証言 名古屋大須事件

 

―歴史の墓場から蘇る―

 

元被告・酒井博

 〔目次〕

   1、宮地コメント

   2、酒井博『証言 名古屋大須事件』

   3、酒井博略歴

 

 (関連ファイル)         健一MENUに戻る

    元被告酒井博『講演 大須事件をいまに語り継ぐ集い』質疑応答を含む

    被告人・永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』

         武装闘争路線に関する共産党中央委員会批判

    『大須事件・裁判の資料と共産党関連情報収集についての協力お願い』

 

    (武装闘争路線)

    『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』宮本顕治の大ウソ

    伊藤晃『抵抗権と武装権の今日的意味』武装闘争方針の実態と実践レベル

    大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y

 

    (メーデー事件、吹田・枚方事件、白鳥事件)

    『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』共産党の広場突入軍事行動

    『検察特別資料から見たメーデー事件データ』

    増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」

          増山太助『検証・占領期の労働運動』より「血のメーデー」

          丸山眞男『メーデー事件発言、共産党の指導責任・結果責任』

    滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』

    脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』

    中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、「流されて蜀の国へ」を紹介

          (添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」終章「私と白鳥事件」

 

 1、宮地コメント

 

 1、転載と各種太字

 

 これは、大須事件元被告酒井博『証言・名古屋大須事件―歴史の墓場から蘇る―』(大須事件研究会、2002年10月26日)の全文と添付資料を転載したものである。このHPに全文・資料、および、「酒井博略歴」を転載することについては、酒井氏の了解を頂いている。「酒井博略歴」は、別の記録である。文中の緑太字赤太字青太字は、私(宮地)の判断でつけた。

 

 2、大須事件・裁判の表と裏

 

 酒井博は、事件当時、名古屋市周辺を選挙区とする愛知第2選挙区の愛日地区委員長だった。その前後の経歴は、末尾の略歴にある。大須事件には、(1)共産党による火炎ビン武装デモ実行事実、騒乱罪でっち上げ権力犯罪、それとの裁判闘争という表の側面と、(2)裁判闘争過程における共産党内部での意見の対立、共産党による異論者永田末男・酒井博の排斥・除名・干渉という裏の側面がある。その両側面を合わせて捉えないと、事件・裁判の理解が一面的になる。下記の酒井博『証言、大須事件』はその両面を分析している。

 

 ただ、この宮地コメントでは、(2)の裏側に絞ってのべる。共産党宮本・野坂から排斥・除名・干渉をされた共産党名古屋市委員長永田・愛日地区委員長酒井2人の意見内容と行動は、基本的に同じである。よって、永田末男『大須事件最終意見陳述八・九』ファイルで検討した宮地コメント4の個所を、ここにも転記する。転記した個所前後の永田末男ファイル内容は、そちらを参照されたい。

 

    被告人・永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』宮地コメント4以外

          武装闘争路線に関する共産党中央委員会批判

 

 3、宮本・野坂による永田・酒井排斥の5つの指令と言動

 

 宮本顕治・野坂参三は、共産党愛知県常任委員会と大須事件被告・弁護団の共産党グループにたいして、永田末男の主張を拒絶し、彼を裁判闘争の救援活動や被告団活動から排斥するよう指令した。以下の内容は、いくつかの文書、永田・酒井除名決議文書、酒井博元被告の証言、他関係者数人の証言に基づいている。

 

 第一、1964年11月21日、愛知県国民救援会問題

 

 宮本顕治は、愛知県国民救援会から、その中心となっている永田事務局次長・酒井常任書記と離党者藤本功事務局長ら3人を排除しようと策謀した。その背景には、国民救援会の活動方針をめぐる意見の対立があった。愛知県国民救援会は、大須事件裁判闘争の支援活動をする基本組織で、全国的にも強力な運動をしていた拠点救援会だった。松川事件無罪判決後の国民救援会運動の路線をめぐって、愛知県国民救援会は、弾圧事件救援活動だけでなく、冤罪・公害・労働者首きり問題の救援に取り組んだ。共産党中央は、国民救援会を、権力による弾圧事件支援の救援を重点とすべきで、愛知県が主張する路線は、ブルジョア・ヒューマニズムだと批判し、対立した。

 

 この時点、永田・酒井は、まだ共産党除名になっていなかった。藤本功事務局長は、五全協前後の時期、共産党員だったが、点在党員組織隔離措置を受けて、党籍が不明になっていた。彼は、日本敗戦時、大連にいて、石堂清倫とともに、日本人帰国運動を支援したコミュニストだった。共産党愛知県常任委員会は、党中央指令を受けて、近くの旅館を借り、そこを秘密指令本部とし、箕浦一三県副委員長・准中央委員が陣取り、国民救援会会費の長期滞納者も総動員した。県常任委員田中邦雄は、総会に出席できない会員の委任状まで集め、箕浦准中央委員と連絡を取りつつ、総会で3人の排除を迫った。ただ、愛労評も、事態を心配して、動員をかけていた。

 

 しかし、愛知県国民救援会会長の真下真一名古屋大学文学部教授や、総会議長をした役員の稲子恒夫名古屋大学法学部助教授からも、共産党側による排除策謀を批判・反対されて失敗した。それだけでなく、共産党のあまりにも理不尽な3人排除要求と大衆団体乗っ取り策謀に参加会員たちが怒って、逆に田中邦雄ら数人が総会で除名されてしまった。すると、宮本・野坂は、共産党県常任委員会に指令し、次の手口として、共産党員・支持者を集団脱退させ、第2国民救援会という分裂組織をでっち上げた。真下教授・稲子助教授は、脱退に同調せず、国民救援会に残った。共産党は、「真下真一は偏向している」と、党内外で真下批判キャンペーンも展開した。国民救援会本部も、「愛知県国民救援会は、たたかう敵を間違えている」と、党中央の批判キャンペーンに同調する宣伝を行なった。これにたいして、新村猛名古屋大学名誉教授は、岩波書店『世界』において、『人権と平和』論文を載せ、そこで共産党のブルジョア・ヒューマニズム否定論と大衆団体乗っ取り策謀を痛烈に批判した。

 

 ただ、このような大衆団体乗っ取り策謀、共産党批判者排斥作戦、または、それに失敗したら第2組合的な分裂組織でっち上げ方針は、宮本顕治が、1960年代に、学生運動、文学運動で大展開した路線の一環である。スターリン崇拝者宮本顕治は、スターリンのベルト理論を信奉して、あらゆる大衆団体を共産党の路線・方針を大衆に伝導するベルトに変質させるために全力を挙げた偉大な共産主義的人間である。愛知県国民救援会問題も、彼の一貫した、宮本顕治に忠誠を誓う共産党系大衆団体づくり策謀の中で位置づける必要がある。彼の大衆団体戦略は、1972年民青問題から80年代の4連続粛清事件まで続いた。

 

    『新日和見主義「分派」事件』民青幹部を宮本忠誠派に総入れ替えする宮本式クーデター

    『不破哲三の宮本顕治批判』日本共産党の逆旋回と大衆団体支配の宮本式クーデター

 

 第二、1965年6月8日、永田・酒井除名と表裏の3つの除名理由

 

 彼らは、永田末男と被告人酒井博を除名した。酒井博は、事件当時、愛知県春日井市を含む愛知第2選挙区の愛日地区委員長だった。2人の除名理由は、表裏で3つあり複雑に絡まっている。

 (1)、表向き理由は、1965年4月8日、名古屋市公会堂における集会とその後の懇談会に参加したことである。それは、除名されていた志賀、鈴木、神山、中野らによる集会で、愛知県の党員600人が集った。また、酒井博が「日本のこえ」を配布したことを規律違反とする除名だった。集会と懇談会に参加したこと、機関紙配布行為だけで除名にするのは口実であって、真の除名理由を隠した別件逮捕というべき処分だった。というのも、永田・酒井は、「日本のこえ」に加入していないからである。永田末男は、志賀から組織加入を誘われたが、明確に断っている。この別件逮捕手口は、批判・異論党員を党内外排除する宮本顕治の常套手段である。彼が「日本のこえ」関連で除名した党員は、党中央公表で63人にのぼる。

 

