大須事件にたいする最終意見陳述八・九

 

武装闘争路線に関する共産党中央委員会批判

 

被告人・永田末男

 

 〔目次〕

   1、宮地コメント 永田最終意見陳述と内容の位置づけ (4、永田・酒井除名等加筆)

   2、『七・七大須「騒擾」事件にたいする最終意見陳述要旨(其の二)』八・九

   3、永田末男さんの略歴 偲ぶ会発起人酒井博

 

 (関連ファイル)         健一MENUに戻る

    元被告酒井博『講演 大須事件をいまに語り継ぐ集い』質疑応答を含む

    元被告酒井博『証言 名古屋大須事件』歴史の墓場から蘇る

    『大須事件・裁判の資料と共産党関連情報収集についての協力お願い』

    『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』宮本顕治の大ウソ

    伊藤晃『抵抗権と武装権の今日的意味』武装闘争方針の実態と実践レベル

    大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y

 

    (メーデー事件、吹田・枚方事件、白鳥事件)

    『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』共産党の広場突入軍事行動

    『検察特別資料から見たメーデー事件データ』

    増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」

          増山太助『検証・占領期の労働運動』より「血のメーデー」

          丸山眞男『メーデー事件発言、共産党の指導責任・結果責任』

    滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』

    脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』

    中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、「流されて蜀の国へ」を紹介

          (添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」終章「私と白鳥事件」

 

 1、宮地コメント 永田最終意見陳述と内容の位置づけ

 

 〔小目次〕

   1、大須事件第一審裁判の概況

   2、大須事件に関するさまざまな規定

   3、六全協決議により、大須事件裁判闘争方針を大転換させる条件の発生と国際的障害

   4、宮本顕治・野坂参三が行った武装闘争実行者を見殺しにする敵前逃亡犯罪 (加筆)

   5、永田末男による野坂・宮本の「人間性の欠如」「知的・道徳的退廃」批判 (1、2、3)

   6、永田末男最終意見陳述の位置づけ

 

 1、大須事件第一審裁判の概況

 

 1952年7月7日大須事件が発生した。逮捕者400人で、騒乱罪等による起訴150人となった。9月16日第一審第1回公判が始まり、1968年3月26日第763回公判から検事論告・求刑に入った。1969年2月14日から弁護団最終弁論と被告団最終意見陳述の公判が始まった。このファイルに載せた永田最終意見陳述はその時点のものである。1969年11月11日名古屋地裁第一審判決は、(1)騒乱罪成立、(2)騒乱有罪99人、(3)内実刑5人とした。(4)永田被告への実刑判決は、事件首謀者とされて5人中最長の懲役3年だった。その時すでに、事件発生から17年以上経っていた。

 

 2、大須事件に関するさまざまな規定

 

 大須事件とは何か。それを規定する視点は、それぞれの立場によって大きく異なる。しかも、複雑である。

 第一、名古屋市警・名古屋地検 警察・検察は、それを騒乱罪とした。そして、なにがなんでも騒乱罪を適用させようと、警察・検察に不利になるような、さまざまな物的証拠・人的証拠を隠蔽したり、廃棄したりした。現場写真のねつ造合成までもした。名古屋地裁も、訴訟指揮において、警察・検察に事実上の肩入れをし、騒乱罪成立判決を下した。

 

 第二、被告・弁護団 裁判闘争を、無届だが、平和的なデモ隊3000人にたいする武装警官隊1000人の先制攻撃・弾圧事件として、たたかった。被告・弁護団が、裁判において警察・検察の騒乱罪でっち上げ手口を暴露・告発した内容は、きわめて正確である。私(宮地)は、諸資料検討と一人だけの現地調査を通じて、被告・弁護団側の騒乱罪無罪の論理と具体的な立証は、全面的に正しいと確信している。

 

 しかし、一方で、被告・弁護団側は、共産党の武装闘争路線の実行としての火炎ビン武装デモ方針の存在と火炎ビン約20本携帯事実を全面否定した。1955年六全協は、共産党の武装闘争方針の存在を抽象的に認め、極左冒険主義というイデオロギー的誤りについて自己批判をした。「抽象的に」という意味は、共産党中央委員会が、六全協前だけでなく、六全協後も、白鳥事件・メーデー事件・吹田事件・大須事件など個々の事件における軍事方針・指令の存在について全面否認をし、隠蔽していたということである。

 

 六全協以前の3年間では、被告・弁護団の裁判闘争方針はやむをえなかったといえる。なぜなら、被告・弁護団の中心メンバーは、全員が共産党員だったからである。首謀者と認定された者への実刑判決は、日本人3人と在日朝鮮人2人だったが、5人とも共産党員だった。共産党員の被告・弁護士といえども、民主主義的中央集権制において、党中央の見解に逆らうことは許されなかった。この組織原則の本質は、暴力革命のための軍事規律だった。それを暴露する党員は、直ちに、査問・除名にされたからである。

 

 ただ、被告・弁護団の規定は、2002年時点の出版物においても、当初やその後発行された諸パンフと同じで、共産党の武装闘争方針の実行という側面にたいして沈黙している。大須事件被告人たちが、共産党の火炎ビン武装闘争方針と携帯指令内容を公表せよと要求し、誰が火炎ビン携帯を命令したのかの責任を追求し、紛糾したという事実について、完全に隠蔽している。21世紀になっても、これらについて沈黙、隠蔽姿勢を堅持することは、はたして正しいのか。

 

    『大須事件・裁判の資料と共産党関連情報収集』被告・弁護団「大須事件とは」

 

 ところが、メーデー事件裁判闘争史編集委員会編『メーデー事件裁判闘争史』(白石書店、1982年、絶版)は、822頁の大著だが、「第7章第1節2、日本共産党の援助」(P.284〜290)において、日本共産党がメーデー事件にたいして、いかに冷たい態度をとり、長期にわたって援助をしなかったのか、被告人たちが共産党にたいしていかに激烈な批判、広場突入軍事方針の実態を公表せよと要求したのかが、リアルに書かれている。大須事件裁判とメーデー事件裁判への対応で、2つの対称的な違いが生まれたのは、何が原因なのか。

 といっても、この『闘争史』も、メーデー人民広場突入という共産党の軍事方針の存在、真相には触れていない。その真相を書いたものを2つ、HPに載せた。私は、これら2つの内容とも事実であると判断している。

 

    『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』〔真相6〕増山太助の東京都ビューロー会議

    『検察特別資料から見たメーデー事件データ』(データ6)共産党の軍事方針「まぐろ」報告

 

 第三、共産党 大須事件3年後の六全協で共産党が武装闘争方針の存在と実行を、抽象的にしても認めた以上、大須事件の本質を2つの側面からとらえる必要と条件が生まれた。

 (1)大須事件は、警察・検察・裁判所が一体となった騒乱罪でっち上げの恐るべき権力犯罪だった。

 (2)同時に、共産党中央軍事委員会指令による火炎ビン武装デモ方針の存在と火炎ビン約20本携帯事実という側面があった。それは、1951年統一回復五全協の共産党による全国的な武装闘争路線による行為だった。今日では、朝鮮戦争とは、金日成・スターリン・毛沢東による社会主義国家・前衛党が行った侵略戦争だったことが、歴史の真実として明白になっている。そして、日本共産党の武装闘争の性格は、ソ中朝という共産主義3党が仕掛けた朝鮮侵略戦争における後方基地武力かく乱戦争行動、日本共産党の朝鮮戦争参戦軍事行動だった。大須事件は、日本における侵略戦争参戦武装闘争路線の一環だった。

 

    『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党

 

 3、1955年六全協決議により、大須事件裁判闘争方針を大転換させる条件の発生と国際的障害

 

 六全協の内容として、共産党が極左冒険主義の誤りを認めたことが伝わったと同時に、メーデー事件被告団や大須事件被告団において、事件と共産党の軍事指令との関係を明確に公表せよという要求や怒りが噴出した。メーデー事件では、火炎ビン携帯はなかったが、人民広場突入指令は、誰が決定したのか、共産党はどういう関与をしているのかという真相究明要求が湧き上った。大須事件では、火炎ビン携帯指令は、誰が決定し、どこに責任があるのかという追求になった。裁判闘争への支援を訴える活動において、被告・弁護団は、それは共産党がやったことだろうという、無関心で冷たい反応をいやというほど体験してきた。共産党員でない被告、被告家族も当然多かった。被告・弁護団内における共産党批判は、騒乱罪裁判闘争方針の大転換をすべきではないのかという意見にも収斂していった。その転換方向の要求は、(1)事件における共産党の軍事方針と火炎ビン約20本携帯事実を認めた上で、(2)警官隊1000人の違法な先制攻撃を暴露し、(3)騒乱罪無罪を主張すべきではないかという内容だった。

 

 メーデー事件被告・弁護団内では、共産党の広場突入軍事方針の真相にたいする公表要求と批判が強烈になった。共産党にたいする怒りと批判を抑え切れないと見て、野坂参三第一書記が、六全協3カ月後の1955年10月24日、被告・家族との懇談会に出席した。そこでの共産党にたいする激烈な詰問にたいして、彼は「中国共産党との関係があるので、武装闘争の具体的実態については答えられない」と回答した。野坂参三は、帰国時点で、すでにソ連共産党NKVDスパイだった。

 ところが、大須事件の被告・家族たちの要求・批判を、共産党野坂・志田・宮本や火炎ビン武装デモ命令者岩林虎之助らは黙殺した。

 

 いずれにたいしても、共産党は、騒擾罪裁判闘争方針を大転換させる要求を拒絶した。なぜなら、ソ連共産党スパイ・第一書記野坂参三が、いみじくも回答したように、六全協開催を指令し、モスクワに日本共産党指導部を呼びつけて準備をさせたのは、ソ中両党だった。日本共産党の実態は、ソ中両党にたいして完全従属状態にあったのが歴史の真実である。2党は、(1)50年問題の全面総括禁止、(2)武装闘争の具体的指令・実態公表の全面禁止を命令していただけでなく、(3)隷属下日本共産党のトップ人事を宮本・志田・野坂にすることを、モスクワで決定・命令したからである。(1)(2)の事実については、不破哲三が正式に証言をしている。しかし、彼は()を意図的に隠蔽している。隷属下共産党にたいする人事干渉・命令は、当時の国際共産主義運動の常識的な慣行だった。メーデー事件、大須事件における武装闘争方針と実態を、被告・弁護団内部に言うことさえも、ソ中両党命令に背く国際共産主義運動上の叛逆罪になったからである。ソ中両党にたいする日本共産党の完全従属状態・関係において、ソ中両党命令は、騒擾罪裁判闘争方針を大転換させる上で、絶対的で国際的な障害となった。

 

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』不破哲三証言〔資料7〕六全協の準備

 

 共産党名古屋市ビューロー委員長永田末男は、大須事件の実行責任者として、その裁判闘争方針の大転換を、共産党内部において、1955年六全協で主張し、1958年第7回大会でも党大会代議員として要求した。7月7日大須事件前後、中日本ビューロー員・党中央軍事委員岩林虎之助が、名古屋における火炎ビン武装闘争の指導・督励に派遣されており、「東京、大阪がやったのに、なぜ名古屋でやらんのか」と永田末男・軍事委員長芝野一三らを激しく叱責したという事実があったからである。永田末男は、大須事件被告・弁護団会議や被告・弁護団の共産党グループ会議でも要求・主張した。

 

 ただ、彼は、そのような国際的命令による絶対的障害があることを、まるで知らなかった。それは、まったくの秘密指令であり、かつ、宮本・志田・野坂と2党との裏取引密約だったので、彼らは名古屋市委員長レベルには知らせるはずもなかった。

 

 不破哲三が、(3)を隠蔽したままで、(1)(2)を初めて証言=告白したのは、『干渉と内通の記録・ソ連共産党秘密文書から』(新日本出版社)の「六全協の準備」であり、1993年だった。それは、1969年永田最終意見陳述の24年も後だった。

 

