日本共産党とハンガリー事件、第4章全文

当初「反革命」→1982年「反革命」論を撤回

 

『ハンガリー事件と日本−1956年思想史的考察』より

小島亮

 〔目次〕

 
   宮地コメント

   序章、スターリン批判からハンガリー事件へ

    1、スターリン批判

    2、ハンガリー事件

    3、ハンガリー論争 (国際的論争−省略)

   第4章、日本共産党とハンガリー事件

    1、日本共産党史における一九五六年

    2、『アカハタ』紙上のハンガリー報道

    3、党内ハンガリー論争

   参考文献−第4章

   小島亮略歴

 

 〔関連ファイル〕    健一MENUに戻る

    『スターリンの粛清』ファイル多数

    wikipedia『スターリン批判』

    小山弘健『スターリン批判・ハンガリー事件と日本共産党』

    塩川伸明『スターリン批判と日本−予備的覚書』日本のマスコミ報道経過

 

    wikipedia『ハンガリー動乱』

    梶谷懐『ハンガリー事件と日本の左翼』小島亮『ハンガリー事件と日本』書評

    映画公式サイト『君の涙、ドナウに流れ−ハンガリー1956』予告編、犠牲者統計

    岩垂弘『スターリン批判・ハンガリー事件を契機とする新左翼諸派潮流の誕生』

    日本共産党『1956年ハンガリー人民のたたかいどう考える−問い、答え』

 

 宮地コメント

 

 これは、小島亮『ハンガリー事件と日本』(現代思潮新社、新版2003年、227頁、旧版1987年)のうち、「序章、スターリン批判からハンガリー事件へ」一部抜粋(P.4〜19)と「第4章、日本共産党とハンガリー事件」全文(P.129〜161)の転載である。私のHPに、この抜粋転載をすることについては、現代思潮新社の了解を頂いた。抜粋転載文の著作権・出版権は、著者と現代思潮新社にある。「本書の全部または一部を無断で複写複製(コピー)することは、著作権法上の例外を除き、禁じられている」。また、このHPに、序章一部と第4章全文を転載することについては、小島亮中部大学教授の了解をいただいてある。

 

 著者は、「はじめに」において、次のように、このテーマの意義を書いている。本書は一九五六年秋に勃発し、世界中を震撼させたハンガリー事件が、わが国の広義の思想界に与えた影響を概観するものである。事件発生からすでに三十余年の星霜を閲した今日本、ハンガリー事件の名は、その後約一二年周期で続発した東欧動乱の一つとして、もはや特別の感慨を抱く人もいないかもしれない。

 

 ではいったい、古い年代記を取り出し、カビ臭い雑誌を陽光にさらして、なぜ紙魚たちの安眠を妨げねばならないのだろうか。それは、ハンガリー事件が、その後の日本思想史の展開において、きわめて注目すべき新潮流を生みだす直接の契機になったからにほかならない。

 

 この新潮流とは、それまでの支配的思想範型であった()日本マルクス主義と、()日本型近代主義の連合体を、なんらかのかたちで超克せんとした知的営為の謂であり、大きくいって、()ネオ・リアリズム論の諸形態と、()ニュー・レフト理論に分類される。こうした新潮流は、日本社会の構造的変動に伴い、遅くとも一九六〇年代には必ず登場したに違いあるまい。しかし、マクロ的には歴史的必然ともいえる新潮流の誕生は、ミクロ・レベルにおいて、一九五六年のハンガリー事件の衝撃の下にひとまず産声を上げたのであった(P.1)

 

 本書の構成は次である。

 序章 スターリン批判からハンガリー事件へ

 第一章 一九五六年の日本の思潮

 第二章 思想的ヌーベルバーグの誕生

 第三章 社会党・自民党とハンガリー事件

 第四章 日本共産党とハソガリー事件

 第五章 ニュー・レフトの創成

 

 スターリン批判・ハンガリー事件にたいする日本共産党の対応を検証する歴史的前提として、武装闘争と六全協について、簡単に確認しておく必要がある。1955年7月六全協は、ソ中両党指令により、武装闘争を「極左冒険主義の誤り」とイデオロギー面だけの反省をした。ところが、武装闘争とは、ソ中朝3党が仕掛けた朝鮮半島の武力統一侵略戦争において、ソ中両党命令による後方兵站補給基地日本の武力撹乱戦争だった。日本共産党は、党史上初めて侵略戦争への「参戦」政党となった。ソ中両党は、六全協開催をモスクワで準備したが、武装闘争の実態・データの公表の禁止命令を出した。宮本顕治は、ソ中両党の秘密人事指令により、非中央委員から、いきなり党中央常任幹部会責任者に復帰できたばかりだった。

 

    『逆説の戦後日本共産党史』武装闘争と六全協でのファイル多数

 

 日本共産党は、武装闘争により、23.6万党員から約3万数千党員に激減し、ほぼ壊滅状態に陥っていた。党中央と軍事委員会にたいする責任追及が全都道府県党組織から噴出した。しかし、六全協で選出された幹部は責任回避と追及抑圧に終始した。小山弘健は『戦後日本共産党史』(芳賀書店、1966年、絶版)において次のように記している。

 

 宮本顕治や党中央幹部たちは、責任回避と追及抑圧の先頭に立った野坂・宮本、春日()らも、自分らのおかしたあやまちについて、なに一つ自己批判を表明しなかった。彼らは、責任の所在をあいまいにし、ごまかしてしまうという第二の重大なあやまちをおかした。宮本顕治は、総括・公表を要求する党中央批判党員たちにたいし、「うしろ向きの態度」とか「自由主義的いきすぎだ」とか「打撃主義的あやまり」「清算主義の傾向」とかの官僚主義的常套語で、水をかけ、武装闘争総括おしつぶす先頭に立った(P.194)

 

 宮本顕治は、1956年2月スターリン批判・10月ハンガリー事件の党内討論要求や一部発言にたいしても、武装闘争総括過程における対応と同じく、「自由主義」「清算主義」「規律違反」などの名でもっておさえつけた

 

 ヨーロッパの資本主義国共産党と左翼研究者・有権者は、()大陸地続きという地政学的条件や、()ソ連からの亡命者200万人()ハンガリー事件での死者3000人・亡命者20万人からの直接情報の流入を受け、党内外で、スターリン批判問題とハンガリー事件の情報分析・研究に取り組み、討論し、大量のデータ・研究書を出版した。それは、党内外において、東欧・ソ連10カ国の実態認識を飛躍的に深めた。

 

 それにたいし、東方の島国における共産党員と左翼研究者・有権者の認識は、宮本顕治の上記抑圧・策謀によって、不幸にも、分裂させられた。そもそも、フルシチョフによるスターリン批判は、個人批判に留まり、その本質はスターリン型前衛党・党治国家体制の再構築だった。それだけでも衝撃的だったが、ハンガリー事件は、スターリン批判を行ったフルシチョフが弾圧指令を出しただけに、スターリン批判以上に衝撃度が高かった。フルシチョフ=スターリンと同質・同類となり、共産党システムそのものに批判の目が向いたのは当然だった。

 

    wikipedia『スターリン批判』

    塩川伸明『スターリン批判と日本−予備的覚書』日本のマスコミ報道経過

 

    wikipedia『ハンガリー動乱』

    梶谷懐『ハンガリー事件と日本の左翼』小島亮『ハンガリー事件と日本』書評

    映画公式サイト『君の涙、ドナウに流れ−ハンガリー1956』予告編、犠牲者統計

 

 日本共産党内において、ハンガリー事件の党内討論・研究を進めるべきという意見や自主的な研究論文も出された。しかし、宮本顕治の抑圧・弾圧に屈服し、一部は沈黙に追い込まれた。その経過を小島教授が検証している。実は、彼が書いている増山太助について、私もメーデー事件問題の直接取材を、増山宅で2日間したとき、ハンガリー事件にたいする代々木党本部内での反対派勢力の動向について、まったく同じ内容の証言を聞いた。

 

 他の党内勢力は、その主張を強めた。彼らは、()規律違反でっち上げによる除名をされるか、()自ら離党した。除名・離党党員たちは、スターリン主義者宮本顕治に対抗し、ニュー・レフト勢力を形成していった。よって、ヨーロッパと異なり、スターリン批判問題・ハンガリー事件問題の討論・研究・文献は、党外の左翼か、知識人からしか出されなくなった。

 

    岩垂弘『スターリン批判・ハンガリー事件を契機とする新左翼諸派潮流の誕生』

 

 ヨーロッパの共産党と日本共産党との思想的体質的亀裂は、1956年2月から11月にかけての2事件にたいする対応の違いが、その第一歩になったと位置づけられる。21世紀資本主義世界において、()なぜ、日本共産党の1党だけが、姑息な隠蔽・訳語変更・略語手口により、レーニン型前衛党5原則を全面堅持する政党として残存しているのか。()なぜ、ポルトガル共産党と日本共産党という2党だけが、党内民主主義を抑圧する犯罪的組織原則Democratic Centralism放棄しないのか。その原因の一つとして、スターリン批判・ハンガリー事件にたいする日本共産党・宮本顕治の対応の誤り・党内犯罪を位置づけ、検証する必要がある。

 

 

 序章、スターリン批判からハンガリー事件

 

 1、スターリン批判

 

 一九五六年秋のハンガリー事件が世界史的意義を有し、全世界の思想家、政治運動に深甚な影響をあたえたのは、要するに、ソ連型社会主義の実態が誰の目にも明白なものとなったからに他ならない。

 

 ところで、ここに、一つの素朴な疑問が呈せられるはずである。今日、スターリン体制という名で知られるソ連の旧悪は、同年二月に開催されたソ連共産党第二〇回大会において、すでに、ソ連共産党自らの手で反省が加えられ、ソ連本国でも「過去」のものとなっていたのではないかという疑問である。

 

 わけても、大会最終日にフルシチョフが行った秘密報告は、スターリン「個人崇拝」の現実を一部始終暴露し、ソ連の軌道修正を根拠づけたばかりか、六月にアメリカ国務省によって世界に公表され、「魔術からの解放」は完了していたはずであった。

 

