大須事件をいまに語り継ぐ集い

 

大須事件50周年集会実行委員会主催

 

講演元被告酒井博、質疑応答

 

 ()、この集会は、2002年10月26日、大須事件現場近くの名古屋中小企業福祉会館で開かれた。60数人が参加し、新聞社数社とテレビ局も取材に来た。映画『記録・大須事件』のビデオを上映し、酒井博講演と質疑応答を行なった。講演はかなり長いので、このHPに載せるのは、「1・はじめに」の冒頭部分を大須事件関係個所の抜粋とし、講演内容2〜17と、質疑討論はその全文を転載する。これらをHPに転載することについては、酒井氏の了解をいただいてある。私(宮地)の判断で、文中の17の小見出し、質問テーマ、文中の各色太字を付けた。

 

 〔目次〕

   1、大須事件元被告酒井博の講演

   2、質疑応答 4つの質問と応答

 

 (関連ファイル)         健一MENUに戻る

    被告人・永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』

         武装闘争路線に関する共産党中央委員会批判

    元被告・酒井博『証言 名古屋大須事件』歴史の墓場から蘇る

    『大須事件・裁判の資料と共産党関連情報収集についての協力お願い』

 

    (武装闘争路線)

    『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』宮本顕治の大ウソ

    伊藤晃『抵抗権と武装権の今日的意味』武装闘争方針の実態と実践レベル

    大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y

 

    (メーデー事件、吹田・枚方事件、白鳥事件)

    『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』共産党の広場突入軍事行動

    『検察特別資料から見たメーデー事件データ』

    増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」

          増山太助『検証・占領期の労働運動』より「血のメーデー」

          丸山眞男『メーデー事件発言、共産党の指導責任・結果責任』

    滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』

    脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』

    中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、「流されて蜀の国へ」を紹介

          (添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」終章「私と白鳥事件」

 

 1、大須事件元被告酒井博の講演

 

 〔小目次〕

   1、はじめに

   2、パンフレット『証言 名古屋大須事件』について

   3、朝鮮人の強制連行問題

   4、大須事件前の私の経歴

   5、大須事件による逮捕の経過

   6、酒井博への起訴状

   7、大須事件現場の状

   8、私の事実上の無罪と26年間の公判闘争

   9、法律を勉強しておく必要性

  10、出獄

  11、出獄後の共産党による査問

  12、看守の状況と看守の待遇改善要求を代弁

  13、国民救援会運動参加と共産党の妨害

  14、共産党の責任棚上げ体質

  15、極左冒険主義の誤りと責任の所在、人間的モラル

  16、裁判をやってよかった3つのこと

  17、検察研究特別資料「部外秘」『大須騒擾事件について』の入手

 

 1、はじめに

 

 いま日本はお金持ちだ、そして今度は有事立法をやってですね、そしていよいよ本格的な戦争準備をするとか、あるいはアメリカのお先棒になってですね、イラクの次は北朝鮮をやっつけろとか、そういう今の、逆流と言いますか、そういう動きに私たちは、飲み込まれてしまってはいけないという思いがあります。そして私たちは朝鮮戦争にたいしても責任があるんです。この朝鮮戦争にたいして私たち日本人がいったいどういう役割を果たし、皆さんの先輩ですよ、まあ皆さん方生まれてなかったと思うんだけれども皆さんの先輩や、私たちを含めてですね、いったいどういう私たちは責任を果たしてきたのかということを、私たちはもう一度、歴史を学びながら、検証をしていく必要があるんではないかと思いました。まあそれぐらいにしましょう。この問題だけで一時間ぐらいかかりますから(笑い)。

 

 それで、先ほどメッセージが読まれました。あのメッセージの中で、全部読み切れなかったんですが、都留忠久さん。この方はですね、じつは今年の六月に、九州の小倉に行ってまいりました。それで小倉で菅生事件の五十周年の集いというのがありました。これは現地の菅生事件の関係者の方々ですね、労働組合や新聞社の方も来ていらっしゃいましたけれども、大きく現地の新聞に報道されましたけれども、それに招かれて行ってきたんです。で、その時にですね、今日メッセージを送っていただいた都留さんにお会いしました。この都留さんという方は、今年八十二歳の方です。私より先輩ですよ。この方は、あの菅生事件の起きた時には大分県の共産党の委員長でした。

 

 しかし彼はですね、この事件の発生した時に、ただちに県委員長を辞めてですね、そしてみずから特別弁護人を志願されて、そして被疑者として被告として弾圧をされた諸君のためにずーっと無罪判決に至るまでですね、特別弁護人として、そしてまた救援のための運動の先頭にたってこられた方です。立派な方です。で、いまでもこの方、立派な、そういった業績がありますし、共産党の中でも非常に信頼されている方です。奥様も立派な方で、新婦人の会の県の会長とか、母親連絡会だとか、いろんな女性の運動のために先進的な活動をされている立派な方です。ご夫婦共にね。その都留さんからですね、メッセージいただけた。本当はきょう来る予定だったんです。来て直接皆さんに話したいと言っておられたんですけれども、今朝のはがきによりますと、ご病気で奥さんが入院されたと。ご自分も介護を今、受けなければならない状況なので、来れないので、今日は集まった皆さんによろしくというハガキをいただきました。非常に残念です。

 

 この都留さんがですね、じつをいうと、九月六日の朝ですね、緊急に六時頃電話が入りました。私も寝ておったんですけれども、すぐ飛び起きて電話に出ましたが、酒井君、昨日の赤旗読んだか、って言われました。僕は赤旗いまとっていないんだ、と。叱られました。なんで赤旗とらないんだ、と。いや、じつをいうと二十年前までは赤旗をとっておったんだけれども、ある日突然に配達が停止になったと。どうして停止になったかといえば配達員の方、まじめな方ですよ、その方、配達している若い方に聞いたらですね、じつは上の方から、酒井には赤旗読ませるなという指示が出ておったということなんですね。そうかと、じゃあ紙代を払うから、紙代を取りに来てくれと言ったら、いや紙代もけっこうですと、取りに来ないんです。いまだ私も預かっていますけれどもね。そういうことでした。その方は本当に私は気の毒だと思いましたよ。

 

 しかし二十年目の話しで、今はそういうことはないと思いますけれどもね、それ以来私もそのまま、向こうが断ってくるのならしょうがないなと思ってですね、読まないできたんです。しかし時々はですね、町で買って読んだり、あるいは友人の方に頼んで買ってもらったりしてですね、読むようにしております。重要な記事は読むようにしておりますが、まあそういうことで、読まないっていうんで叱られましたよ。明日から読者になれって言われましてね。読者になろうと思ってますけれども。赤旗読めって。赤旗読まないのはけしからん、君は。読めって言うんで、読みました、私ね。二回も三回も読みました。そうするとまた電話がありましてね、読んでどう思うと。どう思うって、まだ感想まとまっていないんだと。

 

 その、彼が読めって言ったのはですね、ご案内の通り、日本の共産党の議長でいらっしゃる不破哲三さんが、中国へ行きまして、中国の江沢民主席と会談をしたその記事なんですよ。それをお前読まなかったと叱られたんですね。で、どう思うんだ、って言うから、どう思うって、そりゃあ僕は今はけっしてショックは受けてないと。たぶんそういうことになるんじゃないかと思っとったって言ったらね、そんなことあるかと。とにかくあれは綱領違反だと言ってですね、九州の僕たちの仲間でもいま皆集まって議論をしているんだと。そして不破さんにどうしてこういう発言をしたかっていうことについて僕は意見を述べるつもりだっていうことをおっしゃっていました。八十二歳の、共産党の中でいえば本当に長老の方なんですね。誰もが彼を尊敬している方なんです。そういう方が、怒りにまかせて私みたいな、共産党から追い出されてね、反党分子っていうレッテル貼った人間のところに同志という肩書きでですね、メッセージいただいたですよ。

 

 同志酒井よ、って言ってきました。私はね、久しぶりに同志にしてもらってですね、大変うれしかったんですけれども、そういうことで、そのことについての私の意見は、皆さんにあげたテキストの中に書いてあります。都留さんにどう答えたかということは書いておきましたけれども、そういうことがありましてね、そういう方が共産党の中にいらっしゃるんですね。私は共産党を批判することはあります。しかし共産党員の方には立派な方が沢山いらっしゃる。そこは私たちはしっかり見ていかないといかんと思っています。けっして反共でもなければ反党でもなくて、日本の共産党なり社会党なり、日本の本当に革新を名乗っている人たちがもっとまともにね、しっかりして、そして日本人民の闘いの先頭に立ってもらいたいという気持ちは、私はけっして絶望はしておりません。やっぱり日本の労働者、日本の人民はですね、やはり日々学びつつ行動し、そしてやがては本当に正しい方針になってくる、正しい自分たちの指導部を自分たちでつくっていくだろうということを期待しておりますので、そう私は心配しておりません。

 

 2、パンフレット『証言 名古屋大須事件』について

 

 まあ話は横にいきましてすみません。それで、きょうですね、テキストを皆さんにお渡ししました。このテキストはですね、私の個人的な出版ですから、それほど公にするものではありませんけれども、この大須事件にたいする私たちの意見を発表したのは私が二人目だという、一回目はこの永田末男さんという方が『大須事件公判最終陳述』という、これ私が編集したんですけれども、出しました。で、二回目は私がこの『証言 名古屋大須事件』というのを書いて、まあ出版ということではないですが、パンフレットにいたしました。で、私たち今までですね、やっぱり仲間うちのことだから、やはり大須事件の問題については係争中は、裁判で闘っている間は、いろいろ私たちが言いたいことも辛抱してきたわけです。

 

    被告人・永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』

         武装闘争路線に関する共産党中央委員会批判

    元被告・酒井博『証言 名古屋大須事件』歴史の墓場から蘇る

 

 で、公判が終わりまして、裁判が終わってからもう二十五年ですから、もうそろそろ関係者の方もお年をとっていらっしゃるし、それからあまり皆さんもこのことについて触れることを、迷惑される方もいないんじゃないかと、こういう気持ちでね、私もそろそろこれから本当のことを書こうと思って、その書き出しがこれなんですよ。で、これはあくまでも私の個人的な記録ですから、ひとつ批判的に読んでいただきたいと思うんですが、私は今いちばん考えていることは、僕らの世代の責任をどうやって果たしていくかということなんですね。いまの七十代から八十代にかけて、戦後民主主義の先頭に立っていたと、闘ってきたと、自負している私たちの世代がですね、いったい、どうして責任を全うすることができるかということを、私はいま考えております。

 

 大須事件もその一つであります。私たちは闘ってはきた。しかしその私たちの闘い方の中に、はたして反省すべき点はなかったであろうかということをいま私はですね、真剣に考えるようになりました。テキストのいちばん最初のところですね、第一頁のところを見ていただければわかるけれど、ここに私がこのパンフレットを書くに至った動機が書かれています。歴史の墓場から蘇るという、このタイトルはですね、いろいろ考えたんですけれども、私も歴史の墓場から蘇ってきたわけです。足がちゃんと二本ありまして、幽霊じゃなくて、亡霊じゃなくて、人間として、墓場から蘇ったつもりでいます。

 

 で、なぜわれわれにとって歴史、特に現代史ですね、日本が一九四五年に降伏して以後、まあその以前のことについてももちろん含めてですが、それ以後私たちが闘ってきたこの五十年間、あるいは五十七年間というものがですね、どういうものであったかということを私たちはもういっぺんふりかえって考える必要がある。有名なドイツの前の大統領だったヴァイツゼッカーという方が、ナチスが政権をとってから一九四五年に敗北して、敗戦までの間の、十三年間ですか、荒野の十三年という立派な演説をやられました。これは旧西ドイツの上下両院の議員の協議会で講演をされたんですが、そのいちばん最後のところにですね、彼が言っていることは、過去の歴史に目をつぶる者は、現在に盲目になるという言葉で結びました。そして私たちドイツ人は、確かにナチスが一九三三年に政権を握った時にですね、ドイツ国民はハイル・ヒトラーで皆手を挙げて、ほとんどのドイツ人は熱狂的にヒトラーを支持したんですね。で、ヒトラーはどうやって政権をとったかというと国会で多数を占めたんですよ。第一党になったんです。そして憲法を改正してワイマール憲法をゴミ箱に捨てて、そして特別法をつくって、総統という制度をつくってそれに全権力を集中したんですね。それから彼は本性を露にして、あれだけのひどい、ドイツの国民を、そしてヨーロッパの人たちを、ああいう悲惨な状況に追い込む大きな犯罪を犯したわけですね。

 

 で、それについてヴァイツゼッカー氏が言っているのは、ヴァイツゼッカー氏自身はクリスチャンであって、戦争中は、ナチスの支配下にあった時代には軍隊を脱走してレジスタンスに参加した人ですから、けっしてナチス党員でもなければヒトラーの子分でもなかったんですね。しかしそのヴァイツゼッカーさんでさえも、われわれには責任があると、歴史にたいして責任があると。たとえヒトラーが、ナチスの一部の連中がああいうことをやったにしても、それを支持した私たちドイツ人にも責任があるし、それを許した、抵抗はしたけれどもそれを許した私たちドイツ人の知識階級も責任があると、この責任を私たちは果たさなきゃいけないということが第一。二番目にですね、若い学生諸君や、戦後生まれた人や、あるいは全くそういうことを知らない、特に若い方々に訴えるわけですね。若い青年諸君にも責任を背負っていただきたいと、君たちにもわれわれ、俺たちの世代が犯した過ちを償ってほしいということを、彼は堂々と演説したんですね。

 

 で、この彼の演説はですね、荒野の十三年ですか、結局彼のあれはお隣のポーランド、チェコ、かつてナチスが侵略した国々の学校でテキストに使ったそうです。それぐらい立派な演説なんですね。そしてそれまでドイツにたいして不信感を持ち、また怨恨がまだ晴れてませんよ、そういう方生きていらっしゃいますから。収容所でやられたとか、自分の家族を殺されたとか、抵抗運動をやって射殺されたとかという人たち、残ってますよね。そういう方々も、やっぱりこれを読んで感動して、そして皆が、われわれはナチスに、ヒトラーに全責任を負わせるんじゃなくて、そういうヒトラーの台頭を許し、あの戦争を阻止できなかった私たちドイツ人全部に責任がある、と。これは日本が戦後やった一億総懺悔(ざんげ)とは違いますよ。あれは天皇が責任を逃れるためにああいうことを言い出したんであって、それとは全く違うんですよ。

 

 本当にドイツ人一人一人がそういうかたちで、われわれも犯罪に手を貸したんじゃないかということで自己批判をしてですね、それがやはり近隣諸国にたいして、先ほどの話じゃないけど隣の国にたいして大変強い感動を与えたんです。ですからドイツという国は、もちろん今のドイツ憲法では軍隊もありますし、また資本主義の国ですからいろいろ問題をたくさん抱えていらっしゃるけれども、しかしやっぱりね、そういう自己批判をした国としない国との違いがはっきりありますね。歴史的な自己批判をした国と、それから自己批判をしないで、あるいはごまかしてきた国との違いがはっきりしていると私は思います。ですからドイツ人には友人があるんですよ。ポーランド人も、あるいはチェコ人も、あるいはオーストリアの人たちも、かつてドイツから支配された国の人たちがですね、今はドイツ人の友人になってんですね。これ大事なことですよ。

 

 3、朝鮮人の強制連行問題

 

 で、日本人はどうですか。本当に友人がいますか。本当に良き隣人がいますか。お隣中国、あるいは韓国、いわゆる北朝鮮と言われている今の人民民主主義共和国、あるいはその他のアジア諸国と、本当に友人関係ありますか。信頼されてますか。そこが問題なんですよ。ですから私は、いろいろ人間ですから、あるいは私たちは国家というものの下にあるわけですから、中にいるわけですから、いろいろ過ちを犯すことがあります。政府が過ちを犯す。あるいはそういう侵略戦争をやります。中国人を拉致してきて、かつて朝鮮から数十万の人たちを強制的に日本に連れてきた、強制連行ってやつ。

 

 私も炭坑にいましたからよく知っているんですよ。今日は十人、明日は十五人というかたちでですね、トラックで炭坑まで連れてきましてね、そして納屋という小屋があるんです。大きな、ひどいバラックみたいなところに放り込んでね、鉄条網といいますか、鉄線張ったとこ入れてですね、そして朝5時頃からたたき起こして、炭坑まで、坑口まで連れてってですね、労務課の連中が完全武装して、逃げたら撃ち殺すということですね。そういうかたちで毎朝そういう炭坑の労働に強制的にやらせて。私が青年時代に、この目で見ております。

 

 ある日こういうことがあったんですよ。朝だいたい連れていく時に、前と後ろに労務課の暴力団みたいな奴がついていて、そして十人・十五人ぐらいの単位で列をつくってね、一列で行くんですけれども。で、途中炭坑の坑口まで行く間に、山がありまして、そして山のすぐ下には川があって、そういうとこまで行きましたが、脱走者が出たんですよ。一人、山の方に向かって行けばいいんですけれどね、普通山の方に逃げた方が安全なんですよ。ところが川の方に向かって逃げていったんですよ。すぐつかまりました。追っかけてってね。その逃げてった人は、名前は忘れましたけれども、朝鮮の北の方から連れてこられた方なんですけれども、肺結核で胸が悪くてね、本当に労働なんかできる状態じゃなかった。それが必死になって逃げた。つかまった。そしてつかまってですね、おそらく二時間か三時間後に死にました。

 

 後から聞いてみたらですね、相当ひどいことやったんですね。天井からぶら下げてですね、水桶の中に突っ込んでですね、何度もそれをやって拷問を加えて、医者が来てですね、警察官が立ち会って、これは心臓マヒだって言ってですね、診断書書いて、処理しちゃったんです。私はその時ほんとにね、ひどいことやるなと思いましたよ。同じ日本人でありながら恥ずかしいと思いました。あとでわかったことですが、じっさいに現地に行ってみたら一人足らないんですよ。その逃げた人はつかまって殺された。だけどもう一人足らないんですよ。後でいろいろ聞いてみたら、十五歳か十六歳の少年が一人ね、逃げたんですよ。かわいい坊やでした。皆からかわいがられていた、本当にかわいい子で、聞いてみたら、どこかの朝鮮の方の田舎の面長っていってですね、日本でいうと村長ですね、その息子さんで、本当に宝のように大事にされている人だったんですけれども、ある日無理やりに拉致されて、トラックに乗せられて連れてこられたんですね。そういうことをやったんですよ。

 

