敗した。

 

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 (関連ファイル)

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