私の山村工作隊体験

 

脇田憲一

 

 ()、これは、『運動史研究4、特集・五〇年問題―党史の空白を埋める』(運動史研究会編、三一書房、1979年、絶版)に掲載された論文(P.53〜68)の抜粋です。運動史研究会は、石堂清倫さんら10人が発起人となり、1977年に結成されました。現在は、解散しています。このHPに抜粋を転載することについては、脇田さんの了解をいただいてあります。〔目次〕3、4、5は省略しました。

 

 〔目次〕

   1、はじめに

   2、水害救援隊から山村工作隊へ

   3、奥吉野の山村に入る (省略)

   4、隊の日常と工作の実態 (省略)

   5、六全協までの活動 (省略)

   6、山村工作隊をいかに総括するか

     脇田憲一略歴

 

 (関連ファイル)        健一MENUに戻る

    『「武装闘争責任論」の盲点』 朝鮮“侵略戦争”に「参戦」した日本共産党

       『史上最大の“ウソ”作戦』戦後処理パートの助監督宮本顕治

    吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部インタビュー

    藤井冠次『北京機関と自由日本放送』人民艦隊の記述も

    大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織“Y”

    増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」

    由井誓  『“「五一年綱領」と極左冒険主義”のひとこま』小河内山村工作隊活動他

    中野徹三『現代史への一証言』「流されて蜀の国へ」を紹介する

          (添付)川口孝夫著書「流されて蜀の国へ」・終章「私と白鳥事件」

    れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』 『51年当時』 『52年当時』 『55年当時』

 

 1、はじめに

 

 私は二十五年前の山村工作隊体験について、最近一つの考え方をまとめ、それを私の体験記録として「奥吉野山村工作隊」第一部、第二部(二百枚)を書いた。この自己総括ともいえる私の試みは、いわばここ二十数年来私の心の奥底に温めてきたテーマであり、これをいかに書くかということは、一九五〇年代初期の日共武装闘争時代を運動の出発点とした、私の今日に至る半生の生きざまを照射することでもあった。

 

 私の山村工作隊体験を語る場合、これをどのような視点でとらえるか、ということが問題となることはいうまでもない。たとえそれがどのような体験であろうとも、自己体験を語るということは、今日の自己思想を語ることである。つまりそれは、戦後の米軍占領支配と朝鮮戦争、日本資本主義の復興と日本共産党の革命路線との関係で、一九五二年から五五年にかけての私の青春をどうとらえ直すかという問題でもあった。それを自分史的にみれば次の三つの時期に分けることができる。

 

 第一の時期は、一九五二年(昭和二十七年)の五月から八月までの直接的な「軍事行動」の時期。この間私は日共中核自衛隊員として武装闘争に参加し、九月に枚方事件(旧枚方陸軍工廠爆破事件)関係者として逮捕された。

 第二の時期は、一九五三年(昭和二十八年)八月から十一月まで、和歌山、奈良大水害の救援隊から山村工作隊として、奈良奥吉野山間部で日共軍事方針による独立遊撃隊員しして活動した時期。

 第三の時期は、一九五四年(昭和二十九年)一月から十二月までの一年間、八尾大正飛行場周辺の軍事オルグとして、大阪府下柏原市(当時は柏原町)と八尾市で日共中核自衛隊の組織づくりに専念した時期。

 

 つまりこの三つの時期とは、私にとっては日共軍事方針に対する実践を通じての疑問形成過程としてとらえることができる。

 すなわち、第一の時期は、私と日共武装闘争との出合いは、全く偶然的なものとしかいいようがなく、今から考えてみても私が武装闘争に参加しなければならない思想的な必然性は全くなかったといっていい。当時の私が十七歳の少年であり高校二年生でしかなかった状態からいっても、その参加動機を思想的に解明することは無理というものであろう。

 

 第二の山村工作隊の時期は、少なくとも自らが志願した活動であっただけに、方針上の誤りを自己責任で耐えようとした時期であったといえる。したがって軍事方針の批判に目を向けるというより、困難な活動にいかに耐え抜くかという自分との闘いが中心課題であったように思う。