 少年はね。その子はちゃんと逃げたんですね。この子は敗戦後まで見つからなかったですよ。で、いろいろ後でですね、戦争終わってから、調査が始まりまして、いろいろ後でわかったことなんですが、実をいうとその少年とですね、殺された四十歳位の方ですね、殺された朝鮮人の人との関係はね、直接はないんですよ。だけど同じ寮、同じ宿舎の中にいたんですね。それで、彼はおそらく、自分がもう長いことはないだろうということなんですね。それで、自分はつかまって、大騒動やっている隙に、少年に逃げろと言って、おそらく逃がしてやったんじゃないか。つまり、自分の命はなくなってもね、自分とはけっして親戚でも兄弟でもない息子でもない少年を助けるために自分がおとりになって逃がしてやったんですよ。

 

 その子はね、山の中で、あるきこりさんですね、炭焼きの人に拾われて、大事にそこで、そこの労働力ですからね、働いて、戦後ね、やっとこ自由になってからですね、朝鮮人、韓国のね、代表の方が日本に来てですね、そしてそのかくまっとった日本人のきこりさんに感謝の表彰をされて、そして国へ帰っていかれたみたいなんです。そういう話は、それは私は戦後真相を知ったんですけれどもね。私はその時つくづく思ったことは、なるほど、ああいう虐げられた、日本の植民地支配の下でですね、本当に辛い目をしてきた朝鮮人の方々の中にですね、そういう人間としてのヒューマニズムといいますか、身を殺して仁をなすといいますか、少年のために自分の命をね、捨ててでも助けたという、そういう真実を発見してね、私は感動しましてね、それまで朝鮮人というものにたいして、私は多少ね、私はクリスチャンでしたからあまり差別的な教育は受けなかったんですけれども、しかしその時に初めてわかったことは、他国の人民を抑圧する国の人民もまた自由はないということですね。

 

 これは後ほど私はいろいろ勉強してから一つの真理として理論としてもわかったんですけれども、それを私はこの目で見ました。ですから、虐げられた民族の方がですね、立派なんですよ。支配する人間の方がね、私は、傲慢で、不遜で、弱い者いじめをして、自分たちの利益のためにはそういう弱い者を踏みつけにするというね、これがやっぱり日本人の中にまだあるんじゃないかと。だから今度の、拉致問題をめぐってもですね、朝鮮人学校の子供や、あるいは朝鮮服を着て、一見して朝鮮人だとわかる人たちにたいして、いろいろ罵声を浴びせたり、あるいはいろんないやがらせをしたりする日本人がいるっていうことを、大変私は悲しいことと感じています。

 

 ですから、絶対にそういう民族差別、自分の中にあるそういう偏見、差別というものを徹底的にね、洗い出さなければ、私たちはね、運動をやる資格ないと思いました。それは私の出発点でした。私が日本共産党にその後入り、炭坑で労働運動をやり、それからいろいろ苦悩しながら今日までこれたのは、やっぱりそういう偉大な人間としての最高のヒューマニズムですよ。そういうものを私はこの目で見て、自分が体験したことをつうじて、学ぶことができたことが、原点になっています。ですから、日本人が本当に民主主義であるとか自由主義であるとかいろんな立派なことを言っていますけれども、その人が朝鮮人や、あるいはヨーロッパで言うならユダヤ人とかね、こういう人たちにたいして、差別の感情を持っているか持っていないかということをね、このことを私たちは、それはパレスチナの方にたいしても一緒です、どの国の人たちにたいしても一緒なんですけれども、差別の感情を持っているかどうかということが、その人が本当に民主主義者であるかどうかということが、私はひとつのメルクマールと言いますか、基準だろうと思っております。

 

 

 4、大須事件前の私の経歴

 

 さて、話は前置きが長くなりましたけれども、私はその一九四五年当時は炭坑におりまして、そこですぐこちらへ残った朝鮮人の方や、炭坑のなかでもけっこう労働運動やって地下へ潜っておった方も若干いらっしゃったもんですから、そういう方々と連絡をとりながら、初めて九州の炭坑で労働組合というものをつくりまして、私は初代の青年部長になりました。そして、占領軍がやってきましてね、そして占領軍のGIというのが入ってきましてね、そして今度は、今までは日本人の権力者がおった、今度はアメリカ人の監督官が来まして、そして朝鮮戦争が始まる前ですから、とにかく日本の炭坑を管理しようということで、いろいろ労働組合活動にたいしても、最初のうちはね、労働組合をつくることについては非常に好意的だったんですがね、だんだん方針が変わってきまして、一九四七年ですから、アチソン声明というのが出てから、要するに反共、共産党にたいするアメリカのやり方が転換しまして、そしてレッド・パージの前哨戦が始まったわけです。

 

 で、私いちばん最初に首切られました。それで、炭坑を転々としまして、そのうちに牢獄から出てきた共産主義者の方々と接触をもって、一九四七年の二月に佐賀県の炭坑の山の中で日本共産党に入党いたしました。当時は、戦争が終わって、治安維持法はなくなったけれども、いまだに炭坑だとかそういう田舎の方に行きますと、共産主義者だとか社会主義者だとかは国賊だという意識が残ってますんでね。ですから、公にできないものですから、山ん中へ、佐賀県の県委員長の波多然さんという人が来て、それはなぜお見えになったかというと、私は朝日新聞に投書を書きまして、その投書を見て、それですぐかけつけて来て、お前共産党に入党せよというかたちで、木の切り株の上で入党申し込みを書いた覚えがあります。

 

 まあそんなことで、その後ずっと、労働運動をやり、それからこの愛知県に来てからは農民運動をやり、それから共産党の常任もやり、いろいろやっている間にですね、一九五二年七月七日の日に、大須事件の、最初新聞に出た時は首魁として新聞記事に出たんですよ、大きな写真入りで出たんですよ。近所の人びっくりしました。あんな一見おとなしそうな人がね、なんで親玉なんだということですね。首魁と出ましたからね。びっくりしちゃってね。まあまだ守山、当時は守山は名古屋市に合併する前ですから田舎でしたよ。ですから近所の人びっくりしちゃってね。それでもやっぱりありがたいですね、私の家内がね、そうやって私がつかまったためにいろいろ苦労している姿見てですね、近所の方がいろいろ運んでくださったりね、これ差し入れ持ってって下さいって言っていろいろやってくれたりしてね、暖かくやってくれましたので、私は大変うれしかったんですけれども、それはやっぱり日常生活の中でね、私も家内もある程度地域で、信頼される活動を、少しはやってましたからね、そういうことはやっぱり、隣がありがたいなと思いましたよ。

 

 5、大須事件による逮捕の経過

 

 さて、私が逮捕されましたのは事件が起きてから一ヵ月以上経ってから、一九五二年の八月三十日の晩でした。八月三十日の私の行動は、朝早く起きて、そして、私の所は事実上党の事務所になっておったんですよ。当時は、事務所というような立派な事務所じゃなくて、党の責任者の家に事務所を置いたんですね。私は当時日本共産党の愛日地区というのがありましてね、愛知県の中でのだいたい農村地帯ですよ。まあ、東西春日井郡、知多郡、それから今春日井市になっているような、春日井市とか、尾張、このへんのとこですね。要するに、選挙区でいうと愛知県の第二区というのがありまして、そこの地区委員会の事務所を置いとったんですよ。

 

 で、私は正式に選ばれた地区委員長でも何でもないんですよ。団体等規制令という法律が出まして、そして共産党の組織は全部役所に届けようということで、私はそんなことはおかしいじゃないかと言っとったんですけれども、当時党の指導部を握っておった伊藤律ですか、あれがそういう方針を出してですね、全部市役所にね、党員名簿を出したんですよ。で、皆パージされちゃったですよ。市役所、もちろん国鉄もそうですし、郵便局とかね、そういうとこ勤めてる連中、全部名簿出したんですよ。全部パージやられちゃったですね。そういうことやったんですよ、当時はね。いわば弾圧されるまでは合法ボケしてましたからね。

 

 そういうことで、私のとこたまたま事務所置いとったんですね。で、選挙に入った。ちょうど八月三十一日に議会が解散になりまして、たしか九月一日ですか、告示で。選挙は十月三十日に投票ということになったんです。で、私は当時愛知県第二区の衆議院議員の候補者の選挙責任者だったものですから、まだ二十五ですか、若造でしたけれども責任者になって、そしてお金集めなきゃいかんということで、私はずっとカンパを頂きに回っておったんですよ。で、たまたまその日は愛知県第二区の衆議院の候補者の方と一緒にですね、その人は全逓出身の方ですがね、その方と一緒に瀬戸まで行きまして、瀬戸は私の家内の在所でもあったんですから、そういう所ずっと回りましてね、カンパを頂いたり、いわゆる朝鮮人のトンムの所行って、けっこうパチンコやってる方いらっしゃるもんですから、そういう所行ってお金をカンパしてもらって、そして供託金がないもんですから供託金をつくって、そして候補者とは守山という駅で別れて、私は自分の自宅までは歩いて帰ってきたんですよ。

 

 帰ってきたのはだいたい十時頃ですかね。そうしたら私の、当時田舎ですからね、あの辺は。井戸があったんです。今水道ですけれども、当時井戸だったんです。その井戸水を汲んで、まだ八月三十日で暑いですから、顔を洗って、体を拭こうと思っとって、上着を脱いだところで、いきなり三人ぐらいの制服の警察官が飛びかかってきたんですよ。で私はね、暗闇ですから制服着ているかどうかわからんもんだから、とにかく強盗だと思ってね、二人ぐらいまでは投げましたよ(笑い)。私は講道館柔道の黒帯ですからね。講道館で柔道をやってましたから、職業柔道家になろうと思ったぐらいですから、投げました。きさま、強盗かってやったらですね、警察だと。警察が何でいきなり強引につかまえようとするのかって言ったら、あなたを大須事件の犯人として逮捕しますと。逮捕状もなしで逮捕できるかと言ったらですね、逮捕状を出したですよ、部長クラスが出て来ましてね、逮捕状見せた。

 

 で、逮捕状見たらですね、愛知県東春日井郡守山町市場百十一番地と、本当は百十一番地が正しいんですが、十二番地って書いてあるわけですよ。ちょっと一本短いんですね。で、酒井博っていう名前が弘が書いてあったんですよ。だから私はこれは俺じゃないと(笑い)。違うよ、と。あなたですよって。あなたですって、間違った逮捕状で人を逮捕したらどういうことになるか知っているのか、刑事訴訟法違反じゃないか、と言ってやったんですよ。そうしたら困っちゃって、部長と相談しましてね、間違った逮捕状でお前ら人を逮捕したらただじゃおかんぞ、と相当こちらもきついことを言ったんですけれども、困ってね、ちょっと待っててください、と。俺待っとらへんよ、って言ったんですけれどもね(笑い)。すぐ、それから走ってね、裁判官たたき起して、そして逮捕状書き直させて、持ってきましたよ、一時間以上かかりましたかな。

 

 その間に家内に家の中片付けるとか下着を用意させておいて、ただ心配だったのは、やはり向こうに渡すとまずい書類を持っておったんですよ。内ポケットに。これだけは令状があれば身体検査やられますからね。まずいなと思って、どうしようかと思っとったんですけれども、ジープで来たんですよ。その頃ね。ジープっていうのはアメリカ軍が乗ってるやつですよ。俺はアメリカ嫌いだから、ジープ嫌いだからジープ乗らん、ハイヤー呼べってやったんですよ。ハイヤー呼べってね、こんな時間にハイヤーなんか呼ぶなんてねえよと。俺電話番号教えてやるから、あそこに東春運輸っていう会社があって、あそこに電話せよと。病人がおるからすぐに運んでくれって頼めと。そう言ったらですね、やっぱりハイヤー呼びました。ですから私は逮捕された時からVIPクラスですよ(笑い)。当時ハイヤーなんてのは呼ぶ力なかったですからね、乗せてもらって、両脇にこういるんじゃないですか。一応右手に手錠をかけられていましたね。

 

 それで私も困ったなと思って、突然車に乗ってからですね、車で出てからすぐですね、あ、俺メシ食うの忘れとった、俺まだメシ食ってないんだ、メシ食わせろと。あんたご飯食べてないんですかと。メシ食ってないんだと。お前たちメシを食わないで俺を逮捕してメシ食わせないというのは拷問と一緒じゃないか。そうです、じゃあどうしましょう、それなら役場の前に行けと。あそこの役場の前にパン屋があるから、あれは俺の知っているパン屋だからたたき起こして大きなパン買ってこいと。当時はコッペパンの大きなのがありましたよ。フランスパンみたいな大きなのが。それ持ってこい。とにかく、向こうはおとなしく逮捕したいものですから。パン屋起こして、パンをもってきました。私は、パンを食べながら、一緒に食べました。どうもそれ以来胃の調子が悪い(笑い)。そういうことでですね、もう大丈夫だ、もう心配ない、ということになりましてね、腹がすわりましたよ。

 

 で、連れていかれたのは千種警察署ですね。今でも場所は一緒です。建物は立派になりました。当時はもっとボロボロだったですが、戦前からの古い建物でしたから。その千種警察署のブタ箱ですね、あれは代用監獄と言うそうです、正式には。これは監獄法という法律があって、明治時代にできた法律なんですが、本来は、逮捕したりあるいは身柄を拘束した者はですね、正式の監獄に入れるということが建前なんですよ。ところが何らかの事情で、たとえば向こうが満員で入れないとかね、あるいはどうしても取り調べ上拘置所に移せないという場合に限って、裁判所の許可の下に代用監獄を使うことができるというのがあるんですよ。それで結局ブタ箱ですね。結局それはね、取り調べしやすいんですよ。

 

 拘置所に移しますと一応お客さんですからね。そしてちゃんと手続きとって呼び出して、そして面会室で面会する、取り調べ室で調べるということになりますと、刑務官も立会いますから。そうすると警察は自分たちのやりたいことができないんですよ。警察の中だと密室ですし、自分たちの仲間ばっかしですから、やるんですよ。拷問やるんです。あるいは脅迫もやる、どんなことでもやるんです。それはもう、きょうビデオで出てきた吹田事件の、メーデー事件の、あるいは菅生事件の、その他の弾圧事件、全部そうです。拷問やっているんですよ。もう新憲法の下でそんなことないだろうと、皆さん思うかもわからないけれど、やるんですよ。今でもやっていますよ、そういう拷問は。ただ傷を残さないように、証拠にならないようにやるんですよ。

 

 女の方でもひどい凌辱を加えるんですよ。頭の毛引っ張ったりね。あるいはセクハラ、どころじゃないですよ。ひどい侮辱を加えたりするんですよ。それは詳しいことは避けますけれども。ただ私はね、最初に抵抗している。そしてつかまってからも、千種警察署に連れて来られ十一時頃でしたかね、すぐ取調室に私を入れようとしたんで、拒否したんです。時間見ろと、いま十一時過ぎじゃないかと。労働基準法違反だと(笑い)。そうたいして勉強していなかったけれども。そんな時間外労働はいかんと。寝る時間だから帰せと。向こうも何とかしゃべらせたいもんですから、そうか、じゃあきょうは休んで下さいと。

 

 で、朝九時に迎えに来ましたよ。朝九時から取調べ。座らせて、名前と住所、ということですね。で、私一切無言です。要するに自分の名前も言わない。住所も言わないことからスタートしたんです。向こうは知ってるかもわからんね。しかし、知ってるからいいだろうといって自分の名前と住所を言うっていうことは逮捕を認めることですからね。私は逮捕は不当逮捕だと思っていますし、認めてませんし、憲法違反だと思っていますから、一切名前も言いません。ですから、千種警察署、拘置所、四番という名前で通っていました。名前じゃなくて番号ですよ。

 

 それで私は、当時はある程度弾圧を覚悟していましたから、多少の刑事訴訟法を勉強していました。ですから、二十三日間がんばればいいんですよ。警察での拘留は、四十八時間が限度なんです。二日間で釈放しなきゃいけない。それで、検事拘留っていうのがありまして、一回で十日間、二回目申請すると二十日間。その二十日間の間に検事は起訴しなきゃならない。起訴できないときは釈放しなきゃならないんです。つまり起訴するためには、本人の自供なり証拠なり、そういうものがなきゃできないでしょ。見込み逮捕ですから。ですから二十三日間がんばればまず大丈夫だと思って、がんばりまして、一言もしゃべらないで二十三日過ごしました。そして身柄を拘置所に移されました。もっともその前に拘留開示っていうのがありまして、いま言った通り、検事拘留になる前にですね、四十八時間の警察の拘留が終わって、三日目ですね、裁判所へ行って、そこで拘留開示ってやるんですよ。つまり、なぜ拘留しなきゃならんかということを検事が裁判所に認めさせるんですね。

 

 で、取調べのためにどうしても十日間必要だと。そして、十日が過ぎたらもう十日間必要だということで、二十日間の検事拘留の期間をとるために拘留開示公判という、まあ公判といっても裁判官が部屋に行ってそこで一通り検事の言うことを聞くだけのことなんですよ。で、私は裁判官から言われました。あなたはどうされますかって。僕は不当逮捕だからすぐ釈放してくれと、裁判官にたいしても言いました。だから、不当逮捕にたいして抗議をし、釈放を要求するっていうこと以外のことは一切しゃべらなかったです。

 

 ところが検事拘留の寸前になってから、いよいよ最後の起訴の段階になってから、三日ぐらい前だったと思うんですけれども、弁護人がやって来たんですよ。それは特別弁護人です。名前は言いませんけれども、共産党の国会議員です。その方が見えてですね、酒井同志は間違って逮捕されたと。酒井同志にはアリバイがあるんだし、間違って逮捕されたんだから、君はおそらく選挙のための、君は選挙事務長やってるもんだから、選挙終わったらすぐ出れるから、自分の名前だけ言えと、そうすればすぐ釈放されるぞと言って、その党の国会のバッチ付けた国会議員を、県の委員でもありましたから、上部の一応方針ですから、そうかと。とにかく俺も早く出て選挙活動やりたいということでですね、一応名前と住所だけ言いました。

 

 これ失敗でしたよ。名前と住所言ったために起訴事実つくったんですよ。AとかBでは起訴できないからね。それは見通しを誤ったのね。つまり、非常に甘い考え方で、彼らは間違って逮捕したわけでもなければ、選挙弾圧でもないんですよ。もちろん直接的には選挙弾圧ですよ。私は選挙事務長やってますしね。その結果、選挙はガタガタになって負けて結局全滅しましたからね、共産党は。直接的には確かに選挙にたいする弾圧であったことは事実だけれども、本当の狙いはそうじゃないですよ。本当の狙いは、酒井博っていう男をシャバに出しといたらまずいと、とにかく逮捕して何とかこいつを非国民にデッチ上げて、そして刑務所へ葬ってやろうという、要するに権力側の、彼らはターゲットと決めたら必ずやるんですよ。間違って逮捕なんかするわけないですよ。

 

