戦後期左翼人士群像

 

増山太助

 

 ()、これは、増山太助著『戦後期左翼人士群像』(つげ書房新社、2000年8月)の抜粋です。全体は4部構成、285ページあり、各章2人づつで100人を取り上げています。抜粋個所は「日本共産党の軍事闘争」に関する貴重な証言となる第3部の4章・8人分です。(添付資料)「血のメーデー」を合わせて、このHPに転載することについては、増山氏の了解をいただいてあります。

 

 〔目次〕

    大村英之助と永山正昭−いわゆる「トラック部隊」と「人民艦隊」

    小松豊吉と相賀珊吉−「山岳拠点」と「日本人民軍」

    岩崎貞夫と由井誓−独り歩きした「軍事闘争」

    宮島義勇と宇佐美静治−「血のメーデー」

     −命をかけて闘った独立遊撃隊長と「カメラマン集団」の作品

    あとがきにかえて

    著者略歴

 

 (添付資料)

    増山太助『検証・占領期の労働運動』より「血のメーデー」

    石田雄『「戦争責任論の盲点」の一背景』より抜粋

     丸山眞男のメーデー事件発言紹介、共産党の指導責任・結果責任

 

 (関連ファイル)           健一MENUに戻る

    『「武装闘争責任論」の盲点』 朝鮮“侵略戦争”に「参戦」した日本共産党

       『史上最大の“ウソ”作戦』戦後処理パートの助監督宮本顕治

    吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部インタビュー

    藤井冠次『北京機関と自由日本放送』人民艦隊の記述も

    石堂清倫 増山太助著『戦後期左翼人士群像』書評

    樋口篤三 増山太助著『戦後期左翼人士群像』によせて

    川口孝夫 『流されて蜀の国へ』・終章「私と白鳥事件」

    れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究1952年当時

 

 

 大村英之助と永山正昭

  −いわゆる「トラック部隊」と「人民艦隊」

 

 幅広い立場

 一九五二年一月二三日付の『球根栽培法』には「武器は占領軍や警察官から奪い取るべきだ」という中国共産党の遊撃戦法をまねたY(軍事部・武装闘争)の指示が掲載され、「武器だけでなく資金も占領軍から奪い取るのが原則だ」と戦中の「銀行ギャング事件」底抜けの方針が示された。そのため交番を襲って巡査のピストルを奪ったり、米軍基地から真鍮や砲金などを持ち出して売り払う「事件」が各地で頻発し、「レッド・パージ」された新聞社の文選工が自分のいた職場へ忍び込んで大量の活字を持ち出し、これで『アカハタ』の後継紙を印刷したというような話が手柄顔で流布されたりした。

 

 また、長崎県の佐世保では基地から大量の軍需品を運び出して処分する「トラック隊」が組織され、これがヒントになって「特殊財政」のいわゆる「トラック部隊」が創設された、という話を私は聞かされた。

 

 私は六全協が終わってもしばらくのあいだ非公然宣伝部門の残務整理に当たっていたが、本部に出てきてまもなく、久し振りに大村英之助(おおむらえいのすけ)と顔を合わせた。しかし、彼は話しかけても顔をそむけ、口もきかない異様な様子なので、宣伝教育部に所属していた杉本文雄に尋ねると、「君は知らなかったのか」「彼はトラック部隊の責任者だったんだ……」「まいっているんだよ、きっと」という返事がかえってきたので、私の心配は余計つのった。だが、彼とはその後話す機会がなく、大村は五七年に「トラック事件」で検挙された。

 

 大村と私との出会いは第一次読売争議が終わった四六年の春、彼が「争議を映画化したい」と突然読売新聞社に訪ねてきたとき、鈴木東民と二人で彼の話を聞いたのが初めてであった。この記録映画は宇野重吉をナレーターに起用して製作する準備をすすめていたが、第二次争議が勃発して中止になり、その後、大村と私は文連や党の文化部でいっしょに働くことになった。そして、私は彼のおだやかな性格と幅広い教養に引きつけられ、また、彼が開成中学の先輩であることも加わって親しく付き合う関係になった。

 

 大村の父卓一は鉄道省技術畑の高級幹部で満鉄(南満州鉄道)総裁にまでなったクリスチャンであるが、英之助は一九〇五年に北海道で生まれ、東京の開成中学から旧制二高を経て東大経済学部を二九年に卒業した。開成の同級生二三年卒には太田慶太郎や生沼曹喜がおり、太田は東大在学中に救援会の活動家になり、戦後は伊豆・伊東市の共産党市会議員になって活躍した。生沼は六高から京大へすすんで社研の活動家になり、二七年入学の同期には坂野善郎、名和統一(なわとういち)、和田洋一、和田耕作らがおり、一年後輩の奥村秀松、平井羊三、野口務、松田道雄(小児科医)、大門英太郎、水田三喜男(のちに自民党代議士)、宇都宮徳馬(のちに自民党代議士)、稲葉秀三、勝間田清一(のちに社会党委員長)などと京大社研の全盛期を築きあげ、戦後、生き残った人たちは、刎頸(ふんけい)の交り″を結んでいた。

 

 大村も二高時代に兄博の影響を受けて無名会という二高社研に参加し、そこで「稀有の親しい友人」飯淵敬太郎、大竹平四郎、久保健治の三人と刎頸″の間柄になった。二高の社研は鈴木安蔵や栗原佑らが創立し、東北学連の中心的存在になったが、その指導に当たったのは当時東北帝大に在学していた玉城肇と朝倉菊雄(のちの作家・島木健作)であった。玉城は鈴木、栗原らの一年先輩で大村の兄・博や門屋博、平田良衛、松野尾繁雄らと同級生であったが、マルクス主義理論ではリーダー格であった。そして、門屋の弟島野武と大村博の弟英之助がこれまた同級という具合いに互いにからみあい、影響しあって「日本の将来」や「社会主義」について語りあっていたという。

 

 大村ら四人組が東大に入学した二六年から二九年までは新人会の全盛期で、佐多忠隆、石堂清倫、田中稔男、砂間一良、亀井勝一郎や中野重治らが華々しく活躍しており、マルクス主義文献の翻訳がようやく出回りはじめたころであった。しかし、大村らは「原文を読んで読み終ると集まって討論をする」という形でマルクス主義の勉強に熱中し、当時流行していた「福本主義」と格闘しながら無産青年同盟の創立に参加して「理論と実践の統一」を図った。

 

 そして、彼らがドイツ語で愛唱していたユダヤ人の闘争歌に飯淵が歌詞をつけ、「我等若き兵士、プロレタリアの」の同盟歌をつくり、久保は同盟から選ばれて浜松日本楽器の大争議に応援隊として派遣された。一方、彼らは山田盛太郎助教授の講義に出席して『資本論』の研究に没頭し、山田の「政治姿勢と反俗精神」に「単なる先生以上のもの」を感じて私淑し、『マルクス主義』に発表された梅村英一(本名・市川正一)や永田幸之助(本名・高橋貞樹)の「論文」に触発されて「講座派」の中心的人物野呂栄太郎の門をたたく理論家に成長した。

 

 しかし、大村は二九年の「四・一六事件」と三〇年に連続して検挙されたため、従兄の植村泰二(東宝の初代社長)がPCL(東宝映画の前身)に入社させ「昼は映画の勉強、夜は共産党」の生活をしながら「信念を守っていた」という。そのため、三二年に再度逮捕され、二年の実刑判決を受けて下獄した。

 

 出獄後、大村は久保や染谷格らをさそって芸術映画社(ゲス)を設立し、映画製作に専念することになった。そして、『雪国』をはじめ『或る保姆の記録』『機関車C57』などソシアル・ドキュメント映画の先駆者になった。大村は検閲をかいくぐり、「国策への協力の外観をとりながら、内務省をごまかし、文部省をたぶらかして、作品に仕上げることが精一ぱい」だったが、「広汎で多面な人民生活の記録として、それが映画として成功していれば、観るものはその外観に捉れず、一しょにものを考えて呉れるだろう」という考えに立脚していたという。

 

