騒擾罪成立の原因(2)=法廷内外体制の欠陥

宮本顕治のソ中両党命令隷従と敵前逃亡犯罪言動

 

謎とき・大須事件と裁判の表裏 第5部2・資料編

 

(宮地作成)

 〔目次〕

     はじめに―ファイル『第5部』の目的と性格 (別ファイル)

   1、1955年六全協の表裏=ソ中両党命令への隷従

   2、1964年の3問題と大須事件公判支援体制の破壊・2人除名

   3、1967年以降の敵前逃亡犯罪言動と党史偽造・歪曲

   4、大須事件公判への直接干渉と党史からの抹殺

     おわりに

 

   5、〔資料1〕永田末男『第一審最終意見陳述』『上告趣意書』における宮本顕治批判

   6、〔資料2〕宮本顕治の五全協への自己批判・復帰と五全協共産党における活動証拠

 

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    (謎とき・大須事件と裁判の表裏)

    第1部 共産党による火炎ビン武装デモの計画と準備  第1部2・資料編

    第2部 警察・検察による騒乱罪でっち上げの計画と準備  第2部2・資料編

    第3部 大須・岩井通りにおける騒擾状況の認否  第3部2・資料編

    第4部 騒擾罪成立の原因()=法廷内闘争の評価  第4部2・資料編

    第5部 騒擾罪成立の原因()=法廷内外体制の欠陥  第5部2・資料編

 

    被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』宮本顕治批判

    元被告酒井博『証言 名古屋大須事件』歴史の墓場から蘇る

    元被告酒井博『講演 大須事件をいまに語り継ぐ集い』質疑応答を含む

 

    (武装闘争路線)

    『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』宮本顕治の大ウソ

    小山弘健『コミンフォルム判決による大分派闘争の終結』宮本顕治の党史偽造歪曲

    伊藤晃『抵抗権と武装権の今日的意味』武装闘争方針の実態と実践レベル

    大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y

 

    (メーデー事件、吹田・枚方事件、白鳥事件)

    『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』共産党の広場突入軍事行動

    『検察特別資料から見たメーデー事件データ』

    増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」

          増山太助『検証・占領期の労働運動』より「血のメーデー」

          丸山眞男『メーデー事件発言、共産党の指導責任・結果責任』

    滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』

    脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』

    中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、「流されて蜀の国へ」を紹介

          (添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」終章「私と白鳥事件」

 

 5、〔資料1〕永田末男『上告趣意書』における宮本顕治批判

 

 (宮地コメント)

 

 宮本顕治は、1965年6月8日、大須事件被告団長永田末男と酒井博を除名した。1966年4月10日、永田末男を被告団長から解任させた。彼は、(1)1969年3月14日、第一審最終意見陳述を行った。彼は、そこで、宮本顕治と野坂参三の敵前逃亡犯罪言動を暴露し、告発した。さらに、(2)1970年11月、大須騒擾事件控訴趣意書において、宮本顕治の言動を具体的データで詳細に告発した。

 

 1、永田末男『第一審最終意見陳述』抜粋、1969年3月14日

 

()かくして極左冒険主義とその産みの児ともいうべき「騒擾」事件等の問題は、日共党内においては、いわばタブー視され、今日に至るまで明確な理論的検討も総括もなされず、まして真の責任所在も明らかにされないままに放置され、もっぱら多くの被告たちの生身によって贖われるにまかされているといってもよい。事件は、公式には、いわば日共とは無関係のものとされ、甚だしきは、代々木日共の現書記長宮本顕治のごとく、公然と、「党は当時分裂していて、当時の方針は党の方針とはいえないから、現在の党には責任もないし、関係もない。」と、うそぶいて、恬として恥じない者さえ出ている。

 