 それは非常に認識が甘かった、党の指導部も甘かった。名前言ったために起訴されました。ところが起訴状見たらですね、酒井博は当日大須事件の会場におったというだけなんですね。そしてデモにワッショイワッショイ出てきて参加したということしか書いていないですよ。これは客観的な描写であって、私はそこで何をしたかって、そこ書かれてないですよ。だから私が何したかって書かれていない起訴状なんて無効だと、それでどうして騒擾の首魁になったり指揮官になったりするんだということですね。で、あとでわかったことですけれども、実をいうと私を起訴したのはね、スパイの裏切りなんですよ。裏切りじゃなくて、スパイは自分自身仕事を忠実にやった(笑い)。ごほうびもらえると思うんですよね。

 

 つまり当時日本共産党の中には、正規の機関がありまして、当時はほとんど半ば非合法状態、ほとんど活動は非公然な状態でしたから、党の中央の方には中央臨時指導部というのができまして、これは後に問題になる、徳田さんを中心とする一方の、主流派と言われている人たちがつくっていました。それは六・六追放でパージされた後で臨時指導部が実際に共産党の中央指導部の役割を果たしたんですがね、そのずっと下の機関が、県委員会もあり、名古屋市委員会があり、私共の愛日地区委員会があって、私は団体等規制令の関係で名前だけは地区委員長をつとめていたが、実権も何もないんですね。実権は誰が握っているのかというと、ビューローというのがありまして、このビューローがじっさいに指導権を握って指導する、私たちは名前だけなんです。

 

 つまり大衆運動の中でやってますから、私は当時春日井を中心とする農村の指導をやっていました。農民運動やっていましたんでね。アメリカ軍の麦の供出反対闘争なんか指導していまして、春日井市役所で千人ぐらいの農民集めて農民大会開いてね、そしてアメリカのジープがやって来て、お前たちはアメリカ軍にたいして麦の供出をやれと言ってきたんですよ。で、麦の供出にたいして協力しない連中は手を挙げろとやったんですね。誰も手を挙げなかったですよ、恐いからね。連れていかれるから。そうしたらその時まっ先に手を挙げたのがいますよ。それは当時党の農民組合の書記長もやり、日本共産党の細胞の責任者だったA君という男ですね、これがパッと手を挙げました。勇敢ですよ。そうしたら、他の党員も皆手を挙げました。それから組合員の連中が手を挙げました。それから組合員でない一般の、結局最後は全部手を挙げちゃった。私感動しました。

 

 そうしたら、マーチンという中佐ですよ、東海北陸民事部のマーチンという制服着た奴がですね、寄ってきてね、怒ってね、ジープ乗ってほうほうの体で帰っていきましたよ。追っぱらったんですよ。そういう闘いもやりました。ですから彼らにしてみりゃあ、私は共産党員であり党の地区委員長だとか何だとか、あるいはそういう選挙の責任者だどうだということじゃなくて、大衆運動の先頭に立ってやり、あるいは大衆運動の中にあって闘っていく人間だからこうやったんです。はっきり言えばGHQの命令ですよ。そういうことをはっきり、中へ入ってからわかったんですけどね。

 

 その時まっ先に手を挙げた人がね、何と今ね、自民党の幹事長ですよ。この前会ったんです。古い同志が皆集まって、俺は変わっていない、共産党が変わったんだ、こう言っていましたよ。本当に農民のためにということではしょうがないんでやってきたと。しかし土地解放後、農民運動やっていく中で、共産党がおかしな方針出してね、いわゆる反封建・反帝の革命だということで、要するに農村に行って農村にいる封建的な地主をやっつけろということでやったと。伊藤律、当時農民部長やっていたんですが、あれが先頭に立ってね、名古屋に来まして名古屋タイムズですかね、会館で演説やってですね、どう言ったかというと、「山のあなたの空遠く 幸住むと人の言う」これはカール・プッセなんですよね。彼は一知半解で、「山のあなたの空遠く 反動住むと人の言う」って言ってですね、つまり山の中に反動がある、山の中に封建勢力があって、この封建勢力を打倒しなければいけないということで、後に山村工作隊になるんですけれども、そういう演説やってですね、要するに農民の中に敵をつくる、農民の中に地主階級や富農とか、要するに封建的な勢力があるからこれをやっつけなければ日本の変革はできないという誤った方針出したわけですね。

 

 それをまともに信じこんでその時山の中に行けということでね、それで信濃のあのへんが、ちょうど酸性土壌地帯であのへんはきっと貧乏な農村があるからあそこに敵がいるだろうというんで皆山の中へ行ったんですよ。で、敵がいくら探してもいないんですよ。日米反動勢力を探して歩いたんですよ。しょうがないからどっかその辺の一番金持ちらしい家に放りこめということで、そういう所に火炎ビンを放りこんだりなんかしたんですね。まったく指導部が間違っているというのはそういうことなんですよ。しかしやった連中はまじめに敵を探して歩いたんですよ。それは笑い話ですよ。それから今言った農民運動やってた人たちが後に自民党に入ったということはですね、要するに日本の農民運動の失敗なんですよ。本来はそういった方々が中心になって日本の正しい農業政策を持っていればですね、今日のようなことにならなかったんですが、当時の方針が誤ったために農民を敵にしてしまうという悲惨な結果になりました。

 

 6、酒井博への起訴状

 

 昔話になりましたからあれですが、さて私の問題ですが、私が起訴状を見てびっくりしたことは、私がいつのまにか指揮官になっているんですね。あの大須球場で、デモ隊を指導し、そして火炎ビンとかこん棒とかプラカードとか石ころとか、そういうようなものを全部集めさせて、それを私が指示してね、どこどこへ持ってけということを指示した人間になってるんですね。で、その調書ができたのは、じつをいうと、共産党の中に入っておった、名前はいま言いませんけれども、生きているかもわかりませんけれども、Uという男なんですよ。瀬戸の生まれで海員出身なんです。彼は日本共産党の中央委員の田中松次郎の紹介で入党したお墨付きの人間なんです。ですから、もう入党した時からいばってましたけれどね。

 

 彼が党の愛日地区の軍事委員長、これも名前言いませんけれども、そのテクをやっていた。テクっていうのは技術部のことです、いろんな技術的なこと準備するんですよ。火炎ビンとかいろんなことも含めて準備するんですね。テクって言っとったんです。連絡員もやっておったんですね。この男が実はスパイだったんです。で、彼の調書はこんなにあるんです。春日井、当時は国家警察って言いましたが、国家警察の春日井地区署に自首して出て、そして調書をこれだけ作ったんですよ、毎日のように。調書を書くたびにおいしいのを食べさせてもらったらしいですよね。後にわかったことで、彼はいろんな党の文書や、特に非公然や非合法の文書ありますが、そういうものを高蔵寺の鹿乗亭という、今でもありますけれども、そこの料理屋で国警の連中、公安の連中と会ってそこで一枚渡すと二百円ぐらいずつもらっていたというんですね。そういう情報を売っとったんですよ。

 

 それだけならまだいいんですけれども、大須事件の時にですね、実は彼も参加してるんですよ。で、彼の調書によるとこれぐらいの調書があって毎日軍事委員会というのはどういうことやった、って書いてあるんですよ。軍事委員長の、Mという男がですね、非常に戦闘的で、彼ならばきっと党の方針通りやるだろうというようなことも書いてあるんですね。そういう調書とられているんですよ。Mという男はずっと調書の中に全部出てくるんですよ。軍事委員長ですからね。ところが彼は逮捕されていないんですよ。もちろん彼も逮捕されていないし、自分で自首して出て、そして結局彼はその功労によって起訴されなかったんですよね。彼の親分の軍事委員長も逮捕されていないんです。

 

 7、大須事件現場の状況

 

 それで後に法廷になってから第一審の法廷で私も不審に思いまして、なぜ私の名前が出てきたか調べてみたら、最後の検察庁でつくった検察官の調書の最後の一枚に私の名前が突然出てくるんですよ。M君に代わってね、私がいきなりトップにきて、私が全部指示して、現場でいろんな武装活動の準備をしたっていうことになっているんですね。で、これはおかしいということで、法廷にUを呼んだわけですよ。私が徹底的に追及しました。法廷で。その日何をやっていたか、どうだったか。お前は火炎ビンを持っていったか―持っていきました。火炎ビンどうしたか―途中で捨てましたというんだね。どこへ捨てたか―忘れました。そして彼はデモの先頭におったことは事実なんですね。

 

 ですから、これは推理ですがおそらく彼がいちばん最初に、さっきガラスが破れてなかったでしょ。だからあれは外から投げて爆発したんじゃなしに、内部発火説。もう一つは、どっかの窓を一つ開けといてね、そこに放りこんだんじゃないかという説。いろいろあります。とにかくデモ隊が投げた火炎ビンで放送車が燃えたという証拠は何一つないんですよ。ですからたぶんおそらくUがやれやれということで先頭にたってやって、そしておそらく警察側と打ち合わせのうえで程よいところで火炎ビンを放りこんだんじゃないかと。そして清水栄が降りて来て、拳銃を、逃げていく、最初の発射の時には皆びっくりしちゃってね、それでもうワーッと隊列がくずれて、そして逃げていく、空地の方に逃げていこうとするのを、追ってって、撃ったということを、言っているわけです。

 

 申聖浩(シン・ソンホ)君は、十八歳の半田高校の三年生ですか、盲管銃創って、後ろから撃たれているんですよ。これはね、警察官等職務執行法だとか、拳銃取扱い規則に違反しているんです。逃げていく人を撃っちゃいけないんですよ。向こうが立ち向かってきて、もし拳銃を発射しなければ自分の生命なり周囲の生命が危ないという時に初めて拳銃の発射が許される、その前にちゃんと威嚇をやるとか、あるいはやむを得ない場合でも致命傷にならないように足を撃つとかね、いうことしか許されていないんです。それを違反してね、逃げていく群衆に向かって、しかも申聖浩君は少年ですよね、学生ですよ。それを後ろから撃ち抜いているんですね。これは許せることじゃない、殺人だということで、私たちは法廷でもそれを追及しました。

 

 大須事件で不思議なのは、先ほどビデオに出てきましたけれども、あの拳銃を最初に発射して、そして他の警察官が一斉に群衆に向けて無差別に水平射撃をやらせたその張本人である清水栄という警視、中署の少年防犯課長をやっとったんですよ。少年防犯課長が少年殺したんですよ。とんでもない奴ですよ。これが、翌年から始まった公判の最初の証人として私たちは申請して、彼がなぜ拳銃を発射したかと、発射するという状況について私たちが追及しようとした時にですね、その次の公判から彼は出てこなくなったんです。最初のうちは病気とか何とか言ってましたけど、結果的に失踪してしまったんです。いまだに出てこないです。五十年経ってもね。

 

 彼は事件直後には表彰されたんですよ。県警本部長賞もらってね。功労者だったんです、彼はね。その功労者がなぜ失踪するんですか。彼は警視だったけれど、そのままずっと彼が表彰されておれば警視正になってね、署長にもなれた人間ですよ。出世コースを歩む人間がなぜ失踪したか。それから私を現場での総指揮官に祭りあげたUという男もね、失踪しているんです。最初の公判で私が彼を徹底的に追及した時、スパイだったことを認めたんです。それで、スパイだということを彼が認めて、つまり私をデッチあげたことを自白したもんですから私は今まで首魁、騒擾指揮官という、非常に高い位だったんですけれども、軍隊で言うなら司令官だったんですが、バーンと落っこっちゃってね、一等兵になっちゃったんですよ。位下がっちゃった。附和随行になっちゃったんです。これは名誉毀損ですよね(笑い)。

 

 最高指揮官である人間が、軍隊でいうなら陸軍大将か何かがいっぺんに兵隊になっちゃったんだからね、私はこんなバカなことあるかって言ってやった。そういうふうに変更したんです。私が指導者だということで起訴したんでしょ。ところがじっさいには何も証拠もないし、ウソのスパイの自白だっていうことで私を犯人に仕立てたわけですから、そいつがスパイだったということは当然私は無罪になるんですよ。本来ね。無罪にできないんですよ。あれ無罪にすると大変なことになるってわけでね。それで、恥ずかしながら、罰金二千円で、それを払わなくていいんですよ、執行猶予がついたんですよ。二年間の。罰金に執行猶予がつくなんてないですよ。今でいうと十万円でしょうね。覚えておいて下さい。騒擾罪の時は十万円です。附和随行でいちばん軽い刑で。だけども起訴された時は懲役2年の求刑をされました。

 

 8、私の事実上の無罪と26年間の公判闘争

 

 そういうかたちで、私は自分でアリバイを晴らし、スパイとたたかい、法廷で自分の身の証しを立てて事実上の無罪はかちとりました。しかしその間、私は二百三十五日間の独房生活をしなければならなかったし、その後、一審・二審・三審、最高裁まで合わせて二十六年間にわたって公判闘争をやらざるを得なくなったんですね。私の青春、私の青年時代はこの裁判闘争のためにほとんど費やされてきました。しかしそれは私はけっして悔いてはいないんです。一人の共産主義者として、一人の人間として、一人の、はばったいことを言えば革命家という言葉を使わせてもらいますが、革命を志す人間として、権力と闘って二十六年間、よくも闘ってきたなといって自分で自分をほめております。もちろん過ちもありましたし、いまだにまだ自己批判は十分だとは言えませんけれども、しかし少なくとも権力にたいしては私は一歩も妥協せず闘いぬいてきたという自負心はいまだに抱いております。どうかそういうつもりで前半の話はこれで終わります(拍手)。

 

 9、法律を勉強しておく必要性

 

 僕は一九二六年生まれですから、この八月で満七十六歳、数えでいうと七十七歳。この前友人が集まって喜寿の祝いというのをやってくれました。家内と結婚式やりました。結婚式やってなかったもんだから(笑い)。そういうことでこれから私の人生がまた花開くなと思って楽しみにしておりますけれども、体の方が何かいうこときかないんで。皆さんにお勧めしたいんですがね、私はいつもね、必ずこれ持って歩いているんです。六法全書。この中には憲法・刑法・刑事訴訟法・民法・民事訴訟法・商法、六法が入っていますね。やっぱりね、権力と闘う時にはね、そんなに専門家になる必要はないかもわからんけれども、憲法に書かれている人権条項、刑事訴訟法に書かれている人権を守るためのいろいろな、法律的な、私たち国民に与えられている権利ですね、こういうものをやっぱり勉強していく必要ありますね。

 

 私も当時は一応党員でしたから、勉強して、弾圧との攻防場面なんてものを自分なりに勉強していました。だから闘えたんですよ、ある程度ね。非常に未熟な闘い方であったけれども、それでも突っ張ってこれたんです。ですから、ブルジョア法律であろうと何であろうと法律がある以上はその法律は武器になります。これを武器にして闘う。「法の目的は平和である、だがそれに達する手段は闘争である」という有名なドイツの法学者のイェーリングという人の言葉があります。やっぱりそういう法哲学というものを勉強しないと、法律というのは使えないんです。法律はあくまでも闘うもの、闘うことによって法律は実現されるんですね。法律が守ってくれるんじゃないんですよ。法律を武器として自分の権利を守るために日々闘っていくということをね、一切の不合理なもの、いっさいの不当なもの、いっさいの人権じゅうりんにたいして抵抗するっていう精神さえあればですね、やっぱりすばらしい武器になるんですよ。

 

 今の憲法があるっていうことはすばらしいことなんでね。昔は憲法なかった時代、たとえば治安維持法時代でも闘った人たちいるんですから、私たちは憲法というものもっているんですから、この憲法というものをもっとわれわれはね、使ってかなきゃいけない、そう思っております。で、私は獄中で刑事訴訟法を勉強してね、いちばん最後には看守連中集めて刑事訴訟法の講義なんてやりましたよ。

 

 10、出獄

 

 ですから私が出獄した時にですね、すぐ共産党の県委員長が来まして、君ご苦労さんでした。じゃあ明日から県委員会の方に来て常任やってくれって言われたんですよ。で、私は断ったんですよ。刑務所に一年近くおった人間がですよ、そんな出てきたからってね、党の幹部になったり、人を指導する立場にはないし、私自身もね、やっぱり労働者の皆さんから支援してもらって、私の保釈金を出してくれたのはね、共産党じゃないんですよ。私は自由労働者の皆さん、ニコヨンと言われた自由労働者の皆さんと、朝鮮人のアボジやオモニの人、私がずっと赤旗、平和新聞、解放新聞、配ってましたんでね。

 

 朝鮮の、当時朝連が出しとった解放新聞ですね、そういうもの赤旗と一緒に配っておったんですよ。そういう関係で朝鮮人のアボジやオモニのとこ行くとですね、トンム来た、メシ食ったか、って言うんですね。それでいつもどんぶりにメシをついで食べさせてくれるんですよ。そして今度はドブロクをいっぱいね、飲めって言って持ってくるんですよ。私酒飲めないんだけどね、せっかく出したもの飲まないわけにはいかん、飲むともう酔っぱらっちゃってね、赤旗配りで途中でね(笑い)。そういう彼らの、朝鮮人の諸君に私感心するのは、そういう活動家とかね、あるいはそういう世のため人のために闘っている人にたいしては敬意を表するんですね。そして自分の食べている物でもそうやって分けて、……メシ食ったか、って言う。日本人だったらそんなの失礼だ、俺メシぐらい食ってるわ、と言うところですけれどね。彼らはそうじゃないですよ。やっぱり虐げられて、本当に自分たちの苦しさっていうことをね、知っていますから、他の人にたいしても、特にそういう活動している人にたいしては尊敬の念を持って、そして私が行けばやれ食べてくれ飲んでくれ、飴つくったから飴食べてくれって言ってね、カンパしてくれるんですよ。

 

 私が入獄した時もそうなんですよ。当時二百円の保釈金出せなかったんですよ。で、家内が自分で着物を全部売ってですね、二十円か三十円つくってですね、あと頼めるのは朝鮮人の自由労働者や、そういう労働者諸君のカンパなんですよ。それで私は出獄できたんです。だから彼らに頭あがらないんですよ。ウチのかみさんにも頭あがらないですよ、いまだに。何かいうとあんた誰のおかげで……と言いますからね(笑い)。共産党には頭あがりますよ。一銭も出してもらってないからね。見舞いにも来なかったからね。厳しい中でね、拘置所に面会を求めに来るっていうことになれば、一応にらまれますからね。当時はね。名前も書けでしょ。どういう関係だとか言いますからね。そういう中でも見舞いに来てくれた労働者や朝鮮人のトンムやアボジやオモニの人たちに私はほんとにね、励まされてがんばれたわけです。私一人でがんばったんじゃないですよ。そういう人たちの支援があったから私はがんばったんですよ。がんばれたんですね。やっぱり人民との関係、労働者との関係ね、自分たちを支えてくれるこの母なる、何というんですかね、大地というかな、大きな人民との連帯の中で私は闘えたんです。そのことを考えないと、やっぱり英雄主義になりますからね。

 

 11、出獄後の共産党による査問

 

