スターリン批判・ハンガリー事件と日本共産党

 

1956年2月フルシチョフ秘密報告〜10月ハンガリー事件

 

小山弘健

 〔目次〕

     宮地コメント

   1、スターリン批判と日本共産党・宮本顕治の対応

   2、ハンガリー事件と日本共産党・宮本顕治の対応

   3、日本における党内外の動向

 

 〔関連ファイル〕       健一MENUに戻る

    小山弘健『コミンフォルム判決による大分派闘争の終結』

          『61年綱領採択めぐる宮本顕治の策謀』

          『第8回大会・61年綱領の虚像と実像』

 

    『スターリンの粛清』ファイル多数

    wikipedia『スターリン批判』

    塩川伸明『スターリン批判と日本−予備的覚書』日本のマスコミ報道経過

 

    wikipedia『ハンガリー動乱』

    小島亮『日本共産党とハンガリー事件』1956年思想史的考察

    梶谷懐『ハンガリー事件と日本の左翼』小島亮『ハンガリー事件と日本』書評

    映画公式サイト『君の涙、ドナウに流れ-ハンガリー1956』 『you tube

    岩垂弘『スターリン批判・ハンガリー事件を契機とする新左翼諸派潮流の誕生』

    日本共産党『1956年ハンガリー人民のたたかいどう考える−問い、答え』

 

 宮地コメント

 

 小山弘健は、戦前から活動しており、戦後、多数の著書を出版した。なかでも、『戦後日本共産党史』(芳賀書店、1966年、絶版)は、被除名者側が膨大な共産党資料を駆使し、冷静な筆致で、客観的な党史を描いた文献として有名である。それは、1945年占領下の平和革命論から、1966年中ソ論争の波間までを分析している。

 

 このファイルには、「第4章、反省と再編成−1955〜1958年」の内、「第4節、スターリン批判からハンガリー事件へ」(P.205〜212)というテーマ全文を転載した。それは、スターリン批判問題と日本共産党の対応、ハンガリー事件と日本共産党の対応を検証している。日本共産党といっても、これらの時期において、志田重男「料亭お竹さん」問題・失踪・除名後であり、宮本顕治が独裁体制を創りつつあった。よって、日本共産党の対応=宮本顕治の対応という実態になっていた。私の判断で、小見出し、各色太字を付けた。

 

 党中央・宮本顕治は、これら2問題にたいする党内討論を封殺した。当時、日本共産党は、ソ中両党の隷従下にあった。その直前、1955年7月六全協で、ソ中両党が伝えた「武装闘争の総括を禁止するという」秘密指令により、武装闘争を「極左冒険主義の誤り」とイデオロギー面だけの反省をした。この秘密指令の存在は、不破哲三が自白している。そこにある「50年問題」とは武装闘争を指す。武装闘争により、23.6万党員から約3万数千党員に激減し、ほぼ壊滅状態に陥っていた。党中央軍事委員会にたいする責任追及が全都道府県党組織から噴出し、一方、六全協幹部は責任回避と追及抑圧に終始した。

 

    『不破哲三「六全協の準備」』ソ中両党の秘密指令

 

 宮本顕治や党中央幹部たちは、責任回避と追及抑圧の先頭に立った。小山弘健はそれについても次のように記している。

 (1)、野坂参三は、9月21日「アカハタ」で、誤りを認めた。しかし、彼は「誤りを犯した人にたいしてただちに不信を抱いてはならない」「たんに身をひくことが責任をとる正しい方法ではない」として、責任をとろうとしなかった。

 

 ()宮本、春日()らも、自分らのおかしたあやまちについて、なに一つ自己批判を表明しなかった。彼らは、責任の所在をあいまいにし、ごまかしてしまうという第二の重大なあやまちをおかした。宮本顕治は、総括・公表を要求する党中央批判党員たちにたいし、「うしろ向きの態度」とか「自由主義的いきすぎだ」とか「打撃主義的あやまり」「清算主義の傾向」とかの官僚主義的常套語で、水をかけ、武装闘争総括押しつぶす先頭に立った(P.194)

 

 宮本顕治は、スターリン批判・ハンガリー事件の党内討論要求や一部発言にたいしても、武装闘争総括過程における対応と同じく、「自由主義」「清算主義」「規律違反」などの名でもって押さえつけた

 

