抵抗権と武装権の今日的意味

『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』解説

 

武装闘争方針の実態と実践レベル

 

伊藤晃

 

 (注)、これは、脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』の巻末にある千葉工業大学教授伊藤晃「解説」全文(P.773〜792)です。副題は、私(宮地)が付けました。というのも、日本共産党の武装闘争方針と実践の実態に関して、今まで、総括的な論考がほとんど出ていません。この解説内容は、そのテーマに関して、きわめて貴重な見解を展開していると考えるからです。このHPに「解説」全文を転載することについては、脇田憲一氏の了解をいただいています。

 

 脇田憲一は、『あとがき』において、次のように紹介しています。本書の「解説」は近現代史研究者の伊藤晃氏に執筆をお願いしました。氏は早くから日本共産党史、「五〇年問題」「軍事闘争」資料、「非合法機関誌・出版物」の諸資料に目を通され、それを研究し、さらにわたしが過去に執筆した『文学ノート』各号の記録や報告・論文等の掲載誌紙、本書執筆過程の草稿すべてを読破するという大変なご苦労を煩わしました。特に抵抗権・武装権の分析と新たな論理展開は、各方面に議論を呼び起こすことを期待しています。

 

 〔目次〕

    伊藤晃解説 (一)  (二)  (三)  (四)

    脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』朝鮮戦争と日本共産党、吹田争乱

 

 (関連ファイル)        健一MENUに戻る

    脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」

    伊藤晃『田中真人著「1930年代日本共産党史論」』書評

 

    『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』

    『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』共産党の広場突入軍事行動

    吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部インタビュー

    大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y

    長谷川浩・由井誓『内側からみた日共’50年代武装闘争』対談

    由井誓  『「五一年綱領」と極左冒険主義のひとこま』山村工作隊活動他

    増山太助『戦後期左翼人士群像』日本共産党の軍事闘争

    れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』

 

 ()

 

 本書は、日本共産党が武力革命の考えをもって行動していた一九五二〜五三年の諸事件、枚方事件、吹田事件、奥吉野・奥有田山村工作隊を扱っている。一九三五年生まれの著者は五二年には一七歳の定時制高校生であったが、民青ついで共産党に加わり、中核自衛隊に組織されて、枚方事件には実際に関与し、ついで奥吉野山村工作隊に赴いた。

 

 武力闘争が惨憺たる失敗に終わったことはだれの眼にも明らかであるから、こんにちもこれを肯定的に語る人はほとんどいない。これを研究しようとする人も現れなかった。そこでこの時期の諸事件、そのなかの事実・経験が全体として歴史から抹殺された形になっている。共産党自身、むしろ率先して隠蔽を作為したのである。当時同党は俗に所感派、国際派と呼ばれる二派その他に分裂し、武力闘争は主流派である所感派が主導したのであった。この事情は、反対派に属して六一年に党内覇権を握った宮本顕治らの一派にとっては好都合であった。武力闘争は党の実権を不法に独占した一派が勝手にやったことで党が正式に採用した方針ではない、というのが宮本らのこんにちに至るまでの主張である。武力闘争を「なかったこと」にする。これはこの「国民に支持されない」不祥事から自分を切り離してみせたい一心でなされていることである。

 

 けれどもこの時期、日本共産党に所属していた在日朝鮮人活動家を含む多くの人が、ここに共産党の革命運動があると信じて武力闘争に加わったことは歴史的事実である。総括されるべきは彼らにとっての歴史であって、あれこれの党内私的派閥の歴史ではあるまい。ことに武力闘争は、おりから戦われていた朝鮮戦争に対し実力をもってする反対運動という意味があった。大衆的な運動で戦争に反対し、介入しようとしたのは、近代日本において始めてのことである。なかでも在日朝鮮人活動家の場合、祖国での戦争を食い止めようという目的は明確であった。彼らが武力闘争で主力ともいうべき重みをもったのには理由があった。日本人と朝鮮人との運動の場での共闘、これもこのような規模ではかつてなく、またその後も経験されていない。

 

 これらのことを研究するとき重要なのは、武力闘争に従事した当事者たちが口を開くことである。彼らの発言はこれまであまり聞かれなかった。共産党に属して口を封じられている場合はもちろん、党を離れた人も、事実を明らさまにすることが運動を傷つけるかもしれないという内面の拘束が働くこと、個人としても苦い経験をいまさら思い出したくないという気持、生活に追われて過去を顧みるゆとりがないという事情など、いろいろな理由があったであろうが、彼らの沈黙は、彼らの意志と行動を歴史から消去しただけではなく、彼らに関心をもつ人びとの一部に、ある観念を固着させることにもなった。それは、彼らは誤った方針のもとで無意味な運動に青春を奪われ、内面に傷を負いながら長く苦難を強いられた犠牲者である、という見方である。