 それが、なぜ、一九五六年秋の時点で、ソ連がスターリン時代と寸分も変わらぬ行動をとることにつながり、全世界、さしあたり日本の知識界に「ハンガリー・ショック」を惹起せしめねばならなかったのだろうか。当然起りうべきこの疑問に答えるためには、やはり、件(くだん)の「スターリン批判」なるものの論理構成と、その政治史的意義について検討することから始めねばなるまい。

 

 まず、大会報告全体を鳥撤してみよう。周知のごとく、ソ連共産党第二〇回大会は、一九五六年二月一四日から二五日まで、首都モスクワで開催され、その後のソ連国家と共産党の政策をイデオロギー的に根拠づけた一大デモンストレーションであった。

 

 この大会は、一九五三年三月のスターリン死後初めて開かれる共産党大会であり、マレンコフからフルシチョフに至るスターリン後継者のデ・ファクトの政治的趨勢から見て、何らかの政策的転換が公然と定式化されるものと見られていた。

 

 大会第一日目は、数時間に及ぶフルシチョフの中央委員会報告から始まった。この中で、フルシチョフは、はっきりとスターリンの名前こそ出さなかったものの、()個人崇拝の批判、()二つの体制の平和共存、()社会主義への道の多様性の承認、()農業改革、工業の適正再配置、行政改革を主軸とする第六次五力年計画の提起を行い、予想通り、スターリン時代との訣別を内外に宣言したのであった(と受けとられた)。

 

 その後に行われた中央委員の個別報告は、フルシチョフの総論に対する各論的性格をもっていたと考えてよい。例えば()は、大会第三日目のミコヤン報告がより徹底させ、()()は第四日目のマレンコフ報告、そして()は第七日目のブルガーニン報告が詳論したというように。

 

 そして、最終日の夜に、スターリンを口汚く罵った有名なフルシチョフの「秘密報告」が行われ、フルシチョフ新体制の脱スターリン化(デスターリニゼイション)を決定的に印象づけたのであった。

 

 さて、この大会の意義は、これまで、フルシチョフの「秘密報告」中のはなはだ打撃的な用語法とわが国特有の道義的理解が相って、いちじるしく正しい評価が妨げられてきた観がある。むろん、無欠の神話体系としてマルクス主義的社会思想を信奉し、天皇信仰崩壊の代償をソ連信仰に求めていた日本の共産主義者にとって、スターリンの無謬性が否定されたという一事ですら、空前の破壊的衝撃をあたえた事実は、きわめて容易に察しがつく。しかし、スターリン批判は、思想の問題である前に、ソ連という一つの国家権力再編のプロジェクトだったのである。従って、スターリン批判の構造と機能を一度醒めた目でソ連政治の展開過程中に位置づけねば、その思想的意義すらも十全に把握できないと言ってよかろう。

 

 まず、スターリン批判の論理自体に潜む問題点を指摘したい。

 この点は、すでにイタリア共産党のトリアッチがきわめて明快に指摘していたことであるが(トリアッチ「スターリン非難を批判する」)、スターリン批判のロジックは、スターリン「個人崇拝」批判なのであって、スターリン「体制」批判ではなかったことに注意する必要がある。「個人崇拝」批判というのは、考えてみれば、まことに奇妙な強弁の相貌をもっている。

 

 なぜなら、少なくともスターリン独裁完成以降のあらゆるソ連政治の実践が、スターリン「個人崇拝」と不可分一体をなす以上、「個人崇拝」の科学的批判は、「個人崇拝」を成立せしめた政治体制批判をまって、初めて完成するはずだからである。

 

 しかし、このような視点で所与の体制を相対化し、「体制」に潜む問題点を別決する作業はあらかじめ拒否されていたと言って差支えない。トリアッチの批判に応えたソ連共産党の論理は、「基本的にソ連社会主義体制が健全」であるがゆえに「スターリン批判が体制内で成功した」という実に奇妙なものだったのである(ソ連共産党中央委員会「個人崇拝とその結果の克服について」)。

 

 さらに、スターリン批判がスターリン体制を温存した事実は、ソ連共産党第二〇回大会によって名誉回復された人物を見ても一目瞭然といえる。

 

 レオンバルトも指摘するごとく「一般的には、一九三四年までスターリン派を積極的に支持し、その後になって初めて逮捕された人々だけが名誉回復された」のであって、「二〇年代の反スターリン派の指導者や同調者、たとえばトロツキー、ブハーリン、カーメネフ、ジノヴィエフ、シラブニコフ、トムスキーは依然として追放されたままであった」のである(W・レオンバルト、加藤雅彦訳『ソ連の指導者と政策』)。

 

 ではいったいソ連共産党第二〇回大会におけるスターリン批判とは何だったのだろうか。結論を言えば、スターリン体制を守るためのスターリン個人の批判だったのである。スターリン個人独裁体制とは、戦時・準戦時体制下における、プロレタリア党独裁の緊急避難形態と見られないわけではない。

 

 しかしながら、ひとたび確立された体制は、利害の再生産を伴っている限りにおいて、容易な改変は不可能となる(日本の行政改革の困難さを想起されたい)。

 だから、軍事・警察機構の平時的再編、そして軍需優先型産業編成の改変、これらを既成利害関係を打破する程度に過激に、しかし党独裁に傷をつけない程度に温和に達成する−かくてスターリン体制批判ならぬ個人崇拝批判が要請されたのである。従って「平和共存」論に政策化される古典的帝国主義論の修正は、対外的より以上に対内的な意味をもっていたわけで、既成利害の理念的正統化を国際情勢レベルであらかじめ断ち切っておく必要性に基づいていた。

 

 ところで、スターリン体制自体の温存がスターリン批判の意図だったという事実は、次に、第二の論点を必然化する。

 それは、「平和共存」政策は、対西側外交の一定限度内の修正を伴っていたものの、東欧諸国即ち「ソビエト・ブロック」内諸国のステータス・クオ(現状維持)を大前提とするものだったという点である。

 

 社会主義の多様性の承認も、資本主義国内の共産党および事実上非ソ連型モデルを樹立していたユーゴスラヴィアについての容認であって、「ブロック」内諸国はその対象外であった。

 

 要約しよう。いわゆるスターリン批判なるものは、つまるところ、体制内再編を目指した一種の「予防革命」であって、言葉の過激さに反比例して、本質的に保守的なものであった。むろん体制内再編は、時として、成功裡に社会的均衡の回復をもたらし、国民統合を達成する場合もある(フルシチョフ政権は、ソ連国内に限定すれば、それに成功した)。

 

 だが、それは体制内再編に留まるがゆえに、旧体制に固有の問題点は、しばしば、根源的な解決を果たされないまま放置される。そして、放置された矛盾は、これまたしばしば、体制の網の目のほころびを通じて、ドラスティックなかたちで噴出するに至るだろう。およそ体制の真価が問われるのは、このときである。そして、スターリン体制を「体制内再編」した一九五六年のソ連国家の試練は、まずもって、東欧のマジャール人国家において行われたのであった。

 

 2、ハンガリー事件

 

 ハンガリー事件についての最小限の略述を行っておくことにしよう。

 事件は一九五六年一〇月下旬に発生し、表面的に沈静化するのは二月上旬であった。ところで、事件が一九五六年一〇月下旬に起ったという事実のうちに、事件の歴史的意義を考える重大なヒントがすでに孕まれている。

 

 この問題を考えるためには、われわれの叙述も、先述のスターリン批判が東欧諸国に与えた影響の検討から始めねばなるまい。第一節において、スターリン批判の保守的性格を論じたわけであるが、東欧「ソビエト・ブロック」内諸国にあっては、それは、ソ連本国とはいささか異なった政治的機能を果たすことになった。

 

 第一に、スターリン批判は、批判された当人が三年前に死亡済みのソ連では、確かに「体制内再編」に寄与するものとなり得た。しかし、東欧諸国内では、スターリン個人崇拝と不可分一体の共産党のテロル独裁は、まさしく現在進行形の問題だったのである。

 

 第二には、先述したごとく、ソ連共産党第二〇回大会報告内に、ソ連の対東欧政策の根源的改変を示唆する文面がまったく見えなかった点である。スターリン時代のソ連の東欧支配は、のちにソ連自身が認めたように、露骨な植民地的搾取に他ならなかったため、東欧各国の反ソ感情は爆発寸前の様相を呈していた。

 

 東欧の立場から見れば、スターリン批判はいかに限定された内容であったとしても、当然「現状の変更」を招来せしめねばならなかった。ところが、スターリン批判の論理は「ブロック内」のステータス・クオを帰結するものであったため、東欧諸国民の憤激は、旧倍するボリュームにまで高まったのである。

 

 従って、東欧各国は、いずれも全般的な政治危機を迎えるが、このうち、一定水準の近代化を達成しつつも、政治制度改革に成功しなかった二国−ポーランドとハンガリー−に、危機が顕在化することになったのである。

 

 東欧反乱の第一砲は、一九五六年六月、ポーランドの大工業都市、ポズナニで轟きわたった。一九五六年六月二八日、ポズナニ市のジスポ工場で発生したノルマ増加反対のストが市民全体をまきこみ、ワルシャワに派遣した陳情団が逮捕されたという誤報を機に、市民と治安当局との戦闘にまで発展したのである。世にいう「ポズナニ事件」であるが、市街戦による多数の死者、負傷者を出しながらも、事件が全国化しないうちに終結したのは、ポーランド統一労働者党(共産党)内の改革派の結集が事件を機に行われ、党・政府の漸進的統合を開始したからである。

 

 実にこの点こそ、その後のポーランド・ハンガリー二国の運命を分かつ決定的な旋回点となった事実は皮肉と言うほかない。

 

 ポーランドでは、この事件ののち〈プラヴィ・グループ〉と呼ばれる党内中央派が擡頭し、党内民族派と連合して、〈ナトーリン・グループ〉と呼ばれる党内スターリン派を庄倒し、一九五六年一〇月一九日、ソ連の干渉をはねのけ、長らく獄中にあったゴムルカを党第一書記に任命したのであった(ポーランド一〇月政変)。

 