 さて、二百三十五日の独房生活終わって出獄できました。出獄した時にですね、共産党の県委員長がやって来まして、党の常任になれ、と。私は断ったんですよ。私はニコヨンになる。これから自由労働者になってね、働くと。これから就職もできないだろうからということで、ニコヨンになりました。そして党の常任を断ってから一ヵ月後ぐらいにですね、呼び出しがありまして、名古屋市委員会の方から呼び出しがあって、これから酒井同志の査問を行うからってことで、それで名古屋には民主会館というのがあるんですけれども、そこで査問を受けました。

 

 で、私は出てったんですけれど、おかしいじゃないか、俺は愛日地区の人間だよと、何で名古屋市委員会は俺を査問するんだ、って言ったら、いや県委員会の委任を受けているって言うんですよ。県委員会の委任を受けているっていうのは県委員長の指示でやってるって言うんですね。昨日までは僕を常任にしようと言っとった人が、今度は私を査問にかけるって言うんですね。で、私不思議に思いました。だけども一応県委員会の委任を受けて君をこれから査問するから、これから俺の質問に答えろということですよ。

 

 それでその査問の内容は何かというと、酒井同志は獄中でですね、看守と仲良くしとったと。これは裏切り行為ではないかということですね。それから二番目に、ある同志は毎日のように拘置所のガラス窓を叩き破って闘ったと。酒井同志はそういうことをしなかったということなんですね。で、ガラスの問題については私はすぐ、おかしいじゃないか、あのガラスの厚さは二十三ミリぐらいあるんですよ、厚いんですよ。それに鉄線が入ってますからね、そんなものゲンコツで破れるわけないですよ。こん棒でも破れませんよ。そんなものを破ったなんていうのは、誰に聞いたかわからんけど、そんなことはお前も自分で拘置所に入ってみろ、もしあれだったら、いっぺんやってみろと言ったんです。できっこないです、そんなことはね。

 

 またそんなことやったって無意味なんです、やれば必ず懲罰受けますからね。懲罰受けて、両手縛られて、放りこまれてね。犬みたいな生活させられるんですよ。そんなバカなこと、そりゃ権力と闘うためにやる場合はいいですよ。場合によっては。だけど何もないのに、毎日ガラスなんか叩き割る必要はないしそれは国民の税金でまたやるんですからね、そんなアホなことやる必要はないと。で、二番目の刑務所の中の看守と仲良くするっていうのは、これは事実です。最初入った時にはずいぶん彼らもね、おおぜい入っていましたからね、あの名古屋拘置所の中には。今の拘置所はね、マンションみたいな、立派になってね。ちゃんとエアコンも入って。当時はそんなもんなかったです。昔の旧庁舎の頃はね。

 

 で、畳だいたい一枚半ぐらいの所で生活する。周囲は壁ですよね。何もないです。そういうとこで、毎日壁と向かって、だんだん言葉忘れちゃうから壁に向かって演説やってましたけれどね、毎日ね。自分で原稿書いて壁に向かって「裁判長!」ってやって(笑い)、そういう勉強しながら法廷に出ていってはまた大きな声でやっとったんですよね。で、そのうちにですね、看守の連中も政治犯で入った連中にたいしては特別な眼で見ていましたね。彼らは何でこんなとこ入ってきてんのかと。暇があると本ばっかし読んで物を書いている。普通の刑事犯で泥棒や強盗や殺人で入ってきている連中とちょっと違うなということですね、彼らにとってもやっぱりカルチャーショックなんですよ。戦争中は別ですけど、戦後はこれだけの大量の、彼らからいえばいわゆる極悪な、悪名高いアカの連中がこれだけ入ってくるっていうのはやっぱり彼らにとってはショックだったんですね。

 

 ですから毎日私たちの生活を見ているんですよ。ただ問題は私たちがきちっとした中で生活態度をもって、そして不法なことにたいしては断固として抗議すると、「部長を呼べ!」「所長を呼べ!」とそこでやるんですよ。それで抗議をすると。たとえば一週間にとにかく一回しか入れないけれども風呂を三日にいっぺん入れよとか、あるいは食事の量が悪いとか、計算するとどうも拘置所で実際に食費の計算、当時が十一円か十二円ですよ、一日の食費がね、それにたいして俺が計算したらこんなもの五円か六円だ、けしからん、どっかでピンハネやってんじゃないかとか、とにかくあらゆることを取りあげてやるわけ、中でね。

 

 12、看守の状況と看守の待遇改善要求を代弁

 

 そのうち気がついたことはね、看守連中の中にも不満があるということなんですよ。彼らはね、たとえば私が知ってる若い看守はですね、胸を、テー・ベー(結核症)になっちゃってですね、本当は医者にかかって入院しなきゃならないし療養所に行かないといけないんだけど、なかなか許可が下りないって言うんですね。四十八時間勤務ですから。冷たい、夜は本当に冷えるし、冷えこんでしまってね、本当に冷蔵庫みたいなとこですよ。そういうところで勤務していますから、みんな胸やられちゃうんですよ。空気は悪いしね。今ではだいぶ良くなりましたけれどね。そういうところにいますから、彼らもやっぱりね、相当ひどい、安い給料で劣悪な長時間労働やらされて、今でいうと過労死寸前なんですよね。

 

 ですからそういう状況を私、目で見ていますからね、そういうの取りあげて刑務所長に面会求めて彼らの待遇改善やれと、彼らが待遇改善されていない限りは彼らはやっぱり苦しいもんだから結局そのはけ口がないからそれを囚人やわれわれみたいな未決の人間に向けてくるんだと、その彼らの不満やいろんなものを、上にいかないで下に来るんですよ。漬物と一緒だと。大根あるでしょ。重なっているんですよね。一番上にボンと大きな権力の石が乗っかっているわけ。昔の軍隊そうですね。つまり、自分が弱いからまた自分より弱い者をいじめる、さらに下もいじめる、という関係なんですよ。こういう構造があるんですね。日本の権力機構の中には。

 

 で、私たちは彼らだって労働者あるいは農民の出身だしけっして彼らは偉くなろうと思って、エリートになろうと思ってなったんじゃなくて生活の手段で入ってきているんだから、彼らも広い意味では労働者だということでね、とりあげまして、そして裁判所に「裁判長、われわれ被告団の要求として拘置所の中の刑務官の待遇が非常に劣悪で、病気となっても入院できないという現状があります。ですから彼らが職務を果たせるように十分健康に留意するように刑務所長にたいして、拘置所の所長にたいして勧告してほしいと。だから待遇改善も要求します」という風にやるんですよ。私たち自分の要求も出しますけれどね、彼らの要求も取りあげるんですよ。

 

 そういう一般の中に入っている雑居房におる連中ね、この中にはコソ泥もおるし空き巣もおるしいろんな連中いますけれどね、彼らだってやっぱり労働者なんですよ。間違って、いろいろ過ちを犯したかもわからんけど、彼らも同志ですから。彼らの要求も取りあげて、たとえばちゃんと風呂へ入ってももう服脱いで、入ったらすぐあがりでしょ。そんなことじゃ、体洗えんじゃないかと。せめて十五分か二十分ぐらいはちゃんと風呂に浸からせろと、そうしないと風邪引くじゃないかということで、風呂の要求だとかメシの量が少ないだとか、いろんな要求どんどん取りあげてやりました。

 

 ですから、僕らのおる間はですね、あまりひどいことは看守もできなかったんですよ。だから僕ら解放区だ、解放だと言ってましたけれどね。獄中細胞つくりまして、そこでいろいろ私が、きょうはメーデーだからみんな一緒にやろうということで、独房でですよ、「聞け万国の労働者」皆やれって、そうするとそのへんの雑居房におる泥棒やら空き巣の連中も一緒になって(笑い)やるんです。そうすると拘置所の部長とか所長クラスとか皆飛んできて、静かに静かに、とやるんですけど、やれやれって、やめないんですよ。そういうことやりました。中で。

 

 ですから、そのうちに看守連中も考え方変えてね、全部じゃありませんよ、やっぱり古いそういう権力の言う通りに動く連中もいますけれども、そうではない若い看守の連中は、酒井さん、何でも用事があったら言ってくれと、奥さんへの連絡でもしてあげますよと。さすがに私はそういうことは頼まなかったです。もしそういうことやれば彼刑罰受けますからね、できませんけれども、しかしそう言ってくれることは非常にうれしかったですね。その代わり、この本をあそこの房の誰か、同志のとこ持ってけと、言えば持ってってくれるんです。向こうから本借りてこいと言えば、そういうことは中で自由にできたんです。

 

 それで中には、明日部長の試験があるんだけどここんとこどうしてもわからない、昇進試験があるんだけれど刑事訴訟法持ち込んでもわからないんで教えてくれということで、教えてやるんですよ。それから、刑法の勉強するんだったら誰の本読んだらって言うんで、そりゃ団藤重光の本がいいとか、あるいは民法だったら宮沢俊義のダットサンがいいとか、あるいは憲法だったら、ちょっと気に食わんところはあるけれども金森徳次郎がいいだろうというようなかたちで、いろんな本の紹介をしてやるんですよ。そうすると一生懸命、合格しましたと言ってお礼に来るんですよ。その日だけは弁当をこっそりこう持ってきてくれるというかたちでね、で、先生と言われたんですよ、中で。

 

 まだ二十六歳で、私より年寄りの人が私のことを先生と呼びました。まあ今でも先生という仕事やってますけれども、当時刑務所におる時から先生と言われてました。つまりそういうことなんですよね。つまりわれわれは革命家として、あるいは共産主義者として、権力とは闘うけれども、権力の末端におって、労働者や農民の出身の連中もいるんだから、彼らにたいしてはわれわれは偏見を持たずに、彼らが間違ったことをやった時には断固として抗議をしてやるけれど、そうでない時にはわれわれはむしろ彼らを教育していくという立場でやりました。ですから私は保釈が決まって出る時にはね、その看守が二人ばかり来ましてね、酒井先生本当にお名残り惜しい、また来てくださいと(笑い)。本当にお世話になりました、なんて言って、私たちはいざという時どうしたらいいんでしょうか、って聞いてきた。

 

 いざという時というのはどういうことか、それは酒井さん、あれじゃないですかって言うから、あ、そうか革命の時か、お前らとにかく全部あれを開ければいいんだ、みんな釈放すりゃあいいと(笑い)言いましたよ。ずいぶん乱暴な議論ですけれどね。だけどね、それぐらいのことは言えるところまで、わずか二百三十日ぐらいの期間でしたけども、なったんですよ。それは共産党の幹部諸君からいえばよくないんですね。私は基本的にはね、ああいうデモなんかの時に警察官や、もちろんこん棒振るってくる奴にたいしては徹底的に闘いますけれども、そうでない限りはね、働く人たちの立場に立って交通整理やったり、年寄り・困った人たちを介抱したりすることについては私たちはね、それをちゃんと評価し、認めてやらないといけないと思うんですよ。すべて役人が敵だったら日本人では革命はできませんよ。

 

 結局軍隊とか下級警察官とか、そういういわば一番下を支えている連中が皆人民の立場に立って、そして姿勢を後ろ向きになればいいんですよ。ロシア革命でも、全部そうでしょ。銃を人民に向けないで後ろに向けたんでしょ。それが革命なんですよ。だからわれわれはそういう格好でやらないと本当に少数だけで終わってしまうんです。やっぱり多数の、多数の党員を増やすことじゃないですよ、多数の人たちから愛され信頼されるような運動をやることなんですよ。そうすることが大事だよ。だから私は土屋文明の歌が好きでね、いつもそういう歌を、困難な時はいつも自分で思い出しました。「少数にて常に少数にてありしかば、一つ心を保ち来にけり」っていう歌なんですね。

 

 それからイエスの言葉の中に、われ一人ある時にもっとも強し、私は一人でおる時にもっとも強いんだという言葉があります。つまり自分は一人になった時一番強いんだということなんですね。これはけっして、孤独になるってことじゃないんですよ。つまり自分というものをね、自分というものの生き方、生死、正しいと思うことをですね、けっして自分の志をわれわれは捨てないということですね。いろんな方針とかいろんな運動上の過ちは避けがたいです、人間ですから。しかし、自分は人民のために、平和のために、そして人類の本当の幸せのためにという気持ちがあればそれは一生涯貫くべきだということなんですね。その精神でやってまいりましたし、間違いもたくさん犯しましたけれども、絶えず私を正しい道に戻してくれるのはそういう精神の、自分にたいする、イエスの教えでもあり、またわれわれの先輩たちのいろんな教えであります。

 

 13、国民救援会運動参加と共産党の妨害

 

 で、私は牢獄から出てきてから一番最初にやっぱり国民救援会に戻りまして、国民救援会の運動に参加して、それから松川裁判闘争、白鳥事件の、冤罪の、村上国治さんの救援運動、あるいは帝銀事件の問題、松山事件、四国の例のラジオ商殺しの事件、要するに弾圧事件だけじゃなくて冤罪事件も取りあげてやったんですよ。そうしたら当時の共産党の方ではね、冤罪事件などというものは党とは関係ない、階級的な事件でないからあれは取りあげる必要ないし愛知の救援会はそういう問題ばかり取りあげているから堕落するんだ、要するに階級的な立場を貫け、ヒューマニズムなんてのはブルジョア思想だといってやってきたんですよ。

 

 それで救援会の全国総会で大論争になりましてね、私たちは広津先生のように、本当にヒューマニズムの立場に立って人間の生命を守るために、たとえ党派は違っても本当に人間の人権というものを守るために党派を超えて闘うべきであるし、それはすぐれて私は階級的な闘いであると、つまり人権を守り闘うことがいちばん階級的な闘いなんですよ。それを彼らは人権なんて思想はブルジョアヒューマニズムだって言うんですよ。これは歴史的に見れば確かにフランス革命にしてもアメリカの独立戦争にしてもブルジョアジーの中からそういう運動が起きていることは事実ですよ。しかしそれを受け継いで、それを今日もっとも大事にして闘っているのは労働者階級、人民じゃありませんか。

 

 ですからあの罪のない農村の青年や、部落の青年や、名もない庶民や、十分言葉がしゃべれない、知能の遅れた人たちを弾圧して、被告にして、無実の罪で裁いていくという権力と闘うことはすぐれて階級的な闘いだと思うんですよ。階級とは何かということでしょ。党派の利害じゃないですよ。労働組合とか党が弾圧されればそれは確かに階級的な弾圧だと言えるかもわからんけれども、そういう組織に属さない本当に名もない民衆にたいする権力の弾圧や人権蹂躙や冤罪事件にたいして闘うことだって、これは階級的な闘いだと私は思って、今も正しいと思っています。その時の論争については、愛知人権連合っていう団体をつくりまして、新村猛先生に会長になっていただきました。

 

 その私たちの組織にたいしてまっさきに反対してこれを潰しにかかったのは残念ながら日本共産党だったんですね。ブルジョアヒューマニズムだ、ということですね。あるいは自由主義だ、ということでやってきたんです。これについてはまた、長くなりますけれども。まあ新村先生は最近著作集出ました。その中にちゃんと書いてありますよ。「人権と平和」という論文をね。この中で私たちが頑張っとった当時の日本国民救援会の愛知県本部と人権連合の運動にたいするある党派の妨害というかたちで書いているんです。はっきり批判されています。当時日本国民救援会の愛知県本部の会長だったのは真下信一先生です。こういう日本のすぐれた最高の知識人の方々がですね、愛知で僕たちと一緒になってそういう救援運動や人権運動をやってきたんです。

 

 これにたいして共産党はいろいろ妨害をしました。当時の、その時の司令官だったのが袴田里見なんですよ。わざわざ愛知まで来てですね、県委員会の連中集めて、そこで酒井・藤本をやっつけろというかたちで指示、自分で旅館どこか借りてそこから指令を出してやっとったんですよ。その袴田が除名されてですよ、私たちが批判し攻撃しあれはまさに野坂参三こそは党内に送りこまれた最高スパイだと私たちは摘発したんです、あそこにありますよ。私どもは党内でそれを暴露したんです。それにたいしてまっさきに弾圧を加えたのが野坂参三でしょ。私たちを除名した野坂参三や袴田が今度除名されて、私たちはどうなるんですか。

 

 本来名誉回復して、長い間君たちえん罪で苦労したんだから、もういっぺん党に戻ってやってくれというのが本当じゃないですか。それを一切隠しちゃったんです。あれは知らん、と。野坂のやったことだ、あれは袴田のやったことだと。宮本さん関係ないかというと、関係ないじゃない、一緒にやって来たんですよね。野坂議長、宮本書記長で仲良くやってきた。袴田も副委員長でやって来たじゃないですか。それがですね、一緒にやってきた連中が、もう旧悪は暴露されたからといってですね、一緒にやってきたという責任は免れませんよ、はっきり言って。百歳で亡くなるまでは一緒にやってきたんですから。後でのっぴきならない証拠が出てきたもんだから、さかのぼってあれは昔からソ連のスパイだったなんてこと言い出してますけれどね。

 

 そんなこと昔からわかっていることなんですよ。私たちは党内におる時から、野坂はおかしい、袴田は間違っている、っていうことを言ってきたんです。そういう時聞き入れないでわれわれを反党分子扱いしたじゃないですか。その連中が今度は口を拭ってね、あれは昔からそうだったんだ、ということでしょ。昔からそうだったら昔から手を切ればよかったんですよ。まあこんな話はやめましょう。

 

 14、共産党の責任棚上げ体質

 

 だけどね、私は今の方針がどうだこうだじゃないですよ。道徳的・倫理的・人間的に見てね、そういう自分たちが犯してきた過ちを率直に自己批判して、そのうえで新しい運動を提起するならいいですけれども、そういう古いことを全部過去のものとして、あれは徳田球一が悪いんだ、あれは家父長支配だ、家父長制だと。家父長制って何ですか。封建時代のあれでしょ。殿様だとか、そういう封建領主のことでしょ。あるいは家父長制って言ってですね、その一家のいちばん偉い人がおって、それが皆家族を奴隷のように使っているという、そういうシステムでしょ。

 

 じゃあその家父長制で一緒にやって来たのは誰ですか。その家父長制を選んだのは誰ですか。だから自分たちの責任を棚にあげてあいつは家父長制であると。ちょうどスターリンが批判された時にですね、フルシチョフが秘密会開いてそこで中央委員の諸君にですね、スターリンの批判をやった時に、一枚の紙がめぐってきたそうですよ。フルシチョフのとこに。その時お前はどうしておったというメモが来たそうですよ。フルシチョフはそれ見てね、顔色変えてね、このメモ書いた中央委員は手を挙げろってやったっていうんですよ。誰も手を挙げなかったっていうんですよ。で、フルシチョフはぽそっとね、俺もその時同じようにしとったと、言ったっていうんですよ。つまり自分もスターリンが生きている時には手を挙げなかったっていうんですね。つまり共犯なんですよ。

 