 4、宮本顕治・野坂参三が行った武装闘争実行者を見殺しにする敵前逃亡犯罪

 

 宮本顕治が六全協で常任幹部会責任者に復帰できたのは、スースロフ・毛沢東の従属下日本共産党にたいする人事指名によるものだったということを、不破哲三は隠蔽した。宮本顕治のソ中両党やスターリンへの盲従体質について、多数のデータがあるが、この時期の彼の性向に関していくつか確認しておく必要がある。

 

 (1)、1950年1月6日、「コミンフォルム批判」は、6月25日朝鮮侵略戦争開戦を決定していたスターリン執筆の指令だったことが明白になっている。宮本顕治は、その武装闘争転換命令に全面的に賛同し、その遂行を唱えた。彼が国際派と言われる所以は、スターリンの国際的命令への盲従度を示すものだった。宮本顕治こそが、日本共産党の武装闘争路線採用を、真っ先に強烈に主張したのである。野坂参三の占領下平和革命論から、スターリンの武装闘争指令への即時転換にたいする熱意において、主流派と国際派の温度差について誤解がある。宮本顕治の方が、スターリン命令に従って、早く武装闘争を展開せよと、主流派に要求し、主流派の煮え切らない態度を公然と批判していたというのが、四全協前後の党内闘争史の真実である。これは、増山太助が証言している。彼は、主流派に属していたが、武装闘争に反対し、ひそかに、武装闘争の手抜きサボタージュグループを組織し、サボタージュを指導した党中央幹部だった。それだけに、彼は、宮本顕治の直情的な武装闘争開始要求の言動を知っている唯一の生き証人である。

 

    石堂清倫『コミンフォルム批判・再考』スターリン、中国との関係

    『「武装闘争責任論」の盲点増山太助の「2派1グループ」証言内容

 

 (2)、1950年6月、「コミンフォルム批判」をめぐって、日本共産党が分裂したのは、スターリン・毛沢東の大誤算だった。スターリンの思惑は、すでに決定していた6月25日からの朝鮮侵略戦争開始において、日本共産党を後方基地武力かく乱戦争行動に加担させることだった。ところが、スターリン讃美者“愛すべき”宮本顕治とその国際派は、党勢力で10%未満となり、主流派に完敗した。

 

 ()、1950年12月末、宮本顕治は、宮本百合子を訪問していたシベリア抑留記『極光のかげに』著者高杉一郎にたいして、いきなり「あの本は偉大な政治家スターリンをけがすものだ」と言い、間をおいて「こんどだけは見のがしてやるが」とつけ加えた。これは、シベリア抑留者60万人と多数の抑留記を敵視するという、スターリン盲従者の本質を剥き出しにした、驚くべき犯罪的な態度だった。この事例だけを見ても、彼は、スターリン擁護だけにとりつかれて、日本人抑留者とその家族数百万人の心情を理解する気持ちも持たない共産主義的人間だったことが分かる。

 

    『「異国の丘」とソ連・日本共産党・2』宮本顕治のシベリア抑留記批判発言問題

 

 ()、1951年4月、スターリンにとって、38度線付近で行き詰まってしまった侵略戦争の推移は、大誤算だった。四全協後も分裂したままで、具体的な武装闘争を始めない従属下日本共産党にもいらだった。彼は、戦況を打開する作戦の一つとして、後方基地武力かく乱戦争行動をさせるために、日本共産党幹部をモスクワに呼びつけ、やむなく、“愛すべき”崇拝者宮本顕治にたいして、「宮本らは分派」との裁定を下し、彼の排斥と点在党員組織隔離措置という「共産党式の格子なき牢獄」に閉じ込めるよう、徳田・ソ連共産党スパイ野坂らに命令した。宮本顕治は、スターリン裁定が出るやいなや、徳田批判の矛を引っ込め、1951年10月、五全協直前に、「新綱領を認める」と、スターリン執筆の51年綱領=武装闘争綱領を認め、スターリンへの絶対的忠誠を表明した。そして、主流派に復帰したが、スターリン命令による分派報復措置である点在党員組織隔離におとなしく服従した。

 

 ()、1953年3月5日、スターリンが死んだ。1955年、朝鮮侵略戦争の敗戦処理段階に入って、フルシチョフ・スースロフ・毛沢東・劉少奇ら4人は、後方基地武力かく乱戦争行動をさせて、崩壊状態になってしまった隷属下日本共産党の再建手口と再建人事を協議・決定した。第一書記には、当然のように、ソ連共産党NKVDスパイ野坂参三を据えた。元軍事委員長志田重男は、敗戦処理には一定期間必要だった。もう一人は、スターリン忠誠度とソ中両党への盲従度が証明ずみの宮本顕治を常任幹部会責任者に指名した。

 

 宮本顕治は、このような経過で、スースロフ・毛沢東の人事指令により指導部復帰ができたばかりだった。彼とソ連共産党NKVDスパイ野坂参三は、そんな裁判闘争方針の大転換をしたら、共産党中央委員会が大弾圧をくらうと恐怖に慄いた。しかも、そのような大転換は、50年問題の全面総括禁止・武装闘争実態公表禁止というソ中両党と宮本顕治との前衛党間密約・裏取引条件に背くものだった。

 

 宮本・野坂による永田・酒井排斥の5つの指令と言動

 

 そこで、宮本顕治・野坂参三は、(1)共産党愛知県常任委員会と(2)大須事件被告・弁護団の共産党グループにたいして、永田末男の主張を拒絶し、彼を裁判闘争の救援活動や被告団活動から排斥するよう指令した。以下の内容は、いくつかの文書、永田・酒井除名決議文書、酒井博元被告の証言、他関係者数人の証言に基づいている。

 

 第一、1964年11月21日、愛知県国民救援会問題

 

 宮本顕治は、愛知県国民救援会から、その中心となっている永田事務局次長・酒井常任書記と離党者藤本功事務局長ら3人を排除しようと策謀した。その背景には、国民救援会の活動方針をめぐる意見の対立があった。愛知県国民救援会は、大須事件裁判闘争の支援活動をする基本組織で、全国的にも強力な運動をしていた拠点救援会だった。松川事件無罪判決後の国民救援会運動の路線をめぐって、愛知県国民救援会は、弾圧事件救援活動だけでなく、冤罪・公害・労働者首きり問題の救援に取り組んだ。共産党中央は、国民救援会を、権力による弾圧事件支援の救援を重点とすべきで、愛知県が主張する路線は、ブルジョア・ヒューマニズムだと批判し、対立した。

 

 この時点、永田・酒井は、まだ共産党除名になっていなかった。藤本功事務局長は、五全協前後の時期、共産党員だったが、点在党員組織隔離措置を受けて、党籍が不明になっていた。彼は、日本敗戦時、大連にいて、石堂清倫とともに、日本人帰国運動を支援したコミュニストだった。共産党愛知県常任委員会は、党中央指令を受けて、近くの旅館を借り、そこを秘密指令本部とし、箕浦一三県副委員長・准中央委員が陣取り、国民救援会会費の長期滞納者も総動員した。県常任委員田中邦雄は、総会に出席できない会員の委任状まで集め、箕浦准中央委員と連絡を取りつつ、総会で3人の排除を迫った。ただ、愛労評も、事態を心配して、動員をかけていた。

 

 しかし、愛知県国民救援会会長の真下真一名古屋大学文学部教授や、総会議長をした役員の稲子恒夫名古屋大学法学部助教授からも、共産党側による排除策謀を批判・反対されて失敗した。それだけでなく、共産党のあまりにも理不尽な3人排除要求と大衆団体乗っ取り策謀に参加会員たちが怒って、逆に田中邦雄ら数人が総会で除名されてしまった。すると、宮本・野坂は、共産党県常任委員会に指令し、次の手口として、共産党員・支持者を集団脱退させ、第2国民救援会という分裂組織をでっち上げた。真下教授・稲子助教授は、脱退に同調せず、国民救援会に残った。共産党は、「真下真一は偏向している」と、党内外で真下批判キャンペーンも展開した。国民救援会本部も、「愛知県国民救援会は、たたかう敵を間違えている」と、党中央の批判キャンペーンに同調する宣伝を行なった。これにたいして、新村猛名古屋大学名誉教授は、岩波書店『世界』において、『人権と平和』論文を載せ、そこで共産党のブルジョア・ヒューマニズム否定論と大衆団体乗っ取り策謀を痛烈に批判した。

 

 ただ、このような大衆団体乗っ取り策謀、共産党批判者排斥作戦、または、それに失敗したら第2組合的な分裂組織でっち上げ方針は、宮本顕治が、1960年代に、学生運動、文学運動で大展開した路線の一環である。スターリン崇拝者宮本顕治は、スターリンのベルト理論を信奉して、あらゆる大衆団体を共産党の路線・方針を大衆に伝導するベルトに変質させるために全力を挙げた偉大な共産主義的人間である。愛知県国民救援会問題も、彼の一貫した、宮本顕治に忠誠を誓う共産党系大衆団体づくり策謀の中で位置づける必要がある。彼の大衆団体戦略は、1972年民青問題から80年代の4連続粛清事件まで続いた。

 

    『新日和見主義「分派」事件』民青幹部を宮本忠誠派に総入れ替えする宮本式クーデター

    『不破哲三の宮本顕治批判』日本共産党の逆旋回と大衆団体支配の宮本式クーデター

 

 第二、1965年6月8日、永田・酒井除名と表裏の3つの除名理由

 

 彼らは、永田末男と被告人酒井博を除名した。酒井博は、事件当時、愛知県春日井市を含む愛知第2選挙区の愛日地区委員長だった。2人の除名理由は、表裏で3つあり複雑に絡まっている。

 (1)、表向き理由は、1965年4月8日、名古屋市公会堂における集会とその後の懇談会に参加したことである。それは、除名されていた志賀、鈴木、神山、中野らによる集会で、愛知県の党員600人が集った。また、酒井博が「日本のこえ」を配布したことを規律違反とする除名だった。集会と懇談会に参加したこと、機関紙配布行為だけで除名にするのは口実であって、真の除名理由を隠した別件逮捕というべき処分だった。というのも、永田・酒井は、「日本のこえ」に加入していないからである。永田末男は、志賀から組織加入を誘われたが、明確に断っている。この別件逮捕手口は、批判・異論党員を党内外排除する宮本顕治の常套手段である。彼が「日本のこえ」関連で除名した党員は、党中央公表で63人にのぼる。

 

 (2)、真の理由は、大須事件裁判闘争方針をめぐる意見の対立だった。対立の内容は、下記の永田最終意見陳述にある。1955年六全協で、共産党宮本・志田は、極左冒険主義の誤りというだけで、大須事件その他具体的な武装闘争事件にたいして、なんの自己批判も総括もしなかった。名古屋に派遣されて、火炎ビン武装デモ決行を党中央軍事委員会として命令した党中央軍事委員岩林虎之助は、事件後瞬時に東京に逃げ帰った。1958年第7回大会において、彼も、何一つ自己批判せず、中央委員の機関推薦リストに載った。永田末男は、岩林虎之助を強烈に批判し、中央委員リストから外させた。第7回大会でも、宮本・野坂らは、武装闘争の誤りは2行の記述で隠蔽した。事件後それまでの6年間、メーデー事件と同じく、共産党は、少数の共産党員弁護士まかせで、組織的支援をまるでしなかった。第7回大会で支援決議をしたが、それは形式に終った。宮本・野坂が、火炎ビン武装闘争実行者を「武装闘争で崩壊した共産党を再建する上の邪魔者」と見なし、見殺しにするという敵前逃亡犯罪指導者たちに変質したことが明白になってきた。1965年までの13年間の大須事件被告人=事件首魁としての裁判闘争に取り組むなかで、永田・酒井は、宮本・野坂らの「人間性の欠如」「知的・道徳的退廃」を痛感した。

 

