コミンフォルム判決による大分派闘争の終結

 

『戦後日本共産党史』第二章8、1951年

 

小山弘健

 〔目次〕

   1、宮地コメント 2つの外圧・国際的命令と4つの党史解釈

   2、亀山幸三『戦後日本共産党の二重帳簿』抜粋

   3、小山弘健『戦後日本共産党史』第二章8、1951年全文

 

 (関連ファイル)          健一MENUに戻る

     『大須事件騒擾罪成立の原因(2)=法廷内外体制の欠陥』自己批判書提出の証拠

     『大須事件第5部・資料編』五全協への自己批判・復帰と五全協共産党での活動証拠

     『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』7つの資料

     『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党

     石堂清倫『コミンフォルム批判・再考』スターリン・中国と日本共産党との関係

     宮島義勇『中国密航と50年8月・周恩来との会見』統一回復・北京機関・武装闘争

     吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部インタビュー

 

 1、宮地コメント2つの外圧・国際的命令と4つの党史解釈

      宮本顕治の党史偽造歪曲と敵前逃亡犯罪事実

 

 亀山幸三・小山弘健の転載文は、ファイル『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの屈服』にも載せた7資料中の一部再録である。私は、2005年6月、『謎とき・大須事件と裁判の表裏、5部シリーズ』を完結させた。そこで痛感した想いは、宮本顕治の党史偽造歪曲と敵前逃亡犯罪を、大須事件にのみ騒擾罪が成立した原因を探求する視点から、今日改めて再検証する必要があるということである。なぜなら、大須事件の分析結果として、私は、彼の犯罪的言動が騒擾罪成立の副次的要因をなしたと判定したからである。2人の転載文は、宮本顕治の党史偽造歪曲を立証する重要な証拠となる。2人の党史解釈における一致点など、以下のコメントは、別ファイル・コメントとの重複を避けるように書いた。

 

 亀山幸三は、国際派中央委員7人の一人であり、50年分裂中、宮本顕治に密着した活動をしていた。それだけに、当時の宮本顕治の動向や心境に通じている。彼は第7回大会中央委員・財政部長だった。61年綱領問題で宮本顕治と意見が対立し、除名になった。『戦後日本共産党の二重帳簿』(現代評論社、1978年、絶版)の内容は、党分裂→四全協→六全協→第7回大会という経過に関する貴重な証言である。このファイルは、そこから一部抜粋・転載をした。

 

 小山弘健は、戦前から活動しており、戦後、多数の著書を出版した。なかでも、『戦後日本共産党史』(芳賀書店、1966年、絶版)は、被除名者側が膨大な共産党資料を駆使し、冷静な筆致で、客観的な党史を描いた文献として有名である。それは、1945年占領下の平和革命論から、1966年中ソ論争の波間までを分析している。このファイルには、1951年8月10日コミンフォルム判決(論評)と8月14日モスクワ放送による大分派闘争の終結=50年分裂の終結というテーマ全文を転載した。

 

 2人の党史解釈は、次の事実関係について一致している。

 ()50年分裂=大分派闘争の始まりは、コミンフォルム批判という外圧がきっかけだった。主流派(所感派)と国際派との分裂だが、国際派はさらに約5つの「分派」に分裂した。大分派闘争とは、1)、主流派と国際派との分派闘争とともに、2)、国際派内約5つの「分派」間の分派闘争という二重の分派間闘争を含む。

 

 ()分裂・分派闘争の終結は、1951年8月14日モスクワ放送におけるコミンフォルム判決(論評)という外圧が決定的な原因だった。810付コミンフォルム機関紙掲載の「四全協、分派に関する決議」について、亀山は「論評」とし、小山は「判決」という言葉を使っているが、同じ決議を指している。

 

 ()分裂期間は、1955年7月六全協までではない。国際派4つの他「分派」が次々とスターリンに屈服した中で、1951年10月上旬、宮本分派「全国統一会議」解散=モスクワ放送外圧への宮本隷従が最後だった。国際派5分裂による宮本「分派」側の中央委員は、7人中、国内で宮本・蔵原の2人だけだった。袴田里見はモスクワに行って、国内にいなかった。よって、分裂期間は、宮本顕治がスターリンに屈服し、宮本分派組織を解散した時点までという、1950年6・6追放翌日からの1年4カ月間だった。

 ところが、宮本顕治が主張する分裂期間となると、1955年7月27日六全協までの5年1カ月間となる。

 

 ()国際派中央委員7人全員、国際派党員のほぼ全員が、1951年8月14日モスクワ放送によるスターリン判決という外圧に屈服した。彼らは、主流派に自己批判書を提出し、復帰した。宮本顕治も、当然、志田重男宛に自己批判書を提出した。その事実により、五全協共産党は、感情的な団結面を別として、組織上では分派闘争の終結=統一回復をした。

 

 ()武装闘争の実行開始時期について、五全協以前は、四全協共産党が劉少奇の植民地型武装闘争方針を決めただけで、武装闘争の実行をまったくしていなかった。武装闘争の全面的実行を遂行したのは、宮本顕治も自己批判・復帰し、党中央レベルで4項目の活動をした五全協共産党だった。

 

 私(宮地)のコメントは以下である。

 主流派は、国際派中央委員7人の誰も、五全協の中央委員に選ばなかった。なぜなら、五全協前、スターリンによる2つの外圧=裁定と判決という国際的命令があったからである。その内容には、スターリンやソ中両党による五全協日本共産党にたいする人事指名が含まれていた。ソ中両党が、東欧ソ連衛星国の一党独裁型前衛党や隷従下の資本主義国共産党にたいして国際的命令=外圧をかけるとき、そこに革命路線・方針だけでなく、その前衛党指導部の人事指名もしたことは、1950年代の国際共産主義運動における常識だった。その事実は、東欧革命後、東欧社会主義国家における前衛党実態の暴露によって完璧なまでに証明された。