 

 第三の軍事オルグ時代は、若輩ながらもオルグとして自立した最初の時期であり、大衆運動との関係ではじめて責任を感じた活動舞台であった。軍事方針批判を含めて、私の日共路線批判の原点は、この時期における私の活動体験が基礎になっている。

 

 つまり私が体験したこの三つの時期とは、いわば日共武装闘争時代の全期間であり、私は内部者としてこれにかかわり、そして直接的実践者の立場から疑問を抱くに至ったといえる。日共自身の「極左方針自己批判」(決して軍事方針自己批判とはいっていない)として一九五五年(昭和三十年)の「一・一論文」「六全協」を迎えた私たちの心境は複雑であった。

 この間題はあとでくわしくふれるとして、私の山村工作隊体験に即してその活動の足跡をたどってみることにしたい。

 

 

 2、水害救援隊から山村工作隊へ

 

 和歌山、奈良地方の山間部で、日共中央軍事委員会の直接指導により山村工作隊が結成されたのは一九五三年(昭和二十八年)八月末であった。山村工作隊とは、一般的には日共による農村派遣政治工作隊と理解されているが、実際的には日共軍事方針に基づく山村地域での拠点づくりであり、この指導は日共軍事委員会に属していた。和歌山、奈良地方山間部に配属された山村工作隊の所属は、日共中央軍事委員会直属であり、その正式名称は「独立遊撃隊関西第一支隊」であった。

 

 これは、隊結成の直接責任者であった当時の日共大阪府委員会軍事委員Wが、結隊式の席上、「この隊結成は党中央がすでに認知したものであり、今後関西における第二、第三の隊結成を想定して第一支隊と命名された」と説明したことによって証明される。また最近になって日共中央軍事委員会に直結する西日本ビューロー責任者Mが和歌山市内にアジトを構え、この山村工作隊結成を指導していたという証言も得ている。

 この山村工作隊は総勢三十名、和歌山県伊都郡花園村で結隊式を行い、これを大隊編成とし、大隊本部を花園村に置き、第一中隊、第二中隊を和歌山奥有田地方、第三中隊を奈良奥吉野地方に配属した。

 

 しかし、この山村工作隊はいきなりこれら山間部に出現したわけではなく、その前段として同年七月十八日突然南近畿一帯を襲ったいわゆる紀州大水害があったことを切り離して考えることはできない。この紀州大水害は六十数年ぶりという記録的な集中豪雨によるもので、和歌山全域、奈良山間部で大被害が発生した。ことに山間部一帯での山津波による人的被害が大きく、両県あわせて五千名以上の死者、行方不明者が出ている。

 

 この年は西日本一帯に雨量が多く、六月の北九州水害、七月の紀州水害、八月の京都山城水害と、戦中、戦後の治山治水政策の荒廃が一挙に露呈し、悲惨な人的災害として政治責任がきびしく問われた時期であった。この紀州水害の救援活動は、官民、米軍、保安隊(自衛隊の前身)など大規模なものであったが、問題になったのは交通機関と道路の損壊で山間部の被災者救援が決定的に遅れたことであった。

 

 大阪における革新政党(社共)、労組、民主団体、学生らによって結成された民主団体水害救援対策委員会(民水対)では、その救援活動を山間部被災地に集中し、七月末から八月にかけて延数千名にも及ぶ水害救援隊を現地に派遣した。大阪では各団体組織内外のカンパ活動が活発に展開され、救援隊はその救援物資を山間部水害被災地に難路の山道をたどって運搬した。

 

 この水害救援隊は、水害被災民に心から感謝され、その献身的な奉仕活動は村当局や支配者層の排撃にもかかわらず水害被災民をはじめ村の良識派有志から圧倒的な支持を得たのである。そしてこの水害救援隊の実態は殆んど日共細胞が中心であり、この時期に集中した全党員の活動力は、レッドパージや軍事闘争事件で衰退した党勢を感じさせないすさまじさであった。つまりこれらの活動は、たとえ党中央の水害救援方針に応えたものであっても、その主体は細胞であり、しかもその取り組みは全党員の自発性に根ざしたものであった。