 ですから個人崇拝とかスターリン主義を生み出したものはスターリン一人の責任じゃないでしょ。徳田球一一人の責任じゃないんですよ。やっぱりそういう連中を支持し、一緒にやってきたという共同責任があるじゃないですか、大きい小さいは別として。そういうことをピシッと同志として総括しないで、あれは昔のことだ、あれは違うと、徳田派がやったことだというんでは、私は筋が通らんと思うんですよ。そうじゃないでしょうか。じゃあ会社がですよ、もう危なくなって倒産しかけた、そうしたら社長が、あれは前の社長が悪いんだと、前の社長が残した借金だと、俺は責任ないと言えますか。ブルジョア社会でも、そういう負債というものは、資産もそうだけれども、資産と負債は両方受け継ぐんですよ、貸借対照表の位置に、負債と資産とが、左に資産、右側に負債が来るじゃないですか。負債も引き受けるんですよ。これが資本主義の精神という、マックス・ウェーバーが書いてますけども、要するに資本主義でもそういうモラルはちゃんとあるんですよ、一応。ブルジョア的なモラルがですが。

 

 15、極左冒険主義の誤りと責任の所在、人間的モラル

 

 それと比べても私は恥ずかしいと思うんですよね。プロレタリアのモラルというのはもっと厳しくなきゃいけないね。だからあれは勝手にやったんだ、あれは極左冒険主義だってレッテル貼ってしまうってことはね、私は、確かに極左主義もありました。四全協・五全協という軍事方針というのがありました。中国共産党の影響を受けたことも事実です。国際間のいろんな、当時のコミンテルン・コミンフォルム、そういう外国のいろんなあれにまきこまれて、本当に右に左に揺れとった時代がありました。それはそれで事実としてあるんです。

 

 しかしですね、自主独立といってですね、本当に自主独立であったかどうかということは、私はこの目で見ていますから知っていますが、あの時は誰もスターリンに反対しなかった。皆スターリン万歳ですよ。宮本さんも一九五〇年代に書いた論文は皆スターリンですよ。スターリンの『レーニン主義の諸問題』から皆引用しとったんですよ。その人がまったくスターリンとは関係ないということをおっしゃってるけど、そんなことはないですよ。だから今の時点で今だからこそいろいろ自主独立と言っているけれども、本当に自分が自主独立であったかどうかということを反省する必要がある。そのことを私は宮本さんにも言いたいし宮本さんのいわばつくった今の不破さんにもあると思うんですよね、そういうあれがね。

 

 ですから、別に私、人間として彼らをどうこうってことじゃないんですよ。ただ自己批判をしてほしい、そして本当に、片一方の連中がやったにしても、それは日本共産党の名でやったことですから、そこで働いて一生懸命権力の弾圧も恐れずにですね、あるいは迫害を恐れずに、あらゆる拷問と闘いながら、そうしてがんばってきた党員諸君を励まし激励し、その責任はわれわれ指導者にあるんだっていうことを言ってほしいんですよ。それ言わないで、何ら責任をとらないで、シャンシャンシャンで六全協で手打ちをやっちゃってね、野坂も残り、袴田も残り、皆がシャンシャンシャンでお互いに手を握っちゃって、そして主導権をとってからぼちぼち都合の悪い連中を追い出していったわけでしょ。まあそういう言い方は失礼かもわからんけれども、じっさいそうなんですよね。

 

 ですから、そういう古い話をしてもね、今の若い方にはピンと来ないかもわからんけれども、やはりわれわれは責任ということをね、責任というこの二つの文字は、私たちは忘れてならん、責任というのは意志の継続であるいうことを黒田清という人が亡くなる前に言っておりますけれど、私は責任というのはやっぱりね、忘れないことだと思うんですよ。過去のこと忘れないということですよ。そしてその過去のことを、過去のいろんな犯した過ちやいろんな偏向やそういうことから逃げないで、それを本当に自己批判をして、そして人民にたいして、労働者にたいして謝罪をして、朝鮮の人たちにたいしても謝罪をして、そのうえで私たちはね、何をなすべきかということを考えるべきではないでしょうか。

 

 そういう人間的なモラルというのが、今残念ながらどこの党にもないんです。社会党にもないし、あらゆる政治党派もやっぱりそのへんのとこをよく考えてもらって、自分はその時どうしとったと、本当に最初から自分は人民主義者で、自由主義者で、あるいは自主独立であったかどうかということをね、いっぺん考えてもらいたいと思うんですね。それが私の言いたいことであります。

 

 16、裁判をやってよかった3つのこと

 

 時間がありませんけれども、しかし裁判やって私はよかったと思うことは三つあります。

 一つはですね、獄中でいろいろ考える時間を持てたということですね。

 獄中は一日が長いですからね。一日中本を読んでいるわけにはいきませんので、法廷のない日はほとんど一日壁に向かって物を考えたりする時間がある。それで私もいろいろ考えて、そしてやはり従来の、たとえばイデオロギーね、戦後とにかく牢獄から出てきた共産主義者の人たちは立派ですよ、本当にね。もう神様のように見えました。十八年も二十年もよくがんばってきたな、ということでとにかく非転向で出てきた人たちはもう本当に神様みたいに思いました。それはあの天皇制の下であらゆる苦難に耐えて節を曲げなかったということにたいしては非常に私は敬意を表したし、そしてこの人たちについていこう、ということで私たちは運動に入ったわけですね。

 

 しかし考えてみるとですね、十八年も二十年も獄中におるということは、一面ではそれは節を曲げないということは立派ですが、一面ではそれだけ人民との間に接触がないんですよ。だからシャバのことはさっぱりわからない。生きた労働者の現場はわからない。どんなに戦争中に人民が苦しんでおったか、空襲や空爆で苦しんでおったか、ある意味では牢獄ってとこは非常に安全なとこなんですよ。私たちも三度三度ご飯食べれましたよ。外におるとご飯食べれなかった、当時はね。常任やってる時は給料もないし、手当もないもんですから、結局ですね、同志んとこ行ってよばれたり、カンパもらってそれで何とか飢えをしのいでおったんですよね。三度三度ご飯食べれるじゃないですか、刑務所入ったら。お風呂も入れてくれるしヒゲもそってくれるし、病気になればちゃんとやってくれますよ。自由がないだけであってね。

 

 だから牢獄というのは確かに厳しい、自由がない所であるけれども、本当は外で出て、闘って、人民の中で一緒になって闘い、地下に潜ってでも闘うことの方が大事なんですよ。非転向はそれほど自慢すべきじゃない、非転向なんてことはクリスチャンだって天理教だってひとのみちだって学会の一番最初の、戸田城聖さんの前の牧口常三郎さんなんて人は治安維持法でやられて獄死してるんですよ。節を曲げずにね。あるいはキリスト者で救世軍創始者の山室軍平さんなどもやっぱりそうなんですよ。やっぱり節を曲げずに、天皇が偉いか、キリストが偉いかと言われれば断じて天皇偉いとまでは言わなかったんですよ。そういう人たちがいるんですよ、宗教者の中には。で、節を曲げないってことはね、ある程度信仰の厚い人にはできるんですよ。

 

 しかし共産党員とか共産主義者とか、あるいは労働運動家はですね、節を曲げないだけじゃいけないんです。やっぱり人民の中へ、自分たちの大衆の中へ入っていって、毎日毎日苦労している労働者のとこ行ってですね、そこで一緒になって闘うってことが大事なんですよ。だから私はですね、確かに獄中経験は短いけれどもそれはいい勉強になりました。そして今言った通り、やっぱり外へ出たら、まっさきに労働者の中入っていって闘おう、ということで私は党の常任をやるのをやめて、そしてニコヨンになって働きまして、全日本自由労働組合、全日自労って言ってますがつくりまして、中西君や何かと、今やめてますけど中西君は後に全国委員長になりましたね、中西功の弟ですけれども、あれと一緒に全日自労をつくるために愛知県の自由労働組合の、私書記長になってですね、やりました。そういう労働者の中に入ることによって私は自己批判を強めていったわけですね。つまり、いかに自分たちが浮いておった、本当にね、観念的であったこと、イデオロギーだけで運動をやろうとしておったこと、これは間違いだと。本当に労働者の中に入っていって一緒になって彼らと手を携え、肩をたたきあってやることがいかに大事かということを私は実践してまいりました。

 

 それからもう一つはですね、学ぶことができましたね。

 ふだんなんか読めないものも読めました。資本論も二巻まで読みましたよ。あとはとても読めなかったけどね。それからレーニン選集も全部読みました。毛沢東は途中でやめましたけども、少し読みました。つまり、まとまった勉強できますね。だから昔は牢獄は共産主義者の学校だなんて説もありましたけれどね。有名な大杉栄なんて人は、だいたい一回刑務所に入るたびに一つずつ外国語をこなしていったっていうんですね。ロシア語、フランス語、何でもやれた、七ヵ国語ぐらいやれたっていうんですね。

 

 私はもう五年ぐらいおれたら全部やれたと思うんだけどね、ですけどそんなぜいたくなことしているわけにいきませんので、まあ保釈と一緒に出て、外で活動するようになりました。ですから学ぶこともできるということですね。何を学ぶかっていったらやっぱりそういう獄中でやる勉強というのは集中的にできますからふだん読めなかった本なんかも読める、だから牢獄と病院が一番いいんですよ。学習しようと思う環境としてはね。別に皆さんにお勧めしているわけじゃないですよ(笑い)。だけどね、困難な状況にあってもね、その状況の中でやれることをやるということですね。

 

 三番目は権力との闘いということなんですね。

 権力との闘いは、さっき私がつかまる時抵抗したって言うでしょ。やっぱり抵抗するっていう精神ですがね。これがないとなめられますよ。ヤクザの世界でもそうですね。ヤクザの世界も、私も中におる時ヤクザの友だちできましたね。中でいろいろ教えられましたよ。彼らからも学習をね、運動に出るためにいろいろ彼らの話聞くんですよ。面白い。空き巣のやり方なんか教えてくれましたよ。空き巣やる時には、有名な空き巣なんですよ、そのアンチャンはですね、空き巣やる時には金持ちの家行きなさいと。金持ちで犬を飼ってる家へ行きなさいと。

 

 犬飼っているとこ行って、三日前ぐらいから行って犬に遠くからエサ投げると。最初のうちは食べないと。二日目ぐらいはもうちょっとそばでエサ投げる。そうするとしばらくたってから食べに来ると。で、三度めには自分の掌に乗せて食べさせて、そうすると手の匂いがわかるでしょ。そうするともう四日目にはもう尾っぽふるって来るって言うんですね。それから空き巣に入る時は絶対犬になめられちゃいけないから、ちゃんとしたスーツ着ていきなさいと。犬だって階級性はあったんですね(笑い)。犬だってねじりハチマキして、おかしな格好してたら、吠えつくっていうんですよ。ちゃんとしたりゅうとした身なりで行けばね、これ紳士だなって思って向こうおっぽってくれるって言うんですね。いろんなこと教わりましたよ。まあそんな話はどうでもいい(笑い)。

 

 だからやっぱり大親分もいましたよ。瀬戸一家の組長ですよ。もう亡くなりましたよね。その人なんかね、酒井、お前度胸があるからウチの若い者になれって言って。で、私が瀬戸で昔前進座の興行やったんですよ。私前進座にしばらくおりまして、いろんな先乗りっていうかな、営業活動やっとったんです。先乗りというのは、劇団の地方巡業に先立って、上演地での会場の手配や有力者への挨拶などを行なう役目のことです。そうなると地元のヤクザや、親分連中にいろいろ挨拶に行くんですよね。そうしないと興行できないんですよ。そういう時ちゃんとその親分が、一緒にムシ食って、ムシって言うんですよ。ムシっていうのは、麦が六割・米が四割なんですが、一緒にムシ食った仲間だからちゃんとあいさつしろっていった格好でね、ちゃんと応援してくれたですよ。だからヤクザ社会の中でも私は名が通ったんですよ(笑い)。

 

 彼らでも、今のヤクザ知りませんよ、今のヤクザは権力とひっついてね、おかしな軍歌ばっかし歌ってばかりいたりしますけれども。ヤクザの中でも骨のある連中は権力と闘ったのいますからね、そういう連中から見りゃあやっぱり同志なんですよ、彼らは。(笑い)。よく火炎ビン投げてくれた、よくあいつらやっつけてくれたと。やつらは桜の大紋だと言ってね、やっぱりヤクザと一緒に見てるんですよ。俺らより大きな、国家というヤクザだって言っているんですね。彼らにもプライドがあるんですよ。ですから、どんな状況の中にあっても私たちはきちっとした姿勢で、いつも弱い者の味方になるという立場で闘っていけば間違いは起こさないということを、私も、自分の実践をつうじて学ぶことができました。

 

 あと私の言いたいことは全部これ書きました。いろいろ批判も書きました。しかし批判のための批判じゃないんです。私の自己批判なんです。俺も自己批判しているからお前たちも自己批判してくれと、そしてもういっぺん原点に帰って、もういっぺんマルクスの精神に戻って、マルクスでなくてもいいですよ、キリストでもいいですよ、原点に戻って、本当に人類解放のためにやろうじゃないかという呼びかけなんですよ。

 

 そこを理解していただいて、けっして私は反共でもなく反党でもなくて、私は日本共産党員のつもりで今でもいますよ、党籍は向こうから取られたけれども私ども本籍はまだ日本共産党にあるつもりでいるし、九州の都留さんなんか私を同志と呼んでくれてますしね、大阪の吹田事件の彼も私を同志と呼んでくれてますしね。ですから党から離れても、やっぱり同志なんですよ。たまたま一時的に、席を外しているだけのことであってやがて私も日本共産党に、戻れるかどうかは別問題として、日本共産党が私の方に来るだろうと思ってがんばっております。ちょうど時間も来たようでありますし、また皆さんのいろいろ、質問したいという方もいらっしゃるようですから、どうか質問の時間と、わたしにたいする批判があったら遠慮なくしていただきたいと思います。後編はこれで終わりです(拍手)。

 

 17、検察研究特別資料「部外秘」『大須騒擾事件について』の入手

 

 きょうここにお見えになっていると思うんですが、関西のジャーナリストの方。この方とは京都の立命館で開かれた「東アジア人権と平和の朝鮮戦争下における人民の闘い」、そういう東アジアの人のいわば活動家の方々の報告集会をやりまして、私は名古屋大須事件の代表と、なぜ私が選ばれたのかよくわからないんですが、選ばれまして、行ってまいりまして、報告したんです。

 

 その時に吹田の方や、弾圧事件でいっしょに苦労してきた仲間の人たち、日本人だけでなく、韓国の方、朝鮮の方、それから台湾の方、こういう方とお会いしまして、僕がビックリしたのは、なんと僕が不勉強だったことがわかったのは、私がトイレに行った時に、ある台湾の革命家の方がいらっしゃった、その方はヒゲをはやした立派な八十ちょっとすぎの方で、その方にたいして私の名刺を出して「先生はどちらにおいでですか」と聞いたら、「僕の住所は監獄です」と言われたんです。わからなかったんです。後で調べたら、なんと三十五年間刑務所におられたんです。やっといまの政府ができて釈放されたんですよ。前の国民党政府に投獄されまして、三十五年間獄中におられた。「私の住所は監獄です」と。まだまだ、日本の弾圧もひどかったけどもね、韓国やあるいは台湾や、あるいはその他の東アジアにおける人権闘争をやる方々の闘い方の、すさまじいものがあるなと私は頭が下がりました。

 

 その時にお会いしたジャーナリストの方が、「酒井さん、検察庁の資料が手に入った」と、これを私にわざわざコピーして送っていただきました。これは、検察庁が検察研究特別資料というかたちで、検察の教育に使っているんです。つまり私が先生なんですよ。つまり検事にですね、こういう連中はこういう法廷闘争やったというね、法廷闘争のいわば彼らのノウハウなんですね。それを検事諸君の、これは検事になる連中の教育のテキストに使ったんですよ。私を呼んでくれりゃよかったんですよ。私が行って検事相手に講義やれば一番よかったんです(笑い)。

 

 こういう教育本見たのは五十年ぶりですよ。マル秘ですよ。極秘って書いてますわね。という資料を送っていただきました。ありがとうございました。きょう取材に来ていただいている方にも感謝します。きょう取材に来ている方々はけっして皆さんを取材するために来たんじゃなくて、私の記録をね、残していただくために来たんです。つまり、これはすぐマスコミに載るとかそういうことじゃなくて、記者の方の自己責任でですね、記録を残しておきたいということできょう取材をされているわけなんで、警戒しないで下さい(拍手)。

 

 (宮地・注)

 これは、「部外秘」『大須騒擾事件について―対権力闘争事犯公判手続上の諸問題―』(法務研修所、検察研究特別資料第十四号、昭和二十九年三月)である。そこには、大須事件2年後の1954年時点における検察内部データが多数あり、281頁にわたる検察側からの大須事件データ分析と第一審公判手続分析が中心になっている。

 

 メーデー事件の検察側「部外秘」資料は、私(宮地)が国会図書館で発見して、コピーを入手した。吹田事件の「部外秘」資料については、枚方事件元被告の脇田憲一さんが手にいれ、それを含めた分析をした。元被告酒井博さんに、大須事件の「部外秘」資料が渡った。この検察側「部外秘」資料を合わせて分析することにより、各事件を立体的に、違う角度の分析も含めて検討することが可能になった。

 

    『検察特別資料から見たメーデー事件データ』検察側「部外秘」資料を合わせた分析

    脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』検察側「部外秘」資料を合わせた分析

 

 

 2、質疑応答

 

 〔小目次〕

   <質問1> 朝鮮人の闘争と共産党の利用主義

   <質問2> 警察スパイの火炎ビン投擲と共産党の欠陥

   <質問3> 共産党の誤りと権力弾圧との関係

   <質問4> 人民という言葉とその使用

 

 <質問1> 朝鮮人の闘争と共産党の利用主義

 

 酒井さんどうもお話ありがとうございました。僕は名古屋大学の学生です。いつもお世話になっています。本当に多岐にわたる話でですね、ヒューマニズムあふれる酒井さんのこれまでの闘いにですね、非常に僕も感銘を受けました。で、質問なんですけれども、今日いただいたパンフレットの中にも出てるんですけれども、大須事件の時にですね、デモ隊で最先頭で闘われたというのが朝鮮の人々だったという風に書かれてあって、そういう風に聞いております。

 

 で、たくさんの方がつかまってしまったと、朝鮮の方もたくさんの方が逮捕されたということなんですけれども、その後ですね、日本共産党っていうのはこの朝鮮人の人々っていうのをですね、どういう風に救い出そうとしたのかとか、今の北朝鮮拉致問題っていうのをですね、この金正日にたいしては一貫して批判してきたんだということを日本共産党の中央の方は言われているんですけれども、この時は聞くところによるとデモ隊の最前列に朝鮮の方々を立たせたのは日本共産党の指導部の人だったという風に言われています。で、こういうようなですね、この場合利用主義って書かれてあるんですけれど、これどういうことなのかということですね、もしその当時の話とか伺えれば聞かせてもらいたいと思います。よろしくお願いします。