 (2)、真の理由は、大須事件裁判闘争方針をめぐる意見の対立だった。対立の内容は、下記の永田最終意見陳述にある。1955年六全協で、共産党宮本・志田は、極左冒険主義の誤りというだけで、大須事件その他具体的な武装闘争事件にたいして、なんの自己批判も総括もしなかった。名古屋に派遣されて、火炎ビン武装デモ決行を党中央軍事委員会として命令した党中央軍事委員岩林虎之助は、事件後瞬時に東京に逃げ帰った。1958年第7回大会において、彼も、何一つ自己批判せず、中央委員の機関推薦リストに載った。永田末男は、岩林虎之助を強烈に批判し、中央委員リストから外させた。第7回大会でも、宮本・野坂らは、武装闘争の誤りは2行の記述で隠蔽した。事件後それまでの6年間、メーデー事件と同じく、共産党は、少数の共産党員弁護士まかせで、組織的支援をまるでしなかった。第7回大会で支援決議をしたが、それは形式に終った。宮本・野坂が、火炎ビン武装闘争実行者を「武装闘争で崩壊した共産党を再建する上の邪魔者」と見なし、見殺しにするという敵前逃亡犯罪指導者たちに変質したことが明白になってきた。1965年までの13年間の大須事件被告人=事件首魁としての裁判闘争に取り組むなかで、永田・酒井は、宮本・野坂らの「人間性の欠如」「知的・道徳的退廃」を痛感した。

 

 大須1万人集会と3000人デモ行進は正しかったし、それを指導した名古屋市委員長として悔いはない。しかし、火炎ビン武装デモ決行を命令したのは、宮本顕治も自己批判書を提出し、五全協で統一回復していた共産党である。それにたいして、「党は当時分裂していて、当時の方針は党の方針とはいえないから、現在の党には責任もないし、関係もない」と、うそぶいて、恬として恥じない宮本顕治は、敵前逃亡犯罪者以外の何者でもない、という怒りである。

 

 (3)、裏側理由として、1964年の4・17スト中止指令をめぐる党中央批判があった。党中央の4・8声明にたいして、永田・酒井・藤本・片山らは、愛知県国民救援会グループ細胞として、野坂参三議長宛に「4・8声明は反労働者的であり、撤回せよ」との抗議電報を打った。名古屋中央郵便局細胞は、抗議文書を提出した。党中央法対部副部長木村三郎が名古屋に飛んできて、「電報を取り下げれば、処分しない」と、日本酒一升瓶を持ち込んで説得した。彼らは、それを拒否した。一方、愛知県常任委員会は、名古屋中郵細胞3人を、4・8声明、4・17スト中止問題をめぐり反党活動をしたとして除名した。宮本顕治は、自分を一度でも批判した者を絶対に忘れないで、機会を見て、必ず報復するという有名な体質を備えている。

 

 第三、1966年4月10日、永田末男の被告団長解任問題

 

 宮本・野坂は、被告・弁護団の共産党グループにたいし、被告団第17回総会で、反党分子永田末男の被告団長を解任させ、事件当時の軍事委員長芝野一三に変えるよう命令した。共産党グループ会議は激論になった。永田・酒井は当然納得しなかった。総会で決戦投票をすれば、被告団員の永田への信頼度から見て、党中央命令は、否決される可能性も高かった。しかし、それをすれば、被告団が分裂する危険もあった。彼は、名古屋市委員長として大須事件の最高責任者だった。彼にとって、被告団を分裂させるような選択肢を取ることはできなかった。総会は、永田末男が引き下がる形で、事件当時の軍事委員長芝野一三を新団長に選んだ。

 

 第四、1969年3月14日、永田末男の第一審最終意見陳述内容への干渉

 

 共産党被除名者永田末男は、大須事件第一審最終意見陳述をした。そこで下記の(1)目次一〜七において、警察・検察の権力犯罪を告発し、騒乱罪全員無罪を主張するとともに、(2)目次八で、痛烈な共産党中央委員会批判、野坂・宮本批判を行った。(3)、目次九では、裁判所がどうしても、事件を有罪としたいのであれば、被告人中、唯一の共産党指導部の一員である自分だけを有罪にして、他の被告人全員を無罪にするよう主張した。

 

 陳述前に、伊藤泰方主任弁護人・事実上の弁護団長は、被除名者永田末男に「共産党批判を陳述することはやむをえない。だが、宮本書記長批判だけはやってくれるな」と頼んだ。永田末男はそれを拒否し、法廷において、公然と宮本顕治批判を陳述した。伊藤主任弁護人の言動は、もちろん党中央指令によるものである。別件逮捕理由で除名をしておいて、除名指令者宮本顕治が、自分の批判をさせないように、共産党員の主任弁護人に命令して、被告人の口封じをさせるという心情・人格をどう考えればいいのか。

 伊藤弁護人は、永田陳述が終わるや否や、立ち上がって、「只今の永田被告の陳述は、被告団を代表するものでもなければ、弁護団も関知しない」と、陳述八・九内容を全面否定する発言をおこなった。

 

 私(宮地)は、伊藤弁護士をよく知っている。彼は、党中央の裁判闘争方針の枠内で、警察・検察の騒乱罪でっち上げ策謀にたいして戦闘的にたたかった。私は、その側面で彼を高く評価している。しかし、永田・酒井の裁判闘争方針の大転換要求に恐れおののき、それを拒絶し、さらには、排斥しようとする党中央の策略に、共産党員伊藤主任弁護人は抵抗しなかった。彼は、岩間正男参議院議員の秘書だった。宮本顕治は、大須事件裁判闘争方針で意見が対立する被除名者永田・酒井を抱える被告・弁護団を、党中央指令の枠内に押し込めるという任務を負わせ、第一審最終段階から、岩間秘書の任務を解いて、伊藤弁護士を名古屋に派遣した。

 

 党中央派遣弁護士で共産党員を続けようとするのなら、宮本顕治の陰謀に加担・服従するしかなかった、ともいえる。私は、共産党愛知県専従13年間の体験から、彼の屈折した心情を理解できる。しかし、やはりその言動は、火炎ビン武装デモ実行者を見殺しにする敵前逃亡犯罪指導者にたいする怒りを共有できないレベルの誤りである。大須事件弁護団のかなりは、被告団を分裂させないように配慮し、統一公判を保った永田・酒井被告人にたいして、公平・誠実な態度をとっていたからである。

 

 第五、1973年11月1日、第二審・春日正一幹部会員にたいする被告人質問公判への干渉

 

 名古屋高裁第二審の終盤、被告人質問の公判が始まった。永田・酒井は、被告・弁護団にたいして、大須事件にたいする共産党中央委員会の立場を具体的に聞くために、大須事件当時の幹部だった党中央役員を、被告人質問の証人として出廷させるよう要求した。宮本・野坂を呼ぶよう要求したが、党中央は拒否した。何度も要求した結果、共産党は、春日正一幹部会員を出すことを認めた。

 

 当日、春日幹部会員の証人質問にあたって、共産党愛知県委員会は、永田・酒井の質問に圧力をかける目的で、いつになく大動員をかけた。永田・酒井は、午後から春日に質問することになった。ところが、その前に、大須事件弁護団の中心弁護士の一人が、彼らを呼んだ。その弁護士は、2人にたいし「春日幹部会員にたいする2人の被告人質問を取り止めてほしい」と、両手をついて懇願した。

 

 酒井博は「それはおかしい。当時の共産党の動向についてぜひ証言してほしい。被告人質問はその唯一の機会だ」と拒否した。弁護士は「あなたたちの共産党批判はわかる。しかし、私の顔を立てて、なんとか止めてほしい」と頼んだ。永田末男は、その弁護士との長期にわたる、誠実な信頼関係もあったので、「今回は止めましょう」と言って、春日に質問することを中止した。春日は、その結論を聞いて、法廷でもリラックスし、裁判長の質問に答えていた。法廷終了後、春日幹部会員は、2人に近寄り、「党の団結と統一のために」と両手を差し出した。永田被告人は「春日さん、僕らと手を握ってはいかん。反党分子ですよ」「とにかく宮本顕治を法廷に出廷させよ」と要求した。春日は、それに答えず「今日はとにかくありがとう」と言った。

 