 ヨーロッパの資本主義国共産党と左翼研究者・有権者は、()大陸地続きという地政学的条件や、()ソ連からの亡命者200万人()ハンガリー事件での亡命者20万人からの直接情報の流入を受け、党内外で、スターリン批判問題とハンガリー事件の情報分析・研究に取り組み、討論し、大量のデータ・研究書を出版した。それは、党内外において、東欧・ソ連10カ国の実態認識を飛躍的に深めた。

 

    wikipedia『スターリン批判』

    塩川伸明『スターリン批判と日本−予備的覚書』日本のマスコミ報道経過

 

 それにたいし、東方の島国における共産党員と左翼研究者・有権者の認識は、宮本顕治の上記抑圧・策謀によって、不幸にも、2分裂させられた。フルシチョフによるスターリン批判は、個人批判に留まり、その本質はスターリン型前衛党・党治国家体制の再構築だった。それだけでも衝撃的だったが、ハンガリー事件は、スターリン批判を行ったフルシチョフが弾圧指令を出しただけに、スターリン=フルシチョフという共産党システムそのものに批判の目が向いたのは当然だった。

 

    wikipedia『ハンガリー動乱』

    梶谷懐『ハンガリー事件と日本の左翼』小島亮『ハンガリー事件と日本』書評

    映画公式サイト『君の涙、ドナウに流れ-ハンガリー1956』 『you tube

 

 日本共産党内において、ハンガリー事件の党内討論・研究を進めるべきという意見や自主的な研究論文も出された。しかし、宮本顕治の抑圧・弾圧に屈服し、一部は沈黙に追い込まれた。他方は、その主張を強めた。彼らは、()規律違反でっち上げによる除名をされるか、()自ら離党した。除名・離党党員たちは、スターリン型宮本顕治に対抗し、新左翼勢力を形成していった。

 

 よって、ヨーロッパと異なり、スターリン批判問題・ハンガリー事件問題の討論・研究・文献は、党外の左翼か、知識人からしか出されなくなった。宮本顕治こそ、この2テーマへの抑圧・弾圧を通じて、日本の左翼勢力分裂させた張本人として、戦後日本史において記録する必要がある。

 

    岩垂弘『スターリン批判・ハンガリー事件を契機とする新左翼諸派潮流の誕生』

 

 ヨーロッパの共産党と日本共産党との思想的体質的亀裂は、1956年2月から11月にかけての2事件にたいする対応の違いが、その第一歩になったと位置づけられる。21世紀資本主義世界において、()なぜ、日本共産党の1党だけが、レーニン型前衛党5原則を隠蔽・略語堅持政党として残存しているのか。()なぜ、ポルトガル共産党と日本共産党という2党だけが、党内民主主義を抑圧する犯罪的組織原則Democratic Centralism放棄しないのか。その原因解明の一つとして、スターリン批判・ハンガリー事件にたいする日本共産党・宮本顕治の対応の誤りを位置づけ、検証する必要がある。この経過・背景分析については、小島亮『ハンガリー事件と日本』(現代思潮新社、1987年、2003年復刊)が正確で、詳しい。

 

    小島亮『日本共産党とハンガリー事件』1956年思想史的考察

 

 なお、小山弘健『戦後日本共産党史−党内闘争の歴史』(芳賀書店、1966年、絶版)については、2008年5月、こぶし書房から、編者・解説者津田道夫による復刻版が、(三月書房、1958年)を底本として出版された。ただ、これは、津田道夫による編集・文章改定があり、かつ、「第5章、前衛神話の崩壊」「第6章、中ソ論争の波間に」など、1959年から1966年までの2章が、全面削除されている。削除理由は書かれていない。

 

 

 1、スターリン批判と日本共産党・宮本顕治の対応

 

 党内問題としての志田問題神山問題と併行して、一九五六、五七年には、国際共産主義運動のうえにみぞうの大事件が続出し、それらが党に根底からの大衝動をあたえた。まず五六年二月のソ連共産党第二〇回大会において、これまで批判の彼岸にあったスターリンが、かれの後継者たち、フルシチョフとミコヤンによって批判された。このときの発表内容はホンの一部の批判に限られていたから、世界は、共産陣営で絶対的な超批判的存在だったスターリンがはじめて公然と批判されたという事実そのものに、仰天したのだった。

 

