“『五一年綱領』と極左冒険主義”のひとこま

 

由井誓

 

 ()、これは、『運動史研究4、特集・五〇年問題―党史の空白を埋める』(運動史研究会編、三一書房、1979年、絶版)に掲載された論文の全文(P.43〜52)です。運動史研究会は、石堂清倫さんら10人が発起人となり、1977年に結成されました。現在は、解散しています。三一書房に転載依頼の申入れをしましたが、絶版の上に、研究会も解散しているので、関係者に連絡がとれないとのことでした。原文の〔目次〕は、番号だけです。HP転載では、私(宮地)の判断で、各番号に〔目次〕題名を付けました。

 

 〔目次〕

   一、早稲田大学細胞と『五一年綱領』、第一次小河内事件

   二、中核自衛隊=民族解放早稲田突撃隊と火炎ビン

   三、独立遊撃隊編成と小河内山村工作隊

   四、小河内山村工作隊の活動と生活実態

   五、独遊再編成と砂川闘争

   六、新宿地区委員長→山村工作隊の中心・岩崎貞夫の死

   七、「六全協」という終戦・引き揚げ

      由井誓略歴

 

 (関連ファイル)        健一MENUに戻る

    早稲田1950年記録の会『史料と証言』『50年を中心の年表』

    大金久展『「神山分派」顛末記』早稲田細胞と神山分派

 

    『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮“侵略戦争”に「参戦」した日本共産党

       『史上最大の“ウソ”作戦』戦後処理パートの助監督宮本顕治

    吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部インタビュー

    藤井冠次『北京機関と自由日本放送』人民艦隊の記述も

    大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織“Y”

    増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」

    脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」

    中野徹三『現代史への一証言』「流されて蜀の国へ」を紹介する

          (添付)川口孝夫著書「流されて蜀の国へ」・終章「私と白鳥事件」

    れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』 『51年当時』 『52年当時』 『55年当時』

 

 

 一、早稲田大学細胞と『五一年綱領』、第一次小河内事件

 

 五一年。前年のレッド・バージ闘争による退学処分などのため、早大細胞政経班には解散処分前からの党員は津金佑近だけ、その影響を受けていたのが私、その他十数名は全員「分派の影響のない」新しい活動家ということになっていた。細胞キャップのMも同じ政経班にいたわけだが、国際主義者団からの復帰後いっきょに再建細胞の主流になっていた。

 

 九月の班会議でキャップの読み上げた文章を検討したことがあった。農業・農民問題の部分で私が意見というより、ちょっと質問しただけで全員が支持を表明した。これが一カ月後の「日本共産党の当面の要求」(=新綱領=五一年綱領)であった。軍事方針らしきものも会議の話題になるようになり、学生党員の任務も学生運動そのものよりも「労農同盟のクサビ」ということの比重が大きくなってきた。そして早稲田では農村工作の中心に津金、Yと称した軍事問題を私ということが細胞指導部で決められ、二人には、すでに退学させられて他細胞へ転籍したとはいえ、早稲田に思想的・人的に強い影響を持っているOとの関係を切って「新綱領の立場」にたつことが課題とされた。

 

 この年の暮から正月にかけて全党のトップを切るように早稲田の社研のグループが小河内の農村調査に行った。なぜ小河内が対象になったか。石川達三の『日蔭の村』にあるように戦前の三一年、東京市によってダム建設が計画されて以来、工事規模の変更、村民の反対運動、戦争による中断などのあと、工事が再開されたからである。それが朝鮮戦争下、横田・立川の米軍基地への電力供給の軍事ダム反対と山林解放の闘争、山岳拠点の設定など、まさに「新綱領」にぴったりの絵が描けたわけだ。つづいて二月に「新綱領」の精神を体得するためにと、津金や私も加えられた総勢二〇人ほどが党の山村工作隊を名のって乗り込んだ。私は四月の新学年から早稲田で本格的な中核自衛隊の組織化のために三月下旬に山を下りたが、数日後に第一次の小河内事件があり、津金ら二十余名が逮捕された。

 