 これに対して、ハンガリーのケースはまったく異なっていた。

 ポーランドの体制内改革が成功した(むろん、真に成功したとは言えないにせよ)のは、第一に、対独パルチザン闘争の中で共産主義者が一定の役割を果たしたため党内に民族派中堅党員が多数存在していたこと、第二に、「小スターリン」ビエルートがスターリン批判直後に急死したため、体制内改革の重要な障害が除去されていたこと、これらの二点が深く関係していた。

 

 ところが、ハンガリーにあっては、党内民族派がほぼ一掃されていた上、東欧「小スターリン」中、もっとも狂暴な男と評されていたラーコシは現役であった。一九五三年のベルリン騒擾の直後、ソ連のマレンコフの圧力で、一時ラーコシは罷免され、ナジに代わったことがあったが、ナジの改革プランは党官僚のサボタージュによって容易に遂行されなかったばかりか、マレンコフの失脚とともに、ナジも罷免された。

 

 このように、ハンガリー「小スターリン体制」は、体制内改革の可能性をことごとく圧し去ったまま、一九五六年を迎えたのである。

 さて、スターリン批判は、さすがのラーコシ独裁体制をも動揺せしめずにはおかなかった。既述のごとく、スターリン批判は、大きな限界をもちながらも、東欧には衝撃的な影響を与えたが、ハンガリーでは、重工業化に伴う社会的緊張の度合いがもともと高かった分だけ、危機は深刻であった。

 

 高まりゆく国民的不満に、まず明示的なイデオロギーを提供したのは、ハンガリー勤労党(共産党)内に結成された(ペテーフィ・クラブ)であった。この一八四八年革命の民族的詩人の名を冠したクラブは、一九五五年に結成当初、文学・芸術的領域に話題を限定していたが、スターリン批判後、積極的に政治問題の追究を開始し、ナジの復職などを要求する拠点的役割を担いはじめた。

 

 こうしたハンガリー情勢の「不穏」は、いち早くソ連指導部に察知され、ポズナン事件の直後、ミコヤンがわざわざブダペストに乗りこんできてラーコシの解任を行った。

 ところが、ラーコシの後を襲ったゲレは、ラーコシのマヌーバーと見られていた完璧なスターリン主義者であったため、国民の憤激に油を注ぐ逆効果を及ぼしたのである。

 

 さて、いよいよわれわれは、ハンガリー事件の勃発する一九五六年一〇月に到達した。一九五六年一〇月二三日、ブダペストは時ならぬ暑い日だったと記録されている。

 先述のポーランド政変に対する連帯集会がベム将軍銅像前(ベムはポーランドの軍人で一八四八年革命のときに、ハンガリー人の先頭に立って戦った)で開催された。集会は続いてデモ行進に移り、いつしかブダペスト中心部は、狂喜した民衆によって埋めつくされてしまった。一団の民衆は、スターリンの銅像をひき倒し、またある民衆は放送局に殺到して、ナジの演説を要求したり、自分たちの政治要求の放送を求めた。

 

 こうした中で午後八時、ゲレの演説が行われた。

 もし、このゲレ演説が穏健な内容だったとすれば、その後の「ハンガリー事件」の展開は、よほど違ったものとなったに相違ない。

 

 しかし、ゲレ演説は、民衆を「挑発者」と罵倒し、民衆の政治要求を一顧だにしない強硬な内容だったため、民衆と治安当局の関係は、にわかに険悪化してしまったのである。そしてこのとき、放送局を守っていた治安警察(AVO・アーヴオー)隊員の放った第一弾こそ、「ハンガリー事件」をひき起す嚆矢となったのであった。

 

 以下、事件の展開を「日誌」的に摘記してみよう。

 一〇月二四日

 ハンガリー勤労党中央委員会はナジの復職とソ連軍介入の要請を発表した。党は「アメとムチ」で事態収拾を企てたわけだが、すでに前夜中にソ連軍の移動が開始されていた(国連特別委員会『ハンガリー問題報告書』)というから、前夜、ハンガリーの一般軍事警察機構の崩壊直後、すでにソ連軍介入は開始されたと見られている。

 

 昼ごろにはソ連軍はブダペストに到着した。世にいう「第一次介入」である。この介入は、歩兵をまったく伴わない戦車隊のみの単独行動だったため、当初は威嚇を目的とした作戦だったと考えられている。

 

 ハンガリー軍は、中立を宣告するか民衆側に合流し、市内各所で戦闘が始まった。

 第一次介入時のソ連軍は、市内の建物を無差別砲撃する戦術をとり、民衆側はゲリラ戦術で応戦した。この際、一定数のソ連軍戦車がハンガリー民衆側に寝返り、ハンガリー治安当局との戦闘に加わった(コバーチ・シャーンドル、小山房二訳『ブダペストの夜』)。

 

 一〇月二五日

 党中央委員会は、ゲレの第一書記解任とカーダールの就任を発表した。これはソ連大使アンドロポフの工作によると言われている。カーダールは党内民族派の数少ない生存者の一人で、ある意味では、この措置は、先日のナジ復職を上廻る効果を持つはずだった。

 

 ところが、事態を党内改革に留めるには、すでにして多くの血が流れすぎていた。労働者・下部党員は、各工場内に「労働者評議会」を結成し、しばしば工場幹部を放逐して自主管理を宣言した。評議会はハンガリー全土の主要都市にも即時に波及し、行政権力の執行を行った。この様子は、多くの観察者をして、一八七一年の「パリ・コミューン」を想起させた。

 

 農村では、協同組合の解体がすすんだ。

 さらに、旧体制下の諸党派もにわかに復活した。民衆側は、AVO隊員、一部勤労党員のリンチ処刑を行い、AVO、ソ連軍側も、それを上廻るテロルで応酬した。ナジやカーダールらが復帰しても、すでに彼らの命令に服する政治主体は、ハンガリーにはもはや存在しなかったのである。

 

 一〇月二六日

 労働者評議会はゼネストに突入。ナジらは旧党派(小地主党・農民党など)員を入閣させ「民族戦線政府」を結成すると発表した。

 この試みは、ファシスト(矢十字党)を除外した全党派の再結集で事態収拾を目指したもので、これ以降のナジの動きは、すべて「民族戦線政府」路線上に展開される。

 ナジは同時にソ連軍の撤退を要請する。

 

 一〇月二七日

 民族戦線政府結成。ハンガリーは事実上、複数政党制に復帰した。おそらく、ナジにポーランドの「ゴムルカ」的役割を期待していたソ連は、この複数政党化時に、ナジを見放しはじめたと考えられる。

 

 ナジの多元化はソ連の考える「現状」をいちじるしく変更させるものであったし、勤労党が少数野党化することは目に見えていたからである。詳細は不明ながら、この日あたりから、ゲレ、ナジに代わる「第三の男」カーダール説得工作をソ連は開始したと考えられる。

 

 一〇月二八日

 ナジはAVO解散を発表する。ブダペスト情勢は平穏に向かうかに見えた。ナジは、全党派に停戦命令を発し、反徒への大赦、ハンガリー旧国章の復活も宣した。

 

 一〇月二九日

 AVO解散。このころ、ハンガリー全国の代表がナジに面会を求め、さらなる自由化を訴える。この日、ソ連は密かにナジ政権自体の打倒を策した第二次介入を決定したという説もある(鹿島正裕『ハンガリー現代史』)。

 

 一〇月三〇日

 ソ連首脳ミコヤン、スースロフがブダペストに飛来する。ソ連軍のブダペスト撤退がはじまる。この「撤退」は、ブダペスト市内より去ったという意味で、ソ連軍は、郊外の空港・ハンガリー軍基地を逆包囲する態勢となった。先に民族戦線政府に参加した諸党派を法認して、ハンガリー政府は公式に一党制を否定したのもこの日であった。

 

 一〇月三一日

 英仏軍、エジプト攻撃を開始。いわゆるスエズ動乱がはじまり、ハンガリーは一瞬、世界世論の「エアー・ポケット」となる。ソ連軍は、ブダペスト再攻撃態勢を固め、移動を開始する。またソ連本国からは国境線を越え、大増援部隊が東ハンガリーに結集しはじめる。

 

 一一月一日

 ナジ、カーダールらは、勤労党のデ・ファクトの解体を確認して、新たにハンガリー社会主義労働者党を結成した。

 ナジはまたソ連大使アンドロポフを呼びだし、ソ連軍の不穏な動きについて説明を求めた。午後四時、閣議が開催され、ワルシャワ条約からの脱退と、ハンガリーの中立国化を決定し、国連事務総長、ハマーショルドに通告した。この措置は、ソ連介入の国際法上の根拠をあらかじめ断っておくためのものであった。

 この日、カーダールらは忽然と姿を消す。

 

 一一月二日

 ナジ内閣改造。ついに共産主義者は閣内少数派に転落する。ブダペスト市内の平穏化は進み、店舗営業も再開されはじめる。

 しかし、この日には、ソ連軍のブダペスト包囲は完全に終っており、東ハンガリーはすでにソ連軍制圧下にあったのである。

 

 一一月三日

 ソ連軍の完全撤退交渉に赴いたマレーテル国防相がソ連軍に逮捕された。この日、フルシチョフらは、ユーゴスラヴィアのブリオニ島に飛び、ソ連軍のハンガリー攻撃についてチトーの同意を求めていた。結局チトーも、カーダール擁立の線で事態収拾することを前提にソ連軍介入に同意した(ヴェリコ・ミチューノヴィチ、山崎那美子訳『モスクワ日記』)。

 

 一一月四日

 早朝、ソ連軍のブダペスト攻撃が開始される。いわゆる「第二次介入」である。

 今回の動員兵力は、戦車および機械化師団総計二一、戦車二五〇〇台、装甲車一〇〇〇台、さらに歩兵を伴う大部隊であった。ただし通常戦争と異なり、都市部では全住民を敵に廻しての一種のゲリラ戦だったため、ソ連軍は無差別破壊を行い、捕虜は射殺するかシベリアに送った。また、この日、カーダールらは「新労農政府」の樹立と新政府への協力を呼びかけた。

 

 ソ連軍の第二次介入に伴い、ハンガリー民衆の拠点は各個撃破されてゆき、ハンガリー民衆の英雄的戦闘にもかかわらず、全土はソ連軍に制圧されるに至った。ソ連軍、カーダール政権にもっとも果敢に抵抗したのは先述の労働者評議会であるが、これも翌一九五七年前半には粉砕されてしまったのである。