 まるで、勘当息子か家出娘が生家にもどって、おやじの家屋敷、財産は全部相続するが、不在中におやじが負った負債は俺の知ったことじゃあない、貸し損とあきらめるがよい、と開き直ったような格好ではないか。これが「革命」党の最高指導者を自任する者の言であるから、看板が泣くというものである。彼が書記長として指導する代々木日共が、四・一七ストで労働者階級を裏切ったり、東大をはじめ頻発する大学紛争で、大学当局と結んで「全学共斗会議」派の学生と対決したりして、醜態を天下にさらしているのも、決して偶然ではないのである。

 

()以上の党関係の文書の共通の欠陥は、一言にしていえば、人間性の欠如である。党の、特に指導者層の方針上の誤りと、その方針を正しいと信じて、誠実に、献身的に、身の危険をも顧みず忠実にこれを実践した党員、非常員の行動とは、ハッキリ区別して、これを正しく評価することが必要であると私は考える。これは単に政治の問題であるだけでなく、モラルの問題である。しかし日共指導部によっては、未だ一度も、このような評価はなされなかった。

 

 野坂参三氏のごときは、六全協後、名古屋の金山体育館での講演会で「若い者たちが暴れまして!」というようなことまで放言して、心ある人々のひんしゅくをかい、怒って脱党してしまった人さえある。氏の俗流マルクス主義が、ここによくあらわれていると評したら酷にすぎるであろうか。日共指導部の言行を特長づけるものは、一言にしていえは、知的・道徳的退廃である。評論家大井広介氏をして言わしむれば、正に「革命家失格」である。

 

    被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』全文

 

 2、永田末男『大須騒擾事件控訴趣意書』抜粋、1970年11月

 

 原判決は、かかる状況についての事実誤認からわれわれの行動の正当性を一切認めなかったのであるが、この裁判所の不法をかなりの程度心理的に助けたものは、日本共産党中央部の宮本顕治派の、われわれの行動に対する誤った評価であることば否定できない。

 

 第一、一九六七(昭和四十二)年七月「朝日ジャーナル」誌記者とのインタビューの中で宮本書記長は次のように語った。「極左冒険主義の路線は、以上の党の分裂状態からみれば、党中央委員会の正式な決定でなかったことも明白です。当時、分裂状態にあった日本の党の方で指導的な援助をもとめたということはあるにしても、ソ連共産党と中国共産党が、当時の党の分裂問題にかんして、四全協決議を一方的に支持して、それに批判的な側を非難したり、あるいは極左冒険主義の路線の設定にあたって、これに積極的に介入したということも、今日では明白です。」(「赤旗」一九六七・七・二八第二面掲載)と。

 

 第二、一九六八年六月二十九日には、参議院選挙を前にしたNHK東京12チャンネルの選挙番組「各党にきく」に出席し、臆面もなく次のように述べたのである。「いわゆる『火炎ビン事件』というのは、これはよくいろいろなときにもち出されるのですが、あのとき、共産党は実際はマッカーサーの弾圧のなかで指導部が分裂していて、統一した中央委員会でああいう方針をきめたわけではないのです。ですから、党の決定にはないわけです。一部が当時そういう、いわば極左冒険主義をやったので、それは正しくなかったといって党はこれを批判しています。したがって党が正規にああいう方針をとったことはなかったのです」(「赤旗」一九六八・七・一付三面掲載)。

 

 第三、一九六九年一二月二八日、毎日新聞での、テレビ司会者前田武彦氏との対談である。その後も彼は、機会あるごとに同様の言明をしている。そこで滑稽なのは、宮本が火炎ビンの投擲が「ひじょうに大きな印象をあたえて、共産党自体が、ひじょうになにか物騒なものだせいう印象をまだのこしている」と陳弁これつとめた。それに対し、前田氏から逆に、「しかし、火炎ビンを民家にぶっつけたり、なんでもない人を殺傷したりとかいうようなことは、なんにもなかったわけでしょう」と指摘、反問、いや、むしろたしなめられて、「そうなんです」と渋々認めていることである。(「赤旗」日曜版一九六九・一二・二八抵載)(「前衛」一九七〇・・三〇五号三二三頁)

 