 この時点での山村工作隊への弾圧は住居不法侵入、窃盗、政令三二五の三つでほとんど処理された。小河内でも社研のときは顧問教授の戒能通孝の名刺で村長や役場の職員が宿舎を提供してくれたが、「山村の赤化をねらう共産党に戒能教授が利用された」との新聞記事と警察の干渉で二月の村の情勢は緊迫していた。定着工作隊として派遣されていた岩崎が持主と交渉、黙認という形で空家になっていた飯場を宿所としたが、所有者に警察の圧力をはねつける力はなく、不法侵入の口実となった。窃盗は森林盗伐を拡大したもので、食事のために付近の山から枯木をとっても対象となった。政令三二五は占領政策の誹謗であり、「新綱領」にもとづく言動はほとんどが該当した。

 

 

 二、中核自衛隊=民族解放早稲田突撃隊と火炎ビン

 

 四月、各学部の党員一〇人ほどが集まって中核自衛隊を結成し、民族解放早稲田突撃隊と名づけ、私が隊長ということになった。Yの活動の指針は五全協で決まったといわれ「軍事問題の論文を発表するにあたって」という前文をつけた『内外評論』の「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない」と『球根栽培法』の「中核自衛隊の組織と戦術」であった。Yは通常の細胞や自治会、研究会の活動とはほとんど縁を切り、コミッサールをおいて細胞との意見調整はしながらも、独自にアジトを設営し火炎ビンづくりなどを始めた。

 

 当時の地区の編成は新宿、文京、豊島、中野の四区で西北地区委員会ということになっていた(これはごく短期のもので、すぐに総選挙区ごとの地区に変更された)。地区内では東大、お茶大など豊島、中野、新宿の落合の居住の各細胞でもYの活動が始まった。地区のY担当者の指導でひんぱんに隊長会議があり、時には合同で京王線で多摩の山の中へ火炎ビン訓練にも出かけた。地区のY担当はTと呼び、新綱領の実現のためには既存の道徳観念を打ち破ることは当然であり、「スリ、窃盗、強盗、強姦―こりやあちょっとまずいが、タタキ、火つけ、とにかくなんでもやるんだ」といってケロッとしているような男であった。それにYというのはアメ帝、権力との暴力的対決に死をかけるんだといった、一般に初めから単細胞的人間のようなものの集まりであったためか、思想問題とか分派闘争に頭をかかえた通常の党内とはちょっと違った雰囲気があった。そんなわけでか細胞内にも加入したいという者もけっこういたし、地区委員のなかにも関係もないのにYの会議や訓練に顔を出して楽しそうなのもいて、ブームのようなものがあった。

 

 メーデーまでには隊のかっこうもついて、火炎ビンも扱えるまでになった。メーデーに関連してなんらかの軍事行動が提起されるものと考えていたら、代々木の党本部へ結集せよとのことだった。当日は本部には同類のようなのが各地区から五〇人ほども集まっていたろうか。臨時中央指導部の岩田英一が『アカハタ』を復刊したから会場で売れといい、余計なものを持ってきていたらここで処理しろとのこと。期待はずれのような気もしたが、二年ぶりのハタはとぶように売れた。行進の出発はしんがりになり、日比谷公園から人民広場へ向かったときはすでに一回日の衝突のあとで、二回目の衝突に加わったというのが実情だった。

 

 したがって私にはメーデー事件は党の軍事方針にもとづく計画的騒乱だというのは考えられない。これを裏づけるように、メーデーにふれて『軍事ノート』や『組織者』(いずれも非公然の印刷物)にも大衆的高揚に立ちおくれたYの自己批判的な記述が出た。「メーデー事件=共産党の軍事方針」というのは、党を弾圧ないしは孤立化させるための口実であったろう。たしかにメーデーに向けて党が「人民広場奪還」を主張していたことは事実だが、漠然としたものではあったとしても占領の終結という解放感が盛り上がりをもたらしたものだったろう。党はサンフランシスコ講和の発効というひとつの転換点を的確に判断できなかったのであり、あれだけの高揚を組織していく力量もなかった。だからおそるおそるハタは復刊したが、売り子にYのメンバーをあてたり、印刷所の再閉鎖にも備えていた。

 

