北京機関と自由日本放送

 

藤井冠次

 

 ()、藤井冠次は、元NHK報道記者で、レッドパージ後、北京で自由日本放送のデスク兼プロデューサーになりました。このファイルは、彼の証言である『伊藤律と北京・徳田機関』(三一書房、1980年、絶版)の「第3章、自由日本放送」の全文転載です。第1章徳田機関、第2章伊藤律の問題も、北京機関の内部状況、伊藤律の北京機関での活動・査問など、きわめて興味深い内容になっています。また、日本共産党員で、人民艦隊による具体的な密航体験や、人民艦隊責任者岡田文吉の密航往復を語ったのは、彼一人だけです。なお、第3章は長いので、私(宮地)が小見出しを付けました。

 

 〔目次〕

   第1章、徳田機関 (抜粋、P.19〜30)

   第3章、自由日本放送 (全文、P.159〜198)

     1自由日本放送 短波と中波

     2、伊藤律査問報告での帰国と内地での放送普及工作活動

     3、六全協までの一年間 志田と宮本顕治との妥協

     4、六全協当時と六全協決議放送内容

   藤井冠次略歴

   増山太助『藤井冠次−同志と加害者』 『戦後期左翼人士群像』(抜粋)

 

 (関連ファイル)          健一MENUに戻る

     『「武装闘争責任論」の盲点』 朝鮮“侵略戦争”に「参戦」した日本共産党

     『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』

     吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部インタビュー

     大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織“Y”

     由井誓  『“「五一年綱領」と極左冒険主義”のひとこま』山村工作隊活動

     脇田憲一『私の山村工作隊体験』「独立遊撃隊関西第一支隊」

     増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」

     中野徹三『現代史への一証言』「流されて蜀の国へ」を紹介する

           (添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」終章「私と白鳥事件」

     石堂清倫『コミンフォルム批判・再考』スターリン、中国との関係

     れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』

     八百川孝共産党区会議員『夢・共産主義』「50年問題」No.21〜24

 

  

 第1章、徳田機関 (抜粋、P.19〜30)

 

 私は昭和二十六(一九五二)年十二月下旬、内地の残留主流派が指導部・志田重男(以下敬称略)の組織部から、党が近く〈人民の放送〉を出すのでその任務(編集長)についてほしいとの指名要請をうけた。場所はむろん国外、非合法活動なので、地下に潜行して単身赴任するという内示である。当時私は、レッド・パージをうけて一年後で、どこにも就職口がなく、家族を養うために私はある書店の校正係となり、妻は内職同然の小さな洋裁店を出して家計を助けていたが、二人の収入を合せても、私の長男と両親や弟たち大家族の家計には足りなかった。その経済的困難が個人的には重い障害となっていたし、私には学生時代にはじめて左翼連動と接した時から作家志望の夢があったためパージを機会にその生活に入る考えもあったが、根本的には、占領軍のレッド・パージという、徳川時代の農民政策にも似た(生かさず殺さず)の苛酷な処分と屈辱に抗し切れない、内面的な憤りが抵抗のエネルギーをためていたのである。

 

 しかし、私は自分が職業革命家になる意志も資格もないことを話し、パージ仲間の先輩や同僚を推薦したが、それぞれに支障があって、結局私よりほかに適任者はない、これは〈党中央の決定〉であるという、事実上命令にひとしい宣告をうけた。私は一たん返事を保留して、妻と三日三晩討論したあげく、妻の〈一年間〉という期限付の条件と経済的保障要求(月額二万円)とを妥協点にして、組織部と談合した。こんな期限付の要求をすることは、非合法活動で異例なこと位私も承知していたが、妻の要求は、年老いた両親を抱えて私の留守を守るため、防衛上ぎりぎりの線であることを組織部にも諒解してもらい、翌る一月十二日の夜、私は東京駅から地下潜行の旅に入った。

 

 行先は北京と聞いていたが、出発した当時は五里霧中であった。この時の同行者は、国際会議出席のための機関要員男女各一名、私を含めて計三名で、途中京都で一泊し、長崎から、放送のためのアナウンサー要員(新劇出身)男女各一名が同行した。船は三十噸、六汽筒・焼玉エンジンのトロール船で、いわゆる人民艦隊の組織したものであったが、防衛上無線装置はなく、頼るものは羅針盤と海図しかない、おまけに竜骨に継ぎがしてある新造船で、素人同然の船員が操縦してゆくのであるから、出航して三日日、東支那海で暴風雨(しけ)に会った時は、板子一枚下は地獄の酩酊船(ランボオ)さながらで、生きた心地はしなかった。後に北京で会った西沢隆二は、同様のこの密航の体験を思い出して、「明治維新の時、吉田松陰が密航したようなものだ」と語った。壮士風の彼なりの実感であろう。この体験は語りがたい。そんな感慨よりも、地下潜行の列車の旅から密航のすべてまで、ゆく先々で周到にわれわれの身の安全とダイヤを準備し、様々な困難を乗り越えて輸送任務を遂行した党組織と人民艦隊の勇敢な戦士たちに、いまも感謝を忘れることができない。彼らはいずれも二十代の若者たちで、胆力があり智力にすぐれていたが、縁の下の力持ちで、生命がけで全力を尽してはたらきながら、何一つ報いられることなくついに名を知られることさえなかった裏組織の人々である。私は彼らに人民大衆の不屈のエネルギーを見出し、革命の若々しい青春を見出した。

 

 密航一週間の後、私たちは上海の埠頭に上陸し、一泊した後、列車で北京に向った。北京に着いたのは二月初旬、折柄中共は土地改革実施直後、国民経済再建のさ中で、北京駅頭には(反浪費・反貪汚・反官僚主義)の三反運動のスローガンが高く掲げられていた。

 

 北京には、胡同とよぶ横丁が三千以上もあるという。後にわかったことだが、私たちが着いた先は、西単とよぶ盛り場に近い胡同の一角にある、元高級官僚の邸宅と見える古い門構えの大きな家であった。以後、私は便宜上、この家を〈胡同の家〉と呼ぶことにするが、そこに機関があり、徳田球一(中国名孫・そん)、野坂参三(丁)、伊藤律(顧・くう)、西沢隆二(林・りん)、土橋一吉(周・しゅう)ら主流派の幹部と、内地から彼らと前後して随行した日共党員、その他中国の東北(トンペイ・旧満洲)出身で機関の要請をうけて参加した日本人同志合せて十余人の人々がいたのである。彼らは、いずれも日常は人民服を着て中国名を名乗り、私たちも招待所で人民服に着かえ、中国名をもらった。私の場合は、任超という。到着時の接見に、徳田はホー・チーミン髯をはやし、古い中国服の袍(パオ)を着ていたが、すでに高血圧の病気療養中で、やつれた印象が目立った。

 

 それよりも私は、まだ内地にいると信じられていた伊藤律がすでに先行して、私たちの前に姿を現わしたのにおどろかされた。面接の時、私は律から、徳田が病気であり近く転地療養をしてもらう予定であること、自分は徳田に呼ばれて最近(前年十一月頃か?)北京に来たことを告げられた。律はかさねて私に宣告した。「ここは解放中国であるが、君たちは日共党員なのだから、党の組織原則と党の規律を守り、機密を厳守しなければならない(勝手に外出したり、みだりに党員相互で私語や無責任な論議を交してはならない等、ほぼ四全協に示された非合法活動の原則的指示)。現在党は分裂しているが、日本共産党の徳田書記長は現にここにおり、党中央委員会書記局は厳然としてここに存在している。が、いま書記長が病気のため、自分がここの機関(つまり中央委員会書記局の意味)のすべてについて書記長代理をしている。そのつもりで、何事も自分に報告し、相談するように」

 

 この言葉は、彼の現在の地位と権威を誇示するものと思われたが、事実彼は徳田の承認をうけて、前房(幹部)と後房(平党員)の細胞全員を掌握し、機関の渉外事務から工作・人事のすべてを管理して、実務的に切り通していたのである。さながら前線司令部の参謀か部隊副官のごとくにである。私はその事実に二度おどろかされた。

 

 このことは、彼の徳田を補佐しての抜群の実務能力を端的に示すものであるが、それにしても彼がそのように、まるで内地の彼とは別人のように必要以上に自己の権威を誇示するのはなぜかが、長く私の疑問に残った。

 

 後にわかったことであるが、――(つまり、その時点では私にもわからなかった背後事情であり、非合法組織特有の秘密に属するため当事者にしかわからない虚相の一つ。以後、私は必要に応じて、この種の虚相にも言及するつもりである)内地の状況などを綜合して考えて見ると、彼は(徳田に呼ばれて北京に来た)とは言明しているが、実は内地の残留主流派(志田指導部)から、徳田の律召還を奇貨として追放(海外隔離)同然に無理矢理渡航させられた形跡が濃厚である。

 

 第一の理由は、律は前年(五一年)十月、第五回全国協議会で国内指導部(政治局)から解任され、その直後中国へ渡航を命じられた。失脚の理由は、主に彼が専任していた非合法の機関紙誌(「平和と独立」「内外評論」)における指導の独断専行、特に五〇年十月に、〈武装闘争〉をよびかける論文を独断で発表したためと見られているが、主流派が正面切って武装闘争を呼びかけたのはこの時がはじめてであり、これが新綱領の基本方針に照らして誤りではないにしても、朝鮮戦争のさ中でもあり慎重を要する発表に、集団主義を無視して発表したのが、志田とその周辺から〈挑発的〉と見られた。加えて、その後の五全協では、国際派分派グループの党(主流派)への復帰状況が審議されたが、主流派と分派との間には、分裂当時の悪名高い〈分派狩り〉(分派と見られる機関要員に除名から党活動停止にいたるさまざまの苛酷な追放処分がおこなわれた)が主流派への不信を招くしこりとなって残っていた。

 