 

 これはもちろん一面の真実であるが、当事者にはまた、そこに一つの留保を置きたい気持ちがあるようである。一人の活動家は言う。「(当時の活動は)私なりに精いっぱいの情勢への対応であった。それへの批判には謙虚に耳を傾けるとしても、私にとって『うばわれた青春』でもなければ、まして『なかったこと』などではもちろんない」(「運動史研究』第四号五二頁、由井誓)。本書の著者も言う。「負の遺産にすぎない、誤った革命路線のもとにあっても、その中で燃えた青春の情熱まで否定することができるであろうか。若しそれらいっさいのエネルギーが一片の決議や自己批判で否定されるのであれば、そもそも革命運動とは一体何なのであろうか」(同右誌同号、六七頁)。

 

 ここから著者の立場が生まれる。自分のかけがえのない体験を他に伝え、後世に残したいという「自分史」、個人的回想、主観的情念の吐露にとどまらず、進んで自分のかかわった運動を冷静に見、自分たちの行動の運動史的意義を正・負にわたってとらえようという立場である。こうして著者は、多くの人の行動を抹殺することで成立してきた共産党史の根本的書きかえを主張するのである。

 

 著者のこの立場は最近にうち立てられたものではない、著者は武力闘争期以後五〇年、当時青年たちが抱いていた社会変革の意志が本当はどういう運動に実現されるべきだったのかを模索しながら、多様な運動に携わってきた。またその間、「運動史研究会」(一九七七年創立)、「大阪労働運動史研究会」(一九八〇年創立)の支え手の一人となり、多くの先輩運動家の話を聴きとり、彼らとの対話を重ねるなかで、自分の問題意識をとぎすましてきた。こうして得た新しい運動思想と歴史批判の方法によって、武力闘争当事者として持ちつづけてきた批判的意識は飛躍し、歴史に施された封印を解く可能性が著者に開けたのであろう。

 

 ことに、運動史研究においては、運動指導部や官憲の手になる文献資料では後世に残されにくい多くのことがらがあることを、著者はよく承知していたはずである。実際、本書によって私たちは、武力闘争期の運動の実状について多くのことを知る。それらにはこれまで語られなかったことがいくつもある。特に重要なのは、本書が当時活動家の内面にあったものを再現するのに力を注いでいることである。彼らは党の命令で受動的に行動しただけではない。これをなすべしという内なる声に促されて彼らは運動に加わった。指導方針なるものは彼らによって具体化され、歴史を構成する一要素になる。彼らの行動は方針の誤りを増幅することもあるかもしれないが、また誤った指導が多少の現実性を取りもどす上で作用することもあろう。いずれにせよこれを研究することによって、私たちは軍事方針の誤りの本質的理解に近づくであろう。誤りの追究は、情勢に対して方針が不適切だったという一片の分析ですむのではない。方針は運動主体の意識に合致した、あるいはそれを高める運動方向と形態を示しえたのか。活動家たちの意志は武力闘争のなかで完全に燃焼したのか。彼らはそのなかで何を感じ、考えることになったのか。

 

 識者はこの時代の歴史的総括をまず共産党に要求する。この善意の要求は無効に終わるであろう。この党が自己の論理からして事実の隠蔽に積極的意味を感じているからだけではない。だいたい、運動総括の資格ある第一のものは当事者たちなのである。共産党の仕事は、総括の場をたくさん用意し、自分も当事者であったもの(責任軽からぬ当事者)として、自らの総括を多くの当事者の総括とつきあわせることであろう。共産党がそれをやらないのだから、当事者たちはたがいに発言を促しあい、自立的に総括を進めるべきであった。本書の最大の意義はこの大事業に着手し、そしてそれに立ってこんにちの活動家・歴史家に思想的共同を呼びかけていることにある、と私は思う。

 

 

 (二)

 