 

 〔第1外圧〕1951年4月、スターリンが徳田・野坂らをモスクワに呼びつけて、「宮本らは分派」と裁定した。そして、スターリン執筆の51年綱領を押し付けた。

 

 〔第2外圧〕1951年8月14日、モスクワ放送による「宮本らは分派」と再確定するスターリン判決(論評)である。モスクワ放送は、臨中側の四全協決議「分派主義者にたいする闘争にかんする決議を全面的に支持する」という、8月10日付・コミンフォルム機関紙の論評内容を放送した。ソ中両党隷従を基本体質としてきた日本共産党は、主流派、および、国際派内5分派とも、瞬時にそれらダブル外圧に屈服した。徳田・野坂・志田ら主流派が、五全協の中央委員選出において、スターリンによって「宮本らは分派」と名指しされた宮本顕治らを中央委員に選ぶことは、国際共産主義運動史上における偉大なスターリン裁定・判決にたいする叛逆行為となり、そんなことはできるはずもなかった。

 

 〔小目次〕 4つの党史解釈

   第一、第七回党大会の政治報告における党史解釈

   第二、宮本顕治式党史解釈

   第三、不破・志位・市田らの党史解釈

   第四、私(宮地)の党史解釈

 

 となると、4つの党史解釈が発生する。しかも、それらの解釈は、1952年1月白鳥警部射殺事件から、7月7日大須騒擾事件までにおける武装闘争実行にたいする宮本顕治・現在の共産党の関与と責任問題に関連する。

 

 第一、第七回党大会の政治報告における党史解釈

 

 1958年7月23日、第7回大会が開かれた。野坂参三第一書記が中央委員会政治報告を行った。以下は、政治報告における「第六回党大会以後の諸問題」からの抜粋である。全文は『日本共産党五〇年問題資料文献集4(別冊)』「日本共産党の五〇年問題について」(P.20〜32)に掲載された。

 

 「二つの組織が公然と対立抗争する党の分裂状態は、大衆の不信と批判をうけ、党勢力は急速に減退した。このような事態のもとで、四全協指導部の間に従来からの戦略や指導上の誤りが自己批判されはじめた。これらのことが分裂した双方のなかに統一への機運をつくりだし、両者の統一のための話し合いもすすんでいった。八月十四日のモスクワ放送を契機として、全国統一会議の結成を準備していた中央委員たちは下部組織を解体して、臨中のもとに統一する方向にすすんだ。

 

 だが、四全協指導部は、これらの組織に属していた人びとに、分派としての自己批判を要求し、そのため復帰も順調に進まなかった。このような態度は基本的には六全協にいたるまで克服されず、党内問題の解決をおくらせる主要な原因となった。

 一九五一年十月にひらかれた第五回全国協議会も、党の分裂状態を実質的に解決していない状態のなかでひらかれたもので不正常なものであることをまぬがれなかったが、ともかくも一本化された党の会議であった(P.26)

 

 第二、宮本顕治式党史解釈

 

 1967年7月以降、宮本顕治が開始した武装闘争時期の党史に関する言動の真実性である。彼は、「私(宮本)、および、現在の共産党は、武装闘争実行にたいして、なんの関係もなく、責任もない」という趣旨の発言を繰り返し行った。それは、真実なのか、それとも、彼による党史の偽造歪曲なのか。彼の言動の根拠は、日本共産党の統一回復は、五全協からではなく、六全協だとする規定である。分派闘争終結=組織統一回復をしたのは、1955年六全協だと党史の偽造歪曲をすれば、六全協以前に実行された共産党の武装闘争は、分裂していた一方がやったことで、分裂の他方で10%少数派だった国際派宮本顕治らは、その武装闘争になんの関係も責任もないと開き直る宮本式詭弁が成り立つ。

 

 ただし、この宮本式党史解釈は、9年前における党大会政治報告内容「五全協はともかくも一本化された党の会議であった」という正式な党大会決定と矛盾する。しかも、宮本顕治はその政治報告内容に賛成の挙手をしていた。そこで彼はどんな手段を用いたのか。彼は、党史の偽造歪曲内容と第7回大会決定との整合性を持たせるため、第7回大会の31年後に、党大会決定内容の側を削除・訂正させる手口を使った。

 

 1989年2月第18回大会第4回中央委員会総会において、党大会決定をたんなる中央委員会決定で事後削除・訂正するという規約違反の暴挙を強行した。というのも、党大会決定を事後に削除・訂正する権限は、規約上、党大会にしかないからである。宮本顕治は、削除決定内容を『日本共産党の七十年』において、次のように載せた。「大会の政治報告は『五全協』を『ともかくも一本化された党の会議であった』としたが、『五全協』は徳田派による党規約に反したものであり、この評価は正しくなかった。この点について第十八回党大会四中総(八九年二月)は、この部分を『正式に削除されるべきものだった』ことを明確にした」(P.269)。

 

 31年後に、なぜ、第7回大会決定内容の一部を削除、しかも、党大会の場でなく、たんなる中央委員会総会の場で削除してしまう必要があったのか。それは、1967年7月以降の宮本顕治による党史偽造歪曲にたいし、党内外からの批判・不満が絶えなかったことが基本要因であろう。これに見られるように、党史の偽造歪曲作戦における宮本顕治の用意周到ぶり、つじつま合わせ手口は、驚嘆に値する。