 

 戦闘による死者三〇〇〇、西側への亡命者は約二〇万人を数え(この数字は国連特別委員会『ハンガリー問題報告書』による)、ナジらはしばらくユーゴスラヴィア大使館に亡命するも、ソ連軍の計略により連れ出され、一九五八年六月に処刑された。

 

 以上が、「ハンガリー事件」のだいたいのあらましである。むろん事件の全貌を把握するためには、事件に先行するラーコシ時代の社会主義建設の特殊性と、のちのカーダール政権による国民再統合過程を詳しく検討してみなければならない。

 

 しかし、本書は、ハンガリー事件の日本に与えた同時代的対応の分析を課題とするものゆえ、詳しい叙述はこれを避け、さしあたり巻末の「参考文献」を各自繙いていただくことをお願いしたい。

 

 3、ハンガリー論争 (国際的論争−省略)

 

 

 第4章、日本共産党とハンガリー事件

 

 1、日本共産党史における一九五六年

 

 本章では、日本共産党のハンガリー事件への対応を概観することにしたい。一般的に言って、ハンガリー事件から最大の打撃を受けたのは、この党をおいて他にはない。従って党は、一丸となってハンガリー「反革命」の糾弾とソ連軍弁護に奔走したと思われるであろう。

 

 しかし事実はそんなに単純なものではなかったのである。ハンガリー事件を機に党員の一部は党外に飛び出し、日本共産主義史上、初めてニュー・レフトを自称する動向は次章で述べよう。また党内部においても、深刻な自己批判を行う一派を擡頭せしめ、結局「反革命」論によって最終決着をつけられるとしても、ハンガリー事件への対応は、今日考えられているほど、単純に割り切れるものではなかったのである。

 

 こうした事態はなぜ生じたのだろうか。この疑問に答えるためには、まず「統一した前衛党」という共産党のイメージを完全に棄て去らねばならない。確かに、一九五八年の共産党第七回大会以降、宮本顕治のヘゲモニーがほぼ確立し、六〇年代を通ずる大量除名・離党と党官僚層の成立によって、共産党は限りなくスターリン・モデルに近い「前衛党」と化した。

 

 だが、ハンガリー事件の発生した一九五六年当時は、「党史上、最も民主的だった時期」(神山茂夫『日本共産党とは何であるか』)という元党幹部の自己規定の示すごとく、一種の「神々の闘争」の渦中にあり、統制された一枚岩の団結などまだできてはいなかったのである。

 

 この時期の共産党を派閥連合に過ぎぬと否定的にとらえるか、あるいはイタリア・モデルに近い民主的党建設の可能性を孕んでいた最後の時期と肯定的に見るかは、大きな論争のテーマであろう。ただ、歴史学徒としては、ハンガリー事件評価の決着のつけられてゆくプロセスと、宮本指導部の路線勝利とは、切っても切れない関係にあり、その後の「前衛党」の内実を試す前哨戦が党内ハンガリー論争であったという厳然たる歴史的事実への注意を喚起するに留める。

 

 日本共産党は、一九八二年に公表した『日本共産党の六〇年』において、初めてハンガリー事件=反革命論を正式に撒回した。だが、ハンガリー事件をめぐる党内闘争は、実は「いかなる党を建設するか」の大論争だったのであって、事件への評価修正は、当然、現指導部への批判的反省を伴わなければならないのである。ハンガリー事件は反革命ではないと叫び続けて、ついに除名された党員すらいたのである。そして、党外の雑誌にまで登場して、こうした声を圧殺した第一人者こそ宮本顕治その人だった。

 

 さて、共産党の一九五六年期を理解するために、戦後の共産党史を簡単に回顧しておこう。

 獄中に幽閉されていた戦前の共産党指導者が釈放され、党再建を開始するのは一九四五年秋であった。この段階でリーダーシップをとったのは徳田球一、志賀義雄ら非転向幹部である。再建のための路線確定の作業でも、この非転向組が優位を占めたが、実際には、相当な対立をうち含んでいた。

 

 というのは、徳田ら「獄中一八年」組をはじめ非転向党員は、宮本顕治を含め、コミンテルンの「日本問題に関する決議」(二七年テーゼ)、「日本に於ける情勢と日本共産党の任務」(三二年テーゼ)などで確立された「ブルジョア民主主義革命」論(第一章を参照)を無謬の教条として信奉していたからである。

 

 まがりなりにも戦時下の運動を経験していた党員、例えば神山茂夫などは、これらの諸テーゼにからみつく「階級・対・階級」戦術、つまり広汎な国民大衆を組織する統一戦線的発想の欠如に批判的であったし、中西功なども「ブルジョア民主主義革命」論への疑義を抱いていた。

 

 さらに一九四六年一月に帰国した野坂参三も、コミンテルン第七回大会の人民戦線戦術の提起や中国革命の大衆組織戦術などの新しい動向を十分に知っていただけに、徳田らの教条主義には違和感を覚えていた。しかし党の再建過程においては、非転向長期入獄組の倫理的権威に屈しない者は少なく、結局、「ブルジョア民主主義革命」論でもって戦後共産党は出発することになったのである。

 

 読者の中には、徳田ら教条主義的スターリン主義者によって再建された日本共産党が、アメリカ占領軍を「解放軍」と規定した経緯にとまどいを覚える人があるかもしれない。その後、今日に至る共産党の猛烈な反米ナショナリズムと矛盾するかのごとく感ぜられるからである。

 

 だが、これは、共産党員を直接手ずから獄中より解放したのがアメリカ占領軍であったという事実に加えるに、「ブルジョア民主主義革命」論の一つの必然的帰結でもあった。というのは、アメリカ占領軍による戦後改革は、「反封建」的な行為たる限り、「ブルジョア民主主義革命」の課題と合致こそすれ、対立するものではなかったからである。

 

 これは、「平和革命」論についても言える。「平和革命」とは、現前の政治形態の肯定的発展上に「革命」的変革を構想する戦略である。アメリカというまぎれもなき資本主義(または帝国主義)国の占領下で、「平和革命」を達成できるとは、およそ理解しがたいオプティミズムであり、林達夫なども、その点を鋭くついていた(『共産主義的人間』)。

 

 だが、これも「解放軍」規定と相まって、「ブルジョア民主主義革命」論の仕組んだトリックだったのである。即ち占領下の政策的趨勢と革命戦略が基本的に一致するがゆえに、現前の政治形態も肯定的に評価され、革命は暴力的にならず、「平和」裡に達成されるというわけなのであった。

 

 ところが、冷戦の激化に伴って、思わぬところから、この「平和革命」的「ブルジョア民主主義革命」論(一九四七年の第六回大会で再確認していた)は変更を余儀なくされた。それは、一九五〇年一月に、スターリンが直接指示したといわれるコミンフォルム機関紙『恒久平和と人民民主主義のために』掲載の「日本の情勢について」という匿名論文によって、「平和革命」論が打撃的批判を受けたことである。

 

 日本共産党中央委員会は、当初、この批判を帝国主義者によるデマと一蹴していたが、批判文が公式に日本に到着するや、周章狼狽し、一月二二日に「「日本の情勢について」にかんする所感」を発表して、コミンフォルム批判はあたらないと反論を加えた。そして、このとき、コミンフォルム批判を率直に受け入れるべきだとする志賀義雄、宮本顕治ら(国際派)と、「所感」路線を推進する徳田球一、野坂参三ら(所感派)の二派に分裂したのである。

 

 これが、有名な日本共産党の五〇年分裂である。対立は「ブルジョア民主主義革命」論内部の「コップの中の嵐」であったため、思想史的意義はそれほど高く評価できないものの、戦術レベルの論争は、共産主義者特有の陰湿な体質に屈折されて、暴力を伴う面派の打倒合戦の観を呈したのであった。

 

 しかし、またしても、ここで異変を見た。「平和革命」論を標榜したはずの徳田ら所感派が、レッドパージを受け地下に潜行するなかで、にわかに過激化したのである。一九五一年二月には、所感派は第四回全国協議会を秘密に開催して、毛沢東のゲリラ戦術まがいの軍事闘争路線を公式化した。

 

 この趨勢を見たスターリンは、国際派を分派と規定し、所感派に軍配を上げるに至り、国際派に属したさまざまな分派は解体した。スターリンの支持を得た所感派は、一九五一年一〇月に、第五回全国協議会を開き、かくて、「ブルジョア民主主義革命」論の一環に反米ナショナリズムを組み込んだ有名な「民族解放民主革命」論を定式化した新綱領(五一年綱領)を採択したのであった。

 

 この五一年綱領下の共産党は、一名「武装共産党」と言われる。「民主革命」とは「反封建」の謂であるから、「封建制」の拠点・山林地主(農地改革によって地主は消滅していたから、山林地主ぐらいしか「地主」らしき者はいなかった。なお、山林地主の「封建」的認識は誤解であり、基本的に資本主義的土地所有だと主張した代表的理論家は福本和夫であった)を打倒し、「半封建農奴」を「解放」せんと山村工作隊(柴田翔『されどわれらが日々』を見よ)が軍事訓練に繰り出され、都市部では中核自衛隊なるものが火焔瓶(モロトフ・カクテル)闘争を華々しく展開した。一九五二年の「血のメーデー」や全国各地の武闘事件は、ことごとく、この共産党の軍事方針ゆえに惹起されたものである。

 

 おまけに、旧所感派グループによる党内粛清は、しばしば流血の惨事を伴っていた。今や革命どころではなくなった。党員は相互に不信と疑惑を深め、傷つき倒れていった。国民も共産党を見放し、一九五二年一〇月の衆議院議員選挙では、ついにゼロ議席に転落したのであった。一方、地下に潜行していた徳田球一は、一九五三年、スターリン死亡の約半年後に北京で客死した。これに伴う、旧所感派グループ内の後継者争いは、再び暴力を伴う激烈さをきわめ、一九五四年内には、伊藤律の失脚と志田重男のヘゲモニーが確立した。

 