 大須事件の弁護団は、騒乱罪でっち上げの権力犯罪とたたかう上で、献身的に活動した。その中心メンバーは、全員が共産党員だった。被告団も、火炎ビン武装デモを遂行した中心メンバーの全員が共産党員だった。裁判闘争方針をめぐって、一部被告人と共産党中央委員会との意見の対立が発生しなければ、被告人と弁護士との対立も起きなかった。現実に永田・酒井問題が表面化したとき、共産党員弁護士たちは、2人の主張と、宮本顕治の指令とのはざ間に置かれ、いずれを支持するのかというジレンマに立たされた。伊藤弁護士は、もともと、宮本顕治の密命を帯びて、第一審最終盤に名古屋に派遣されたので、完全に党中央方針擁護の立場を貫き、矛盾を持たなかったのかもしれない。他の現場名古屋市で活動していた弁護士たちは、両者にたいして、どういう心情を抱いたのか。彼らは、心の奥底で、永田・酒井の主張を支持していなかったのだろうか。しかし、表面だって、2人を支持する共産党員弁護士は最後まで一人も現れなかった。

 

 「敵前逃亡」という用語は、大須事件被告酒井博地区委員長が、パンフや永田略歴書などで繰り返し使っている。これら永田・酒井排斥手口、法廷での干渉を5つも体験すれば、それを行なった指導者たちを規定する日本語は、敵前逃亡犯罪とならざるをえない。

 

 「敵前逃亡」が意味する対象は、(1)武装闘争を指令した党中央軍事委員会、(2)大須事件では、火炎ビン武装デモを命令した党中央軍事委員岩林虎之助、(3)六全協トップになったソ連共産党NKVDスパイ野坂参三・第一書記、武装闘争時代の党中央軍事委員長志田重男、スースロフ・毛沢東の人事指令で指導部に復帰できた宮本顕治常任幹部会責任者ら3人と、(4)地方派遣の党中央軍事委員たちである。

 

 「敵前逃亡」の内容は、武装闘争方針を出し、各地で火炎ビンなど武器使用活動(=Z活動)を指令してきた共産党中央指導部が、1955年六全協後、極左冒険主義の誤りというイデオロギー規定をしただけで、自分たちの結果責任・指導責任に頬かむりして、ほぼ全員が六全協役員、1958年第7回大会中央委員に復帰したことである。問題は、武装闘争の具体的総括公表について、ソ中両党の公表禁止命令に屈服したままで、火炎ビン武装闘争の被指令者・実行者たちに具体的な支援・救援活動をすることを事実上放棄し、見殺しにしたという犯罪行為のことである。それは、国家権力犯罪・刑事裁判への対応姿勢において、共産党中央指導者たちが自己保身と知的・道徳的退廃にとりつかれて、下部の武装闘争実行党員たちを切り捨てた犯罪のことである。

 

 

 2、酒井博『証言 名古屋大須事件』

 

 〔小目次〕

      歴史の墓場から蘇る

      序論・権力犯罪の構図

   一、謀略としての大須事件

   二、裁判の経過と人権問題

   三、大須事件の政治的責任

   四、試論・大須事件の意義

   五、大須事件の今日的課題

   資料1、大須事件の地図

      2、大須事件の年表

      3、初公判における意見陳述(一九五二年十一月十一日)

 

 歴史の墓場から蘇る

 

 歴史は古しといえども常に新鮮である(ハインリッヒ・ハイネ)

 

 この記録は、本年二月二四日に京都の立命館大学で開催された「第五回東アジア平和と人権国際会議」で私が行った「朝鮮戦争・冷戦下の民衆闘争・名古屋大須事件の証言」の報告後に稿を起したものである。

 五〇年前、一九五二年七月七日、七夕祭の夜に名古屋で発生した事件を掘り起すことに何の意味があるかという意見もある。

 

 私は事件の被告の一人として二六年の裁判闘争の結果、懲役二年の求刑に対し執行猶予付き罰金二千円という事実上の無罪をかちとった。事件から五四日目の八月三〇日の夜、騒乱罪の指揮者として逮捕された私は、二三五日の独房生活を闘い抜いた。そしてこの獄中闘争は私の人生に大きな思想的回心をもたらした。それは自己主体の確立であり、権威に屈しない自由な精神への目覚めであった。

 

 保釈後、まもなく国民救援会県本部事務局長の藤本功氏と出会い、彼から思想としてのヒューマニズムと大衆運動の倫理を学んだ。

 藤本氏は、この正月に不慮の事故のためすべての記憶を失ってしまった。一方、大須事件の首謀者として懲役三年の判決を受け三重刑務所で服役、出獄後は松阪市で学習塾を経営していた永田末男氏(元被告団長)は一九九五年一〇月三〇日、大腸癌で倒れ死去した。永田氏は、日本共産党の名古屋市委員長としての責任を最後まで取り続け、その堂々たる法廷陳述は敵陣を圧倒し検事にさえ頭を下げさせた。

 二人の敬愛する同志の一人は故人となり、一人は再起不能となってしまった。

 大須事件闘争史を書くと約した二人の同志の志を私が継ぐことになった。

 

 米日帝国主義者が侵略戦争を開始した現在、労働者、市民、学生は六〇年安保闘争に迫る反戦闘争を展開している。この重大な歴史的瞬間に遭遇し、権力の弾圧を怖れず英雄的に闘い抜いている人民の戦士たちに敬意を表したい。最も保守的な地方といわれた中部の民衆の革命的情熱が労働者、市民、学生諸君に脈々と継承されていることを私は信じている。

 

 大須事件五〇年の七月七日に、別の国民救援会が主催する集会が名古屋市内で開かれた。この会には元被告らが参加したようだが、私は案内されなかった。

 事件当夜警察によって殺された申聖浩君をはじめ、鬼籍に入った被告の法要と記念碑の除幕の後、事件現場の岩井通り付近を行進したと新聞は報道した。私は法要に反対はしない。だが記念碑は誰のために建てるのか。被告たちの長い年月の苦闘とそれを支援した人々の連帯の善意は忘れずに記憶されるべきだ。

 

 ドラマは終った。だがもう一つのドラマは未だ闇の中にうごめいている。

 それは謀略を演出し挑発した仕掛け人の摘発であり、さらにもう一方の主役である敵前逃亡した指導者たちの責任の解明である。人民の歴史の中で、真実は常に支配者によって隠蔽され、抹殺されてきた。そして支配される者へは忘却という睡眠薬が与えられてきたのだ。

 

  “すべての世界史的な大事件や大人物はいわば二度あらわれるものだ。

  一度目は悲劇として二度目は茶番として”(マルクス『ブリュメール十八日』)

 

 半世紀の歴史の頁がめくられ、二度目の大事件が現われようとしているいま、大須事件を歴史の墓場から蘇らせるためこの報告は書かれたのである。

 

名古屋大須事件元被告 酒井博

 

 序論・権力犯罪の構図

 

 二〇〇二年七月七日は、名古屋大須事件のちょうど五〇年に当たる。死者の回忌は宗派によって異なるが大体五〇年で終わっている。しかし、歴史上の大事件はその評価を含めて消え去るということはない。

 まして政治的弾圧や冤罪事件は、その真実が謎に包まれたまま世紀を超える場合が多い。有名事件だけでも一八九四のフランスのドレフュス事件、一九二〇年アメリカのサッコ・バンゼッティ事件、一九三三年ドイツ国会放火事件などがある。日本でも満州侵略の発端となった一九三一年の柳条湖事件、敗戦後も別表の通り一九四八年の帝銀事件はじめ数々の冤罪事件、一九五〇年六月二五日の朝鮮戦争勃発以降の政治弾圧事件へと続いている。それらの事件を大きく分類すると、次の三つのパターンに分けられる。

 

 ○官憲の違法捜査による冤罪型

 ○権力の挑発による政治弾圧型

 ○謀略によるフレームアップ型

 以上の型は重複している場合が多く一概に分類はできないが、憲法に保障された人権蹂躙で共通している。

 

 さて、私の主題である「証言・大須事件」について、焦点を絞って報告することにした。本稿は、新たな侵略戦争に画面している現在、謀略と弾圧への日本人民の抵抗の教訓として生かされることを願って執筆した。以下次の五つの視点から事件を検証する。

 一、謀略としての大須事件。二、事件の経過と人権問題。三、大須事件の政治的責任。四、試論・大須事件の意義。五、大須事件の今日的課題

 

 一、謀略としての大須事件

 

 帝銀事件と占領下の事件

 