 メーデーの弾圧はきつかった。早稲田でもY関係には及ばなかったが逮捕者が出た。騒乱罪とYとの関係ということで私も下宿を引き払い転々とすることになった。活動家の意気も消沈した。反撃の手がかりのひとつとして、この際Yの存在をはっきりさせてみようと隊の名のビラをつくった。細胞キャップとそのまきかたを相談して「当然学内にも捜査はくるだろうが、東大のポポロ事件のように学内で警官を摘発すれば雰囲気もかわるんだろうなあ」「よし、Yは学内のパト・ロールを始めようか」などといいながら歩いていると、図書館前のベンチに一見して学生とは見えない二人がいた。ひとりには逃げられたがつかまえたのを追及すると、神楽坂署のデカで、メーデー参加の女子学生の身元調査に文学部の事務所に来たことを認めた。これが早稲田五・八事件の発端となった。

 

 実際に火炎ビンを持って街頭に出たのは、私の記憶に間違いがなければ五・三〇であった。当日は雨模様ではあったが、新宿駅前で「破防法粉砕総決起大会」が予告されており、なにごとかを期待する群衆が夕方からたむろしていた。早稲田の隊は二幸側から、東大の隊はガード下の方から、居住の隊は武蔵野館の方から駅前交番めがけて火炎ビンを投げた。三方向の連絡には夜の女をよそおったお茶大の隊員があたった。それまでは夜陰に乗じての襲撃方法が一般的で、群衆の目の前での火炎ビンがめずらしかったのか「火炎ビンがバカスカ」というように表現されているが、実際に投げたのは三方向から一〇人ぐらいがひとり二本ずつだったろう。材料入手も簡単でなかっただけに扱いも慎重だった。

 

 つぎの行動は六・二五。地区としては再び新宿で行動することになったが、早稲田の隊には市ヶ谷の米軍総司令部への攻撃が指示された。テルミット爆弾でドラム罐を焼き、燃料を爆発させようということで、現場の調査と計画をねり、理工学部の隊員が爆弾をつくった。カービン銃をかまえたMPのすきをついて行動は計画どおりにいき、音をたててドラム罐ひとつは破裂したが、ガソリンが野積みしてあるわけもなく、事はそれだけだった。しかし初めて総司令部に攻撃をかけ、犠牲者を出さなかったことで満足した。

 

 

 三、独立遊撃隊編成と小河内山村工作隊

 

 六月になって、上部からは独立遊撃隊の問題が提起された。中核自衛隊だけでは活動に限界があり、山岳・農村を根拠地にしたパルチザンが必要だというわけだ。日本の革命をロシア型の都市労働者のゼネスト蜂起と中国型の農村から都市への結合とえがいているわけだから当然の帰結である。中核自衛隊は蜂起の中核となるものであるが、独遊は人民軍の萌芽であり、やがては軍隊ということになる。地区内の各隊からひとりずつ、五人で編成し六月中に出発することになった。地区と細胞指導部からコミッサールのKを名ざしてきた。指名される本人はもちろんだが、送り出す側にとってもいけにえを選ぶようなものだ。私としては「じゃあKたのむ」などといえないので「よしおれもいっしょに行こう」ということにした。早稲田から二人出たので東大からは次回まわしということになり、豊島、中野と新宿からは小林勝ということになった。小林は半年前まで同じ細胞にいたし、たしか敗戦までは航空士官学校にいた。Kも予科兵学校にいっていたのだから「二人とも帝国軍人にはなりそこなったが、これでいよいよ本物の軍人になれるな」とひやかしもした。

 

 二八日に小河内に出発することになっていたが、小林はいまでいう改造モデルガンを持っていて六・二五で逮捕され、出発を前にはやくもひとりが欠けた。私にしても、このとき行かなければ当然次回ということになったろう。一カ月後に、その二回目として東大から生協の二人が埼玉へ行き、すぐに横川事件に関連して八年、五年の刑を受けてしまうことになり、どっちが身がわりだったのかの思いがした。そのまた半月後に早稲田から二人が栃木へ行ったが、金田村事件で居つくこともできずに引き上げた。

 