 本書で著者は、枚方事件と奥吉野山村工作隊(独立遊撃隊)については自分の経験を軸として、関係者からの聴きとりを活用しながら記述している。自分が当事者でない吹田事件と奥有田山村工作隊については文献・聴きとりによる研究を行って、具体的過程を検証している。それらの全体から、私たちは多くのことがらについてのイメージを与えられる。上述した活動家たちの内面における能動的意志と情熱はその一つである。運動に入ってまもない、武装という考えなど持たなかった人が武器をとるとすれば、それはどのようにしてか。彼らの「武装」がなにか客観的意義をもったとすれば、どういうものとしてか。共産党は実際に何をねらい、何をなしたか。この党の「本気」はあったとすればどこにあったか。その思想と「指導」は現場に何をもたらしたか。この党にとって党員・活動家は何であったのか。朝鮮人活動家にとって日本の共産主義運動は何であり、日本の運動全体の中で朝鮮人の運動は何であったのか。日本人と朝鮮人はたがいにどう共同しようとし、実際どう共同したか。武力闘争に加わった活動家のその後はそれぞれにどうであったか等々。

 

 これらの諸問題をつうじて、著者は、運動史の長期にわたる研究課題になるべきいくつかの根本問題を提出している。吹田・枚方事件からは人民の抵抗権・武装権の問題、山村工作隊については、それが当該地域の民衆の意識と生活に何を刻みこむことができたのか、それはその後どう残って引きつがれたのかということである。さらに全体として日本人と朝鮮人との共闘による革命運動の国際的主体形成の問題である。ここで三つともに論じてみたいのであるが、紙数が限られているから、山村工作隊については本文を読んでいただくとして、残りの二つの問題について私の考えを述べることにする。

 

 人民の抵抗権・武装権の問題は、これこそ武力闘争批判の基本的視点になるべきものであるが、これについて著者の提出する論理は最終節でふれる。さしあたり必要なのは、武力闘争批判を、火炎ビンや竹槍で米軍・日本警察に対抗するなどはただの夢想だ、という程度の議論からもう一段深めることである。五〇年前後、米軍権力・日本国家権力に大衆的実力で抵抗しょうという情熱が広く存在したとすれば、それほどういう方向へ発展させるべきだったのか。

 

 ここで注意を要することがある。共産党は五一年以降明らかに武力革命の戦略をとった(二月に四全協、一〇月に五全協)。革命運動全体を武力革命という考えに導こうとしたのである。ところがその壮大な構想にもかかわらず、そのもとでの軍事方針は分散的で矮小な行動・組織に具体化されたにすぎない。しかも同党の計画にかかる武力行動が起きる一方で、当時の党文献を調べると、現場での党員・活動家の行動に対して一揆主義、ストライキマン的傾向(政治性を欠いた経験主義、素朴な実践主義ということ)と批判して引き戻そうとする文言がしばしば現れる。武力闘争を指示し、煽りながら、その結果としての行動を恐れ、抑制しようとする。一揆的行動でなく大衆的な実力抵抗闘争を、というのが決まり文句であったが、それは、党の方針を正しく理解しない下部党員の行動がブレるのを党が是正するということである。私には、「大衆」を口実として同党の行動提起に呼応する活動家の情熱を規制したいという願望がひそかに働いていたと思える。党の規制する「統一戦線」からの逸脱こそが危険視されたのである。そこには現実の情勢への冷静な分析もないが、それより首尾一貫性がまったくない。どうしてこういうことになるのであろうか。そもそも共産党にとって武力闘争とは何であったのか。

 

 周知のように、武力革命戦略は五〇年初頭のコミンフォルム批判に端を発している。それは戦後日本共産党の公式方針「占領下革命論」への批判である。米軍占領下であっても人民民主政府による革命的変革に前進することが可能だというこの論は、ヤルタ体制の米・ソ妥協の面に依存し、米軍権力を人民解放の協力者と考えたところに成立した。民主化過程を戦後政治・社会体制をめぐる将来にわたる諸選択の対抗の場ととらえず、その対抗における一勢力であるべき民衆的解放運動の大波に反封建革命を見ていた。いわば歴史的後方からの視線である。これはヤルタ体制の米・ソ対決の面が明瞭になるとたちまち行きづまったのであり、実際、民主化に托された人民的願望の先端的表現は、四八年ころには日本国家と米軍の抑圧に直面した。

 

 四八年、関西での朝鮮人学校弾圧は明白な指標である。そして四九年は共産党の運動が防御的局面に移行する年になった。この年、ドッジ・プラン下で強行された労働者の大量解雇―企業整備と行政整理では、労働省の調査でさえ五〇万余の労働者が職を失ったことになっている。ところがこれに対する共産党の抵抗は弱かったのである。なかでも、最大の焦点は定員法による一〇万人解雇に当面した国鉄であったが、共産党はストライキに反対しさえした。地域人民闘争を軸にした人民的統一の力こそ、解雇を究極的に防ぐべき人民政府に近づく道なのだから、それをストライキで阻害するな、というのである。民間企業でもこの年夏には人員整理はだいたい終わっていた。翌年レッド・パージの追いうちを経て、共産党の経営細胞は多くの企業で崩壊を目前にしていた。