 宮本氏は前田氏に言われるまで火炎ビンへの攻撃に急なあまり、それを「民家にぶっつけたり、なんでもない人を殺傷したり」しはしなかったという簡単であるが、しかし重要な事実に気付きさえしなかったのである。そして、よせばよいのに、性こりもなく「けれども、火炎ビンなど…云々」と、彼独特の「党分裂無責任論」という官僚顔負けの迷論を繰りかえすのである。火炎ビンノイローゼにとり憑かれた彼は、ひょっとして自分が一種の精神分裂症ではないかと自問するだけの知性も良心もないらしい。なぜなら、正気の人間には、とても、ああいう無恥で無責任な「責任論」は思い付きうるものではないからだ(『控訴趣意書』P.75、76)

 

 

 6、〔資料2〕宮本顕治の五全協への自己批判・復帰と五全協共産党における活動証拠

 

 (宮地コメント)

 

 大須事件被告人永田末男は、1967年以降の宮本顕治の言動を批判した。宮本顕治の発言内容は党史の解釈として正しいのか、それとも、党史の偽造歪曲をする犯罪的な詭弁なのかを検証する。

 

 現在までに発掘された資料と公表された多くの証言は、四全協・五全協・六全協共産党の区別をかなり明確にした。これら3つの時期は、すべて地下活動が中心の半非合法共産党時代だった。その間における日本共産党史の真相は、党防衛の名目で闇に包まれてきた。3つの区別と言っても、規定すべきいろいろなテーマがある。なぜ私(宮地)はこれらの区別にこだわるのか。それは、「謎とき・大須事件と裁判の表裏」を調べる中で、宮本言動におけるいくつかの疑問・問題点が浮上してきたからである。そして、彼の言動と騒擾罪成立原因との間に、密接な因果関係があるとの疑惑が強まったからである。

 

 第一、50年分裂期間の確定

 党分裂は、6・6公職追放の翌日、徳田・野坂らが、国際派中央委員7人を排除して地下に潜った行為から始まった。正規の党組織分裂は、四全協からである。その分裂期間は、五全協までなのか、六全協までなのか。宮本発言と日本共産党の公式党史は、六全協まで分裂が続いたとしているが、その規定は正しいのか。分裂は五全協で終わったと規定するのが党史の真実ではないのか。

 

 第二、統一回復の時期規定

 宮本顕治ら国際派全員が、スターリンの「宮本らは分派」裁定に屈服し、五全協直前までに、主流派に自己批判・復帰したことは明白な歴史的事実である。この事実は関係幹部のあらゆる証言によって完全に証明されている。その場合、五全協共産党は、統一を回復した共産党と規定できるのか。それとも、宮本式規約解釈が成り立つのか。彼は、五全協の約10日前、1951年10月初旬、主流派に自己批判・復帰したのにもかかわらず、五全協中央委員に選出されなかった。

 

 彼は、そこから、第6回大会中央委員・政治局員の自分が中央委員に復帰していない五全協共産党は、分裂共産党のままという規約解釈を創作する。四全協・五全協は規約違反で無効と断定する。それは、宮本顕治が得意とする形式論理の立場である。彼の論理からは、六全協で彼が中央委員に選出され、かつ、常任幹部会責任者にもなれたから、六全協で日本共産党の統一回復が初めてなされたという党史解釈となる。六全協も本来は規約違反だか、彼が中央委員に復帰できたから評価をしてもよい。いってみれば、自分が、中央委員になれたのか、なれなかったのかが、彼にとって統一回復時期を決定する最大の判定基準となるのである。

 

    小山弘健『コミンフォルム判決による大分派闘争の終結』宮本顕治の党史偽造歪曲

 

 彼の形式論理が正しいのか。それとも、中央委員に選ばれなくても、国際派中央委員7人全員が主流派に自己批判・復帰したからには、五全協で統一回復をしたという党史解釈が歴史の真実なのか。主流派の徳田・野坂・志田にしても、偉大なスターリンが「分派」と裁定した7人を、その半年後の五全協中央委員に選ぶなどという国際的叛逆行為などできるわけもなかった。そもそも、宮本ら7人がソ連共産党員だったら、全員が「分派主義者の反党分子」として、スターリンに銃殺されていた。