 その責任が、主流派幹部であり書記局残留者である伊藤律に擬せられたのが重なって、律のスパイ容疑を強めたからと見られる。そのため、律とそのグループの失脚は殆ど一方的に志田派のイニシアティブでおこなわれ、これを察知した律は、志田の渡航命令にたいしても、はじめ頑強に抵抗したといわれている。律の真意はわからないが、彼としては、反面では徳田・野坂ら分裂以来行動を共にして来た首脳部から見放されて、内地に残された時からの残留の劣等感があり、〈分派狩り〉を理由に志田から追い落しをかけられる危険を感じたことは疑いを容れない。ついでに、形式的なことにこだわれば、この時の政治局は第六回大会で任命されたもので、分裂後も主流派の観念で踏襲されていたものであるが、志田重男と伊藤律は徳田・野坂と共に政治局・書記局を兼任していたが、志田重男は政治局員は律より先任であり書記局は後任であった。だから、形式的には、律は政治局を解任されても書記局員の資格は残るので、北京に着任して徳田に再会した時、忽ち息を吹き返して、書記局の存在と権威とを内外に誇示したくなったのであろう。

 

 一方、徳田が律を必要としたのは、その年の夏、モスクワでスターリン指導下に新綱領を決定したが、同時に党の分裂をきびしく批判され、北京に帰ってからも、毛沢東から同様のきびしい批判をうけた。徳田は毛沢東にたいして、はじめ反対派の非を主張して抗弁し容易に聞き入れなかったが、それでも毛沢東から現下の時局(朝鮮戦争と抗米援朝の立場)では党の統一をすみやかに実現することが必要であると強く説得されて、まるで彼自身の自己批判を迫られたみたいに、書記長としての重大な責任を痛感した。

 

 スターリンと毛沢東とは、日共の武装闘争についても多少の意見の相違はあったが、戦略的には一致してその必要を認めていた。その限りでは、中・ソはまだ中ソ友好同盟条約にもとづいて蜜月であった時代である。そのことを立証するものとして、後にフルシチョフが事実を暴露して日共中央委員会にあてた公開書簡がある(タス通信・一九六四年七月二十日付第七八三号、「日本共産党中央委員会あて一九六四年四月十八日付ソ連共産党中央委員会書簡」)。

 

 これは、この前年(六三年)三月、日ソ両党代表間で会談がおこなわれた際、日共代表団が、朝鮮戦争当時、ソ共が五一年綱領と〈極左的冒険主義戦術〉とを日共に押しつけたのは〈内政干渉〉であるとして抗議したのにたいして、ソ連側でそのような事実はないと反駁したものである。書簡によれば、一九五〇年一月のいわゆるコミンフォルム批判の論文は「スターリン個人の発意で発表されたもの」であり、五一年綱領については、「その草案が日共指導者(徳田・野坂両同志その他)の諸君と、その直接参加のもとに、スターリン自身の手で仕上げられたものであること」を言明している。が、さらに書簡はつづけて、「この綱領草案とは別に、日本の同志たちは日共の戦術にかんする文番を作成したが、この作成には、ソ連共産党のうちだれ一人関係しなかった」としている。またこれに先立って、書簡は「(ソ共は)朝鮮戦争当時の日共の〈極左的冒険主義〉戦術とは何ら関係がないことを示した」と述べ、「このような戦術は、その大部分が中国共産党の経験(山岳地帯におけるゲリラ戦態勢、〈支援基地〉の設置など)の教条主義的なひきうつしであって、これには実際、ソ連共産党もなやまされた」などと述べている。フルシチョフの中ソ離間策と中共への責任転嫁の意図は明らかであるにしても、当時のスターリンと毛沢東とが、朝鮮戦争と〈抗米援朝〉の立場から、〈後方基地〉日本内地での武装闘争に日共の一定の役割を認めていたことは事実であろう。これが徳田にとっては、武装闘争を基本方針とする新綱領の全面的実践を使命として課するものであり、全党をあげてその実践にとり組むためには、現実の問題として、分裂した国際派分派との統一をすみやかに回復し団結を固めることが、焦眉の急となった。

 

 以来、徳田が北京で客死するまでの間、彼の頭脳から片時もはなれなかったのは、国際派分派との統一を速やかに回復して、全党をあげて新綱領の実践にとり組むという革命の急務にたいする使命感であり、念願であった。毛沢東との会見で得た彼の自覚は、しだいに意志的なものとなり、北京での機関の工作を強化するために、内地に残留して党内情勢にも通じていた律の実務能力を必要としていた。これが主な理由であるが、この当時すでに北京の徳田機関が党の放送を出すことは決定していたものと見られ、機関紙担当の律と、律に随行した全逓出身の土橋とは、その実務工作のため敢て指名されたと見られる。全逓出身であることが放送とは直接何の関係もないが、日本の産別組織では、放送労組と全逓労組とは、タテ割りの官庁組織の関係で比較的に近い友誼団体であったから、幹部はこれを考慮したのであろう。この時、放送細胞から、放送技術に明るい技術者が一名随行して開設準備に当ったらしい。この放送は後に、〈自由日本放送〉と命名されたが、詳しくは別項にゆずる。

 

 しかし、当時の国内では、志田指導部は律を解任しても、地下の非合法組織では律の監視もままにならないため、要注意者として律を持て余した恰好となっていたから、放送問題と徳田要請を渡りに舟として、律に渡航の因果を含めたことは、「書記長に呼ばれて来た」という律の言明からも推測される。同時に、志田は土橋あるいは便に托して、律のスパイ容疑による失脚(五全協での政治局解任)を徳田に報告し、内地での書記長代理を自認していた志田自身の立場から、徳田に律の身柄を一任するか、律の査問と自己批判を要請したであろう。律が志田指導部から忌避され、律もまた彼を出し抜いた志田に反撥して対抗意識を強めていたことは、北京での「書記局」の存在と彼自身の「書記長代理」の権威を誇示した言動からも、この時私に直感されたのである。

 

 つまり、この徳田機関には、律が着任した機関の成立当初から、徳田にとり入って忽ち信用を快復し片腕となった律と老境に入った最高指導者・徳田との中枢の二人の特殊な指導関係が厳然として存在し権威を示していた。律は徳田の内意をうけて機関を切廻しているようであり、律の背後の奥の院におかれた徳田は、非合法組織の中の非合法、つまり二重の地下におかれた存在のように神格化されて見えた(律には、彼の権威を強めるため〈個人崇拝〉の観念があったかもしれない)。この律と徳田との中枢の二人の関係と、内地の志田と対立する律との横の関係が暗黙に交錯して、律を事実上の執権とする機関の工作に複雑な影響を及ぼし、彼が専制的に振舞えば振舞うほど、機関内部に分裂主義の傾向を強めていったのである。

 

 つい最近のある時、問わず語りに語った私の話を黙って聞いた上で、徳田機関と伊藤律の問題を公然と論じた作家N(西野辰吉)氏は、律が五全協で失脚して内地から追われたのにしても、北京に来て忽ち徳田の信任を得て機関を切り廻したのは、スパイ容疑による失脚などではありえない、藤井のでっち上げであろうという。しかし当時、律がなぜ北京に渡航して来たのか、また徳田がそのような律をなぜ重用したのかに、事件の最大の謎があるので、外面的事実だけを見ても、それぞれの背後事情となる内面を見なければ、非合法活動の実体は判断できない。眼に見えない謎の真相を見極める推理と洞察力とが謎をとく鍵となるのはこの理由からである。

 

 律は志田指導部からスパイ容疑によって忌避され、要注意者として送られて来たのである。私ははじめ、律に随行した土橋の存在を不審に思い、目付役として護送の任に当ったのではないかと思っていたが、私が内地に還ってから数年後、その心証を確認するような次の事実を、偶然の機会に知った。(これも虚相の一つ)それは、当時人民艦隊の指導者としてその任に当っていた岡田文吉が、私が着任する前の年の暮、五一年十二月初旬に北京の徳田機関から内地に帰ったという事実である。これより先岡田がこの年の初夏徳田機関に滞在していた事実については、当時の機関在住者から聞いていたから、五一年綱領の手交と律の召還にあたって彼が秋ごろ内地の志田指導部と直接連絡のため一たん帰国したのは事実であろう。おまけに、私が地下に潜行する前に、五二年一月現在内地で岡田と面接したのは事実であるから、前後の事情から律は五一年十一月頃直接岡田によって内地から北京に護送され、岡田はその任務を果して折返し十二月に内地に帰ったのではないかと推測される。

 

 前後の関係からいって、岡田は、徳田の律召還命令を直接内地の志田に連絡し、五全協後、志田の意を受けて、いやがる律を連行し、北京に送り届けたのだ。岡田は当時、要人物の護送には彼自身が直接あたるほか、徳田と志田との間をつなぐ重要なパイプの役割を果していたのだ。もしこの事実に誤りがないとしたら、岡田が志田の意志の通りに、律のスパイ容疑・分裂当時の〈分派狩り〉の責任追及・政治局解任と国外追放の処置・さらに徳田による査問と律自身の厳正な自己批判の必要などを徳田に要請したことは疑いを容れない。したがって、問題は、もし徳田が岡田から律についてそのような報告をうけていたのなら、なぜ敢て律を重用したか、徳田自身の主観のあり方に疑問が移るのである。そして、それこそが、この機関の運命を決定したのである。

 

 

 第3章、自由日本放送 (全文、P.159〜198)

 

 1自由日本放送 短波と中波

 

 昭和二十七(一九五二)年五月二日、いわゆる〈血のメーデー事件〉が起きた翌朝、朝日・読売など都内の各新聞は、全紙面を埋めたメーデー事件の記事の一面下段に、次のような小見出しのRP(ラジオ・プレス通信社)の記事を掲げた。一段組。

    共産系「自由日本放送」

 〔RP特約=東京〕東京で傍受したところによれば一日夜から「自由日本放送」と称する共産系の日本語放送が開始された。同放送は毎晩八時三十分から九時まで行われ、一日夜は「日本共産党のメーデー・スローガン」「世界労連のメーデーに対するメッセージ」「日本国民は必ず勝利する=解説」などを放送した。なお同放送の所在地は不明であるが、周波数一一・九メガで毎日定期的に行われるところからみても日本国内ではなく、北京、平壌またはハバロフスクとみられている。(読売紙)