 

 <酒井さん>

 

 今日は、韓国あるいは朝鮮、どちらにしても朝鮮の方がいらっしゃればいちばんよかったんですが、お見えにならんようですから、私の感じを申しあげますと、まず第一に戦前はですね、植民地ですよ、完全にね。そして先ほど言った通りに、名前を奪い、土地を奪い、生活を奪って、そうして強制的に日本に連れてこられた方が、当時二十万人ぐらい。その後の戦争中も入れると、おそらく数十万人。その方々の二世・三世が、現在在日と言われている方、韓国と、国籍は二つに分かれていますが、同じ朝鮮民族ですよ。

 

 これは話長くなりますから、結論だけ申しあげると、日本共産党としては、植民地における共産主義者、あるいは解放を求める民族主義者、あるいはご承知の通りに伊藤博文をハルビン駅頭で殺したテロリストだって言っていますけれども、朝鮮へ行きますと南も北も含めてこの安重根さんは本当に尊敬されて、今でも花束が絶えないぐらい民族の本当に解放の戦士として祭られているんですね。いかにひどい搾取やってきたかということがそれでおわかりだと思うんですが。

 

 結局朝鮮が分断をされて、南北に分けられたのはまさに米ソの冷戦、アメリカの帝国主義、ソ連の当時のスターリンによる拡張ですね、要するに中国が解放され、人民政府ができたと、朝鮮も労働党があそこを統一して、武力によって南朝鮮を解放するという方針をとったことは事実なんですね。あの頃は李承晩政権がアメリカのダレスと結託して朝鮮戦争を仕掛けたんだということが一般的に左翼の中ではそういう考え方が通用していましたけどね、これは間違いなんですね。確かに李承晩の方の仕掛けもあったことは事実だけれども、実際に軍事的に侵攻したのは北なんですよ、これははっきりしているんです。これは今では歴史学の中でもそれはほとんど承認されてます。

 

 そうするとですね、日本におった在日の人たち、特に朝鮮総連という、朝鮮人連盟と言ってました、当時。解散を命ぜられて今朝鮮総連になりました、の人たちは、当時の北の人民共和国で生まれたか、こちらで生まれたかは別問題として、それを祖国と思っているわけですね。この人たちがですね、まっさきに大須事件では先頭に立ったと。要するに祖国防衛隊というのをつくりましてね、軍事組織をつくってやったんです。これは当時の北の政策にしたがったんです。朝鮮人連盟という団体をつうじ、さらにその中には祖国防衛委員会とかいろんな軍事組織をつうじて自分たちの祖国のためにということでやったことは事実です。

 

 それから日本共産党はですね、これらの朝鮮人諸君を皆日本共産党に入党させたんですよ。ですから、二重党籍持っとったんですね。朝鮮労働党員であると同時に日本共産党員である、二重党籍持っとったんです。こういうことやったんですね。これは当時のコミンテルンの方針でもあったんです。要するに植民地の党員は本国政府の共産党に入れということですね。だからかつてはとう小平なんかもフランス共産党員、周恩来もフランス共産党員だった、フランスで勉強してフランス共産党に入党して、で、中国共産党員でもあるんですね。そういう二重党籍持っとったんですね。それで、当時の党は、そういう風だった。だから日本でも戦争中、あるいは治安維持法の下でですね、日本におられる朝鮮人の諸君で、革命家の人たち、要するに共産主義者は全部日本共産党に入っておったんですね。

 

 そして利用主義というのはですね、これはやっぱり、何だかんだ言っても共産党の中でもそういう差別があってですね、そして俺たちがあれらを解放して俺たちが本国だ、あいつら植民地だ、で、われわれが彼らを解放してやるんだという指導があるんですね。ほんとは逆なんですよね。逆なんだけども、日本人の中には根強いそういう指導者意識って言いますか、俺たちの、本国の政府の本国の党が植民地の党を指導してこれを解放してやるという思想があったんですね。

 

 ですからそれが有名な中野重治さんの詩の中にもあるんですね。雨の降る品川駅っていう、これ立派な詩でね、僕もこの詩は好きだったんですけどね、「辛よさようなら 金よさようなら」という有名なリフレインで始まる詩なんですけども、非常にいい詩なんですけども、やっぱりあの中には朝鮮人にたいする一種の、うしろ盾まえ盾っていう言葉出てきますね。つまりお前たちは前衛になれ後衛になれっていう言葉出てくるんですよ。つまり、迫害されている人民は本当に命を捨ててでも闘うという気迫と勇気と革命的な精神っていうのを持っているんですね。そういうもの、エネルギー・パワーというものをですね、当時の日本共産党も、戦後もそうですけれども、そういうものを、利用すると言っては何ですけれどもね、そういう人たちのパワーというものをそういった軍事闘争だとかいろんな実力行使だとかそういうとこには持っていくんですね。そういう点がですね、いまだにそういうのは残っていると思うんです。

 

 ですから、利用主義という言葉が正確かどうかわかりませんが、そういう差別・被差別という観念の中で、口ではインターナショナルと言いながら実際にはそういうことなんですね。今起きているチェチェンの問題でも全部そうなんですよ。同じロシアという中でね、ああいうかたちで差別をし、迫害をし、そしてあそこの石油資源を採るために彼らを言うならば搾取しているわけでしょ。そういう状態はソ連時代からずっと続いとったんですよ。だから例のソ連が解体したあとにそれがバーッと噴出したんですね。長い間ロシア本国に搾取されとったという連中ばっかしですからね。恨みつらみがあるんですよ。

 

 だから本国意識っていうのがあるんだよ、われわれの場合にはね。だから今度の北との問題でも、やっぱり日本が上だと、俺たちが金持ちだと、お前ら米がなくて困っているだろう、助けてやろうと、そのかわりお前ら譲歩せよというような、そういう取り引きの材料に使っているでしょ、拉致問題にしても、あるいは今度は核問題にしてもね。そういうものを私たちは捨てて、本当に人類の、あるいは人民の立場に立って、そしてわれわれが今までやってきた国としての過ちもそうですし、またそれに反対できなかったわれわれ一人一人の責任も含めてね、本当に誠実な自己批判を行ったうえで、彼らとね、新しい友情をつくりあげていくべきチャンスだと思うんですよ。

 

 ですから、利用主義という言葉が科学的に言って、政治学的に言って正しいかどうかわかりませんが、しかしそういう気持ち・意識っていうのはあったことは事実ですね。戦前も戦後も。で、中野さんは自己批判してますよ、その後あの詩は過ちだったと、あの中で朝鮮人を、最後は天皇を殺すところまでいくんですよね、あのヒロヒトをね。そして厚き氷を破ってというあの有名な詩の中には、革命をやるためにはやっぱり朝鮮人が先頭にたってやるというような意味が含まれているんですね。それは間違いなんですよ。

 

 やっぱり日本の労働者階級が先頭に立たなきゃいけないということ。それは民族主義っていうことじゃないですよ。つまり自国の革命には自国の人民が責任をとるということが第一なんですよ。もちろんそれは、インターナショナルでそういった隣国や植民地のいろんなそういうとこで苦しんでいる人たちと手を携えてやらなきゃいけないけども、われわれがたとえばアメリカ行って革命やるわけにいかないんですよ。やっぱりアメリカの労働者、あるいは人民が、たちあがって、それとわれわれが連帯していけばいいんであってね、そういうことなんですね。だからそういう差別の意識っていうものはわれわれの中にあるかないかっていうことは、やっぱりよく考えていかないと、どっかにそういうものがあるんじゃないかと私は思いますよ。以上です(拍手)。

 

 <質問2> 警察スパイの火炎ビン投擲と共産党の欠陥

 

 酒井さんどうもありがとうございました。僕は愛知大学の学生です。酒井さんの話聞きまして、改めて明日からまたがんばっていかないといけないなあという決意が湧いてきました。で、酒井さんに質問したいのはですね、僕が大須事件の当時の話を聞いていまして、当時あれは警察の謀略だと言われていましたけれども、デモ隊の隊列の中に、共産党員の中に潜りこんでいたスパイが火炎ビンを投げるか何かして、それで警察の弾圧を引き出したというのを聞いて、やっぱり共産党は当時から前衛党を名乗っていたと思うんですが、そういうところに警察とかスパイが潜りこんでしまったというあたりが本当に痛苦だなあと思って、そういうのは前衛党と言ってますが、欠陥があるんじゃないかと思ったんですけれども、当時共産党がですね、何でそういう警察のスパイを中に潜りこませてしまったのかというか、警察がそれをどうしてそういうようなことをやっていたのかというあたりを、酒井さんの知ってる事実とか、教えていただければと思ったんですけれど、お願いします。

 

 <酒井さん>

 

 確かレーニンの書いた『二つの戦術』かどっかにあったと思うんですがね。スパイが入るのは党の政策が誤っている時に、党の政策がね、偏ったり、あるいは人民にたいして正しくない方針を出して党が歪んでいる時に、スパイは入ってくるんですね。これ、歴史的に見てもずーっと三・一五、四・一六、そのもっと前の、宮本さんがあれした赤色リンチ事件と言われている事件にしても、大森銀行ギャング事件にしてもね、過去のいろいろな事件って見るとね、全部スパイが入りこんでいるんですよ。そしてリンチ事件についてもそうです。あれはスパイの摘発のために宮本さんや袴田さんが拷問やってですね、そして一人が死んだということがあの事件だったんですね。

 

 ですから、もちろんね、本当にそのことは過ちであったと、たとえ非合法下でスパイが入ってきたにしても、それを肉体的な拷問をかけて自白をさせて、そして結果的には、まあ自分の病気で死んだかどうか、宮本さんにすればあれは自分で死んだんだと、殺したんじゃないって言っているけど、結果的には自由を奪って拷問した結果、それが一つの起因になって死んだんですよね。ですからこういうことはやっぱりですね、共産主義者としてはしてはならないと。何も物的証拠ないのに、自白のみが唯一の証拠によって有罪にしてはならないと憲法にも書いてあるじゃないですか。これは憲法に書いてある・ないにかかわらず、普遍的な原理なんですよ。相手の自由を奪って、拷問をかけたり、あるいはいろんな脅迫して得た自白っていうのは、その自白は信用しちゃいけないんですよ。

 

 これはブルジョア社会であれどんな社会であっても、自白を信用すればそれは自白をさせた者に罪があるし、その自白そのものは証拠にならないんですよ。それと一緒なんですね。だからスパイが入りこむっていうのは、今言った通り、そういう党の方針が間違っている時に、あるいはそういう非常に正常じゃないような時に入りこみやすいんです。だから本当に大衆的に、大衆の中に根を下ろして、労働者の中に根を下ろして働いている党には絶対スパイは入れません。ですから階級的に見てですね、非常に、過ちを犯したり、あるいは人民の闘いから浮いているような時ね、あるいは観念的になっている時、あるいは教条主義に陥っている時、あるいは日和見主義になっている時、そういう時に入ってくるんですよ。入りやすいんですね。

 

 だから私に言わせれば、野坂参三なんてのはね、やっぱりスパイだと思うんですよ。最近文芸春秋に出てましたね。あれはつまり、もうすでにつかまった時に全部、天皇制を認めているし、いちばん共産主義者じゃないなんてことを言って書いているんですよ。そういう調書があるんですよ、私持っていますからね。それを私は党内におる時に手に入れて、それは警察庁から流れてきたものですよ、それはこれは事実だとすれば大変だと、野坂を査問せよっていうことなんて私は党内でビラ撒いたことがあるんですよ。当時野坂さんは第一書記でしたからね。権力持っていましたから、私らはすぐやられましたけれどね。

 

 四・一七の例のストライキ反対の時でもそうなんです。あれも、つまり共産党の方針そのものをそういう風に曲げてしまう。つまり直接現場でもって挑発したり警察の手先になったりするっていうのは下の方のスパイですよ。上の方のスパイっていうのは党の内部に入りこんで、党の方針を曲げていく、そして危険な方へもっていくというのがいちばん大きな、本当のスパイですよ。上から下までそういうスパイがね、日本共産党の五十年代にはおったと私は思っていますよ。それはもう、死んじゃったから死人に口なしで野坂とか伊藤律とか袴田がどうだこうだって言っていますけどね、私はそれだけじゃないと思うんですよ。がんじがらめになっている中にですね、入りやすいんですよ。だからそういう自由な空気があり、そして大衆の中で闘っている場合にはスパイは入らないんです。出ていっちゃうんですよ。入れないんですよ。

 

 ですから、鉄の規律とか言うでしょ。鉄の規律っていうのは、党の規約だとか、あるいは党の何かそういう統制によって守られるんじゃないんですよ。規則によって守られるんじゃない、法律によって守れるんじゃない、鉄の規律っていうのは何かっていうと、それは一人一人の自覚によって結ばれた同志的な結合なんですよ。わかりやすく言えばね。そうじゃなくて形式主義で、ただ党規約第何条に違反しているとか、あるいはお前こういうことしゃべったああいうことしゃべったというかたちでやるような、そういう規律っていうのは本当の規律じゃない。自覚的なものですよ。強制されるものじゃないんですよ。強制されるなら刑務所と一緒なんですよ。本当に自主的な、自分で自覚して、そして団結していくのが本当の規律であり、私は鉄の規律っていうのはそういうことだという風に理解をしてますけどね。

 

 だからせっかく今質問出たスパイの問題は、私はいまでもスパイは入っていると思ってますよ。だから警戒しないといけないんです。だからほんとにスパイを摘発するためには、正しい路線、労働者に密着する、人民に本当に信頼される活動をやるってことが大事であって、そりゃどんな組織だって入りますよ、入ればね。今日は来てるかどうかわかりませんけど、誰だって入れるんです、入ろうと思ったら。いや、入ってもらってもね、他の連中がそうならね、何もできないじゃないですか。皆さんのこれだけの熱い支持があればですね、そんなもの何も恐れることないんですよ。そういうのを弾き出す力っていうのはここにあるんですよ。それをあいつはスパイだ、こいつはスパイだ、と。

 

 私だってスパイ扱いされましたからね。一時はずっとついとったんですよ。私の行き先ついてきたんですよ。公安じゃないですよ。共産党の連中がついてきたんですよ。で、私がメシが食えないから、商売をやるためにやむを得ず、自分で商売始めたんですよ。そうすると後からついてきてですね、そして今来たあれは悪い奴だと、あれは反党分子で裏切り者だからあれなんかと取り引きするな、あれから物買うなといって、妨害されたことありますよ。

 

 それからきょうは名前出ていますけれども、永田末男さんなんか自分で塾開いたらその塾まで行ってですね、あれに貸すな、と言ってみたり、私たちが集会開こうと思って名古屋市公会堂に申しこんだら、そこに県委員会から来てですね、「彼らに貸すな」と言ったんですよ。で、さすがに名古屋市職員ですからね、館長さんが。「だってあんた、憲法にも言論の自由って書いているじゃありませんか」って言ったら、「いや、やつらには憲法はないんだ」と言ったそうですよ。さすがに館長さん怒っちゃってね、「共産党ともあろう人が何でそんなこと言うんですか」と怒ってましたけどね、それぐらいなんですよ。

 

 つまりね、何と言うんですか、そういうレベルの低いことをやるんですよ。まあ、今はわかりませんよ。ここしばらくごぶさたしてますから、わかりませんけれども、当時はそういうことやったんです。私たちの後ろからついて歩いて、反党分子だ、裏切り者だとやって歩いたんですよ。ですから私は、反党分子であることは認めるんですよ。反中央ですからね、認めます。しかし裏切り者ってことは、私は認めませんよ。裏からやってないですよ。表から堂々と。裏切りじゃない、表切りだと(笑い)。裏切りっていったら、こそこそやることでしょ。

 

 私は堂々と批判もし、意見書も書き、野坂参三には私は辞任の電報まで打ったんですよ、中央郵便局から。あの四・八声明が出た時にね。当時議長だった野坂宛にですね、日本の、世界の共産主義運動始まって以来のこの裏切りにたいしてね、ただちに陳謝して辞職せよっていう電報打ったんですよ。そうしたら中央委員会からとんで来ましたよ。法対部の、あれは、当時の法対部長は鈴木市蔵で、木村三郎という中央法対部副部長がとんで来ましてね。それで一升びん持ってきたんですよ。酒井君飲んでくれ、同志飲んでくれ、って言ってね。会場へ来たんですよ。それで、君たちの電報はまずいから撤回してくれ、そうすれば処分しないから、って言ったんですよ。私は撤回しないって言ったんですよ。

 

 何でお前は労働者のストライキに反対するんだって言ったら、いやじつをいうと、あのストライキをやると、松川事件規模の事件が日本で数か所起きると。それを契機に共産党は包囲されて、労働組合も弾圧されると。だからわれわれはあのストライキにたいしては警告を発して、ストライキをやめろと言ったんだって言うから、ああそうかね、その情報どっから入ったんだって言ったら、いやある国際筋から入ったって言うんですよ。ある国際筋ってどこだって聞いたら、言えないって言うんですよ。で、僕は言ったんですよ。だったらすぐ総評がね、太田だとか岩井だとか、それから社会党の成田を呼んでですね、こういう情報入っているから気をつけろとなぜ言わないんだと。なぜ共産党だけでそんな声明を職場に直接撒くんだと。直接職場に撒いたんですよ、ストライキやめろっていう。

 

 そしたら、じつはそういうある外国の情報で、間違いなく弾圧があるってことがわかったから、ストライキ反対するんだって言うから、だったら公表しろと。公表すればやれないじゃないですか、向こうが。もし弾圧すれば犯人がわかっちゃうわけだからね。できないじゃないかと。列車妨害事件があるんだったら、ちゃんと国鉄労働者にそれ言えばいいじゃないかと。列車妨害やられんようにね、警戒しろって言えばいいじゃないかと。何でストライキに反対するんだと、言ったらですね、何とも言えないんですよ、その中央委員さんはね。

 

 で僕は、それは中国だろうと言ったら、黙ってました。当時宮本氏と袴田氏は中国におったんですよ。留守部隊は野坂で。そして聴濤克己さんという人が、例の自己批判書を書いたんですよ。だけど聴濤の責任じゃないんですよ。それを書かせた野坂参三だし、野坂参三は宮本氏と連絡のうえで書いているんですから、けっして書記長を無視してそんなことはできないんですよ。ということはですね、国際的な、たとえば、ここからは私の推理なんですけど、当時は劉少奇が実権握っていましたから、劉少奇政権にとってみれば、もしストライキをやれば池田内閣は倒れると。池田内閣が倒れればより反動的な右寄りの政権ができると。日中国交講和はすぐそこまで来てるのに、もし日本の労働組合がストライキやって、池田内閣倒せば、池田内閣はまだよりましな政権だと、ブルジョア政権の中ではね、これが倒れたら、中国にとっては非常に不利益になるってことで、それでストライキにたいして警告を発したんではないかと、私はそういう風に理解してますよ。