 そして、「玉虫色の成功した第一」の作品が、たとえば亀井文夫監督の『戦う兵隊』だったともいっている。また、理研映画の支配人になった平田良衛も大村にならって『或る日の干潟』や『島』という秀作を生み出し、大村兄弟の尽力で中華電影公司上海撮影所の次長になってからは『江南の土』を製作して当時の中国農村の悲惨な実態を克明に記録した。

 

 このように大村はマルクス主義の理論家にとりかこまれ、友情に富んだ仲間にめぐまれ、なによりも父・兄弟や親戚の植村一家の財力に支えられて映画人としても一家をなし、しかも企業家としての肩書きをもつめずらしい共産党員になった。

 

 そして、戦後の党の文化運動のなかでは「プロレタリア文化運動」の流れとは異なる幅広い立場に立つようになっていた。そのため、志田重男に抜てきされ、思いもよらない「特殊財政」をまかされ、「トラック部隊」の責任を負わされることになったのではないか、と私は推測している。

 

 「驚嘆」する男

 一九七五年の秋、私たちは『一同』という隔月刊の雑誌を出すことになったが、その同人の一人に永山正昭(ながやままさあき)がいた。彼は小樽で生まれ、水産講習所を出た無線技師で、太平洋航路の豪華船に乗っていたが、そのころの海員労働運動の優れたリーダー増田正雄の流れをくむ唯一の後継者であった。そして、戦後は共産党の非合法海員グループの常勤オルグとして長谷川浩や伊藤憲一らと肝胆相照らしていた。そのため、いわゆる「人民艦隊」といわれる活動に深くかかわることになった。

 

 また、一時『アカハタ』で「弾圧事件」や「救援活動」の担当記者をしていたことがあったが、「稀にみる緻密な調査活動」をおこなって、事実に裏打ちされた彼の記事は、逆にほとんど紙面に掲載されず、もっぱら弁護団の資料につかわれていたといわれていた。さらに、彼は同年輩の碩学丸山眞男や井尻正二らと深く付き合い、文才にも恵まれていたから、個人通信『星星之火通信』には数々の名文を残した。

 

 私たちが『一同』の同人をふやそうという集まりをもったとき、誰からか大村の名があげられた。すると彼はまず「驚嘆」し、「感動」し、「恐縮」した。「大村さんは植村甲午郎の親戚だから、大村さんが入ってくれれば『一同』経団連の会長ができる」「彼を『トラック部隊』の運転手などには絶対にさせない」と一人で興奮していた。彼はすぐ「驚嘆」する男であったから、名前があがっただけで「驚嘆」したのであった。

 

 それよりも、「人民艦隊」をつくりあげ、非公然時代の党活動のなかで海外との交流を可能にした永山ら共産党海員グループの活動こそ、私にとってはまったく「驚嘆」すべき事柄であった。なお、「人民艦隊」の活動は岡田文吉によって行なわれたといわれているが、これは表面だけの話である。

 

 

 小松豊吉と相賀珊吉

   −「山岳拠点」と「日本人民軍」

 

 よくわからん″

 一九四九年の三月に志田重男が関西地方委員会から中央へ転出して組織活動指導部の部長になったとき、彼はその統轄下にあった何々対策部を一切廃止して、党の基礎組織である細胞を平野、山村、海・川の三区画に整理し、中央が上から各級機関を経由して直接指導するという大胆な構想を提案したため、関係者のあいだで物議をかもしたことがあった。

 

 彼のねらいはフラクション指導の弊害を取り除くことと、平野の大企業、交通機関に「プチロフ工場」を建設して自衛し、山村には「山岳拠点」をつくって遊撃態勢をつくり、海・川には海員、漁民による「人民艦隊」を編成して「革命を担い得る党づくり」に遇進する意図が秘められていた。だが、当時、農民・漁民対策を担当していた袴田里見の猛反対にあって、この構想は立ち消えになってしまった。

 

 しかし、志田が春日正一に代わって関東地方委員会の議長を兼任することになると、彼の頭のなかにはふたたびこの構想が浮上し、政治局員、書記局員で中央組織活動指導部の部長、関東地方委員会の議長を兼ねる志田の「権力」が「独断の形」をとって、この構想を実践に移していった。

 

 私が本部の書記局事務から関東地方委員会に転出したのは五〇年の四月ごろであったが、たしか、マッカーサーが共産党の非合法化を示唆した五月の上旬ごろ、私が出張先から帰ってくると、関東地方委員会の事務所に明電舎労組青年部の活動家で関東電工労組のオルグを兼ねていた相賀珊吉(あいがさんきち)(晩年のペンネームは横二郎)が志田に呼び出されて何やら密命を受けていた。

 

 しばらくたって、打合せを終えた相賀が志田や関東地方委員会の組織活動指導部部長木村三郎や栃木県委員会の連中に囲まれて会議室から出てきたが、何となく彼の顔色がさえなかった。そこで、私が声をかけると、志田が横合いから「さんちゃんは俺があずかって、栃木の養子にいってもらうことになった」とわざと冗談めかしく言い、「栃木の土になってもらうんだ」と猫背を丸めてふくみ笑いをした。

 

 相賀は私の机のところへやってきて「妙義山に山岳拠点をつくれというんだが、よくわからん」と例のだみ声を押さえるような口調でつぶやいたが、かたわらにいた事務局長の増田貫一は「山小屋でもつくれっていうんだろう? 大げさに言ってるだけだよ」とすましていた。しかし、私には「山岳拠点」という言葉が危険な音色を発しているように思えて仕方がなかった。

 

 八月ごろ、徳田球一が中国へ渡ると、私は志田の命令で東京都委員会へ行くことになったが、朝鮮戦争が激動し、「レッド・パージ」が荒れくるい、労働運動の再建に忙しい毎日を送っていた。そんなある日、久し振りに帰ってきた相賀が都委員会に私を訪ねてきた。私は早速「例の山岳拠点はどうなった」と尋ねると、彼は「何度も登ってみたが、あんなきれいな山にゲリラの拠点などつくれないよ。バカバカしいのでやめた」とサバサバしていたので、私は半分あきれ、半分ほっとして思わず彼の背中をたたいた。

 

 あとで聞くと、このような「山岳拠点」建設の工作は各地でおこなわれていたようであった。たとえば愛知県委員会のビューロー・キャップ神谷光次は、五一年の二月上旬に「中国共産党の井崗山の闘いに習い、愛知県の山岳地帯に革命の軍事拠点を建設せよ」という「読後焼却」の薄紙を特定した地区委員長に渡して、天竜・三河の山村地帯や段戸山などの山岳地帯に軍事拠点を建設しようと執拗に工作した。しかし、この工作は活動家がすべて逮捕されて不成功に終わった。

 

 要するに、これらの事例が物語るように、(1)「山岳拠点」の建設は「四全協」の「軍事方針」が党内に発表される以前から着手されていた「志田構想」の一部であり、()組活・労対の線で指導され、()「レッド・パージ」で職場を追われた青年労働者や民青団員が現地要員として動員されたように思われる。そして、朝鮮戦争勃発後は戦局の動向に左右されて、一部のものが「祖防」との共闘に参加し、一部の者が「後方基地攪乱」の闘争に走った。また、「四全協」の「軍事方針」が出ると「レッド・パージ」された大半のものがなんらかの形でY(軍事部・武装闘争)の活動にかかわることになり、()(警察対策)と合体し、「基地対策」や「山村工作」と連携して先鋭化していったように思われるのである。

 

 当時の新聞情報によると、五一年の一〇月現在、全国で五五の中核自衛隊ないしは独立遊撃隊が存在し、その人員は約二五〇〇人に達していたという。しかし、このなかには「文化工作隊」や「レッド・パージ」された人たちの「行商隊」もふくまれているから、「地下に潜った」「Yメンバー」といわれる人たちの数は北海道、東北で各四〇〇人、関東三五〇人、九州三〇〇人、近畿二〇〇人、東海、中国、四国各一〇〇人、計約二〇〇〇人前後ではないかとみられている。

 

 そして、これらの人たちと「五全協」で復帰した宮本顕治らの「国際派」系「全学連」の学生や青年たちが「五全協」の「軍事方針」で訓練され、五二年に入るとGHQの謀略までふくめていろいろな事件が引き起こされ、北海道の「白鳥警部射殺事件」を突破口に「血のメーデー」へと突きすすんでいった。