 だがつづいて、コミンフォルムが解散され、さらに六月末にいたって、二月の大会でなされたいわゆる「フルシチョフひみつ報告」なるものがアメリカ国務省から発表され、それが各国の共産党にほぼ真実としてうけとられるにおよんで、事態の深刻さはなにびとにも明白となった。全世界の共産主義者が、スターリン批判がふくむおそるべき実相に、心底から震撼させられた。

 

 世界の共産主義運動は、いままでスターリンへの無条件的信奉絶対的な個人崇拝におちいっていたげん然たる事実のうえから、過去の運動と組織、理論と思想のありかたを根本的に反省し、大衆にはっきりした責任をとる必要にせまられた。日本では、ソ連の党大会後一カ月たった三月下旬に、同大会についておこなった五中総決議を発表した(「ソ同盟共産党第二〇回大会について」、『アカバタ』、五六年三月二四日)。これは、第二〇回党大会の諸結論を要約し、六全協のただしさを再確認しただけのもので、積極的な内容をなにもふくんでいなかった。

 

 フルシチョフらがスターリンを公然と批判したことは、スターリンの死後かれらが展開した一般的なかたちでの「個人崇拝」批判や「集団指導」の強調から、竿頭一歩をすすめた画時代的性質のものだった。それが下からの強力な圧力に対応するための上からのスターリン批判であり、したがってその後の「非スターリン化」には明白に一定の限界がワクづけされていたが、しかしそのことは、フルシチョフらの行為の歴史的意義自体をひくめるものでなかった。

 

 ところが日本の党指導部は、スターリン批判の意義は個人指導が集団指導に訂正されたことにあると、問題を逆行的にとらえ、だから日本では、これは六全協で解決ずみで、べつにあわてることはないと、こともなげにすませてしまった。そのため党外の言論・思想界がこのス々−リン批判に大きな反応をしめしつつあるとき、当の『アカバタ』紙上では「ソ連の二〇回大会を学習せよ」として、スターリン批判が永久にたたきつぶしたはずの権威主義ソ連第一主義・教条主義の態度と方式が、臆面もなく、くりかえされていた。党中央が、スターリン批判がふくむマルクス・レーニン主義としての死活的に重大な意味をさとらなかったかぎり、機関紙誌のうえに意識的な討論が全然組織されなかったとしても、なんらふしぎではなかったのだ。

 

 二〇回大会を「学習」する模範を、まず党中央がしめそうとした。五六年六月二八〜三〇日の七中総で、二〇回大会でフルシチョフがはじめて提起した革命の「平和的移行の可能性」が、そのまま日本に適用され、この点で五一年の新綱領を改定する必要があると、決定をみた。

 

 すなわち、この六月の参院選挙の直前に発表された七中総の決議「独立・民主主義のための解放闘争途上の若干の問題について」は、五一年綱領のなかの日本の解放と民主的変革を「平和的手段で達成できない」という規定を、「他の若干の不適切な点」とともに改定する必要があるとはっきり断定、講和会議以後の情勢の変化によって議会をつうじて民主民族政府を樹立する可能性がうまれてきたこと、一定の条件の下に社会主義に平和的に移行する可能性もまたうまれてきたこと、をあきらかにした(『アカバタ』、一九五六年七月二日)。

 

 またここでは、講和会議までの七年間というものはアメリカの占領下にあったから、「国会をつうじての革命の可能性」はなかったとしていた。これを集約すると、党は平和的移行の可能性のない占領下の時期に、野坂理論による「平和革命」の方式をとなえ、講和会議の新情勢で平和的移行の可能性がうまれた時期に、新綱領による非平和的手段を採用し、かくて戦後の一〇余年間一貫してまちがった革命方式をとってきた−ということになるのであった。

 

 冷厳な事実の論理を党みずからが承認したわけである。旧態依然たる教条主義の方式が、こうした結論をうんだことは、それ自体として一つの成果だった。いずれにせよ、党中央は、フルシチョフの提起におうじて各国の共産党が「平和的移行」をみとめたのにおくれじとばかりに、五一年綱領中の重大規定をここに公然と放棄し、革命の方式において根本的な転換を宣言したのである。

 