 

 共産党の闘争回避は、四九年九月、団体等規正令にもとづく在日朝鮮人連盟(朝連)への解散命令に際しても見られた。このとき共産党は、外国人でしかないもののために立ち上がることで自分に弾圧が及んでくることを恐れて、党全体で反対運動を起こすことをしなかったと推測される。

 

 こうした不戦敗に対する疑問と不満は、党の指導方針そのものへの批判を全党に内攻させつつあった、と見てよいであろう。それらは占領下革命論への本質的認識に立つというより、それへの単なる反発ないしうら返しでしかないものが多かったとしても、である。大阪では四九年には、朝鮮人学校事件の経験などから、米軍との実力闘争が必要だという空気が若い党員たちのあいだに拡がっていたという(『運動史研究』第八号七七頁、吉田四郎)。こういう状況であるから、コミンフォルム機関紙が突如占領下革命論を批判したとき、これにうなずいたものはかなり多かったと思われる。

 

 コミンフォルム批判は、ヤルタ体制の対立の面を武力方式で押し切る考えを示しているが、その考えをヨーロッパにも全面適用するつもりだったとは思えない。武力闘争の主舞台はアジアであった。中国革命はすでに成功し、ヴェトナム独立戦争、フィリピン、マレー半島などの農民革命運動が、武力闘争を指導する共産党を歴史の前面に押し出していた。四九年一一月、アジア・太平洋労働組合代表者会議での劉少奇の演説は、帝国主義支配への武力闘争を宣言した。コミンフォルムは日本にもそれを適用したのである。

 

 アジアの情勢はともかくとして、日本を見たとき、民主化過程で形成されたアメリカニズムとその同盟者日本支配勢力とのヘゲモニーに目をつぶったのはふしぎなことである。コミンフォルムは、旧封建日本を代表する支配勢力と民衆多数との対立、「植民地支配」に転じたアメリカへの大衆的抵抗のエネルギーを想定し、それらを運動戦に導くことが可能と見たのである(のちに「五一年綱領」もその考えをとった)。日本の活動家もコミンフォルム批判と中国革命方式とを結びつけて理解することになる。

 

 日本共産党の戦後の運動にはこれに応ずる準備はなかったが、しかしまもなく同党は軍事方針を採用する。しかもそれは、批判を狂喜して迎えた志賀義雄や宮本顕治一派(国際派)でなく、批判の対象となり、はじめこれに抵抗した徳田球一・野坂参三らの派(所感派)によって主導されたのである。これはつまり、コミンフォルムと中国共産党の国際的権威を国内に移転させるに際し、各派がそれを独占すべく争奪した結果であろう。この党内権力闘争で、所感派は反対派を排除したが、それは自分たちこそコミンフォルムの方針=軍事方針を実現するものと主張しながら現れることに成功したということである。こうしてこの派は、前述した占領下革命論へのひそかな不満の持主の相当部分をも自派に引きつけることができたのである。そうした不満が比較的強かった関西の現場活動家を基盤とした志田重男一派は、やがて所感派内でのヘゲモニー争いで、他グループ、ことにGHQとの連絡線を握ることを誇った伊藤律のグループを圧倒することになった。

 

 こうして、武力革命は何よりも党内権力闘争におけるスローガンであった。だからそれは占領下革命論のもとでの敗北への本質的批判にはならなかったし、与えられた武装蜂起.ソビエト革命方式あるいは中国革命方式と日本の現実とを結びつける真剣な努力(それはもともと無効であったとしても)もあったとはいえない。武力革命は一個の観念的な公式に止まったわけで、四全協で軍事方針が出されてから五全協まで何の具体化もなされなかった奇妙な空白もこれで説明できる。結局実際運動としては、矮小な組織・闘争形態であってもこれに武力闘争を構成するものとしての種々の名(中核自衛隊とか独立遊撃隊とかの)を与えて、形式上公式を満足させればよいのであった。

 

 現実に武力闘争を実行する力は党組織にはなかったのである。党活動の一部に武装が導入されただけでなく、党の基本組織が非合法化して武力闘争を担うとされたが、党組織の主力であるべき経営細胞はさきに述べたようにすでに崩壊状態に近い。本書にも五二〜五三年ころレッド・パージと武力闘争を経た大阪近郊の党組織の状況についての貴重な証言がある。だから、公式方針では大工場を拠点にすると言ったが、それは紙の上のことにすぎない。実際に武力闘争要員になったのはレッド・パージされた失業者と学生、主力は朝鮮人活動家が担うことになったのである。後方拠点になるとされた農山村にも党勢力が拡がっていたのではない。