 

 しかし、「五全協」後設置された軍事委員会制度が順調に稼働せず、中央軍事委員会の責任者になった椎野悦朗と志田との対立や、組活が取り組んでいた「反基地」闘争や「平和運動」、さらに「柴又事件」などが影響して、この時期の「武装闘争」は複雑・怪奇な様相を示した。

 

 また、「占領の終結」と「単独講和・日米安保体制への移行」問題や「朝鮮戦争の休戦会談」の動向、「総評主導の破防法反対闘争」の評価などについて党内の見解が一致せず、そのために「武装闘争」の混乱を引き起こした面もあった。そして、七月の党創立記念日に発表された徳田書記長の論文をキッカケに「武装闘争」は修正・中止の方向へむかったが、それでもなお、五三年八月に近畿ビューロー・軍事委員会の指導によって和歌山、奈良の山間部に結成された「山村工作隊」には「独立遊撃隊関西第一支隊」という名称がつけられ、志田の地元関西では依然「武装闘争」の夢を追いつづけていたようであった。

 

 負わされた責任

 私は七回大会を終えて、居住細胞に返っていたが、しばらくして、東京都委員会の財政部にいた小松豊吉(こまつとよきち)が訪ねてきて、彼が「軍事問題」−「極左冒険主義」の責任を負わされて「六全協」工作がはじまる前に中国へ「人質」として送られていたことを知った。志田は椎野と北海道地方委員会の議長吉田四郎に加えて電工・日電労組の出身で中央軍事委員会の委員をしていた小松の三人を中国へ送り、「武装闘争」に関する自分の責任回避を企図したが、椎野、吉田に抗議され、結局小松ひとりが「連れていかれ」、北京では袴田が「偉そうにしていて罪人扱い」にされ、「ひどい目にあった」というようなことを聞かされた。

 

 小松は十数回私の家にやって来て、泊まっていったこともあったが、来るたびに飲んでくる酒の量が多くなり、私の家の玄関にようやくたどりついてダウンしたこともあった。また便所で寝てしまった彼を私と妻が抱き起こして蒲団に寝かさせたこともあった。

 

 私が彼から聞いたことのなかで一番驚いたことは、「日本から中国へ密航してきた青年たちを『日本人民軍』に編成して海岸で上陸作戦の訓練をおこなっていた」、その現場を見学したという証言であった。このことは、内地での「独遊隊から人民軍への発展」を目指した「軍事方針」とは別に、中国の地で何者かが「日本人民軍」をつくろうとしていたことを実証するものであり、重大な証言であるといわなければならなかった。そして、小松が行ったときにはすでに徳田が死亡しており、伊藤律も隔離されて「北京の日本共産党機関」の責任者はソ連支持の「国際派」袴田に代わっていたというのであるから、当然「中国での日本人民軍問題」については袴田にも大きな責任があるのではないだろうか。

 

 小松はこの間の事情を熟知していたから、帰国後袴田の厳重な監視下におかれ、行動の自由を束縛されていたのであった。しかし、正直者で一本気で「自立・実力」を主張していた小松は「飼い殺しの状態」に我慢ができなくなり、都委員会を無断で辞めて椎野が経営していた印刷会社に入社し、労働者として再起をはかった。しかし、重度のアルコール中毒を克服することができず、最後は山谷のドヤ街からも飛び出して、いまでいうホームレスになり、一時、アル中を治療する病院に収容されたが、またそこを逃げ出し、ソ連が崩壊する直前の酷寒の朝、泥酔の果てに死んでいった。

 

 死の直前に私のところへ電話がかかり、「増さん、さようなら……」と言うので、私が「死んではダメだ。すぐに行くから場所を教えろ」と言っても彼は答えず、もう一度「さようなら」と言って電話を切ってしまった。

 

 小松はあの世からこの時期の「軍事問題」がただ「極左冒険主義」で片付けられていいのか、「正しい総括」を聞かせてくれ、といまでも言っているような気がしてならないのである。

 

 

 岩崎貞夫と由井誓

   −独り歩きした「軍事闘争」

 

 「分裂」と「軍事」

 私が関東地方委員会から東京都委員会に移った一九五〇年の八月には、すでに都委員会内に「小河内ダム反対」の対策委員会が設けられており、責任者は都委員長の市吉庸浩が兼務し、部員の元新宿地区委員長岩崎貞夫(いわききさだお)がひとりで実務を切り回していた。

 

 都委員会の方針は「東京都が戦前から計画していた小河内ダムが横田、立川の米軍基地への電力供給のための軍事ダム″として建設されようとしている」「われわれはアメリカ軍の基地に反対する」立場から「水没する村々のひとたちと腕を組み反対闘争を発展させなければならない」というもので、最終的には「基地撤去」を目指すたたかいであった。また、六月二五日に朝鮮戦争が勃発していたから、岩崎は「このたたかいは米軍の後方基地攪乱」「朝鮮戦争反対」の闘争でもある、と煽動して横田、立川の「反基地闘争」の組織や在日朝鮮人の「祖防」などとの連絡を密にしていた。

 

 さらに、都委員会は五一年に入ると横田、立川、小河内の闘争を強化するために三つの多摩地区委員会を横に結びつける三多摩の大地区委員会を設け、小河内ダムの対策委員会を現地の闘争本部化し、やがてそのメンバーが「小河内山村工作隊」と呼ばれるようになった。一方、朝鮮戦争は九月一四日に国連軍米軍が仁川に上陸して北朝鮮軍の背後を衝き、一〇月二五日に中国の義勇軍が参戦して戦局の様相がいっそう複雑化した。

 

 このような時期に、「コミンホルム論評」に答える意味で野坂参三が執筆したといわれる「共産主義者の新しい任務−力には力を以てたたかえ」という論文が一〇月七日付で発表され、引き続いて五一年一月二四日付で「なぜ武力革命が問題にならなかったか」という無署名論文が発表された。これは野坂が紺野与次郎に書かせたものだといわれているが、彼らはこのなかで、「武力の問題は原則上の題目ではなくて当面の実践的問題」になったと主張し、中国とはちがって日本の場合には都市、農村での労働者・農民の闘争を革命に準備しつつ、農村での武装闘争を準備するよう強く呼びかけた。そして、この構想の延長線上に二月二三日から開催された四全協の「軍事方針」がまとめられ、発表されたのであった。

 

 「四全協」で決議された「行動方針」は志田重男、伊藤律、椎野悦朗の三人と長谷川浩、紺野の五人が分担執筆したといわれているが、長谷川の証言によると、紺野執筆の「軍事方針」は他の四人がそれぞれの理由で反対したため「行動方針」からはずされ、「決議されない論文」、つまり「参考文献」として出席者に配付されたという。なぜ合意しない方針なのに発表を急いだのか。しかも党の命運にかかわる「武力革命の方式」などをこのような形で「指針」化しなければならなかったのか。

 

 志田は私に「軍事方針を持たないと国際派の連中がわれわれのことを右翼日和見主義者、臆病者といって相手にしてくれない」「それでは党の統一がすすまない」と嘆いていたから、おそらく「四全協」の「軍事方針」は半分ぐらい″国際派対策の用向きがあったのではないであろうか。しかし、「武装蜂起」の原則的な承認ならまだしも、革命的な条件もないのに「朝鮮戦争でアメリカ軍が敗退して日本へ雪崩を打って逃げ込んでくる」「そのときにゲリラ戦を展開して革命へもっていく」というような幻想のうえに立った「武力闘争」の準備などまったく誤りであるばかりか、挑発的な役割すら果たしたのであった。

 

 東京都委員会を代表して「四全協」に出席した市吉庸浩はこの「軍事方針」に疑義を抱いたので、彼の提案にもとづき「この軍事方針を都委員会の正式な議題にしない」措置をとった。つまり、「軍事方針」を事実上棚上げし、都委員会ビューローのキャップが「軍事問題」の責任者を兼ねることによってYの「暴走」を警戒したのであった。この都委員会の措置は、私が市吉とキャップを交替した五一年四月以降も継続され、堅持されたのであった。

