共産党による火炎ビン武装デモの計画と準備

 

謎とき・大須事件と裁判の表裏 第1部

 

(宮地作成)

 

 〔目次〕

   1、事件・裁判において解明すべき特殊性と謎 (表1)

   2、被告・弁護団側と検察側による大須事件の概要

   3被告150人の分類と検事調書データ (表2、3、4)

   4、火炎ビン武装デモの計画と準備 (表5、6、7)

   5、私(宮地)の名古屋市民青専従・共産党専従体験15年間による検証

 

   6、〔資料1〕『大須事件第一審判決』「被告人の計画、準備」全文 (資料編・別ファイル)

   7、〔資料2〕被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』計画と準備

   8、〔資料3〕被告・弁護団『第一審判決の誤りと不正』計画と準備の事実誤認

   9、〔資料4〕元被告山田順造『大須事件までの十日間の記録』計画と準備

 

 (関連ファイル)        健一MENUに戻る

    (謎とき・大須事件と裁判の表裏)

    第1部 共産党による火炎ビン武装デモの計画と準備  第1部2・資料編

    第2部 警察・検察による騒乱罪でっち上げの計画と準備  第2部2・資料編

    第3部 2勢力の思惑による大須・岩井通り騒乱状況の認否  第3部2・資料編

    第4部 騒擾罪成立の原因()=法廷内闘争の評価  第4部2・資料編

    第5部 騒擾罪成立の原因()=法廷内外体制の欠陥  第5部2・資料編

 

    被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』宮本顕治批判

    元被告酒井博『証言 名古屋大須事件』歴史の墓場から蘇る

    元被告酒井博『講演 大須事件をいまに語り継ぐ集い』質疑応答を含む

 

    (武装闘争路線)

    『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』宮本顕治の大ウソ

    伊藤晃『抵抗権と武装権の今日的意味』武装闘争方針の実態と実践レベル

    大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y

 

    (メーデー事件、吹田・枚方事件、白鳥事件)

    『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』共産党の広場突入軍事行動

    『検察特別資料から見たメーデー事件データ』

    増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」

          増山太助『検証・占領期の労働運動』より「血のメーデー」

          丸山眞男『メーデー事件発言、共産党の指導責任・結果責任』

    滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』

    脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』

    中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、「流されて蜀の国へ」を紹介

          (添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」終章「私と白鳥事件」

 

 1、事件・裁判において解明すべき特殊性と謎

 

 まず、1952年に発生した4つの事件・裁判を比較し、そこでの大須事件の特殊性と謎について位置づけをする必要がある。

 

(表1) 4事件の概況、裁判・判決内容、軍事方針有無

項目

白鳥事件

メーデー事件

発生年月日

概況

 

参加者

 

死傷者

1952121

札幌市白鳥警部射殺

殺人予告ビラ→実行→実行宣言ビラ

逮捕55人=党員19、逮捕後離党36人。実行犯含む10人中国逃亡

白鳥警部即死

195251

講和条約発効後の初メーデー

皇居前広場での集会許可の裁判中

明治神宮外苑15万人→デモ→皇居前

皇居前広場突入40008000人、逮捕1211

死亡2、重軽傷1500人以上、警官重軽傷832

裁判被告

 

裁判期間

判決内容

 

殺人罪・殺人幇助罪で起訴

被告追平ら一部は検察側証人に

8年間

村上懲役20年、再審・特別抗告棄却。高安・村手殺人幇助罪懲役3年・執行猶予。中国逃亡者時効なし

刑法106条騒擾罪で起訴253

分離公判→統一公判

207カ月間、公判1816

騒擾罪不成立、「その集団に暴行・脅迫の共同意志はなかった」。最高裁上告阻止、無罪確定、公務執行妨害有罪6

軍事方針有無

 

武器使用

共産党側の認否

関係者の自供

 

札幌市軍事委員長村上と軍事委員7人による「白鳥射殺共同謀議」存在

ブローニング拳銃1丁

軍事方針存在の全面否認

村上以外、「共同謀議」等自供

逃亡実行犯3人中、中国で1人死亡

日本共産党中央軍事委員長志田が指令した

「皇居前広場へ突入せよ」との前夜・口頭秘密指令

(プラカード角材)、朝鮮人の竹槍、六角棒

軍事方針存在の全面否認

志田指令を自供した軍事委員なし

増山太助が著書(2000)で指令を証言

警察側謀略有無

拳銃・自転車の物的証拠がなく、幌見峠の弾丸の物的証拠をねつ造

二重橋広場の一番奥まで、行進を阻止せず、引き入れておいてから襲撃するという謀略。判決は、「警察襲撃は違法行為」と認定

 

項目

吹田事件

大須事件

発生年月日

概況

 

参加者

 

死傷者

195262425

朝鮮動乱発生2周年記念前夜祭と吹田駅へ2コースの武装デモ→梅田駅

集会23000人、デモ1500人=朝鮮人500、民青団100、学生350、婦人50人、逮捕250人、他

デモ隊重軽傷11、警官重軽傷41

195277

帆足・安腰帰国歓迎報告大会、大須球場

 

集会1万人、無届デモ3000

逮捕400人、警官事前動員配置2717

死亡2人、自殺1人、重軽傷35〜多数

裁判被告

 

裁判期間

判決内容

 

刑法106条「騒擾罪」で起訴111

日本人61人・朝鮮人50人、統一公判

20年間

騒擾罪不成立

1審有罪15人、無罪87

刑法106条「騒乱罪」で起訴150

分離公判→統一公判

261カ月間、第1審公判772

口頭弁論なしの上告棄却で騒乱罪罪成立

有罪116人=実刑5人、懲役最高3

執行猶予つき罰金2千円38

軍事方針有無

武器使用

共産党側の認否

関係者の自供

 

多数の火炎ビン携帯指令の存在

火炎ビンと竹槍(数は不明)

軍事方針存在の全面否認

公判冒頭で、指揮者の軍事委員長が、軍事方針の存在を陳述。裁判官は、起訴後であると、証拠不採用

「無届デモとアメリカ村攻撃」指令メモの存在

火炎ビン20発以上(総数は不明)

軍事方針存在の全面否認

共産党名古屋市委員長・愛知ビューローキャップ永田を共産党が除名→永田は公判で軍事方針の存在承認

警察側謀略有無

デモ隊1500人にたいして、

警官事前動員配置3070

デモ5分後の警察放送車の発火疑惑、その火炎ビンを21年間提出せず。警察スパイ鵜飼昭光の存在。警察側のデモ隊へのいっせい先制攻撃のタイミングよさ

 

 大須事件ファイル(宮地作成)では、6つに分けて、謎とき・大須事件と裁判の表裏を検証する。その謎ときテーマは、上記(関連ファイル)のように、第1部から第6部まである。

 

 第1部、共産党による火炎ビン武装デモの計画と準備はどのようになされたのか。それは、中日本ビューロー員・党中央軍事委員岩林虎之助の軍事命令によるものだったのか。共産党名古屋市軍事委員会の組織実態はどうだったのか。火炎ビンは、どの組織が何本製造したのか。

 第2部、一方、名古屋市警・名古屋地検による騒乱罪でっち上げの計画と準備が存在したのか。名古屋地裁もその謀略に事実上の加担をしたのか。警察・検察の一体化システムの事前構築は、メーデー事件・吹田事件と比較してどういうレベルにあったのか。

 

 第3部、その政治的軍事的背景として、共産党と国家権力という2勢力の思惑はどうだったのか。デモ出発5分後・250m進行時点における衝突は事実か。2勢力の思惑による名古屋市中区大須・岩井通りでの激突・戦闘の実態はどうだったのか。警察は拳銃を何発発射したのか。デモ隊は、火炎ビンを何人が何本使ったのか。その時間は30分なのか、1時間だったのか。

 第4部、3000人無届デモ、400人逮捕、150人起訴の大須事件騒擾罪第一審公判の経過はどうだったのか。検察側と共産党側との公判方針・力点の違いがあったのか。被告・弁護団=実質的に被告・弁護団内の共産党グループの裁判闘争方針は正しかったのか。

 

 第5部、第一審裁判途中の1964、65年における国民救援会本部=日本共産党中央委員会・愛知県常任委員会と愛知県国民救援会との路線・方針の相違と対立の内容は何か。宮本・野坂・袴田・箕浦一三らによる愛知県国民救援会の乗っ取り、分裂策動の実態は。大須事件被告人・名古屋市委員長永田末男除名と被告人・愛日地区委員長酒井博除名の真相をどう見るのか。宮本顕治による大衆団体乗っ取りクーデターの歴史と本質をどう考えるのか。

 第6部、宮本顕治・野坂参三の火炎ビン武装デモ実行者見殺し・除名の手口と規模はどれだけあるのか。それは、国家権力犯罪としての刑事裁判をたたかっている被告人たちを「党再建上の邪魔者」と見なし、切り捨てるという敵前逃亡犯罪と規定しうるのか。『日本共産党の七十年・年表』の1952年欄の月日明記40項目において、白鳥事件・メーデー事件・吹田事件を載せているのに、大須事件を完全抹殺・消去している意図は何か。

 

 

 2、被告・弁護団側と検察側による大須事件の概要

 

 〔小目次〕

   1、被告・弁護団が公表している大須事件の概要

   2、検察研究特別資料における大須事件の概要

 

 1、被告・弁護団が公表している大須事件の概要

 

 この文章は、パンフ、書籍、写真集、2002年全面削除HPのすべてで、統一された内容である。これは、『大須事件の真実、写真が語る歴史への証言』(1980年7月7日、P.2)から転載した。なお、正式な刑法用語は騒擾罪であり、検察・裁判所側は、「騒擾罪」用語にしている。しかし、これが当用漢字にないという理由で、大須事件被告・弁護団は「騒乱罪」という用語を使っている。よって、一連の大須事件関連ファイルでも「騒乱罪」に統一する。

 

 大須事件とは

 一九五二年(昭二七)七月七日夜、当時の吉田自由党政府の妨害に抗して、戦後初めてソ連・中国を訪問し総額六〇〇億円にのぼる日中貿易協定を締結して帰国した帆足計(社会党)および宮腰喜助(改進党)両代議士の帰国を歓迎する名古屋集会が市内大須球場(現スケートリンクと西別院)で開かれ約一万名の市民が参加しました。

 

 集会終了後の午后一〇時ごろ、球場内で組まれたデモは、さかんな拍手につつまれて約三千名の隊列となりました。隊列の中には「日中貿易再開」「朝鮮戦争即時停止」「単独講和反対」などのプラカードが数多くみられました。