 志田による党支配の驚くべき腐敗ぶりは後に暴露されて党内を騒がせる(志田は党の金で待合を経営し豪遊していたのだった)。二次にわたる総点検運動と称する志田の支配権掌握のための対抗勢力粛清は、またも流血を伴い、志田指導部の確立によって、共産党は前代未聞の疲弊を招いたのだった。

 

 かくて、一九五四年後半に、共産党の再建のための動きが、各方面より起りだす。共産党組織のほぼ完全な孤立化を懸念したスターリン死後のソ連指導部の圧力も強まって、ついに一九五五年一月一目、「党の統一とすべての民主勢力との団結」と題する論文を発表して、党改革は、軌道に乗りはじめたのであった。

 

 先に序章において、フルシチョフによるスターリン批判は、スターリン・タイプの党独裁の確立を目指したスターリン個人の恣意性に対する批判に過ぎなかったと指摘しておいたが、あの図式は、日本共産党の再建にもあてはまる。

 

 フルシチョフ指導部の後押しを受けた日本共産党再建も、真に民主主義的な党を樹立せんとしたものではなく、スターリン・タイプの前衛党を形成するために、あまりにも乱脈をきわめた徳田および徳田後継者への一定限度内の批判でしかあり得なかったからである。おまけに、徳田の後継者を自認する志田重男らは、党中央委員会の多数派であり続けていたから、日本共産党の再建は次のような形をとることになった。

 

 まず、旧所感派以来の主流派の行動は、基本的に正しいものとして、その責任を免罪する一方、すべての悪弊を死去した徳田の個人的恣意になすりつける。片や、非主流派であった旧国際派諸派のうち、コミンフォルムや、スターリン的党組織の原則に忠実な宮本顕治一派のみを公認して大胆に復権し、共産党組織のあり方に根源的な批判を派手に放っていた他派、なかでも、神山茂夫一派の復党を承認しない。

 

 この諒解の下に、一九五五年八月、第六回全国協議会が開かれ、とりあえず、党内の混乱に終止符が打たれるわけである。

 こうした経過から判るごとく、六全協は、志田・宮本の妥協に過ぎない一種の「宮廷革命」ではあったが、それでも、宮本の復帰は疲弊しきっていた全国の党員に、ただならぬ希望を与えた。宮本は、非転向共産主義者であったし、旧国際派に属していたため、徳田後継者の血でうす汚れたイメージはなかった。宮本は、こうして全国の中堅幹部の強力なバック・アップの下に、一九五五年を通じて、徐々に大きな権力を握るようになっていったのであった。

 

 フルシチョフのスターリン批判が行われたのは、まさにこの時である。私はスターリン批判のあり方がもっと緩やかなものであったなら、宮本のヘゲモニー掌握は少なくともさらに遅れたという仮説をもっている。なぜなら、スターリン批判は、晩年のスターリンの党独裁体制の個人的逸脱に集中砲火をあびせており(序章を参照)、チトーの離反を招いたコミンフォルムの「私物化」をとりわけ強いトーンで論難していたからである。資本主義国内の革命戦略の多様性承認とコミンフォルム批判のロジックを日本共産党内に持ち込めば、徳田ならびに徳田後継者の正当性は完全に崩壊してしまう。

 

 こうなると、スターリン的党原則を忠実に守りながらも、コミンフォルム支持を背にした主流派に抑圧されてきた宮本のみが、ひとり正しかったということにならないだろうか。旧来、日本共産党はスターリン批判を一切ごまかしバイパスしたという説が、特に元党員学究によって唱えられてきたが(例えば、小山弘健『戦後日本共産党史』)、私は異論を提出したい。

 

 序章に論じたごとく、スターリン批判自体、スターリン・タイプのプロレタリア党独裁体制への復帰を目指した保守的本質をもつのであって、この視点からすれば、宮本顕治の地位上昇と、旧主流派の相対的地位低下による前衛党の正常化は、スターリン批判の論理とピタリと一致するのである。見方によれば、日本共産党こそ、スターリン批判を、語のもっとも厳密な意味で、真に反映した政党であって、イタリア共産党などは、スターリン批判からの逸脱とも考えられまいか。

 

 話を戻そう。六全協で復帰なった宮本は、こうして、スターリン批判を機にさらに権力を強め、志田の乱脈発覚と失跡事件によって、一九五六年中期には、ほとんど対抗者のない地位にまで上昇したと見てよい。あとは党大会を開催して、五一年綱領の破棄と新綱領の確定をすすめる問題を残していただけだったのである。

 

 ところが、折も折、このときに降ってわいたのが、ハンガリー事件の大衝撃だった。党のあり方に根源的な疑問を示しはじめていた各地の党員は、ハンガリー事件によってスターリン主義の悪弊をいまさらながらに戦慄した。

 

 ハンガリー事件は、スターリン批判を行ったフルシチョフ指導部による所行であったから、党員の一部は、スターリン批判の限界を感じとり、さらに先へ進んでゆく動きが生じたのである。こうして、ハンガリー事件を直接の契機にして、党内の布陣はまたも激変する。

 

 それまでは、一応、党改革のホープ宮本VS旧主流派の対立が基本線をなしていた。しかし、スターリン・タイプのプロレタリア前衛党組織自体へのプロテストに直面して、この対立はにわかに背景に後退し、宮本に代表されるスターリン主義者VS民主主義的反対派という図式に取って代わった(なお、ここで言う「民主主義」は、非スターリン組織論を指し、政治学概念ではない)。

 

 民主主義的反対派というタームは厳密ではないが、旧国際派諸派中宮本一派に属さない勢力のうち、志賀義雄など純粋スターリン主義者でない者と、旧所感派内の改革分子、そしてニュー・レフトである。このうちニュー・レフトは、党中央委員会に正面きって理論闘争をふっかけ、党を除名されるか自ら離党する(後述)。

 

 彼らは若く、まだ重職にもついていないから、さしあたり党内ハンガリー論争の主役ではない。だから、ハンガリー事件の評価をめぐる党内闘争は、前二者と宮本らとの間で争われることになったのである。後節で見るように、ハンガリー論争で宮本が、とりわけ大活躍したのは、この論争で一歩を譲れば、彼の考えるスターリン的前衛党建設に支障をきたすからであった。宮本のスターリン主義的体質にいち早く気づいた民主主義的反対派も、ここで退いては、党の民主化は双葉のうちに摘みとられてしまうとの焦燥にかられた。

 

 「ここがロドス島だ、ここで跳べ!」 党内ハンガリー論争は開始された。

 

 

 2、『アカハタ』紙上のハンガリー報道

 

 論争の展開を見る前に、機関紙『アカハタ』(『赤旗』になるのは一九六六年二月一日以降。ちなみに戦前は『赤旗』と書き「セッキ」と読んでいた)でどのようなハンガリー事件報道がなされたかを見ておこう。『アカハタ』の熟読と読者獲得は共産党員の義務とされており、党内の対立が鋭く紙面に反映されることはまれにしても、党のメイン・トレンドは、何よりも同紙にうかがえるからである。

 

 ハンガリー事件が勃発した直後、『アカハタ』はまず無視でもって応えた。おそらくポズナニ事件のごとく、事件が短期日のうちに終焉すると見越していたのであろうか。だが、政党機関紙というのは、ひとり『アカハタ』に限らず、自党に都合の悪い報道などしないものであるから、この「無視」は詰まるところ、「問題視」の一形態であったと見るべきだろう。

 

 『アカハタ』が、ハンガリー事件へのコメントをともかくも出すのは、一〇月二六日号の「世界の動き」欄で「ハンガリーの場合におこった混乱は、上からの努力と下からのイニシアチブが時間的にあわなかったようだ」と推測する小さな記事である。

 

 それ以降、モスクワ放送、タス通信などによって、少しずつハンガリー事件の報道は増えはじめる。一〇月二七日号には「ブダペスト暴動鎮圧」と題して、ソ連軍とナジ政権によって秩序回復が進んでいることを報じ、一〇月三〇日号の「反人民的トバクは失敗」、一〇月三一日号の「ブダペスト市内平静」でも、ナジの事態収拾を好意的に示す報道がみられる。

 

 これらの記事に見られる論理は、ハンガリー事件総体を正当な民意の行使ととらえ、「暴動」化は、一部反革命分子による挑発行為だとするものであった。この時期にナジ政権を圧殺する意図をソ連が秘めていたなどということは、当のソ連指導者以外、世界で誰一人知る人はいなかったので、この論理は、まず精一杯のところであったろう。

 

 ところが、一〇月末あたりになると、読者からの抗議が『アカハタ』編集局に殺到しだした。さすがに、編集局も、この要望を無視できなくなり、一〇月三〇日号には「一面日中に解説をだします」と広告せざるを得なくなった。一〇月三〇日は、ソ連軍のブダペスト撤退の日であり、同日と翌日のハンガリー情勢安定化(と見えた)の事態に安堵したのだろうか。一一月一日号に、長文の武井武夫執筆「悲劇の一週間」を掲載するに至ったのであった。

 

 武井の論調は、いってみれば、一〇月後半の『アカハタ』の記事を総合化し、再確認した内容と言ってよい。要するに、ナジ政権による秩序回復によって「悲劇の一週間」は終り、帝国主義国に後援された反革命は敗北したというのである。ナジ政権は、ポーランドのゴムルカ政権とちょうど同じような意義をもつのであって、スターリン時代に特徴的だった官僚主義と、「暴動」に現われた反革命をともども駆逐するだろうとも武井は期待していた。

 

 しかし、周知のごとく、武井の予想はあたらなかった。そのため武井論文は、共産党の情勢分析の甘さを示す典型として各方面から嘲笑されるが、これは苛酷な「後知恵」というものである。

 

 第二次介入に意表をつかれたのは、中国共産党にしてもそうであったし、次節で論ずるように、武井は、党内でハンガリー事件をもっとも良心的に検討した人で、『アカハタ』の論文では、党務のために自己の本音を少し押し殺して書かざるを得なかった面もあったからである。

 

 また、共産党中央委員会多数派は、この武井の論理をも、あまり面白く感じていなかった形跡がある。それは武井の解説も含め、ハンガリー事件の記事が、ことごとく『アカハタ』第二面に掲載されていた事実である。同じ時期の第一面を飾っていたのは、スエズ動乱をめぐっての英仏米への非難なのであった。