 

 四月一一日、マッカーサーは国連軍最高司令官を罷免され、六月二三日にはソ連が停戦を呼びかけて事態は大きく転換した。これを受けて二四、二五の両日、都内の各地では「朝鮮民主統一戦線」による「朝鮮動乱一周年」のビラまき活動が展開され、「戦争反対」の気運がいっきょに盛りあがった。そして、七月一〇日から開城で休戦会談が開始されたのであった。

 

 複雑怪奇

 私は市吉同様Yの責任者を兼ねていたから、たしか六月か七月の関東地方委員会ビューロー会議のときに、あらためて都委員会の「軍事問題」に対する態度を説明し、丸山一郎キャップの了解を求めた。そのとき私は、指導のために出席していた志田にたいし、野坂の「占領下平和革命論の理論的な克服」を当面の努力目標に据えると同時に「武装闘争」「軍事闘争」という名の冒険主義が独り歩きをしないようにYに対する「政治指導の優位性」を保証するよう要望した記憶がある。そして、志田がめずらしく私の意見に耳を傾け、上機嫌であった印象も残っているのである。

 

 ところが、八月二一日に二〇回中央委員会総会が召集され、「モスクワ製」の「五一年綱領」が承認され、一〇月三日からおこなわれた「五全協」で新しい「綱領」を採択、同時に「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない」という論文が発表された。この論文「軍事方針」は椎野が執筆したといわれているが、「五一年綱領」を実践する「戦術的第一歩」として二〇回中央委員会総会も承認しており、また「国際派」の宮本顕治らも「五一年綱領」とこの「軍事方針」をともに承認して党に復帰することになったのであるから、二つの文書は特別な意味をもつことになった。

 

 言い換えれば、「続一」を実現した主流派の「四全協」「五全協」の中央委員たちは引き続き党内の指導権を掌握するために、「軍事方針」の実践を急がねばならなくなったのであった。そのために、Yに代わって軍事全般を掌握する中央軍事委員会が設置されることになり、臨中議長をパージされた椎野が責任者に就任することになった。もちろん、関東地方委員会にも軍事委員会が発足し、関東各府県における軍事委員長も任命され、その初会合が一二月二日にひらかれることになったが、この会議が「長谷川浩の会合」と間違われて踏み込まれ、いわゆる「柴又事件」に発展、この機を巧みに利用した志田が「軍事方針」に「疑義」をもち「不熱心」な東京都委員会ビューロー員全員を罷免し、側近の桝井とめを、浜武司らを送り込んでキャップの私を査問にかける措置に出たのであった。

 

 ところで、早稲田大学の「再建細胞」から復党した由井誓(ゆいちかい)が五二年の二月に津金佑近ら二〇人とともに小河内に入ったときには「農家の手伝いや井戸掘り」をやり、「私が井戸の中で掘った土を彼らがバケツでエンヤラコラひつぱり上げる」、また、津金と「二人でクズ屋もやった」と由井が記録しているように、「小河内山村工作隊」は「非軍事」的な「一般工作隊」と何ら変わらないものであった(『由井誓遺稿・回想』)。

 

 しかし、由井は四月の新学期から「民族解放早大突撃隊」の隊長になり、対日平和・安保両条約発効後の「血のメーデー」「早大事件」、五・三〇におこなわれた新宿駅東口の「破防法粉砕総決起大会」、六・二五の「朝鮮動乱二周年」闘争などを経て、六月二八日に二度目の小河内入りを果たしたときには、「武装集団」「早大独立遊撃隊」を率いる隊長になっていた。そして、この隊は「八畳岩の下に住む工作隊とは別に、山ひとつ越えて水源林保護の巡回者が月に一度くらい足をとめるらしい一坪ほどの小屋」を根城にして、「住民工作を直接の対象とせず、軍事″に専念し」「朝鮮のパルチザンに習って、ズボンのすそをくくり、腰からいっぱいに砂をいれて山頂まではいのぼり、そこですそのひもをといて一挙にかけくだる訓練もした」という。しかし、七月四日、徳田書記長の「日本共産党三〇周年にさいして」という論文が発表されたのを機に「軍事方針」は事実上中止の方向へ向かったのであった。

 

 後でわかったことだが、この期間、椎野は「軟禁」状態におかれ、「軍事闘争」の指導は志田とその側近に一本化されていった。そして、逆に「闘争」が拡散して、いくつもの線で「指示」がおこなわれたと思われるので、スパイの跳梁を許すことになった、と思われるのである。

 

 由井は自分が「独自」でおこなった独遊隊の活動について、それは「せいいっぱいの朝鮮戦争への対応であり、朝鮮人民との連帯であった」と述べているが、岩崎の場合は一貫して「反基地闘争」の立場を守り、彼のつくった「小河内の山村工作隊」は砂川基地反対闘争に引き継がれていった。

 

 

 宮島義勇と宇佐美静治

   −「血のメーデー」−命をかけて闘った独立遊撃隊長と「カメラマン集団」の作品

 

 「民族独立」の決起

 一九九八年に入って、一月二四日に宇佐美静治(うさみせいじ)が死に、二月二一日に宮島義勇(みやじまよしお)が帰宅した玄関で倒れてこの世を去った。おそらく、この二人は面識があったとしても話しあうことはなかったであろうし、考え方や生活態度もかなり異なっていたから行動をともにすることなどなかったであろう。しかし、それでいて、一時期、二人は赤い絆″で結ばれていたように思えるのである。

 

 いうまでもなく、宮島は高名な映画カメラマンであり、宇佐美は鋸鍛冶の職人であり、詩人でもあった。そして、宇佐美は戦後の激動期、五二年のいわゆる「血のメーデー」に「独立遊撃隊」を指揮して警官隊と渡りあい、「軍事闘争」の顔のみえない英雄″になった。宮島は党の「カメラマン集団」を指導して激動の現場を撮影し、映画『血のメーデー』を製作して戦後の記録映画界に大きな足跡を残した。そういう意味で、二人の関係は赤い絆″で結ばれていたというべきであろう。

 

 宇佐美静治は一九二〇年に浅草で生まれ、関東大震災で一家は罹災し埼玉県北葛飾の豊野村に移転した。彼は小学校を卒業して鋸鍛冶の職人になったが、千葉県佐倉の歩兵連隊に現役兵として入隊し、ソ満国境の警備や湖南作戦など中国各地を転戦して敗戦の翌年四六年に復員。多感な宇佐美青年は四七年の「二・一ゼネスト」の高揚のなかで入党、三多摩地区の活動家になった(宇佐美静治追悼作品集『死んでも命があるように』)。

 

 私が「五〇年分裂」のさなか、五一年の四月に東京都委員会のビューロー・キャップに選出されたころの三多摩では、立川基地の水瓶″といわれた小河内ダムの建設反対と横田・立川基地反対の闘争がようやく燃えさかっていた。そして、北多摩地区の委員長大窪敏三を中心に三つの多摩地区委員会を一つの大地区委員会に統合する話がすすみ、宇佐美はその準備段階からY(軍事部)を担当して活躍していた。ところが、一二月に関東地区委員会が柴又で開いた会合が弾圧されるいわゆる「柴又事件」が勃発し、なぜか、都委員会が解体処分を受け、ビューロー・キャップの私は「待機」から「査問」にかけられ、新しい都委員会は中央の権力者志田重男が任命した紡績工の枡井とめをと全逓出身の浜武司の二人に委ねられることになった。

 

 宇佐美はこの新編成のなかで都委員会の軍事委員に抜擢され、五二年二月の反植民地闘争デーの直後から「独立遊撃隊」の「隊長」を名乗って活動するようになった。彼の証言によると、「独立遊撃隊長」の「最後の仕事」は「関東の都県の軍事委員長と東京各区の軍事委員約三〇名を越える範囲」の人たちに「西多摩の川乗山のふもとで実弾射撃の実習を行い」、「二回目の訓練は銃剣術と短剣術で」「専ら実技訓練をおこなった」と述べている。しかし、彼は五一年の一二月に立川でおこなわれた中央軍事委員会主催の第一回全国軍事委員長会議には出席していないことからみて、彼のいう「独立遊撃隊」という組織は、彼が連絡をとっていた関東地方委員会の組織活動部員・矢野修によって「指導」されていたように思われる。