 一九四五年のポツダム宣言受諾によって無条件降伏した日本政府は、GHQの管理下におかれたが、一方では戦争犯罪の追及や財閥解体などの民主化政策も進み、労働運動もかつてない昂揚をみせていた。しかし、第二次大戦後のアジアと欧州における覇権をめぐり米ソの冷戦が始まり、一九四六年二・一ゼネスト禁止を契機に旧体制への逆コースを歩み始めたのもこの頃であった。

 

 一九四八年一月二六日に起きた帝銀事件は謎にみちた事件であった。この事件は新憲法の精神とあい容れない旧刑事訴訟法によって「自白」が唯一の証拠として有罪にされたこと。捜査方針が旧軍関係から平沢貞道の個人犯行に切り替えられたこと。背後にGHQの黒い影があったことなど、平沢の無実が明らかになった今でも真犯人追及は行われていない。

 

 帝銀事件は一九四九年の下山、三鷹、松川事件への先触れとして朝鮮戦争下の日本再軍備の第一歩となり、司法の独立と人権を有名無実にした点でその重大さははかり知れない。

 生物化学兵器が、現代の戦争において最も効率的なジェノサイド作戦に使われているのは周知の事実だ。

 

 いまアメリカ市民を恐怖に陥れている炭疸菌にしてもアメリカと旧ソ連が競って開発したものである。すべての事件には同時代性があり政治性があり、また地域的特性がある。一九五二年に起きた一連の騒乱事件、東京のメーデー事件、大阪の吹田事件についても、事件の背景や形態、地方的な特性を見ておく必要がある。単純に「火炎瓶闘争」とか「冒険主義路線」とレッテルを貼ってしまうのは不毛の清算主義であり、政治的には無責任でもある。

 

 騒乱事件の挑発者は誰か

 

 大須事件は、日本共産党とその傘下の団体が関与した事件で、デモ隊が火炎瓶を投げて警官隊に抵抗し、四百人余が検挙され、長期裁判の結果「騒乱罪」が成立した事件である。

 大須事件の法廷では、デモ隊と警官隊のどちらが先に仕掛けたかが争点となった。

 

 第一は、この事件はデモを計画、指令、実行した共産党の現地指導部の意図に反した街頭での実力行使という構図となったこと。

 第二は、デモ隊側は火炎瓶の先制攻撃をしなかったのに、何者かによる火炎瓶の投擲があり、それを契機にデモ隊へ銃撃が開始されたこと。

 第三は、事件当日の昼、私服が商店街に警告を行ない、岩井通三丁目路上をデモ隊鎮圧の現場として設定するなど、ワナが張られていたこと。(警官による街路灯の消灯、戸締まりの指示など)

 

 次に、警官によるデモ隊への銃撃が正当な行為であったかどうかである。

 警察官職務執行法(一九四八年七月)第七条の武器の使用に関する規定に違反して逃げていく群衆めがけて実弾による水平射撃を行い、半田高校生の申聖浩君(十八歳)の頭部を背後から撃ちぬき即死させたのは職権乱用による殺人である。しかも、この銃撃を直接指揮して名古屋市警本部長表彰を受けた中警察署の清水栄警視は、裁判所の証人喚問にも出頭せずに失踪し、その生死が不明になっている事実がある。さらに、法廷に提出された現場写真(毎日新聞提供)では、警察の放送車の内部に火炎瓶の残骸があることは認められたが、窓ガラスの破損はみられず、デモ隊が投げた火炎瓶がどうして内部発火したのか不可思議だ。内部発火は警官以外の誰ができるか? 犯人を特定できなければ事件は成立しないのだ。

 

 もう一つ、数年前知人から教えられて始めて知って驚いたことがある。

 マスコミがこの事件の報道で警察のデッチ上げに協力した事実を証拠写真と共に掲載した本があった。

 それは、事件から四十二年後の一九九四年四月、情報センターが出版したフォトジャーナリスト新藤健氏の著書『写真のワナ』である。“ビジュアル・イメージの読み方”という副題がついていた。

 

 (以下は新藤氏の著書から引用)

 (〜騒乱罪の適用という微妙な判断を含むこの裁判でも、写真が大きな比重を占めた。おかしなことに、この裁判で検察側が提出した現場の写真の証拠写真は、すべて新聞社が提供したものばかりだった。事件当日、名古屋市警は鑑識課員二人によって現場写真を撮影したが当局は「鑑識写真はすべて失敗してしまったので、新聞社から提供を受けた」と、その現場写真を証拠として申請した。とはいえ、この裁判で不可解なのは、失敗した理由や失敗したフイルムの提出などそのこと自体の立証もせず、ウヤムヤになっていた点である。……なぜ、当局側は新聞社の提供写真だけで証拠を申請したのだろうか)

 

 合成写真によるデツチ上げ

 

 現場証拠写真()をよく見ていただきたい。

 左側道路上の群衆の膝のあたりに鬼火のように炎が浮かんでいる。

 これは当局側が火炎瓶の炎上状況をできるだけハデに見せるためにデッチ上げた合成写真だ。毎日新聞7月8日朝刊には、当局が証拠として提出した現場写真()()を合成した写真が掲載されている。

 写真()の右側放送車をカット、デモ隊部分だけを使用し、道路にやはり右側放送車をカットした炎を焼き込んだ写真は、あたかも「火炎瓶暴力デモ」のイメージを強調している。

 

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(2)火炎ビン炎なし(3)デモ隊が棄てた火炎ビン炎(1)デモ隊が投げたかのような合成

 

 写真説明は「投げつけた火炎瓶を尻目にむしろ旗とプラカードを持って逃げるデモ」となっている。事件当夜、一部のデモ隊員が火炎瓶を投げたのは被告側も認めている。一部のデモ隊員によって火炎瓶が用意されていたのも事実だ。しかし騒乱罪の適用を受けるような火炎瓶の投げ方はなかった。警官隊の銃撃と棍棒による殺傷がなければ火炎瓶は使わなかった筈だ。火炎瓶関係で起訴された被告は全員無罪になった事実を見ればわかる。

 

 大須事件から火炎瓶を引けば、憲法違反の公安条例が残るだけで騒乱罪は成立しない。

 同じような合成写真は七月八日付の中部日本新聞(現中日新聞)に掲載されている。

 ()の「炎上する乗用車」は、乗用車と街路樹が右側に写っているが、これは現場証拠写真()を裏返して、六尺棒を持った警官隊の現場証拠写真()を重ねた合成写真なのだ。

   (宮地・注)、写真が不鮮明なので省略。上と同様な合成写真

 

 この事件で検察側は、「毎日」や「中日」以外に「朝日」「読売」「名古屋タイムズ」からも、社名を明らかにしないということと証人尋問もしないという条件付きで現場写真を入手している。こうまでして、当局側がなりふりかまわず「騒乱罪」を立件しなければならなかった背景は何であったか。その理由の三に「朝鮮戦争」と在日米軍の存在があげられる。

 

 当時、名古屋には朝鮮戦争の前線である米軍の第五空軍司令部があった。事件前日の七月六日、中国・ソ連から帰国した参議院議員帆足計、衆議院議員宮腰喜助の歓迎デモに、米軍が接収して司令部としていた住友ビルの五階から窓枠を落し、それを合図に一斉検挙に踏み切った「広小路事件」が発生した。

 

 折しも各地では反戦デモ活動が続き、「朝鮮戦争反対」「日中貿易促進」の動きが活発になっていた。また、大須球場の近くに、駐留米軍人の宿舎「アメリカ村」もあった。火炎瓶で駐留米軍の外車が燃えたのも、名古屋が単なる地方都市ではなく、米軍にとって戦略上重要な地域だったからである。

 

 名古屋市警宮崎本部長が大須事件を「日本一の騒乱罪に仕立て上げる」と豪語したのも、二週間後の七月二十一日「破壊活動防止法」と「公安調査庁設置法案」を成立させるための謀略だった。

 

 二、裁判の経過と人権問題

 

 刑法の騒乱罪とは何か

 

 この法律は一九〇八年(明治四十一年)に施行され、戦後度々改正されたが、時の権力者によって恣意的に乱用されてきた絶対主義天皇制時代の遺物であり、憲法違反の悪法である。

 

 「刑法第一〇六条」騒乱の罪

 多数で集合して暴行又は脅迫をした者は騒乱の罪として、次の区別に従って処断する。

 (1)首謀者は一年以上十年以下の懲役又は禁錮に処する。

 (2)他人を指揮し又は他人に率先して勢いを助けた者は六月以上七年以下の懲役又は禁錮に処する。

 (3)付和随行した者は十万円以下の罰金に処する。

 