 

 デモ隊が球場を出て岩井通りを東方へ約二五〇米、時間にして約五分間行進をしたときデモと平行して進んでいた警察放送車の車内で、突然パッと火の手があがりました。一方、デモ隊は尚も整然と行進を続けました。その間に放送車内の火も消火されました。

 そのあと突如、放送車の背後付近から拳銃が発射され、そしてデモの前面にせまっていた警官の大部隊が拳銃を乱射しながら突っ込んできました。

 

 岩井通り一帯には、アッという間に約千名の警官隊が殺到し、各所で拳銃が乱射され、六尺棒がふりおろされ、一名が射殺、多数が重軽傷を負わされ、文字通り血の弾圧が加えられたのです。

 その夜のうちに逮捕されたもの一一七名、それから翌年十一月にかけて四〇〇名余が逮捕され、うち一五〇名が「騒乱罪」で起訴されました。

 

 そして、一審名古屋地裁判決(一九六九年(昭四四)十一月十一日)、二審名古屋高裁判決(一九七五年(昭五〇)三月二七日)はともに、警察・検察の謀略的すじ書き、事実のつくりかえを追認し騒乱罪成立の不当判決を下し、最高裁もまた、一九七八年(昭五三)九月四日、一四点もの新たに提出された証拠を無視して口頭弁論すら開かず上告棄却を決定しました。

 

 「デモ行進の自由を守れ」「表現の自由を守れ」の斗いは総評をはじめとする多くの労働組合、民主団体の支援をうけ、北海道から沖縄にいたる全国各地に支援組織がつくられ、実に四半世紀をこえ二八年にも及ぶ大斗争となったのでした。

 

 2、検察研究特別資料における大須事件の概要

 

 これは、「部外秘」『大須騒擾事件について―対権力闘争事犯公判手続上の諸問題―』(法務研修所、検察研究特別資料第十四号、昭和二十九年三月)である。そこには、大須事件2年後の1954年時点における検察内部データが多数あり、281頁にわたる検察側からの大須事件データ分析と第一審公判手続分析が中心になっている。

 

 メーデー事件の検察側「部外秘」資料は、私(宮地)が国会図書館で発見して、コピーを入手した。吹田事件の「部外秘」資料については、脇田憲一枚方事件元被告が手にいれ、それを含めた分析をした。元被告酒井博に、大須事件の「部外秘」資料が渡った。この検察側「部外秘」資料を合わせて分析することにより、各事件を立体的に、違う角度の分析も含めて検討することが可能になった。

 

    『検察特別資料から見たメーデー事件データ』検察側「部外秘」資料を合わせた分析

    脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』検察側「部外秘」資料を合わせた分析

 

 『検察研究特別資料』における「大須騒擾事件の概要」は、冒頭(P.1〜5)にある。長いので、ここには、その抜粋を載せる。

 

 午後九時頃、「会場の同志諸君、中日貿易をやらせないのは、アメ公と吉田だ。敵は警察の暴力だ、中署へ行け。敵の正体はアメ公だ、アメリカ村へ行け。武器は石ころだ。憎しみをこめて、敵に力一ぱい投げつけよ。投げたら商店街へ散れ」と印刷したビラが、場内隅なく撒き散らされ、何か異様な迄の興奮を、場内一ぱいに煽り立てていた。

 

 午後九時五十分、こうした空気の中で、両氏の講演が終り、司会者の閉会の辞によって、まさに大会が終了しようとした。その時、一名の名大生が、突然演壇上のマイクを通じて、全聴衆に向い、「この球場を、三千五百の武装警察官が取巻いている。われわれに対する弾圧だ。」と絶叫して呼びかけた。更に続いて一人の学生が、壇上に駈け上り、司会者の制止を肯かずにマイクを通じ、「皆さんこれで判ったろう。われわれの敵は警察だ、中署へ行け、アメリカ村へ行け、スクラムを組め、実力には実力をもつて闘おう。」と激した口調でアジり出した。大会を平和裡に終らせようとしていた司会者は、それを聞いて、驚いてマイクのスイッチを切った。

 

 然し、この声に応じて、場内は俄かに騒然となり、聴衆中の一部の者達が、手に手に、北鮮旗、赤旗、莚旗、プラカード、竹槍等を持ち、演壇を中心にスクラムを組み始め、忽ちの中に千数百名の一大デモ隊列が出来上ってしまった。彼等は口々に、「わっしよ、わっしょ」「やれ、やれ」等と喚声をあげながら、球場正門から、球場北側の岩井通り車道上に、雪崩れのように押し出した。

 夜十二時過ぎ迄、この大須附近一帯に繰り拡げられた騒擾事件の、発端をなした出来事となった。

 

 既に前日の六日、ただ名古屋市警では、宮腰、帆足両氏の歓迎デモの際、公務執行妨害容疑で逮捕した一人の被疑者が所持していたレポの内容から、七日の講演会に、多数の火焔瓶が球場内に搬入される計画があるということだけは察知していた。

 七日当日、午後六時頃から、万一にも大きな事件の発生すること恐れて、約九百名の警察職員を、球場附近や、その他の場所に待機させて、警戒に当ってはいた。

 

 こうした緊張のうちに、球場内で編成された、千数百名からなるデモ隊列は、北鮮旗、莚旗を先頭に、講演帰りの一般聴衆と、折からの夕涼み客で雑踏する岩井通りの南側車道を、喚声をあげながら東進を開始した。街は彼等の、「わっしょ、わっしょ」という喚声に包まれた。デモ隊の険悪な空気が街中に流れた。その有様をみた警察放送車は、直ちに隊列の先頭左側や、前方を、デモ隊と共に徐行し、「皆さん、無届デモですから解散して下さい。」と繰り返し警告を発しながら進行していった。隊列は巨大な人の流れとなって、群衆の中を前進した。

 

 岩井通りと呼ばれるこの通りを、デモ隊が東方へ約三百米位進行したとき、突如その先頭附近から、数十名の者がばらばらと放送車に走り寄って包囲したと見る間に、矢庭に十数個の火焔瓶が、放送車めがけて投げつけられた。数発の火焔瓶が窓硝子を破って車内で爆発した。炎が車内を真赤に照らし出した。続いてデモ隊員の中から、火焔瓶や小石が、無数にその附近に投げつけられた。一瞬、このあたりの道路上では、そこここで、火焔瓶が炎上し、赤黒い炎が夏の夜を染めた。デモ隊員と、警察職員との間に、乱闘が始った。

 

 午後十二時過ぎ頃、事態は漸く平静に帰したが、この結果、警察職員並びに市民にも数十名の重軽傷者を出した。また一方暴徒の側にも、死者一名を始め多数の負傷者を数えた。当夜騒擾助勢の現行犯、準現行犯として検挙された者は合計百十七名に達した。この一大騒擾事件の発生を前にして、名古屋地方検察庁、並びに名古屋市警当局では、事態を重視、この暴挙の実行者、並びにその背後にある計画者の、徹底的捜査と検挙に乗り出した。殆ど捜査の全機能を挙げて、苦心の捜査が続けられた。その結果、関係被疑者の割出しと、その検挙に成功を収め、遂にこの事件の全貌をほぼ解明することが出来た。(P.1〜5)

 

 

 3、被告150人の分類と検事調書データ (表2、3、4)

 

 大須事件逮捕者は400人になった。その内、150人が起訴された。その分析をする。そのデータは、(表2)警察庁警備局『戦後主要左翼事件・回想』(1967年、絶版)(表3)名古屋地方裁判所『大須騒擾等被告事件第一審判決』の前文、関根庄一編著『被告』(労働旬報社、1978年、絶版)、および、酒井博『証言 名古屋大須事件』(2002年)(表4)「部外秘」『検察研究特別資料第14号』(法務研修所、1954年3月)に基づいている。ただ、数値は、データ公表時期によって異なるものも含む。

 

(表2) 事件当夜とその後の検挙約400人と起訴者の分類

当夜

その後

起訴者

日本人

51人

119人

170人

80人

朝鮮人

73人

150人

223人

70人

計124人

計269人

計393人

計150人

 

 デモ隊規模の発表数値は、いろいろある。(表2)は、警察庁警備局の数字で1000人としている。検察研究特別資料は千数百人である。被告・弁護団は、デモ隊3000人で、逮捕約400人と公表している。第一審判決は、1000人乃至1500人とした。警察は、当然のことながら、武装警官隊以外に、火炎ビン武装デモ隊の現場指揮者の顔確認・証拠写真撮影と参加人数などを数える私服警官75人を配備していた。よって、その実数は、被告・弁護団公表の3000人とかなり異なるが、1000人乃至1500人が妥当といえる。

 

 1000人以上となれば、警察・検察は、火炎ビン武装デモ隊の40%近くを一斉検挙したことになる。その後の逮捕者が多いのは、(1)私服警官75人による武装デモ隊の顔確認・証拠写真撮影、(2)当夜逮捕者への自白強要、()参加組織ルートによる芋づる式逮捕などによるものである。

 

 この大量検挙をした武装警官隊の人数は、警察庁700人、検察研究特別資料900人、被告・弁護団1000人となっている。警官隊の全員が、拳銃および六尺棒で武装していた。第一審判決は、950人から990人とした。よって、武装警官隊人数は、検察、被告・弁護団、第一審判決でほぼ一致し、900人以上の約1000人である。

 

 最初の衝突場所と時間は、名古屋市中区大須・岩井通りで、被告・弁護団は、デモ開始5分後・250メートル地点、検察研究特別資料は300メートル地点ということで、両者はほぼ一致している。

 

 警察庁『回想』発表数値(P.201)によれば、在日朝鮮人の検挙比率がきわめて高く、全体の57%を占める。火炎ビン武装デモの指令機関は、日本共産党名古屋市ビューローだった。その計画と準備、火炎ビン武装デモ動員主体は、()日本共産党名古屋市軍事委員会と、()北朝鮮系在日朝鮮人組織「民戦」、祖国防衛委員会の軍事組織である愛知県祖国防衛隊・名古屋市祖国防衛隊という2つだった。祖国防衛隊の活動家は、ほぼ全員が日本共産党に入党し、日本共産党員だった。

 

 ちなみに、共産党名古屋市委員会は、表側の公然機関である。裏側における非公然の政治指導機関が名古屋市ビューロー()だが、両者が一体のケースも多い。名古屋市の場合、永田末男名古屋市委員長は、名古屋市ビューロー・キャップでもあった。ビューロー()の指導を受ける下部機関として、名古屋市軍事委員会()があり、芝野一三が軍事委員長だった。