 

 大阪での地域における街頭救援カンパの取り組み、若手党員を中心とする現地への救援隊派遣など、まさに驚くべき細胞の活性化であった。山村工作隊の結成は、これら水害救援隊の成果に着目し、これを日共五一年綱領と軍事方針に結びつけることによって、一連の軍事闘争の失敗を挽回しようと計ったふしが考えられる。

 

 私が日共守口市委員会派遣の水害救援隊として奈良県青野郡野迫川村に入ったのは、一九五三年(昭和二十八年)七月末日であった。大阪難波から南海電車で高野山に上り、そこから徒歩で約二十五キロ東山間部に入った地点である。和歌山、奈良山間部に入る平野部からの交通路は、水害で壊滅し、高野山から山道をたどって入るしか方法がなかった。

 

 高野山には、大門の境内に民水対関係のテント村が設置され、大阪方面からの救援隊はここで水害被災現地の情報を得て目的地に向かった。山間部の被災地で最も被害の大きかった地域は和歌山県伊都郡花園村で、高野山から有田川最上流地点を約十五キロから二十五キロ程下った地域であった。

 

 野迫川村は和歌山、奈良県境の山を越え、奥吉野の山深い谷間に点在する村で、最も救援活動が遅れた地域であった。私たちの救援隊は、数十メートルの谷間が山崩れで埋まって広い河原になった北股という部落に入り、約一週間の予定で家屋の中に流入した土砂のかき出しや、決壊した道路の復旧工事に従事した。もちろん押しかけの勤労奉仕であり、持ちこんだ食糧がなくなれば大阪に引き揚げる筈であった。野迫川村の水害被災状況は、死者一九、行方不明一二、重傷九、軽傷八、住居流失八六、同埋没一九、大破二三、半壊一二、土砂流入四七(野迫川村役場調べ)で、奈良県下最大の被災村であった。

 

 山村工作隊結成の話がとびこんできたのは私たちが北股を引き揚げる直前であった。水害救援隊長のKが、党からの招集だといってある会議に出かけ、戻ってくるとそのまま北股に残ってくれないかということであった。私と同じ枚方事件の被告で、高校の同級生であったHと相談の結果、夏休みの八月一杯迄残ることにしたが、それが山村工作隊であるとは、大阪府党軍事委員Wと同乗大阪地区軍事委員Uが北股にやってくるまで気付かなかった。(水害救援隊長のKは結局党内事情があって大阪に帰った)

 

 私と同僚のHは、党の軍事委員WHのオルグによって山村工作隊入隊を決意し、八月一杯北股での水害救援活動に従事したあと、花園村での山村工作隊結隊式に参加した。山村工作隊に参加する私の心境は、党の機関から正式に革命戦士として抜擢された誇りで充実していた。つまりこの心境は自己の全生活が革命運動である職業運動家の生き方が共産主義者の生き方として最も理想的なものであるという、当時の私たち特有の観念によるものであった。私たちは、すでに枚方事件の被告として長期裁判に自由を拘束されており、学校も退学を覚悟していたから、肉親との別離を含めて世間の日常性から自己を切り離すことをある意味では自己解放ととらえ、そこには何のためらいも感じなかった。

 

 しかし、このような水害救援隊から山村工作隊への強引な切りかえは、水害救援隊内部でも批判が強く、水害被災地の村民感情としても決して自然に受け入れられるものではなかった。私の属した北股の水害救援隊内部でも、大阪府下の農村地域出身の年配党員たちは、「俺たちはあくまでも水害救援隊としてやってきたのであって、最後まで勤労奉仕に徹すべきだ。外部の者が少々工作したからといって村の内部がそんなに変わるわけでもなく、中途半端な政治工作ならやらないほうがましや」といって私たちの残留には批判的であった。

 