 小河内には人家から一・五キロほど山道を登ったところにコジキ岩とか八丈岩と呼ばれる岩があった。山の中腹の岩の下に八畳はどの広さがあり、コジキが住んだこともあったとかで雨露はしのげた。一次の弾圧のあとの工作隊の住いである。工作隊には、その地に骨を埋めろといわれた定着と呼ばれる者と、十日から半年ぐらいまでの一定の期間で思想教育的側面を重視して送られてきた者とがいた。いずれにしてもほとんどは党派性の欠如などを理由にした懲罰的なものがからんでいた。独遊は八丈岩のある山を越えて四キロほど離れ、水源林保護の巡回者の休息用にでもつくられた一坪ほどの小屋にひとまず入った。ここを根城に一帯の地形調査や訓練を始めようというわけだ。ほとんど道もないところで草が腰たけよりもあり、その露で下半身はぐしょぬれ、しかも地下たびに脚絆まき、寝るのも着たままだから体はむれてしまう。山を滑り下りたりするから土が体にこびりついても、風呂はなし、谷川の冷たい水で満足に洗うこともできない。半月もしたらだれもが股のあたりをポリポリ始める。見ればキンクマのあたりはまっくろで、カビがはえているようだった。

 

 南部と西部から恩方へ、北部から古里、中部から氷川へと、それぞれにも独遊が入った。全体の指揮者は三多摩出身のUという男で、各隊の合流がよくあった。その際には集会場所まで原則として歩くことになっていたので、五、六時間は普通、夜どおし歩くこともあった。恩方は人家から二キロほど山の中の使いすてになっていた炭がまに木や草をかぶせて雨をしのいでいた。古里は二坪ほどの炭焼き小屋、氷川は鍾乳洞の方の廃道にあった、落ちかけた橋の下だった。上部からはいましばらくしたら兵站部も確立し、武器や食糧も補給がつくし、各隊間は無線通信で連絡できるようになるはずだと夢のようなことをいっていた。

 

 七月八日、ダム工事の飯場にもぐり込んでいた工作隊のパンちゃんが盆休みと一時金の要求でひとつの飯場をまとめ、ストライキということで集団交渉をすることになった。独遊はその弾圧に来る警官隊を阻止するため道路をトンネル付近で閉鎖するということになった。山の上から石を落とそうとしているとき、あっという間に警官隊のトラックは通過、飯場の用心棒と乱闘中のパンちゃんは逮捕されてしまった。工作隊として早稲田から来ていた土木典昭らもやられた。これが二次の小河内事件である。パンちゃんというのは中央労働学園から三多摩に来た男で、コッペパン七つをかけうどん三ばいであっという間に流し込んだのでパン七と呼ばれるようになったのだが、体も一番りっぱないい男だった。

 

 四、小河内山村工作隊の活動と生活実態

 

 半月ほどで来るとき集めてきた金も底をついていた。宿泊もあまりに不便なので八丈岩に合流することになった。かわるがわるカンパを集めに山を下りたが、七月二九日、私が東京から帰ってみると村は緊迫していた。前日ダム労働者との接触再開ということで飯場へ行き、用心棒といざこざがあった。それを口実に警官隊が村に入り、警防団もかり出されていた。一次の弾圧から保釈になったばかりの岩崎や多数の意見は、この日の飯場行きは中止したほうがいいということであり、どうしても行くという工作隊のキャップと対立していた。Yとして意見を求められた私も、わざわざつかまりに行くようなものだといったので、キャップが頭にきた。もともと彼はYがその統制下にないのが不満のようであった。それに二次の弾圧はYが警官隊を阻止できなかったのがすべてで、「いくじのない兵隊サンはいないほうがいい」とまでいっていた。彼はキャップの命令として決行を指示した。東大の駒場から夏休みを利用して調査に来ていた三人をふくめて総勢は十数名。ただし私ともうひとりは必要としないから残れという。もうひとりとは、分派活動の容疑で早稲田から懲罰的に二、三日前に派遣された査問中のHだった。二人が闇の中でぼそぼそ話していると、いきなり警官隊がふみ込んだ。飯場への不法侵入と暴力行為で逃げた者を追っているといい、るす番だけということで引き上げた。このあと様子を見に行き、用心棒につかまって警察に引きわたされた私をふくめて逮捕者は九人。いったんは逃げたが後日キャップも逮捕された。これが三次の弾圧である。私は二三日の拘留だけだったが、数名が起訴され、岩崎は半年たらずに二度目ということになった。独遊に数日前に配置されたばかりの朝鮮人の同志もやられ、彼はそれ以前の都内の事件と密入国容疑ということで警視庁に移送されたが、すでに南への強制送還を覚悟していた。

 