 

 だって中国かって言った時には黙ってましたからね、向こうは。そういうかたちで当時の党は中国に引っぱり回されて、ソ連に引っぱり回されしとったのは事実なんだ。ずっと自主独立で来たわけじゃないんですよ。だから、すべてが万事であって、私は現場で直接中央委員やそういう連中の話を聞いていますからね、言えるんですけども、私の言うことウソだって思うんだったら、呼んでもいいですよ、ここに(笑い)。お前はその時何て言ったんだ、一升びん持ってきたじゃないかと。で、会場に来たんですよ。そうすりゃあね、君たちは除名は取り消すと言うんですね。いいと。僕は除名された方がいいと。除名されたことは光栄だと、感謝する、と言って、私はありがたく除名通知いただきましたよ。日本の労働者階級のね、利益を裏切った党にたいして批判したことは自分にとっては勲章だと思っていると。

 

 裏切り者呼ばわりされたりなんかすることは、私はね、忘れないようにちゃんとあそこにありますから、私の除名通知書ってありますよ、それから、県委員会総会までわざわざ開いてね、そして中央委員までお出ましになって、そしてそこで除名決議やってんですよ。普通だったら自分のもう一つ上のね、地区委員会レベルで除名はできるんですよ。私は一細胞員ですからね。それをわざわざ県委員会総会まで開いていただいて、中央委員会の幹部会までが出張してきて、それでそこで除名されているんですから、やっぱりわれわれは彼らから見ればね、本当に、何ですかね、困った存在だったんでしょうね。だから早く死んでくれっていうことなんですね(笑い)。

 

 おかげで長生きしちゃってね、本当にご迷惑かけてすみません。宮本さんと、最後まで、どちらが長生きするかわからんけども。いや僕は、宮本さんを評価もしているんですよ。あの人の、何もしなかったってことを評価してるんですよ(笑い)。あの人は五十年代何もしなかったんです。嫁さんの全集のなんか編集やっとったんですよ。全国統一委員会っていうのをつくって分派闘争をやろうとしたんですけれども、やっぱり彼は利口ですから、そういうのは若い連中にやらせてご自分は百合子さんのお手伝いやっとったんです。それがメシの種ですからね。やっぱり彼も刑務所におる時は百合子さんの世話になったもんだから。

 

 で、百合子さんが死んだ時は彼はいなかったんです、そこに。どこにおったかというと百合子さんの秘書の家におったんです。まあこれはスキャンダルだから私それ以上言いませんけども、宮本さんに人のスキャンダル言う資格ないんですよ。あの人自身がそういうスキャンダラスな生活していたと。百合子さんは本当に髪の毛かきむしって怒っとったそうですよ。目撃者の話だと。裏切られたんです。大森寿恵子さんという人と一緒におった。その人は今宮本さんの奥さんですね。彼女に罪はないんだけれども。百合子さんの秘書だった女性と愛人関係にあったんですよ。

 

 ですから、そういう革命家としてのモラル、それはレーニンだってね、一時はそういう奥さん以外の人と接触しておったということは言われますけども。そして今は百合子さんの印税をもらって豊かな生活していらっしゃいますけれども、やっぱり私の感覚から言えばね、許せないですね。女性の敵ですよ。近藤宏子というアカハタの文化部にいた女性ともとかくの噂があった。あんまりそういうスキャンダラスなことで私はやると、あいつらは週刊誌やいろんなメディアにそういう情報売りこんだって言われますから、私一切こういうこと言ったことがないんです。全部直接いろんな現場におった人に話聞いていますから。だっていなかったんですから、彼は。百合子さんが死んだ時には。よそにおったんですからね。大森寿恵子の家にいたんですから。

 

 だからこういうようなことを一つ一つ言えばきりがないけども、そんなことはどうでもいいから、とにかく、宮本さんがつくったいまの指導部が、もうちょっとしっかりしてほしいと、そしてあの江沢民と会談したね、いまの議長さんがですね、アメリカ帝国主義反対の旗を高く掲げる必要はないと、要するにイラクにたいするアメリカのこの攻撃にたいしては国際的に共同して、世界中の指導者がですね、国連でもってですね、国連をつうじて、アメリカにイラク攻撃をやらせないように勧告しようじゃないかと。要するにルールに従えっていうことを言っているんですね。国際的ルールに従えと。じゃあ国際的ルールって何ですかと。結局はね。本当にじゃあ今の国際連合が世界の人民の代表の組織になってますか。もちろんそれを否定しちゃいけないですよ。国連の中におけるそういう人民の、世界の人民の本当の、民主的な組織をつくっていくということは、私も賛成ですけれども、今の国連常任理事会、安全保障理事会は本当に世界の人民を代表してますか。そういうとこで決まったらじゃあやってもいいってことじゃないですか。

 

 それは小沢一郎の考え方と一緒じゃないですか。国連の決定があれば、従って出兵できるというのと一緒になっちゃうんですよ。つまり法律に従うとか、あるいはそういう国連の決定に従うとか、何々、そういう、世界の首脳が集まってそこで決めたことに従うというのは、ブルジョア的な法制主義といって、形式だけ整えるだけ。そして国連で決議あげれば何でもできるということになっちゃうんです。私はそんなもの無視すべきだと思うんですよ。なぜ世界の人民に、アメリカの労働者に、世界中の人民に訴えないんですか。共産党ともあろうものが。で、世界の人民の力で戦争、自分の国の政府のやり方を変えさせるための闘いを世界的に起こすことじゃないですか。そのために日本共産党が先頭に立ってほしいです。

 

 そうやらずに、江沢民とですね、江沢民は、今アメリカと事を構えるのはまずいと、経済的にもやっぱりまずいということで、例のアフガンの問題でも指をくわえて見とったし、ロシアもそうでしょ。全部国益ですよ。自分たちの国の、自分たちの権力を守るために、妥協しているんですよ。だから私はね、国家とか主権とかに気を付けなければいけないですよ。本土の主権が侵されたとか、国の名誉がどうだこうだとか、そんなことはどうでもいいですよ。いちばん大事なことは人権じゃないですか。人民の権利が本当に侵されているかどうかってこと、そういう立場で金正日を批判するんならいいですよ。金正日を批判するんだったら、金正日が本当に自国の人民の人権を尊重しているかどうか、他国の人民の人権を尊重しているかどうかという、その人権という立場、人民という立場に立って批判するなら私は金正日を批判すべきだけどもね、国家という次元でやっているでしょ。国の主権が侵されたと。生意気だと、奴らはね、ということでしょ。

 

 そういうような、僕は、武力や経済力を背景にしてですね、相手を脅して、あるいは相手の弱みにつけこんで、外交交渉をやるという今の小泉内閣の外交政策は、私は反対です。またそれに同調したり、あるいは江沢民と何か話してですね、そしてお互いにアメリカを何とか押さえこもうじゃないかという談合をやってますけどね、そんなことをやる暇があったら、もっと現場に行って、そして中国の人民に直接呼びかけたらどうですかと、あの天安門の時の勢いでなぜやらないのかと言ってですね、やるべきじゃないですか、今。中国の人民に、中国の労働者に訴えるのでなく、どっかの大学行ってっですね、講演やってですね、そして中国の今の経済のやり方はいいと、あれはレーニンの例のネップ政策だと、やっぱり資本主義を経て社会主義に行くというやり方は正しいんだと言って、中国を持ちあげているじゃないですか。何がネップですか。そういうようなとこにいくんですよ。

 

 国家というね、つまり自分は自分の国の政府を代表しているつもりでいるでしょ、彼。そうじゃないんですよ、日本の人民を代表して行くんだったら、なぜそういう厳しいこと言わないんですか。あんたたちのやっていることは間違いだと、もっと社会主義の精神に戻ってやれと。なぜ同志だったらて言わないんですか。同志だったら。それを相手のね、今やってるああいう、まあ僕に言わせれば共産主義とは言えないような今の中国の政策にたいしてね、それを認めて、そしてそれを持ちあげて、やがて日本の資本家が中国に進出しないのは大きな損失であるってなことを言って歩いてるんでしょ。もっと中国へ進出しろと言って、日本の資本家が涙流すようなことを言ってんですよ。

 

 だから岡野加穂留さんという元明治大学の学長が中日新聞に川柳書いてましたよ。「レーニンが 涙を流す 共産党」って川柳出しましたよ。本当にレーニンが、マルクスも涙流しますよ、本当にね。まあ、共産党の悪口言っているようだけど、そうじゃないんですよ。今の日本の指導部と言われている今の共産党、社会党、すべての党派が、もうちょっとまともになって、そして真剣に本当に人民の立場に立って闘ってもらえれば、私はですね、党派だとか、あるいはイデオロギーだとかを超えて、今はとにかくアメリカのこの帝国主義、なぜ帝国主義ってこと言わないんですか、今。

 

 覇権主義とか何とかね、ユニラテラリズムとかいろんなこと言ってですね、一国主義だって、いつも国ですよ。帝国主義っていうちゃんとした言葉、それこそ科学的でしょ。帝国主義って言わないんですよ、最近。昔は言ってましたよ。第十二回党大会の綱領でも、アメリカ帝国主義と日本の軍国主義、日本とアメリカの帝国主義同盟にたいしてですね、われわれはこの二つの敵にたいして闘うんだっていうことを書いているじゃないですか。その綱領に違反しているんですよ。だから党としては帝国主義反対の旗を高く揚げるべきですよ。

 

 しかし統一戦線の面でね、現実にいろいろ中間的な連中と一緒にやる時には、別に帝国主義反対の旗を掲げる必要ないかもわからんけれども。反戦でもいいし、憲法擁護でもいいし、あるいは有事立法反対でもいいし、そういう一点で団結すりゃあいいんですよ。しかし党が帝国主義の旗を降ろしちゃいかんですよ。共産党の価値がないじゃないですか。帝国主義の反対のためにこそ共産党が存在するし共産主義者が必要なんですよ。その先頭に立つってことでしょ。それを忘れちゃってね、帝国主義反対の旗を高く掲げる必要はないって言うんですよ。高く掲げる必要はないっていうのはどういうことですか。低く(笑い)。いっそのことね、帝国主義なんて忘れましたと言えばいいんですよ。

 

 まあ、話がちょっと少しね、漫談みたいになりましたけれども、笑い事じゃないですよ、ほんとに。残念なことにそういう状態になっているんです、今ね。本当にわれわれは帝国主義と真剣になって闘っていかなきゃならん、今、時代じゃないでしょうか。帝国主義反対の旗を高く揚げましょう(拍手)。

 

 <質問3> 共産党の誤りと権力弾圧との関係

 

 今日はなかなかふだん聞けないような貴重なお話を(酒井さん「ごめんなさいね」(笑い))、僕もほんとに、いろいろ、政党の状態にはいろんな憤りを持っているんで、そうだよな、と思いながら聞いておりますが、大須事件がやっぱりほんとに歴史的にもすごい人民弾圧事件の教訓としてあるんですけれども、今日のタイトルにもあるように、こんな人民弾圧の歴史をくり返さないということの、その当時の大須事件の最大の問題点、たとえば共産党の当時の指導部の指導方針に誤りがあったために起こってしまったのか、そのへんのところ、ああいう事件が起こっていったことについての問題点と、それから今後僕らが人民弾圧をね、こういうような事件を権力の側から二度と起こさせないようにしていくためにはどうしていったらいいのかという、そのへんの、僕らがこれから考えていかないといけないという問題について、ちょっと整理してお話ししていただければ。

 

 <酒井さん>

 

 大須事件が、先ほど言った通り、極左的な軍事方針、あるいは誤った指導、こういうものによってですね、弾圧を招き、そうして長い裁判闘争をやらざるを得なかったと、被告たちが苦しんだし、その家族はもっと苦しんだということは事実としてあります。それだけではなくて、おおぜいの労働者が職場から追われ、レッド・パージでやられ、権力によるいろんな不当な扱いを受けたことは事実なんです。それを私たちはマイナスと受けとめるのか、それともですね、マイナスと受けとめりゃあそりゃあ悪かった、悪うございました、もう二度とやりませんと、当時の方針間違っていましたと、あれは徳田球一初めとする当時の共産党の連中がやったことであって、私は知りませんと、いうことで通るんですけれども、私はそれはいかんと思うんですよ。

 

 そうじゃなくてですね、あの朝鮮戦争というのはですね、そりゃあ今日から見ればいろいろ新しい事実も出てきているし、いま朝鮮でもそういう歴史的な勉強始めているんですよ。あの朝鮮戦争当時のね、韓国と朝鮮人民民主主義共和国、わかりやすく言えば北朝鮮とのいろんな間での対話が始まりまして、そしてお互いに反省しあうと、和解と、そして許しあいというところに話がいっているんですよね。

 

 ですから、私どもの大須事件にたいする見方は、確かに共産党というその一つの尺度から見れば、あの大きな過ちを犯したってことは率直に認めざるを得ないんです。党員としての私の責任があります。しかしですね、あの大須街頭で、一万人近い大衆が、デモ行進をやり、その中で数千人の、まあ四千人ぐらいのデモ隊員の中の人たちとそれを支持する人たちが、あの官憲隊とですね、あの大須街頭で、権力の弾圧にたいして、闘ったという事実ね、このパワー、この権力にたいする怒り、戦争を阻止したいというこの人民の熱情、こういうものはですね、日本人・朝鮮人含めて、私は高く評価すべきだと思うし、そして、何も闘わなかったと、何もしないでわれわれは指をくわえてあのアメリカ帝国主義のですね、あの残酷な朝鮮戦争を黙って見とった方がいいのか、指をくわえて見とった方がいいのか、小牧の飛行場からどんどんどんどんね、あの爆弾を積んだ飛行機が飛んでいくのをわれわれは見過ごしていいのかということを問われれば、やっぱり私たちは闘うべきであったし、闘ったことは、私たちは正しかったと思ってます。

 

 そしてそれを支持し、それに一緒になって行動してくれた名古屋の人民と言いますか、名古屋の労働者を先頭とする学生諸君も含めたですね、名古屋の人民のこのエネルギーってものを私は敬意を表すべきだと思うんですよ。どんなに共産党が間違った方針持っていようと、軍事方針があろうと、そういうこととはかかわりなくね、あの大衆的な、権力にたいする怒り、憲法を守ろう、街頭示威行進をつうじてですね、朝鮮戦争を阻止するための行動を起こそうっていう、これはですね、私は尊いものだと思ってますし、私は恥ずかしくないと思っているし、誇るべきだと私は思っております。

 

 ですからその面と、今言った通りそれを指導した連中、あるいはそういう、火炎ビン闘争などを、戦術的な誤りにもかかわらずそういうやり方を導入したその指導部なり、その共産党の一部の諸君にたいしては、これはやっぱり私はね、はっきり彼らの責任を問うべきだと思っているし、そしてそこを自己批判しなきゃいけないと思っているんですよね。だからそこをはっきり分けていかなきゃいけない。だから私は大須事件に二つの側面があると、一つはそういうね、大衆の戦争反対、中国・朝鮮・そして世界の人民とも連帯していこうという、この国際連帯的な闘いですね、労働者の本来の姿ですよ、この闘いを正しく評価するという面と、それからいま言った通りそれを指導しとった一部の共産党の指導部の諸君の過ちというものをはっきり区別してきたし、しかし過ちを犯したにもかかわらず、闘い方はすばらしかったですよ。立派に闘いぬいた。

 

 とにかく一時間半にわたってあの街頭で警官隊圧倒して、一時はこっちが優勢だっていうまでいったんですよ。ただ、一時間半というのは、検察側の主張で、消防車が現場から引上げた時間から測って、一時間半としたものです。デモ隊が完全に制圧された正確な時間は、人によって相違があり、被告・弁護団の30分との中間で、40〜50分ではないかと思います。一時間近くにわたってなら異論はないと思います。

 

 彼らはもう、ほんとにね、恐怖に青ざめちゃったんです。それまで追いこんだっていう闘いはね、私は名古屋では、おそらく米騒動以来なんですよ、あの闘いというのはね。ああいう権力にたいして恐れずに、闘ったってことは。これはきちっとやっぱりちゃんと見ていかないといけないし、私はそう思うんですよ。ですから、諸々の過ちがあったにもかかわらず、私はこの事件にたいする評価っていうのは、そういう人民の、権力にたいする抵抗という、この歴史的に見ればわれわれが祖先からね、日本の自由解放運動、もっと溯れば百姓一揆からずっと続いてきた権力にたいする人民の抵抗のエネルギーっていうものをね、われわれはひき継いで、あそこでもって燃焼したということ、それから、ただ問題は、許せないのは、脱走ですよ。指導部が脱走したということなんですよ。

 

 そして俺たち知らないと言ってですね、あれは一部の、党が中央で分裂しとった時代にですね、一方の傍らの連中がやったことであって、われわれは知らないと言って、アリバイを主張している連中ですね。これは私は許せないと思うんですよ。先ほど言った通りですね。だからそれは追及すると。その二つの面があるんですね。

 

 一つはそういう、正しくない、極左冒険主義ということ、じゃあ何が極左なのか、何が冒険主義なのかということを明らかにしなきゃいけないですよ。冒険主義っていうのは何だ。どういう時に冒険主義だと。労働者が大衆行動を起こすことは冒険主義なのかどうなのかと。権力が拳銃で撃ちこんできた時に、何もしないでいいのかと。それにたいして、われわれも手に持っている物で、石を投げたりなんかして闘うっていうことはどうしてそれが暴力なのかということでね、何が騒擾なのかということ。今パレスチナの人民が、子供たちまで石を投げて闘っているじゃないですか。あれを暴力と言いますか。そういう問題なんですよ。

 

 ですからそういう、権力の暴圧や不当なものにたいして闘うために、自分たちの体を武器にして、闘うという、そういう人民の中にある、本当に、怒りと、そしてその怒りを行動に移すという勇気ですね、こういうものはやっぱり私は貴重だと思ってます。それをきちっと評価しないでただ極左冒険主義だと言ってですね、あれは一行半ですよ、あの党史の中見ますと。で、ひどいのはですね、この前私は『日本共産党の七十年』っていうのを全部広げて表をつくってみたんですけれどね、大須事件抜けてるんですよ。メーデー事件あります、吹田事件あります。これ無罪になったからね。こういうのは書いてあるんです。有罪になった大須事件は抜けちゃってんですよ。党史の中から抹殺されているんですよ。こんなこと許されますか。

 

 ですから、そういうことを私はね、歴史的にちゃんと、亡霊じゃないけどもういっぺん蘇ってね、そして大須事件あったんだよと、あって、そしてこれだけの闘いやったと、指導部の過ちにもかかわらずこれだけのことをやったんだということを私言いたいです。それから二十六年間の法廷闘争を立派に闘い抜いたんですよ。法廷で私たちは堂々と、政府を告発し、われわれは刑事裁判のうえでは被告になっているけれども、政治的にはわれわれが原告で奴ら被告だという立場で法廷で闘いました。そしてあらゆる勉強をつうじてですね、憲法を守り、そしてこの憲法違反の破防法や、その他の諸々の弾圧法規を告発して、そして法廷でわれわれは闘ったんですよ。