 大須1万人集会と3000人デモ行進は正しかったし、それを指導した名古屋市委員長として悔いはない。しかし、火炎ビン武装デモ決行を命令したのは、宮本顕治も自己批判書を提出し、五全協で統一回復していた共産党である。それにたいして、「党は当時分裂していて、当時の方針は党の方針とはいえないから、現在の党には責任もないし、関係もない」と、うそぶいて、恬として恥じない宮本顕治は、敵前逃亡犯罪者以外の何者でもない、という怒りである。

 

 (3)、裏側理由として、1964年の4・17スト中止指令をめぐる党中央批判があった。党中央の4・8声明にたいして、永田・酒井・藤本・片山らは、愛知県国民救援会グループ細胞として、野坂参三議長宛に「4・8声明は反労働者的であり、撤回せよ」との抗議電報を打った。名古屋中央郵便局細胞は、抗議文書を提出した。党中央法対部副部長木村三郎が名古屋に飛んできて、「電報を取り下げれば、処分しない」と、日本酒一升瓶を持ち込んで説得した。彼らは、それを拒否した。一方、愛知県常任委員会は、名古屋中郵細胞3人を、4・8声明、4・17スト中止問題をめぐり反党活動をしたとして除名した。宮本顕治は、自分を一度でも批判した者を絶対に忘れないで、機会を見て、必ず報復するという有名な体質を備えている。

 

 第三、1966年4月10日、永田末男の被告団長解任問題

 

 宮本・野坂は、被告・弁護団の共産党グループにたいし、被告団第17回総会で、反党分子永田末男の被告団長を解任させ、事件当時の軍事委員長芝野一三に変えるよう命令した。共産党グループ会議は激論になった。永田・酒井は当然納得しなかった。総会で決戦投票をすれば、被告団員の永田への信頼度から見て、党中央命令は、否決される可能性も高かった。しかし、それをすれば、被告団が分裂する危険もあった。彼は、名古屋市委員長として大須事件の最高責任者だった。彼にとって、被告団を分裂させるような選択肢を取ることはできなかった。総会は、永田末男が引き下がる形で、事件当時の軍事委員長芝野一三を新団長に選んだ。

 

 第四、1969年3月14日、永田末男の第一審最終意見陳述内容への干渉

 

 共産党被除名者永田末男は、大須事件第一審最終意見陳述をした。そこで下記の(1)目次一〜七において、警察・検察の権力犯罪を告発し、騒乱罪全員無罪を主張するとともに、(2)目次八で、痛烈な共産党中央委員会批判、野坂・宮本批判を行った。(3)、目次九では、裁判所がどうしても、事件を有罪としたいのであれば、被告人中、唯一の共産党指導部の一員である自分だけを有罪にして、他の被告人全員を無罪にするよう主張した。

 

 陳述前に、伊藤泰方主任弁護人・事実上の弁護団長は、被除名者永田末男に「共産党批判を陳述することはやむをえない。だが、宮本書記長批判だけはやってくれるな」と頼んだ。永田末男はそれを拒否し、法廷において、公然と宮本顕治批判を陳述した。伊藤主任弁護人の言動は、もちろん党中央指令によるものである。別件逮捕理由で除名をしておいて、除名指令者宮本顕治が、自分の批判をさせないように、共産党員の主任弁護人に命令して、被告人の口封じをさせるという心情・人格をどう考えればいいのか。

 伊藤弁護人は、永田陳述が終わるや否や、立ち上がって、「只今の永田被告の陳述は、被告団を代表するものでもなければ、弁護団も関知しない」と、陳述八・九内容を全面否定する発言をおこなった。

 

 私(宮地)は、伊藤弁護士をよく知っている。彼は、党中央の裁判闘争方針の枠内で、警察・検察の騒乱罪でっち上げ策謀にたいして戦闘的にたたかった。私は、その側面で彼を高く評価している。しかし、永田・酒井の裁判闘争方針の大転換要求に恐れおののき、それを拒絶し、さらには、排斥しようとする党中央の策略に、共産党員伊藤主任弁護人は抵抗しなかった。彼は、岩間正男参議院議員の秘書だった。宮本顕治は、大須事件裁判闘争方針で意見が対立する被除名者永田・酒井を抱える被告・弁護団を、党中央指令の枠内に押し込めるという任務を負わせ、第一審最終段階から、岩間秘書の任務を解いて、伊藤弁護士を名古屋に派遣した。

 

 党中央派遣弁護士で共産党員を続けようとするのなら、宮本顕治の陰謀に加担・服従するしかなかった、ともいえる。私は、共産党愛知県専従13年間の体験から、彼の屈折した心情を理解できる。しかし、やはりその言動は、火炎ビン武装デモ実行者を見殺しにする敵前逃亡犯罪指導者にたいする怒りを共有できないレベルの誤りである。大須事件弁護団のかなりは、被告団を分裂させないように配慮し、統一公判を保った永田・酒井被告人にたいして、公平・誠実な態度をとっていたからである。

 

 第五、1973年11月1日、第二審・春日正一幹部会員にたいする被告人質問公判への干渉

 

 名古屋高裁第二審の終盤、被告人質問の公判が始まった。永田・酒井は、被告・弁護団にたいして、大須事件にたいする共産党中央委員会の立場を具体的に聞くために、大須事件当時の幹部だった党中央役員を、被告人質問の証人として出廷させるよう要求した。宮本・野坂を呼ぶよう要求したが、党中央は拒否した。何度も要求した結果、共産党は、春日正一幹部会員を出すことを認めた。

 

 当日、春日幹部会員の証人質問にあたって、共産党愛知県委員会は、永田・酒井の質問に圧力をかける目的で、いつになく大動員をかけた。永田・酒井は、午後から春日に質問することになった。ところが、その前に、大須事件弁護団の中心弁護士の一人が、彼らを呼んだ。その弁護士は、2人にたいし「春日幹部会員にたいする2人の被告人質問を取り止めてほしい」と、両手をついて懇願した。

 

 酒井博は「それはおかしい。当時の共産党の動向についてぜひ証言してほしい。被告人質問はその唯一の機会だ」と拒否した。弁護士は「あなたたちの共産党批判はわかる。しかし、私の顔を立てて、なんとか止めてほしい」と頼んだ。永田末男は、その弁護士との長期にわたる、誠実な信頼関係もあったので、「今回は止めましょう」と言って、春日に質問することを中止した。春日は、その結論を聞いて、法廷でもリラックスし、裁判長の質問に答えていた。法廷終了後、春日幹部会員は、2人に近寄り、「党の団結と統一のために」と両手を差し出した。永田被告人は「春日さん、僕らと手を握ってはいかん。反党分子ですよ」「とにかく宮本顕治を法廷に出廷させよ」と要求した。春日は、それに答えず「今日はとにかくありがとう」と言った。

 

 大須事件の弁護団は、騒乱罪でっち上げの権力犯罪とたたかう上で、献身的に活動した。その中心メンバーは、全員が共産党員だった。被告団も、火炎ビン武装デモを遂行した中心メンバーの全員が共産党員だった。裁判闘争方針をめぐって、一部被告人と共産党中央委員会との意見の対立が発生しなければ、被告人と弁護士との対立も起きなかった。現実に永田・酒井問題が表面化したとき、共産党員弁護士たちは、2人の主張と、宮本顕治の指令とのはざ間に置かれ、いずれを支持するのかというジレンマに立たされた。伊藤弁護士は、もともと、宮本顕治の密命を帯びて、第一審最終盤に名古屋に派遣されたので、完全に党中央方針擁護の立場を貫き、矛盾を持たなかったのかもしれない。他の現場名古屋市で活動していた弁護士たちは、両者にたいして、どういう心情を抱いたのか。彼らは、心の奥底で、永田・酒井の主張を支持していなかったのだろうか。しかし、表面だって、2人を支持する共産党員弁護士は最後まで一人も現れなかった。

 

 「敵前逃亡」という用語は、大須事件被告酒井博地区委員長が、パンフや永田略歴書などで繰り返し使っている。これら永田・酒井排斥手口、法廷での干渉を5つも体験すれば、それを行なった指導者たちを規定する日本語は、敵前逃亡犯罪とならざるをえない。

 

 「敵前逃亡」が意味する対象は、(1)武装闘争を指令した党中央軍事委員会、(2)大須事件では、火炎ビン武装デモを命令した党中央軍事委員岩林虎之助、(3)六全協トップになったソ連共産党NKVDスパイ野坂参三・第一書記、武装闘争時代の党中央軍事委員長志田重男、スースロフ・毛沢東の人事指令で指導部に復帰できた宮本顕治常任幹部会責任者ら3人と、(4)地方派遣の党中央軍事委員たちである。

 

 「敵前逃亡」の内容は、武装闘争方針を出し、各地で火炎ビンなど武器使用活動(=Z活動)を指令してきた共産党中央指導部が、1955年六全協後、極左冒険主義の誤りというイデオロギー規定をしただけで、自分たちの結果責任・指導責任に頬かむりして、ほぼ全員が六全協役員、1958年第7回大会中央委員に復帰したことである。問題は、武装闘争の具体的総括公表について、ソ中両党の公表禁止命令に屈服したままで、火炎ビン武装闘争の被指令者・実行者たちに具体的な支援・救援活動をすることを事実上放棄し、見殺しにしたという犯罪行為のことである。それは、国家権力犯罪・刑事裁判への対応姿勢において、共産党中央指導者たちが自己保身と知的・道徳的退廃にとりつかれて、下部の武装闘争実行党員たちを切り捨てた犯罪のことである。

 

 5、永田末男による宮本・野坂の「人間性の欠如」「知的・道徳的退廃」批判(表1、2、3)

 

 永田末男は、下記の最終意見陳述において、野坂・志田・宮本らの姿勢を「人間性の欠如」「知的・道徳的退廃」と規定している。その言動として3つを挙げている。

 (1)、一九五二年十月第二二回中央委員会総会報告「党の中央指導部の面々は、一言の温かい激励の言葉も送るどころか、逆にシャイロックのごとく冷然と、被告たちの行動は『革命運動における犯罪行為である』ときめつけたのである。」

 

 (2)、宮本顕治「事件は、公式には、いわば日共とは無関係のものとされ、甚だしきは、代々木日共の現書記長宮本顕治のごとく、公然と、『党は当時分裂していて、当時の方針は党の方針とはいえないから、現在の党には責任もないし、関係もない』と、うそぶいて、恬として恥じない者さえ出ている。」

 

 (3)、野坂参三「野坂参三氏のごときは、六全協後、名古屋の金山体育館での講演会で『若い者たちが暴れまして!』というようなことまで放言して、心ある人々のひんしゅくをかい、怒って脱党してしまった人さえある。氏の俗流マルクス主義が、ここによくあらわれていると評したら酷にすぎるであろうか。」

 

 この前後の日本共産党史を事実に照らして再検証し、書き直す必要がある。というのも、宮本顕治による党史偽造歪曲が甚だしいからである。現在の不破・志位・市田指導部も、その偽造歪曲党史を『日本共産党の八十年』(2003年)でそのまま継承している。

 

 第1、五全協直前。1951年10月、宮本顕治は、スターリンの「宮本は分派」裁定に屈服して、志田重男党中央軍事委員長に「新綱領を認める」という自己批判書を提出して、主流派に戻った。新綱領とは、スターリン執筆の51年綱領=武装闘争綱領のことである。しかし、それ以後、スターリン・毛沢東の人事指令で、点在党員組織隔離という報復措置を受け、もっぱら宮本百合子全集の解説執筆で暮らしていた。党史において、彼は、(1)スターリンに屈服して「統一会議・宮本系」分派を解散したことは認めた。しかし、(2)自己批判書の志田重男宛提出事実と主流派復帰事実については、沈黙し、完璧に隠蔽した。(2)の事実については、亀山幸三と吉田四郎が明確に証言している。

 