 同日、朝日紙の小見出しは「なぞの放送始まる・共産系“自由日本”」であった。

 

 この時の放送施設は、いうまでもなく中国共産党の援助と協力によって非公然に開設されたもので、前章(胡同の家)とは別に北京市内にあった。出力は五〇キロ、短波周波数は前記の通り、スタジオの外部は平屋木造建であるが、器材は殆ど当時のラジオ放送国際的技術水準を示すもので、マイクロフォンは英国製ヴェロシティ型であった。但し、解放後まだ間もないため、スタジオの椅子は布地が破れ、中から綿がはみ出しているし、夏冬ともに冷暖房はないため、夏場は日本製の金属ファンの扇風機を“弱”でかけ放しにして放送するなど万事非常時型であったが、〈抗米援朝〉の大闘争のさ中ではあり、国内的には、国民経済復興の〈三反運動〉を展開している最中なのだから、これだけの施設を提供してくれたのは、文字通りプロレタリア国際主義の連帯観がなければ到底できないことであった。

 

 放送開始の序奏となるテーマ音楽は、協議の結果、中ソの放送とは異なる日共独自の建前から、管絃楽レコードの「インターナショナル」に決めた。これは、当時解放直後の中国には、西洋楽器も演奏者の集団もなく、京劇などに使う民族楽器しかなかったから、モスクワに頼んで、特別に管絃楽だけの(つまり空オケの)「インター」を吹きこんでもらったのである。プロレタリア国際主義の旗印を明確にするつもりであった。

 

 そのレコードが胡同の家に到着したのは、たぶん四月はじめだったと思うが、胡同の家の前房の広間で、旧式の手動ポータブルで試聴した時、徳田が感激して「やはりインターはよい!」と嘆声をもらし、くり返して耳を傾けていたのを思い出す。徳田ばかりでなく、並みいる幹部たちも、放送にたいしてスターリンから直接クレジットを得たような気分であった。

 

 その席上で、伊藤律が、放送の名称を「自由日本放送」とすることを宣言した。放送の名称については、日本解放放送・民主日本放送・新民主放送などいくつかの候補名が挙げられたが、内地の「アカハタ」後継紙の名称と紛らわしく、結局「自由日本放送」が語呂がよく呼びやすいため決定された。〈自由〉の名は、自由諸国、資本主義の自由を連想させるので、懸念する向きもあったが、一方、律には、〈米軍占領下には言論の自由など存在しない〉として(奴隷の言葉〉をよぎなくされているという見解があって、それには私も賛成だったから、占領軍に抵抗する意味もあって「自由日本」に決定したのである。

 

 放送開始時期は、最初から五月一日に予定されていた。私たちはメーデー当日の放送開始に宣伝効果を期待したが、予想外の事件(血のメーデー)が東京で起ったため結果的には失敗だったわけである。放送体制は、総責任者徳田球一の下に、編集長伊藤律が全般を指導し、私は律の下で、デスク兼プロデューサーとして、スタッフを組織することになっていた。

 

 北京到着は春節(旧正月)前夜であったから、春節明けと同時に、律と私は編集方針を協議し放送の体制づくりに追われた。といっても、内地から渡航した技術者は、私のほかに新劇研究生のアナウンサー要員二名だけであったから、さし当って後房の東北(トンペイ)出身の細胞員たちを内地なみの記者に仕立てるよりほかになかった。私以外の全員が未経験の素人である。

 

 徳田ははじめ私に、コミンフォルム機関紙掲載の徳田論文「新綱領の基礎について」を渡し、「これを当面、放送の編集方針とするように」と命じた。加えて「今後とも新綱領を基本方針として、党の統一と団結に努力してもらいたい」という。一般的には綱領の普及、組織的には分裂した党の統一回復と団結強化が当面の最重要課題であると強調した。私はこの時、新綱領が党の統一と団結とを条件にしてつくられたものであること、およびこの放送がそのための宣伝の武器として国際的に(中ソの)承認を得て開設されるものであることを言外に直観したが、徳田が放送の効果に過大の期待を寄せているらしいことを感じ、私の立場から、放送の独自性と機能について次のように苦言を呈した。

 

 ○ この放送は、非合法に出されるものであるが、一方受け手の側からいえば、日本のように放送技術の発達した国では、全波(オールウェーブ)受信機さえあれば、敵でも味方でも聴取可能な公然の放送となるので、戦術指導など非合法のアジ・ブロの手段とはなり得ない。

 ○ たとえ短波放送でも党の意志の伝達は可能であるが、放送は党員だけが聴いてわかる狭い範囲のものでなく、党外の人民大衆が聴いてもわかりやすい内容のものにしなければならない。したがって、ニュースは迅速であるよりも、事実に即してあくまでも正確に、解説は一方的な意見の主張よりも、事物の矛盾を解明して判断の参考となるように、番組のすべてに階級的真実をつらぬくこと、そして向う一年間は、何よりも固定聴取者をつくること、この放送の信用を得ることが先決である。

 

 言葉は多少前後したが、私は要旨これだけのことをいった記憶がある。

 徳田も結局私の意見に納得して同意したが、近い将来普通受信機でも聴ける中波に増強する予定であることを私に告げた。この時私は律をも交えて、番組の全般と各部についてもっと突込んだ討論をすべきであったかもしれない。が、それに気づかなかったのは、私の迂闊さであるよりも、非合法の組織原則に私自身が完全に従属していたためであった。

 

 実際には、徳田と律とは同意見であると信じたのに、その後の遂行過程で、両者の間には次のような相違があることがだんだんわかって来たのである。つまり、徳田が戦略的に党の意志の伝達手段として考えていたのにたいして、実務家の律はむしろ戦術的に煽動(アジテーション)の手段として考える傾向があった。だから、まるで戦闘司令部のように、国内の武装闘争を指導するかのような姿勢をとりたがるのである。しかし、現実には、国内では、徳田たち主流派指導部が流した「球根栽培法」が、その頃になってようやく下部組織に浸透し出したばかりなのだ。

 

 だが、物に憑かれたような当時の律の指導体制が、機関内に専制的で狷介な支配を強めていったことは先に述べた通りである。私たちは、その放送自体が浮き上らないように、基礎的な体制づくりに没頭せざるを得なかった。

 番組内容は、毎日一回三〇分の短波放送にたいして、ニュース一○分、ニュース・コメント五分、解説一〇分の割当とし、私は細胞を指導してニュース編集を受持ち、律は前房の幹部を指導して解説の編集を受持った。

 

 さし当っての工作の中心は、東北(トンペイ)出身で中国に残留したため内地の現代口語にも疎い細胞の同志たちに、話し言葉によるニュースの文体を教え、放送文章の書き方を訓練すること、および同行して来た俳優出身の同志にアナウンスを訓練することであった。そのどちらも容易なことではなく、殊に前者の訓練は、昭和一世の日常用語を戦後の話し言葉に改めるようなものであったから、明暮添削修練しても足りず、私の工作時間の殆どはそれに費やされた。

 

 最初に最も苦心したニュース源を確立する問題は、律の意見で、中共が各機関の幹部に配布している人民日報社編集の日報「参考消息」の使用を許可してもらうことになり、これを唯一最高のテキストとして、各項目から選択翻訳することにした。これは、各国の新聞通信放送から主要記事を抜粋して、要領よく整理編集したもので、精度は高く、毛沢東の(実事求是)の精神につらぬかれ、国際的にも最高水準を示す情報源といってよい。ここに、胡同の家の内部の後房は、内地でいえば、放送局の外信部のような趣きを呈し、前房は解説委員たちの個室のような按配になったのである。

 

 しかし、最も困難なのは、政治的に時局の観点を教えニュースを選択することよりも、現代口語の話し言葉によるニュースの書き方を訓練することであった。日本語を理解し政治的には皆理解の早い事柄でも、占領下の植民地的状態では、〈民主的な言論の自由〉が事実上ないのだから、わかりやすく書くことに困難な問題も多かった。外来語の問題もあり、現代国語の混乱もあって、翻訳自体に難渋する場合もあった。それらの場合、最初律が、私のような職人を一人導入すれば簡単に放送原稿ができるように安易に考えていた事実にぶつかり、私は徳田とはちがう律の安易な主観主義にたいして抵抗せざるを得なかった。それでも、ようやく、私が職人的に原稿をつくり上げ、第一日の解説は律が担当したため律の文章を添削し、ようやく初日を出すことができたのが、前記引用の通信報道となったのである。

 

 私はこの際、自由日本放送についての私の個人的見解を明らかにしておく。自由日本放送は、その後も全員の努力によって、六全協後の昭和三十年十二月末日まで継続されたが、国際的努力にも拘わらず三年半の短時日で終焉したのは、放送にたいする党の主体的姿勢が欠け、根本的には、放送の機能にたいする幹部の無知と無理解が運用を誤らせたためであった。思想的には、相も変らぬフラクション操縦主義に酷似している。

 

 後に六全協の後、分裂時代の日共主流派の党活動には、山村工作隊・トラック部隊など左翼冒険主義の戦術的なものが重大な誤謬として指摘されたが、いずれも主観主義としてのスターリン主義にもとづくものであり、右の二つを、軍事・財政の両局面とすれば、自由日本放送も、同じ主観主義による宣伝の局面での産物といって誤りではないであろう。ただ外地であるため関係者が限定されたのである。非合法下に、木に竹を継いだように大衆的な公然活動を展開しようとした冒険主義、その根源は戦後の非公然フラクションによる大衆団体引廻し主義、さらに遡れば戦前の非合法の活動形態に発しているが、オールド・ボリシェビキの日共幹部に浸みついた主観主義的テクノロジーが、人民大衆にたいする信頼を失い、当事者相互の不信を招いた結果、革命の事業を破綻に導いたのである。律のような挑発者が党破壊に乗ずる隙は充分にあったので、律はただそれを早めたにすぎないと見ることもできた。徳田機関も自由日本放送も、その例外ではなかった。