 

 彼が詭弁を創った心理的背景もある。そこには、彼が五全協共産党に自己批判書を提出し、復帰したのにもかかわらず、五全協中央委員に選ばれなかったから、五全協を統一回復共産党と認めないとする傲慢な自己中心的判断基準が潜んでいる。四全協・五全協・六全協とも、規約違反の会議である。しかし、その内、六全協だけは、ソ中両党そのものが準備した国際的命令による会議である。しかも、私(宮本)は、日本共産党にたいするソ中両党の人事指名のお陰で、中央委員、かつ、常任幹部会責任者に復帰できた。その時点にこそ、日本共産党の統一回復が成立したと規定すべきであろう。同時に、それは、武装闘争による「汚れた手」をしていない宮本顕治というイメージ作りの面から言えば、見事なまでの自己保身作戦だった。この心理と論理は、彼が、いわゆる典型的な「自己中」人間であることを窺わせる。

 

 第三、不破・志位・市田らの党史解釈

 

 2003年1月20日、不破・志位・市田らは、宮本引退後、『日本共産党の八十年』を出版した。その内容として、党史本文を3分の1に縮小し、かつ、党史年表を全面削除してしまった。よって、現在、日本共産党公認の党史年表を調べるには、『日本共産党の七十年』(1994年)を見るしかない。彼らは、『八十年』において、宮本顕治が開始した武装闘争期間の党史に関する言動の詭弁をそのまま継承している。

 

 ただ、六全協の評価については、宮本顕治よりもやや厳しい書き方をした。というのも、不破哲三は、『日本共産党にたいする干渉と内通の記録、ソ連共産党秘密文書から・下』(新日本出版社、1993年)において、四全協・五全協・六全協に関する分析を、ソ中両党の干渉実態の暴露・批判を含め、宮本顕治が公表しなかった内容を自白・証言したからである。

 

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』不破哲三の証言資料2箇所

 

説明: tousi70  説明: image001  説明: tousi80

 

 第四、私(宮地)の党史解釈

 

 日本共産党は、2回の外圧=国際的命令により、五全協で組織的に統一回復をしたと規定できる。亀山幸三・小山弘健の党史解釈と同じになる。五全協共産党指導部が、宮本顕治を中央委員に選ばなかったことは事実である。しかし、ソ中両党隷従という日本共産党の歴史的体質から見れば、スターリン命令に逆らってまで、彼を中央委員に選ぶことができなかったことは当然である。宮本顕治ら国際派中央委員7人全員・国際派党員のほぼ全員が、スターリン裁定とモスクワ放送に屈服して、自己批判書を提出し、主流派に復帰したという歴史的真実がある。五全協は、分派闘争の終結会議であるとともに、2度にわたる外圧に隷従した日本共産党の統一回復会議と規定できる。

 

 ちなみに、主流派(所感派)と国際派の中央委員・党員・専従の五全協前における比率を確認する。それを知っておかないと、五全協前後の党内動向とその動機を理解できない。()、第6回大会中央委員・候補35人中の比率は、主流派28人・80%で、国際派7人・20%だった。これは中央委員候補10人も含めた比率である。それら全員の名前は、『日本共産党五〇年問題資料文献集』4の「五〇年問題について」(P.5)に載っている。

 (2)主流派には党員90%、専従70%がいた。国際派党員は10%、専従が30%だった。ただし、これは、私が様々な証言から推定した数値である。六全協もその比率について文献的証拠を明かにしなかった。

 

 なお、『大須事件5部シリーズ』ファイルを作成する中で次の事実が判明した。それは、愛知県党において、国際派細胞だけでなく、国際派党員も皆無だったという事実である。愛知県の文学者党員や名古屋大学学生党員で、国際派だった党員はもともと一人もいなかった。愛知県党は、100%が主流派であり、主流派として1952年7月7日に向けて火炎ビン武装デモの計画と準備を行った。

 

 宮本顕治の五全協解釈が持つ非論理性・詭弁性は、3つある。

 第一、宮本顕治ら中央委員7人全員と党員のほぼ全員が自己批判書を提出し、主流派に復帰した。五全協前までに、スターリンに屈服しなかった党員は、新日本文学会の党員と武井昭夫・安東仁兵衛らの全学連グループなど数十人だけだった。五全協後、そのほとんども外圧に屈服した。国際派党員のほぼ100%が主流派に自己批判・復帰したという実態にもかかわらず、五全協以降も党の組織分裂が続いていたという宮本論理は成り立つのか。

 

 第二主流派にいた90%党員・70%専従・80%中央委員が、自己批判書提出・主流派復帰の国際派10%党員・30%専従・20%中央委員に向い、スターリンが2回も裁定・判決してくれた「分派」活動に関し、復帰党内で、さらなる自己批判要求や査問をしたことは事実である。しかし、その行為でもって、組織分裂が解消しなかったと主張できるのか。感情的な団結ができなかったからには、分裂終結=組織統一回復もできていない、六全協まで組織分裂があったと規定しうるのか。

 

 第三、第6回大会中央委員だった宮本顕治は、スターリンが「宮本らは分派」とした2回の外圧と秘密人事指令によって排除され、五全協中央委員に選ばれなかった。だから、五全協を統一回復会議と認めないとする理屈がまかり通るのか。第6回大会中央委員だった亀山幸三は、六全協中央委員に選ばれなかった。それにもかかわらず、今回は、ソ中両党による逆の秘密人事指名のお陰で、自分が六全協中央委員・常任幹部会責任者に復帰できた以上、六全協を組織統一回復会議と認めてもよいという身勝手な党史解釈は説得力を持つのか。