 また和歌山方面でも、水害救援隊の強引な山村工作隊きりかえをめぐって、軍事オルグと水害救援隊とのトラブルがあったようで、必ずしも山村工作隊が簡単に結成されたわけではなかった。一方地元被災民にしても、今までスコップを持って勤労奉仕をしていた救援隊が、今度は政治ビラをもって戸別訪問にやってくるとあっては、その態度変化に警戒心を抱くのは当然のことであった。村のボス達は「とうとう赤の正体を現わした」と攻撃を始めた。村の支配者たちにとっては、たとえ勤労奉仕の救援隊であれ、外部勢力の侵入それ自体が問題なのであった。山村工作隊結成という新事態は彼らにとって一大事件であった打違いない。

 

 

 6、山村工作隊をいかに総括するか

 

 最後に山村工作隊など日共軍事組織の解体と六全協決議を、私自身どのように受けとめたかについて書きとめておきたいと思う。

 私が日共の軍事組織の解体と党機関の公然化をはっきり意識したのは、日共関西地方委員会招集による山村工作隊総括会議以後であった。そのとき私は軍事オルグとしては失格を意味する二回目の任務放棄を行っており、軍事オルグを解任されアカハタ分局員に配属されていた。

 

 任務放棄の原因は一回目は中核自衛隊結成をめぐる地区軍事委員の指導に対する反抗であり、正式な査問会議で軍事委員と対決することを意図した積極的意味を持っていた。二回目のそれは盲腸炎による入院で弱気になり、あきらかな「日和見」であった。私は軍事オルグの解任を自ら上申すると共に一労働者として職場で活動したいと考えた。いずれも党機関は私の上申を受けつけず新たな任務としてアカハタ分局員を命じられた。一九五五年(昭和三十年)二月のことであった。

 

 そのときの私の心境は、一九五二年(昭和二十七年)六月の枚方事件から、山村工作隊、軍事オルグといった職業革命家の道を選んだことの自己反省が支配していた。もはや私が理想とした革命党のイメージは見事に崩壊し、私自身もあわせて崩れそうになる不安感に襲われていた。毎日のアカハタ配りは空虚そのものであった。従って、軍事組織解体も、六全協決議も「何が今更自己批判だ」と反発していた。

 

 しかし、私がよりきびしく自己をみつめるきっかけになったのは、六全協後私が枚方事件の被告であることによって、アカハタ分局員を解任されたことであった。理由は「極左事件関係者は党機関メンバーから外す」という上級機関の決定があったからだという。どの機関で決定されたのか確かめるすべもなく、私はすでに職業革命家に何の未練も幻想もなかったから抵抗もせずに従ったが、あとから六全協を読み直してみてムラムラと腹が立ってきたのである。

 

 それは六全協の付帯決議に関する部分であった。「今後の党活動は綱領(五一年綱領)とこの決議にもとづいて指導される。したがって、過去に行なわれた譜決定のうち、この決議に反するものは廃棄される」

 

 こんな馬鹿なことがあるか、というのが私の直感であった。過去の諸決定で果たして綱領に反する決定とは何であったのか。たとえその諸決定が廃棄されたとしても、それを実践した活動はどうなるのか。私はまさしく党によって棄てられたという印象しか、この決議からは読みとることができなかった。この感情は、和歌山と奈良の山中に最後まで残った隊員たちの気持と共通している。

 

 和歌山隊のSは、「総括のない自己批判はインチキだ」として山村工作隊の総括を要求する上申書を何通も党機関に提出した。しかし何の返事もなかった。たまたまやってきた党機関の常任に「上申書の返事はどうなった」と追及すると「それは六全協ですんでいる」といったという。二人は川原で腰をおろして話をしていたらしく、Sはこのとき常任を川の中に投げとばしたい程腹が立ったと語っている。

 