 

 「民戦」内には、日本共産党グループが組織されていて、党中央レベルの共産党グループは「民対=民族対策部」だった。愛知県・名古屋市祖国防衛委員会の指導者は、中央「民対」の指導を受けるとともに、軍事組織としての祖国防衛隊(祖防隊)の指導者でもあった。名古屋市祖国防衛委員長金泰杏は、日本共産党員であるとともに、日本共産党名古屋市軍事委員も兼任していた。

 

(表3) 被告150人の事件当時の年齢構成

第一審

10代

20代

30代

40代

不明

懲役

懲役・実刑

日本人

23

45

80

29

朝鮮人

27

36

70

26

50

81

150

55

最高裁上告朝鮮人

23

32

63

 

 民戦に結集していた北朝鮮系在日朝鮮人の大量参加と大量逮捕は、1952年5月1日メーデー事件、6月25日吹田・枚方事件、7月7日大須事件の大きな特徴である。その比率を正確に分析したデータは、メーデー事件、吹田・枚方事件でもない。よって、1952年、朝鮮戦争開戦2年目という国際国内の政治的軍事的情勢において、資料がある大須事件に関し、それを明記する意義がある。

 

    脇田憲一朝鮮戦争と吹田・枚方事件』在日朝鮮人の活動と参加

    伊藤晃『抵抗権と武装権の今日的意味』在日朝鮮人の活動と参加

    元被告酒井博『証言 名古屋大須事件』朝鮮人被告の苦闘と犠牲、上告者データ

 

 (表3)の数値は、名古屋地方裁判所『大須騒擾等被告事件第一審判決』の前文における被告人名簿・年齢をピックアップして、数えたものである。ただ、「計」の数値は、関根庄一『被告』(P.206)に一致させた。最高裁上告被告人は、115人だった。その内、朝鮮人上告者は、63人で、55%を占めた。このデータは、『証言 名古屋大須事件』ファイルにある。

 

 この(表)から何が判明するか。10代・20代の被告が131人で、全被告の87%にもなる。日本人では、名古屋中央電報局(名電報)細胞12人、名古屋大学学生細胞9人が多い。それぞれには、共産党名古屋市軍事委員会の中心メンバーがいた。朝鮮人では、民主愛国青年同盟(民愛青)が動員をかけた。

 

 懲役・実刑5人の年齢は、日本人が34、33、24歳だった。24歳被告は、名古屋大学学生で、名古屋市軍事委員だった。朝鮮人が30、23歳だった。後者23歳は、名古屋市祖国防衛委員会キャップであるとともに、日本共産党名古屋市軍事委員だった。

 

 10、20代の日本人青年と朝鮮人青年たちは、火炎ビン武装デモを、朝鮮戦争の後方基地武力かく乱戦争行動として支持し、共産党の武装闘争路線=日本における朝鮮侵略戦争参戦方針を正しいと信じて、決起した。それは、共産党中央軍事委員長志田重男指令と名古屋市において東京・大阪に続いて、火炎ビン武装デモを遂行させるために派遣されていた中日本ビューロー員・党中央軍事委員岩林虎之助の命令によるものだった。

 

 当時54歳の岩林虎之助から「東京・大阪でやったのに、なぜ名古屋でやらんのか」と激しく叱責され、火炎ビン武装デモ決行を迫られて、33歳の名古屋市ビューロー・キャップ永田末男と、34歳の名古屋市軍事委員長芝野一三は、下記のように緻密な計画と準備を行なった。ちなみに、共産党軍事委員会は、6月25日東京で火炎ビン50本使用の新宿事件を起こし、6月24・25日大阪火炎ビン数十本使用の吹田事件を行なった。岩林虎之助が志田重男から受けた密命・任務は、東京・大阪に連続して、7月7日名古屋市で大規模な火炎ビン武装デモを成功させることだった。

 

 ただ、岩林虎之助は、大須事件後、瞬時に東京に逃げ帰った。彼に叱責され、火炎ビン武装デモ決行を命令された永田末男、芝野一三と、名古屋市のアジトに彼を滞在させていた当時49歳の共産党員桜井紀弁護士ら3人しか、彼の名古屋市派遣・滞在の事実を知らなかった。永田・芝野・桜井3人は、その秘密を隠し、彼の名前を一言も漏らさず、54歳の日本共産党中央軍事委員が大須事件党中央首謀者・火炎ビン武装デモ命令者として逮捕されることから守り抜いた。

 

(表4) 首謀者グループ47人と証拠申請した検事調書

首謀者グループ

分類

証拠申請の検事調書

公判証人申請

首魁被告人

10人

3人 18通

 

首謀者グループ3人

他被告人26人

指揮被告人

17人

6人 39通

助勢被告人

20人

4人 41通

47人

13人 98通

 

 (表4)データの資料は2つある。首謀者グループの分類数値は、警察庁『回想』(P.201)にある。証拠申請の検事調書数、および、公判証人数は、『検察研究特別資料』(P.231)のものである。大須事件被告人は150人と多いので、一度に名古屋地裁の法廷に一度に入りきらない。そこで、検察、裁判所、被告・弁護団は、4グループ順転式公判にすることで合意した。となると、首謀者グループ公判において、その13人・98通の検事調書によって、事件の全容がほぼ解明できることになった。ただし、警察・検察側分類と『第一審判決』が認定した分類数値とは異なる。

 

 なお、「首謀者、指揮、助勢」という用語による被告人の区別は、刑法用語である。検察は、その全体を首謀者グループとし、刑法の首謀者を首魁と名付けた。

 「刑法第一〇六条」騒擾の罪

 多数で集合して暴行又は脅迫をした者は騒擾の罪として、次の区別に従って処断する。

 (1)首謀者は一年以上十年以下の懲役又は禁錮に処する。

 (2)他人を指揮し又は他人に率先して勢いを助けた者は六月以上七年以下の懲役又は禁錮に処する。

 (3)付和随行した者は十万円以下の罰金に処する。」

 

 検察側は、警察調書を証拠として提出すると、その任意性が公判の重大争点となるので、公判における被告人の供述調書申請をすべて検事調書とした。調書には、(1)警察調書、(2)検事調書、(3)公判調書という3種類がある。警察調書の場合は、長期勾留期間における拷問と脅迫の疑惑が発生する。検事調書のケースでも、長期勾留から逃れたいためのウソを強要された自供もありうる。第一審公判において、検事調書を申請された被告人たちは、警察における拷問と脅迫事実を挙げ、その調査を強烈に要求した。

 

 首謀者グループ47人中、13人・98通の検事調書内容により、火炎ビン武装デモの計画と準備状況が、下記のようにほぼ全面的に明らかとなった。『検察研究特別資料』が記述している具体的データは、「大須事件冒頭陳述書中の第2、計画・指令・準備」に関する部分(P.170〜229)という59ページに絞られている。検察側が、騒乱罪を適用させる上で、いかに、共産党名古屋市軍事委員会による火炎ビン武装デモの事前計画・指令・準備の立証をすることを最重点にしたかが分かる。

 

 全体281ページにおいて、他の部分は、第一審公判の手続き上の経過分析になっている。公判における検事、裁判長、被告・弁護団という3者のやりとり、敵対的応酬を、公判調書そのままにかなり転記している。そこでは、検察側が、裁判長の訴訟指揮にいらだって、被告人にしゃべりたいだけ、しゃべらせるというやり方を繰り返し批判している。

 

 

 4、火炎ビン武装デモの計画と準備

 

 〔小目次〕

   1、火炎ビン武装闘争路線における大須・火炎ビン武装デモの位置づけ

   2、火炎ビン武装デモ隊の組織と指令・準備系統

   3、火炎ビン製造目標と製造講習会、製造本数

 

 1、火炎ビン武装闘争路線における大須・火炎ビン武装デモの位置づけ

 

 1951年4月、スターリンは、宮本顕治ら反徳田5分派を「分派」と裁定した。彼は、いつまでも分裂争いを続け、朝鮮侵略戦争支援の武装闘争に決起しない隷属下日本共産党にいらだっていたからである。1951年11月16日共産党五全協開催前までに、宮本顕治の「新綱領を認める」というスターリンに屈服した自己批判書を初め、5分派指導者全員が党中央軍事委員長志田重男に自己批判書を提出し、主流派に復帰した。「新綱領」とは、スターリンが自ら執筆し、朝鮮侵略戦争開始10カ月後に当たって、隷属下日本共産党に武装闘争路線に即時転換することを命令した「51年綱領」のことである。

 

 宮本顕治らの屈服により、日本共産党は、徳田・野坂・志田らの主流派によって組織統一回復をし、全党挙げて、1952年度から武装闘争路線・方針を実践した。1952年度の4事件と裁判の概要は、このファイル冒頭の(表1)の通りである。スターリン裁定で統一回復をした隷属下日本共産党が行なった武装闘争路線・実践の本質は、スターリン・毛沢東らの国際的命令による朝鮮侵略戦争の後方基地武力かく乱戦争行動だった。

 

 宮本顕治も復帰した主流派・日本共産党は、ここにおいて、党史上初めて、侵略戦争参戦政党となった。宮本・不破・志位らが、この実践と本質にたいして、必死で、大ウソをつき、隠蔽をし、火炎ビン武装デモ実行者を「党再建上の邪魔者」と見なして、切り捨てようと策動するのは無理もないと言える。

 

    『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』宮本顕治の大ウソ

    伊藤晃『抵抗権と武装権の今日的意味』武装闘争方針の実態と実践レベル

 

 3大騒擾事件とは、1952年5月1日メーデー事件、6月24・25日吹田・枚方事件、7月7日大須事件という5月・6月・7月と3カ月間連続発生した事件のことてある。メーデー事件では、火炎ビン使用がなかった。火炎ビン大量使用武装闘争は5月末から始まった。(1)5月30日新宿駅事件20本、(2)6月25日吹田事件数十本、(3)6月25日新宿駅事件50本、(4)7月7日大須事件20本以上である。ただ、(1)(3)は騒擾罪裁判になっていない。

 

    由井誓『「五一年綱領」と極左冒険主義のひとこま』5月30日新宿駅事件火炎ビン20本

    脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』6月24・25日吹田事件数十本

 