 

 私が放送指導の現場に立って、いちばん当惑させられたのは、放送にたいする彼らの並はずれた過大な期待であり、効果にたいする過信であった。しかも、それが内地の受け手を無視した一方的な理解にもとづいているのだから、どうしようもなかった。要するに、自分たちが電波を発射すれば、即時に党員大衆の頭脳に浸透するかのような錯覚に陥っているのだった。もちろん、短波と中波の相違位は心得ている。が、このような初歩的な誤解は、戦時中のNHKの軍国主義的天皇制御用放送の宣伝効果にたいする彼らの獄中体験、および戦後同じ体質で彼ら党幹部に盲従した放送細胞フラクションの引廻し主義にもとづいているので、その一員である私個人にも多少の責任はあるのだが、現場に立ってから、彼らの主観主義を正すのは容易ではなかった。

 

 その当時、私などには、徳田は何よりも、絶対的権威をもつスターリン綱領を手中にし全党に明示したことによって、分裂した内地の党が速やかに統一を回復し団結をとり戻すことを彼自身は主観的に確信しているように見えた、それだけではなく、党が分裂前のもとの状態に戻ればすぐ新綱領の全面的実践に移ることを予期してその指導手段にこの放送を用意していた気負いさえ彼の言動から直観させられたのである。それだからこそ、徳田はしきりに内地からの反応を求めたのだが、肝腎の内地の志田指導部は笛を吹けど踊らず、というより分派との統一促進に寧日なく、また自由日本放送の普及に組織を動員する余裕さえもたなかった。第一、非合法の放送を公然と普及することなど組織上できない相談だった。それよりも、内地では降って湧いたような人民広場の血のメーデー事件の対応に大童(わらわ)だったのである。

 

 北京でも、放送二日目のニュースの〈メーデー事件〉の取扱いをめぐって、私と律とが衝突したのは、前記の亀裂のはじまりであり、大須事件の時も同じであった。律の主観的なアジテーション(煽動)にたいして、私が頑強に抵抗したのである。私はこの時、党が四全協で戒めている「ただ主観的に革命的な言辞をつらねて自己満足している傾向」を思い出したのではなかった。そんな余裕は私にもなかった。ただ私は、自由日本放送が原則として、外地の北京でニュースを取材したのではなくあくまで内地で取材した立場をとっている以上、事実を取材した内地の報道と異なるニュースを流せば、戦時中のNHKと同様に、鉄面皮な欺瞞と自己本位の歪曲を非難されるのは必然だから、党とこの放送の信用が損われることを主張したのである。

 

 内地の状況からいっても、〈人民広場奪還のデモ〉がそんなに簡単に計画できるとは思えなかった。その時、律の書直したニュース原稿の放送が問題となり、野坂の提案で、事件の評価をめぐって徳田の御前会議となり、両者の意見が対立したが、結局徳田が日共三十周年記念論文に〈革命運動発展の過程〉としてとらえることで落着し、律の意見が通った。が、その後、破防法反対闘争と火焔ビンを結びつける律にたいして、私がその便宜主義に反対し、またもや対立したのである。しかし、彼らはあくまで上級者であり、結局彼らに同調せざるを得なかった私自身の中にも、組織本位の主観主義の誤りがあったことを自分で反省している。

 

 徳田が、北京と内地との矛盾に気づいて中波増強を決意したのは、日共三十周年記念日の後であった。当夜、彼が五月以来心血を注いで執筆した統一のための論文「日本共産党三十周年に際して」を放送したが、内地から何の反響もなく、それ以前から何を放送しても梨の礫で、虚空に消えてゆく放送というもの、それにたいして音なしの構えをつづけている志田指導部の沈黙にも不安を感じた。後に私が内地に帰ってからわかったことだが、その頃内地では潜行幹部にたいする当局の追及がきびしく、自衛警戒が厳重になる一方、破防法反対闘争の高まりがあり、志田指導部は、国内指導に追われて、放送対策どころではなかったのである。日共主流派は、内地での党の統一を回復するよりも、主流派幹部自体が内地と外地とに分裂し、それぞれの活動を充実しあうため二正面作戦で奔命に疲れている感があった。

 

 徳田がこの分裂作戦の不利を知らなかった筈はないが、前述のように、スターリン綱領の旗印を鮮明にしてゆけば、全党が彼のもとに団結して来るような主観に囚われているらしかった。またそれ以外に、彼のとる道がないことも事実であった。内地に還ることも無謀であった。そのために、彼は自分が孤立しているのを感じ、内心では苛々して、志田と対抗して機関内で専制的に振舞う律の挙動に疑惑を抱いたのだった。この頃から、律は急に徳田から昔日の信頼を失っていったのであった。

 やがて秋口から中波増強の工作に入り、増員の人選に入った頃、文芸番組の必要が痛感され、西沢が文芸(娯楽)の指導に乗り出すことになった。十一月頃であったろう。

 

 この時のある日、徳田が外出先から発作を起して担ぎこまれるという例の故宮事件が起り、間もなく全員五十余名にふくれ上った機関は、城外西地区に新築された洋館に移転することになった。一九五二年十二月のことである。以後、自由日本放は律の手から西沢隆二の指導権に移り、中波番組製作のため文芸工作に重点を志向するようになる。しかし、文芸番組といっても前述のように、近代的な西洋楽器一つない状態はとても国内向けの番組など作れる筈もなく、文芸班を組織しても方法論に明け暮れるばかりであった。

 

 中波に増強されたのは、五三年春だったと思う。同時に、開始のテーマ音楽は中央合唱団の「平和を守れ」に改めたほか、時間帯をふやし、工場の昼休みに聴けるように前夜の再放送を新設した(この時間は後に、労働者の出勤前をねらって早朝に変更された)。いずれも中波・短波併用であるが、この時間割はやがて次のようになり、終焉の時まで固定した。

 朝 5・30〜 6・00 ニュース・歌・解説(再放送)

 夜 8・30〜 9・30 ニュース・歌・解説(本番)

 夜10・00〜10・30 ニュース・文芸・音楽(本番)

 夜10・30〜10・50 学習の時間(党活動家向)

 夜10・30〜12・00 文芸・音楽など(再放送)

 

 たとえ再放送の設備が整えられたにせよ、また内地の聴取状態がいかなるものにもせよ、これだけの番組をローカル局なみの人員で出すとなれば、機関の日々の工作は、あげて放送のみに集中せざるを得なかった。換言すれば、徳田なきあとの徳田機関(徳田は前年末から転地療養、のち死去)は、事実上手づくりの放送局になったといっても過言ではなかった。機関全員の主観主義(左翼冒険主義)はここに極まれりといってもよかったであろう。

 

 2、伊藤律査問報告での帰国と内地での放送普及工作活動

 

 内地に帰った私としても、その一員として、同じ運命を免かれることはできなかった。

 私はその年の夏、律の査問報告の件で内地に帰ることになり、徳田も律も不在となったあとの機関の放送工作は、すべて野坂参三と西沢隆二の管理と指導に委ねられることになった。私の方は、内地に帰ってようやく地下の志田に対面し律の一件を報告した時、志田から「これからあなたはどうしますか?」と訊かれて、自由日本放送のことを話した。

 

 それは私が上海で西沢から要請されて、志田に協力を得るよう委託された次のような任務である。その一つは、中波増強は初期の三十分番組を一時間に拡大するのと聴取者の範囲をひろげるため、どうしても三十分相当の文芸番組を挿入しなければならない。ところが現地では、全員が文芸放送に素人であり、西洋楽器一つもない解放直後であるから、内地から有能な放送スタッフ(タレント)を詮衡して至急北京に派遣してもらいたい。もう一つは、内地の放送受入れ体制としてモニター組織の聴取センターを大都市に開設することであった。そのどちらも、組織の力を借りなければ果せない任務であり、むろん私個人の問題よりも当面優先する事柄であった。私はそれを志田にいった。

 

 「いまの北京の人員・体制では、たとえ中波に増強しても、放送をつづけてゆくことは困難であり、早晩破綻に陥ることは眼に見えています。ですから、いまの二つのことは、中共の援助に応えるためにも、ぜひやってくれと命じられました。ですから、指導部の承認と指導をいただければ、私はぜひその工作に従事したいと思います。北京のことを考えると、胸がつまって、私自身、放っておけない気がするのです。個人的な問題はこの次にして」

 

 志田は即座にこの西沢要請を理解してくれた。やがて私は志田指導部から派遣された組織部の同志有馬の指導をうけて、非合法に一つの放送班を編成し、組織に買ってもらった大型の全波(オール・ウエーブ)受信機一つを抱えて、アジトを転々とする生活に入った。最初の工作で、志田側近の上級から呼び出しをうけたのは、十月頃、文化関係の各部長を招集した放送要員(タレント)詮衡会議と、要請の具体的事項を報告するためであった。

 

 そこは、日本橋に近いある洋食屋の二階であったが、会議がはじまるまでの雑談に、その頃民芸で製作中の映画「夜明け前」の噂が花を咲かせていた。その時、民芸が映画で使った木曾節は本物の木曾節だというような話があって、文化部長格の丹野が藤村の「夜明け前」の末節をナレーターのように語ってみせたのが、なぜか強く印象に残っている。丹野は、すでに物語放送かラジオドラマを念頭においていたようであった。

 

 「強い匂ひを放つ土の中をめがけて佐吉が鍬を打ち込む度に、その鍬の響が重く勝重のはらわたに徹(こた)へた。一つの音の後には、また他の音が続いた。……」

 「おい、何だい、試写を見たのか?」と、映画代表の天野が声をかけた。

 「いや、試写は見てなくても、藤村の名文だからな。昨夜、読み直したんだ」

 そこで雑談を打ち切り、私は北京での自由日本放送の創立の経緯を詳細に報告してからいった。

 「だから、もし『夜明け前』の本格的なラジオ・ドラマでも演()れれば理想的ですが、それが無理だとしても、物語としてでも朗読できるなら皆元気が出ると思います。何しろ、その原作さえいまの北京では入手することが困難なのですから。御想像下さい」