 

 ところで、五二年の春は年頭から荒れ模様で、スターリンは元旦のメッセージで「日本人民の総決起」を促し、共産党の臨時中央指導部(臨中)もこれに呼応する声明を発表していた。一方、占領軍と日本政府は四月二八日に予定されていた単独講和・日米安保条約の発効と、それにともなうGHQの廃止後に備えて米・日・韓の防衛体制を固め、国内の弾圧諸法規、労働諸法規の改悪に全力をあげていたから、総評を中心とする労働組合の反撃もいちだんと強まっていた。

 

 こういう状況のなかで北海道の「白鳥事件」が突発し、東京では「武装団が闊歩」する「蒲田事件」が発生して人びとを驚かせた。そのうえ、この年の中央メーデーは「会場問題」をめぐって紛糾をつづけていた。中央メーデーは前年度の分裂メーデーを反省して統一しておこなうことになったが、会場に予定していた皇居前広場=「人民広場」が依然「使用不許可」の状態におかれていたので、実行委員会はその措置に頭を悩ましていた。

 

 戦後、皇居前広場は大集会の会場に使用され、毎年のメーデーもここでおこなわれていたが、五〇年の六月にGHQは警視庁に命じて広場の使用を禁止させ、労働運動への規制を強めた。いま、このような「GHQの命令が占領の終結によって効力を失う」ことになったので、四月二六日の前夜祭の会場では三万人余の参加者が「統一メーデーを人民広場で」と大喚声をあげる状況になった。実行委員会の中心部隊である総評も「メーデーのための皇居前広場の使用申請不許可」にたいし、東京地方裁判所にその「不許可処分の取消し」を求める訴訟をおこし、四月二八日、つまり「占領終了の日」に「処分の取消しを命ずる」という判決を獲得した。しかし、警視庁は判決を無視して取消しに応じなかったので、やむなく、実行委員会は会場を明治神宮外苑に決定したのであった。

 

 メーデーの前日、共産党の都委員会は拡大都委員会を開き「会場問題」について意志の統一を図ることになり、査間中の私も求められて出席することになった。ビューロー・キャップの枡井ら多数は「少なくとも共産党の部隊は人民広場に入り、使用させなかったことの不当性を抗議すべきではないか」と主張したが、私は「実行委員会の意向を尊重して人民広場に入るべきではない」と反対した。そして、白熱の討議の結果、「人民広場には入らず」「中央コースのデモ隊が広場側を通過する際、シュプレッヒコールで抗議の意思表示をおこなう」ことになり、関係方面にその旨を伝えた。

 

 ところが、その晩、志田の使者・沼田秀郷が枡井、浜を通じて全都の共産党地区委員会に「党員は大衆を誘導して人民広場に突入せよ」と命令し、いわゆる「血のメーデー」の事態に発展したのであった。もちろん、宇佐美の「独立遊撃隊」も宮島の「カメラマン集団」もこの命令に従って出動したのであり、臨中も、またこの日から放送を開始した北京の自由日本放送も、「血のメーデー」の激突を「民族独立」の「英雄的決起」とほめたたえたのであった。

 

 ところで、宮島義勇は四八年の東宝争議「来なかったのは軍艦だけ」の砧撮影所の弾圧に身をもって抵抗した輝ける指導者であり、五〇年にレッド・パージを受けてから共産党の本部勤務員になっていたが、密命を帯びて中国へ渡り、徳田らの亡命準備に当たった。彼は中国から帰ったとき、「アジアの共産党は一斉に武力蜂起の準備をしている」「日本も急がなければ……」と興奮気味に語っていたというから、彼もまた「血のメーデー」を「英雄的決起」と思ったのであろう。

 

 見捨てられた「独遊隊」

 五五年の「六全協」後、「激動期の闘争」をすべて「極左冒険主義」という言葉でくくり、当時の「主流派」の指導を「一切清算」する動きが露骨に表面化した。私はこの傾向に反対し、とくに、事実に基づく「血のメーデー」の解明を求めた。

 

 しかし、志田をはじめ「軍事」の関係者はアリバイを主張して口をとざし、「命を賭けた」「独遊隊」の人たちは党から見捨てられて惨憺たる状態におかれた。宇佐美は五二年に逮捕され、裁判にかけられたが、完全黙秘を貫き、「獄中と外部との二人の愛の詩の交換」を続けた詩人野口清子と結ばれて、出獄した五八年に二人は結婚、詩人として再出発した。しかし、六三年にかつての仲間に裏切られ「反党行為」という理由で除名された。彼は私宛の手紙のなかで、「僕は逃れようにも逃れようもなく極左冒険主義者の標的にさらされるという逆の現象をもって斬り捨てられた」と述べ、「宮本顕治に屈服して救済された元の極左冒険主義者」を悲痛な思いで糾弾していた。

 

 期せずして、宮島の作品『血のメーデー』はこの「事件」の「客観的な証人」として、その価値を高めた。彼は「命を賭けた革命的行動を無残に断罪することに反対」していたから、この心がこの映画にはにじみ出て、見る人たちの胸を打った。

 

 宮島義勇は一九一〇年生まれ。横浜高工の応用化学科を卒業してカメラマンの道へ進み、松竹蒲田撮影所からPCL(東宝の前身)に移って三五年に砧撮影所の撮影技師になった。レッド・パージ後、独立映画運動の先頭に立ち、死ぬまで撮影機のクランクから手を離さなかった。彼が撮影した数々の作品は二作が受賞の栄に輝き、小林正樹監督と組んだ『怪談』はローマ映画祭最高撮影賞、大島渚監督の『愛の亡霊』の撮影では日本映画技術賞を受賞した。

 

 しかし、それ以上に彼が撮影監督した『血のメーデー』をはじめとする「闘争記録映画」『怒りをうたえ』『俺たちは鉄路をまもる』『怒りのこぶしで涙をぬぐえ』などは二〇世紀のたたかいを後世に伝える「歴史的な証言」として、いつまでも「人民の財産」として残ることになった。

 

 付記すると、野口清子はアルツハイマー病をわずらって宇佐美に手を引かれて歩く状態になり、ついに病床に伏す身になった。そして、七八歳で死んでいった宇佐美のことを、なお想い続けて童女のようななごやかな笑みをたたえ続けている。

 

 

 あとがきにかえて

 

 本書に収録した元原稿は雑誌『労働運動研究』(労働運動研究所発行)に「戦後運動史外伝・人物群像」という表題で五〇回にわたって(一九九五年一月号から九九年三月号まで)連載したものである。今回、一冊にまとめるにあたって、連載中に読者から寄せられたご意見や質問を参考にして補足・訂正し、あらためて書き直したところもある。もちろん、取り上げた一〇〇人の人たちは、当時の「左翼」を代表するわけではなく、私が親しく接触した友人のなかからランダムに選んだ人たちである。この点、誤解のないようにお願いしたい。

 

 一、二申し添えておくと、そのひとつは、この本の表題に「占領下」ではなく「戦後期」という冠辞をつけたことである。これは、アメリカを中心とする連合軍の「占領」が終わって、サンフランシスコ講和条約・日米安保条約が締結されてもなお、日本はアメリカの実質的な「隷属下」におかれた。そして、朝鮮戦争とその後の休戦状態の時期、さらに、日米新安保条約と行政協定などによって敗戦した日本の「戦後体制」の基礎がアメリカの指導″を得て構築されていった。

 

 この時期を、私は一九六〇年の終わりごろまでとみて、あえてこの時期を「戦後期」と称し、そのころに活躍した「左翼」運動の立場に立つ人たちの外伝的な人物評を集めたのが本書であると考えていただきたい。

 

 もうひとつ、なぜ、彼らを一括して「左翼」運動の人たちと捉えたのか。その理由は、彼らが抱いていた「新しい日本像」が意外なほどよく似ており、このころの「左翼」がフランス革命のジャコバン党のような「過激派」だけを指すのではなく、もっと幅広い層を形成していたからである。

 