 

 宮本顕治が行った言動の性質は、詭弁・党史偽造歪曲にとどまらない。宮本言動が始まった1967年当時も、1952年度の武装闘争実行者たちは、3大騒擾事件公判や武装闘争事件刑事裁判において、検察庁・警察庁という騒擾罪でっち上げ謀略中の敵とたたかっている最中だった。彼の言動は、それら武装闘争実行者たちや刑事裁判被告人たちを、15年後に切り捨て、見殺しにする敵前逃亡犯罪という性格を帯びた。それだけではない。「汚れた手」をしていないとのウソを大宣伝する彼の自己保身的言動は、大須騒擾事件裁判において、騒擾罪を成立させた副次的要因となった。

 

 不破・志位・市田ら現在の指導部も、宮本顕治に倣って、党史偽造歪曲を継承し続けている。それは、同時に、不破・志位・市田らが、彼の敵前逃亡犯罪を受け継いでいることを意味する。

 その内容は、大須事件関係ファイル『第5部』『第5部・資料編』で詳述した。

 

    『大須事件騒擾罪成立の原因(2)=法廷内外体制の欠陥』 『第5部・資料編』

      宮本顕治のソ中両党命令隷従と敵前逃亡犯罪言動

 

 

 2、亀山幸三『戦後日本共産党の二重帳簿』抜粋(P.152〜160)

      宮本顕治の自己批判書・主流派復帰から五全協に至る経過

 

8・14コミンフォルム論評の放送から五全協にいたる経過表

事項

8

14

16

18

19

中旬

モスクワ放送が810付コミンフォルム機関紙に「四全協、分派に関する決議」掲載を放送

全国統一会議系の全国代表者会議(埼玉会議)開かる(宮本派)

関東統一会議指導部、モスクワ放送を受け入れ、組織解消を声明(宮本派)

党中央部(所感派)第20回中央委員会開く、「新綱領」提示と「党統一の決議」

袴田自己批判を臨中側公表す(所感派)

9

上旬

椎野ら一九名に公職追放、逮捕令出る。岩田英一、細川嘉六、山辺健太郎ら逮捕

サンフランシスコ平和条約、日米安保条約調印

春日庄次郎自己批判を公表、復帰承認(春日派)

10

上旬

16

中旬

22

宮本ら「党の団結のために」発表。宮本、自己批判を三回書き直し、復帰承認される。蔵原も

五全協、新綱領、新中央委員決定、伊藤律政治局より落ちる(所感派)

この頃、亀山自己批判公表、復帰承認される(亀山派)

臨中議長に小松雄一郎を指名、部員、塚田大願、梶田茂穂を届け出る(所感派)

 

 この表のように、春日派、宮本派、所感派・臨中派の三者三様に、たくさんの文書が、みだれとぶ中で、突如として八月一四日のモスクワ放送は臨中側の四全協決議「分派主義者にたいする闘争にかんする決議を全面的に支持する」という、コミンフォルム機関紙の内容を放送した。要するに「分派は誤っている、直ちに自己批判して党中央の下に復帰せよ」というのである。もっともあわてたのは、もちろん宮本派=全国統一会議=全国ビューローであった。一八〇度の方向転換が必要になったからである。彼らはそれまでは春日派内部にも自分らの仲間を送り込み、臨中との折衝をひそかに調べて、それと競合する形で臨中側と交渉を進めていたが、こんどはそれがきかない。全国代表者会議(埼玉会議と呼ばれている)も直ちに組織解消の方向を決定した。

 

 ところが、ここで意外なことに、春日派にも大異変が起こった。所感派と無条件復帰、統一の話し合いが九分通り決定していた(実際には全部合意していた。だから関統委議長・山田六左衛門は合意事項を全国ビューローに提案したのである)。春日らは、八・一四放送が出ると一挙に、非常にはげしい、徹底的な自己批判の立場にかわったのである。それはまったく一方的に「われわれだけが全部誤りであった、自己批判して復帰する」というコースであった。

 

 春日の自己批判は明らかに一種の自虐趣味まで含まれるボーズ・ザンゲであり、ある意味では徹底した個人主義、ニヒリズムであった。志賀、袴田らのそれは他人に責任転嫁をはかる利己的な、いわば汚い自己批判であったが春日のそれは、その利己主義がないために、いっそう誤りの深いものであった。私はいつかはこれらをまとめて公開し、追いつめられた共産主義者のきわめて非現実的な、また、きわめて観念論的精神構造を分析したいと思っている。こういうボーズ・ザンゲ、復帰のコースをかりに「Aコース」としよう。

 

 宮本派のほうはどうか。彼は全国代表者会議を招集し、政治組織方針をきめ、いっそう強固な分派組織をつくろうとしていた矢先だから、八・一四によって内部は文字通りてんやわんやになった。そして全国代表者会議どころでなく結局は「自己批判して復帰しよう」というのが大勢をしめた。ここでも大別して次の三通りになった(この点は安東仁兵衛の『日本共産党私記』に詳しく出ている)。

 

 第一は「やはりわれわれが根本的に誤っていた、自己批判して復帰しよう」とするもの、すなわちこの場合にも、われわれが全面的に、徹底的に誤っていたとするもの(不破哲三、現在、共産党書記局長がその先頭であった)と、もう一つは、われわれは負けたのだから仕方がない、自己批判して帰ろうとするもの(力石定一ら)の二通りがあった。これらはだいたいのところ「Aコース」またはそれに近いものといえる。