 大須事件は、5月以降における連続事件の5番目、火炎ビン大量使用武装闘争の4番目だった。東京2件・大阪1件に続く、中部地方中心都市の名古屋における初めての火炎ビン武装デモ事件だった。党中央軍事委員長志田重男の密命を受けて、中日本ビューロー員・党中央軍事委員岩林虎之助は、名古屋市に派遣され、4番目の火炎ビン大量使用武装闘争を成功させるために、共産党名古屋市委員長や名古屋市軍事委員長らを叱咤した。中日本ビューロー員は、中部地方全体の共産党組織を武装闘争に決起させる任務を帯びた党中央軍事委員を兼ねていた。

 

 大須事件発生を受けて、名古屋市警・名古屋地検は、火炎ビン武装デモ隊1000人から1500人中、400人を検挙した。事件捜査において、警察・検察が、騒乱罪適用をさせる上で、重点としたテーマは、(1)大須・岩井通り現場における騒乱状況の立証だけでなく、(2)共産党による事前の火炎ビン武装デモの計画と準備を全面的に解明することだった。『検察研究特別資料』をみると、警察・検察は、むしろ、(2)の計画と準備状況の立証を、騒乱罪適用に持ち込む上での最大の力点にしたと判断できる。その組織系列と事実経過とを完璧に立証できれば、大須事件公判において、裁判官の心証を騒乱罪成立に傾け得ると読み込んだ。というのも、この資料は、公判における裁判長・被告人・検事という3者間の応酬に関して、公判調書をそのまま、何度も転記をしているが、大須事件の具体的データに関しては、(1)大須・岩井通り現場における騒乱状況の立証にまったく触れず、(2)の計画と準備状況を52ページ(P.176〜229)にわたって、詳細に記述しているからである。

 

 いま一つの理由は、メーデー事件裁判が、すでに6月2日から始まっていたが、警察・検察側は、共産党による人民広場突入軍事行動の計画と準備実態について、ほとんど具体的証拠・証言を得ていなかった。騒擾罪首魁も逮捕できていなかった。これには、共産党側の秘密保持と、警察側の失態という両面がある。メーデー事件、吹田事件に関する『検察研究特別資料』には、検察による東京警視庁、大阪府警の事前調査、警備体制、当日の現場対応にたいする批判が繰り返し書かれている。ところが、大須事件『検察研究特別資料』には、検察による名古屋市警批判が一つも書かれていない。

 

 2、火炎ビン武装デモ隊の組織と指令・準備系統

 

 〔小目次〕

   1、計画の発端

   2、名古屋市上級機関

   3、地域別ブロックとそこでの具体化と準備

   4、名古屋大学学生細胞における具体化と準備

   5、朝鮮人諸団体における計画、指令、準備

 

 そこで、以下、『検察研究特別資料』における(2)の計画と準備状況を立証した内容を検討する。そこでは、すべてに、首謀者グループの検事調書に基づく個人名を記載している。しかし、このファイルでは、首謀者グループとされた被告人の一部の人名のみを載せる。他〇〇人も人名が明記されている。(2)だけで52ページもあるので、要約・抜粋とし、直接引用個所は「 」にする。編集上、要約・抜粋のページ位置は前後する。

 

(表5) 火炎ビン武装デモ隊の組織と指令・準備系統

上級機関

中間機関

下部組織

特徴

 

名古屋市委員会

市軍事委員会

当日の指揮系統

 

1、地域別ブロック

Bブロック

 

A、Cブロック

B−北、東、中、千種区の10細胞

名電報細胞−軍事担当、被告12人

A−西、中村区、C−港、南、熱田区

2、市(V)直轄細胞

名大学生細胞

市軍事委員1人、被告9人、デモ先頭部隊

 

3、団体別組織

朝鮮人諸団体

日本民主青年団

祖国防衛委員会、各地区、民愛青、他

明和高校民青班他−ピケ隊、警察配置体制の情報収集と報告

 

 1、計画の発端

 

 「昭和二十七年五月十七日夕刻名古屋市中区所在金山体育館において約二万の聴衆を集め、大山郁夫等の世界平和講演会が開催されたが、同講演会に集った聴衆の熱狂的雰囲気から判断して大衆は日本共産党を支持し、その計画する軍事行為に同調し、その行動を共にするであろうという判断の下に爾来かれら軍事委員の間では何等かの機会に共産党が中心となって大衆を武装化して軍事行動を起すことにより名古屋市における共産主義革命の第一頁を開こうとすることが考えられて来た。」(P.177)

 

 (宮地・注)

 当時の「アカハタ」は、3万人と報道した。金山体育館の集会に、私(宮地)は何度も行っているが、最大1万人しか入れない。検察が2万人と見たことは、場外に1万人が溢れていたという雰囲気になる。メーデー事件の17日後で、事件への支援と警察の弾圧にたいする大衆的怒りが満ちていたことは事実であろう。しかし、集会後のデモ行進も組織されず、散会した。

 

 ある証言者(名前秘匿)によれば、党中央軍事委員会は、「メーデー事件直後にもかかわらず、なぜ3万人もの大集会後に、無届デモを決行しなかったのか。市軍事委員会はやる気があるのか」と、厳しい叱責を、共産党名古屋市ビューローに浴びせた。私(宮地)は、それが、中日本ビューロー員・党中央軍事委員岩林虎之助と名古屋市ビューロー・キャップ永田末男との関係で起きたことと推測する。この時点から、すでに、党中央軍事委員会は、名古屋市における大規模な火炎ビン武装デモを計画せよという指令を出していたと思われる。

 

 北海道(白鳥警部射殺)→東京(メーデー事件)→東京新宿駅2件→大阪→名古屋という朝鮮侵略戦争の後方基地武力かく乱戦争行動の連鎖的総決起の一環としての全国的計画の中に、名古屋の火炎ビン武装デモの予定が組み込まれていたと言えよう。白鳥事件に関する私の判断と、宮本顕治が「白鳥事件の真相を知りすぎた男」と妻を中国奥地に17年間も流刑にした政治的殺人犯罪は、別ファイルで書いた。

 

    被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』白鳥事件への判断

    中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、「流されて蜀の国へ」を紹介

         (添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」終章「私と白鳥事件」

 

 2、名古屋市上級機関

 

 )、名古屋市委員会(V=市ビューロー) キャップ永田末男、総務加藤和夫、他3人で構成され、軍事委員会(Y)とともに、革命運動としての武装行動を計画し、実行する。(P.220)

 2)、名古屋市軍事委員会(Y) キャップ芝野一三、名古屋大学学生細胞軍事担当兵藤(渡辺)鉱二、清水清、朝鮮人祖国防衛委員会名古屋市キャップ金泰杏の4人で構成されていた。(P.177)

 

 軍事委員会の会議3回と方針決定

 第1回、6月28日 帆足・宮腰帰国歓迎集会がある。集会後デモ行進をする。デモに際して軍事行動を行なうことを決定した。

 第2回、7月2日 大須球場で、歓迎報告大会が7月7日に開かれる。大会後デモ形式による警察とアメリカ帝国主義にたいする抗議と攻撃を行なう。攻撃目標は名古屋市中警察署と米駐留軍宿舎アメリカ村とする。攻撃武器として火焔瓶、手榴弾を持たせる。その材料は軍事委員で供給するなどを決定した。その決定を全下部組織に連絡することと連絡担当・方法も決めた。(P.178)

 

 第3回、7月5日 名古屋市委員会傘下の各ブロック・細胞の軍事代表者による隊長会議を開いた。

 出席者は、市軍事委員4人、名古屋電報局細胞軍事担当者山田順三、名大細胞代表者岩田弘、民主青年団代表者山田泰吉、他2人の9人だった。7月7日夜における軍事行動の最終的決定事項は次であった。

 「()、攻撃目標を中署及びその付近にあるアメリカ村とする。このような攻撃的軍事行動に果して大衆がついて来るかどうかの問題については、既に東京メーデーに見られた如く武装行動の思想は大衆の間に浸透しているから、指示すれば大衆は武装行動に出るという意見になった。

 ()武器としては火焔瓶と手榴弾、それに出来るだけ多くのプラカード、竹槍を携行して行き、これを使用する。

 

 ()、敵の力を分散する陽動作戦として他の派出所等を別働隊でもって攻撃することとし、これは朝鮮人側で受け持ちその具体的方法は一任する。

 ()、警察側の警戒に対する見張り、即ちピケの位置は中署の東西と北の各道路に配置する。

 ()、デモ隊の順序は学生が先頭で隊列を誘導し、その後に朝鮮人、自労、一般の順序とし学生、朝鮮人、自労の各団体が中心となって会場内を旋回してデモ行進し出来るだけ一般聴衆をデモ隊列に参加させる。

 

 ()、デモ隊の攻撃経路は大須電停から本町通りを北上し、中郵便局を右折して中署へ行く、郵便局の十字路でデモ隊の支隊はアメリカ村へ行く、そして何れも火焔瓶、手榴弾を投擲して攻撃する。

 ()、攻撃を終ったデモ隊は、そのまま後退して大須の繁華街の人ごみの中に逃げ込む。

 ()、大須球場の三塁側スタンドの上に北鮮旗を立てて、そこにY部の中心を置き情勢の把握と連絡に当てる。

 以上のような事が決定されそれぞれ下部細胞の組織等に連絡指令されることとなって、午後六時頃散会した。」(P.180)

 

 3、地域別ブロックにおける具体化と準備

 

 名古屋市の共産党組織は、A、B、Cブロックに分かれていた。大須事件では、Bブロック10細胞が中心で、なかでも、名古屋電報局細胞(名電報細胞)が強大で、共産党員8人、シンパ(同調者)5人だった。

 名電報細胞のLC(指導部員)は3人で、キャップ片山博、多田重則、石川忠夫だった。軍事担当(Y部)が山田順造だった。他ファイルでも述べるが、火炎ビン武装デモ指令メモ7枚中の1通(玉置鎰夫宛)が、前日の7月6日、警察に渡った。

 

 7月4日、5日の隊長会議前、市軍事委員兵藤鉱二は、山田順造に、市軍事委員会の指令を与えた。その内容は次である。

 「(イ)、帆足、宮腰講演会の政治的意義に関連し、中日貿易は日共を中心とする労働者が武器を持って闘うことによってのみかちとられるものであること。

 ()、従って、この集会には労働者がへゲモニーをとる必要があること。

 ()、又、この集会には全部で二千個の火焔瓶が参加者によって持ち込まれるが、電報細胞員及びその同調者はそれぞれ一個の火焔瓶を持って参加すること。

 ()瓶とガソリンは各自準備すベきだが、他の薬品は軍事部から無料で供給する、又その製造方法も教える。

 ()、又、中核自衛隊は更に高度の武器を持って参加する予定である。

 といったものであってこの指令を電報細胞員に伝えることを命じた。

 