 青梅という知らない土地で出されたが金もないしどうしようもない。とにかくつかまえたところまでもどせということで警察から一〇〇円ださせて小河内に帰った。八丈岩にはクロちゃんがひとりでいた。クロちゃんとは早稲田からいっしょに来たKのことである。クロちゃんは三次の弾圧の前日別行動に参加していた。小河内からも二人出て他の隊と合流、相模湖方面で米兵をおそう計画であった。パンパンを乗せた米兵の自動車を止めようとしたら、逆にピストルを突きつけられ猛スピードで突破されて失敗。五日市方面へまわったところで不審尋問にあい、三日の拘留を受けたという。彼は小河内に帰ったわけだが、同行者は体の調子が悪くてそのまま東京へ戻ってしまったという。弾圧後一〇日間ぐらいは実情調査ということで、都内からもいろいろな人が来たが、あとはさっぱりでほとんどひとりだったという。とにかく二人で互いの無事をよろこんだ。

 

 それから数日して氷川のテッちゃんがたずねて来た。隊員のひとりの行方がわからなくなったが来ていないかと。数日前に葛飾区の江戸川べりで党の大平和まつりがあって、そこで工作隊へのカンパを集めたのが各隊に三、〇〇〇円ぐらいずつ配分になった。小河内のはここに持ってきたが、氷川の分を持ったのがいなくなった。勘ちがいしてこっちに持って来ていないかと。平和まつりでは「小河内はじめ工作隊は住民の圧倒的支持を受けている。まさに革命前夜だ。弾圧で犠牲者が出れば、五人、一〇人の後続が山に入る」とアジったあと行動隊がカンパを集めたんだそうだ。小河内には連絡も切れているのだから、そんな催しのあったことも知らなかったし現実はあまりにかけ離れていたのでクロちゃんと苦笑したが、金はありがたかった。しかし氷川の金がなくなっているのだから、とりあえず分けあったが、例の隊員の姿は二度と見ることはなかった。恩方にも弾圧があった。全体の責任者だったUも春の武蔵野火炎ビン事件の関係で逮捕された。

 

 こんな調子では、四つの根拠地から出撃して打って逃げてのヒットエンドラン作戦どころが、逃げて逃げてのランランランじゃないかと考えた。二人でとぼとぼ畑や山仕事の手伝いなどして食にありつくような日常にかわった。もらい風呂もできるようになったが、寝ていて天井の岩から落ちてくる山ヒルや地面からのムカデには閉口した。

 

 工作隊の再建をはかるということで地区委員クラスが派遣されて来ることもあったが、生活が生活だけに体調をこわしたり、精神的にまいったりですぐ帰ってしまった。なによりも、今日より明日という展望がないので、給料生活を経験したことのある者にはとてもなじめなかったようだ。自労や学生などルンプロといってもいいような層、都内で逮捕者が出て行き場のないような者、懲罰的な人事に意地でがんばるような者の集団という傾向がでてきた。

 

 この間に徳田球一の「日本共産党三十周年にさいして」にもとづくY方針の手直しもあって、「軍事方針による火炎ビンがとびかった極左冒険主義」の一段落ということであったようだ。

 

 総選挙を前に地区との連絡も回復した。七区では社会党再建派の和田敏明を統一候補とすることになった。前回の四九年選挙では土橋一吉が当選し、小河内でも二九票でて村民も驚いたという。候補者のポスターを電柱にはり、丸木夫妻のピカドンのパンフをばらして板切れにはったら子供たちがたかった。個別訪問にも歩いたが、栗ひろいやキノコとりで腹のほうが先だった。小河内の結果は七票。全国でも当選は前回の三五からゼロ。

 

 五、独遊再編成と砂川闘争

 

 選挙のあと、独遊の再編成ということになった。全体の責任者は南部から恩方へ入ったゴロちゃん、コミッサール担当が西部からのベラさんということになった。ベラとはべらべらしゃべるからだと思って、いまでも会うとベラさんと呼ぶ私に「おれはもともとベアだったんだ」と笑う。そういわれてみるとクマのベアで、日本労働党の大隈鉄二だが、山ではペンネームというより、ほとんど愛称だった。

 

 ここで小河内には恩方からテッちゃんが配転になり、私はゴロちゃんと砂川へということになった。砂川をあらたに独遊が対象としたのは、中継基地的に考えたのと米軍基地を視野に入れたということだったろうか。もうひとりケジというのが来るはずだったが、カンパを集めてくるといって消息をたってしまった。ケジは高校を出てすぐ米兵工作の任務につけられたが、基地周辺をうろついていてパンパンと関係し、ケジラミをうつされたまま独遊に派遣された。本人から反省の意をこめてケジラミと呼んでくれといったが、それでは露骨すぎるのでケジになったんだそうだ。