 第2、五全協。1951年10月16日、これは、統一会議・宮本系を含め、反徳田5分派すべてがスターリン「分派」裁定に屈服し、主流派に復帰した組織統一回復共産党の会議だった。精神的な団結回復は別であり、遅れた。宮本顕治は点在党員組織隔離という「共産党式の格子なき党内牢獄」にいたので、五全協中央委員になってはいない。しかし、彼は、主流派に復帰した共産党員だった。ところが、彼は、「六全協まで分裂が続いた。その間の武装闘争は分裂した一方がやったことで、私(宮本)はなんの関係もなく、責任もない」と、六全協後から、真っ赤なウソをつき始め、党史の偽造歪曲による自己弁護の詭弁を創作した。

 

 第3、六全協の7カ月前。1955年1月、宮本顕治は、志田重男に呼ばれて会った。志田は、反徳田5分派や四全協で排除された他中央委員6人の誰も呼ばず、宮本顕治一人だけと秘密会談を持った。その場で、宮本顕治は、()屈辱的な「共産党式の格子なき牢獄」から脱出させ、指導部に復帰させること、()志田宛の宮本自己批判書の提出事実と自己批判書内容を完全に隠蔽することを取引条件とした。そして、()後方基地武力かく乱戦争行動の武装闘争実行者たちは「党再建上の邪魔者」となったので、見殺しにすること、()火炎ビン武装闘争実行者全員を切り捨てた上で、崩壊状態の日本共産党を再建せよというソ中両党命令の指導部復帰条件を呑んだ。

 

 その秘密合意()()の根底にあるのは、統一回復共産党による武装闘争実態と軍事委員会指令との具体的関係を党内外に公表したら、共産党再建が不可能になるか、それとも、決定的に遅れるからという火炎ビン武装闘争実行者切り捨ての論理である。それは、下部党員に冷酷な、かつ、指導者さえ無傷で助かればいいという傲慢な自己保身のレーニン型前衛党体質を剥き出しにしたものだった。

 

 第4、六全協。1955年7月27日、宮本顕治は、フルシチョフ・スースロフ・毛沢東・劉少奇・スパイ野坂参三・軍事委員長志田重男とともに、六全協というソ連共産党・中国共産党・日本共産党3党による国際共産主義運動の裏取引手打ち式を演出した。野坂参三は、まだ北京機関にいて、帰国前だった。これは、統一回復共産党が遂行した後方基地武力かく乱戦争行動結果に基づいて、ソ中両党が開催命令・人事指名をした朝鮮侵略戦争の敗戦処理会議だった。

 

 宮本・野坂・志田は、その六全協の性格「分裂をなくし、共産党の組織統一回復をした歴史的な会議」とでっち上げた。この期間は、半非合法で、共産党の活動実態は闇に包まれていたので、残っていた共産党員と支持者、左翼知識人は、彼らの大ウソを信じざるをえなかった。しかし、今日、この六全協規定は、共産党トップ3人による日本共産党史の犯罪的な偽造歪曲だったことが判明しつつある。分裂をなくした会議は、六全協ではなく、五全協だったというのが、歴史の真実である。

 

 第5、六全協後。1956年1月、軍事委員長志田重男が「料亭お竹さんでの遊興」疑惑の内部告発で逃亡した。1957年5月、共産党中央委員会は、彼を除名した。宮本顕治は、武装闘争指令の中心だった元党中央軍事委員長がいなくなったので、「党は当時分裂していて、当時の方針は党の方針とはいえないから、現在の党には責任もないし、関係もない」という真っ赤なウソをつき始めた。彼は、その大ウソ=歴史の犯罪的な偽造歪曲によって、火炎ビン武装闘争実行者たちを見殺しにする詭弁を創作し、共産党員・支持者・左翼知識人へのウソの刷り込みを企んだ。彼のペテンは、大成功を収め、その詭弁を正式党史にさせた。これは、党史の問題に留まらず、1950年代の社会労働運動史の偽造歪曲に繋がる犯罪と言える。

 

 第6、五全協直前から六全協前後。これら1951年10月から1957年の時期で、すでに宮本顕治の「人間性の欠如」「知的・道徳的退廃」人格が典型的に現れている。大須事件被告人・共産党名古屋市委員長永田末男の宮本・志田・野坂告発内容は、これらの党史偽造歪曲犯罪告発と火炎ビン武装闘争実行者全員見殺しの敵前逃亡犯罪告発を直接的な背景としている。

 

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』宮本顕治の大ウソ証明

    『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党

 

 彼ら共産党中央指導者たちによって、全国でどれだけの党員・非党員の被告たちが見殺しにされたのか。そのデータを確認する。大須事件被告たちだけでなく、これらの実行者たちは、逮捕され、刑事裁判にかけられた。

 

 全国的な後方基地武力かく乱戦争行動データを載せているのは、現時点で、警察庁警備局『回想・戦後主要左翼事件』(警察庁警備局、1967年、絶版)だけである。よって、以下の諸(表)は、それを、私(宮地)の独自判断で、分類・抽出したものである。

 

(表1) 後方基地武力かく乱・戦争行動の項目別・時期別表

事件項目 ()

四全協〜

五全協前

五全協〜

休戦協定日

休戦協定

53年末

総件数

1、警察署等襲撃(火炎ビン、暴行、脅迫、拳銃強奪)

2、警察官殺害(印藤巡査1951.12.26、白鳥警部1952.1.21)

3、検察官・税務署・裁判所等官公庁襲撃(火炎ビン、暴行)

4、米軍基地、米軍キャンプ、米軍人・車輌襲撃

5、デモ、駅周辺(メーデー、吹田、大須と新宿事件を含む)

6、暴行、傷害

7、学生事件(ポポロ事件、東大事件、早大事件を含む)

8、在日朝鮮人事件、祖防隊・民戦と民団との紛争

9、山村・農村事件

10、その他(上記に該当しないもの、内容不明なもの)

 

 

 

 

 

 

 

2

1

1

95

2

48

11

20

8

15

19

9

23

1

 

 

 

 

5

 

2

 

3

96

2

48

11

29

13

11

23

10

27

総件数

4

250

11

265

 

(表2) 武器使用指令(Z活動)による朝鮮戦争行動の項目別・時期別表

武器使用項目 ()

四全協〜

五全協前

五全協〜

休戦協定日

休戦協定

53年末

総件数

1、拳銃使用・射殺(白鳥警部1952.1.21)

2、警官拳銃強奪

3、火炎ビン投てき(全体の本数不明、不法所持1件を含む)

4、ラムネ弾、カーバイト弾、催涙ビン、硫酸ビン投てき

5、爆破事件(ダイナマイト詐取1・計画2・未遂5件を含む)

6、放火事件(未遂1件、容疑1件を含む)

 

 

 

 

 

1

6

35

6

16

7

 

 

 

 

 

1

6

35

6

16

7

総件数

0

71

0

71

 

 ()の説明をする。本来は、統一回復五全協が行なった武力かく乱戦争実態を、六全協日本共産党が、これらのデータを公表すべきだった。しかし、NKVDスパイ野坂参三と指導部復帰者宮本顕治ら2人は、ソ連共産党フルシチョフ、スースロフと中国共産党毛沢東、劉少奇らが出した「具体的総括・公表を禁止する」との指令に屈服して、()上っ面の極左冒険主義というイデオロギー規定だけにとどめ、()武装闘争の具体的内容・指令系統・実践データを、隠蔽した。そして、今日に至るまで、完全な沈黙を続けている。

 

 このデータは、『回想』に載っている数字である。そこには、昭和27年、28年の左翼関係事件府県別一覧、その1〜4が265件ある。総件数を、(表1)の10項目、(表2)の6項目に、私(宮地)の判断で分類した。(表2)件数は、すべて(表1)に含まれており、そこから武器使用指令(Z活動)だけをピックアップした内容である。この『回想』は、283ページあり、これだけの件数を載せた文献は他に出版されていない。もちろん、警察庁警備局側データである以上、警察側の主観・意図を持った内容であり、そのまま客観的資料と受け取ることはできない。しかし、五全協日本共産党による武装闘争指令とその実行内容を反映していることも事実であろう。

 

 これらの(表)における武装闘争実践、武器使用活動(Z活動)の発生時期、終結時期に注目すると何が判明するか。発生は1951年10月16日統一回復日本共産党の五全協からであり、終結は1953年7月27日朝鮮戦争休戦協定日である。休戦協定日で、ぴたりと各種武装闘争・武器使用Z活動が、ほぼ完全に停止している。このデータは、それらの本質が、統一回復日本共産党による朝鮮侵略戦争への参戦行動だったこと、ソ中両党命令に隷属した共産党の後方基地武力かく乱戦争行動だったことを、見事なまでに立証している。

 

 そして、永田末男の敵前逃亡犯罪指導者たちにたいする怒りは、(表1、2)参加者や被告人たちが抱く怒りと同じである。彼らは、権力犯罪の警察・検察への憤りと、共産党の敵前逃亡者への憤激という、方向が異なる二重の複雑な怒りを持たざるをえなかった。有名な詩が、そのその心情を象徴的に表現している。

 

 以下は、小山弘健『戦後日本共産党史』(芳賀書店、1966年、絶版)「第4章2、責任追求と責任回避」からの一部抜粋である。

 (1)、野坂参三は、9月21日「アカハタ」で、誤りを認めた。しかし、彼は「誤りをおかした人にたいしてただちに不信を抱いてはならない」「たんに身をひくことが責任をとる正しい方法ではない」として、責任をとろうとしなかった。

 ()宮本、春日()らも、自分らのおかしたあやまちについて、なに一つ自己批判を表明しなかった。彼らは、責任の所在をあいまいにし、ごまかしてしまうという第二の重大なあやまちをおかした。

 ()、上層幹部たちのこのような責任回避のありかたにかかわらず、前記のように全党をつうじて、分裂以後の党と党員のありかたにたいするきびしい自己批判とはげしい責任追及のあらしが、まきおこってきた。党はこの九月から一〇月にかけて、中国・北陸・東海・関西・九州・関東・四国・北海道などの各地方活動家会議をひらき、新中央から志田・宮本・紺野・蔵原などが出席した。つづいて一二月にかけて、各地方党会議をひらいて地方指導部をえらんだが、これらのどの会議でも、主流派と地下指導部にたいする非難のこえがわきかえり、収拾つかないありさまだった。

 ()、党の最高指導者たちが、みずから「指導的地位を去ることが責任をとる正しいやりかたではない」などといって全党の責任問題を混乱させているとき、一学生新聞の無名の一記者は、死者のためにつぎのようにうたっていた。

 

  日本共産党よ /死者の数を調査せよ /そして共同墓地に手あつく葬れ /

  政治のことは、しばらくオアズケでもよい /死者の数を調査せよ /共同墓地に手あつく葬れ

 

  中央委員よ /地区常任よ /自らクワをもって土を起せ /穴を掘れ /墓標を立てよ

 

  もしそれができないならば /非共産党よ /私たちよ /死者のために /

  私たちのために /沈黙していていいのであろうか /彼らがオロカであることを /

  私たちのオロカさのしるしとしていいのであろうか

 

   (「風声波声」、『東大学生新聞』、一九五六年一〇月八日・第二七四号)

 

 だが党には、ひとりの中央委員もクワをとって土をおこそうとはせず、ひとりの地区委員も穴をほって墓標をたてようとはしなかった。全党あげての論争と追及、党外からのいくたの批判と要求―これらすべては、しだいに、みのりのないのれん談義におわっていった。党外や下部からの責任追及が、上部機関の責任のとりかたに集中化されるのと比例して、奇妙にも「アカハタ」紙上の自由な発言はおさえられ制限されていきだした。国外権威からの原案指示と上層幹部だけのはなしあいで運営された六全協は、必然に新中央による責任問題のホオかむりとタナあげという事態にうけつがれ、さらに党内民主主義の回復途上における中絶という奇怪な事態へと発展したのである。(P.186〜193)

 

     

 

 