 そこで、山田順造はこの指令に基き「七月七日の帆足、宮腰集会における各人の任務について」と題する電報用紙を利用したレポ七枚を作成し、それぞれアルファベットの略号を表記して片山博始め電報細胞員に兵藤の指令内容をそのまま伝達したのであった。

 この七枚のレポのうちY部RからAに宛たもの、即ち軍事担当山田から玉置に宛てたレポが七月六日逮捕された十二名中の一名である玉置の所持していたもので前記の如く七月七日における警察当局の警備の発端を為したものである。」(P.184)

 

 7月4日、Bブロックの緊急細胞代表者会議が開かれ、10細胞中7細胞11人が参加した。市V政治オルグ岩間良雄、市軍事委員清水清が、名電報細胞と同じ内容の指令を与えた。(P.185)

 A、C各ブロックにおいても、同様の指令と準備を行なった。

 

 4、名古屋大学学生細胞における具体化と準備

 

 名大細胞は、名古屋市ビューローの直轄で、ブロックに入っていない。市軍事委員会に兵藤(渡辺)鉱二を一人出し、事件当日の1000人から1500人火炎ビン武装デモ隊の先頭部隊になった。被告150人、日本人被告80人において、名電報被告12人に次いで、名大9人ときわめて多い。実刑者5人、日本人3人において、市ビューロー・キャップ、市軍事委員長とともに、兵藤鉱二は未決勾留450日・実刑2年6カ月だった。

 

 名大細胞は、キャップと細胞LC(指導部)があり、各学部毎に班を作っていた。

 7月4日、名大経済学部班キャップ岩田弘が、7月7日の武装行動に際し、学生の指揮者になることを決定した。

 7月5日、市軍事委員会の隊長会議に、岩田弘が出席し、名大桜鳴寮の細胞会議で、学生がデモの先頭に立って、これを誘導するなどを指令した。

 

 7月6日、名大桜鳴寮内の兵藤鉱二居室で、細胞会議を開き、次を協議決定した。

 「七月七日講演会後、中署に武器を持って抗議デモに行く事を再確認した上、

 ()、講演会よりデモに移るために、聴衆に対しアジテーションを行なわねばならぬが、それは同経済学部学生岩田弘外一名がこれに当ること。

 ()、そのため司会者がマイクを引き渡すかどうか疑問であるから教養学部班において準備すること。

 ()、学生はデモを誘導するが、場内において蛇行を行い、多くの大衆をデモ化するようにすること。

 ()、デモ隊が解敬するのは手榴弾の投擲を合図にするが、その際密集したまま大須繁華街に到り、此処で解散して群衆の中に入ること、等を協議決定した。」(P.198)

 

 5、朝鮮人諸団体における計画、指令、準備

 

 ()、朝鮮人諸団体の組織

 ()、統一民主戦線と抵抗自衛隊

 在日朝鮮人のひとつの全国的組織として在日本朝鮮統一民主戦線(民戦)と称されているものがある。民戦に対応して、日本共産党に民族対策部(民対)があり、民戦と緊密な連絡を執っている。

 

 この民戦の傘下には、1)、解放救援会(解救)、2)、民主愛国青年同盟(民愛青)という満二十五歳迄の青年で組織される団体及び、3)、民主女性同盟(女同)という女性の団体、4)、並びに朝鮮人学校教員と父兄との団体である教育者同盟(教同)、5)PTA等がある。いずれも全国的組織であり、愛知県において愛知県本部のもとそれぞれ下部組織を有している。名古屋市における民戦は名東、名南、名西の三地区に分かれており、更にこの地区の下に支部が設けられている。(P.199)

 

 ()、祖国防衛委員会(祖防委)

 「在日朝鮮人の積極的行動部隊として全国的組織を有する祖国防衛委員会があるが、これは祖国の防衛、権力闘争の計画、武器の生産などを目的とし共産党軍事委員、即ちY部と密接な関連を持っている。通常、祖防委員会の活動方針の立案に際しては、党軍事委員もこれに加わることになっている。

 愛知県祖防委員会の委員長は、閔南採、他3人である。

 各古屋市祖防委員会のキャップは、金泰杏であるが、同人は共産党名古屋市軍事委員を兼ねている。」(P.200)

 

 7月5日、祖防委員の会合で、大会当夜の武装行動に関する打ち合わせを行なった。出席者は、県祖防委キャップ閔南採、市祖防委キャップ金泰杏、他5人が参加した。会議は、隊長会議に出席し、共産党名古屋市軍事委員として、日共武装行動の具体的方法を決定してきた金泰杏の報告に基づいて行なわれ、当夜における朝鮮人側の武装行動が討議決定された。

 

 「その内容は次の如きものであつた。

 ()、武装行動を行うデモ隊の編成は学生、労働者、朝鮮人、労働者、党員、労働者の順序で組織力の弱い労働者を学生、朝鮮人、党員等によって前後から保護しつつ行進する。

 ()、朝鮮人は四隊に分け、その総指揮は金泰杏が執る。

 ()、第一隊、第二隊、第四隊の指揮者を決定した。

 ()デモ隊の行動は大須電停から北上して中警察署を攻撃する。

 ()朝鮮人はまずアメリカ村を攻撃した後、中署前で集結合流し附近繁華街に向って解散する。

 

 ()、朝鮮人各隊の組織及び行動は、先ず第一隊は東三、東春の祖防隊員約二十名に瑞穂、名中の二支部の一般大衆を加えたもので構成し、デモ行進を妨げる者を排除する役割をする。そして祖防隊員は火焔瓶と手榴弾とを持って行く

 ()、第二隊は西三、尾西の青年行動隊に中川、南等合計四支部の一般大衆で編成し、アメリカ村の自動車に火焔瓶を投擲してこれを攻撃する。

 ()、第三隊、第四隊は祖防隊員と支部一般大衆をもつて編成し、いずれも火焔瓶を投擲する隊員の保護に当る。

 

 ()、更に朝鮮人側では警察の警備力を分散するために別働隊を編成して火焔瓶を投擲させるが、その目標は鶴舞公園の駐留軍自動車置場と東税務署及び熱田県税事務所等とする。

 ()、別動隊は一ケ所五名位とし午後八時半頃に出発する。」(P.204)

 

 7月7日、各地区祖防委員等の最後の打合せ会議が行なわれ、閔南採、金泰杏、他四地区の祖防委キャップら8人が参加した。

 火焔瓶は各4地区から持ってくると説明された。

 

 (宮地・注)

 他に、『検察研究特別資料』は、()西三地区における計画・指令・準備、()民愛青における計画と指令、()救護班の編成、(10)民愛青愛知支部総会における指令を詳細に解析し、記述した。これは省略する。共産党の火炎ビン武装デモ計画と準備に関する検察側分析は、52ページにわたる。その内、「朝鮮人団体における計画、指令、準備」の解明に、23ページ(P.198〜220)と、44%も使った。これは、他データと連動した割当と言える。すべてのデータにおいて、朝鮮人の比率がなぜかくも高いのかという分析は、『大須事件・第3部』で行なう。

 

(表6) 検挙数・被告数・懲役刑数における朝鮮人の比率

検挙数

被告数

懲役刑数

実刑者数

検察資料頁数

全体数

393

150

55

52

朝鮮人数

223

70

26

23

朝鮮人比率

57%

47%

47%

40%

44%

 

 3、火炎ビン製造目標と製造講習会、製造本数

 

 〔小目次〕

   1、火炎ビン製造方針と目標2000本

   2、火焔瓶の性質と機能

   3、火炎ビン製造講習会と原料の準備・受領

   4、火炎ビン製造と製造本数

   5、手榴弾製造方針と失敗

 

 1、火炎ビン製造方針と目標2000本

 

 7月2日、市軍事委員会は、「()、相手方の抵抗にたいする攻撃武器として火焔瓶、手榴弾を持たせる。その材料は軍事委員で供給するなどを決定した。その決定を全下部組織に連絡することと連絡担当・方法も決めた。」(P.178)

 

 7月4日、市軍事委員兵藤鉱二は、名電報細胞軍事担当山田順造に、軍事委員会指令をした。「()、又、この集会には全部で二千個の火焔瓶が参加者によって持ち込まれるが、電報細胞員及びその同調者はそれぞれ一個の火焔瓶を持って参加すること。()瓶とガソリンは各自準備すベきだが、他の薬品は軍事部から無料で供給する、又その製造方法も教える。」(P.184)

 

 7月5日、軍事委員会による隊長会議は、「()、デモ隊の攻撃経路は、大須電停から本町通りを北上し、中郵便局を右折して中署へ行く、郵便局の十字路でデモ隊の支隊はアメリカ村へ行く、そして何れも火焔瓶、手榴弾を投擲して攻撃する」と決定した。(P.180)

 

 2、火焔瓶の性質と機能

 

 「これ等会合に際して問題にされている火焔瓶とは、薬瓶その他種々の瓶の中にガリリン及び濃硫酸を約三対一の割合に充填し、その口栓を蝋等で密封した上、瓶外部には塩素酸カリの粉末を散布した紙片を糊付けして作製するもので、これを目標物に向って投擲すれば、その瓶の破裂と同時に、濃硫酸と塩素酸カリとの化学反応及び可燃物たるガソリンの存在により瞬前に爆発延焼の作用を呈するもので、本事件に現われた火焔瓶はすべて右と同一の組成と作用とを有していたものであった。それが各細胞その他の組織の中で、どのように製造され、使用されたかは後述する。」(P.181)

 

 3、火炎ビン製造講習会と原料の準備・受領

 

 )、7月5日、共産党名古屋市委員会Bブロックの6細胞7人が集って、火炎ビン製造講習会を行い、原料の受領を指令した。

 「講師権龍河は、予め用意して来た大小二個の薬瓶及び塩素酸カリ、濃硫酸を使用し、更に同席で山田順造に依頼して購入してきて貰ったガソリンとにより、二個の火焔瓶を製造してその方法を参集者に教えたが、製造後、朴、金入、三浦等は完成した火焔瓶一個を携えて矢田川堤防附近に赴きその爆発実験を行い、これを爆発させることに成功した。

 