 では私たちにとっての総括とはどういうことなのだろうか。それは私の山村工作隊体験が、私自身の生き方の問題として一体何をもたらしたのか。つまり私自身が山村工作隊活動を通じて何を学び、そして何を得たかということであろう。もちろん、今から考えてみて、当時の情勢下で果たして和歌山、奈良の山間僻地に三十名もの山村工作隊を残す必要性がどこにあったのか、ましてや山村を遊撃隊の根拠地にするという幼稚な戦略設定など、その時代錯誤は正気の沙汰であったとはいえない。いたずらに犠牲者のみを多くし、革命への挫折感を拡大したにすぎないこれら山村工作隊の活動は、運動史的にみればまさに負の遺産以外の何ものでもなかったといえるだろう。

 

 しかし、たとえ誤った革命路線のもとにあっても、その中で燃えた青年の情熱まで否定することができるであろうか。若しそれらいっさいのエネルギーが一片の決議や自己批判で否定されるのであれば、そもそも革命運動とは一体何なのであろうか。一九五〇年代の武闘路線に限らず、戦前戦後を通じて、日共の革命路線が労働者階級の闘いを的確にとらえ、その生活の中に根を下ろしたことが果たしてあったといえるだろうか。対立と分裂、弾圧と孤立の再生産が際限もなく、くり返される日本の革命運動の中にあって、傷つき倒れる青年の回復なくしてどうして運動の持続と蓄積があるだろうか。

 

 今日なおくり返される日共「党勢拡大」「赤旗拡販」競争、新左翼各セクトの対立抗争を考えるとき、更にまた果てしなく進行する労働運動の体制内化と左翼分断を考えるとき、そのことに絶望し挫折する青年たちをとらえることのできない日本の共産主義運動とは、まさしく山村工作隊の私たちを見捨てた日共「六全協」を一歩ものりこえるものではなかったということになるだろう。そのような責任を感じる共産主義者が果たしてどれだけいるといえるだろうか。

 

 終りに「運動史研究」によって戦前活動家の話から得た私なりの運動史観を記し、この記録のしめくくりとしたい。

 〈その一つは、戦前昭和初期の三・一五事件以後の「武装共産党時代」と戦後一九五〇年レッド・パージ以後の「日共武装闘争時代」とがあまりにも類似しているということである。そしてそれは、「三二年テーゼ」「六全協」という党再建方針の共通性にもつながっているように思うのである。つまり日本の革命運動における分裂、弾圧、孤立、崩壊という共通パターンの再生産であり、そしてその「再建」は自立的なものでなく他動的な外圧依存型(コミンテルンや他国の党の指示)だったということである。

 

 その二つは、このような不毛な運動下にあっても、直接的な労働運動(大衆運動)の現場においては、たとえどのような弾圧下にあっても闘いは持続し、無名の活動家が育っていたということである。それは資本の搾取と権力による支配が続く限り、労働者と民衆の闘いは続き、その闘いのあるところには必ず無名の活動家が奮闘しているということであった。たとえそれが誤った方針のもとであっても、そこに大衆の闘いと生活があり、大衆運動の持続がある限り、そこには必ず運動の法則が作用しているのであった。

 

 問題は前衛党が、労働者階級と人民大衆のために、その闘いを発展させる役割を果たすことなく、逆に「党のために」これを利用することによりその闘いをつぶし、多くの無名の活動家たちを見殺しにし、戦線から離脱させていったことのくり返しを、反省することなく続けてきたことであった〉

 

  (「政治と文学の会」会報二号「無名の先輩たち」拙稿より)

 

 脇田憲一略歴

 

 一九三五年愛媛県生まれ。一九五二年枚方事件で検挙される。一九五二年日本共産党入党、高校中退。山村工作隊に入隊。(一九五五年「六全協」まで、奈良県、和歌山県、大阪府下で活動)以後、鉄鋼・金属の労働運動に。一九六一年日本共産党を離党、一九七三年大阪総評地方オルグとなり、交運産別、中央地区、北摂地区担当オルグ。一九八五年退職後、北摂・高槻生協理事、市民運動に関わり高槻市議会議員(無所属一期)に。二〇〇〇年より『炎の群像』執筆に専念。文学歴 一九五七年より個人誌「文学ノート」に「枚方事件」「山村工作隊」の記録を連載。思想の科学研究会会員、新日本文学会会員。六八才。

 

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 (関連ファイル)

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