 

 砂川には小河内の一次で逮捕されて保釈中の津金がいて、しばらくぶりに再会をよろこびあった。農村学校の準備のために九月から派遣されているという。山本さんという戦前の経験もある夫婦の家があって、定職もないのに活動家のめんどうまでみていていきづまり、家を売って立川へ移ることになっていた。そこで三多摩から工作隊に入っていたアリさんと四人で立川基地の東側にあった新生寮の二坪はどの一角を確保して生活することになった。戦争中は立川飛行機の少年工の寮だったところに朝鮮人や困窮者が住みついていた。電気の下、床の上に寝れるのは快適だった。

 

 「砂川の当面の要求」、いわゆる村政綱領が出来たばかりだった。ここにはときの村長とならんで桑苗の生産者である青木市五郎を「村民の敵」と規定していた。四年後の砂川闘争のとき、『アカハタ』記者の私は取材のなかで、反対同盟の行動隊長の青木と「村民の敵、いまや基地闘争の先頭」と笑いあった。

 

 農繁期には砂川闘争時には町長となった宮崎伝左衛門の家の畑仕事、農閑期にはクズ屋や井戸掘りをやった。クズ屋だからボロではあったが自転車も手に入り、活動も便利になった。当時、基地周辺にはガソリンがもれ、「燃える井戸」と新聞にもとり上げられるほどで、井戸の中に入るのは本職でもいやがったときだから、仕事もあり、財政にゆとりもできた。各人へのタバコの配分も一〇本ぐらいになったし、食事も米と麦の比率を六・四ぐらいにでき、他の隊にくらべて生活はぐっとよくなった。半紙一枚ではあったが細胞新開も定期化した。反村長派であった宮伝らも工作隊を利用したわけだが、五三年の日農大会には、茨城の常東への対抗上からも工作隊の成果として代表をという上部からの要請で、官伝に参加してもらった。また村当局には生活資金貸出制度などというものをつくらせ、正規の手続きもなしにひとり一、〇〇〇円ぐらいではあったが強引に借り出したり、国会議員選挙にはだれそれの開票立会人だといってわり込んで日当にありつくこともあった。

 

 五二年暮には、小河内でもパンちゃんや岩崎が保釈になって山に帰り、製材所の飯場を借りることができ、ここでもやっと電気の下、床の上で正月が迎えられるようになった。しかし恩方の炭がまの中などは六全協で山を下りるまで続いた。

 

 二回の総選挙の惨敗で、Yという言葉も消え、五三年には山へ来る党員もほとんどいなくなった。そんなときに早稲田からケンちゃんが氷川へ来た。ケンちゃんとは総司令部攻撃のときのテルミットの投てき者であるが、いまごろなんで来たんだというと、学校でゴチャゴチャしているより気分がいいと思ってとのことだった。一ツ橋からタニさんも古里に来た。ほかには戦争中に少年開拓団として旧満州にわたり、敗戦後は八路軍について歩き、この年帰国したイッペイさんが砂川へ、マッちゃんが恩方へ来たくらいだった。各隊も五、六人のメンバーで固定し、山の生活もそれなりのペースができた。そこで前年に一ツ橋から恩方に入り、古里に移ったムラタくんは、もうすこしで卒業できるからと、月一回ぐらいは大学へも行くことにし、学内細胞の援助もあってめでたく卒業した。

 

 恩方のワンちゃんは山村の実態や工作隊の生活を幻灯にしたり、独遊の歌をつくって普及するんだとかいって、ひとりで張り切った。ワンは顔も覚えていないといっていたが、親父の里村欣三の影響か、ものを書きたかったようだった。本人の作詩・作曲ということになるのかどうか知らないが、「嵐吹く野の果ての雄叫び/聞けわれらが決意/民族の自由かちとる日までわれらいこいなし/風雨肌をつんざくあした/つめたき雨のゆうべ/野に伏し岩にひそみて時をまつわれらパルチザン」てなのをみんなに歌わせようとしたが、あまりはやらなかった。

 

 

 六、新宿地区委員長→山村工作隊の中心・岩崎貞夫の死

 