 

 武力革命は公式として採用されたのであるから、実際に武力行動が広く本格的に展開されたら、共産党は困ることになったのであろう。軍事の指導機関はYなどと称して存在したが、その指導にはあまり「本気」が感じられない。軍事要員(中核自衛隊員)にこれといった軍事訓練が施されたわけでもないらしい。各細胞で軍事行動が系統的に議論されたということもあまり聞かない。実行された武力行動は、だいたいは火炎ビンや手製の爆発物で権力の最末端やあれこれの「売国奴」を襲う、という程度のものである。あるいは枚方事件のように計画がきわめてずさんである。

 

 このように戯画的で、後日から見れば無意味ともみえる武力行動でも、これを実行するものは自分の全力を振りしぼって本気で行動しなければならない。それは権力の正面に押し出されることなのである。権力側は彼らを捕捉しょうとする。事実多くの人がその網にかかった。

 

 ここで忘れてはならない重要点は、武力革命に根拠はなくとも、党員・活動家の「本気」には根拠があったことである。すでに労働運動は、たとえ経済闘争であろうとも、企業と権力との激しい暴力的な抑庄にさらされていた。大衆的実力による抵抗闘争・自衛闘争は現実に必要であり、それは広く感じとられていた。自分たちの運動を守るために活動家が武器を握りさえする(それは竹槍であれ石であれ)のはごく自然な感情であった。コミンフォルム批判に対してうなずかせたのは、そうした感情もあろう。こんにちでも多くの当事者が、こうした闘争の当然性を確信をもって語る。問題は、ここに根拠をもつ情熱、「本気」、敵に向かって思わず拳を握りしめる敵意と憎悪を、その大衆的な厚みと幅いっぱいに抱擁し、発展させる形態を見出すことだったであろう。このとき共産党の提起した観念の武力革命と矮小な武力闘争の諸形態は適格であったか。むしろ活動家の「本気」は多くがそれらからはみ出したのではないか。大衆的自衛闘争は軍事組織に発展させねばならないとされた(五二年二月、「中核自衛隊の組織と戦術」)。しかしその非合法の軍事組織の実数は二、〇〇〇〜二、五〇〇人程度であるらしい(増山太助『戦後期左翼人士群像』二一三頁)。大衆的熱気をほとんど吸収できなかったのである。

 

 

 (三)

 

 在日朝鮮人活動家のばあい、武力闘争への呼応はより広く存在した。彼らの「本気」と日本人の「本気」との質の違いがそうさせたのである。しかしその「本気」は共産党との矛盾をもより拡大させることになった。

 

 在日朝鮮人の状況は四八〜四九年ころきわめて悪化した。日本国家権力と民衆は戦前の朝鮮人観をそのままに、外から悪を持ちこむ「第三国人」として待遇した。米軍も、民族教育を守り、差別・生活破壊・人権無視と戦い、祖国の平和と統一を願う運動のすべてを、共産主義者の秩序破壊的運動とみなした。朝鮮半島における反米闘争への呼応を恐れたからである。四八年民族学校弾圧、四九年朝鮮人連盟解散、そして五〇年ころ生活保護・職安手帖取り上げ、不当課税、融資打切りに及ぶ生活圧迫は甚だしいものがある。五一年出入国管理令、五二年外国人登録法は、朝鮮戦争下日本の主権回復を期に日本国籍を一方的に奪った朝鮮人への取締りを主たる目的とする。朝鮮人の大衆的自衛抵抗闘争は文字どおりのものであった。

 

 朝鮮本国では敗戦後、米・ソによる分断占領が固定化され、四八年南北両国家並立に至る。南半では四七年からの反米闘争が翌年済州島蜂起へ、その後武力闘争が続き、五〇年には朝鮮戦争が起きる。在日朝鮮人にとっては、祖国で毎日同胞が殺されている事態と自分たちへの抑圧が結びついていると強く感じられた。在日としての諸闘争は祖国防衛闘争と一体化し、朝鮮戦争の後方基地日本での反米闘争になるのである。

 