 なお同席上で、岩間は既に市軍事委員より受領していたレポで火焔瓶製造の材料たる薬品の供給場所を図示したものを三浦義治に手渡しその受領方を指示した。このレポには薬品の供給場所として名古屋市熱田区六番町六丁目百三十二番地丸山真兵方が記載してあった。丸山真兵、七月四日頃軍事委員からの指令により同人方を火焔瓶製造の材料である濃硫酸及び塩素酸カリの供給場所とし、七月五日に濃硫酸等を預り、七月六日の午前九時から十時までの間にそれぞれの受領者に供給すベしという指令をうけて薬品等が準備されていたのである。」(P.188)

 

 )、1952年4月中頃以来、朝鮮人祖国防衛委員会において、火焔瓶の製造と準備が行なわれていた。

 「すでに本年四月中頃以来、朝鮮人側においては、二人等によって火焔瓶が試作されていた。

 五月頃に至って太田川朝鮮人中学校においてその講習会が開かれた。これは二人が同所に赴いて各地区祖防委員等にその製法を教え実験を行ったものである。集合した者は、九人である。

 更に六月始め頃、金億洙は金鶴圭からの依頼によって、名中支部へ赴き同所に集った五、六人に火焔瓶の製法を教えた。

 以上のようにして火焔瓶の製法は金億洙を通じて、県下の各祖防委員等に教え込まれていたのである。

 

 4、火炎ビン製造と製造本数

 

 )、7月6日、共産党名古屋市委員会Bブロックは、火焔瓶40個を製造した。

 「七月六日午前九時過ぎ頃、右三浦義治は、権龍河と共に右丸山方に赴き、濃硫酸を一升瓶に四本、ビール瓶に一本及び塩素酸カリを受領し、中区東陽町八丁目四番地の三浦寿美子方にこれを運搬した上、ガソリン、パラフィン等を買い整え、アルコールの空瓶等を利用して、火焔瓶約四十個を製造し、これを三浦約十一個、権龍河約三十個に分配した。そしてこの製造中、三浦方に薬品をとりに来た前記金入三郎及び山田順造に、それぞれ自己が丸山方から受け取って来た濃硫酸及び塩素酸カリを分ち与えた。」(P.189)

 

 )、7月6日、Bブロック名電報細胞LC会議は、その場で、火焔瓶35個位を製造した。

 「この間、同日昼すぎ頃前記の如く、山田は三浦寿美子方に行き渡硫酸、塩素酸カリを受領して来た。またその頃、石川はガソリン、パラフィン、土瓶等の材料を購入してきた。空瓶として使用されたのは、前日五日の夕刻石川が昭和区川名町六丁目一番地に、友人吉田三治を訪れて買ってきたウイスキー小瓶、薬瓶等四、五本、また七月六日夕刻石川が購入してきたレモン水の瓶四十本位、更に同月夕刻吉田が持参したペニシリン瓶十本位であつた。

 

 結局、同日午後十一時半頃までの間に、ウイスキー小瓶四、五本位、薬瓶一本、ペニシリン瓶十本位、レモン水瓶二十本位、合計三十五個位の火焔瓶を製造したのである。実際製造行為に当つたのは午前の会議に出席していた者のうち石川、片山、山田と同日夕刻、石川方に来た岩月清、伊藤弘訓、吉田三治の合計六名であった。」(P.191)

 

 )、7月6日、日本民主青年団は、火焔瓶約20数個を製造した。

 7月5日、民青団会議が、5人出席で開かれ、隊長会議決定に基づき、次を決めた。

 「()、デモの総指揮は吉田昭雄がとり、山田泰吉が現場指揮者となること。

 ()、民青としては火焔瓶の製造を小山に一任し、約三十個を製造すること。

 

 7月6日、山田は隊長会議の際、芝野一三から、火焔瓶製造の原料供給場所である丸山真兵方を記載したレポを受け取って来たのであるが、これを小山栄三に交付し、翌六日小山はこれに基いて濃硫酸、塩素酸カリを用意した上、大会当夜民青団員が使用すべき火焔瓶の製造につとめた。

 7月7日、午前清風寮で、杉浦正康は山田に会い、前夜の会議の結果を報告したが、同所へ小山栄三が来て、火焔瓶が二十数個できたこと話し、その運搬方法を尋ねたので、相談の末、女子の団員を利用し、手提かごで運搬することに決った。」(P.197)

 

 )、7月6日〜7日、朝鮮人市祖国防衛委員会は、火焔瓶約40個を製造した。

 「七月六日午後及び七日午後の両日に亘り、名古屋市中区千早町一丁目十二番地金岡敏博方において、7人が濃硫酸、塩素酸カリ、ガソリン、空瓶等を使用して、火焔瓶約四十個を製造した。それは金泰杏の指示に基くものであった。これらの火焔瓶は、いずれも大会当夜の武装行動のため準備されたもので、鶴舞公園、東税務署及び大須附近で使用されたのは、これらの火焔瓶であった。」(P.211)

 

 )、7月6日、祖国防衛委員会西三地区は、火焔瓶20数個を製造した。

 「一方その頃、安泰俊は県祖防委員会よりの指令に基き、岡崎市南康生町五百十五番地の自宅において、他4人と共に火焔瓶二十数個を製造し、七月七日その一部を名中支部に運搬し、デモに際して使用するため準備した。」(P.213)

 

 5、手榴弾製造方針と失敗

 

 「七月二日、兵藤鉱二は金億洙と会い、大会当夜使用すべき手榴弾の材料の準備を指令した。材料として準備を命じたものは、直径五糎、長さ六糎位の鉄製パイプ、竹管及びゴムサックを各二百個、硝石十瓩、硫黄二瓩であった。

 以上の指示に従い手榴弾の製造を行った。爾来、金億洙は中川区尾頭町徳利軒及び前記名中支部において七月六日に至るまで手榴弾の製造に従事した。

 七月六日の夜に至つても材料の不備から、予期したような性能を待った手榴弾の製造に失敗したため、その製造は中止された。」(P.212)

 

(表7) 火炎ビン製造講習会と製造個数

方針

月日     製造講習会

月日     製造個数

出典頁

 

市V方針

2000個

7月5日

7月5日

7月5日

5月、6月

5月頃

Bブロック6細胞

名電報細胞

日本民主青年団

朝鮮人市祖防委

県祖防委西三地区

7月6日

7月6日

7月6日

7月6、7日

7月6日

40個

35個位

20数個

約40個

20数個

189

191

197

211

213

約155個

 

 

 5、私(宮地)の名古屋市民青専従・共産党専従体験15年間による検証

 

 〔小目次〕

   1、名古屋市中川区の松蔭高校生時代

   2、名古屋市での大学生時代と労働運動時代

   3、Bブロックでの民青地区委員長時代

   4、B・Aブロックでの共産党専従時代

   5、『検察研究特別資料』の信憑性検証の結論

   6、宮本顕治の大須事件裁判闘争方針の重大な誤り

 

 私(宮地)の体験から、『検察研究特別資料』の一側面を検証する。一側面とは、火炎ビン武装デモの計画、準備そのもののことではない。私は、この『検察資料』を見るまで、上記の実態をまるで知らなかった。それは、()私の大須事件現場地域の長期体験、(2)共産党専従時代における被告人たちとの直接間接体験、(3)私の名古屋市民青、共産党組織系列に関する15年間の体験と、上級機関方針と地域ブロック・細胞組織におけるその具体化実態の体験に基づき、『検察資料』が記述した火炎ビン武装デモの計画、準備の組織状況を(1)(2)(3)と比較し、その信憑性を検証するものである。

 

 1、名古屋市中川区の松蔭高校生時代

 

 私は、大須事件当時、名古屋市中川区にある松蔭高校1年生、15歳だった。そこに、大須事件に関わった社会科教師と図書司の2人がいた。後に民青中央委員になった図書司から薦められて、私は、『チボー家のひとびと』や『ジャン・クリストフ』『魅せられたる魂』などを夢中になって読んだ。『検察資料』を読んで、驚いたことに、別の英語教師が、共産党シンパで、中村区の自宅を火炎ビン武装デモの打合せ会議に提供していた。彼には、高校3年間、英語グラマーを教えてもらっていた。『検察資料』における彼の住所は正確である。彼が「アカハタ」読者として、自宅を共産党の会議に提供していたことも間違いない。生徒の間では、3人ともが「大須事件の赤い先生」と言われていた。3人は、人格的にも優れ、授業中に政治的発言もしていたが、大須事件については口を閉ざしていた。

 

 2、名古屋市での大学生時代と労働運動時代

 

 大学4年間、大須事件現場を通る市電で毎日通学した。大須球場−上前津−鶴舞公園ルートは、名古屋市でもっとも古本屋が集っていて、それらの古本屋めぐりを数十回やり、名古屋市中区の地理は、熟知している。その地理認識から、火炎ビン武装デモ隊が、市電軌道を越えたかどうかが、騒乱状況認否の一つのポイントになると考えている。大須事件資料・写真を見るかぎり、デモ隊は、一度も市電軌道を北側に越えず、軌道の南側を行進している。この検討は『第3部』で行なう。また、『検察資料』は、名古屋大学学生細胞が、昭和区名大桜鳴寮で火炎ビン武装デモの計画・準備会議をしたとしている。私は、それこそ、その桜鳴寮の一室に、経済学部2年間、毎日のように「赤旗」を取りにいっていた。「赤旗」ポストになっていた部屋に入っていくと、ときどき、私の友人たちが、そこで細胞会議をやっていたのに出くわした。共産党専従時代に、私は、移転した桜鳴寮の一室の細胞会議に出席して、何度も、赤旗拡大方針の指令・具体化と拡大成果追求の指導をした。その記憶シーンからも、『検察資料』の名大細胞記述内容は、事実だと判断する。

 

 1959年、大学卒業後、名古屋市中区ビル内の日産火災海上保険名古屋支店に入社した。真南へ10分も歩くと、大須球場がある。入社してまもなく、全損保労働組合分会役員・東海地方協議会役員をやり、労働運動に熱中した。1960年安保闘争では、全損保だけでなく、名古屋市の生保・金融関係のデモ隊1000人規模を組織し、広小路−栄町−上前津ルートのデモを何度も行なった。その中で、共産党に入党し、全損保内で、党員数十人、赤旗百数十部の組織に拡大した。さらに、全損保出身の愛労評幹事になり、愛知県の労働組合運動にもかかわった。

 

 3、Bブロックでの民青地区委員長時代

 