 

 そしてその他のえん罪諸君や、その他の事件で苦しんでいる人たちと一緒になってですね、連帯して、そしてあの松川闘争を闘ったんです。そして人権の運動をですね、日本で高めようってことで、私たち働いたんですよ。だがその人権運動がブルジョア・ヒューマニズムだということで否定されたんですね。それが愛知の救援会の分裂になって、私たちは数の上では負けましたからね。まあ今日こういう風に落ちぶれていますけれども。しかし私は、よかったと思っていますよ。私たちはけっして間違っていなかったという気持ちは持ってます。

 

 ですから、私たち自身の自己批判と、それから党の指導部の自己批判と、そして責任をちゃんと明らかにしないでやったんでしょ、結局、六全協ってのは責任を明らかにしないでただあれは冒険主義であってもう二度とやりませんってことでシャンシャンシャンになっちゃったんですよ。そんなことじゃいけないんですよ。本当の科学的な政党であるなら、きちんと分析し、誰がどういう指示をして、誰がどういう時にどういうことをやったか、誰が逃げたかっていうことを、ちゃんとしなきゃいけないですよ。それをやらないで、終わりにしちゃったんです。

 

 そして慰霊祭やってですね、これでもう、法事じゃないけどね、これでおしまいっていうことなんですよ。私たちは、慰霊祭やることは反対じゃないですよ。しかし、記念碑までつくってね、そしてこれ大須事件の現場のあれだっていうことで、何か記念碑つくったそうですけれども、私は何のために記念碑つくるんだと、記念碑づくりよりも、もっとこの事件の教訓、この事件の名古屋地方における唯一の大衆闘争の経験というのをですね、人民闘争の経験というのをもっとこれからの若い人たちに伝えていくべきじゃないかと、そして今度やる時には正しい運動をやってほしいと、スパイや挑発者に踊らされるようなことじゃなくて、本当にやっぱりね、平和のために、憲法を守るために、あるいは有事立法を阻止して日本の軍国主義を再び許さない闘いのためにですね、この教訓を生かしてほしいということ、それが今日性っていうことなんです。過去の話じゃないんです。今の問題なんです。私が言っているのはね。だからどうかひとつ、私が何か、大久保彦左衛門じゃないけれども、昔話をやってんじゃないんですよ。今日の問題として問題提起してるんですよ。

 

 これからもわれわれはやらなきゃならない。で私、ある人に聞かれた。あなたはまたそういう風になったら大須事件やりますかと。大須事件、二度も三度もやるよって、僕は。ただし、絶対に脱走はしないよと。絶対に、もし指導するんだったら私は最後まで皆さんと闘いぬくということを言いました。これはもう過去の、マルクスだって皆そうじゃないですか。マルクスだってパリ・コミューンの時に反対したんですよ。あれはブランキストだとかいろんな連中が入りこんで危険だからってことで、反対したにもかかわらず、あのパリ・コミューンの労働者が立ちあがった時にはマルクスはどう言ったかというと、あらゆる言葉を使って彼は支援しているじゃないですか。

 

 つまり、いろいろな経験があり、いろいろな問題があったけれども、立ちあがった労働者にたいしてこれを絶対非難しなかったですよ。それが革命家じゃないですか。だから批判されるべきはそれを指導しとった連中なりね、脱走した連中は批判しなきゃいけない。しかし闘った人民はどうして批判するんですか。闘った下部の党員連中は、あの連中は冒険主義に踊らされていたんだと言ってですね、彼らの名誉を損ないね、彼らを党派の犠牲にしてしまうっていうことは。われわれは徳田派でもなければ、何派でもないですよ。とにかく朝鮮戦争を黙って見ておれない、何としても朝鮮人の諸君に訴えて戦争を早くやめさせたいということで闘ったのであって、共産党の戦略・戦術ということは頭にないですよ。

 

 だから問題はそこにあるんで、どうかひとつね、大須事件は過去の問題じゃないと、今日にもなおこの問題は私たちにとっては大いなる教訓を残しているし、特に一九四十年代から五十年代にかけての、日本の憲法がね、あそこから壊れていくんですよ。自衛隊ができね、最初は警察予備隊、それから保安隊、そして自衛隊になっていくという、あの過程とこの事件とがずーっとつながっていくわけですね。ですから、学生諸君は特に現代史をしっかり勉強してもらって、たとえばスターリンが死んだ時に、三月六日に死んだんですけれどもね、三月六日の日はラジオを一切つけなかったんですよ、刑務所は。普通だいたい夜六時から八時まではラジオかけるんですよ。その日に限ってラジオをつけなかったんですよ。で、看守呼んで、どうしてお前ラジオきょうはかけないんだって言ったら、いや、酒井さんだけに言うけど、実はスターリンが死んだと。で、スターリンが死んだから共産主義者は皆首つって死ぬんじゃないかと(笑い)いうことでね、夜中に三べんも四べんも見に来たんですよ。普通はだいたい一回か二回で巡回ね、それも一時間ごとに巡回に来るんですよ。何でそんなに巡回に来るのって聞いたら、首つるかもわからないって。いや、それぐらいスターリンの権威っていうのはあったんですよ、当時はね。

 

 今から考えれば笑い話だけどね。やっぱりスターリンはまさにもう信仰の対象だよね、彼は絶対に間違わないというように思いこまされとったんですよ。日本の共産党員でスターリンを批判した人は一人もいなかったんだ。あの頃はね。ですから、そんな立派なことは言えないですよ。自主独立なんてごく最近言い出したことでね、だいたい自主独立って言葉に私は矛盾があると思うんですよ。もともと共産主義者とか共産党とは自主独立じゃないんですよ。われわれはインターナショナルでしょ。こうタテじゃないんですよ。ヨコなんですよ。階級対階級、人民対人民じゃないですか。戦争に反対するっていうこの人民の連帯があれば戦争を防げるんじゃないですか。国家じゃないんですよ。だからもう、国家なんてものを絶対に信用しちゃいけないですよ。

 

 党でもそうだ。党でも日本共産党は自主独立って言う。自主独立なんて言わなくたっていいですよ。そういうことを言うってことは自主独立してないからなんです(笑い)。私は清純ですよ、処女ですよって言うのと一緒であって、つまり自分でそれを強調することではないからなんですよ。だから、特別に科学的社会主義だとか何とか言わなくてもいいじゃないですか。社会主義でいいじゃないですか。社会主義が右から左まであってもいいじゃないですか。いろんな社会主義があってもね。どの社会主義がいいなんてことはね、やってみなきゃわからんじゃないですか。だから、広い意味での日本の政治を良くしよう、日本にまともな、働く者の幸せになる社会をつくろうという勢力が皆力を合わせて、団結すりゃあいいじゃないですか。

 

 共産党だけで革命やるべきじゃないし、社会党だけで革命やるわけじゃないんだから。だから、われわれがまず、自分の住んでいる所から良くしようということで、世界の労働者と、世界の人民と連帯して、われわれは日本でやると、お前たちはアメリカでやれと、中国でやれということで、皆が連帯してやれば、私はいいと思うんですよ。だからどうか、いちばん大事なことは、主権とか国家とかそういうものがあったらちゃんと気をつけてくださいよ。そういう言葉が出てくる時は必ず危ないんだから。戦争をやる時だとか、ナショナリズムね、国益を守れとか、言い出した時はいちばん危険なんですよ。

 

 国益って何ですか。つきつめて言えば国家って何ですか。国家が人民の権利守ってくれましたか。今拉致された五人の方々はじゃあ二十四年間守ってきましたか。日本の国家何してきたか。今まで放ってきたじゃないですか。今度は、そいつを、向こうが困ってね、いわば取り引きの材料に出してきたんでしょ。それをこちらが乗っかってですね、そして取り引きをしようというんでしょ。つまり国家と国家の、北の金正日と日帝の、お互い利益があるから、取り引きやってるんですよ。その取り引きのために、あの家族の人たちは利用されているんですよ。

 

 だって考えてごらんなさい。じゃあ今日本人でいるあなたは、本当に日本人じゃないんだけど、あなたアメリカ人だよ、と言われたらどうします? 明日からアメリカ行きますか? そんなわけいかないでしょう。だから子供たちだって困っているんですよ。朝鮮人として育ち、朝鮮人の友だちもでき、生活してるじゃないですか。それを明日からお前は日本人だから日本に帰ってこいと言ってですね、今度はこちらを拉致しちゃったんですよ。そんなことは全部国家的な利害でやってることであってね、皆テメエの自由にしてやりゃあいいじゃないですか。向こうに行こうが帰ろうがお互い自由に行き来できるようになればね、時間が解決しますよ。親子の問題はね。言葉の問題も。それを無理やり拉致しちゃってね、今度行かせないぞって拉致しちゃった。それで向こうから連れてくると。

 

 で、無理やり洗脳して日本人にしてやるってんでしょ。日本人になんなくたっていいですよ。朝鮮にいて朝鮮で朝鮮が良くなるために働けばいいじゃないですか、朝鮮人として。べつに国境なんかどうでもいいですよ。国籍なんかどうでもいいと思うんですよ。人間としてね、まともな生活できればいいじゃないですか。それをむりやりね、国籍だとか主権だとか国家ということにこだわってね、そしてあの家族たちを苦しめているんじゃないですか。僕の考え方間違ってますか。どうぞ。間違ったら批判してください。私はそういう意味では愛国者じゃないんですよ。非国民かもわからん(笑い)。

 

 でもこの時には私は愛国者だと言っていますよ、自分は。なぜかというと、アメリカ帝国主義と正面から闘っていると、日本の主権が害され、日本人民がアメリカの直接支配下にあったからね、私は愛国者だったんですよ。しかしいま愛国者になっちゃいかんですよ。いま逆なんです。いまは愛国って言葉を捨てなきゃいけない。愛の次には何が来るんですか。人民ですよね。自分の家族、自分の兄弟、自分の親、そしてこの自分たちの愛するこの日本の、われわれのふるさとじゃないですか。われわれの国というのは。国家なんかじゃないですよ。国家が何やってくれたんですか。国家がやる時にはもう人殺しする時だけですよ。国家が役にたつのは。

 

 私も一銭五厘で引っぱられたし、火炎ビンをつくらせられてね、陸軍がやったんですよ、あの火炎ビンっていうのは。共産党じゃないですよ、あれ。あれはノモンハン戦争の時にですね、日本陸軍が、もう武器がなくなっちゃって、困ったあげくにですね、あの火炎ビンっていうのを作ったんですよ。そして戦車の上飛び乗ってね、そして戦車の上から投げつけて、中におるソ連の兵士を殺すんですね。焼き殺すんですよ。そのために火炎ビンっていうのは開発してるんだよ、関東軍がね。それを日本共産党が学んで、日本陸軍がやったのを、火炎ビンをつくったんですよね。これ抵抗の武器なんですよ。人を殺すような爆発物でも何でもないんです。あれ、脅かしなんです。ロシア革命やった時に、いちばん最初使ったのは、モロトフ・カクテル。モロトフというのがですね、モスクワで暴動起こす時に、やったのが、この火炎ビンなんですよ。歴史的に私も研究しましたけどね。火炎ビンの作り方も私日本陸軍でちゃんと勉強しましたよ。

 

 先ほどちょっとね、どなただったかな、酒井さんなぜ人民という言葉使われたんですか、という質問が出たんで。どうぞおっしゃって下さい。私が人民という言葉をさかんに使ったものだから。どうぞ。

 

 <質問4> 人民という言葉とその使用

 

 ここへ来ましてね、皆さんもどうか知りませんけれども、私が二十、三十代頃に学生運動、あるいは労働運動をやっていた方は、ここ入ってきて、相当びっくりされたんじゃないかと思います。で、私ね、なんせタイトルを見てびっくりしました。何をびっくりしたかというと、人民という言葉を見てびっくりしました。私が学生運動、労働運動をやっていた頃は、さかんに使っていました。だけど、今のこの時勢で人民という言葉は、先ほど酒井先生にトイレの所でちょっとお話しましたけれども、人民という言葉を使えば、今の人たちからは宙に浮くんじゃないでしょうか。そういうアピールの仕方はまずいんじゃないでしょうかというようなことを申しあげました。むしろ市民だとか民衆だとかそういう言葉の方がいいじゃないかというようなことをちょっと漏らしたわけですけれども。

 

 私もこれを見て、すぐにこのメッセージを見せていただきました。そうしたら、このメッセージの中に、一言も人民という言葉は出ていません。見て下さい。この都留さん、あるいは脇田さん、庄司さん、それから学生の方々、愛大および名大のメッセージは。私たちの頃は人民という言葉をさかんに使っていました。ところがね、この愛大、名大のメッセージの中には、人民という言葉が一言も出てきません。でありますので、私は酒井先生に、人民という言葉は今の人たちに使ってもいいんでしょうか。話していると長くなりますので、僕はリンカーンの人民の、人民による、という言葉で、すぐに思いますけれども、今の人民ではどうも、だけどね、侵略戦争という言葉を使う場合には、侵略戦争という場合に、やはり人民。市民弾圧、国民弾圧じゃなくて、やはり侵略戦争といった場合には、やはりそれを受けて、人民とやった方がいいのかなあということを思ったわけですけれども(拍手)、ただ、長くなりますので省略します。

 

 もう一つ。二つだけ申し上げます。一つは、この前大杉栄とその時代という集会の所で酒井先生ににお尋ねしたわけですけれども、じつはこの中でどのくらいの方が覚えているか知りませんけれども、今年の七月七日、大須事件五十周年記念集会が開かれています。それは法要と、集いと、レセプションが行われています。で、私はなぜ大須事件に関心をもっているのかと申すと、私の教え子が、この大須事件に関連し、そして逮捕され、投獄し、それが私のかわいかった教え子でありますので、これまで七月七日の時にその教え子も出るからと言って私も出るつもりでいましたけれども、いろいろ家庭の事情で出ませんでしたけれども、あとで彼に聞いたら、とてもすばらしい盛会な会であった、という風に私理解したものですから、この前大杉栄の集会の所で、長くなるからいまのは省略します。

 

 一つだけ、これは酒井先生を含めてですけれども、主催者側に要望のようなことでお願いするわけですけれども。せっかくのこの会を無にするのはまずい、というので私自身考えるものですから、ここに、住基、私の介護を脅かしている住基、背番号のことがありますので、これに絡まって、おそらくこれからも私たちはこの会を、このことに関連する集会をやった方がいいと思いますので、それを含めて、大須事件のこの会を消さないためにも、何かこれからの、実行委員さんの方で何か予定があるかどうか、あるいはできたらやりたいということを含めてお願いしたいということで、発言を終了します(拍手)。

 

 <酒井さん>

 

 じゃあ一分だけ言うと。国民と人民、あるいは市民、いろいろ言葉ありますけれども、私は努めて人民という言葉を使うようにしています。しかし国民という言葉を使わにゃならん時があるんですよ。日本国憲法では国民というのが書いてあります。それから法律上も国民という言葉は使われています。で私たち、日本国民であることも事実ですよ。それは否定しません。国籍も日本にあります。パスポートにも日本国と書かれますね。ですから国というのは、国民からいえば、いわば私たちが雇ってるみたいなもんですからね、国籍があると、日本国民であるってことは、やはりひとつの法律的な私たちの証明書みたいなものですから、それは使います。だから国民という言葉が悪いんじゃなく、ただ国民っていう中にはブルジョアも入ってくるし、国籍のある日本人が全部入ってくるんです。

 

 ところが人民っていう考え方の中には、そういうものはありません。ですから、私たちは、闘う時にはですね、人民っていう立場、人民っていう思想で闘います。しかし法律上いろいろですね、私が今の法律を使う時には国民、国籍、あるいは外国のこれからいろんな人とつき合っていく時には日本国民という自分たちの国籍を離れてつき合っていくことできませんので、ですから私は、国民と使うからいかんとかいうことじゃなくて、どんな人民でもやっぱり国をもっている人がいますから、自分の国の、まあ名刺の肩書きみたいなもんですから、それ使ってもいいけれども、しかし自分は自分なんですよね。自分は人民であり、人間であり、一人の個人であるということを忘れないで、国民っていうと何かナショナルな、一つの、われわれだけの、お前たち寄せつけないぞっていうのがあるじゃないですか。それはできるだけ取っぱらっていくということですね。

 

 だから国家なんてのは道具ですから、道具っていう場合は使いにくいから叩き直してやりゃあいいんですからね、ですからわれわれは国家っていうものを使うんであって国家に使われてるんじゃないんですから、国家はわれわれにとってしばらくの間は残しておかなきゃ、国家が必要なくなるまでは国家は道具として使っていくわけで、ですから国民という言葉も使います、私はね。いろいろな私の仕事上、人民という言葉しょっちゅう使っとるわけじゃないですけどね、国民という言葉使いますし、いろんなところで講演する場合に国民という言葉を使いますけれども、しかしそれはまず自分が人民であるという上に立って、国民という言葉を使うべきであって、人民と言う言葉には国籍もなければ国境はないんですよ。

 

 そういう階級的な立場と、それからとりあえず今は国家というものが現実に存在しているから、その国家という一つの枠組みの中で、われわれが物を言わなきゃならん場合もありますから、それは私は、使い分けていくべきだし、けっして国民という言葉使っちゃいかんということを言ってるんじゃなくて、でもできるだけ私は労働者や学生諸君には人民という言葉で呼びかけるようにしているし、やっぱり人民であることを忘れちゃいけないっていうことをですね、自分のいちばん大事な、人間としての自由というものは、何も国家というものに左右されないですから。国民ということになった場合、国家というものとのつながりがね、連想されて、国家に物売ってもらうとか、国家を守るだとか、国のためだとか、お国のためにって、出てきますからね、そうならないためには絶えず人民という意識を自分の中に培っていかないと、われわれは国民になってしまって、国民のあいだはいいけれど今度は愛国者になっちゃうと、そうすると自分以外の奴は全部非国民だってことになるんですよね。だから国家とか国民という言葉を使う時には限定的に使うべきだと私は思っています。以上です(拍手)。

 

 <感想>

 

 どうもありがとうございました。大須事件、いま振り返るという場合に、僕は一万人もの集会が過去名古屋で起こったということで、僕も名古屋大学で反戦の運動をつくろうというんでがんばっていこうという風に思っているんで、そういう闘いがあったっていうんで、さらに確信が増したなあという風に思いまして、そういう人たちの意気を受けて、僕自身もさらに明日からアメリカ帝国主義の戦争をとめるために、頑張っていきたいなと思いまして、ぜひこの場で一言だけでもお応えしたいなと思いまして、感想を言わせていただきました。どうもありがとうございました(拍手)。

 

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