 

 ところが、ソ連軍によるナジ政権の打倒行動が開始されるや、待ってましたと言わんばかりに、ハンガリー事件関係の記事は第一面に躍りでる。一一月五日号「主張 帝国主義者のハンガリー干渉に反対する」を嚆矢に、翌日の紙面では第一面全体を使って「ハンガリー反革命粉砕さる」という大特集を組む熱の入れようである。

 

 武井も一一月九日号に「人民民主主義の防衛とソ同盟の援助」を第一面に掲載して苦しい弁明を余儀なくされる。この武井第二論文の基調は、奇しくもチトーのプーラ演説とほぼ完全に同一である(ちなみにプーラ演説は一一月一一日に行われた)。

 

 つまり、事件の発端はラーコシらの暴政にあるとして、事件の意義をなお肯定的にとらえながらも、反革命勢力の強大化によってナジ政権自体が変質してしまい(例えばワルシャワ条約からの脱退)、ソ連軍の介入はやむを得なかったとするのである。

 

 ここでも、武井は、「われわれとしては勤労者党員の党組織にそれぞれの持場で大衆の正しい要求と実現すべく正しい方向に導く力のなかったことが実に残念である」という言葉に如実に示されるごとく、「反革命」とは言いつつも、それを自力で克服できなかった党の体質を猛省せんと試みている。だが、武井の『アカハタ』への記名論文の掲載も、この日をもって終る。

 

 カーダール政権の樹立以降、総じて、『アカハタ』の論調は、ソ連軍およびカーダール政権の公式見解の代弁のみとなり、もはや武井の保持していた自己批判の側面をも捨て去った、一方的な「反革命」「白色テロ」「反革命ギャング団」非難キャンペーンに転ずるに至るのである。このメイン・トレンドは、ほぼすべての記事を貫くばかりか、外国共産党の論説の紹介のされ方にも如実に現われる。

 

 代表例を掲げれば、ハンガリー社会主義労働者党「全党の団結を訴う」(一一月一〇日、カーダール「人民の権力は守られた」(一一月一五日)、シェピーロフ(ソ連外相)「ハンガリー事件とソ同盟の立場」(一一月二四日)、ジョン・ゴラン(イギリス共産党書記長)「ハンガリーの事件()()」(一一月三〇日、一二月一日)、「ハンガリー問題でソヴェト干渉反対の声明を発表したフランスの作家たちにあてたソヴェトの作家たちの手紙」(一二月八日)、ロジェ・ガロディ(フランス共産党中央委員)「サルトルへの回答」(一二月一〇日)、そして、一九五六年最終号(一二月三〇日)は、まことに象徴的にも序章でふれた中共第二論文を全文掲載した特輯号となっている。

 

 見られる通り、『アカハタ』の紹介は公平ではない。例えば、チトーのプーラ演説は同紙上に紹介されておらず、月刊誌『世界政治資料』第一〇号に、『プラウダ』の無署名反論と同時に訳載している。

 

 商業紙や総合雑誌が紹介しない論文を『アカハタ』は意図的に公表したのであって、プーラ演説を掲載しなかった理由も、そこに求められるという弁明はまったく通用しない。なぜなら、中共第二論文は、私の知る限り『中央公論』『世界』『経済評論』の三誌に訳載があるし、ガロディ論文も『世界』に紹介されているからである。

 

 とまれ、この動向は翌年も続く。その中でもっとも重要な文献は、一九五七年一月二九日号から二月四日号まで訳載された、カーダール政府が英文で発表した『ハンガリー白書』の連載である(完結後、これは一冊にまとめられ出版される)。

 

 さて『アカハタ』が、なぜかくも大規模かつ長期的なバンガリー事件報道に全力を投入したのだろうか。むろん、ハンガリー事件が反共キャンペーンに大々的に利用されたという面もあったろう。しかし、前章で見たように、自民党を含め打って一丸となったハンガリー・キャンペーンが展開されたというわけでもなかったのである(宮本顕治もハンガリー問題で騒いでいるのは自民党の芦田均一派に過ぎない、と述べている−本書一五〇ページの()論文)。

 

 だから、主たる理由は党内問題、つまり、ハンガリー事件を機に一気に噴出しはじめた党中央委員会の指導体制への不平・不満を何としても押さえ込んでしまわねばならぬ要請に基づいていたと見なければならない。この「不平・不満」を背景にした党内論争は次節で見る通りだが、直接、『アカハタ』にも、そうした声は届いていた。

 

 まず『アカハタ』への投書である。『アカハタ』編集局自身の統計によると、一九五六年間に寄せられた投書四二〇九通のうち一一四通はハンガリー事件に関するもので、テーマ別では第四位を占める(『アカハタ』一九五七年一月五日。ハンガリー事件は一〇月下旬に発生したのだから、わずか二カ月余でこれだけ集まれば相当な数である。

 

 投書の多くは、『アカハタ』の解説でもなお理解し得ぬ事実のさらなる究明を求める内容だったらしい。しかし、紙面には公表されぬ痛烈な批判も相当あったらしく、注意深く紙面を読むと、次のような主張にお目にかかる。

 

 ハンガリー暴動に思う 相模原市 SD

◇ハンガリーが国の基礎を固めるために重工業に重きをおきすぎ、国民の目の前の生活を十分にかえりみず、人々の不満をうけつけようとしなかったため、大衆と共産党とは完全に分離してしまい、それに加えてスターリン批判による影響から人々の動揺は大きくなったのであろう。そこをついた反動分子の陰謀に扇動されて暴動にまでなってしまったのであろう。

 

◇この場合、思慮をかいた人々の軽率もよくないが、なんといっても大衆のための、大衆の政党であるはずの共産党が一番かんじんな大衆から離れたことが重大な欠陥ではなかろうか。共産党はつねに大衆の求めるもののなんたるかを知り、いつの場合にもそれに答えるだけの用意をもつべきである。党が大衆と分離してしまったということは、最大の堕落といえよう。

 

◇現在日本の場合でも大多数の人々は共産党に投票しようなどとは考えていない。これは無理解や複雑な理解などにもよるが、それもふくめ、やはり党が大衆と分離しているからではないだろうか。党はもっと積極的に大衆の中にとけこみ、大衆とともに歩み発展していく党本来の姿にかえってもらいたい。

 (療養女性二十二歳) 一九五六年一一月一六日

 

 また、これはポーランド問題を直接テーマにしたものであるが、次のような意見もある。

 東欧諸国問題の適確な報道を 金沢市 細野百合子

◇二十三日の「潮流」欄はポーランド問題にふれ「ブル新がセンセーショナルな憶測記事をだしている」と指摘し、アカハタが報道しないことについては、「東欧関係のニュース取材源としてタス通信しか利用できない」といっています。

◇タスが未発表だとなにもいえないのでしたら、あなた方の唯物史観はどうしたのですか。「未発表云々」は取消すべきです。今度の問題を判断する何物をも持っていないのですか。編集子よ、恥を知り給え! 党の名誉のために。一九五六年一〇月二八日

 

 こうした率直な意見が公表できたのは、何人かの良心的改革派が『アカハタ』編集局内に残存しており、宮本ら中央委員会新多数派の統制がすぐさま行きわたらなかったからであろう。だが、『アカハタ』も、徐々に、厳しい批判投書は掲載しなくなり、「反革命の粉砕を喜ぶ」といった一方的なものばかりを出すようになってゆく。

 

 といっても、党員・読者の『アカハタ』批判は止まなかった。それは、「読者の質問に答える」形をとって、『アカハタ』一九五六年一二月二四日号は二、三面全体を費やしての「ハンガリー事件特集」にあてていることからも判然とする。

 

 いまひとつ『アカハタ』に見られる異議申し立ては、共産党の地区委員クラスの人が執筆する「国民論壇」というコラムに散見される。例えば、小島隆太郎は「ハンガリーの暴動」(五六年一一月五日)で、事件の原因は「党と政府の動脈硬化、つまり主観主義と官僚主義がはびこるという情勢の上で、敵に利用された」と述べ、かかる弊害を党内から一帰することこそ、事件の最大の教訓に他ならないと断言する。

 

 もっと大胆なのは山野三吉の「ハンガリー問題と追従思想」(一九五六年一二月一三日)である。山野は事件の原因を、()社会主義化の過程における経済政策の失敗、()党・国家の官僚主義、()政治生活の非民主主義、()ソ連の大国主義、()ハンガリー人の反ソ感情、と整理してみせ、ソ連の第二次介入も素直に賛同しかねると言い切る。

 

 さらに町田勇「ハンガリー問題の教訓」(一九五六年一二月二〇日)も掲げなければならない。町田も、事件は、誰よりも党自身の反省の材とすべきだと述べ、スターリン体制を「過信するような状態をつくり上げた共産党全体に罪がある」と論難する。そして、「ブルジョア・マスコミ」に反発ばかりせず、「ハンガリー事件」にあらわれた党の欠かんを見過しにする態度と説得方法をとるならば、それは大衆からの離反を意味する」と自己批判を迫るのである。

 

 おそらく、こうした人々の意見の背後には、多くの下部党員の声が潜んでいたに違いない(なお、付言しておくと、以上の異論は武井の論理を徹底させたものと言える。それ以上に過激な内容をもつ論稿は没にされた事実は後述する)。

 

 だからこそ、『アカハタ』は、まず対外的より以上に対内的にハンガリー事件報道に力を入れたのであろう。そして、批判の声の大きさに正比例して、「反革命」キャンペーンの音量も増大する。この過程は、同時に党内改革派の挫折の道のりに他ならなかった事実は、次節で述べよう。

 

 

 3党内ハンガリー論争

 

 ハンガリー事件をめぐる認識において、共産党中央委員会内ですら意見対立を見た事実については蔵原惟人の証言がある。蔵原によれば、「わが党の内部でさえも事件のはじめには、ソヴェトの出兵は正しくないというのと、プロレタリア国際主義の見地から当然であるというのと、好ましいことではないがやむを得ない処置であるというのと、およそ三つの意見があった」(「ハンガリー問題について」『アカハタ』一九五六年一一月二九日)ということである。

 