 

 第三、武装闘争実行期間の特定

 武装闘争実践をしたのは、四全協からなのか、それとも、五全協共産党にほぼ限定されるのか。その武装闘争実行データを、共産党は、ソ中両党命令に隷従したままで、一度も公表していない。警察庁データは、圧倒的に五全協共産党が武装闘争事件を実行したとしている。その事実は、『第5部』(表1、2)データを見れば、一目瞭然である。その場合、武装闘争は、分裂した一方の共産党が行ったのではなく、宮本顕治も自己批判・復帰していた五全協・統一回復共産党が実行したと言えるのではないのか。宮本顕治は「武装闘争は分裂した一方がやったことである。よって、現在の党(=宮本顕治)には責任がない」と何度も発言し、党史にも明記させた。それは、驚くべき詭弁・党史偽造歪曲であるとともに、武装闘争を実行し、被告となり、裁判闘争を行っている最中の統一回復五全協の共産党員にたいする敵前逃亡犯罪と規定できるのではないのか。

 

 宮本顕治による党史偽造・歪曲の疑惑を検証

 

 その検証は、当時の半非合法体制下で、党中央活動が半ば闇に包まれていたため、かなり困難である。それを解明するためにも、歴史的な年月日データを正確に確認しておく必要がある。

 

 (1)1950年1月8日、コミンフォルム批判が出された。金日成・スターリン・毛沢東ら3カ国前衛党首脳と社会主義国家は、5カ月後に朝鮮侵略戦争の開始を予定・決定し、当然ながら具体的な部隊増強配備・兵器備蓄に入っていた。コミンフォルム批判の本質は何か。それは、朝鮮侵略戦争に際し、日本共産党を「占領下平和革命論」路線から、朝鮮戦争の後方兵站補給基地となる日本での武力かく乱戦争行動路線に大転換させる国際的命令だった。

 

 (2)1950年6月7日、組織分裂の始まりは、1950年6・6追放の翌日、徳田らが、国際派7人の中央委員を排除し、非公然体制に移行したことだった。

 

 (3)1950年6月25日、3カ国前衛党と社会主義国家が、38度線を突破し、朝鮮戦争を開始した。それは、社会主義国家連合が初めて行った侵略戦争だった。

 

 (4)1951年2月23日、組織上の明確な党分裂は、四全協からである。四全協は、劉少奇テーゼに基づく植民地型の軍事方針を決定した。しかし、『第5部』に載せた(表1、2)が証明するように、五全協前までに実行した武装闘争件数はほとんどない。

 

 ()1951年4月、スターリンは、中国共産党とともに、モスクワ会議に徳田・野坂を呼びつけ、「宮本らは分派」と裁定した。スターリンは、自ら執筆した「51年綱領」を押し付けた。その時点、朝鮮戦争は38度線付近で膠着し、スターリンら3人の大誤算が浮き彫りになっていた。スターリンは、戦局打開作戦の一つとして、後方基地日本においても武力かく乱戦争行動を激発させる必要に迫られていた。しかし、四全協は、武装闘争方針を決めただけで、その実行どころか、むしろ分裂抗争に明け暮れていた。彼は、その日本共産党にいらだった。分裂日本共産党に統一回復を強要し、朝鮮侵略戦争に参戦させる目的で、スターリン崇拝者宮本顕治の利用価値を見限ったというのが、スターリン裁定の真相である。

 

 ()1951年10月初旬、宮本顕治は、宮本分派・全国統一会議を解散し、主流派に自己批判書を提出し、主流派に復帰した。国際派とは、スターリン隷従の国際的盲従体質の幹部たちだった。突出したスターリン讃美者宮本顕治を含め国際派中央委員7人は全員がスターリン裁定に屈服した。全員が徳田・野坂主流派にたいし、自己批判書を提出し、主流派に復帰した。

 