 増山太助『戦後期左翼人士群像』(つげ書房新社、2000年)は、見捨てられた独遊隊」として、次の証言をしている。五五年の「六全協」後、「激動期の闘争」をすべて「極左冒険主義」という言葉でくくり、当時の「主流派」の指導を「一切清算」する動きが露骨に表面化した。私はこの傾向に反対し、とくに、事実に基づく「血のメーデー」の解明を求めた。しかし、志田をはじめ「軍事」の関係者はアリバイを主張して口をとざし、「命を賭けた」「独遊隊」の人たちは党から見捨てられて惨憺たる状態におかれた。宇佐美は五二年に逮捕され、裁判にかけられたが、完全黙秘を貫いた。しかし、六三年にかつての仲間に裏切られ「反党行為」という理由で除名された。彼は私宛の手紙のなかで、「僕は逃れようにも逃れようもなく極左冒険主義者の標的にさらされるという逆の現象をもって斬り捨てられた」と述べ、「宮本顕治に屈服して救済された元の極左冒険主義者」を悲痛な思いで糾弾していた(P.226)

 

 石堂清倫『わが異端の昭和史・下』(平凡社、2001年)も、「第3章、片手間の政治」(P.83〜125)において、この期間の状況を具体的に証言している。

 

 野坂・宮本体制は、一度も、死者の数を調査せよ!との要求に応えていないので、私(宮地)が、1952年に発生した4事件のデータを集計する。白鳥・メーデー・吹田・大須の4事件で、判明分だけである。不明分は空白にした。数字の出典は、各事件の被告団側資料と『戦後主要左翼事件・回想』(警察庁警備局、1967年、絶版)である。

 

 ちなみに、白鳥事件について、私(宮地)の判断をのべる。事件おいて、共産党札幌市軍事委員会が、武器使用Z活動の一環として、白鳥警部をピストルで射殺したのは事実である。一方、警察による幌見峠のピストル弾丸でっち上げ謀略も事実である。共産党側は、実行犯10人を人民艦隊に乗せて中国共産党側に逃亡させ、ピストル・使用自転車も隠し、射殺事実の人的・物的証拠を瞬時に隠蔽した。劉少奇型の武装闘争方針実行を日本共産党に命令した中国共産党は、当然のように、10人を庇護し、今日まで実行犯3人中の一人も帰そうとしていない。警察・検察側には、白鳥警部射殺の共同謀議会議参加党員7人の自白証拠しかなかった。そこで、物的証拠が何一つなければ、公判維持が困難だとあせって、幌見峠でピストル弾丸をでっち上げたのである。それを分析した中野徹三論文と川口孝夫手記を、HPに載せている。

 

 片や、六全協後、宮本顕治は共産党最高権力者となったが、「白鳥事件の真相を知りすぎた男」北海道軍事委員川口孝夫を危険視した。彼は、白鳥事件に直接関与していなかったが、党中央の命令で、持ち込まれた白鳥事件の検事調書すべてを再検証し、事件の真相を知りすぎてしまったからである。1956年3月、宮本顕治・梶田茂穂は、川口夫妻を騙して、人民艦隊に乗せ、蜀=四川省という中国最奥地に17年間も流刑措置にした党内犯罪者である。中国共産党と北京機関指導者袴田里美は、その共犯者である。ただ、川口孝夫は、宮本・梶田・袴田らによる流刑犯罪を告発しているが、白鳥事件の真相については、著書あとがきにおいて「まだ真相を公表する時期ではない」と沈黙している。大須事件を含め、いつになったら「死者たち」は重い口を開いて、事件の真相を語るのだろうか。

 

    中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、「流されて蜀の国へ」を紹介

          (添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」終章「私と白鳥事件」

 

(表3) 野坂・宮本「六全協」が調査を拒絶した死者の数

 

白鳥事件

メーデー事件

吹田事件

大須事件

判明分計

1逮捕

55

1211

250

400

1916

2起訴

3

253

111

150

517

3有罪

3

6

15

116

140

4下獄

1

0

 

5

6

5死亡+自殺

03

20

 

21

44

6、重軽傷

0

1500

11多数

35多数

1546

7除名

 

 

 

2

2

8見殺し・切り捨てによる離党

36

 

 

36

9中国共産党庇護の逃亡

10

0

0

0

10

 

 これらは、(表1)265件中、4件だけの判明分である。265件全体の(1)から(9)の「死者の数」総計はどれだけになるのか。一方、武装闘争発令の中央委員たちは、誰一人として、武装闘争事件による逮捕・起訴もされていない。もちろん、武装闘争実態調査・公表の禁止命令を出したのは、フルシチョフ、スースロフ、毛沢東・劉少奇だった。したがって、スパイ野坂・「格子なき党内牢獄」から釈放されたばかりの宮本らは、ソ中両党が任命した従属下日本共産党トップペアとして、その指令に無条件服従せざるをえなかったという面がある。

 

 具体的な総括禁止・公表禁止のソ中両党命令を履行するために、宮本顕治は、死者の数を調査せよ!と要求する批判党員兵士たちにたいして、「うしろ向きの態度」とか「自由主義的いきすぎだ」とか「打撃主義的あやまり」「清算主義の傾向」とかの官僚主義的常套語で、水をかけ、武装闘争総括をおしつぶす先頭に立った(『戦後日本共産党史』P.194)

 

 指導部復帰者宮本顕治を先頭として中央委員たちが、下部の武装闘争参加党員=朝鮮侵略戦争参戦兵士の批判・要求にたいして抑圧・排除行動に出た根底には何があるのか。その深層心理内容は、お前たちは、自分がいかに犠牲をこうむろうとも、絶対的真理を体現している党中央を守り抜くことこそ、全世界のマルクス主義前衛党員の共通の義務であり、党中央批判をする権利などない、という論理である。党員兵士一人一人には、交代・新規投入要員がいくらでもいる。しかし、党中央幹部は「余人をもっては替えがたい同志たち」である、とする敵前逃亡犯罪の中央委員たちの暗黙合意があった。

 

 6、永田末男最終意見陳述の位置づけ

 

 (1)、(表1、2)の武装闘争実践によって、逮捕・起訴され、刑事裁判にかけられた共産党員・支持者たちの数は、どれだけになるのだろうか。その総計は、警察も発表していないし、ましてや、敵前逃亡犯罪の共産党指導部も公表していない。永田末男は、騒乱罪でっち上げの権力犯罪とたたかい、名古屋市委員長として全員無罪を主張するとともに、その反面で、宮本・野坂らによる敵前逃亡犯罪、党中央批判にたいする永田・酒井除名と被告団長解任という共産党の報復犯罪ともたたかうという二正面作戦を強いられた。

 

 党中央批判者・異論者にたいする宮本顕治の報復事例=不当な党内外排除ケースは、数限りなくある。それらは、共産党最高権力者が行なう党内における政治的殺人犯罪と規定できる。国家暴力装置をいまだ握っていなかった彼は、スターリンのように、銃殺・強制収容所送りという肉体的抹殺殺人をできなかっただけで、宮本顕治とスターリンの手口の本質は、同じである。

 

 武装闘争路線実行事件の被告人最終意見陳述において、権力犯罪告発の無罪主張とともに、共産党中央軍事委員会と六全協後の中央委員会にたいして、下記のような公然とした中央委員会批判をのべたのは、名古屋市委員長・大須事件「首謀者」永田末男が唯一のものである。これは、火炎ビン武装闘争実践被告人による共産党指導部告発の画期的、かつ、歴史的な文書である。

 

 (2)、その党中央批判内容は、今日でも十分通用するレベルになっている。ただ、彼は、被除名者であり、共産党にたいして「日共」という言葉を使っているが、大須事件における火炎ビン携帯指令有無に関して、具体的な真相を語っていない。名古屋における火炎ビン武装デモの指令・督促で派遣されていて、火炎ビン携帯を具体的に命令した党中央軍事委員岩林虎之助の名前も挙げていない。陳述で認めているのは「予想される官憲の弾圧には、貧弱な火炎ビンをもって身を守るという程度のことにすぎなかった」という一個所だけである。彼は、党中央軍事委員会命令について、裏側の真相を、公判最終意見陳述において、すべて明言すべきではなかったのか、とも思う。

 

 (3)、最終意見陳述九において、永田末男は、期待可能性の理論をのべ、その理論に基づく無罪を主張している。菅生事件における判例も引用している。しかし、その理論適用を主張するからには、具体的に、党中央軍事委員岩林虎之助の名古屋派遣、火炎ビン武装デモの絶対的命令の存在を立証する責任は、被告人永田末男側にある。民主主義的中央集権制による抽象的な共産党員の武装闘争実行義務を主張するだけでは、立証責任を果たしたとは言えない。この(2)(3)は、東欧・ソ連10カ国の社会主義国家・前衛党のいっせい崩壊以前の1969年時点だった。その時期において、共産党から除名はされたが、陳述中で、レーニンの文言を引用するというマルクス・レーニン主義者としての限界でもあったのか。

 

 (4)、最終意見陳述九の最後における永田末男の主張は、大須事件担当検事にも感銘を与えた。

 「ただし、かく主張する私自身についていえば、下級幹部なりとはいえ、当時の日共の一機関の指導責任者として、前章で責任を追及さるべきものとした政治的指導者の末席を汚した、被告人中唯一人の人間であり、私もその政治的責任を当然もっている。従がって、万が一、当裁判所が弁護人及び被告たちの主張にもかかわらず、どうしても、われわれを有罪にしなければならないという執念を捨てることができないというのなら、その場合には私、即ち被告人永田末男に、その全責任を負わせられんことを要請し、ゆめゆめ他の責任なき被告諸君を有罪にするような、学説、判例に反する誤りを犯さざらんことを、心から切望するものである。

 

 木沢政直検事は、退官後に出版した『ドロ検最後の一年』(風媒社、1970年11月、絶版)で記している。

 「私は、大須事件発生の二年前からその判決言い渡しの一カ月後まで検察官をやっていたというだけでなく、この事件では、捜査の初期から論告の段階まで関与したのだから、まことに因縁が浅くないのである。永田君は、さすが、名古屋市キャップの風格があった。やはり、がっちりとした一つのものを持った男だ、というべきだろう。被告の最終意見陳述の中で、永田君のは、たしかに圧巻であった。この事件で起訴された騒乱罪の首魁一〇人の中で、当時日共名古屋市の委員長であり、組織の上でも最高責任者であった彼に、ふさわしい意見であった。『被告人中唯一人の』責任者として、かように刮目すべき陳述をしたのは、この種公安事件では、けだし、稀であろう。」

 

 

 2、『七・七大須「騒擾」事件にたいする最終意見陳述要旨(其の二)』八・九

一九六九年三月十四日  被告人・永田末男

 

 ()、原文中の傍点個所は黒太字にした。ファイル中の緑太字赤太字は、私の判断によるものである。3の『永田末男略歴』における青太字も同じである

 

 〔小目次〕

   目次一〜九

   八、われわれの行動に対するいくつかの誤った批判・評価、若くは無評価について

   九、被告たちには期待可能性が存在せず、この点からも無罪である

 

 目次一〜九

 

 一 最終陳述とは何か

 二 人間が人間を裁くことができるか

 三 新憲法下の裁判は如何にあるべきであるか

 四 警察・検察権力の本質―弾圧機関

 五 権力者の不正・腐敗・汚職はどうして無罪なのか―法の下の不平等

 六 「事件」の見方・考え方

 七 政治的起訴は弾圧であり違法である  (以上別冊)

 

 八 われわれの行動に対するいくつかの誤った批判・評価、若くは無評価について

 九 被告たちには期待可能性が存在せず、この点からも無罪である

 

 八、われわれの行動に対するいくつかの誤った批判・評価、若くは無評価について

 

 (1)、以上の私の陳述において、私はいろいろな角度から、われわれの行動の正当性を論証した。要約すると、われわれの行動は法的に見れば、ポツダム宣言という国際法規に違反したアメリカ帝国主義の在日占領軍と、ポツダム宣言及び日本国憲法に違反した日本政府の反人道的、反人民的な侵略行動と抑圧行動に反対し、平和と自由のため、ポツダム宣言と日本国憲法を守るために行った適法かつ正当な抵抗運動であるということになる。したがって、われわれに対する判決は、全員無罪以外にありえないというのが、私の陳述の要旨である。

 