 

 だから、その人員は、せめて物語の朗読やディスク・ジョッキー、できれば「冗談音楽」のコントや寸劇を演出できるだけの人員と楽器は必要であり、ごく小規模のアンサンブルが無理ならば、最小限アコーディオンの奏者二名(楽器共)を派遣していただきたい。―私はそう鋭明して、具体的に、脚本二、俳優(声優)老若男女各二、音楽二、その他脚本造りに速記に必要な人員などを要請した。

 

 当時映画界は、東宝のレッド・パージのあとをうけて、独立プロダクションが競合して製作活動に入っていた時代であり、人材は豊富だったが、ここに困難なのは、民放開始後丁度二年という活況に加えてテレビ放送開始という時期にぶつかり、何らかのかたちでその方面に契約し就職している者が多い。おまけに、スタッフは事実上海外にある党機関に専従することになるので、職業革命家なみの思想水準を要求されるため、人選はさらに困難が予想された。

 

 この会議は、結局各人にその分野の詮衡人員を割り当て、組織内での詮衡の結果を持ち寄って、志田指導部で審査した上、現地に送るという手続きをとることになった。が、これが当時の非合法の連絡方式、つまり都内でも片道一週間はかかるレポによる飛脚方式の連絡で事を運ぶのだから、物理的にも時間と日数がかかった。

 

 私はこの時の最初の会議でも、至急現在の聴取状態をつかむ必要があるため、各分野にモニターを設けてほしいと普及組織を依頼したが、放送への無関心を反映してか、結果はゼロであった。私は同時に、参考書や効果音(擬音)のレコードなどを蒐集して送ったが、これとても乏しい上に船便だから、遅々たるものであった。

 

 数カ月後、現地に到着して製作したらしい彼らの初の単発ラジオ・ドラマが放送され、私たちはアジトで固唾を飲んで聴いた。内容は、西沢企画らしく、暴風雨の南支那海を渡って新中国に渡航した彼らの感激をそのまま劇的に再現したものだが、やはり主観的で内地の生活感情から浮き上っており、おまけに中波増強以来、明らかに自由日本放送を妨害する意図で内地から強力に発射された妨害電波のために、切角のドラマも雑音のためによく聴きとれない結果に終った。

 

 この妨害電波は、中波開始以来予想しないではなかったが、地元の北京では、モニターで聴いている限り、絶対に感知できないのだ。しかも、これほどまでに強力なものが内地から発射されるとは予想していなかったので、事情がどうあれ結果として、中波増強が失敗に終った事実を認めざるを得なかった。まして、徳田が期待したように、党の統一と団結が回復され、各地方にモニターでも確立されて普及活動に入る活気でも生まれない限り、電波合戦では、こちらが圧倒的劣勢で敗北に終ることが目に見えていた。

 

 しかし、志田指導部は統一工作を休めず、電波も短波はよく聴こえるのだから、私たちは、それでも不屈に、短波による普及に望みをかけて工作をつづけたのである。この行為は、むろん徳田機関の暗黙の要請によるものだったけれども、私個人としては、むしろ異常な困難の中で、徒労に終るかもしれない工作のために空しい努力をつづけている北京の仲間や同志たちを見棄てることができなかった。私は、山頂から転落する岩を担ぎ上げてはまた無限にくり返すカミュの(シジフォスの神話)を思い出したけれども、たとえ彼らを救うことができないにしても彼らを見棄てることが正しいか、友愛と信義との連帯ただそれだけの希望のためであった。いまさら犠牲はいとうべきではなかった。

 

 では、その普及活動はどうなったか? 私たちは、スタッフの詮衡会議の直後から放送の普及工作に入ったのだが、北京とはちがう内地での非合法生活の不慣れと私自身の工作の未熟さ、さらに組織に張りめぐらされた強い対敵警戒意識の故か、意外にも内地の党組織が暗く沈滞して、自分たちの組織を維持するだけで精一杯であり、とても放送の普及など大衆的な公然活動を受け入れる状態にないことを知ったのである。

 

 たとえ地下放送であっても、放送は公然活動でなければ普及できない。私たちは有馬の指導をうけて、前記のように〈自由日本放送対策部〉とも称すべき一つの班(細胞)を結成し、「アカハタ」と連携して周知をはかったが、もっと公然と普及活動に専心できる表(おもて)(公然)の部隊を組織する必要があった。

 

 ところが、それはすでに通信社のかたちで存在していたのである。当時の全学連出身でまだ二十歳代の気鋭の若者たちが数名で、産別会館の中に、(世界ニュース社)という企業をつくり、毎日の放送を速記収録して、「自由日本放送」という通信を販売していたのだ。まだタイプ印刷で部数も少い。しかも、彼らは「アカハタ」同様、一種の機関紙通信として刊行しているのであった。私たちは、この組織と合体し、これを表の組織として、聴取の手引をかねて通信を末端組織まで普及させることを計画した。そのために、とりあえず通信形式の紙面をタブロイド版の活版新聞に改め、「アカハタ」併読紙として個人購読も可能にした。それを全組織に普及宣伝し、徹底するために、有馬が志田の承認をうけて、今度は先の文化関係代表者会議とは異なる部長級幹部の会合を、慎重に準備し設営してひらいたのである。それはもう翌年の春であったろう。

 

 最大の隘路は、やはり非合法(組織)と合法(普及活動)との結合の矛盾にあった。おそらく、この時期、公然たる大衆活動の必要に追われていた軍事・財政などの主要な分野において合・非の矛盾が深刻な隘路となっていた同じ理由で、放送もまた難関に直面していたのである。

 

 私たちは、とりあえず一人でも二人でも若い党活動家を中核にしてモニターを設置し、例えば(自由日本放送を聴く会)というような会員制度のグループを組織する。活字新聞「自由日本放送」をその機関紙とし、相互の連絡をはかるほか、放送にたいする希望意見・批判を聴取者の声として反映する。第一段階として、それだけの工作への協力を要請したのであるが、出席者たちの顔は、明らかに当惑の表情を浮かべていた。要するに、現在の非合法組織にはそんな人的余裕がない、それに、それだけの犠牲をはらう価値が放送にあるのか、という意見が大勢を占めていたのであった。彼らは、私たちの報告から、この放送が徳田機関によって出されていることを鋭敏に喚ぎつけたらしいが、私が感じたのは、彼らはすでに内地の非合法体制の行詰まりに疲労を深めており、そのために、弾圧を回避して、当面の政策を部下に指導するのが精一杯に見受けられたのである。

 

 そういう彼らから見れば、徳田書記長たちが、党綱領を決定した上で自前の放送を出した功績は認めるが、内地の困難な状況と自分たちを置き去りにして、その現実の状況もよくわからないで、海外から大声叱咤(しった)しているような印象をうけるらしかった。そのドン・キホーテがすでに病床にあることを(志田以外の)誰も知らない。ただ内地における彼らのたたかいの現実感や、深まってゆく精神的疲労度に対照して、徳田機関の存在そのものがすでに親近感を失って迂遠なものとなっており、徳田自身が考えたようには、権威も信頼も保たれていなかったのである。おまけに彼らには、組織の機関紙としては、「平独」とか「アカハタ」があれば十分だとする、活字型根本思考の前近代的体質が根強く残っていた。彼らは、過去のNHKや戦後の民間商業放送にブルジョア放送特有のデマゴギーを感じていたから、今日のことを明日解説するような遠い放送(自由日本)に、殆ど価値を認めていなかったのにちがいない。

 

 普及工作は暗礁に乗り上げたというべきであったが、それでも、友党の援助で毎日の放送が出ている以上、私たちは工作をやめるべきではなかった。私たちは「アカハタ」と呼応して、タブロイド版「自由日本放送」の普及と拡大に望みをかけた。その結果、やがて世界ニュース社の経営の維持に最高の努力が注がれるようになった。私たちは、著名な文化人にモニターを委嘱し、その意見を新聞に反映することを考えたが、これとても非合法の活動形態では、遅々として成果を上げることができなかった。私は内地の聴取状況と活動報告を北京に報告すべきであったが、組織上許されていなかった。内地の非合法の重層的な壁は、当然のこととして横の連絡を遮断し、組織全体を沈黙の灰色の壁に包んでいたのである。そのために、組織全体が、ごく近いところはおぼろげに連絡の都度姿を確かめることができるが、その範囲だけで、あとは深い霧に包まれて見えないのであった。戦前に、当時の律や私たちが見たような点と線を結ぶ幻影の火花も見えなかった。私はむろん、徳田書記長がすでに病死したことさえ知らなかった。

 

 3、六全協までの一年間 志田と宮本顕治との妥協

 

 袴田里見「私の戦後史」によると、この頃志田指導部は、すでに偏向に陥っていた極左冒険主義の清算と党統一について解決策を求めて協議するため、紺野与次郎・河田賢治・宮本太郎ら主流派幹部を北京に派遣したという。彼らは北京で野坂・西沢と合流し、モスクワで袴田里見と共に、六全協決議の原案を作成したといわれるが、私たちはむろん知る由もなかった。ただ当時の行詰まった組織の状況を想起して、打開策に苦慮していた志田指導部の心境がよくわかる気がするのである。

 

 その頃、私は連絡の帰りに板橋の古本屋で買った小林多喜二「党生活者」を再読して、次のような文章に釘づけになったことを記憶している。

 「私にはちょんびりもの個人生活も残らなくなった。今では季節々々さえ、党生活のなかの一部でしかなくなった。四季の草花や眺めや青空や雨も、それは独立したものとして映らない。私は雨が降れば喜ぶ。然しそれは連絡に出掛けるのに傘をさして行くので、顔を他人に見られることが少ないからである(以下略)‥…」「一日を廿八時間に働くということが、私には始めよく分らなかったが、然し一日十二三回も連絡を取らなければならないようになった時、私はその意味を諒解した。――個人的な生活が同時に階級的生活であるような生活、私はそれに少しでも近付けたら本望である」(「党生活者」)