 ()1951年10月16日、国際派全員が自己批判・復帰し、統一回復をした五全協共産党は、スターリン執筆「51年綱領」を採択し、武装闘争の全国的実践を開始した。党中央軍事委員長志田重男と軍事委員会は、その具体的実行を全国的に指令し、火炎ビン武装闘争などを始めた。

 

 (8)1951年秋から1955年までの期間中、五全協共産党に自己批判・復帰した宮本顕治は、五全協中央委員会の指令に基づいて、いくつかの党中央活動を行った。よって、この時期は、宮本顕治が主張するような「分裂した共産党」ではない。ただし、彼は、五全協中央委員に選出されていない。ここに載せる〔資料〕は、宮本顕治による党史偽造歪曲を、彼自らが証言することになる決定的な証拠である。

 

 以下は、宮本顕治の六全協提出『経過の概要』である。六全協選出中央委員会は、中央委員全員に、党分裂以降の「自己批判書」か「経過報告書」を提出するよう決定した。宮本顕治は、1950年1月8日コミンフォルム論評以降から、六全協会議までの自己の行動経過書を出した。

 

 排斥された国際派中央委員7人中の一人だった亀山幸三は、六全協中央委員に選ばれなかった。しかし、彼は、全中央委員が提出した文書を保管・管理する任務になった。六全協中央委員会は、それらを一人一人審議することを決定していた。しかし、中央委員らによるさまざまな思惑が噴出し、彼らは審議を棚上げにしてしまった。よって、彼は、他中央委員の文書とともに、宮本顕治の『経過の概要』文書も保管したままになった。その後、神山茂夫がそれを保管していた。

 

 宮本顕治は、61年綱領問題での異論者数十人を、分派活動の規律違反口実をでっち上げて排除・除名した。亀山幸三も除名した。亀山幸三は、『日本共産党史―私の証言』(日本出版センター編、1970年、絶版)を、10人の証言者とともに出版した。彼の題名は『六全協の秘密』である。その中の〔資料2〕として、『経過の概要、一〜二六』全文(P.47〜59)を載せた。彼は、これを神山茂夫から借りた。これは、宮本顕治の自筆文書のままを印刷した貴重な証拠である。ただ、その提出月日は記入されていない。コミンフォルム批判以降の経過が書かれ長いので、このファイルには、五全協直前から六全協までの自筆文のみを抜粋する。ただし、これらには、宮本式用語法が使われているので、いくつかに(宮地注)を付ける。

 

 〔資料〕、『経過の概要』 宮本顕治

 

 二一(一九五一年)八月中旬に全国会議を開く予定で、その報告を準備する。地方組織は、地方統一会議と名のるところもあったが、全国統一会議なるものは存在せず。

 

 二二八・一四放送後、別項の声明(資料集3参照)を発し、中央委員の指導体制を解体す。この間、期限つきで自己批判書の提出を――これに応ず。また、経過措置として、臨中側との交渉、地方組織の統合その他に、他の同志とともにあたる。

 

 (宮地注)、五全協直前の動向

 (1)、八・一四放送とは、「宮本らは分派」と再確定したスターリン判決のモスクワ放送=コミンフォルム論評のことである。

 (2)、声明とは、統一会議解散の宮本・蔵原2人だけの連名文書。その内容抜粋は、別ファイルに載せた。

    『宮本顕治の五全協前、スターリンへの屈服』〔資料4〕宮本・蔵原「宮本分派の解散宣言」

 (3)、自己批判書の提出を――これに応ずという赤太字個所は縦一本線で消している。

 (4)、地方組織の統合とは、徳田・野坂らの主流派組織に宮本分派=統一会議地方組織が自己批判・復帰し、日本共産党としての統一回復をしたことである。宮本式用語法で、あたかも対等平等な統合をしたかのような日本語を使っている。

 

 二三、五一年秋、地下活動に入ることを求められ、これに応じ、宣伝教育関係の部門に入れられることになったが、仕事を始めるに至らず。一、二週間して不適任者として解除される。

 