 大須事件の法廷で被告と弁護団は、騒乱の認識を持たない民衆に対して、権力が一方的に騒乱罪を適用したことは、法の乱用であり人権侵害であることを徹底的に追及し、騒乱罪そのものの違憲性を弾劾した。

 

 違法捜査と自白強要の実態

 

 多くの公安事件がそうであるが、大須事件も公安警察の違法捜査は日常茶飯事だった。尾行、盗聴、令状なしの家宅捜索など戒厳令を思わせる官憲の横暴は枚挙に暇がない。

 

 被疑者を取調べた警官の暴行は女性、少年に集中した。とりわけ、朝鮮人被疑者への悪意と差別による人権蹂躙は戦前の特高警察と変らぬ非道さであった。この不法取調べについては、私と関係のある被疑者だけでも自殺者二名、発狂者一名、流産した女性一名であるから四百名を超える被疑者全体ではおそらく数十名に及ぶと思われる。

 

 朝鮮人被告の苦闘と犠牲

 

 大須事件には、朝鮮人が全被告の55%と多数を占めた特殊性がある。

 祖国が戦場となり、小牧基地から米軍の戦闘機が毎日飛び立つ現状を黙視できず、祖国の統一と平和のために闘ったトンム達の行動は、日本の労働者人民に深い感動を呼んだ。ただ反戦運動の主体はその国の労働者人民で、在日朝鮮人を先頭に立たせたことは明らかに誤りであり、戦前からの一種の利用主義が当時の指導層にあったことは否定しがたい。一九五三年七月の休戦後、朝鮮民主主義人民共和国の路線転換に伴い、在日朝鮮人は、内政不干渉の立場で日本の政治運動から撤退することとなった。だが、多数の朝鮮人被告を苦難の道を歩ませたことについて、直接間接に彼等の闘争を指導した日本共産党は、自己批判して、彼らに謝罪すべきであった。

 

 以下、朝鮮人被告に対する最終判決の内容をまとめてみた。

 全被告 115名(最高裁への上告者)

 朝鮮人被告 男性54名 女性9名 計63名

 年齢別 20歳末満 男性16名 女性7名 計23名(23名中、最年少は16歳女性、17〜18歳も14名含まれていた)

      30歳未満 男性30名 女性2名 計32名

      30歳以上 5名 40歳以上3名(最年長は46歳男性)

 刑罰別 懲役26名、罰金29名(内女性2名)、無罪6名(女性1名)、執行猶予付有罪27名(内女性3名)

 実刑者 2名(2年6カ月)

 

 一九七八年(昭和五十三年)九月四日、最高裁判所第二小法廷(大塚喜一郎裁判長)の上告棄却の決定によって、大須事件の裁判は終結し、騒乱罪は確定した。

 この判決の不合理性は、五名の実刑者(日本人三名、朝鮮人二名)を含め全被告が事実上は無罪であるにかかわらず、不当な拘留と、二十六年余の長期裁判により、生活権と人権を奪われたことであり、日本の裁判史上に一大汚点を残したことである。

 騒乱罪は、一九四九年六月に発生した平事件と共に、大衆行動に恐怖した国家権力の凶暴な本質を露呈したものであった。

 

 三、大須事件の政治的責任

 

 事件は権力の標的だった

 

 刑事裁判としての大須事件は終わった。しかし、事件の真相は未だ闇の中にあるといってもよい。事件は決して偶発的に起きたのではない。階級間の闘争がある段階に達した時点で爆発力として炸裂するのは避けられないのだ。

 

 問題は、その力を正しい方向に導く指導部(前衛)の存在である。戦術上の失敗や狡知に長けた権力側の謀略によって後退を余儀なくされる場合もあるだろう。革命党は、敗北を認めても決して脱走してはならないのだ。多数の活動家たちを犠牲にした闘争の責任を明確にした上で、その自己批判の上にたって革命的総括を行うべきである。

 

 事件の性格は当時の政治社会状況によって規定されていることは確かだ。先ず独立直後の事件であり、日本の権力者にとっては、日米安保条約による軍事的支配下において帝国主義的自立への足固めとして、治安立法を必要としていたことがある。

 

 彼らにとって、その野望達成のために騒乱事件としての大須事件は絶好の標的であった。

 それは第一に、破壊活動取締法と公安調査庁設置法が、事件後の七月二十日に国会で成立していることをみれば明らかだ。

 第二に、朝鮮戦争反対闘争への弾圧であり、東アジアにおける共産主義勢力の撲滅を狙った日米反動勢力による謀略事件であった。とりわけ在日朝鮮人・韓国人への不当な民族差別と排外主義は今日も続いている。

 第三に、占領下に活動を事実上禁止され非公然活動に移った日本共産党の、分裂と解体を狙った政治的陰謀であった。それは、党内に潜入した警察のスパイによる情報の収集や事件当夜の挑発などの証拠によって暴露された。

 

 以上、日米反動勢力による事件の挑発、弾圧に対する日本共産党の政策と戦術については、公式な議論も総括もせずに、第六回全国協議会において「極左冒険主義の偏向」という決議で片付けてしまった。この事件に対する自己批判は遂に行われず、責任をとる中央幹部は一人もいなかった。

 

 日本共産党の軍事方針(四全協、五全協)を忠実に実践して山村工作隊となり、基地闘争などを勇敢に闘った下部党員は逮捕投獄され、悲惨な生活を強いられたのだ。一方、第七回党大会以後、党の実権を握った宮本・野坂指導部は、大須事件を始め全国の弾圧事件被告に対し、終始冷淡な態度に終始した。

 

 宮本顕治(当時書記長)の言い分はこうだ。「事件当時は党中央委員会は不正常な状態にあり、分裂した一方の分派がやった行動であり、したがって党とは関係がない。」

 

 また野坂参三(当時議長)は、事件後、名古屋の金山体育館で行われた党創立四十周年の記念講演で、次の破廉恥な発言をしている。「当地の若い党員が騒いで皆さんに大変ご迷惑をかけました。」

 

 党の最高幹部のこの発言は、多くの党員の憤激を買い、離党者が相次いだ。政治方針や戦術の誤りは、誠実な自己批判が行われれば許せる。だが、人民解放の旗を掲げる党の幹部が、ヤクザにも劣る非道徳的な精神の持主であることを知ったことは、大須裁判闘争を闘った被告の一人として痛恨の極みであった。

 

 四、試論・大須事件の意義

 

 大須闘争の歴史的な意義

 

 大須事件公判における日本共産党の日和見主義路線と一貫して闘い抜き、三・一五事件以来の革命的伝統を堅持した故永田末男同志の遺志を受け継ぎ、「大須事件闘争史」を執筆することを約束しておきたい。大須事件の元被告として、半世紀にわたり闘ってきた私の任務は、事件の真実を記録すると同時に、日本とアジアの人権と平和の闘争史にその座標を位置付けることである。

 

 それは想像を絶する困難な作業である。事件関係者の死去や高齢化と資料の散逸を止めることはできない。私が京都の国際会議に参加したのは、「東アジアの冷戦構造と朝鮮戦争」という大会の主題が、日本現代史の欠落部分であり、日本人の歴史認識の盲点だと思ったからだ。

 

 最後に大須事件の歴史的意義について、私見ではあるが、次にその概要を纏めてみた。

 1、大須事件は、大衆運動として多くの反省点を残したにもかかわらず、朝鮮戦争反対、日中貿易促進という日本人民の悲願を実現する先進的な闘いであった。

 

 2、当夜の街頭行動は党員や労働者だけでなく、子連れの女性や高校生などが参加しており、警察の弾圧さえなければ通行人も拍手を送る大衆的な示威行進であった。

 

 3、冷戦構造下、朝鮮戦争を機に軍事的暴力的支配を強めていた戦争勢力に対する、労働者を先頭とする日本人民の反戦闘争であった。

 

 4、騒乱罪という弾圧法に対し、憲法と人権を守るため、二六年の長期裁判を堂々と闘い抜き、多数被告の実質的無罪を獲得した。

 

 5、帝銀・松川・菅生事件などの権力犯罪や、冤罪事件の被告との連帯と共闘を強め、被告たちが人権闘争の活動家として大きく成長した。

 