 この時期の党中央委員会は、六全協によって選出されたメンバーより成り立っていて、氏名は判るが、いったい誰と誰がどの意見を所持していたのかは即座に確定できない。

 

 それは、共産党の規約によれば、各自の所属する党機関内で少数派になった見解は、各機関内で多数派に転じて(と言っても、党会議以外での公言は、夫婦間でも禁止されているが)上級機関に答申するルート以外、一切口外してはならないことになっているからである。中央委員といえども、この規約の拘束は免れない。しかも、一度決定された事項は、「処理済」とされて、まず再検討されることなどあり得ないため、異論の存在は、離党または除名後はじめて顕在化するのが通例である。

 

 ハンガリー事件評価の場合でも、この例に洩れない。しかし、関係者へのインタビューを総合すると、おそらく「ソヴェトの出兵は好ましくない」と固執した人物は春日庄次郎であったと見てよいと思われる。反対に、はっきりとソ連介入支持を打ち出した中央委員は、志賀義雄だったことも、まず間違いあるまい。

 

 私には、宮本顕治を含めて多くの中央委員は、ハンガリー事件直後、困惑あるのみで、即座に自己の決断を下す能力を持ち合わせていたとは思われない。事件に対するソ連の立場確立と、自党内の下部党員の突き上げが開始されてから、宮本らは旗幟を鮮明にする必要に迫られたのではなかったろうか。

 

 そうはいっても、今日のごとく、共産党も統制がすみずみまで行きわたっていなかった時期ゆえ、中央委員会内の異論派も、その気になれば、相当に論陣を張り得ただろうという推定もあり得る。春日庄次郎らしきソ連介入批判者が沈黙した理由は、春日以外の全員が、しばらくのちに宮本らの立場に統合されたため、完全に孤立してしまい、失脚を恐れて口をつぐんだのではあるまいか。

 

 こうして、残念ながら、中央委員会内の論戦は、明文化された形では伝わってはいない。だが、中央委員より若干下の要職にある党員で、先に私が民主主義的反対派と規定した諸派は、下部党員の支持をバックに、ぎりぎりの抵抗を試みたのである。

 

 私のいう共産党内ハンガリー論争とは、従って、中央委員会多数派対この面々の論戦であった。まず前者を代表する宮本顕治の論を紹介してみたい。

 

 宮本は一九五六年一二月一〇日、青山の日本青年館で開かれた時局問題講演会の席上でハンガリー事件を論じ、()(「ハンガリー問題をいかに評価するか」『前衛』一九五七年二月号)、さらに党外でも、()臼井吉見との対談「ハンガリー流血の教訓」(『文芸春秋』一九五七年一月号)、()「流血を招来した策動こそ人道に反する」(『婦人公論』一九五七年二月号)などでも精力的な論陣を張っている。

 

 宮本の立場はまことに明瞭である。要するに、ハンガリー事件は、徹底的な反革命だというのである。むろん反革命論も一つだけ陥穽をもっている。共産党政権の続いたハンガリーにおいて、なぜ、反革命勢力が強く残存していたのかという点に答えねばならないからである。中共第二論文では、この問題を、社会主義建設の不徹底と「大衆の不満」に求め、「大衆の不満」の一因にソ連の大国主義を掲げていた。

 

 宮本の論理も、一見したところ、この中共第二論文と同じであるのだが、よく検討してゆくと、宮本ならではのスタンスを持っている事実に気づく。それは第一に、ソ連大国主義批判の側面が、いちじるしく後退している点である。というよりも、ほとんど皆無と言った方が正しいかもしれない。第二は、これこそ宮本特有の論理と思われる「党分裂」論を繰り返し強調している点である。

 

 つまり、ハンガリー事件において、政府=党が反省せねばならない問題とは、社会主義的集団化の速度の遅さ(宮本は、山川均らと同じように、ハンガリーを遅れた農業国と規定する)に加え、「指導党である共産党内の意思が統一されなくて、中のそういう状態をどんどん外にも出した」(()での発言)ことだったと論難するわけである。

 

 この議論は、非常に重要な意味を持つので宮本自身に少し語らせてみよう。混乱がこういうふうになったのは一つには、ハンガリーの党が内部的に統一されておらず、党の内部の議論が外にもちだされて、それが反革命勢力に利用されていた。当然社会主義的な民主的な方法で解決すべき問題をああいう反革命目的の武装闘争にまでもっていかれた。これからみても、党の団結を強め、党が規律をまもりながら統一した力で欠陥を改めていく体制を堅持しなければならないと思います(1)。

 

 また反革命論をナジ政権変質論=ソ連介入必要悪論(プーラ演説)と、一貫した反革命論(中共第二論文)の二形態に分けるとすれば、宮本は、はっきりと後者に立つと宣言する。チトーのプーラ演説中に、ソ連の第一次介入を誤謬と批判した文言があったのをとらえて、宮本は次のように反撃する。

 

 最初のデモの日から時日をおかず、計画的な武装闘争が開始されている以上、ソヴェト軍の第一回の出動を戦術的な技術的な検討としてではなく、本質的な意味で「原則的な誤り」とすることは根拠にかけてはいないでしょうか(1)。

 

 おそらく、宮本の立場を国際比較するなら、フルシチョフその人にもっとも近いのではないだろうか(フルシチョフの本音ともいうべき「計画された反革命」論は、ストローブ・タルボット編『フルシチョフ回想録』に述べられている。そのフルシチョフも当時、プーラ演説に近い発言をしたことがある。例えば、朝日新聞の広岡知男編集局長との一九五七年六月一八日の会談である。高橋勝之訳『フルシチョフと語る』所収)。私は一方的な非難を加えるつもりで、こう断定するのではない。

 

 スターリン的前衛党を心から愛し信じきっていた宮本は、ハンガリー事件での党の崩壊を見て、本能的に危機感を覚えたのであって、何も対ソ盲従ゆえの発言ではなかったろう。それかあらぬか、ハンガリー事件を根拠に下部党員が騒ぎ出した事態を目にしては、「ハンガリー問題をいかに評価するか」より以前に、それを軽々しく口にする行為自体にクギを打ち込みたい衝動に駆られたとしても不思議ではない。

 

 この時期は、六全協指導部内での宮本のヘゲモニー確立期であるから、スターリン批判の線で旧主流派を押さえ込みながら、同時にハンガリー反革命論で、スターリン批判という名のスターリン前衛党保守を超克する動きにパンチを浴びせたわけであろう。

 

 このように考えると、反革命論のネックとも言うべき「反革命を許した党=政府の矛盾」を、スターリン的前衛党の根本的反省でなく、「党の分裂」という論点に見事にすり換えてしまった理由は、きわめてはっきりとしてくるのである。

 

 これに対して民主主義的反対派はどう応戦をしたか。まず論者の顔ぶれを紹介しておこう。この反対派の代表的オピニオン・リーダーは武井武夫である。武井は、時事通信外信部出身のジャーナリストで、英語力に長け、五〇年分裂の際は、国際派に近いながらも、政争に巻き込まれなかった人と言われている。

 

 さらに前野良ら『アカハタ』国際部にいた人々の一部、そして内野壮児、増山太助といった画面である。内野は新人会出身の古い活動家で、戦前期に『労働雑誌』の発刊に関わり、人民戦線的運動を経験した人である。ハンガリー事件勃発時は『アカハタ』編集局に在籍し、のちに次長に昇格する。増山は、旧所感派中の志田重男系に属した人であるが、権力政治家的要素のない人で、旧国際派党員からも信頼されていたきわめて稀有な存在であった。増山は、この時期、党中央委員会宣伝教育部長の要職に就いていた。

 

 次に文献的にいうと、反対派の主張は、まず、()武井「ハンガリー事件の教訓」(『前衛』一九五七年一月号)および、武井・前野・内野・増山の共同執筆になり、党宣伝教育部編で出版された()『ハンガリー問題と共産主義』(一九五七年一月五日発行)によって知ることができる。増山によれば、『ハンガリー問題と共産主義』の内容を見た宮本顕治は、怒って宣伝教育部の部屋に直接どなり込んできたという。

 

 また、同書執筆の過程で費やされた努力の跡も、正しく記録しておきたい。執筆者たちは、ハンガリー事件の情報を最大限得るため、ジャーナリズムの報道を綿密に分析したのみならず、アメリカ大使館にまで出向いて資料収集への協力を乞い、まさに足で集めた資料をもって書き下したのである。

 

 よくいわれるように、共産党のハンガリー事件報道は、『プラウダ』『人民日報』の剽窃に過ぎないという論断は、少なくとも、彼らに対しては該当しない。むしろ、この問題に対して払った労力においては、彼ら共産党内反対派こそ、もっとも大きくかつ良心的なものの一つだったと思われる。

 

 さて、彼らの論理を検討してみよう。彼らも、ハンガリー事件を「反革命」として最終的には批判を行う。だが、その結論を得るに至るプロセスは、宮本とまったく対極的である。宮本は、ハンガリー事件の勃発自体を計画された犯行のごとくとらえたのに対して、彼らは正面から異論を提出する。

 

 一〇月二三日に、ブダペストでハンガリー政府に、従来の誤った政策の是正を要求する労働者、農民、青年、知識人のデモがおこなわれた。これは社会主義をまもり人民民主主義制度を発展させようという正しい意図から出た行動で、整然たる秩序が守られていた(1)。

 

 事件の経過でもあきらかなように、ハンガリーの国民は、けっして人民民主主義体制を手ばなし、ファシズムの暗黒をもとめていたのではありません。かれらは、「官僚主義をなくし、民主主義をつよめ、生活をよくしよう」「社会主義国家間の平等な関係をうちたでて、世界の平和を守ろう」「国情にあったやり方で、社会主義を建設しよう」という正当な、道理にかなった要求をかかげていたのであります。しかも、それは、ながいあいだの政府の失政にたえかねて、やむにやまれない感情から出発したものでした(2)。

 

 つまり、ハンガリー事件の性格は、最初正当な人民の請願権の行使として始まったというわけである。むろん、この正当な要求は、党のリーダーシップの下に、社会主義体制を強化する方向で実現されるなら、まったく何も言うことはない。

 