 (2)、以上の私の陳述に対して、表面的にみると一見「不利」な作用をするかに思われる若干の「証拠」がないわけではない。もとより被告は「不利な証拠」を自ら提出する義務はない。しかし、われわれの「事件」は、政治的・社会的事件であり、現在、裁判という形での国法による審判を受けているだけでなく、良かれ悪しかれ歴史の審判を受けるべき性質のものである。また保守勢力および革新勢力の側からの政治的批判も当然予想されるところであり、現になされている。保守反動勢力の批判は、実は検察官による公訴の提起という形で、強権的に行われているし、これに対する反駁は此の最終弁論公判で、完膚なきまでになされたと信じる。だから以下では、革新勢力の側からする、われわれに不利になるような、誤った批判と評価についてふれなければならない。

 

 法廷には既に多数の日本共産党関係の文書が提出され証拠にも採用されているし、元公安調査庁役人の詳細な証言もあり、また、共産党自身主として決定・決議の形で、いくつかの文書を天下に公表している。殊に、日本共産党とソ連共産党との関係悪化の過程で、両党間の往復書簡を日共は自らの手で公刊し、「秘密のヴェール」をはいでいるという状態である。これらのものは、裁判官に一定の、心理的影響を与えていることは否めない。このさい、全く一被告の立場から、即ち、いかなる意味でも被告団を代表してではなく、これらの諸文書の内容にふれ、特にその評価の誤りを指摘しておきたいと思う。これは何より歴史を偽造しないために、また被告としての名誉を守るために是非必要であると私は考えている。若し、裁判所が、比の点についての私の陳述を虚心にきき、冷静に判断されるならば、殆んどすべての被告を当然無罪にしなければならないことは明らかであると私は確信する。

 

 (3)、日本共産党は一九五二年当時発生した一連の事件や行動について名ざしではないが、いくつかの文書を公表している。

 )一九五二年十月の第二二回中央委員会総会の報告ならびに決定は、次のように述べた。

 「われわれの行動のなかには、往々にして、国民の実情にそわない極左的行動が一部にあらわれた。たとえば、反動勢力にたいする個人的襲撃や精鋭分子のみによる集団行動などがそれである。そして、それをあたかも革命的行動であるかのように誤認し、それを奨励するような傾向すらみられた。大衆の要求にもとづく実力的行動を否定するものは、あきらかに社会民主主義者に堕落するであろう。しかし、条件と必要を無視し、大衆の現状を無視し、党員ならびに精鋭分子だけが勝手にふるまうことは、革命運動における犯罪行為である」(駿台社「平和・民主・独立文献」二六四頁)

 

 これが、当時分裂していたとはいえ、党組織の大半を掌握していた、いわゆる日共主流派の評価である。驚くべき評価である。党員、非党員を問わず多くの被告たちが、獄中で、また法廷で、苦しい、血みどろの斗いをつづけていたときに、党の中央指導部の面々は、一言の温かい激励の言葉も送るどころか、逆にシャイロックのごとく冷然と、被告たちの行動は「革命運動における犯罪行為である」ときめつけたのである。

 

 もちろん革命党が「革命的犯罪行為」となるような行動を方針としたり、指導したりすることはありえないから、二二中総のこの指摘は党中央の方針は正しかったが、下部の連中が党の方針を曲げて、勝手に行動し、その結果「革命的犯罪行為」を犯したのだ、と言っているのである。そのことは、当時の党の根本方針たる「新綱領」については、あくまで正しいものと自画自讃し、二二中総の「党内教育の方針」では、これを「必読(基本)文献」の筆頭に掲げていることからも明らかである。

 

 )ついで一九五五年一月一日の「アカハタ」は「党の統一と、すべての民主勢力との団結」(いわゆる一・一方針)という決定を発表し、その中で、「この際、我々が過去において犯し、また、現在もなお、完全に克服され切っているとは言えない、一切の極左的な冒険主義とは、きっぱり手を切ることを、ここで卒直な自己批判とともに、国民大衆の前に、明らかに公表するものである。

 

 冒険主義の弊害は、たんにわが党を傷つけただけではなく、すべての民主勢力が統一するうえで、重大な損害を国民にあたえた責任を、まぬがれるわけにはいかない。我々は、断じて、このような極左冒険主義の誤りを再び犯さないことを、誓うものである。このことは、今日、内外の情勢からみて、すべての民主勢力の団結が、きわめて重要な段階にあるとき、あくまで国民に責任ある政党として、当然の義務とかんがえる。」(青木書店「日本共産党綱領問題文献集」下、二八五頁)と述べた。

 

 ここで始めて、日共の中央部は、極左冒険主義が、単に下部の犯したものではなく、中央自らが犯したものであることを認め、不十分ながら自己批判したわけである。前述の二二中総の決定とあわせ考えれば、党中央自らが、「革命的犯罪行為」とやらの「犯人」であり、しかも、「主犯」であることを天下に公表し、その責任を負うことを誓ったわけである。だが、これも実際は、単に言葉のうえだけのことであって、現実に行動し、逮捕・投獄・起訴された被告たちに対しては、党の側からは何の救援措置もなされなかった。

 

 その裏で、当時の中央指導部の中心であったと見られる志田重男ごときは、下部党員の苦悩と窮乏をよそに、緑酒紅燈の巷に出没して、一千万円とも数千万円ともいわれる莫大な党資金を酒と女に費して、いわゆる「困難な地下活動」を享楽していたことが後に明らかになった。やがて同年七月二七日〜二九日、日共は第六回全国協議会をむかえる。

 

 )六全協の決議が、今までのものとちがう根本的な点は、日共の中央指導部が、党史上はじめて、自らの誤りを自己批判したということであろう。これは中央指導部の無謬性という神話にとりつかれている共産党としては、画期的な事であった。しかし、奇妙なことに、決議は冒頭に「新しい綱領が採用されてからのちに起った党の経験は、綱領にしめされているすべての規定が、完全に正しいことを証明している。」(日共六全協決議集五頁)と強調し、ただ戦術上いくつかの誤りを犯しただけだという立場から、その一つとして極左冒険主義を自己批判しているだけである。

 

 即ち、「第二に重要な問題は、党は戦術上でいくつかの大きな誤りを犯した。これらの誤りは、大衆のなかでの党の権威を傷つけ、また国民のすべての力を民族解放民主統一戦線に結集する事業に大きな損害をあたえた。誤りのうちもっとも大きなものは極左冒険主義である。この誤りは、党が国内の政治情勢を評価するにあたって自分自身の力を過大に評価し、敵の力を過小に評価したことにもとづいている。」(同上一〇〜一一頁)と、さらりとふれているだけである。

 

 この会議で「団規令その他による弾圧反対に関する決議」が採択され「…犠牲者諸君の、無罪釈放と救援のため一そう積極的に努力することを誓う。」と述べられている。その後、同年九月一七日〜一八日、常任幹部会員紺野与次郎が、中央を代表して、党東海地方活動者会議で行った六全協決議の解説では、「極左冒険主義のためにじつに.深刻な問題をひきおこしました。党中央は、極左冒険主義のために犠牲になった同志たちに、心からおわびします。と同時に、あらゆる面にわたって同志愛でもって援助し、まもってゆきたいとおもいます。」(日共東海地方委員会紺野与次郎「六全協の決議について」二〇頁)と述べ、被告たちへの、ささやかな謝罪がなされている。

 

 しかし、ここで約束されている、いわゆる同志愛の援助なるものが、不十分ながら実質的に実行に移されたのは、それから三年も後の、第七回党大会で採択された「弾圧事件犠牲者救援に関する決議」(一九五八年七月二九日)以後のことであった。しかも、七回大会では、極左冒険主義についての追及はおろか、討議すら全くなされず、報告の中で、「六全協にいたるこの期間に、党は極左日和見主義とセクト主義の方針と戦術をとるという重大なあやまりをおかした。」と、わずか二行足らずで片づけられてしまったのである。新綱領については、六全協では最上級の表現をもって、その完全無欠を謳歌していたが、七回大会ではじめて六全協での評価の誤りを認めた。

 

 ()かくして極左冒険主義とその産みの児ともいうべき「騒擾」事件等の問題は、日共党内においては、いわばタブー視され、今日に至るまで明確な理論的検討も総括もなされず、まして真の責任所在も明らかにされないままに放置され、もっぱら多くの被告たちの生ま身によって贖われるにまかされているといってもよい。事件は、公式には、いわば日共とは無関係のものとされ、甚だしきは、代々木日共の現書記長宮本顕治のごとく、公然と、「党は当時分裂していて、当時の方針は党の方針とはいえないから、現在の党には責任もないし、関係もない。」と、うそぶいて、恬として恥じない者さえ出ている。

 

 まるで、勘当息子か家出娘が生家にもどって、おやじの家屋敷、財産は全部相続するが、不在中におやじが負った負債は俺の知ったことじゃあない、貸し損とあきらめるがよい、と開き直ったような格好ではないか。これが「革命」党の最高指導者を自任する者の言であるから、看板が泣くというものである。彼が書記長として指導する代々木日共が、四・一七ストで労働者階級を裏切ったり、東大をはじめ頻発する大学紛争で、大学当局と結んで「全学共斗会議」派の学生と対決したりして、酔態を天下にさらしているのも、決して偶然ではないのである。

 

 ()さらに、日ソ両共産党の確執の中で、ソ連共産党によって公表され、後に日共によっても資料として公刊された「一九六四年四月十八日付ソ連共産党中央委員会の日本共産党中央委員会あて書簡」には、次のように、われわれの今まで知りえなかった事情が明らかにされている。「日本共産党代表団の苦情のもとになっていたおもな問題の一つは、ソ連共産党があたかも貴党に一九五一年の綱領と、朝鮮戦争期の「極左冒険主義戦術」を「おしつけた」かのようにいうものでした。ソ連共産党代表団はふたたび事の真相をあきらかにし、過去の記録や文献にもとづいて、これがまったく根拠のない虚構であることを示しました。わが代表団は袴田同志が「極左冒険主義的」と特徴づけた朝鮮戦争期の日本共産党の戦術とはソ連共産党はなんの関係もないことをあきらかにしました。この戦術は多くの点で、中国共産党の経験の教条主義的な模倣……であり、まさにこの戦術にソ連共産党の指導部は不安をいだいていたのです。われわれは日本共産党の代表団につぎのように伝えました。つまり一九五〇年一月六日に、共産党情報局が論説員の「日本の情勢について」という論文を発表したのは、スターリンの個人的イニシアチブによるものであり、ソ連共産党中央委員会は兄弟党にたいするこのような批判の方法に同意しないだけでなく、よく知られているように、兄弟諸党の相互関係のレーニン的基準からの逸脱を招いたスターリンの個人崇拝をソ連共産党二十回大会できびしく批判したということです。

 

 「日本共産党の当面の要求」という綱領については、ソ連共産党代表団は次の点に貴党の同志たちの注意をうながしました。それは、日本共産党の指導者たち(徳田、野坂その他の諸同志)の依頼と直接の立会いの下にスターリンがこの綱領の草案に筆を加え、よく知られているように貴党の完全な賛同を得たということです。日本の同志たちは綱領草案とは別個に、日本共産党の戦術についての文献を作成しましたが、これにはソ連共産党のうち、だれ一人として関係していません。したがって、一九五〇年〜一九五一年に日本共産党内におこったできごとにたいする責任を、ソ連共産党に転嫁しようとする試みは、まったく根拠のないものです。われわれはつぎのように考えています。十三年もたったいま、このようなわざとらしい非難をあびせるのは、われわれ両党の関係をくもらせ、日本の共産党員を迷わせ、ソ連共産党に反感をもたせようとの意図を示すものにほかなりません。」(日共中委宣伝教育文化部編集「ソ連共産党の日本共産党への返書」一九四〜一九五頁)

 