 二四、以後、選挙応援その他で、ときおり連絡はあったが、特定の組織的任務につくことなく、宮本百合子全集の刊行にあたる。この間、文芸評論を多数書く。

 

 二五、一九五四年末、中央指導部より衆議院選挙への立候補を求められ、これに応ず。選挙後、中央指導部の一員とされる。五全協指導部より六全協準備への協力を求められ、これに応ず。

 

 二六、六全協を迎える。直後、九州、北海道、中国、関東等に他の同志と出席して、この問題の一部を担当する。

 以上、大会準備のため、時日の余裕なく、簡単に経過の概要を記したが、詳細は資料集の関係文書にかなり出ているので、これの参照を願いたい。この問題についての政治的理論的見解と基本的な反省点については、「団結と前進」第五集に公表した。

 

 いずれにしても、私は第六回大会の中央委員として、また当時の政治局員、統制委員として、中央委員会の解体を阻止できず、事態の収しゅうを成功的におこなうことができなかったことは、党と人民にたいして大きな責任がある。また、中央委員会の機能回復を求める中央委員の政治的組織的活動においては、二人の政治局員の一人として、また志賀同志が離別したあとは、唯一の政治局員として最も責任ある立場にあったものである。

 

 (宮地注)、五全協復帰から六全協までの期間における五全協指導部依頼の活動の事実

 ()地下活動に入ることを求められ、これに応じ、宣伝教育関係の部門に入れられることになった。

 ()、以後、選挙応援その他で、ときおり連絡はあった。

 ()、一九五四年末、中央指導部より衆議院選挙への立候補を求められ、これに応ず

 ()、選挙後、中央指導部の一員とされる。

 

 たしかに、徳田・野坂・志田らは、宮本顕治を五全協の中央委員に選出していない。それは、「宮本らは分派」としたスターリン裁定・人事指令にあったと推測される。しかし、4つの活動項目は、第一に、彼が五全協という武装闘争実行共産党に自己批判・復帰していたこと、第二として、五全協指導部の依頼を受け、統一回復五全協の共産党員として、党中央レベルで行動したことを完全に証明している。よって、彼が「武装闘争は分裂した一方がやったことで、現在の党(=宮本顕治)にその責任がない」とした言動は真っ赤なウソであり、党史の偽造歪曲である。

 

 なぜ、これらを事細かに検証する必要があるのか。それは、共産党最高権力者宮本顕治が行った党史偽造歪曲は、必然的に国家権力・検察庁・警察庁という敵にたいし、騒擾事件裁判をたたかっている最中の被告人たちを見捨て、切り捨てる敵前逃亡犯罪を伴ったからである。それだけではない。彼の犯罪は、大須事件公判の法廷内外体制を破壊し、さまざまなマイナス影響を直接間接にもたらしたことにより、騒擾罪成立原因()=その副次的要因となったと、私が判断しているからである。

 

以上で大須事件ファイル完結  第5部に戻る  健一MENUに戻る

 (関連ファイル)

    (謎とき・大須事件と裁判の表裏)

    第1部 共産党による火炎ビン武装デモの計画と準備  第1部2・資料編

    第2部 警察・検察による騒乱罪でっち上げの計画と準備  第2部2・資料編

    第3部 大須・岩井通りにおける騒擾状況の認否  第3部2・資料編

    第4部 騒擾罪成立の原因()=法廷内闘争の評価  第4部2・資料編

    第5部 騒擾罪成立の原因()=法廷内外体制の欠陥  第5部2・資料編

 

    被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』宮本顕治批判

    元被告酒井博『証言 名古屋大須事件』歴史の墓場から蘇る

    元被告酒井博『講演 大須事件をいまに語り継ぐ集い』質疑応答を含む

 

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    『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党

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    (メーデー事件、吹田・枚方事件、白鳥事件)

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    増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」

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          丸山眞男『メーデー事件発言、共産党の指導責任・結果責任』

    滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』

    脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』

    中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、「流されて蜀の国へ」を紹介

          (添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」終章「私と白鳥事件」