 

 戦前の政治状況とはむろん違うが、連絡と会議だけが主要な党活動となる非合法の生活では、本質的には戦後も同じである。私は一日にそんなに多く連絡をとったことはない、多くて三四回の程度であろう。しかし、党生活者は、たとえ一回の連絡でも、ゆきずりの偶然ではなく、それに自己と党の運命を賭けるのであるから、四季の天候も電車の速度も分刻みに彼らだけの党的空間を現出するのである。多喜二の文章は、その生活感情を的確に表現している。

 

 ちょうど志田指導部は、伊藤律の除名決議を契機に、統制委員会の指導による(第二次総点検運動)を地下に展開して、それで組織の団結を強めようとしていたから、私たちの間でも、よく(連絡)のことが話題になった。打ち合せた連絡時間に相手が来ない、それは不測の事故でなければ本人の精神的弛緩を意味する。党組織を敵の謀略や破壊から守るための(原則と規律)に悖(もと)るからである。

 

 その頃私はある日の班会議で、責任者の有馬から、私の党活動が消極的であると批判された。専任の放送対策についても、創意工夫がない、アジトや会議の場所などの建設工作・資金カンパなどの党活動にしても、殆ど党組織に依存していて、私の知人や友人からの援助協力がない、要するにいつまでも(お客様)のつもりではいけない、というのである。事実その通りだから、私は反駁する術を失ったが、それが私の小ブルジョア性を批判する(点検運動)を意味していることは明らかである。党財政も逼迫しているらしく、当時末端の若者たちに囁かれていた(ヤラズブッタクリ)の、党としては絶対に避けなければならない極限状態に陥っていることは身体で感じていたけれども、私はあえて一身上の弁明をした。

 

 〈私は地下に入る時、短時日の間にさしさわりのない範囲で妻とだけ話し合って、そのほかの両親や兄弟、友人知人はむろんのこと、同じ細胞の仲間にも黙って、鼬(いたち)の道でも切るような別れ方をして、東京を出発した。これは組織の秘密を守るためであり、同じ理由で、今度帰ってからも、まだ所在も明らかにしていない。もちろん、私にも、敵に追われた場合、臨時に飛びこんで無条件に匿(かくま)ってもらえるような家は一軒や二軒はあるが、私はその人たちにも今日まで、自分が党の非合法活動に専従することを、これまで話したことがない。

 

 同じ理由で、私は現在、党から家族手当を支給してもらい、妻に仕送りしているが、友人にも経済的援助を頼んだことがない。友人といってもサラリーマンが多く、ブルジョアの子弟はかえって話にならない者が多い。放送業に創意工夫がないのは、私の能力不足の故だが、党幹部の放送にたいする無知と便宜主義的な考え方、さらに組織相互間に自由な意見の交流がなく助言がない、何よりも組織の公然化を厳重に禁じられていることに原因していると思う。まして非合法活動に未熟な私には、手も足も出ない感じである。私個人については、小ブルジョアのインテリ出身であることを自覚しており、《出世も願わず・脱落も意図せず、自分にできることだけを献身する》旨、帰国した時上級に上申している。結局、この中途半端な態度が批判を招くのであろう。要するに、私は根本的に職業革命家に不向きな人間で、それになる意志も能力もない、もしそれが現在の党組織に適合しないのであれば、私は北京の同志たちにも応えることができないので、この際責任をとって党をやめたいと思う〉

 

 暫く沈黙がつづいた。ところが、その時、有馬が「君、そんなことを」といいかけて突然声をつまらせると、ぽろぽろ涙を流して泣き出したのである。ハンカチの下から、〈党はいま最も困難で苦しい状況におかれている。こういう時にこそ、お互いに一致団結しなければならない。自分も放送のことは何も知らない人間であるが、君を同志として党活動に成果が得られるように協力し努力して来た。それなのに何だ〉というのである。有馬の言葉と涙には、それなりに彼の真実があった。私にたいする点検と批判は、その時だけで終って、私たちの〈総点検運動〉は終ったようであった。

 

 それから、暫く空白の期間がつづいたと思う。後に考えると、志田指導部が六全協決議の原案と分派との統一に全神経を集中していた時期で、私たちには何もわからなかったが、ただ自分たちの任務と部署とを守って、惰性的に非合法の形態を保っていた期間があった。六全協の一年前だった。

 

 私はいまでもその年の暮と、翌年の正月のことを思い出す。その頃、アジトに困っていた私は、私がモニターに委嘱したある映画人の世話で、東中野に近い小さな家にいた。主人も映画人で家を留守にすることが多く、妻君は近くの飲食店に勤めていて、私は自炊することにした。暮もおし詰まって、ある日私は妻に生活費を渡したあと、夕方近くの銭湯に入り、店屋を物色しながら味噌と黒豆を少し、八百屋で大根と細葱などを買いぶら下げて帰る。何となく独身生活の気安さがあった。

 

 元日の朝、快晴で風がなく、裏手の枯芝の原の彼方に、冬日をうけた薬専の校舎が静まり返って見えるが、手前の枯野では凧(たこ)を揚げる子供たちの囃し声が聞こえ主人の手作りで雑煮を祝ったあと、彼がおいていった「アカハタ」をひろげるそこに「党の統一とすべての民主勢力の団結」と題する論文が出ていた。

 「この際、われわれが過去において犯し、また、現在もなお完全に克服され切っているとは言えない、一切の極左的な冒険主義とは、きっぱり手を切ることを、ここで卒直な自己批判とともに、国民大衆の前に、明らかに公表するものである。」――

 

 極左冒険主義。私自身、その渦中にありながら、その言葉にはまだ馴染がなかった。主観主義に陥っていた証拠である。これは、敗戦を告げる天皇の詔勅を聞きながら、まだ敗戦を自覚しえない心理状態とよく似ている。が、漠然とした意識の底から、魚鱗のように身をひるがえして光芒をかすめさる何物かがある。〈何かあるな〉と思う。〈みずから冒険主義を自覚して否定するからには、きっと局面を転換する何物かがあるにちがいない。そうでなければ、もうどうしようもないからな〉――

 

 それが私にとっての六全協の前ぶれだった。袴田里見「私の戦後史」によれば、この志田論文が、六全協決議の(モスクワ原案)を下敷きにして書かれたことは明らかである。志田はこの論文で、左翼冒険主義との訣別を宣言して、六全協への脱出路をひらいたわけだが、その規範となった「新綱領」については、是非を言及していない。

 

 後に六全協で採択された決議文は、当初の〈モスクワ原案〉に、国際派宮本顕治・主流派志田重男らの幹部が検討を加えて練り直したものといわれているが、その経緯は正確にはわからない。が、ここに六全協決議そのものの成立を根拠づけた二つの証言がある。

 

 その一つは、袴田里見の証言であり、それによれば、モスクワのブルガーニン別荘で、袴田・西沢・紺野らが原案を作成中、ソ連党中央委員会書記で理論家のスースロフが突然姿を現わし、ただ一言、「五一年綱領(新綱領のこと)は正しかった、という一項を入れてほしい」と要求した。しかも、それ以上の〈原案〉についての議論は何もしない。土壇場で、またしてもソ連の党の干渉である。もともと暴力革命を宣言した〈五一年綱領〉は、スターリンの肝いりで生まれたものだし、中国の党もその成立には大いにかかわりをもっている。それに、日本の党は自主独立路線の立場にはなかった。その結果、決議の冒頭に、次の一節が入ったという。(「私の戦後史」)

 「新しい綱領が採用されてからのちに起ったいろいろのできごとと、党の経験は、綱領にしめされているすべての規定が、完全に正しいことを実際に証明している」

 

 それなら、左翼冒険主義の誤りとは何か、ということになるわけだが、そこに馴れ合いの妥協があったことを、もう一つの証言「ぬやま・ひろし同志の遺稿」(「無産階級」第十二号・一九七八・七・一五)は次のように述べている。

 

 「おれ(西沢隆二)は敵の前で味方の陣営が二つに割れて争っていることは正しくないという主張にもとづいて志田重男と宮本顕治を説得し、政治路線の討議なしに二人を団結させてしまった。

 これは明らかに無原則的な団結である。

 だから結果としては修正主義者宮本顕治に対して革命派が武装解除して屈服することになってしまった。同時に、山村工作隊に参加し生命を賭して闘った同志たちを切り捨てる結果を生んだ。

 これはきわめて重大な誤りである。

 こういう誤りは、いったいどこから生まれてくるのか?」

 

 西沢はつづく文章の中で、戦前入党してからの非合法の党活動と党歴を顧みて、次のように自己批判している。

 「つまり、おれは(獄中の)十二年間、大衆闘争からはなれ、理論学習からはなれ、しかし、権力に対する個人的抵抗だけはつづけていた。そのことは、おれを無政府主義的要素をもった共産主義者として鍛えていったといえるだろう。詩集“編笠”はこの期間に作られたものだ。しかし、いちばん必要なことは、こうした無政府主義者が、極く数少い非転向共産党員の一人として生き残ったということである。しかも、宮本顕治の裏切りによって、いまでは、ただ一人の戦前からの非転向共産党員として生き残っているということである。戦後党が再建されるとき、党は、この事実に対する正しい分析と理解を欠いた」(「ぬやま・ひろし同志の遺稿」)

 

 この文章は、西沢隆二が親中派対外盲従分子の名目で除名されてから七年後の一九七三年に書かれたものであるから、前段の〈無原則的団結〉をはかった当時は、志田・宮本の二人を戦前からの同志として無条件に信頼していたのにちがいない。それも、その時点では、同じ無政府主義的要素をもった非転向共産党員としての同志的信頼感にもとづいていたことは想像に難くない。

 

 彼らにとっては、非転向ということが、何にもまして、生一本の政治的信条となっている。なぜなら、治安維持法に抗して、党の運命と自己を一体化することによって、変節することのない不抜の自己を築くことが、近代的な個の確立となっていたからである。レーニンは、〈世界観としての無政府主義は裏返しにされたブルジョア性にほかならない〉というが、彼らは自己のブルジョア性を信じなかったし、党と一体化することによって自己完結的になりえたのであり、そこに限りない矜持をもっていた。そういうボリシェビキ的体質の上に無原則的妥協が成立した。