 では、なぜ同じ時期に騒乱罪として弾圧された東京のメーデー事件と大阪の吹田事件が無罪判決を勝ち取り、名古屋の大須事件に騒乱罪が成立したのか。その原因について考えてみたい。

 

 抗議デモの計画はあった

 

 この大須事件は、突発性が強かったメーデー事件、吹田事件とはまったく異質な骨格を持っていた。

 東京と大阪での労働者を主力としたデモ行進と比べ、「日中貿易促進」をスローガンとする大衆集会の閉会後の午後九時頃、大の学生が演壇に立上り、「この球場を、三千五百の武装警官が取り巻いている。」と呼びかけ、続いて一人の学生が「我々の敵は警察だ。中署へ行け、アメリカ村へ行け」と叫びアジった。前日の帆足・宮腰歓迎デモを米軍兵士と機動隊が弾圧した憤激の中で、抗議行動への共感が高まり、一般市民の声援があってデモはふくれ上がり、包囲した警察機動隊を圧倒するほどの力を示した。

 

 名古屋市ビューローは、警察の大規模弾圧を予期し、「アメリカ村と中警察署への抗議行動を中止して岩井通りを北進し、上前津交差点を南進し、金山体育館付近で流れ解散せよ」という方針を決定していたのだ。この戦術転換はデモ行進が始まる前に指令として、会場内の公然指導部と非公然の中核自衛隊などに伝えられていたのだ。権力の弾圧体制に肩すかしをくらわせ、大衆的なデモ行進を整然と打ち抜く方針に切り替えたのである。

 

 指導部の自己批判の欠落

 

 大須事件の被告たちは、自分たちは戦争に反対し平和を守るという決意でデモをやり、それに警官隊が襲いかかったという立場を貫いている。しかし、一方で、党の中央指導部による「実力闘争」という指令を受けていたのも事実である。名古屋市ビューロー責任者の永田氏によれば、

 中央の組織部のTから「東京と大阪でやったのに、なぜ名古屋でやらんのか」と激しく叱責されたという。

 

 永田氏は自衛のため一定の準備はするが、警察の暴力に抗議する範囲にとどめるという方針を固めた。その上で、三千人の警官隊の包囲の下で、中警察署とアメリカ村への抗議行動を中止し、大衆的デモに切り替えたのだ。そして、この判断は正しかった。

 

 だが、権力側は騒乱罪を成立させるため、スパイによる挑発を契機に一斉検挙に踏み切ったのである。最初の火炎瓶は、彼等自身の手で投げられたのだ。

 

 要するに地下指導部が企画し、これと大衆の自然発生的な行動とが結合した面と、その間に挑発者が潜入して動いた面が練り合わされた事件である。大衆行動の戦術面の評価は厳密に行われなければならない。闘争に参加した大部分の党員と活動家はあくまでも党の方針を信じて闘ったのであり、不運にも逮捕投獄の憂き目にあったのであり、彼等の勇気と善意を貴重なものとして支援激励するのは当然である。

 

 しかし、党中央の極左的な方針を逆用されて、敵の政治的攻撃の好餌にされた面を見失ってはならない。

 党はこの誤りについて、高い、正しい観点からこの事件全体の点検と調査を行うべきであった。

 

 五、大須事件の今日的課題

 

 歴史の改竄は許されない

 

 「いうまでもなく、一言にしていえば、あらゆる種類の仕事において、無能な人々が有能な人々を指導する役割を帯びているからであり、道徳では最も不道徳な人々が市民を陶冶して徳に至らしめる役をおおせつかっているからであり、そして賞罰の点では、大罪人どもがちっぽけな軽犯罪人の過失を罰するべく任ぜられているからである。」

 

 一八○年前のサンシモンの箴言が今日ほどあらわに表だって見えてきたことはない。それは、同時に十月革命の八五年であり、日本共産党創立の八〇年であり、日本軍国主義の敗戦の五七年である。そして大須事件からの五〇年を含めた歴史のパラドックスは今も絶えることがない。

 

 さて名古屋大須事件の今日的課題について『日本共産党の七十年』をひらき検討してみたい。

 《〜サンフランシスコ「平和」条約発行後のこの時期、個々の党組織や党員の献身的な努力にもかかわらず、党と大衆との結合は、いちじるしく弱められた。その最大の原因は、党が分裂させられた状態のもとで、徳田、野坂、志田らの指導下にあった組織が、ソ連や中国の党の誤った方針に追随して、極左冒険主義=武装闘争の方針と戦術を採用したことにあった。…この武装闘争路線は、徳田・野坂分派のなかに、五〇年秋からあらわれ「四全協」で明確に規定され、さらに「五全協」にひきつがれた。この方針にもとつく誤った活動はとくに五一年末から五二年七月にかけ集中的にあらわれた》

 歴史は常に勝者の手によって美化されるという例が典型的に示されているではないか。

 

 党分裂の契機は、コミンフォルムの野坂批判をめぐる所感派(徳田・野坂)と国際派(宮本・志賀)の対立にあったことは周知の事実である。

 

 宮本は中・ソ論争以後の自主独立路線を誇っているが、スターリンの下僕だったコミンフォルムの武装革命路線に真っ先に手をあげたのは国際派ではなかったのか。中国共産党の「人民日報」の助言を受け入れて「平和革命路線」を放棄した徳田主流派が地下に潜行し、四全協・五全協を経て冒険主義路線に突入していったことは確かに誤りであった。ただ、地方のほとんどの党機関と一般党員は徳田派によって作られた臨時中央指導部を非公然下の党中央機関と信じ、その指導によって活動していた。

 

 五二年の総選挙など公然・非公然の闘争のすべてはこの指導部の名で行われたことも忘れてはならない。いわゆる国際派は、学生組織と文学者の一部と地方組織では中国地方や関西の一部に若干の支持者はいたがその影響力はほとんどなかった。つまり六全協で両派が無原則的な統一をするまでの党の分裂の責任が主流派だけにあったという見方は一面的である。国際派も分派であり、少数派であったというのが正しい見方だ。

 

 これについては、党の副議長の上田耕一郎が、「戦後革命論争史」の中で、「党の統一にあたり、自己批判しなかった只一人の幹部が宮本顕治であった。」と批判したのは宮本の狡猾さを示す有力な証言である。

 

 五〇から五二年にかけて、日本の人民が日米帝国主義の戦争政策と弾圧に対して抵抗闘争を行っていた時期にたとえ誤った路線とはいえ、困難を怖れずに闘っていたそのとき、分裂した両派の指導者たちは一体何をしていたのか。何もしなかったことを唯一のアリバイとして無謬を主張しているに過ぎない。「一将功成って万卒枯る」という兵士たちの悲劇は、将たちの裏切りによって加増されるのだ。

 

 第七回大会と第八回大会を経て、実権を握った宮本派による党史の恣意的な改悪はここから始まった。

 極左冒険主義とは何か。それは党創立以来何度も繰り返されてきた党のテーゼをめぐる混迷と国家権力との苛烈な死闘の谷間で避けられなかった誤りであり、戦前の天皇制、戦後の日米帝国主義との闘いの過程で選択の余地のない決断であった。

 

 右の偏向が議会主義と改良主義で、左の偏向が極左冒険主義であったとしても、その功罪は徹底した事実の検証と誠実な批判と自己批判によってこそ生産的なものとなるのだ。我々がマルクスやレーニンから学ぶのは、人間を裏切らないという思想であり、戦術の失敗や運動の後退から目を背けずに立ち向かう精神である。《ラジカルであるとは事柄を根本において把握することである。だが人間にとっての根本は、人間自身である。》(K・マルクス/ヘーゲル法哲学批判序説)

 

 侵略戦争を推進した者と、聖戦と信じて戦場に倒れた兵士たちを同罪とはいえないのと同じではないか。

 

 反権力闘争に敗北はない

 

 「労働者はときどき勝利を得るが、それはただ一時的に過ぎない。彼等の闘争の真の効力は、その直接の結果にあるのではなく、ただ労働者の団結が絶えず拡大するところにある。」(共産党宣言)

 この偉大な階級闘争の思想は、資本主義が墓場に埋葬されるまでは不変の原理である。もろもろの“修正主義”や“科学的社会主義”はこの原理の逸脱から始まるのだ。明治大学の岡野元学長の川柳「レーニンが涙を流す共産党」が新聞に載った。笑って済む問題ではない。