 その後九月になって、スターリン批判にかんする指導分子のまとまった意見が、はじめて発表された。中委候補米原昶の「スターリン批判とわれわれの態度−六全協一周年にあたって」(『前衛』、一九五六年九月)がそれである。これは、スターリン批判をどのようにうけとるべきかというより、どのようにうけとってはならぬかということをしめす絶好の見本であった。ここではスターリン批判の問題が、もっぱら、「ソ連」における「スターリン」個人にかんする問題、すなわち日本の党と運動にとっての外在的問題としてとらえられ、それがほかならぬ日本の党と運動のありかた全体をつらぬく内在的問題であるということが完全にタナあげされていた。

 

 そうであるかぎりは、日本の党も党員もこのスターリンのおかしたあやまちから害をうけた「被害者」にすぎないこととなり、自分自身の「スターリン的ありかた」が革命運動にあたえた害意や大衆にたいして負うべき責任の問題から、キレイスッパリと自己放免されてしまうのである。

 

 ここに典型がしめされたから、スターリン批判について当然でてくる論理、たとえば歴史と大衆にたいするかぎり、日本の党もスターリン的あやまちの一さいについて連帯責任を負っていること、無謬のスターリンと「スターリン主義」を無条件におしたてることによって、党は結果として何十年も大衆をあざむいてきたこと、それの責任をとるみちは、党自体の「スターリン的ありかた」(党の「うちなるスターリン主義」)を根底から究明し廃棄し、二度とそれが復活しないという保証をあたえる以外にないこと−これらの当然のことが、党としてきれいに無視されてしまった。

 

 党としてスターリン批判によって当然なすべき自己批判や大衆的責任の問題が、すべてタナあげされただけでなかった。あとでのべるように、その後この問題を真剣にとりあげ、日本の運動の歴史にさかのぼってスターリン的あやまりを追及しようとしたり、あるいは現在の党の活動に内在するスターリン的かたよりを究明しようとする党内のこころみは、党中央の手によって、「自由主義」「清算主義」「規律違反」などの名でもっておさえられてしまった。

 

 

 2、ハンガリー事件と日本共産党・宮本顕治の対応

 

 しかも世界の現実は、「非スターリン化」の反応として、この五六年一〇、一一月ポーランド・ハンガリーの諸事件をあいついでばくはつさせ、全世界にショックをあたえた。これらの一連の事件は、個人崇拝と個人独裁大国主義とゆがめられた国際主義権威主義と教条主義など「スターリン主義」に特有のあやまりが、ソ連一国にとどまるものでなく、世界の全共産主義運動と社会主義的建設のなかにすでにふかく定着したものであることを実証した。

 

 それらはまた、「スターリン主義」の浸透が、大衆にたいしていかにかぎりない虚偽をおかし、犯罪すらをもうむものであるかを、あきらかにした。とくにハンガリー事件という社会主義体制内での空前の大衆蜂起は「スターリン主義」というマルクス・レーニン主義の「世界的規模のわい曲形態」が、歴史にたいし大衆にたいし、いかに大きな実害をあたえたかを明白にした。したがってこれが提起したものは、たんなる特定国家、たんなる一部部面での、理論や戦術のあやまりの修正といったものではなかった。

 

 それは、世界的つながりをもった運動組織全体のありかたについての根本的反省ということであり、レーニンの死以後のマルクス主義の理論・組織・運動のすべてにわたる根本的な再検討ということであった。ハンガリー事件以後、世界のあらゆる共産党から大量の離脱者が続出し、なかには運動全体を解体させかねない事例までうまれてきた事実は、これがたんにソ連の対外政策や国内指導方式のあやまりだけに局限きれるべき性質のものでないことを、はっきりと証拠だてた。

 

 だが不幸にも、こうした基本点は、世界共産主義運動の主流において無視された。スターリン批判の問題が「ソ連」一国での指導方式や対外政策にかかわる問題として矮小化されるのとともに、ハンガリー事件そのものもたんにスターリン的大国主義の圧迫にたいする「民族主義」的反発として、しまいにはアメリカ帝国主義の挑発にもとづく反革命事件として、かたづけられてしまった。

 

 また「スターリン主義」とのたたかいのなかからうまれてきた「ゴムルカ主義」や「チトー主義」も、正しい歴史的評価からはずされて、教条主義のかたよりに反発してでてきた修正主義的ゆきすぎかのよぅに評価づけられた。スターリン批判問題が提起した本質的課題は、こうしてハンガリー事件によって逆に水をかけられ、大国的権威主義と小国的民族主義、教条主義と修正主義とを同一平面にならべて双方を批判する平板な折衷主義的収束によって、処理された。スターリン批判が提起した世界の共産主義運動の根底からの刷新と転換の機会は、さきにのばされたのである。