 

 第二は、われわれは部分的には間違っていても、基本的には正しかった。したがって、根本的にわるかったという自己批判は出来ない、それで復帰出来ないとすれば、それも仕方がない、というものであって武井昭夫たちの主張で、これはごく少数であった。それをかりに「Cコース」としよう。

 

 第三は、われわれの現実は分派である。内外情勢はこの状態を許さないほど切迫している。そのことは明白だから、われわれが自己批判出来るところだけ、自己批判して、復帰しよう、とするものでこれをかりに「Bコース」としよう。

 

 宮本派のみならず、いずれの派であろうと、コースはだいたいこの三通りしかないのは当然である。宮本派でも日本帰還者同盟(土居祐信、高山秀夫ら)はだいたいAコース、新日本文学会の党員はおおむねCコース(中野重治の場合はよくわからない)、中国地方委員会と全学連系の党員は、およそBコースだが、そのいずれの集団にもA、B、Cの三通りに内部は分解していった。

 

 ところで宮本自身はどうであったか。彼自身は、当時の文献をいっさい隠しているので、十分明らかでない。彼が自己批判をして復帰したことは明白な事実だが、その内容はいまもって明らかにされていない。彼がCコース=「基本的な自己批判はない、復帰しなくてもよい」というのではなかった。結局は何回か書き直しを命ぜられて、それにしたがったのだから、Aコースか、それにごく近いもので復帰することが出来たはずである。

 

 さて、宮本の本音はどうか。資料集第三分冊一九三頁に「党の団結のために(一〇月)」なる文書が載っている。それには編者(宮本のこと)注として「この声明は五一年十月、中央委員会の機能の回復等を主張して共同していた中央委員たち(要するに宮本と蔵原だけ)が発したものである」と書かれている。この声明の内容は明らかにBコースである。いわく、「統一した党の中に別組織をつくることは分派となり、明らかに誤りであるが、分裂状態におかれた場合には、統一のための組織的手段もまた止むを得ないと信じてきた。しかしわれわれのその主観的意図にもかかわらず、党の分裂を克服出来ず、分裂状態の継続は客観的に日米反動に利する結果になった。この点についてわれわれは厳重に自己批判する。それを教訓とすることを決意し、ここにわれわれの組織を解散するものである」と、なかなか立派なものである。

 

 これは明らかにBコースである。それが認められて復帰したとすれば、私などとも同じであり、何もいうことはない。ところがこの文書は当時どこに出されたものか、誰も知らないし、また筆者の署名もない。宮本と蔵原の二人か、せいぜいそのほか数人の間で回し読みされたぐらいで、いわゆる国際派党員はほとんど誰も見ていないしろものである。こういう文書を「発した」などと注釈をつけて資料集に載せる宮本が如何に自分の面子と無謬性を守ろうとしていたかを示して余りあるものといえよう。

 

 しかも宮本の本音はこのBコースではなく、実際はCコースであったことは明白である。宮本は当時もいまも自分がいささかでも誤りを犯したなどとは全然考えていない。当時、国際派党員の間で「宮本はどうしてもモスコーへいって、黒白をつけるといっている。船が手に入らなければ、タライの舟にのってでもゆくといっている」という風評が広く伝えられた。私は「その話はデマだ。むしろ、国際派内部を牽制する謀略で、宮本が自分を取りつくろうためにすぎない。彼は実際は何が何んでも復帰コースをとるはずだ。そして、下部の同志にはそういうデマによって『自己批判すべきところは正直に自己批判して復帰する』という党員としてのあたりまえの線(Bコース)を崩そうとしているのだ」と一笑に付していた。これは単なるエピソードではなく、当時、ある機関紙に掲載されたものである。いわゆる宮本のタライ舟による日本海横断論である。

 

 のちに彼自身が書いた「経過の概要」(これも公表はされていない。私はこれを神山茂夫から入手した)によれば、次のようになっている。「八・一四放送後、別項の声明(資料集(3)参照)を発し、中央委員の指導体制を解体す、この間、期限つきで、自己批判の提出を……これに応ず。また、経過措置として臨中側との交渉、地方組織の統合その他に他の諸同志とともにあたる」と。ここには、はっきりと「自己批判の提出を……(求められ)……これに応ず」(括弧内は筆者)となっている。

 

説明: miyamotokeika2  説明: miyamotokeika  説明: osumiyamoto3

右側写真は『経過の概要』冒頭で、宮本顕治の自筆文書である。コミンフォルム論評で始まる。

左側写真の2行目に「この間、期限つきで自己批判書の提出を――これに応ず」がある。そ

の後に、五全協指導部依頼の活動事実が、4項目にわたって書かれている。(P.47〜59)

 

    大須事件『騒擾罪成立の原因(2)=法廷内外体制の欠陥』自己批判書提出の証拠

 

 また、私がずっとあとに宮本から直接聞いたところでは「三度書き直しを命ぜられた」という。その通りであったと思う。いずれにしても簡単な、前記の「党の団結のために」なる文書ぐらいの線で復帰出来たのではなかったことは明らかである。宮本は八・一四のあとすぐに、大急ぎで全国統一会議を解消し、ついで下部の統一と復帰などはすべて他人まかせにして、自分のことだけに専念した。神山とも前日まで緊密であったが、すぐ連絡を切ってしまった。宮本派はほとんどすべてバラバラになった。もしも宮本がBコースならば、論理の必然として、宮本派の内部がバラバラになることはあり得ないはずである。