 

 九月六日の朝、九州の古参党員の方から「昨日のしんぶん赤旗の記事を読んだか」という電話が入った。私は早速その記事を読んでみたが、それは驚くべき内容の記事であった。日本共産党の不破議長は、八月二八日の江沢民中国共産党総書記との会談で次の発言を行っているのだ。『核兵器の使用を許さないという共同の行動を起すにあたって以前のようにアメリカ帝国主義反対の旗を高く掲げる必要はありません。問題は国際的なルールを守ることであり世界秩序を築くことにあります。……ルールを破るものがあれば誰であろうとそれを許さないという取組みが必要です。』

 

 この国際的ルールはいったい誰が決めたものなのか。

 不破議長のこの発言は、国連の決議があれば海外派兵も許されるという自由党の小沢党首とどこが違うのか。世界人民の反戦の叫びを無視してイラクへの核による先制攻撃を放言するブッシュのアメリカを帝国主義として弾劾しなくてもよいのか。資本主義の枠内での民主的改革、ルールある資本主義? への接近、国際的ルールの決定順守と並べ立てると、もはや党の綱領は死んだも同然だ。これは形を変えたブルジョア的法制主義であり、宮本前議長が自派の正統性の手段に使った形式主義と一体のものだ。

 

 不破議長の共同行動論は、国連を牛耳る国々の首脳との談合が正義であり、ミサイルと超破壊兵器によって日々殺傷され、家や子供たちを奪われた民衆への連帯ではなく、また共同行動でもないのだ。階級的、人間的な怒りを失えばここまで堕落する党幹部の姿に、真面目な党員たちの憤激は爆発寸前のようだ。

 

 我々は、いまこそ日本共産党指導部が引き降ろしたアメリカ帝国主義反対、イラク・パレスチナへの侵略戦争反対の怒りの旗を高く掲げて闘わなければならないのだ。帝国主義との闘いは長期かつ困難である。体制の危機に瀕した権力は、しばしば人民の戦列に入り込んだ日和見主義者や背教者たちに助けられてその脈が保たれるのだ。アメリカ帝国主義のむき出しの侵略を強さと見るのか、それとも弱さの現われと見るのか。社会主義の理想に希望はあるのか。我々は今こそマルクス・レーニンに学びながら新世紀を戦争と搾取のない時代に導く責任があるのだ。この崇高な闘いの先頭に立ち、身を粉にして働く仲間こそ我々の同志である。

 

 大須事件の最大の反省は、労働者階級の立場に立った先見性と自己犠牲の精神に富む本当の党がなかったことにある。それは職場で鍛え上げた党組織であり、市民・知識人などに知的・道徳的影響力を与える党員によって構築された司令塔である。

 私は日本共産党の創立八〇年をそのような思いで迎えた。

 

 〔資料1〕 大須事件の地図

 

 

 〔資料2〕 大須事件の年表

 

  1948(S23年) 1・6 ロイヤル米陸軍長官日本を反共の防壁にと演説

             2・6 帝銀事件起こる

             7・10 刑事訴訟法改正法

             7・22 マッカーサー公務員スト禁止の法改正指示→政令201号

             8・13 大韓民国成立

  1949(S24年) 6・30 平事件発生

             7・5 下山事件発生

             7・15 三鷹事件発生

             8・17 松川事件発生

            10・l 中華人民共和国成立

  1950(S25年) 6・6 マッカーサー共産党中央委員の公職追放を指令

             6・25 朝鮮戦争勃発

             7・11 日本労働組合総評議会結成

  1951(S26年) 9・8 対日講和条約・日米安保条約調印

 

  1952(S27年) 1・21 白鳥事件発生

             2・19 青梅事件発生

             2・20 東大ポポロ事件発生

             4・28 外国人登録法

             4・28 東京地裁メーデーの皇居前広場使用禁止は憲法21条違反

             5・1 メーデー事件発生

             5・7 愛知大学事件発生

             6・2 菅生事件発生

             6・25 吹田事件発生

             6・26 高田事件発生

             7・7 大須事件発生

             7・21 破壊活動防止法

                 公安調査庁設置法

                 公安審査委員会設置法

  1953(S28年) 7・27 朝鮮休戦協定調印

 

  1969(S44年) 11・11 名古屋地裁第一審判決(一部無罪)

  1975(S50年) 3・27 名古屋高裁第二審判決(原判決通り)

  1978(S53年) 9・4 最高裁判所上告棄却(有罪確定)

 

 〔資料3〕 初公判における意見陳述 被告人酒井博 一九五二年十一月十一日

 

 私は自由と平和と独立を心から愛する一人としてこの公判の意義がどこにあるのか、その真相は何であるのか、その政治的な意義は何であるのかについて述べたい。何故ならば事件には原因があるものであるから、原因を明らかにしない限りその真相は分からないからだ。

 

 一九五二年七月七日の大須の集会の目的が何であったかというと、これは起訴状にもあるように、帆足計、宮腰喜助両氏の歓迎大会であった。そして、その目的は、再び戦争に巻き込まれないため、真に祖国を愛するため、帆足、宮腰両氏が先に入国した高良とみ女史と力を合わせて、中日貿易について六千万ポンドにおよぶ協定を結んできたということについて、それが国民に大きな光明を与えてくれたことを心から歓迎し、またこの偉大な成果をそのままに終わらせないように、売国奴吉田に対して、一大運動を展開しようというのが、その目的であったのである。

 

 かような超党派的、愛国的な会に対して、真に平和と独立を願うものならば、何を恐れる必要があるのか。何でこの会に弾圧を加える必要があるのか。これらの国民的英雄に、暴力をもって解散を命じ、アメ公と結託して挑戦する必要がどうしてあるのか。もしあるとすれば、それは日本人ではない。われわれはこういう人を、売国奴と呼んでいる。そしてこれらの売国奴が何をしていたのか。(中略)

 結論をいうなれば、この事件は、一方には平和と独立を求める愛国者と、一方には吉田売国奴政府との、矛盾の対立であり、衝突である。

 

 起訴状には、多衆集合して暴行脅迫したとあるが、一体誰が誰に対して恐怖させたのか。誰がピストルを発射して、罪もない民衆を殺したのか。検事はこの点についてもっと明らかにして貰いたい。然し検事はこれを明らかにすることは出来ないと思う。明らかにすれば彼等は、彼等自身を縛らねばならないからである。組織された労働者、農民が必要とするのは、暴動ではなく民族を解放するための革命闘争である。何故ならこれこそ自らの独立を戦いとるための最も正しい方法だからである。このことはフランス大革命以来の不変の原理である。

 

 私は、この真理の上に立って断言する。一体どこの国で、この真理を否定する国があるか。ある筈はない。ないからこそ、吉田は、李承晩を見習って、あらゆる反対を押し切って破防法を作り上げたのである。

 しかし、五・一事件も七・七事件も破防法施行以前であった。

 

 彼等は何とかしてこうした民族解放の闘争を弾圧し、これが広まらぬようにしたいというので、六法全書を引っ張り回した挙げ句が騒擾罪となったのである。この騒擾罪というのは、大正の米騒動以来、めったに適用されたことのない法律でもあるが、こんな古くさい法律を持ち出して輝ける民族闘争を弾圧しようとするのは全く笑止である。

 いわば、二十世紀のドンキホーテである。

 時代逆行を任務とする検事ならばそうかもしれない。然し正しい人は、かかる行動を断じて許すわけには行かないのである。

 私たちは正義と真実のために徹底的に戦うであろう。

 

 もし、検事の面子を立てて、騒擾罪を適用するならば、全く被告としての立場に立つべき者は他ならぬこの反動共である。無警告でいきなり発砲し、女子供、通行人まで殴りつけ、逮捕した者には拷問を加え、国民の権利を踏みにじり、残虐をほしいままにしたこの者にこそ適用すべきである。

 

 何故発砲した警官を取り調べないのか。朝鮮人を打ち抜いた警官を何故逮捕しないのか。或る警官は、殺しようが足らなかったといっている。このような暴力団に血の出るような税金を払っているわれわれに、宮崎市警本部長と公安委員長を法廷に呼んで何故弁明させないのか。彼等は新しい獲物を求めている。五・一事件以来、すべて共産党員なりとの理由のもとに、次々に愛国者を逮捕し、平和を愛する国民を次々に恐怖させ、再び吉田は第一党にのし上がり、そして日本共産党は議席を失った。