 これによると、両党間の「論争」の中で、日共側から「極左冒険主義」戦術の責任は、結局ソ連共産党にあると追及したのに対し、新綱領は日共の徳田球一、野坂参三らが草案をもってきて検討を頼まれたので、ソ連共産党中央委員会でなく、書記長スターリン個人が筆を加えたものであること、ソ共には責任がないこと、さらに戦術についてはソ共は誰一人責任はないことなどの応酬があったことが推測される。この点について、日共は.ただ書簡をそのまま発表しただけで、肯定も否定もしていないので、真相はわからないが、普通は文書を公表する以上、否定すべき部分には註をつけるべきが常識であるから、暗々裏に肯定したものとみてよいであろう。スターリンも徳田球一も故人であるから確かめようはないので、真相は野坂参三氏らしか知らないわけである。いずれにしても、ある程度真相はわかったものの、なんとも後味の悪い文書である。責任の所在は、結局明確にされていないからである。

 

 ただ、六全協において「綱領にしめされているすべての規定が、完全に正しいことを実際に証明している」という言葉の謎は、新綱領がスターリンという無謬の指導者の筆を加えられ、承認をえたい神聖な文書であったということから、ここに始めて解かれたということはいえるのである。新綱領発表当時、コミンフォルムの機関紙「恒久平和と人民民主主義のために」が、「マルクス主義の創造的通用の模範」として、口をきわめて賞讃したことは、ソ連共産党中央委員会も、おそらく記憶していることと思うので、スターリン個人の責任だと、すましておれるものでもなかろうが、徳田、野坂ら日共幹部に責任がないということにはなるまい。日本帝国主義の開戦の責任の所在が、敗戦してみると天皇にも誰にもなく、どこかへいってしまったのと似たようなもので、古人の「一将功成って万骨枯る」とは、言いえて妙であると思う。

 

 ()以上の党関係の文書の共通の欠陥は、一言にしていえば、人間性の欠如である。

 党の、特に指導者層の方針上の誤りと、その方針を正しいと信じて、誠実に、献身的に、身の危険をも顧みず忠実にこれを実践した党員、非常員の行動とは、ハッキリ区別して、これを正しく評価することが必要であると私は考える。これは単に政治の問題であるだけでなく、モラルの問題である。しかし日共指導部によっては、未だ一度も、このような評価はなされなかった。

 

 野坂参三氏のごときは、六全協後、名古屋の金山体育館での講演会で「若い者たちが暴れまして!」というようなことまで放言して、心ある人々のひんしゅくをかい、怒って脱党してしまった人さえある。氏の俗流マルクス主義が、ここによくあらわれていると評したら酷にすぎるであろうか。

 

 日共指導部の言行を特長づけるものは、一言にしていえは、知的・道徳的退廃である。評論家大井広介氏をして言わしむれば正に「革命家失格」である。レーニンは指導者の責任について、キッパリリと次のように言っている。

 「政治的指導者は、自分の指導の仕方に責任を負っているばかりでなく、彼に指導される人々のやっていることにも、責任を負っている。政治的指導者は、ときにはこのことを知っていないし、こういうことをのぞまないことが多い。しかし責任は彼にかかっている。」(大月書店・レーニン全集三二巻二〇頁)。「政治的指導者は、自分の政策に責任を負うだけでなく、彼に指導される人々がすることにも責任を負うということを、記憶していなければならない。」(同上、二四頁)

 

 ()共産主義政党は、それ自身目的ではなく革命のための道具であることは、革命運動、および、ひろく大衆運動にたずさわるもののイロハである。「先憂後楽」は論語をまつまでもなく社会運動家のABCである。一九五二年当時、日本共産党は、少くとも、日本人民の苦しみを人民に先んじて憂うるというモラルをもっていたと私は信じる。なぜなら、これは前衛党というものの最低限の資格であるから。そして、誠実に、献身的に行動したのである。敗戦以来の米占領軍の暴虐な支配、その傀儡となった日本反動勢力の人民収奪と抑圧、朝鮮戦争の勃発と、その前後の法を無視した気狂じみた弾圧、日本の永久占領を意味する対日単独講和条約の締結と安保体制、日中貿易への理不尽な妨害等々。これらに対し、心ある人々、特に青年層が、激しい憤りにもえ抵抗し行動を起そうと試みることは、至極当然であり、正義に叶ったことである。もし、それが指導の誤りによって失敗に帰したとしても、抵抗行動の意義を否定したり、況してや、これに参加して斗いに傷つき、逮捕、投獄、訴追された被告たちを非難したり、犬死をさせたりする権利が誰にあるであろうか。非難さるべきは、まさに指導者の誤りと政治的不明、および特にその無責任さであって、被告たちとその行動ではない。この行動を弾圧し、裁判にかけた権力者との関係についていえば、われもれは何ら罪を犯したものではなく、顧みて恥ずるところはない。

 

 リンカーンは、百年も前、一八六一年三月四日、第十六代大統領の就任演説において、次のように述べ、悪しき政治への抵抗、否、反乱の正当性を主張している。「この国も、その制度も、この国に居住する人民のものであります。国民が現在の政府に飽きてきた場合には、いつでも憲法上の権利を行使して、政府を改めることもできるし、あるいは革命権を行使して、政府を解体し打倒することができるわけであります。」(岩波文庫「リンカーン演説集」一〇四頁)

 

 当時のわれわれは、時の吉田政府に飽きあきしていたが「革命権を行使して、政府を解体し打倒する」ことまでは考えていなかった。やったことといえば、事実が示すとおり、せいぜい抗議のデモ行進を行い、

 

 予想される官憲の弾圧には、貧弱な火炎ビンをもって身を守るという程度のことにすぎなかった。

 

 まことにささやかな抵抗行動であった。「騒擾」と呼ばれるのも気恥しいような小規模な行動であった。これが当時、とてつもない大事件のごとき印象を世間に与えたとすれば、それは主としてマスコミの誇大な宣伝と大量検挙による何とはなしの薄気味悪さ、および予想外の「火炎ビン」の出現によるといっても過言ではない。当時「火炎ビン事件」として世間に知られたのも故なきことではない。大須事件から火炎ビンを除いたならば、一体何が残るであろうか。世人が、火炎ビンが太政官布告にいう爆発物でないことを知らされたのは、その後の最高裁判例によってであり、大須事件でも、既に「爆発物取締罰則違反」だけで起訴された二名の被告は、無罪判決を受けて自由の身となっていることは、マスコミの虫メガネで見ねばわからぬような記事の扱いのため、意外に知られていない。

 

 (8)、われわれの行動を単に「極左冒険主義」なりとする日共中央部の批判は、行動の正当性を捨象した一面的な評価であり、そその故に誤りである。さらに、その責任の所在をあいまいにしている点で、責任ある公党として二重の誤りを犯している。私は、この責任をソ連共産党中央委員会やスターリンに転嫁しようとする日共中央部の見解と態度にも賛成できない。これは「自主独立」を公言する同党としてあるまじき自家撞着でさえある。しかし、当時の日共中央部に全面的責任があることは、ジグザグのコースをとってではあったが、そのいくつかの文書によって公式に認めているところであって疑問の余地なく明白である。このことの及ぼす法的結果は重要であるので、次に項を改めて、それを論じることにしたい。

 

 九、被告たちには期待可能性が存在せず、この点からも無罪である。

 

 (1)、これまでの陳述において、私は、米日反動勢力、即ち支配者側のポ宣言並びに日本国憲法を蹂躙した違法行為に対置して、われわれの行動こそ正にポ宣言と日本国憲法に合致した適法にして正当な行為であったことを論証してきた。その際、騒擾罪の違憲性についても簡単に言及した(詳細は弁護人が明快に弁論されている)。これが飽くまで私の主張の基本である。そして本来はそれだけで十分である筈だ。新憲法を厳格に守って裁判が行われれば、われわれは全員無罪となる筈だからである。しかし、しばしば危惧の念を表明せざるをえなかったように、日本の裁判の現実は、お人好しの楽観をゆるさない。この現実をふまえて、私は百歩も千歩も譲って、仮りにわれわれの行動が、検察官の主張する如く違法行為であると仮定しても、騒擾罪その他の刑罰を課することはできない所以を以下に論述したいと思う。端的にいえば、被告たちには、当時の諸事情の下では他の行為の期待可能性はなく、従って責任がない、ということである。

 

 (2)、第八章で詳述したように、われわれの抵抗行動は、日共指導部によって些か一面的に誤って「極左冒険主義」という名称で呼ばれはしたが、その責任は彼らが全面的に負うものであることを天下に誓約したところのものである。しかも当時は、国際共産主義運動の唯一最高の指導者として自他ともに許すスターリンの在世中であって、全世界の、ほとんどすべての国の共産党は、後に「スターリン主義」の名でその誤りを批判された、官僚主義的指導方法を特長とする党内体制を維持していた時代であった。わが国の共産党も、その例にもれず、自ら「家父長的」と認めざるをえなかったような「下からの批判を抑圧する官僚主義的風潮」(「六全協」五九頁)が濃厚であった。しかも当時、日共党員は上から下まで、このような官僚主義的体制を、党規約にいう「民主主義的中集権制」なりとして疑わず、党中央の政治方針、組織方針、そのあらゆる指導と指令は、下部機関と党員にとって絶対的権威をもっていたのである。特にマッカーサーによる全中央委員の違法・不当な追放後、党は非公然活動を余儀なくされ、その中で、四全協・五全協と急速に組織、指導の面で「民主主素」は制限され、中央集権の傾向が苦しく強化されていった。かかる中で、「個人生活をも党に従属させ」ることが義務づけられている党員にとって普通一般の人々におけるような行動の「自由」がないことは説明するまでもあるまい。この点で、目的と信条は全く異なるけれども、一般党員は中央その他の上級機関に対しては、敵前における戦場の兵士や下士官と同じ地位に立たされていたと云っても過言ではない。

 

 (3)、七・七当夜の行動は、実際にも法的にも、デモ行進が崩れるまでは、そもそも「騒擾」などと呼ばれるべき何らの様相も呈していなかった。また武装警官隊のピストル乱射によってデモ隊が崩されてから後の、デモ参加者の分散的行動も、「騒擾」と呼ばれるべき行動ではなく、軍隊の指揮官による統率のとれた行動に比すべくもないものであった。この点はハッキリしておかなければならない。ともあれ、下部党員としては、或いは単身、或いは若干の非党員を誘って、当夜の集会とデモ行進に参加することは、自主的選択の許されざる性質の行動であって、その責任を問うことのできないものであった。党員として、当時の党内外の情勢の下で、他の行動を取ることは不可能であったのである。

 

 (4)、周知のように、期待可能性(Zumutbarkeit)の理論は、一八九七年ライネンフェンゲル事件(Leinenfanger Fall)として知られるライヒ裁判所の判例にはじまり、たとえその行為が違法であっても「行為者に期待しえぬところについてまで、責任を問うことはできぬ」とするものである。ドイツのラインハルト・フランク(Reinhard Frank)をはじめとする多くの学者によって発展させられたこの理論は、我国にもとりいれられ、今日では学説、判例で通説的な地位を占めるに至っている。判例についていえば、いわゆる甘糠事件に対する大正十二年十二月八日の第一師団軍法会議の判決、第五柏島丸事件に対する昭和八年十一月二十一日第四刑事部の判決、近くは昭和三十一年十二月十一日の最高裁判例など、その判例は少くない。この最後の判例によれば、「期待可能性の不存在を理由として刑事責任を否定する理論は、刑法上の明文に基づくものではなく、いわゆる超法規的責任阻却事由と解すべきものである」とされている。

 

 殺人罪として当然処罰さるべきであると一般に思われる事件が、無罪とされた著しい例は、前出の甘糠事件の軍法会議判決であって、その要旨は次のようなものである。即ち「それは大正十二年関東大震災の折、一憲兵上等兵が上官たる憲兵隊長の違法なる命令を適法なものと誤信して、一少年の咽喉を圧へ以てこれを窒息死に致したといふ事件である。判決は、平常、隊長を深く信頼してゐた被告人はその違法な命令を受けたとき「戒厳令下ニ於ケル非常ノ場合ソノ犯罪タル事ヲ推知セズシテ直チニ之ニ服従」したのであると認め、従ってその処為は「罪トナルベキ事実ヲ知ラズシテ犯シタルモノニシテ、即チ罪ヲ犯ス意ナキ行為ナルルヲ以テ」刑法第三八条第一項前段陸軍軍法会議法第四〇三条に則り処分すべきものであるとして無罪を言渡したのである。」(佐伯千仭「刑法における期待可能性の思想」)