 

 宮本が三回も書き直して、非常にボーズ・ザンゲに近い自己批判を提出し、それがみとめられた段階でようやく復帰したことは間違いない(なお、このさい、宮本と蔵原、中野重治が同一歩調であったと思う)。そして宮本自己批判は杉本文雄の手を経て志田重男の懐に入ったことは明白である。椎野はそれを見たことがないという。この頃は所感派の中ですでに志田のへゲモニーが確立されていたらしい。ところで、宮本がいくら隠しても、自己批判を出したことは明白である(これを立証する証拠もあるが、それはあとで、五〇年間題の総括論争のときにふれることにする)。しかるに宮本はそのことを、その当時もいまも、ひた隠しに隠しつづけているところに、彼の政治的、思想的誤謬の根が横たわっている。嘘は次の嘘をつくり、さらに大きな虚妄につながってゆく。

 

 ともあれ宮本は、かなりAコース(ボーズ・ザンゲ)に近い自己批判を書いて復帰した。もっとも彼が自己批判を書くのは非常に苦しかったに違いない、というのは、彼の本音は「Cコース」であり、建て前は「Bコース」であり、現実に書いたか、書かされたものは「Aコース」に近いものであったからである。それゆえに、それは本質的に虚偽の自己批判であるから、人に見せられるようなしろものではない。宮本がひた隠しにするのもわからぬではないが、共産党の指導者の態度としては、まったくいただけないことはもはや多言を要しないであろう。

 

  

 

 

 3、小山弘健『戦後日本共産党史』第二章8全文、1951年

      コミンフォルム判決による大分派闘争の終結

 

 反対派の中心たる統一会議の分裂、関西派や春日・亀山の中央への統一申しいれとなるにおよんで、全国ビューローとしては、なんらかこれへの態度をあきらかにせねばならなくなった。それで、八月中旬に全国統一会議の全国代表者会議をひらき、統一方針の根本的検討をおこなうことを、全国の反対派によびかけた。宮本派は、そこで関西派や春日(庄)派の屈服方針と対決し、できれば党統一についての自派の主張を全体の決議にまでもっていき、ゆるんだ統一会議の全国組織をかためなおそうとかんがえた。このため、長文の全国代表者会議への報告草案をつくりにかかった。

 

 ところが、事態は突如一変した。八月一三日に、山田ら関西地方統一委員会は、無条件復帰交渉の前提として自派組織の解消を決議したが、その翌一四日に、決定的な報道が「モスクワ放送」としてはいってきたのである。その内容は、八月一二日付のコミンフォルム機関紙『恒久平和と人民民主主義のために』が、二月の四全協における徳田派の一方的な「分派主義者にたいする闘争にかんする決議」をはっきりと支持し、分派活動は日米反動を利するだけだからあくまでこの決議をまもりぬけとアピールしているという、おどろくべきものだった。

 

 このコミンフォルムの判決は、反対派の全グループにとって青天のへきれきであり、致命的一げきだった。これよりまえ、中央委員少数派は、徳田・野坂ら主流派の指導分子が、占領軍当局と日本政府の追及をのがれて、日本を脱出したことを知っていた。徳田らは北京その他の国際友党勢力に援助と協力を依頼し、同時に党内闘争にかんして自派に有利な工作をおこない、国際的支持をえようとはかるものとおもわれたから、これとの対抗上、宮本・春日・袴田・蔵原・亀山らが話しあった末、自分らの立場を訴えるため、一九五〇年の暮にまず袴田を中国に先発させたのだった。それでいま、コミンフォルム機関紙がはっきりと主流派支持の声明を出したことは、党内闘争の双方の代表の意見をきいたうえで、北京よりむしろモスクワ(スターリン)の線がこれに判決を下したものと想像されたわけである。

 

 とにかく、これによって、もはや論議の余地はなくなった。八月一六日、関西地方統一委は、無条件復帰による党統一の完了の決議をおこなった(「コミンフォルム論評にかんする決議」)。予定した全国代表者会議は、かたちだけのものとなり、一八日には、関東地方統一会議指導部が主流指導下の各機関への折衝開始と全組織の解消を決定した(「党統一にかんするコミンフォルム論評とわれわれの態度」)反対派の屈服による分派闘争の終結は、時期の問題となった。

 

 他方、コミンフォルム判決で勝利を確認された主流派は、八月一九〜二一日の三日間にわたり、東京都内でひみつに第二〇回中央委員会をひらいた。第一九中総いらい一年四カ月ぶりの、しかも四全協とおなじく完全に徳田派だけで一方的にもった規約無視の中央委員会だった。徳田ら海外にわたった以外の地下指導幹部に、椎野や志賀もこれに参加したものとみられた。この会議では、「党の統一にかんする決議」など五つの決議が採択され、四全協で採択された改正「党規約草案」も承認された。党統一にかんする決議は、徳田主流派が絶対に正しかったという前提にたち、反対派にたいして復帰の団体交渉とか集団的復党の方式を一さい拒否、てってい的な自己批判と分派にたいする闘争をちかうことを条件とする「無条件屈服」のみちだけをみとめた。この党統一にかんするものをふくめて、五つの決議は、九月六日付『内外評論』(第二巻第一八号・通巻第二七号、または『健康法』第二七号)にすべて発表された。

 