 

 真の愛国者のいない国会こそは、再び第三次大戦に突入しようとするための国会を作り上げたことを物語っている。

 然し私は、全体としては、平和の勢力が前進したことを認めないわけにはゆかない。第一党の自民党は、醜い主班争いを行っているが、恐らく三月を出ずしてボロを出すに相違ない。

 

 私たちは愛国的闘争が必ず勝利することを確信する。押さえられれば、押さえられるほど燃え立ち、そしてかかる暴政が続く限り、第二、第三の宮城前広場事件、大須事件が日本津々浦々に起きることを信じて疑わない。そしてこの公判も勝利することを疑わない。

 被告全員が無罪であることは、やがて、真実が証明することと思うが、最後に日本人としての良識をもって公平な判断をされるよう期待して私の陳述を終わる。

 

 

 3、酒井博略歴  僕の78年

 

 1926年7月20日、福岡県筑紫郡に商家出身の父と熊本士族の母の三男として生まれた。3歳で家族と共に上京し、少年期を東京都内で暮らす。母は柳原白蓮の影響を受けた自由な女性であった。叔父の宇野耕雲は武者小路実篤の知遇を得て宮崎県児嶋郡木城村の第一次「新しい村」に参加している。僕の思想は、少年期に白樺派の人道主義の影響によって培養されていた。錦城中学(旧制)3年で実兄の指導のもとに生徒自治会を結成、学園自治報を発刊し軍国主義教育に反対した。

 

 1941年12月、開戦直前、関東中等学校弁論大会で「学園新体制」を批判し「学園自治について」の弁論を行い、入賞したが、翌日生徒監に自治は赤化思想だと問責された。僕はこれに抗議するため期末試験をボイコットした。この頃、国際外語学校内の南鵬会に入塾し、上原専碌にマレー語を学んだ。この塾は国家社会主義者と米国帰りのニューデール派の拠点であった。また孫文の盟友宮崎稲天の子、宮崎熊介の講義を通じ反東条派の存在を知った。中国との和平工作に奔走した宮崎の逮捕によって同塾が解散したため、進学を断念し町工場で旋盤工として働く。

 

 1942年、強制疎開により長崎県北松浦郡の日清鉱業江里炭鉱に就職した。鉱長のT氏は元共産党員であった。

 

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 1945年3月、1年繰上げで招集され、本土決戦要員として房総半島で対戦車肉弾攻撃の訓練中に敗戦となる。敗戦後は、九州北松地区・筑豊地区などで炭鉱労働者の組合結成に参加した。江里炭鉱をパージされ、佐賀県杵島炭鉱に潜入したが、極右暴力団との衝突をへて、戦闘的に鍛えられていった。たまたま朝日新聞への僕の投稿「炭鉱国管に反対」を見た佐賀県委員長の波多然の紹介で日本共産党に入党した。右翼との闘争に勝利はしたが、報復を避けるため一時、九州地区でのオルグ活動から離れることになった。

 

 1947年、2.1スト敗北後、伊丹市の紡績会社で労働組合を結成中に名古屋工場に左遷されたが、組合結成に成功し執行委員長に就任、生産管理中に不当解雇されたが労働委員会に提訴し全面勝利した。争議後、会社の倒産により失職し、居住地区の組織に参加するようになった。愛知県高蔵寺細胞、東春細胞群などを結成。

 

 1948年、日本共産党愛知県愛日地区委員として米軍への供麦反対の農民闘争を指導した。

 

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 1952年7月7日夜、名古屋中区の大須球場(現名古屋スポーツセンター)で「朝鮮戦争反対・日中貿易促進、帆足・宮腰歓迎集会」の終了後、三千人のデモ隊に機動隊一千人が襲いかかり、デモ隊は火炎瓶と投石で反撃した。銃弾で高校生と労働者が死亡、100人近い負傷者がでた。逮捕者は400人に及んだ。

 

 1952年8月30日、愛知第二区の総選挙準備中に騒乱首魁として自宅で逮捕、千種署に留置された。以後235日の独房生活を闘い抜いた。

 

 1953年4月24日、保釈出所。党愛知県委員会の理不尽な査問を受けたが屈しなかった。これを契機に、地区常任をやめて自由労働者となり、大曾根自由労組副委員長、愛知県連書記長を歴任した。

 

 1954年、日本国民救援会愛知県本部常任書記(真下真一会長)。同56年愛知県松川事件対策協議会常任書記(信夫清三部会長)として松川事件被告の救援運動に積極的に参加した。

 

 1964年4月8日、日本共産党は4.17の公労協を中心とするゼネストは弾圧を招く挑発的行動であると反対声明を発表。この重大な裏切りに対し国民救援会細胞名で共産党中央野坂参三宛に抗議の電報を打った。これに驚いた中央法対副部長のK(木村三郎)が説得(抗議の撤回)に訪れたが、逆に追及されて逃げ帰った。翌年4・8声明一年を期し、名古屋市公会堂で日本共産党再建委員会名で講演会を開催し、志賀・鈴木両幹部会員と神山茂夫、長谷川浩などが、宮本一派を徹底糾弾した。この集会は、愛知県委員会指導部の必死の妨害を押し切って党員を含む600人余が参加した。

 

 1965年6月8日、第4回愛知県委員会総会の決議で反党分子として永田末男と酒井博は除名された。この除名は中央委員会幹部会(野坂、袴田等)の確認によって行われた。

 

 1969年11月11日、名古屋地裁で第一審判決。騒乱罪が成立150名中126名が有罪。酒井博は騒擾指揮懲役2年の求刑に対し、附和随行罪で罰金2千円(執行猶予付き)であった。

 

 1975年3月27日、名古屋高裁の判決は一審判決を支持し有罪判決であった。

 

 1978年9月4日、最高裁第二小法廷は上告棄却の決定を下し裁判は終結した。

 この26年間の長期裁判闘争を通じて、被告団長の永田末男同志ら数名と共に日本共産党の日和見主義的指導と対立し苛烈な党内闘争を展開した。公判中に法廷を傍聴したのは、中央幹部では春日庄次郎と神山茂夫だけであった。

 

 1970代以降、新村猛会長のもとに愛知人権連合を結成、帝銀事件の「平沢貞道氏を救う会」始め多くの冤罪事件の救援に従事、代々木派のアンチ・ヒューマニズムとの激しい論争を展開した。新村猛は、著作集内の「人権と平和」論文において、痛烈な共産党批判を記述している。

 

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 1980年代以降、権力犯罪の疑惑に包まれた「水本事件」の真相究明に水田洋名大教授や青木英五郎弁護士と共に参加、この頃より動力車労働組合(現J R総連)の活動家と連帯し、反戦反権力の陣営に身を置くことになった。

 

 1997年5月、神戸連続児童殺傷事件の真相究明と不当捜査を行った検察・警察を後藤昌次郎弁護士と共に告発。ほぼ同時期に憲法第9条・世界へ未来へ連絡会東海地区代表委員に就任し、憲法改悪反対運動の戦列に並んだ。一方、住基ネット差止め訴訟・東海の共同代表(第一次原告)としてプライバシー権擁護の法廷闘争を開始した。

 

 そして現在は、僕の長年の宿題である「大須事件闘争私記」を宮地健一氏等の協力をえて執筆を準備している。

 

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 (関連ファイル)

    元被告酒井博『講演 大須事件をいまに語り継ぐ集い』質疑応答を含む

    被告人・永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』

         武装闘争路線に関する共産党中央委員会批判

    『大須事件・裁判の資料と共産党関連情報収集についての協力お願い』

 

    (武装闘争路線)

    『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』宮本顕治の大ウソ

    伊藤晃『抵抗権と武装権の今日的意味』武装闘争方針の実態と実践レベル

    大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y

 

    (メーデー事件、吹田・枚方事件、白鳥事件)

    『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』共産党の広場突入軍事行動

    『検察特別資料から見たメーデー事件データ』

    増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」

          増山太助『検証・占領期の労働運動』より「血のメーデー」

          丸山眞男『メーデー事件発言、共産党の指導責任・結果責任』

    滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』

    脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』

    中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、「流されて蜀の国へ」を紹介

          (添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」終章「私と白鳥事件」