 いうまでもなく、運動の主力はマルクス主義者や社会主義者、なかでもコミンテルンの流れ″であったが、そのほかにもアナキストやサンジカリスト、社会民主主義者やリベラリストまで、さらに一部のキリスト教徒までふくめて、彼らはそれぞれの方法で当時の施政に反対し、抵抗して世間を騒がせた″のであった。もちろん、彼らの思想・信条・理論は大きく異なっていた。それにもかかわらず、「戦争責任の追及」や「戦争反対」「恒久平和」など基本的な要求では一致し、「急進派」の共産党が「天皇制打倒」「基地撤去」「人民政府の樹立」などを唱えても、彼らをふくむ当面の方針では「民族の自立」や「民主的な日本の建設」という大きな枠組みのなかでこれを認めあって行動していたといっていいであろう。

 

 だが、戦術の面では情況の変化によって多様化が促進され、共産党の一部が「軍事闘争」に走り、自由主義者のなかには権力と結びつく者もあらわれた。しかし、アメリカは「左翼」の発展を危惧し、共産党に焦点を絞って″弾圧を強め、フレームアップやレッド・パージなど、アメリカ製″の方法で「左翼」の団結を崩すことに成功した。そして、私の友人の多くは挫折し、涙をのんであの世へ旅立っていった。

 

 私は、この本が彼らに対するレクイエムになればいいと思っている。それだけでなく、彼らの抱いた志″が次代の人たちに受け継がれて発展し、混沌たる二十一世紀の世の中を切り開く武器になればいい、と念願しているのである。

 

 

 著者略歴

 

 1913(大正2) 年  820日、東京生まれ

 1931(昭和6) 年  東京開成中学校卒業

 1932(昭和7) 年  成城高等学校に入学。成城学園の創立者沢柳政太郎以来の「自由主義教育」に対する政府の干渉、弾圧が強くなり、いわゆる「成城学園騒動」が6カ月間続いた。この間、生徒側の闘争委員

 1935(昭和10)年  成城高等学校文科乙類卒業

 1938(昭和13)年  「共産主義者団事件」「反ファッショ人民戦線運動」で検挙され不起訴

 1939(昭和14)年  京都帝国大学経済学部卒業 読売新聞社入社(経済部記者)

 1940(昭和15)年  召集

 1945(昭和20)年  召集解除 第1次読売争議闘争委員(10月)、読売新聞社従業員組合書記長(12月)

 1946(昭和21)年  新聞通信放送労働組合〔新聞単一読売支部常任執行委員・組織部長(4月)〕、読売争議団最高闘争委員(6月)、新聞単一副執行委員長・組織部長(7月)、産別会議「10月闘争」最高闘争委員(10月)、読売新聞社退社(10月)

 1947(昭和22)年  日本民主主義文化連盟常任理事(日本ジャーナリスト連盟選出、1月)、組織局長・出版局長

 1948(昭和23)年〜1958(昭和33)年  日本共産党専従(中央文化部員、全国オルグ・関西地方委員会所属、中央選挙対策部員・選挙動員本部長、書記局事務:婦人部、青年・学生対策部担当、関東地方委員、東京都委員、東京都委員長、五全協選出中央委員候補、朝鮮戦争下非公然組織関東ビューロー員、東京都ビューロー・キャップ、六全協当時=中央宣伝教育部員、本部細胞キャップ、七回大会に出席したソ連共産党代表団の接待委員、大会後一切の党役職を辞退、書記局は転籍を認めず、監視下におかれ一年後に除名処分の通知を受ける)

 1958(昭和33)年  維誌『健康会議』編集長

 1959(昭和34)年  村上色彩技術研究所企画室長

 1972(昭和47)年  スター印刷企画代表取締役

 1975(昭和50)年  雑誌『一同』編集人・代表

 1977(昭和52)年  雑誌『新地平』代表取締役・主幹

 

 

 (添付資料1)

 

『検証・占領期の労働運動』 「血のメーデー」

 

増山太助

 

 (注)、これは、増山太助著『検証・占領期の労働運動』(れんが書房新社、1993)からの抜粋です。「血のメーデー」個所は、終章『「サンフランシスコ体制」への移行』中の(P.557〜564)まであり、その全文です。

 

―――――――――――――――――――――――――――――

 

 最後に、いわゆる「血のメーデー」について要約しておこう。

 総評は、前年の誤りを反省して、五二年度の中央メーデーを統一メーデーとして実施することになった。そして、会場に「人民広場」−宮城前広場の使用を交渉したが、政府は「使用不許可」の行政処分を決定。やむなく裁判に持ち込み、東京地裁は、「皇居外苑の不許可処分は理由のないものである」という判決を下したが、政府が控訴して発動を阻止、結局、神宮外苑でおこなうことになった。

 

 当日、外苑には約五〇万人が結集し、占領終了後第一回のメーデーは解放感に満ちあふれ、共産党も公然と『アカハタ』復刊第一号を会場で販売してアピールした。ところが、祭典の最中、午前一一時四五分頃、学生を中心にした二〜三〇〇人の一団が、「人民広場へゆくことを大衆にはかれ」と叫んで演壇に殺到し、重盛寿治議長に詰め寄った。そして、この要求が拒否されると、一部のものが壇上に登ろうとし、警備員とのあいだでもみ合う騒ぎになった。そのため、議長は「人民広場へゆくことを緊急動議ではかる」ことを了承し、代表が提案しようとすると、場内は騒然となり、マイクの電源が切られて、ウヤムヤのうちに式典は終ってしまった。

 

 南北二つの出口では、「人民広場へゆこう」「人民広場を奪還せよ」と叫ぶひとたちが、異様な緊張と殺気をみなぎらせて流れ出るデモ隊を誘導しはじめた。とくに、日比谷公園を解散地に予定していた中部デモ隊の先頭には、全学連、全日土建、民主青年団の活動家たちが立ち、蛇行デモを繰り返しながら日比谷公園に入った。そして、いったん解散したのち、園内の小音楽堂前に再結集した一団にたいし、何人かのリーダーが「人民広場実力奪還」のアジ演説をおこない、盛りあがったところで、一隊、一隊、日比谷公園前の交叉点をつっ切って馬場先門へ向った。これをみた警官隊は棍棒を振って襲いかかり、デモ隊は数人ずつかたまってプラカードの柄や旗棹で応戦しながら前進していった。かれらは、ひき裂れた赤旗が舗道で踏みにじられるのを断腸の思いでみながら、「ヤンキー・ゴーはム」を連呼し、窓や屋上から鈴なりになって見下ろすアメリカ人をにらみつけながら、一路馬場先門へ向って走っていった。GHQの看板は、すでに「連合軍総司令部」から「アメリカ駐留軍本部」に書き換えられていたが、第一相互ビルの周辺はおなじMPによって厳重に警備されていた。

 

 馬場先門には、すでに約二〇〇人の武装警官が待機していたので、デモ隊はいったん停止して対峙状態になった。が、後続部隊が合流して数を増したので、突進しようとしたとたんに、警官隊が左側に身をかわし、デモ隊は難なく二重橋前へ殺到した。両側の土手に集まっていた観衆は拍手を送り、数千人の群衆がデモ隊に合流して、「人民広場奪還」を喜びあった。

 