 しかしハンガリーの党は「実際には、この力がなかったばかりか、民衆のなかには、これまでの政府にたいする反感と反ソ感情があったため複雑な状態におかれ」、「一口でいえば、これまでの政府の政策ややり方にたいする不満が、人民民主主義政権そのものにたいする不信とすれすれのところで展開され、その「政治的、精神的な支柱であるソ連」にたいする反感にまで高まっていた」。

 

 そして「致命的なことは、事態の収拾にあたったナジ政府が、人民民主主義を裏切り、反革命と帝国主義陣営に屈し」、「反革命分子の白色テロに、主導権をうばわれ」てしまった(引用はすべて()による)。従って、ソ連軍の出兵はやむなきに至ったと結論づけるわけである。

 

 見られるように、彼らのハンガリー事件論は、プーラ演説の立場とほぼ完全に一致する(これがプーラ演説の剽窃でないことは、武井がプーラ演説以前に、すでに同趣旨の論文を『アカハタ』に公にしていたことから判る)。そして、正当にも、ハンガリー事件の「反革命的」転化自体、党に責任があるとして徹底追及の構えを見せる。

 

 例えば、反革命論の立場から必ず持ち出される帝国主義者の干渉という論拠に対する彼らの反撃は、いま読み返しても相当な説得力を有する鋭いものである。この「干渉」というのは、アメリカが毎年、東欧反革命陰謀のために一億ドルの予算を組んでいたとか、ラジオ・フリー・ヨーロッパが謀略放送を絶え間なく流していたとか、あるいは、事件の際に、オーストリア国境から反革命武装部隊が送り込まれたとかいった類の主張である。

 

 武井は、この見解に答えて次のように言う。しかし、この程度のこと−あるいはこれ以上のこと−は中国にたいしてもおこなわれている。そして人民中国はビクともしないで悠々と前進をつづけている。中国の場合にも建設の困難は少なくない。だが、中国では共産党がかたく団結し、人民の不動の信頼を得ている。ところがハンガリーの場合には、外部の工作に乗じられるだけの原因が内部にあった(1)。ここに至って、彼ら反対派の主張は、ほぼ全体像をつかめたのではあるまいか。

 

 宮本は、徹底的に事件の原因を外部に求め、自己反省の材とすべきは「党の分裂」のみと断定する。そして、ハンガリー問題をも含めた党内問題を、むやみに論じてはならないと教訓を垂れる。

 

 これに対して、民主主義的反対派は、限りなく、事件発生の原因を党内部に求めてゆく。ハンガリーの党の混乱ぶりは、「われわれ自身の問題として十分考えてみる必要がある」と述べ、党改革のための「他山の石」たらんと究明するわけである。

 

 また、こうした問題を行政的措置を介入して一方的に論定してはならないとも彼らは結論する。「民主化の「行きすぎ」をおそれることは間ちがいである」。おそらく、武井の次の一文は、彼らがハンガリー事件を論ずる際のマニフェストだったに相違ない。

 

 大衆を信頼せずに個人的、派閥的な上からの指導をやっていれば、大衆の意見や感情が分らなくなるのは当然だし、大衆の意思や創意を十分に取り入れた正しい政策や方針も作れるはずがない。これはハンガリーでは、おそらく中央だけでなく、州から地区、町村、細胞にいたるまでのあらゆる党組織にあった問題ではなかろうか。それでなければあの困難な時期に党組織があんな無力ぶりを示すことはありえない。こういう点が、日本の党ではどの程度まで十分におこなわれているか。理屈や言葉としては、つねに知ってもいるし口にもしていることだが、もう一度実際の問題として自分自身を点検してみなければならないと思う(1)。

 

 以上の論争を整理して言えば、国際的にソ連VSユーゴスラヴイアで争われた論点とほぼ同一のものを、国内で争ったと考えてまず間違いはないと思われる。単なる事件認識に留まらず、それぞれの立場よりする前衛党建設論を背景にしていた事実も、ソ連・ユーゴ論争と同一である。

 

 では、論争は、どのように決着づけられたであろうか。

 私の知る範囲内では、武井執筆の紹介記事「ハンガリー反革命の原因はなにか?」(『アカハタ』一九五七年四月二〇日)をもって、民主主義的反対派のハンガリー事件論は、すべての共産党出版物上より忽然と姿を消す。おそらく、()()などの影響に驚いた党中央委員会多数派、特に宮本による何らかの政治的措置がとられたのだろう。宮本らは公然たる論争を恐れ、ハンガリー事件をめぐる「雑音」を一刻も早く消してしまいたかったのである。

 

 その宮本らによる党建設がいかなるものであったかは、一九五八年、第七回大会での激しい怒号戦の末、民主主義的反対派を圧し去って成立した今日の共産党路線に見る通りである。

 

 それはさておくも、反対派消滅後、党機関誌『前衛』に公表された、最後のハンガリー事件論を、眺めておくことにしよう。それは石田精一「ハンガリー事件と修正主義」(一九五七年九月号)である。

 

 石田は言う。ハンガリー事件は、ハンガリー勤労党の政策、特に「ブルジョア思想にたいする思想闘争の軽視」の結果、国民混乱が起って発生した。そして「一部の労働者や一部の善良な知識人も暴動に参加した。この事実は、ひいてはまた、他の国の一部の善良な知識人のなかにも思想的混乱をひき起すことになったのである」。

 

 では、こうした「一部」の連中の所行に過ぎない「ハンガリー事件の教訓」とは何か。石田の回答は、誤読不可能なくらい明快である。

 

 前衛党の指導に、主観主義や官僚主義の誤りがあれば、それを批判してただすことが必要であるし、もし党の力が弱いならそれを強めるために活動しなければならない。それ以外に革命に勝利する近道はないからである。

 

 しかし、党の誤りを批判するという口実のもとに、党のあらゆる功績を抹殺し、党の指導を否定し、さらにすすんで党の必要性までも否定するなら、このような見解とたたかい、その誤りを批判し、このような誤った見解によって思想的混乱がひき起されないようにしなければならない。

 

 これが宮本らの評価をさらに徹底したものだということは、もはや言うまでもなかろう。最後に、民主主義的反対派の論客たちの「その後」について一言しておこう。宮本のヘゲモニーが確立し、さらに春日庄次郎ら中央委員会内の民主主義的反対派が離党する六〇年代前半に、前野、内野、増山らは、次々と共産党を去った。

 

 武井は、しばらく国際関係を担当していたが、一九六五年、さまざまな口実をつけて、要職から解かれた。持病の悪化も一因だったらしい。しかし武井は、一九八一年逝去の日まで、東大和市の居住地党員に留まり、ついに共産党員として生を全うした。共産党中央委員会は、武井の功労をねぎらい、告別式には菊の花束を贈った。

 

 

 参考文献−第4章

 

 ()、小山弘健『戦後日本共産党史』、一九六六年、芳賀書店。

 ()、田川和夫『日本共産党史』、一九六〇年、現代思潮社。

 ()、日本共産党中央委員会『日本共産党の六〇年』、一九八二年、日本共産党出版局。

 ()、日本共産党中央委員会宣伝教育部『ハンガリー問題と共産主義』、一九五七年、新日本出版社。

 ()、日本共産党中央委員会『日本共産党の五〇年問題について』、一九八四年、新日本文庫。

 ()、神山茂夫『日本共産党とは何であるか』、一九七二年、自由国民杜。

 

 ()、武井武夫追悼文集『多摩湖の畔りにて』、一九八三年、武井冨美子私家版。

 ()、安東仁兵衛『戦後日本共産党私記』、一九七六年、現代の理論社。

 ()、安東仁兵衛『続戦後日本共産党私記』、一九八〇年、現代の理論社。

 (10)、柴田翔『されどわれらが日々』、一九六六年、文芸春秋社。

 (11)S・タルボット編、タイムライフブックス編集部訳『フルシチョフ回想録』、一九七二年、タイムライフブックス。

 (12)、高橋勝之訳『フルシチョフと語る』、一九五八年、新日本出版社。

 

 

 小島亮略歴

 

 著者 小島 亮(こじま りょう)

 1956年、奈良市に生まれる。1979年、立命館大学文学部卒業。1986年、シカゴ大学客員研究員。1987年よりハンガリー政府交換留学生としてハンガリー科学アカデミー社会学研究所で学ぶ。1991年、国立コシュート・ラヨシュ大学から人文学博士号を授与される。ハンガリー科学アカデミー社会学研究所研究員、バーヴァード大学客員研究員を経て、1993年から95年までリトアニア共和国マグヌス・ヴィタウタス大学人文学部准教授。サントリー文化財団フェロー、角川書店『世界史辞典』編集部勤務などを経て、1999年より中部大学国際関係学部教授。

 

 著書および訳書

 白夜のキーロパー ―小島亮コレクションII, 現代思潮新社, 2004

 思想のマルチリンガリズム ―小島亮コレクションI, 現代思潮新社, 2004

 ハンガリー事件と日本 ―1956年・思想史的考察,(新版), 現代思潮新社, 2003

 Rio Kodzima straipsniai, paskaitos, interviu. Lietuvoje, Strofa, 2002

 留学は人生のリセット(共編著), 平凡社, 2000

 ハンガリー知識史の風景, 風媒社, 2000

 A multikuturálizmus kerdesei(共著), コシュート大学出版会, 1998

 A modernség peremén, コシュート大学出版会, 1997

 奴隷の死―大池文雄論文集―(編著), ぺりかん社, 1988

 ハンガリー事件と日本―1956年・思想史的考察, 中央公論社, 1987

 

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 〔関連ファイル〕

    『スターリンの粛清』ファイル多数

    wikipedia『スターリン批判』

    小山弘健『スターリン批判・ハンガリー事件と日本共産党』

    塩川伸明『スターリン批判と日本−予備的覚書』日本のマスコミ報道経過

 

    wikipedia『ハンガリー動乱』

    梶谷懐『ハンガリー事件と日本の左翼』小島亮『ハンガリー事件と日本』書評

    映画公式サイト『君の涙、ドナウに流れ−ハンガリー1956』予告編、犠牲者統計

    岩垂弘『スターリン批判・ハンガリー事件を契機とする新左翼諸派潮流の誕生』

    日本共産党『1956年ハンガリー人民のたたかいどう考える−問い、答え』