 共産党全損保細胞は、『検察資料』のB・Aブロックに所属していた。私は、細胞長として、地区活動者会議や細胞長会議において、全損保・愛労評の労働組合活動の報告とともに、党勢拡大運動の成果を積極的に発言した。その数字的拡大成果において、全損保細胞はまさに先進細胞の一つだった。日産火災3年目の終り頃、突然、地区常任委員に呼ばれて、民青名中地区委員長・専従になれとの工作を受けた。労働運動に熱中していたことと、民青に入ったこともないので、一旦は断った。全損保分会3役とともに、全損保東海地方協議会青年部3役・愛労評幹事をやっていたので、東海地協役員会は共産党が私を引き抜くことに猛反対した。そこで、共産党地区委員長が、地協役員会にわざわざ出席して、引き抜きの了解を求めた。

 

 労働運動に未練があったが、やむなく会社に辞表を出した。会社は「アカボス」の私がやめてくれるので、大喜びで、上司の誰も引きとめなかった。家では、父母から、共産党専従など思い留まるように、徹夜で説得されたが、辞表を出したからと応じなかった。父は、「これだけ話しても分からないお前のような冷血動物はすぐ出て行け」と、私を勘当した。年収は3分の1以下に激減した。

 

 1962年、名古屋市Bブロックを範囲とする民青地区同盟会議に、25歳の私は新地区委員長として、サラリーマン背広姿で登場した。共産党地区活動者会議で知っている党員もいたが、大部分は私の顔も知らなかった。「どこの馬の骨だ」「民青体験がないのに地区委員長にするのはおかしい」というような批判が出されたが、民青指導に出席していた共産党地区常任委員は、かなり出た批判意見を抑圧した。以後1年半、民青地区委員長として、職場・地域の大衆運動と学習サークルづくり運動に取り組んだ。民青拡大は、班会議の最後に確認するだけだったが、愛知県民青各地区の中では、いつもトップの拡大数・率を挙げていた。

 

 4、B・Aブロックでの共産党専従時代

 

 27歳から40歳までの13年間、共産党地区常任委員、愛知県選対部員として活動した。そこで、初めて、大須事件の被告人たちと知り合った。彼らは、共産党専従、大衆団体専従、職場・地域の細胞長をしていた。大須事件裁判は、裁判史上最長の26年間に及び、1952年から1978年までかかった。私の共産党専従時代は、1964年から1977年で、大須事件裁判に重なっていた。

 

 共産党専従になったすぐ後に、選挙区改定で、名古屋市は、全市1区から、()B・Aブロックの1区と、()Cブロックの6区に分かれた。全市1区で当選した加藤進衆議院議員の再選を勝ち取る目的で、名古屋市5地区組織を2地区に再編成した。3地区あったB・Aブロックは、名古屋中部北部地区委員会(中北地区)になった。中北地区は、愛知県党勢力の半分を占める巨大な地区党組織になった。そこで、名古屋市10行政区を抱える単一地区を5ブロックに分割した。ブロックとは、地区補助機関だが、事実上の地区機関の機能を持ち、後に、5つの地区委員会に変わった。私は、5つのブロック責任者をすべてやったが、それは地区委員会に昇格したので、私は5つの地区委員長をやったことになる。また、愛知県勤務員に変わった時点で、しばらく、名古屋大学学生党委員会の委員長も兼任した。この時代の詳細は、別ファイルに書いた。

 

    『日本共産党との裁判・第1部〜第8部』21日間の監禁査問体験から民事裁判判決まで

    『日本共産党との裁判・第2部』一面的な党勢拡大による名大学生党組織の破壊

 

 これらの民青専従・共産党専従体験から、『検察研究特別資料』を検証すると、(表5)火炎ビン武装デモ隊の組織と指令・準備系統と指令具体化状況は、きわめて正確である。共産党組織では、大須事件当時の火炎ビン武装デモ方針具体化にたいして、14年後の私の場合は、もっぱら、赤旗拡大と選挙票よみの指令・具体化・成果数字点検の日々だった。民青組織では、中警察署の警備状況ピケ・報告にたいして、私は、大衆運動と学習サークルづくりの指導だった。『検察資料』に出てくる細胞名、民青班名のほとんどを知っているし、現に大須事件裁判期間中にそれらを担当していた。

 

 ただ、恥かしいことに、名古屋市の民青・共産党専従を15年間もやりながら、2004年、大須事件を調べ出すまで、大須事件と裁判の表裏についてまったくの無知だった。2004年に、初めて、大須事件の現地調査を一人で行なった。名古屋生れの名古屋育ちなのに、しかも、大須事件裁判の期間に重なって共産党専従だったのに、なぜこんなことになっていたのか。その反省の想いを込めて、『謎とき・大須事件と裁判の表裏、第1部〜第6部』を作成する。日本共産党愛知県常任委員会が、大須事件をタブー化し、そこにある表裏の真相を隠蔽してきたことは、別ファイルで記した。

 

    『大須事件・裁判の資料と共産党関連情報収集についての協力お願い』

 

 5、『検察研究特別資料』の信憑性検証の結論

 

 私の体験は、大須事件と同一の現場地域・地理認識、および、同一範囲の民青・共産党組織系列の担当をしたことである。しかし、それは、当時の私が15歳から1977年・40歳までと、時期的に10年間以上ずれている。検証といっても、直接的体験でないことからくる事実誤認がある。それを承知で、私の判断をのべる。

 

 警察調書と検事調書は、被告人を長期の未決勾留にした上で作られた。警察署勾留中に、さまざまな脅迫・拷問があったことは、別ファイル〔資料2〕にあるように、被告人証言によって明らかである。問題は、火炎ビン武装デモ計画・準備に関する検事調書内容の信憑性である。そのテーマに関して完全黙秘を貫いた被告人も数人いる。『検察資料』も認めているように、大部分は、一定期間黙秘した後、他被告人が供述した警察調書を目の前にちらつかされて、供述を始めた。そもそも、長期にわたる独房・未決勾留それ自体が、精神的拷問である。

 

 それと、次元は異なるが、私は、1967年、大須事件第一審公判最中の30歳のとき、共産党による不当な21日間の監禁査問をされた。それこそ、それは、共産党愛知県副委員長・准中央委員・中北地区委員長箕浦一三が、共産党専従にたいして行なった精神的拷問犯罪だった。共産党愛知県常任委員会は、神谷光次県委員長・共産党中央委員をはじめ、同じ3階建て共産党事務所ビル内8畳間一室の監禁査問にたいして、全員が見て見ないふりをし、半ば賛成し、その21日間にわたる拷問犯罪の共犯者となった。警察による長期未決勾留と、共産党による21日間の監禁査問は、監禁状態における自白強要の拷問システムという面では、共通性を持っている。その類似体験を私も共有しているので、一定の推測ができる。

 

 ちなみに、第8回大会・61年綱領決定後で、公表された共産党の監禁査問という拷問犯罪期間は、私の21日間が最長である。有名な「新日和見主義分派事件」における川上徹の監禁査問は、13日間だった。不破哲三・高沢・戸塚ら3人にたいする共産党東大細胞による監禁・リンチ査問事件は、3カ月間に及んだが、その時期は六全協前だった。

 

    『日本共産党との裁判・第1部』21日間の監禁査問体験

    高橋彦博『上田耕一郎・不破哲三両氏の発言を求める』東大細胞の不破リンチ査問事件

 

 その警察・検事調書内容の信憑性を検討するには、2つのケース分類とその前提が必要である。前提とは、朝鮮人被告は不明だが、上記『検察資料』が書いた計画・準備状況に出てくる日本人被告は、ほぼ全員が共産党員だということである。共産党シンパと共産党員でない民青団員も出てくるが、それはごく一部である。

 

 第一ケース、計画・準備に関して、ありもしないウソを、警察の脅迫・拷問によって言わされ、警察調書をとられた。一旦、警察に事実無根の自白した以上、早く保釈されたいために、検事調書でも、同じ供述をした。

 

 第二ケース、他被告人が警察で供述を始めたので、やむなく黙秘をやめて、警察調書に応じた。しかし、朝鮮戦争反対、日中貿易促進などのデモ行進スローガンは正しい。日本共産党の武装闘争路線は正当であり、東京2件・大阪1件に続く第4番目として、名古屋大須・岩井通りでの火炎ビン武装デモの計画・準備をしたのも正しく、なんらやましいものではない。大須事件は、名古屋市警の先制攻撃と弾圧によるものであり、火炎ビン武装デモの計画・準備はたしかに存在したが、大須・岩井通りにおける騒乱罪でっち上げは無罪であるとして、大須事件裁判闘争を行なう。よって、火炎ビン武装デモの計画・準備については、警察・検察に歪められないように、間違った他被告供述を正し、事実をありのままに正確にした警察調書・検事調書を書かせる必要がある。その対応は、警察・検察にたいする屈服ではなく、共産党にたいする裏切りでもない。

 

 私の上記体験が時期的にずれがあるとしても、私が長期に体験した共産党員多数の資質から、計画・準備に関与した共産党員被告人の実態を判断する。

 第一ケースのように事実無根の計画・準備内容を「自白」した党員がいるとは、考えられない。もし、あったとしても、ごく一部であろう。また、この計画・準備段階において、警察スパイだったという共産党員被告人はいない。

 

 第二ケースの共産党員が圧倒的だったと、私は判断する。荒唐無稽なレベルの計画・準備内容などは書かれていない。よって、私は、上記『検察資料』で分析された火炎ビン武装デモの計画・基本方針、ブロック・細胞段階における方針の具体化、火炎ビンの製造講習会・製造本数は、基本的に真実だったと考える。彼らの大部分は、計画・準備を事実だったと認めた上で、騒乱罪でっち上げの謀略とたたかい、騒乱罪無罪を主張しようとしたのではないか。

 

 別ファイル〔資料2〕は、被告人・永田末男の第一審公判における『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』抜粋である。彼は、武装闘争路線に関する共産党中央委員会批判、とくに宮本・野坂批判を行っただけではない。彼は、『八』において、日本共産党名古屋市委員長の立場から、「やったことといえば、事実が示すとおり、せいぜい抗議のデモ行進を行い、予想される官憲の弾圧には、貧弱な火炎ビンをもって身を守るという程度のことにすぎなかった。まことにささやかな抵抗行動であった」と陳述し、騒乱罪無罪を主張した。大須事件の共産党最高指導者が、明白に、共産党による火炎ビン武装デモの計画と準備を、公判において認めたのである。『最終意見陳述八・九』全文は、別ファイルにある。

 

    〔資料2〕被告人永田末男『最終意見陳述八』火炎ビンの計画と準備の陳述個所

    被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』全文

 