 そのとき、突然、右側の土手の上から鋭い銃声が一発、二発、真昼の空気をつんざいた。同時に、数百人の警官隊がデモ隊に襲いかかった。この部隊は警視庁第一方面予備隊三個中隊三五〇人と三田署の混成部隊約一二〇人であったが、午後二時四〇分、デモ隊の先頭付近に回り込んだ警官隊が、「解散命令」も出さずに、出しぬけに梶棒を振りあげながらなぐりかかった。最前列のひとたちは、たちまち頭を割られて倒れ、一瞬のうちに修羅場と化した。不意をつかれたデモ隊は態勢を立て直して立ち向ったが、倒れている者のほとんどが頭から血を吹き出しているので、まず、かれらを退避させるのに懸命であった。ところが、今度は後方から青空に白い線をひいて催涙ガス弾が投げ込まれた。デモ隊はまたたく間に算を乱して後退しはじめたが、「逃げるな」「集まろう」という声がかかり、一隊、二隊とかたまりながら警官隊の襲撃に応戦しながら、ジリジリと後退していった。投げ込まれたガス弾は二十数個、随所に白い煙が吹き上って、目は刺されるように痛く、涙はとめどもなく流れ、乾いたのどの息は苦しく、ひとびとはあえぎ、よろめいた。そのとき、背後からパン! パン! という銃声が起り、何人かのひとたちが倒れ、両ヒザを打ち抜かれたものも出た。隠れる場所ひとつない広場で、真っ昼間、女、子供のいる何千という人間の集まりの真っただ中へ水平射撃でピストルから銃弾が撃ち込まれたのであった。作家の梅崎春生は、「私は見た」(『世界』一九五二年七月号)という文章のなかで、「……デモ隊の散発的な反撃にくらべて、警官たちのそのやり方は、その非人間的な獰猛さにおいて、圧倒的であった。僅か三百名ほどの人数で、数千のデモ隊に対し得たのも、ひとえにその非人間的な暴力の故である。私の見た限りでは、最初に暴力をふるって挑発したのは、明かに警察側であり、『組織された暴徒』とは、デモ隊のことでなく、完全武装のこれら警官隊であった」と書いている。

 

 南部のデモ隊が大挙して祝田橋を渡ったのは、この頃であった。約一〇万人のデモ隊と群衆は、何分か前にこの広場でどんな残虐行為があったか全く知らなかった。かれらも中部のデモ隊同様、「人民広場奪還」をただ喜んでいたが、人の肩にすがって訴える血だらけの女性の姿や、担架ではこばれていく負傷者をみて、事態の急迫さを知った。リーダーたちはただちに部隊の移動を命じ、警官の少い銀杏台上ノ島に結集して抗議大会を開き、ただちに解散する方針を決定した。一方、警官隊は着々と増員されていった。白く塗ったトラックが何台も、青い鉄カブトの警官をギッシリつめ込んで桜田門から広場に入ってきた。第七予備隊、第六予備隊、第五、第四、第三、第二……と、その数およそ三〇〇〇人におよぶ警官隊が鉄カブトと棍棒に身を固め、「狙撃兵」といわれる特別のピストル部隊や、防毒マスクを持つガス部隊なども加わっていた。

 

 どこから来たのか、高校生と少女の一隊が、無邪気に道路から芝生に上ったとたんに、ガス部隊二〇人が走り出し、疾走しながらガス弾をデモ隊めがけて投げ込んだ。五本、一〇本、二〇本と。これを合図に、「突っ込め」の号令一下、警官隊が二方面から喚声をあげてデモ隊に襲いかかり、同時に、数発の銃弾がうち込まれた。ついに、二回目の大衝突がはじまったのであった。しかし、南部のデモ隊のなかにいた労働者の群は煙を吐くガス弾を拾って勇敢に投げ返し、女たちは芝生を掘りおこして石を集め、その石は若者の手から雨のように投げつけられた。二重橋の衝突とちがって、戦線は横にひろがり、反撃は何カ所かから前後しておこった。また、プラカードや旗棹を武器に白兵戦が展開され、傷ついたひとたちは救護班によって救出され、新手が補充されて反撃がくり返された。「警官隊の一部には、女性に対する嗜虐的な傾向がはっきりと認められた。単に殴るだけでなく、スカートの裾から、警棒をぐんと上へ突きあげる。女の髪をつかんで、あお向かせ、顔面を殴りつける。両三度、それを見た」(前掲「私は見た」)と梅崎は書いており、ある女子高校生は、「私のまわりは警官ばかりになっていた。殺されるかもしれない――ふっと思いつくとせぐりあげるような恐ろしさと怒とが体中にあふれた。殺されたくない――私はコン棒の中を必死になって逃げた。気がつくと手が血だらけだった。頭にさわってみるとベットリした気味のわるい手ざわりだった。体中の血が沸きあがるような気がした。――私は両手で頭をふきながら、おさえてもおさえても涙がとまらなかった。私たちは一体何をしたのだろう」(メーデー事件被告団編集『その日の人民広場−メーデー事件の真相』)と涙ながらに訴えていた。

 

 ピストルの発射はますます激しくなり、ヒザ射の格好でアメリカ製の大型ピストルが火を吹きつづけた。倒れて起き上ろうとする者や、負傷した女性を背負って後退する青年をめがけて狙い射ちが繰り返され、のちに六一発発射したと証言した警官がいたほどであった。おそらく、この警官はそれ以上の弾丸を発射したのであろう。このときの負傷者は全部ピストルによるものであり、高橋正夫もその犠牲者のひとりになった。東京都庁の民政局に勤めていた都職労の活動家高橋正夫は、心臓を背後からうち抜かれて即死した。二二歳の高橋は文化サークルの世話役をやっており、居住では、近所の子供たちをあつめて青い鳥の会をつくり、子供たちから慕われていた童話の先生″であった。倒れたかれのポケットからは、「平和がほしい、独立がほしい、新しい人間像がほしい」ときちょうめんな字で書かれたメモが発見された。

 

 南部デモ隊の中軸は、産別会議所属の金属労組であり、その指揮は同労組の委員長和田次郎がとっていた。かれらは、負傷者をかばいながら祝田橋付近から段々と広場の外へ、作戦的に退いていった。そのなかで中核になったのは、共産党の軍事組織独立遊撃隊の青年たちであった。かれらは、つねに警官隊の正面に立って敵の攻撃を防ぎ、あるいは進んで反撃を加えながら、負傷者や女、子供、年寄を場外へ送り出し、身体を楯にして弱い者をかばった。これに協力した朝鮮人の祖防隊は、通りがかりの乗用車、トラック、大型バスなどの運転手や乗客の協力を求めて負傷者を病院へはこび込み、何隊かは濠端のアメリカ駐留軍本部の周辺にとめられていたアメリカ製の高級車をつぎつぎとひっくり返して火を放った。追ってくる警官隊はどうすることもできず、どす黒い煙は高く吹きあげ、駐留軍本部の建物のてっぺんになびいていた星条旗を包みかくした。この光景をみていたひとたちは、「ザマを見ろ!」「アメリカは消えうせろ!」と叫び、消防車が駈けつけても消えない真赤な炎は、占領軍の名によって抑えつけられてきた日本人民の怒りと、朝鮮戦争のうらみをはらそうとする朝鮮人の怒りの炎として燃え盛った。

 

 南部デモ隊の精鋭は、警官隊を日比谷公園のなかへ誘い込み、さらに、浜離宮の木立のなかへ引きずり込んで、かれらをほんろうした。そして、日暮れを待って、一挙に散っていった。

 

 しかし、原田奈翁雄は、「私は共産党員ではない、共産主義者でもない」と前置きしながら、つぎのように「市街戦」の状況を記録している。暴行の現行犯なら逮捕すればいいのに、「……それを、何故逮捕もせず、蹴ったり踏んだりしたまま彼を放置して引き返すのか。……警官隊がさっと引き返すとき見物の中の二、三の女の人が、『なんていうことをするんです!』と泣いて叫んだ声、顔を忘れない……」(前掲『世界』)。また、一方では夜になって警官隊が都内の病院を襲い、重傷者を逮捕したり、夜中に叩き起して指紋をとり、枕もとで大声をあげて尋問した。法政大学生近藤巨士は、口もとへ耳をよせなければ声が聞えないくらいの重傷であったが、連日の「死の尋問」によって、五月六日、二三歳の青春をうばわれた。かれは、死の間際に、「こうして強くなるんだ。日本がよくなるんだ」とつぶやいたという。「血のメーデー」の犠牲者は、確認されただけでも死者二人、重傷者五百余人、軽傷者を合せると千四百余人の多きにのぼった。警官隊も数百人の負傷者を出し、まさに弾圧部隊と渡りあった「人民軍」の「市街戦」であった。

 