 重大なのは、この会議が、党の実さいの指導の中心が非公然指導部におかれるべきこと、非公然中央こそ全党唯一の指導機関たらねばならぬことを確認したうえ、まえの五〇年テーゼ草案の処理に一言もふれずに、突然「日本共産党の当面の要求―新しい綱領(草案)」なるものを提出し、これを全党の討議にふすると決定したことだった。のちに(中ソ論争がおこってから)あきらかにされたところでは、前記のように日本から北京に密行し、さらに、モスクワに行った徳田・野坂らが、スターリンに日本の党内問題についての裁定を乞い、さらにこのあたらしい綱領の作成をも乞うて、かれらの立会いの下にスターリンみずから筆をくわえたのであった(一九六四年四月一八日「日本共産党中委にあてたソ連共産党中委の書簡」)。しかし、この当時、新綱領草案がなぜ旧徳田テーゼにかわって突然提出されてきたのか、どのような順序でどのような機関で作成されたのか、一般には全然知らされず、党内でもたんに、「権威」のある国際組織の協力ないし指示のもとにつくられたことが示唆されただけだった。会議のあと、これは特別のあつかいでもって公然面の全党機関に提示された。

 

 かくて一年余にわたる党史上空前の分裂抗争は、組織的には全反対派の主流派への無条件屈服というかたちでの復帰、思想的には新綱領のもとへの全党の理論的統一というかたちでの収束によって、はっきりとかたがつけられた。八月二三日付『内外評論』(第二巻第一七号・通巻第二六号、または『健康法』第二六号)は、海外で袴田が書いたとみられる「私は分派と一切の関係を断ち、分派根絶のために闘争する」という自己批判文を、八月九日付「同志袴田里見の自己批判について」という主流がわの前がきをつけて掲載した。袴田は前述のように、宮本以下反対派中央委員たちの先発として、自分や反対派と徳田派との対立について国外の「権威」の判定をあおぐために、日本をはなれていた。だからかれが無条件で屈服してしまった事実は、あらためて、モスクワでのスターリンの裁定が主流派を是とし国際派を「分派」として断罪したこと、その結果がさきのコミンフォルムの四全協対分派決議の支持となり、さらに新綱領となってあらわれたこと、等を確認させたのである(後年に、スターリンの前で徳田と袴田が論争し、スターリンの一かつで袴田が自己批判書を書いたことが明らかにされた)。

 

 こうして、八月下旬から九、一〇月へかけて、反対派の各グループがなだれをうって解体していった。もっとも強硬に徳田派の粉砕をさけんでいた国際主義者団は、もっともはやく復帰の方針をさだめて、八月二三日付臨中への「申入書」で、「自己の分派を一切の痕跡を断つまで解消させ」る決意をのべ、臨中がそのために「心からの援助を与えられんことを切にお願い」した。九月には、「団結派」が解散大会をひらき、そこでの報告「党統一の勝利的発展とわれわれの態度」において、「論評」に支持された臨中の基本的ただしさと反対派のまちがいを無条件にみとめ、四全協と臨中を承認し、みずからのグループ解体と無条件的復帰申しいれとを確認した。また八月には、春日庄次郎が秋月二郎の名義で、「私の自己批判―本当に党と革命に忠実であるために」「××同志諸君へ自己批判書を書きおえて」の二つの文書を書いた。一〇月、統一会議の指導部は「党の団結のために」を声明、そこで自分らの主観的意図にもかかわらず「日米反動に利する結果となった」ことをみとめ、げん重な自己批判とともに「ここにわれわれの組織を解散するものである」と宣言した。この年四月、津々良・西川らを中心に労働組合運動での反対派組織として結成され、その後活動をひろげつつあった全統会議(全国労働組合統一情報委員会)も、一〇月五日の第四回代表者会議で、国際批判に順応して解消することを決議した。

 

 こうして、春日派・宮本派、関西や中国やその他の統一会議系地方組織、国際主義者団・団結派・神山グループなど、いずれも組織の解散をおこない、個々に自己批判のうえで復帰を申しいれるという方法をとった。すべてがみずからを「分派」とみとめ、自分ら分派のあやまりをみとめ、その完全な敗北を承認したのである。中央指導部がわは、かれらにたいして、復帰条件として、新綱領と四全協規約の承認・分派としておかしたあやまちの告白と謝罪、克服と清算を、容しゃなく要求した。

 

 ただ反対派のなかでも、まだ一部の分子(新日本文学会、その他)は中央への屈服をがえんじなかった。だがかれらの反対派としての力は、武井昭夫・安東仁兵衛らの全学連グループなどのほかは、その後ほとんど実さいに発揮できなかった。この武井らの抵抗も、翌五二年三月の全学連第一回拡大中央委までしかつづかなかった。

 

 とにかく、党の分裂抗争は、不正常なかたちで突然に終止符をうたれた。コミンフォルムの一匿名論文をきっかけにはじまった大分裂は、中共からの勧告で大きくゆれ、さいごにまたコミンフォルム(スターリンの意思を表示した)の一片の判定によって、あっけなくうちきられた。

 

 ここに一貫してみられる特徴は、全党および全党員の思想性のよわさであり、自主性の欠如であり、大衆的組織力の不足であり、実践的基盤のぜい弱さであった。軍事占領への認識や独立問題の意義を外国からの批判でさとるということ自体が、すでに思想の自立性をうしなっている証拠だったが、こうした内的弱点への反省の欠如は、このあと全党あげてスターリンや北京の権威にたいする隷従主義に埋没し没入してしまう結果となってしまった。このため、反対派の徳田派との闘いの正当さも抹消された。

 