 一〇月の終わり、岩崎貞夫が死んだのは深刻だった。岩崎は五〇年分裂時の新宿地区委員長で、早大細胞の解散命令書を持って早稲田に乗り込んだ男でもあったが、女性問題とかで三多摩に追われ、そこでもやっかい者として小河内にとばされていた。二回の逮捕と山の生活で体はガタガタになっていたが、その経験からいっても工作隊の中心であり、歯をくいしばって決定にしたがっていた。病状が最悪となったときも三多摩内の党関係の診療所をタライ回しされ、最後は行路病者という扱いで板橋の小豆沢診療所へおしつけられ、そこで死んだ。三五歳。彼の死にはさすがに上部もあわてた。初めは三多摩地区委員会の責任ということで処理しようとしたが、工作隊はもちろん、都党の下部からも批判があがった。三多摩地区、都委員会があいついで『アカハタ』に自己批判書を発表、都委員会葬を行なった。小河内の村民も悲しみ墓地を提供してくれた。

 

 岩崎の死のあと、上部から工作隊全員の健康診断という指示があった。ほとんどが栄養失調的な状態にあるということで、栄養剤だったのだろうが「メルスモン」という薬が配布された。MELSMONMはマルクス、Eはエンゲルス、Lはレーニン、Sはスターリソ、Mは毛沢東で、Oはオヤジ=徳球、Nはノサカで、万能的効能があるとか。そのうえ私など二、三人は埋没療法といって牛の脳下垂体とかを胸の皮下に挿入された。こんな薬や療法はその後あまり聞かないが、とにかく当時の共産党関係の医療法のひとつだったのだろう。

 

 

 七、「六全協」という終戦・引き揚げ

 

 五四年。私の山の生活も二年がたった頃、あらたに檜原村にも拠点をつくろうということになり、私もそこへ行く候補になっていたが、一転して山を下りて都のビューローの指示を受けろということになった。小河内のパンちゃん、氷川のヤスさんも同じようなことになり、都や中央のレポやテクの仕事をした。

 

 五五年は年頭の『アカハタ』一・一論文から方針の転換を感じさせるものがあった。七月に表の都委員会へ行って指示を受けろということになった。そこで、いままでの任務は終了したが、今後特に希望する仕事がないなら栃木へ行けという。栃木へ行ったら三多摩の仲間だったテッちゃんがいた。私が山を下りてすぐ、二年前の蒲田事件の関係で追及がありウメちゃんが逮捕されたので、ゴロちゃんは山梨、テッちゃんは栃木へということになったのだと。そして一〇日ぐらいして六全協。

 

 まさに終戦、引き揚げだ。私が東京へ帰ったのは九月末になっていた。すでに山の仲間もみんな下りていた。十数人の集団で都委員会と交渉し、一、二カ月の生活を保証させながら身辺整理のすんだ者から新しい仕事へ散っていった。

 

 以上は「『五一年綱領』と極左冒険主義」(「日本共産党の五十年」)のひとこまである。そこにかんだ私にとっては、私なりに精いっぱいの情勢への対応であった。それへの批判には謙虚に耳を懐けるとしても、私にとって「うばわれた青春」でもなければ、まして「なかったこと」などではもちろんない。

 

 

 由井誓略歴

 

 一九三一年長野県生れ。一九五〇年早稲田大学に入学。同年レッドパージ反対闘争を経て、日本共産党に入党。一九五二年山村工作隊員となる。一九五五年以降、新聞「アカハタ」「新しい路線」「統一」の記者。一九七〇年以降、フリージャーナリスト。

 

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 (関連ファイル)

    早稲田1950年記録の会『史料と証言』『50年を中心の年表』

    大金久展『「神山分派」顛末記』早稲田細胞と神山分派

 

    『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮“侵略戦争”に「参戦」した日本共産党

       『史上最大の“ウソ”作戦』戦後処理パートの助監督宮本顕治

    吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部インタビュー

    藤井冠次『北京機関と自由日本放送』人民艦隊の記述も

    大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織“Y”

    増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」

    脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」

    中野徹三『現代史への一証言』「流されて蜀の国へ」を紹介する

          (添付)川口孝夫著書「流されて蜀の国へ」・終章「私と白鳥事件」

    れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』 『51年当時』 『52年当時』 『55年当時』