 

 佐伯千仭博士はこれについて、次のように説明されている。「…被告人は上官の命令が違法であることを知りつつ軍隊に於ける絶対服従の原則によってこれに従ったといふやうに考へると……それは最早違法の認識の理論では処理できなくなる。この場合被告人は軍隊に於ける上官と部下との閑係からすれば部下は上官の命令に絶対に服従すべきであるし、他方その命ぜられた行為は違法なもの、避くべきものであるといふ誠に困難な地位に置かれることになるのである。これについては、我国に於ても或ひは純理論的に上官の命令には服従する義務はないとか、或ひは反対に部下は服従すべきであり、且拘束命令に服従する限り部下の行為は常に適法であるとかいふやうな説があるが、前説は従来の我軍隊生活の現実で餘りにも無視した抽象的理論であるし(絶対服従が如何に強要せちれたかは大多数の青壮年の生ま生ましき経験である)、後説は又部下の立揚のみを考慮してその違法命令の実行が向けられる国民の立場を無視した暴論だといふべきである。私見によれば、この解決は上述の如く唯期待可能性の理論定従って、その際部下は上官の命令に服従すべきであるが……この服従義務は違法命令の執行自体を適法化するものではなく、単に適法行為の期待不可能の理由により部下の刑事責任を阻却するものであると説明することによって始めて可能であったのである。」(前掲書二三二〜二三三頁)

 

 さらに、世人の記憶になおあらたなものがあると思われる例の菅生事件において、警察のスパイとして共産党細胞に近づき、現職の警官でありながらダイナマイトを運搬して、爆発物取締罰則違反事件に問われた巡査部長戸高公徳は、大分県警の小林警備部長の命を受けてこの恐るべき犯罪を犯しながら、期待可能性不存在を理由として無罪とされたということがある。このさい、この違法行為を命令した高級警察官の小林警備部長は、何らの責任も問われなかったことも想起すべきであろう。

 

 (5)、以上は、ほんの二、三の例にすぎない。このような理論と判例を援用することは、或いは虫の良い主張であると考えられるかもしれない。しかし、われわれはかの甘糠事件のごとく善良な市民に対する殺人を行ったものではなく、むしろ逆に、われわれの仲間は背後から警官にピストルで射殺されたのに、その射殺犯人さえ明らかにされていないのである。また、われわれ及びデモ隊の誰一人として、警官隊と衝突したことはあったにしても、それは、いわば受動的なものであり、さらにデモ隊は民間人の生命・身体・財産に攻撃を加えるという意図も事実もなく、かえって発火した民間自動車の炎上を見るや、身の危険をもかえりみず進んで消火に努力し、逆に強暴な警官のピストルに攻撃されて追い払われたという事実すらあった。これらのことを合せ考えるならば、期待可能性の不存在を理由として無罪を主張することは、決して身勝手な言い分とは云えないのである。

 

 ただし、かく主張する私自身についていえば、下級幹部なりとはいえ、当時の日共の一機関の指導責任者として、前章で責任を追及さるべきものとした政治的指導者の末席を汚した、被告人中唯一人の人間であり、私もその政治的責任を当然もっている。従がって、万が一、当裁判所が弁護人及び被告たちの主張にもかかわらず、どうしても、われわれを有罪にしなければならないという執念を捨てることができないというのなら、その場合には私、即ち被告人永田末男に、その全責任を負わせられんことを要請し、ゆめゆめ他の責任なき被告諸君を有罪にするような、学説、判例に反する誤りを犯さざらんことを、心から切望するものである。

 

 いわゆる公安事件について無罪判決を下すことに、裁判所が一般に行政権力への気がねから躊躇する傾向があることは私も知らぬではない。しかし明治憲法の下においてさえ、日露戦争の講和をきめたポーツマス条約を不満として起った「日比谷焼き打ち事件」(明治三十八年九月五日)について、事件の中心となった「講和問題同志連合会」の河野広中ら二十七人は全員無罪となっているという先例がある。この事件では「弾圧の張本人」と非難された芳川内務大臣の内幸町の官邸は焼かれ、日比谷、虎の門、芝、高輪にいたる十三ケ所の交番が襲撃をうけて全半焼し、遂に翌九月六日夜半には桂首相の緊急上奏で戒厳令まで布告されるというありさまで、正に一大騒擾事件であったことは間違いない。しかるに全員が無罪なのである。

 

 平事件でも一審は無罪であった。われわれと同じ時期に、同じような情勢で、同じような動機で起った吹田事件は、一審、二審とも騒擾事件については全員無罪で、既に判決は昨年確定している。裁判所がわれわれを無罪にするについて躊躇逡巡する理由は全くない。

 

 「刑事訴訟における誤判」(Das Fehlurteil im Sfrafprozen)の著者マックス・ヒルシュベルグ(Max Hirschberg)は、同書の中で次のように言っている。「われわれは、判決書にあらわれた判決理由が、刑事判決の唯一の理由を述べているものではなく、また、たいていは真実の理由を表現するものでもないことを知った。単に、証拠調の結果のみでなく、裁判官の全人格が有罪か無罪かを決定する。あるフランスの著述家は、判決は裁判官の人格によって見きわめられた事実であると述べた。従って、被告人の運命は、どのようなタイプの裁判官の前に立たされるかによって決ることになる。」(安西温訳、マックス・ヒルシュベルク「誤判」一九七頁)。おそらく、これが事実であろう。

 

 大須事件の被告たちやその家族が、大阪地裁で裁判を受けられなかったことの不幸を嘆くなぞということのないように、名古屋地裁の名を高からしめ、長期ではあったが名古屋地裁の刑事第一部で裁判を受けたことが、せめてもの幸いであったと後の世にまで語りつぐことの出来るような、公正で血のかよった人間的な名判決を出されるように、重ねて要望して、私の最終陳述をおわる。

 

 

 3、永田末男さんの略歴 偲ぶ会発起人酒井博

 

 一九一九年(大正八年) 二月二〇日、永田末男さんは静岡県沼津市の農家で出生した。

 一九三八年(昭和一三年) 旧制静岡高等学校を卒業。一九四二年(昭和一七年)、東京帝国大学法学部卒業後、日本興業銀行に入社して銀行員としてスタートした。

 翌年静岡の歩兵連隊に入隊、大学卒の二三人が経理部幹部候補生の試験を受け、永田さんだけ合格し、主計将校として内地勤務に留まった。不合格の二二人はサイパン島などで全員戦死した。

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 一九四五年(昭和二〇年) 敗戦により復員、興銀を退職して党再建の拠点になっていた自立会に赴き、日本共産党の本部勤務員、志賀義雄、後に徳田球一の秘書として精勤した。一九四八年、東海地方委員となった。

 一九五〇年(昭和二五年) 党本部から派遣されて岐阜県委員長、名古屋市委員長を歴任した。

 一九五二年(昭和二七年) 七月七日にいわゆる名古屋大須事件が起った。当時党の非公然組織であった名古屋市ビューロー・キャップであった永田さんは地下に潜行した。

 一九五三年(昭和二八年) 一一月一一日、四百余人の最後に逮捕、騒擾事件の首魁として起訴された。

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 一九五六年(昭和三六年) 以降、永田さんは日本国民救援会事務局次長をつとめる傍ら、愛知県松川事件対策協議会、愛知人権連合などの役員を兼務、人権と民主主義擁護の運動に挺身した。ことに弾圧・冤罪事件の救援にかかわった数は多く、三鷹・松川・白鳥・愛大・青梅事件そして八海・帝銀・松山・島田事件その他等々、とくに牟礼事件では公判記録を読了し、「死刑囚歌人佐藤誠−その究罪をはらすために」を執筆、運動の全国化への基礎をつくった。

 一九六一年(昭和三六年) 社会運動家顕彰運動には当初から参加。七月一七日鶴舞公園占有許可が出されるや、その建立に努力するなど、その生涯を社会運動の発展にささげた。

 

 一九六九年(昭和四四年) 一一月一一日に、名古屋地方裁判所で第一審の判決が出た。

 東京の、メーデー事件、大阪の吹田事件はいずれも騒擾不成立だったが、名古屋大須事件では騒擾罪が適用された。被告も一部無罪が出たがほとんどの被告が有罪、永田さんは検察の懲役七年の求刑に対し三年の実刑であった。被告全員が直ちに控訴して裁判闘争は長期化した。

 この頃から、愛知県労働組合評議会その他民主団体の支援の輪が広がり、総評大会での大須裁判闘争への支援決議もあり、大衆運動への一歩を踏み出した。

 

 一方、第一審の途中から大須事件被告団への日本共産党の干渉が強まり、これに抵抗した永田さんは卑劣なやり方で被告団長を解任された。これは大須闘争に対する党の指導上の誤りだけでなく、その政治的道義的な責任を追及されることを恐れた日共指導部の分裂策であり、大須事件からの党の敵前逃亡であった。

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 一九七五年(昭和五〇年) 三月二七日に名古屋高等裁判所で第二審の判決が出た。大筋で原判決通りの内容であった。

 一九七八年(昭和五三年) 九月四日に最高裁判所は憲法違反という上告に対し弁論を一回も開かず上告棄却、永田さん初め被告の有罪は確定した。

 有罪確定後、名古屋高等検察庁の指揮で刑務所への収監を執行しようとしたが、永田さんは歯の治療を理由に名古屋高検に対し入所延期を申立て、横山代議士等の協力もあり、遂に執行を延期させた。一日に歯の治療を終え、友人に見送られて三重刑務所に下獄した。服役中は得意の語学力を買われ外国語の校正などをやった。その獄中生活ぶりは奥さんと長女の葉子さんへの手紙に生き生きと記録されている。(「方位」に連載)

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 一九八〇年(昭和五五年)九月三日、家族と友人の出迎えを受け元気で出所した永田さんは三重県松阪市で奥さんと長女葉子さんと、三人の新しい生活が始まった。永田さんは以前からやっていた「曙英数アカデミー」の塾頭に復帰、奥さんと共に「松坂一、小さく安い」塾で、小・中学生相手に英語で歌を教えながら教えた。

 又、塾経営の傍ら、国連の英語通訳資格もとり、ドイツ語もマスターし、九二年の夏にはドイツへの初めての海外旅行に出た。

 一九九五年夏、永田さんは体に異常を覚え、検診の結果大腸癌が発見され、七月一三日松阪中央総合病院で手術したが快癒に至らず、九月一〇日午後九時一分に長女の葉子さんの懸命な看護も空しく永眠した。

 一九九五年一〇月三〇日、多くの先輩同志の眠る愛知県社会運動家顕彰碑「いしずえ」に合葬された。

 

一九九六年三月一〇日 永田末男さん偲ぶ会発起人 報告者酒井博

 

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 (関連ファイル)

    元被告酒井博『講演 大須事件をいまに語り継ぐ集い』質疑応答を含む

    元被告酒井博『証言 名古屋大須事件』歴史の墓場から蘇る

    『大須事件・裁判の資料と共産党関連情報収集についての協力お願い』

    『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』宮本顕治の大ウソ

    伊藤晃『抵抗権と武装権の今日的意味』武装闘争方針の実態と実践レベル

    大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y

 

    (メーデー事件、吹田・枚方事件、白鳥事件)

    『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』共産党の広場突入軍事行動

    『検察特別資料から見たメーデー事件データ』

    増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」

          増山太助『検証・占領期の労働運動』より「血のメーデー」

          丸山眞男『メーデー事件発言、共産党の指導責任・結果責任』

    滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』

    脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』

    中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、「流されて蜀の国へ」を紹介

          (添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」終章「私と白鳥事件」