 翌日、吉田内閣の官房長官増田甲子七は、「だから破防法が必要なんだ……」という意味の談話を発表し、吉田首相は、アメリカの大使館へ出向いて陳謝した。また、記者団に囲まれたメーデーの実行委員長、総評政治部長の島上善五郎は、「この事件はメーデー行事が終った後に共産党系分子と、その影響下にあると思われる一団によって行われた不祥事で、実行委員会としては関知しない。これは反労働者的行為である」「しかし、政府が、破防法をはじめとする露骨な弾圧政策をとり、とくに皇居前広場の会場問題について裁判決定を無視した態度は暴力行動に絶好の条件をあたえたもので、さらに警察の発砲、催涙弾の乱射は事態を激化させたもので、政府の反動政策強行には断乎反対する」と語った。なお、総評の高野事務局長は沈黙を守り、「民族感情の爆発だ」といった副議長の太田薫にたいし、炭労の諸富義高は、「予定した共産党の暴動演習だ」とくってかかったのが、労働界を二分する代表的な意見であり、民労連はもちろん、新産別も後者の意見に組した。

 

 だれよりも一番大きな衝撃をうけたのは、アメリカであった。国務省は、「共産主義者の暴動」として片づけようとしたが、東京では四、五の両日間、アメリカ兵の一人歩きが危険な状態におかれ、「アメリカ軍がいることは、日本人を刺戟するばかりだ。一日も早く東京から引きあげよ」という自由主義者の声が強まり、「日本がはたして西欧の味方でありつづけるかどうか、疑問である」というクリスチャン・サイエンス・モニター束京支局長へイワードの談話が報道されて、反響をよんだ。

 

 アジアの国々の新聞も、「血のメーデー」事件を大きくとりあげた。インドの政府系新聞、ヒンダスタン・スタンダード紙は、「今度の東京事件のようなものが、早晩日本に起きることは、サンフランシスコ条約を拒否したアジア諸国が、かねてから警告してきた所である。日米相互の安全保障という美名のもとにそのままアメリカの軍隊が日本に居すわり、治外法権を押しつける、ということになっては日本人民がアメリカに反感を抱くのは当然のことである」と述べ、フィリピンの政府系紙、マニラ・タイムズ・ブリテンも、「ダレス氏は、日本人の米国にたいする親愛感に確信をもっているようだが、かれがこの事件を目撃したら、その確信は少なからず揺いだことであろう。この事件はたんなる共産主義者の暴動として片づけることはできない。日本政府スポークスマンは、この事件の直後、日本政府と国民の大部分は暴動に参加したデモ隊にはくみしないと述べたが、デモ隊の怒りの目標は在日米軍だけでなく、日本政府にも向けられたようである。吉田政府はこの事件を利用して、対日条約で許された以上に、強力な軍事力を建設することができよう。しかし、このようなことになれば、アジア隣邦を刺戟し、国際的紛争のタネとなろう」と、「日本の民族感情」を重視する論説を掲載した。

 

 共産党は、中央指導部の名で「アメリカ帝国主義者と、その番犬吉田政府の手から人民広場を奪還しようとした愛国的労働者、学生十万の秩序ある行動に対し、彼らは万に達する警官隊を差し向け……、野獣的殺人をあえてしたアメリカ帝国主義者および売国吉田政府に対する国際的な抗議の戦い」であるとよびかけ、北京の「在外指導部」も、この日から自由日本放送を開始して、「血のメーデー」は「民族独立」の「英雄的決起」であるとたたえた。

 

 なお、この「英雄的決起」は共産党の在京独立遊撃隊がおこなった最初の「戦闘」であったともいわれている。

 

 占領期を終え、アメリカ帝国主義の新植民地主義にもとづく「サンフランシスコ体制」下に移った日本の前途には、まだまだ幾多の波乱が待ちかまえているようであった。

 

以上  〔目次〕に戻る  健一MENUに戻る

 

 

 (添付資料2)

 

『「戦争責任論の盲点」の一背景』

 

石田雄

(注)、これは、「みすず」編集部編『丸山眞男の世界』(一九九七年三月発行)、第二部追悼に掲載された、石田雄東京大学名誉教授の上記題名の抜粋です。このHPでの転載全文は、石田雄『「戦争責任論の盲点」の一背景』をご覧ください。抜粋個所は、「丸山眞男とメーデー事件」に関する部分で、丸山氏が『メーデー事件における共産党の指導責任、結果責任』について発言した内容紹介です。

―――――――――――――――――――――――――

 丸山先生が「戦争責任論の盲点」における共産党の責任論を書かれる動機の一つに一九五二年のメーデー事件があったと言われたことは、正直なところ私には意外であった。何故なら、その間に約四年に近い時間があったからである。ともあれ先生が述べられたメーデー事件と戦争責任論との関係は次の通りである。

 一九五二年講和「独立」後はじめてのメーデーでは、それまで「人民広場」の名で親しまれていた皇居前広場にデモ隊が入ったのに対して警官が発砲し、二人を射殺し多くの重軽傷者を生んだ。「血のメーデー」ともいわれる所以である。先生が触れられたのは、当時メーデーに参加した東大法学部職員組合の女性職員が逮捕されたことに関連している。

 逮捕された二人の女性職員は、研究室の事務を担当していた人たちで、誰がみても騒擾罪にかかわるような闘士ではない。丸山先生は、この経緯を詳しく述べられた後に、多くの死傷者を出し、無関係な組合員の中に逮捕者を出すというような結果に対して、当時の共産党の指導部が責任意識を持っていたかを問題にされた。

 実際に当時広場に入り、発砲に驚いて逃げ帰った一人としてふり返ってみると、次のようなことが回想される。私たちがのんびりと行進しているとき、前進座の若者たちや、屈強の若者の集団が、かけ足で私たちを追いぬいていった。今から考えてみれば、彼らは恐らく初めから指示をうけて広場に突入する戦闘部隊とされていたものであろう。私たちが祝田橋のところに着いた時には、何の抵抗もなく、自然に列が進むままに広場に入り、一休みして夏みかんなどを食べているときに銃声を聞いて夢中で逃げたというのが、私たちの体験したところである。

 逮捕された一人は、怪我をして病院に行ったため、カルテから警察に名前を知られたからで、もう一人彼女の友人は全くの誤認によるものであったことが後に明らかになったが、とにかく当時の組合としては大変な事件であった。しかし、それから四三年を経た一九九五年一一月に、丸山先生からこの事件が法学部研究室の職員に及ぼした影響について、詳細まで鮮明に述べられたことに驚かされた。法学部職員組合としては、広場の中に放置して逃げた組合旗を警視庁に押収されていたのだから、教授会の話題にもなったに違いない。しかし当時の教授会の構成員の中で、丸山先生はど鮮明に当時の経緯を語れる人が何人いるだろうか。

 このように考えてくると、先生の記憶がとりわけ鮮明であるということは、この事件が起った当時から、結果責任に対する意識の欠如という点で、この時期の共産党の指導と戦争責任の問題を結びつけて考えておられたことを示すものと思われる。

 この日に丸山先生から述べられた「戦争責任論の盲点」執筆に関する事実は、私にとって驚きであったことは既に述べた。すなわち、私は自分の不明を恥じなければならないが、先生のこの論文を読んだとき、それは、戦前における天皇と共産党の戦争責任に関するものが中心で、戦後については、知的状況における連続性に関する批判が背景になっているということまでしか考え及ばなかった。

 その点では『前衛』などで執拗に丸山批判をくりかえしている人たち――私などはなぜ今頃こんなことをと思っていたが――の方が、丸山先生の執筆動機の一つに戦後共産党の政治指導に対する批判が含まれていることを直観的に嗅ぎとっていたのかもしれない。

 

以上    〔目次〕に戻る  健一MENUに戻る

 (関連ファイル)

    『「武装闘争責任論」の盲点』 朝鮮“侵略戦争”に「参戦」した日本共産党

       『史上最大の“ウソ”作戦』戦後処理パートの助監督宮本顕治

    吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部インタビュー

    藤井冠次『北京機関と自由日本放送』人民艦隊の記述も

    石堂清倫 増山太助著『戦後期左翼人士群像』書評

    樋口篤三 増山太助著『戦後期左翼人士群像』によせて

    川口孝夫 『流されて蜀の国へ』・終章「私と白鳥事件」

    石田雄  『「戦争責任論の盲点」の一背景』

    れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究1952年当時