 

 したがって、この事実を志田の立場からいうと、志田はスースロフの助言を前提にして、新綱領による錦の御旗を正統性の象徴とすることによって、党を統一し合法性を獲得したことになる。一方、国際派の宮本は、それを承認することによって、事実上は左翼冒険主義の非難を強め、名よりも実をとって、自己の不名誉を挽回し正統性を奪回することになる。異母兄弟がそろって相続権者になったようなものである。しかし、徳田時代、冷飯を食わされつづけた宮本の方が、一枚役者が上であったかもしれない。幹部間で六全協討議が続行する間中、宮本は事実上の左翼冒険主義を糾弾することによって志田に批判を集中し、志田は孤立無援になった結果、綱領と正統性とを放棄してついに党を離脱し失脚する羽目に陥ったからである。

 

 この軌跡を戦前に辿ると、戦闘的で果敢な正統派の非常時共産党が治安維持法とのたたかいに破れて獄中につながれ、合法的で路線修正を主張する転向派に足をすくわれた昭和八年頃の破局とそこからの脱出を想起される。それは、換言すれば、伊藤律が必死に足掻きつづけた幻想的な路線であった。だから、これを六全協の時点で、一概に回帰現象と呼ぶことはできないが、敗戦の年十月に解放された彼ら非転向の党幹部たちが、戦前に見残した青春と革命運動の、つまり見果てぬ夢の追体験とはいえないだろうか。

 

 立党以来、日本共産党は非合法の存在の自由さえ許されず、たえず負(マイナス)の世界に追いこまれて来たから、彼らをそうさせた政治権力への抵抗は、実存的人間としての個人的存在にしかありえず、それだけに、たとえ非合法でも反体制的存在としての社会的地位を求め執着しつづけたであろう。非運の宿命を担った彼らは、一様に自己の権力への意志を夢見ていた。しかも、彼らに輸入されたイデオロギーは、純粋なマルクス主義ではなく、コミンテルンによるスターリン主義であったから、ここに日本の革命運動における合法と非合法との方法的制覇の争いは、国家権力の様相をおびた修羅のたたかいにならざるを得ず、逆にいえば、彼らは自己の運命を党と一体化することによって真理のために抵抗し、何よりも党の合法的(民主的)地位を求めて、彼らだけの革命運動をつづけたのである。志田も西沢も、宮本も伊藤律もみな、そういう非望に野心を燃やし、とり憑かれた人間であり、戦後の党再建の時、それが不死鳥のように甦らない筈はなかった。各人各様の夢と追体験の願望があり、六全協はその共同幻想にもとづく妥協の産物であった。自己を正しとする権力への意志は、たえず仲間を裁くことによって目的を達する。が、そこでは、目前の共通の利害のために、真理の名において、検察官も同志的な裁判官の馴れ合いに屈した。六全協において、誰一人幹部の峻烈な自己批判がおこなわれなかったのはそのためである。

 

 4、六全協当時と六全協決議放送内容

 

 六全協の当時、無任所の私は本部の書記局事務にいたが、私たち下部組織の者がうけた衝撃は、一様に、それまでのコッペパンを噛って骨身を砕いた活動がすべて虚偽の誤りであったという苛酷な決定にたいする驚愕であり、私たちはわずかに〈決議〉の新綱領の正しさを認めて継承するらしい空文(それがスースロフ助言によるものとは誰も知らない)を信じて、無駄ではなかったと慰め合ったものである。しかし、党本部は、地下の野戦部隊が一挙に地上に出現して一堂に会したため、人員整理をよぎなくされ、私のように途中から紛れこんだ応召兵は早く復員すべきであることを自覚して、卒先して機関(やま)を下り、在籍のまま、党周辺の企業(映画)に就職し、新分野開拓に従事した。私の場合は幸せであったが、この時機関を降りて復員し、あるいは失意のまま脱落した同志たちは何名いたことだろう。西沢遺稿にいう山村工作隊だけが(切り捨てられた)のではなかった。野戦部隊の兵士少くとも数百名が草莽(そうもう)の魂を残して消えた。

 

 これより先、自由日本放送の責任者は、西沢隆二が六全協準備のため多忙となってから、聴濤克巳が第三次責任者になり、昭和二十九(一九五四)年九月頃から、袴田里見が主管する第四次の時代に入った(袴田「私の戦後史」)。住居も新しく移転したらしい。その頃、自由日本放送は、「文章が硬く漢語調で、内容も七面倒な、むずかしいことばかりだった」として、袴田は文風改革に努めたことを記しているが、思うに、初心薄れた上に空しい疲労感が累積し、手馴れたもとの漢文口調の惰性態に陥っていたためであろう。自由日本放送は、越えて六全協の年、昭和三十(一九五五)年十二月三十一日、内地の非合法部隊の解散の後を追って終焉し、電波をぷっつり絶った。放送開始から、三年八カ月の生命であった。

 

 その間、私たちは妨害電波も予想していた。レコードも音響効果の装置もない野戦の放送局であり、無理な放送体制であることも百も承知していた。しかし、放送が虚空に跡形を遺さないからといって、すべては徒労だったのだろうか。徒労に近いことを意識しながら、それでも今日の一日はきのうよりもよい放送を、今日もまた明日のためにと、一日も中断することなく、聴取者もあるかなきかの日本の空に向けて放送をつづけた彼らの不屈の意思と努力は何を物語るだろうか。

 

 次に掲げるのは、六全協の直後の昭和三十(一九五五)年八月十五日夜、自由日本放送が、四カ月後の放送廃止の運命をまだ予期せず、日本の空に向けて放送した、六全協の決議についての〈解説〉の一部分である。この記録は、当時自由日本放送を全文速記収録していた世界ニュース社発行のパンフレット「自由日本放送の解説・第九集・国民の輝かしい前進のために」の一冊が、偶然手許に残されていたため、その中から抜萃したものである。放送文章としては、まだ漢語が多くぎごちないものがあるが、当時の解説調のアナウンスを示すため、あえて原文そのままに採録した。

 

 「去る七月二十九日、日本共産党は党の創立者であり、三十一年間党を指導してきた徳田球一氏の死を発表しました。この知らせは共産党のみでなく、多くの国民にたいして大きな驚きをあたえました。徳田球一氏はわが国の労働者、農民、その他あらゆる民主主義運動のなかで比類のない強力な指導者として働く人民のほとんどすべての人びとから信じられていたのでした。

 

 私たちの祖国がアメリカ帝国主義の不法な占領と圧制のもとで独立を失ってから十年になります。祖国の独立と民主主義のための米日反動勢力にたいするたたかいが重要な段階にたっているこんにち、私たちにとって徳田球一氏のような偉大な指導者を失ったことは非常に大きな痛手であります。私たちは徳田球一氏の死を心からかなしむものでありますが、しかし同時に私たちは、かれのなき後には、かれがつくりそだてた力強い共産党があることを知っています。党の指導のもとに徳田球一氏の残した事業を完成するためにいっそう奮闘しなければならないという決意が、何十万という人びとの心のなかにかためられたと信じます。

 

 日本共産党は七月二十七、八、九日の三日間第六回全国協議会を開催した後で、会議で決定された決議文と、つぎの大会で決定される規約草案と、新しい指導部が選出されたことを発表しました。徳田球一氏のなき後に新しく選出された指導部の構成を見ますと、これらのすべての人びとが非常に長い期間にわたって徳田球一氏とともに日本の反動勢力やアメリカ占領軍とのくるしいたたかいのなかでためされた人びとであることを知ることができます。

 

 一九五〇年から五一年にかけて、日本共産党の指導的な人びとの間には重大な意見の対立がありましたが、こんどの第六回全国協議会ではそれらの問題は完全に解決したことがこの新しい指導部の構成のなかにもはっきりと証明されています。このことは他のいろいろな政党の役員を決定する際によくやられる取引や政略できめられたものとは根本的にちがうものであることはいうまでもありません。日本共産党が、独立と平和と民主主義をかくとくするためのアメリカや日本の反動勢力とのたたかいに、幾百万という国民を団結させるというこの上もない重大な任務をなしとげるために、まず共産党自身が一枚岩のようなかたい統一と団結を築き上げたということは、非常に重大な意義のあることだと思います。

 

 つぎにこのあいだ開かれた第六回全国協議会が発表した「党活動の総括と当面の任務」という決議文について概略をお話したいと思います。この決議文では、まず共産党が新しい綱領を採用した一九五一年以来、労働者や農民、その他一般国民の生活をまもるたたかいや、平和ようごの運動、軍事基地反対、その他アメリカの不法な圧迫にたいする闘争において党が重要な役割を果してきたことをのべた後、他方それらの運動のなかでうまれてきたいろいろなあやまちや欠点について、きわめて大たんに、しかも卒直に自己批判をしています。

 

 共産党は朝鮮戦争が起きた後の日本の内外情勢についてあやまった評価をしました。それは米日反動勢力が国内的にも、国際的にも孤立化して非常に弱くなったと判断し、他方共産党やその他の民主勢力のカが非常に強大となって、アメリカ帝国主義者を撤退させて日本の独立をかちとり、日本の反動勢力の支配をうち破り、革命が近い将来に成功しうるというあやまった判断を下したことです。事実が証明しているように、連合しているアメリカと日本の反動勢力の力はまだまだけっして、そのように弱いものではありません。この点について決議文はつぎのようにいっています。

 

 『民族解放運動のある程度のたかまりや、労働者のストライキおよび農民闘争の増大という事実から、党は国内に革命情勢が近づいていると評価した。党は日本の反動勢力がまだまだ強く、しかもアメリカ占領者の支持に依存していることを十分考えにいれなかった。同時に、わが国の革命の力がまだまだ弱く、日本の労働者階級と共産党はいままでに革命の闘争の十分な経験をもっていないこと、労働者・農民大衆のなかには、社会民主主義者とブルジョア諸政党の影響が非常に強いが、共産党の立場はまだまだ弱いということを考えにいれなかった。