 朝鮮戦争開始後九月までに、日本での軍需生産・輸送阻止の闘争で在日朝鮮人の検挙者は三〇〇人、と共産党の一文書は伝える。この軍需列車一本止めれば祖国で数百人の生命が救われる、というのが朝鮮人活動家の「本気」であり、軍事独裁下の韓国への強制送還という脅威のなかで、彼らの実力闘争は共産党の武力行動提起に先行したのである。では、このとき共産党の「指導」はどう対応したであろうか。

 

 在日朝鮮人活動家は敗戦後、居住国の共産党に入る原則によって日本共産党に加わっている。しかし朝鮮人大衆運動を共産党が指導できたわけではなく、朝連の運動は独自に進められていたのである。朝鮮戦争下でも同様(共産党には民族対策部があるが、朝鮮人は民戦−在日朝鮮統一民主戦線に結集し、その指導組織ないし行動組織として祖防−祖国防衛委員会、祖国防衛隊がある)だが、共産党はその激発を統制するという考えが強まったようである。英雄主義を称揚する一方で、「朝鮮青年行動隊が経営内労働者の日常諸問題とは無関係に政治的に高度なビラを入れるために労働者をかえって畏縮させ、党機関や労組の積極的な協力を得られない場合がある」とされ(五〇年「在日朝鮮人問題について」)、「少数民族」として「一番虐げられている層であり革命的であることから少数民族だけで支配権力を打砕こうとするが如き極左の日和見」を克服し、革命の「主力部隊との同盟関係を一層密にするよう指導すること」が必要だと言われた(共産党関東地方委「当面の少数民族政策(草案)」五一年三月。主力部隊とは日本人労働者階級のこと)。

 

 朝連解散に当たって共産党はこれをほとんど見殺しにしたのであったが、この態度は五一年にも、朝鮮人圧迫が一つには「わが党をヒボーするための政策から出ている。彼らに対する弾圧によって、わが党との関係を故意にコジつけ、それによって、一方では、わが党を、わが民族とは無縁のものであるかの如き印象をうえつけ、他方では、これによって、わが党に対する弾圧を誘発しょうと企んでいる」(四全協決議)といった文言に引きつがれている。

 

 つまり、この時期共産党の朝鮮人運動統御策は、在日少数民族として基本民族の労働者階級の課題に自分の運動を沿わせ、日本共産党の指導に従うのが「国際的任務」である、日本革命なしに自分の問題は解決しないことを理解して、祖国防衛運動をも日本への米軍支配との闘争、基地反対、再軍備反対、全面講和運動に結合すべきだ、という論理に立っている。朝鮮人の戦闘的であるが「単純素朴」な反抗心(この特徴づけは戦前の共産党が暗に持っていたものを引きついでいる)に発する闘争は、一面利用価値は高いが、他面強く警戒すべきものであった。朝鮮人の「本気」(そこには急進主義もたしかにあるが)と、これを共産党が統御しうる統一戦線で枠づけようとする方針とは、その後もしばしば不協和音を生じさせたのであった。

 

 本書には、五二年大阪近郊で共産党運動と朝鮮人運動とが一体となり、むしろ後者が牽引力を発揮している有様が出てくる。枚方事件では爆破実行がほとんど朝鮮人にまかされたこと、吹田事件でも示威運動の主力がむしろ祖防隊であったことがわかる。運動下部のこういう実体は、共産党が彼らを利用しようとしたのであったとしても、彼らはその政策の犠牲者にとどまるのでなく、彼らの意志で自己の歴史的課題に立向かったのであることを物語っている。これは革命の国際的主体の形成について私たちが研究するとき、忘れてはならないことであろう。六全協後、共産党も朝鮮人側の朝鮮総も軍事方針下の日本人・朝鮮人共闘を否定的に見て、いわば歴史から抹殺した。朝鮮総連の背後には北の共和国がある。朝鮮人活動家が祖国防衛を叫ぶとき、彼らの心には南北を問わぬ統一朝鮮があったとしても、現実に彼らは北の共和国と一体化して戦争を戦ったのである。彼らのこの情熱は祖国からも否定されたのである。彼らが祖国の現実をどう見るようになったかはさまざまであろうが、いずれにしてもその後、日朝共産党の関係はあっても、民衆運動どうしの提携は微弱になった。

 

 

 (四)

 

 日本人・朝鮮人活動家の実力的抵抗への自然の発意に、共産党は、党内派閥抗争上の必要から観念の武力革命と矮小な武力闘争を与えて、彼らの行方を失わせた。この共産党に著者が対置するのが、人民が本来持つ抵抗権・武装権の思想である。抵抗権は、枚方・吹田事件などでの裁判闘争で被告・弁護団が主張した憲法上の人民の権利の範囲内にある。それは無罪をかちとるための論証に使われたのである。それはそれで正しいのであるが、著者の言う武装権はさらに積極的な主張である。本書は、大衆的実力闘争への情熱にその思想がどう発現したかを検証している。共産党によって闘争がある姿をとらされたとしても、その「指導」からはみ出すものがどううかがわれるか。ことに吹田事件の分析はこのテーマを正面から追究している。