 別ファイル〔資料4〕として、元被告山田順造『大須事件までの十日間の記録』(『労働運動研究No.123』、1980年)の一部を載せた。彼は、名電報細胞軍事担当()であり、名古屋市軍事委員ではないが、Bブロック労働者細胞()として、火炎ビン武装デモの計画・準備において、中心的役割を果たした一人である。彼は、その記録内容として、〔資料1〕『第一審判決』文の「計画と準備」部分を、ひらがな個所やその他を若干カットしただけで、全文を載せている。その真意は、計画・準備に関する『検察研究特別資料』内容、および、『第一審判決』内容が真実だったとする主張と考えられる。山田順造の経歴は、〔資料4〕のコメントでのべる。

 

    〔資料4〕元被告山田順造『大須事件までの十日間の記録』火炎ビン武装デモの計画と準備

 

 6、宮本顕治の大須事件裁判闘争方針の重大な誤り

 

 以上の一連の体験は、『謎とき・大須事件と裁判の表裏』「第3部・2勢力の思惑による大須・岩井通り騒乱状況の認否」の中でも、関連して分析する。もちろん、私の立場は、騒乱罪成立を警察・検察・裁判所の共謀による犯罪的なでっち上げとするものである。私の長期にわたる現場地域体験と一回の現地調査、多数の大須事件資料・現場写真から見ても、大須・岩井通りにおいて「騒乱と認定するような状況」など発生していない。仮に、そのレベルの状況が一部道路上(250m範囲)に一定時間(20〜30分)あったとしても、それを意図的に、かつ、先制的に創り出したのは、名古屋市警・名古屋地検である。よって、騒乱罪は当然無罪となる。その謀略を暴露する被告・弁護団の論証を全面的に支持する。

 

 しかし、一方で、第一、被告・弁護団内の指導部=共産党グループが、共産党による火炎ビン武装デモの計画、準備の存在を全面否認し、ほとんど黙殺するという裁判闘争方針を採ったことは重大な誤りだったと判断する。第二、それらに関する上記の検事調書内容を、すべて、長期の独房未決勾留における警察・検察の脅迫・拷問が原因だとし、強要による事実無根の自白内容と否認する方針も誤りだったと判断する。ここまで詳細な検事調書が法廷に証拠申請され、裁判長が証拠採用を決定したからには、共産党の計画・指令・具体化・火炎ビン製造・火炎ビン製造個数を、基本的に事実だったと認めた上で、警察の先制攻撃・弾圧を暴露して裁判をたたかうべきではなかったのか。

 

 メーデー事件、吹田事件では、これほどまでの具体的な事前計画・指令について、警察・検察は掴むことができなかった。それは、メーデー事件裁判、吹田事件裁判と大須事件裁判との決定的な違いの一つである。大須事件裁判において、証拠申請された検事調書は、(1)首謀者グループ47人中、13人98通、(2)被告人全員で300通余、(3)全体として512通あり、裁判所はそのほとんどを証拠採用した。メーデー事件、吹田事件において、警察・検察側は、共産党の事前計画・準備に関して、大須事件レベルほどの詳細証拠を公判に提出できなかった。よって、両事件の被告・弁護団は、騒擾状況を発生させたという現場における警察の先制攻撃・弾圧、その違法性を暴露する裁判闘争方針を重点にするだけでよかった。

 

    『検察特別資料から見たメーデー事件データ』警察・検察による計画・準備把握レベル

    脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』警察・検察による計画・準備把握レベル

 

 また、『永田末男』ファイルで「宮地コメント」をしたように、宮本・野坂が火炎ビン武装闘争実行者を見殺しにした敵前逃亡犯罪を糾弾する。この判断をするに当って、私は、次の共産党認識と被告・弁護団認識に立っている。それは、)被告・弁護団の指導部全員が共産党員だった。)被告・弁護団の裁判闘争方針は、宮本顕治の指令に基づくものであった。)その指令と異なる裁判方針の主張をした永田末男・酒井博を排除・除名した。)宮本顕治が共産党の上意下達指令システムによって、大須事件共産党グループを彼の方針に無条件服従させた。

 

 宮本顕治・野坂参三は、()「党は当時分裂していて、当時の方針は党の方針とはいえないから、現在の党には責任もないし、関係もない」と大ウソをついて、火炎ビン武装闘争実行者を見殺しにした敵前逃亡犯罪者だったというだけではない。

 

    被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』宮本・野坂批判

 

 宮本・野坂は、()検察が証拠申請した上記計画・準備の事実有無を一つ一つ争うべき刑事裁判において、その存在そのものを全面否認または黙殺するという方針によって、公判の最大争点の一つにしないという誤った裁判闘争方針を強要した張本人でもある。大須事件が刑事裁判である以上、2つの事実有無を重大争点とすべきだったのに、宮本顕治は、大須事件裁判の特異性を無視して、メーデー事件裁判・吹田事件裁判レベルの闘争方針を採ることを命令したという根本的誤りを犯した。この内容は、『第4部、検察側と共産党側との公判方針・力点の違い』においても、詳しく分析する。

 

 武装闘争期間全体で35件ある火炎ビン使用事件のなかでも、共産党軍事委員会の火炎ビン武装闘争の計画・準備が、これほど克明に判明したのは、大須事件だけである。その現実にたいして、)この計画・準備事実を全面否認し、あるいは、無視・黙殺した上で、)警察・検察の先制攻撃と弾圧の騒乱罪でっち上げ謀略を暴露することによってのみ、大須事件裁判闘争を行なえという宮本顕治の指令は、裁判方針上の重大な誤りだった。宮本命令に服従して、その誤った方針の枠内でたたかおうとした被告・弁護団指導部=共産党グループは、民主主義的中央集権制という軍事規律組織原則の下でやむをえなかった側面がある。しかし、彼らは、永田末男・酒井博の主張をもっと正面から議論すべきではなかったのか。もちろん、それは、(1)宮本顕治指令→(2)共産党愛知県常任委員会→(3)被告・弁護団指導部=裏側の共産党グループ→(4)表側の被告・弁護団という上意下達ルートによるものだった。

 

 もっとも、宮本顕治指令の文書的証拠はない。それは、党中央軍事委員岩林虎之助が出した大須・岩井通りにおける火炎ビン武装デモ決行指令が文書上でないのと同じである。当時の暴力革命政党・共産党の秘密命令は、すべて口頭、電話によるものだった。それなら、なぜ、私が、大須事件関連の全ファイルで「宮本顕治指令」と断定するのかという疑問も発生する。その根拠は、いくつかのファイルで分析した。民主主義的中央集権制(Democratic Centralism)という反民主主義的な暴力革命軍事規律において、前衛党最高権力者は、あらゆる問題を含めた最終的路線・政策・方針決定権を完全に独占するようになっていくからである。共産党最高権力者の権力独占欲は限りがなく、宮本顕治は党内権力占有度を高め続けた典型的な共産主義的人間だった。具体的な根拠事例は、他3つのファイルでも分析した。

 

    『不破哲三の宮本顕治批判』日本共産党の逆旋回と宮本指令による4連続粛清事件

    『不破哲三の第2回・宮本顕治批判』宮本秘書団分派を使った最終的政策決定権占有

    『日本共産党との裁判第3部〜第8部』私の個人的体験による宮本の党内犯罪指令

 

 ちなみに、このような宮本顕治の裁判闘争スタイルには、前例がある。それは、『治安維持法+スパイ査問事件裁判』における彼の法廷闘争スタイルである。裁判審理内容の焦点は、治安維持法問題よりも、当然ながら、スパイ査問事件=小畑達夫の死亡原因が、宮本顕治ら5人による共産党中央委員小畑へのリンチだったかどうかであった。関係者は、中央委員宮本顕治、中央委員逸見重雄、袴田里美、秋笹、木島とスパイ大泉の6人だった。当時、4人の中央委員会中、宮本・逸見2人の中央委員が、小畑・大泉2人の中央委員を特高スパイとして監禁査問をした。宮本顕治を除く5人の陳述内容には、一致点がきわめて多い。同一点もかなりある。それにたいして、宮本顕治は、小畑死因につながるような事実問題について、ほぼ全面否認を貫いた。これが、彼の裁判闘争方針の原体験となった。彼は、自分にとって都合の悪い事実関係については、全面否認し、一方で、治安維持法の犯罪性をとうとうと陳述するという公判闘争方針を採った。彼は、そのような自分の個人的で、特殊な原体験スタイルを絶対的真理にまで高め、その「普遍的な法廷闘争の真理」を大須事件裁判方針にも、機械的に強要したのではないか、と私は推測する。スパイ査問事件について、私は長大な意見書を書いて、党中央に提出した。

 

    『スパイ査問問題意見書』  『第1部2』暴行行為への宮本顕治の全面否認スタイル

    『スパイ査問事件と袴田除名事件』袴田陳述内容への宮本式全面再否認・袴田排斥犯罪

    高橋彦博『逸見重雄教授と「沈黙」』(宮地添付文)逸見教授政治的殺人事件の同時発生

    立花隆『日本共産党の研究』関係『年表』一部、当時4人の日本共産党中央委員会

 

以上  第1部2・資料編に行く  健一MENUに戻る

 (関連ファイル)

    (謎とき・大須事件と裁判の表裏)   リンクのないものは準備中

    第1部 共産党による火炎ビン武装デモの計画と準備  第1部2・資料編

    第2部 警察・検察による騒乱罪でっち上げの計画と準備  第2部2・資料編

    第3部 2勢力の思惑による大須・岩井通り騒乱状況の認否  第3部2・資料編

    第4部 騒擾罪成立の原因()=法廷内闘争の評価  第4部2・資料編

    第5部 騒擾罪成立の原因()=法廷内外体制の欠陥  第5部2・資料編

 

    被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』宮本顕治批判

    元被告酒井博『証言 名古屋大須事件』歴史の墓場から蘇る

    元被告酒井博『講演 大須事件をいまに語り継ぐ集い』質疑応答を含む

 

    (武装闘争路線)

    『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』宮本顕治の大ウソ

    伊藤晃『抵抗権と武装権の今日的意味』武装闘争方針の実態と実践レベル

    大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y

 

    (メーデー事件、吹田・枚方事件、白鳥事件)

    『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』共産党の広場突入軍事行動

    『検察特別資料から見たメーデー事件データ』

    増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」

          増山太助『検証・占領期の労働運動』より「血のメーデー」

          丸山眞男『メーデー事件発言、共産党の指導責任・結果責任』

    滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』

    脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』

    中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、「流されて蜀の国へ」を紹介

          (添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」終章「私と白鳥事件」