 

 

 3、日本における党内外の動向

 

 だがそうであっても、スターリン批判とハンガリー事件が、さまざまの分野にマルクス・レーニン主義の理論と実践について深刻な反省の機会をあたえ、あとでみるような党内外の若いまじめな分子のあいだに自主的な再検討の機運をよびおこしたことは、大きなプラスであった。ところが日本では、さきのスターリン批判問題ですら、党の内部での討議は低調であり、しかもそのわずかな自主的あらわれにたいしてすら、中央の手で抑制されるしまつだったから、つぎのハンガリー事件についても事態はすこしもかわらなかった。

 

 ハンガリー事件のような共産主義運動史上みぞうの重大問題には、いやしくマルクス主義者たるかぎりは、早急な正否の結論をもとめるよりまえに、なによりもあらゆる疑問や混迷をときほぐすために自由、かつ、てってい的な討議をもとめるのが当然であった。問題は、結論を早急にうちだすことにあるのでなく、全党員がみずからかんがえ、みずから判断しうるための大衆的討議を組織し深化することであり、それを基礎にしてはじめて大衆的結論をただしく収束し、理論化することであった。

 

 だが、党中央は、けっしてそのような手段をとらなかった。このときも、「タス通信」や北京の『人民日報』をもっぱら紹介し解説し、これを代用として上から説得につとめるだけで、党員みずからが判断し納得しうるような自主的大衆的方法をさいごまでとろうとはしなかった。スターリン批判からハンガリー事件までの『アカハタ』をみていたひとは、共産主義者とは提起された根本問題をみずからのアタマと力量で分析し、そこから科学的な結論をひきだそうとするものでなく、ためらうことなく無条件にモスクワや北京の報道と結論を信ずるものをいうのかと、うたがわざるをえなかったであろう。

 

 五七年四月五日の『アカハタ』は、春日正一の「自由主義に反対し、正しい党内論争を発展させよう」という文書を発表したが、これは、ききに大沢久明・鈴木清・塩崎要祐の三名が公刊した『農民運動の反省−日本革命の展望について−』という著書にたいして、清算主義と規律違反の典型であるとの攻撃をくわえ、さらにこの五七年三月の『中央公論』臨時増刊号にのった座談会での武井昭夫の発言にたいしても、同一の非難をくわえていた。

 

 大沢らの著書は、コミンテルンとコミンフォルムの日本農民運動への指導のあやまり系統的に追及したもので、その総括で「日本の共産主義者は仮借なくスターリンを批判することで前進しよう」と強調していた。また『中公』の座談会は、「若き日共党員の悩み」と題するもので、武井はそこで、地下指導部の時代の「トラック部隊」事件といわれるものに率直に言及していた。コミンテルンの方針の再検討にしろ、党活動のスキャンダルの追及にしろ、当然、党中央がみずから積極的におしすすめるべきもので、それによって全党の討議なり反省なりを喚起し、大衆への責任をあきらかにすべきだった。ところが反対に、中央はそうした試みや討論がわずかに党内からおこってきたのにたいしても、右のよう規律違反などの行政措置によって極力おきえつけようとはかったのである。まったくさかだちした中央のあり方をしめすものだった。

 

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 〔関連ファイル〕

    小山弘健『コミンフォルム判決による大分派闘争の終結』

          『61年綱領採択めぐる宮本顕治の策謀』

          『第8回大会・61年綱領の虚像と実像』

 

    『スターリンの粛清』ファイル多数

    wikipedia『スターリン批判』

    塩川伸明『スターリン批判と日本−予備的覚書』日本のマスコミ報道経過

 

    wikipedia『ハンガリー動乱』

    小島亮『日本共産党とハンガリー事件』1956年思想史的考察

    梶谷懐『ハンガリー事件と日本の左翼』小島亮『ハンガリー事件と日本』書評

    映画公式サイト『君の涙、ドナウに流れ-ハンガリー1956』 『you tube

    岩垂弘『スターリン批判・ハンガリー事件を契機とする新左翼諸派潮流の誕生』

    日本共産党『1956年ハンガリー人民のたたかいどう考える−問い、答え』