 

 吹田事件(六・二五の待兼山集会から吹田駅に至るデモンストレーション)は、著者のみるところでは、主たる軍事行動(伊丹基地攻撃、吹田軍臨列車攻撃、枚方工廠攻撃)のための陽動行動であったが、これらの軍事行動がすべて未遂あるいは失敗に終わったため正面に押し出され、党と官憲がそれぞれの立場から軍事行動として評価したのである。実際の吹田事件は、参加者のなかに「武器」をもつものはおり、したがって参加者の意識において武装デモであったが、そしてそれゆえに警官隊を圧倒したが、本質的には「軍事行動」として武器を使ったのではなく、大衆的示威行動として成功したのだ、と著者は言う。

 

 著者が主張したいのは、まず大衆的情熱のある局面での表現としての武装の正当性であろう。武装の段階、形態はさまざまであり、もたらされる結果にも幅がある。つまり武装はきわめて豊潤な概念なのだが、問題は現実化した武装せる闘争がそのときの人びとの情熱の表現形態としていかに評価しうるかである。人びとが当然のこととしてあれこれの武器を手にとる、この人民の武装を前衛党なるものあるいは官憲による概念化に閉じこめるのではなく、人民が選択の権利を有する、政治運動上の一般的概念として再生させなければならない。著者がとっている(と私は思うのだが)この立場が当時の運動に現れ、議論されていたら、七〇年前後の一部左翼における軍事の聖化(これに対して権力側は、観念でなく多くの選択肢をもつ現実の暴力に立っていた)という事態は少し違ったものになっていたかもしれない。

 

 朝鮮戦争のなかで、活動家たちはこの戦争をやめさせなければならないと感じた。そこに自分たちの「力」を戦争に対置したいという情熱が生まれた。この情熱は一個の確信に高められなければならない。自分たちの運動はこれこれの形態で戦われることで戦争をやめさせる力になる、という確信である。当時現実の問題は、アメリカ・日本の支配勢力の有する格段に高い軍事力を正面からにせよ、ゲリラ的形態でにせよ、破砕することではなく、いま朝鮮での対立を解決する唯一の手段は戦争だという説得が民衆に対して効果をあげている事態、つまり民衆の内面に働く権力側の政治的ヘゲモニーを解体・マヒさせることだったであろう。そのための基本要素が、大衆的な実力による抵抗闘争を実在せしめた情熱である。

 

 どのような形態が、その情熱の幅と厚みいっぱいに、人びとを有効な大衆的示威、米軍基地への行動、軍需生産・軍需輸送阻止行動に向かわせることになるであろうか。それが実現したとき、人びとが自分の力を感じ、問題解決の可能性あるいは必然性を意識する、そこに支配勢力のヘゲモニー解体の第一歩がある。こうした行動は非暴力でなされるかもしれないが、参加者がそれぞれに石を握りしめているかもしれない。ここでは各種・各段階の武装は選択肢なのであり、それをめぐる「指導」は、大衆的情熱が種々の運動形態の有効性にかんする大衆自身の理解にまで高まっていく、その過程に介在すべきものである。

 

 私は、ここに人民の武装に対する歴史的評価基準があると思う。著者もまた、この評価基準を適用することで共産党の軍事方針を明確に批判できたのであろう。くり返すが、共産党は、人びとに実在する情熱を観念のなかで軍事の最高の形態、武力革命にまで飛躍させ、空想であるゆえに空白であるその飛躍の過程を埋めるために矮小な武力行動を提起したのである。そこに現れた諸現象を著者は批判的な眼で見つめている。合理性をもたない運動形態を権威主義的に押しっけ、煽動するときの軽躁といいかげんさ、それにふさわしい「幹部」がつぎつぎと現れてくること、大衆の意識のなかでは軍事行動でないものを自分の軍事方針に押し込もうとすること(奥吉野・奥有田水害救援隊を性急に政治化しようとし、さらに党の工作隊=独立遊撃隊構想を持ちこんだのはその例)など。軍事方針は根本がまちがっているのであるが、そのまちがいの歴史的認識は、当事者が当時の諸現象を批判的に認識する、それらの総合を経て到達されるものであろう。

