(注)、これは、「みすず」編集部編『丸山眞男の世界』(一九九七年三月発行)、第二部追悼に掲載された、石田雄東京大学名誉教授の上記題名の全文です。このホームページに全文を転載することについては、石田氏のご了解をいただいてあります。
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増山太助『戦後期左翼人士群像』(添付資料)『血のメーデー』
丸山眞男『戦争責任論の盲点』
『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』共産党の広場突入軍事行動
れんだいこ『戦後日本共産党史の研究1952年当時』
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丸山先生を囲んで、先生に教えをうけた思想史研究者の間で持たれた研究会(比較思想史のドイツ語の略で「VG研究会」とよばれていた)がいつから始まったか、いま私には確言できるだけの資料がない。たぶん一九五〇年代の後半ぐらいではないかと思う。およそ一カ月に一度研究会を持つ状態からはじまり、先生の健康状態の影響もあって頻度は少なくなり、終わりにはそのメンバーの一部が一年に一度の懇親会を持つだけということになった。その最後の会合が行われたのは一九九五年一一月二五日三鷹のホテルにおいてであった。
そのとき、各参加者が近況を簡単に報告したあとで、先生が話しをされた。長く話されるのは健康上どうかと心配する一同に対し、話すことは肺機能を活発にするので体にもよいのだという理由づけで、いつものようにかなり長い話になった。その中で「戦争責任論の盲点」(いうまでもなく『思想』一九五六年三月号に発表され、後に『戦中と戦後の間』に収められた)を執筆される背景について触れられた点があるので記しておこう。
実は、当時私は「戦争責任論再考」(『年報・日本現代史』第二号、一九九六年、東出版発行)を執筆中であり、そのことを近況報告で述べると共に編集者から丸山先生の戦争責任論の位置づけを含めるようにとの希望が述べられていることもつけ加えた。周知のように依然としてマルクス主義の影響をうけた者の多い日本現代史の研究者たちの間では、『前衛』に示されたような丸山先生による共産党の戦争責任論に対する批判を、どう考えるべきかに関心が示されていたからであろう。私がこの編集者の希望をつけ加えた時に、あるいは丸山先生がこの批判に何かコメントされる幸運にめぐまれるかもしれないという多少の期待を持っていた。その結果は、私の期待を遥かに上まわっていた。
丸山先生が「戦争責任論の盲点」における共産党の責任論を書かれる動機の一つに一九五二年のメーデー事件があったと言われたことは、正直なところ私には意外であった。何故なら、その間に約四年に近い時間があったからである。ともあれ先生が述べられたメーデー事件と戦争責任論との関係は次の通りである。
一九五二年講和「独立」後はじめてのメーデーでは、それまで「人民広場」の名で親しまれていた皇居前広場にデモ隊が入ったのに対して警官が発砲し、二人を射殺し多くの重軽傷者を生んだ。「血のメーデー」ともいわれる所以である。先生が触れられたのは、当時メーデーに参加した東大法学部職員組合の女性職員が逮捕されたことに関連している。
逮捕された二人の女性職員は、研究室の事務を担当していた人たちで、誰がみても騒擾罪にかかわるような闘士ではない。丸山先生は、この経緯を詳しく述べられた後に、多くの死傷者を出し、無関係な組合員の中に逮捕者を出すというような結果に対して、当時の共産党の指導部が責任意識を持っていたかを問題にされた。
実際に当時広場に入り、発砲に驚いて逃げ帰った一人としてふり返ってみると、次のようなことが回想される。私たちがのんびりと行進しているとき、前進座の若者たちや、屈強の若者の集団が、かけ足で私たちを追いぬいていった。今から考えてみれば、彼らは恐らく初めから指示をうけて広場に突入する戦闘部隊とされていたものであろう。私たちが祝田橋のところに着いた時には、何の抵抗もなく、自然に列が進むままに広場に入り、一休みして夏みかんなどを食べているときに銃声を聞いて夢中で逃げたというのが、私たちの体験したところである。
逮捕された一人は、怪我をして病院に行ったため、カルテから警察に名前を知られたからで、もう一人彼女の友人は全くの誤認によるものであったことが後に明らかになったが、とにかく当時の組合としては大変な事件であった。しかし、それから四三年を経た一九九五年一一月に、丸山先生からこの事件が法学部研究室の職員に及ぼした影響について、詳細まで鮮明に述べられたことに驚かされた。法学部職員組合としては、広場の中に放置して逃げた組合旗を警視庁に押収されていたのだから、教授会の話題にもなったに違いない。しかし当時の教授会の構成員の中で、丸山先生ほど鮮明に当時の経緯を語れる人が何人いるだろうか。
このように考えてくると、先生の記憶がとりわけ鮮明であるということは、この事件が起った当時から、結果責任に対する意識の欠如という点で、この時期の共産党の指導と戦争責任の問題を結びつけて考えておられたことを示すものと思われる。
この日に丸山先生から述べられた「戦争責任論の盲点」執筆に関する事実は、私にとって驚きであったことは既に述べた。すなわち、私は自分の不明を恥じなければならないが、先生のこの論文を読んだとき、それは、戦前における天皇と共産党の戦争責任に関するものが中心で、戦後については、知的状況における連続性に関する批判が背景になっているということまでしか考え及ばなかった。
その点では『前衛』などで執拗に丸山批判をくりかえしている人たち――私などはなぜ今頃こんなことをと思っていたが――の方が、丸山先生の執筆動機の一つに戦後共産党の政治指導に対する批判が含まれていることを直観的に嗅ぎとっていたのかもしれない。
ともあれ、九五年一一月二五日の先生のお話は、一つの作品の動機理解が、いかに難しいものであるかを、あらためて私に意識させることになった。「戦争責任論の盲点」については、誠に幸運なことに、先生の直接のお話によって、その手がかりが与えられた。しかし先生がなくなられて、このような幸運を期待できなくなった今日、論文の背後にひそむ執筆動機の理解という困難とどう取組むかという課題の重さをもう一度考えなおしている。
(いしだ・たけし 東京大学名誉教授)
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