 なにより問題なのは、最初のコミンフォルム(スターリン)論評が形式的にまちがっていたところへ、さいごのコミンフォルム判定が、形式でも内容でもまったくまちがっていたという事実だった。分裂とその後の統一阻止の最大の発意者、責任者は徳田書記長であり、その連帯責任者はかれと結びつく中委多数派とそのグループであった。かれら徳田派閥分子の専断的行動・規約無視・家父長的支配などに、主要な分裂原因があったのである。これとたたかううえで、中委少数派と反対派分子の態度も、すべて正しいとはいえなかった。しかし分裂をひきおこし、その後の統一の再三の機会をぶちこわした徳田派の政治責任は、どんな口実や代償をもってしても、さしひきできないものであった。

 

 ところがコミンフォルムは、ここへ、一国の党内問題に直接介人するというあやまりと、きらに両者の正否に不当な判断を下すというあやまりと、二重のあやまりをもちこんだ。この二度目の判決が、最初の論評で党分裂の動因をあたえたことへのあと始末だったとみることができるとしても、コミンフォルムがすでに一年余にわたる深刻化した党内闘争に外部から直接介入して一方のがわに加担したことは、本来的にまちがった行為だった。しかもその判決内容がまちがっているとすれば、これを弁護しうる余地はまったくないのである。

 

 このようなコミンフォルム=スターリンの誤りにもかかわらず、日本共産党を圧倒的に支配するスターリン権威主義の力は、反主流派を無条件屈服に追いやった。もっとも強硬だった野田派から、宮本・袴田・春日・神山・亀山・中西らのすべてが、国際権威の威力に無条件に支配されて、コミンフォルム判決に一言の反対も異存もなく、一方的に自分らのあやまりを認め、規約違反の歴然たる主流に復帰をねがうというさんたんたる状態となったのである。このようなまちがった国際的判決と、それのまちがったうけいれからなされた「統一」が、順調に完了するはずがなかった。その後主流派の一方的独裁化と反対派の屈服による無力化が一般化していき、ついには主流派指導下に全党あげての極左冒険主義への突入となるのである。

 

 ところで、過去一年半にわたる分派闘争は、このとき全体として占領軍や政府からの直接の攻げきの激化と加重して、深刻な打げきを党と大衆にあたえた。外からの圧迫と内からの相克の重奏のもとに、党はてってい的によわめられ、革命勢力は大はばに後退した。とくに分派闘争の同志あい食むせいきんなありかたは、多くの大衆団体・労農組織に直接これがもちこまれたため、いたるところ恐るべき破壊作用をおよぼした。

 

 産別会議とその傘下労働組合、日本農民組合の各地支部、全学連、学生社会科学連合会、民主主義科学者協会、婦人民主クラブ、新日本文学会、歴史学研究会、帰還者同盟、平和ようご日本委員会、日ソ親善協会、新劇グループ、その他党員グループや党細胞が有力な指導力を発揮した多くの大衆団体に、苛烈で非人間的な、ときには低劣と卑劣さにみちた分派闘争のどろじあいがもちこまれた。党と大衆団体の区別は無視され、党内闘争をそのまま大衆のなかにもちこみ、反対者を大衆団体から放逐するなど、あらゆるまちがった処置がとられた。このため、戦後誠実な党員の努力と力量で維持され発展してきた多くの大衆団体が、めちゃくちゃに撹乱され破かいされ、運動全体としてはかりしれない害毒をおよぼした。

 

 分派闘争の非人間的な実相は、敗戦後理想と情熱をもって党に参加してきた多くの若い純心な党員たち、誠実で有能な勤労者党員たちに、むざんな打撃をあたえ、かれらの多くを失意と絶望のなかにおいやった。大なり小なり、肉体的精神的にぎせいをはらわせられ、党にたいするかれらの信頼はグラつき、共産主義や革命運動そのものへの疑惑すらいだかせるにいたった。

 

 多くの学生・青年分子が、生涯二度と回復しえない精神の深傷を負って、永久に党からはなれていった。それだけでなく、分派闘争は、党周辺の多くの先進分子・同調分子にも党への深刻な不信をよびおこし、かれらを急速に党からはなれさせた。終戦後の熱心な活動によってえた影きょう力は、ここに大きく減退した。

 

 党内闘争に全エネルギーをうばわれて、党はこの時期、日本の大衆が当面した多くの問題に、十分の力を注ぐことができなかった。朝鮮戦争のぼっ発から講和会議の準備にいたる重大な転換期に、党はいたずらに内争にエネルギーを消耗し、相克と憎悪につかれはて、大衆闘争を組織することも有効な政治指導をしめすこともできなかった。

 

 前年の不当なレッド・パージはじめ、占領軍と官憲のたえまないだん圧迫及があったとはいえ、こうした内争は党の大衆にもつ影きょうを根底からおしつぶしたのである。一七〇万をこえる強大さをほこった産別会議が、この五一年末一きょに三万数千名の弱小勢力に転落したほか、党外郭の多くの大衆団体がその基盤をうしなった。これらすべての事実にたいして、主流派・反対派をとわず全党員が、それぞれの地位と役割におうじて責任を問われねばならない。

 

以上  健一MENUに戻る

 (関連ファイル)

     『大須事件騒擾罪成立の原因(2)=法廷内外体制の欠陥』自己批判書提出の証拠

     『大須事件第5部・資料編』五全協への自己批判・復帰と五全協共産党での活動証拠

     『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』7つの資料

     『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党

     石堂清倫『コミンフォルム批判・再考』スターリン・中国と日本共産党との関係

     宮島義勇『中国密航と50年8月・周恩来との会見』統一回復・北京機関・武装闘争

     吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部インタビュー