 

 その結果、党はそのおもな力と注意をあやまった方向へむけた。党は革命のための力を結集し、労働者階級の多数を思想的にかくとくし、農村における党の影響を決定的に強め、民族解放民主統一戦線をうち立てるという革命の勝利のために第一に必要なことをおろそかにした。』決議文はこのようにいっています。

 

 第六回全国協議会は、党がこのように内外情勢にたいしてあやまった評価をした結果、共産党員やその周辺の比較的少数の人たちでおこなった極左的、冒険主義的活動がもっとも大きなあやまりであったとみとめています。私たちは共産党が自分のおかしたあやまりをこのように公然と、しかも卒直にみとめたということについて深い感銘をうけるのであります。共産党以外にどんな政党が自分のおかしたあやまりをはっきりとみとめたためしがあるでしょうか。

 

 日本には共産党以外にいろいろな政党がありますが、そのなかでもとくに自由党や民主党のような日本の国の独立までも外国に売り渡し、きたない取引にうき身をやつしている反動政党は、いろいろな悪事を働いておりながら少しも恥ずるところがありません。共産党が卒直に自分のあやまちを自己批判できるのは、この党だけがあらゆる圧迫されている人民を解放するために、また大衆の利益に奉仕するためにのみ存在する党であるからです。

 

 第六回全国協議会は、今後の日本共産党の活動がますますひろく深く大衆のなかに入りねばり強い不屈のたたかいをつづけることを強調しています。

 日本共産党には古くから革命というものを安易に考え、せっかちな方法でやられるという思想があったことをみとめ、これは党内にもちこまれた有害な小ブル的な思想であることを指摘しています。しかし党内にこのような有害な小ブルジョア的思想があったにもかかわらず、党が不滅の歩みをつづけて発展してきたのは、党がつねにマルクス・レーニン主義の原則をよりどころにし、平和をまもり、祖国を愛し、人民の解放のためにたたかいつづけてきたからであるといっています。こんどの全国協議会は党内からこのような極左的な有害な思想を排除して本当に大衆のなかに根をおろし、大衆のいろいろな要求をみたすために奮闘し、大衆からとびはなれて先にすすむのではなく、幾百万大衆とともに一歩一歩前達しなければならないことをのべています。

 

 日本共産党の第六回全国協議会のこのような決議が真実実際におこなわれていくなら、これは日本共産党のためにも、そして全日本のあらゆる民主主義運動の将来にとっても非常にすばらしい結果がもたらされるだろうことを考えないわけにはいきません。それだからこそ、政府や検察庁や警察や一切の反動どもが、日本共産党のこのような決議にしたがっていまだかつてないほどかたい団結をもって前進することを恐れているのです。かれらにとっては、共産党が極左的な、あるいは冒険主義的な活動をしている方がまだ安心なのです。なぜならそれは、それらの活動は何百万という大衆と無関係なものだからであります。どんな困難をも恐れない何十万という共産党員が、一枚岩のような団結をもって幾百万、幾千万の国民の利益のために奉仕し、その大衆の信頼をかちえてゆくなら、民族の独立と、保守反動勢力を打倒するたたかいに国民を団結させることは、かならず可能であることはうたがう余地はありません」

 

 日本共産党の第六回全国協議会の決議について・第一回(過去四年間の活動の総括に関する部分)解説全文・八月十五日放送。

 

 

 藤井冠次(ふじいかんじ)略歴

 

 1915年 東京に生れる。旧制浦和高校・東京大学文学部国文学科卒業。

 1940年 NHK報道部に就職。翌年、東部第七五部隊に現役入営・応召。

 1945年 復員。

 1946年 放送ストに参加。敗北後、再建放送単一労組書記長となる。日共入党。

 1950年 7月・レッド・バージをうけ失業。党の要請により日共非合法活動に従事。

 1955年 日共六全協の後、芸術映画社・日本電波ニュース社に勤務。

 著書 小説『感光通路』(河出書房新社)

     『現代リアリズム短篇集』(共著・新読書社)

     『聖徳太子と日本文化』(共著・春秋社)

 

 

 増山太助『藤井冠次−同志と加害者』

 

 (注)、これは、増山太助『戦後期左翼人士群像』(つげ書房新社、2000年)からの抜粋です。第4部第3章における「丸山鉄雄と藤井冠次―停波スト前後」の後半部分(P.242〜244)です。停波ストについては、増山太助が、前半部分冒頭で次のように書いています。一九四六年に産別会議に加盟していた労働組合がいわゆる「一〇月闘争」を展開し、そのなかで「第二次読売争議の解決」を「最大要求項目」とする「新聞・通信・放送のゼネスト」が計画されたが、拠点朝日支部がアメリカ占領軍の強圧に屈して脱落し、事実上NHKの「停波スト」を中心とする予期しない事態に立ちいたった。

 

 同志と加害者

 「停波スト」の後始末にたずさわり、再建されたNHK労組の書記長に選出されたのが藤井冠次(ふじいかんじ)であった。藤井は一五年生まれ、東京・御徒町の小間物問屋の息子で、旧制浦和高校を経て東大文学部国文科を卒業してNHKに入社したが、すぐ入隊。敗戦後復員して報道部に所属し、現地取材の第一線で活躍していた。

 

 四六年五月の「食糧メーデー」のとき、「労働者の肩車にのって阿修羅のように大声叱咤しながら官邸に乗りこんできたドン・キホーテさながらの徳田の姿」を見て、「戦後の萎縮した小型紳士の政治家の中では型破りに古代中国の三軍の師を思わせる野性的な大きさ」に感動して共産党に入党したが、五○年の「レッド・パージ」にあって追放され、党の要請に従って中国へ潜行し、いわゆる「孫機関」に所属して、「自由日本放送」の開設準備に当たった。

 

 そして、伊藤律の下で編成の仕事に従事していたが、五三年に徳田書記長の病状が悪化、再起不能とみた野坂参三、西沢隆二、安斎庫治らは伊藤律を「スパイ容疑」で中国の監獄に閉じ込め、西沢は藤井に命じて「伊藤律の〈除名追放処分〉」の文案を「内地の志田重男に伝え」させた。そして、八回大会後の党は伊藤が「文化大革命の初期、北京の刑務所で孤独と病気のため獄死した」と「確信めいた……発表」をおこなっていたが、伊藤は八〇年の九月に突如帰国。「耳が聞えず眼がわる」く「半ば廃人のように」車椅子に乗せられた姿を見て、出迎えた人びとを驚かせた。

 

 藤井は帰国後『伊藤律と北京徳田機関』を出版し、週刊誌にも登場して数々の証言をおこなっていたが、伊藤の帰国によって事態が一変した。自分が伊藤の〈除名追放処分〉を「内地の志田重男に伝えたのは、私自身が党執行部から命じられたことだから、納得できるも何も、私個人の介入する余地のないことだが、事件の終始に立ち合った証人として、私には律の処分があまりにも過酷であり不当なものに思われ、彼の罪状が私自身に納得できないもの」になった。そして、「もし、党の決定が律にたいして不当なものであるなら、私は結局彼にたいして同志としての信義を裏切り……加害者になるのだ……」と思いつめて深刻な悩みにとらわれ、彼自身も脳血栓で倒れ、言語の構造障害におかされた。

 

 私が見舞いにいったときにはすでに九分九厘筆談でなければ話が通じない状態で、夫人が雑貨商を営んで家計を支えていた。しかし、それでも藤井は伊藤と五、六回も往復書簡を交換して事実の究明に執念をもやし、著作にまとめあげる努力に専念していたが、伊藤が自分の「手紙はみだりに公開してもらいたくない」という「条件」を付けたので、藤井は「私の理解した範囲」でまとめた文章を文中に挿入し、出版にこぎつけたのが『創作・遠い稲妻−伊藤律事件−』であった。

 

 そのなかで伊藤は藤井に「君が私(律)にたいして自分を加害者とするのは当っていない。君は党の決定を忠実に履行したのだから、君も私と同じ党の犠牲者である。それなのに、君の告白にたいして現在の党が政治的責任をとらないから、君は政治的半生を棒にふったのだ。君の立場は悲惨である」「事件の本質は誰彼の故というのではなく、日共創立以来の宿痾(しゅくあ)路線論争から発している。結果的に私は路線論争に破れたわけだが、それにしても、本人の弁明反論を聞かずに、一方的に除名追放を決定し、中共の監獄に長い歳月の間置き去りにした事実は、どう考えればいいのか。人権問題を言うなら、私の人格は未だに恢復されていない。私は中共の監獄で三度死に損(そこな)った」と述べ、藤井は「この内容の手紙を読んで、私は自分の頬から血が引き、現実の地盤が崩れるような衝撃をうけた。殊に……彼が路線論争に破れたことを認めながら、革命家としての信念の再生に意識を集中させているくだりに真情が吐露されているように思われた」と注記している。

 

 私はガンテツ(丸山鉄雄)さんやNHKの友人たちと田村町近辺の飲み屋で何度か盃を酌交したことがあるが、話が藤井のことや「伊藤律事件」にふれると、みんな涙ぐみ、なかには声をだして泣きだす者もいた。

 

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 (関連ファイル)

     『「武装闘争責任論」の盲点』 朝鮮“侵略戦争”に「参戦」した日本共産党

     『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』

     吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部インタビュー

     大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織“Y”

     由井誓  『“「五一年綱領」と極左冒険主義”のひとこま』山村工作隊活動

     脇田憲一『私の山村工作隊体験』「独立遊撃隊関西第一支隊」

     増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」

     中野徹三『現代史への一証言』「流されて蜀の国へ」を紹介する

           (添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」終章「私と白鳥事件」

     石堂清倫『コミンフォルム批判・再考』スターリン、中国との関係

     れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』

     八百川孝共産党区会議員『夢・共産主義』「50年問題」No.21〜24