 

 前述したように、著者は右の評価基準で吹田事件を研究した。この事件で人びとに武器を握らせたのは実在した情熱である。その武器を軍事行動でなく大衆的示威行動として生かすことで政治的成功を見たのだ、と著者は言う。

 

 さらに、著者はこの立場から、全然無意味であるとされて葬られ、忘れられていた諸運動を再検討し、そこに込められていた人びとの多くの経験、考えを発掘し、分析した。これによって、無意味だったはずの運動は、私たちの運動の将来にとって意味をもつ、深い研究を要するものになった。ここにもう一つ、共産党との対決点がある。

 

 自分の提起した運動のなかで人びとの情熱を分散させ、貶めた共産党は、これらの運動を「なかったこと」にし、顧みる意味もないものとして葬ったとき、人びとの情熱を、その存在そのものを否定することでもう一度貶めたのである。この、いわば「戦後責任」の拒否によって、共産党は、権力によって捕捉されながら黙秘によって党を守った党員たちを実際上見放した。訴追された人びとは「誤謬とされた方針に生命がけで挑み、起訴されたが、権力に対しては今後もみずからの人生をかけて非妥協的に闘わなければならない」(『運動史研究』第四号七二頁、吉野亨)ことになり、多くが共産党の冷淡な視線の下でその闘いを全うした。本書の著者もその一人である。

 

 ところが、この戦後責任の拒否は、五五年六全協決議で定式化されたのだが、しかしこのときに始まったわけではないのである。本書はそのことも伝えている。最後にこれについても記しておきたい。

 

 武力行動を指示ないし煽動しながら実際の行動に一揆主義等の冷罵を浴せる態度について前述したが、また共産党は、奥吉野・奥有田に「独立遊撃隊」を作らせながら、数カ月で補給さえ放棄した。この無責任は各地の山村工作隊に共通しているようである。また五二年八月、徳田球一「日本共産党三〇周年記念に際して」なる文章の発表を機として武器の直接行使を引込めたとき、その転換が党員に明示されなかっただけではない。本書に、ある大衆集会で川上貫一が「今後火炎ビンを投げた党員はただちに除名されるだろう」と演説し、その集会防衛のために党の指令で火炎ビンを隠し持って参加していた著者を唖然とさせた話が出てくる。別のある人は、党の指示した行動で被告になったとき、党員弁護士から「君、党はテロをやらないことになっているんだよ」と冷然と言われたという(『運動史研究』第四号七一頁、吉野亨)

 

 共産党にとってはこの責任回避は合理的な行為であった。前に、この党は国民に評判の悪い武力闘争から自分を遠ざけてみせたかったと言ったが、それは結局、自分をまた権力の正面に押しだしてしまうかもしれない民衆の情熱から遠ざかりたい、ということである。このとき、その情熱を自分のこととしてふり返るにちがいない当事者の活動家たちを武力闘争批判の主体にしてはならなかった。むしろ彼らが自己批判(党批判)の意欲をも失うほど、その内面を打ちのめさなければならなかった。著者は六全協に際して、武力闘争事件被告であるという理由で党機関要員から外されたという(それでも著者は意気沮喪しなかったのであるが)。本当は共産党は、被告であるか否かを問わずすべての当事者をこのように扱いたかったのであり、その志向は六全協前から発生していたのであろう。ただし過去について口をぬぐってどんな権力のもとででも生き残るという人もいるが(かつての志田重男派のある部分は宮本覇権後の党指導部に加わった)。

 

 誤謬の訂正の「権限」を党指導部が独占し、当事者を、自己批判の勇気をもつ必要もないもの、誤った方針におどらされたまったく受動的な存在として、冷笑的に扱うことも武力闘争の一つのしめくくりではあった。だがそれはもちろん本当の歴史のしめくくりにはならない。本書はそのことの意識の上に書かれた。私たち読者も、著者とともに、戦後共産党史総括の第一歩を踏みしめているわけである。

(日本近現代史研究者・千葉工業大学教授)

 

以上  脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』に戻る  健一MENUに戻る

 (関連ファイル)

    脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」

    伊藤晃『田中真人著「1930年代日本共産党史論」』書評

 

    『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』

    『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』共産党の広場突入軍事行動

    吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部インタビュー

    大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y

    長谷川浩・由井誓『内側からみた日共’50年代武装闘争』対談

    由井誓  『「五一年綱領」と極左冒険主義のひとこま』山村工作隊活動他

    増山太助『戦後期左翼人士群像』日本共産党の軍事闘争

    れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』