宮本書記長の党内犯罪・中間機関民主化運動鎮圧、粛清
1969年「愛知県指導改善問題」
(日本共産党との裁判第3部)
(宮地作成)
〔目次〕
2、県党会議第1次草案 誤り規定『家父長的個人中心指導』
3、第2次草案での宮本指示による1回目後退 『個人指導』
5、党中央の2回目後退 『指導改善』評価の大逆転
6、中央“統制”への最後抵抗と3回目後退・専従解任報復
1、「第25回県党会議決定」(第3次草案内容) 抜粋 1969年10月
2、「第11回大会・宮本書記長の中央委員会報告」抜粋 1970年7月
(関連ファイル)日本共産党との裁判 健一MENUに戻る
第1部『私の21日間監禁査問体験』 「5月問題」
第2部『「拡大月間」システムとその歪み』 愛知県「泥まみれの拡大」
第4部『「第三の男」への報復』警告処分・専従解任・点在党員組織隔離
第5部1『宮本・上田の党内犯罪「党大会上訴」無審査・無採決・30秒却下』
第6部『宮本・不破反憲法犯罪、裁判請求権行使を理由とする除名』
第7部『学者党員・長谷川正安憲法学教授の犯罪加担、反憲法「意見書」』
第7部・関連 長谷川教授「意見書」
『長谷川「意見書」批判』 水田洋、「大統領」、中野徹三、高橋彦博
第8部・完結『世界初・革命政党専従の法的地位「判例」』
(注)、宮本氏は、1970年第11回大会で「幹部会委員長」になりましたが、それまでは「書記長」でした。このファイル内容期間は〔目次6〕以外、70年以前ですので、「宮本書記長」と書きます。不破氏は、この第11回大会で、新・書記局長(40歳)に抜擢されました。「細胞」名称を、「基礎組織」用語と「支部」呼称に規約改正したのも、この大会でした。よって、このファイルでも、「細胞」を使います。
1、党中央“援助”下の指導改善・2年後再開
1、きっかけ 未使用宣伝紙“梱包のままでのゴミ処理”通報
『私の21日間の監禁査問体験』2年後、1969年10月の愛知県党会議で、党中央と県は「5月問題」の箕浦批判内容も批判活動も全面的に正しかったと認めました。県常任委員会は、私たちの箕浦批判活動を無視し、それだけでなく、半ば抑圧した事を自己批判し、私たちは全員“名誉回復”しました。この県党会議は『愛知県指導改善問題』と呼ばれる総括会議で、「指導改善」運動は、1969年5月から10月までの6カ月間にわたりました。
この改善と総括は、たしかに党中央の“援助”で始まりました。党中央介入のきっかけは、偶発的な通報によるものです。党中央は、電話や、党中央での会議だけでなく、ときどき各県に指導、点検に来ます。日本共産党愛知県委員会と名古屋中北地区委員会とは、同じ三階建共産党事務所に入っていました。よって、県委員長・党中央委員と10数人の県常任委員も、第1部でのべた“廃品業者トラックによる『赤旗』日曜版買取り宣伝紙数十梱包ごとのごみ処理”を全員が知っていました。1969年3月に中央委員会が指導、点検に来た前日にも、箕浦氏は地区事務局長に指示して、あわててその“ごみ処理”をしました。中央委員2人が帰りの新幹線に乗る間際に、愛知県委員会に事務所を置く東海北陸地方局事務局員が『もうがまんならない』として、その事態を通報したのです。地方局(後に出張所)とは、旧ビューローと同じで、広域地域連絡の中央委員会組織の一つのことで、その連絡事務所が愛知県委員会内に置かれていたのです。その事務局員は中央委員会所属でした。驚いた中央委員たちは、新幹線からすぐ降りるわけにもいかず、東京まで帰って、調査団4人を結成して、とんぼがえりで、愛知県に来たというのが、『愛知県指導改善問題』の始まりでした。
2、准中央委員批判から党中央批判へ
党中央の介入、援助 民主主義的中央集権制においては、上級機関の介入がなければ、先進的成果を上げている准中央委員が行った、この事態はさらに続いたでしょう。その面では、愛知県党全体が、党中央の介入、援助を歓迎しました。私も歓迎しました。宮本書記長は、当初、“赤旗宣伝紙梱包のままでのごみ処理”通報に驚いて、砂間幹部会員、八島中央委員、阿部准中央委員ら4人を長期に派遣して、「指導改善」を“援助”しました。
党中央批判へもエスカレート しかし、『私の21日間の監禁査問体験』で描いた県党の実態、その後の2年間でさらにエスカレートした実態が県、地区、細胞レベルでの徹底討論を通じて、暴露されるにつれて、それは必然的に、(1)箕浦個人への批判にとどまらず、(2)県常任委員会批判となり、さらには、(3)その一面的・成績主義的機関紙拡大の打撃的思想批判方式を高く評価し、煽り立てた党中央委員会批判にもなってきたのです。
拡大県委員会総会への参加、発言 当時、私は名古屋中北地区拡大常任委員会の一員でしたが、その全員が指導改善総括討論の拡大県委員会総会への参加、発言を認められていました。「拡大委員会」とは指導改善総括討論で、一時的に非役員幹部も参加させたのです。なぜなら、中北地区はこの誤りの中心地区であるだけでなく、その党勢力は一つの地区委員会だけで愛知県党の1/2を占めるという、箕浦氏の出世主義思惑による異様な県内地区構成になっていたからです。地区拡大常任委員会、拡大地区委員会総会、拡大県委員会総会で、私をふくめた3人が県常任委員会批判だけでなく、とくに徹底して中央委員会批判と愛知県党の誤りでの党中央の責任追求発言をしました。私一人だけでも、それら全会議で10数回の中央委員会批判を具体事例をあげて発言しました。3人とは、多くの県・地区役員が中央委員会批判をしたなかで、10回前後その批判発言をした人数のことです。
3、私(宮地)の党中央批判内容とそれへの拒絶反応
私の中央委員会批判発言は、10数回有りますが、次の内容です。それは、第2部でのべた、私(宮地)、および地区常任委員会の誤りの根底には、当然、民主主義的中央集権制における党中央の誤り、責任が存在し、准中央委員である以上、箕浦個人の誤りにとどまらず、党中央側にも責任があるとする立場に基づくものです。党中央側責任所在について発言した10数人は、全員が同じ観点でした。
1)、『箕浦同志の誤りには、党中央にも責任がある。赤旗拡大への一面的活動スタイルは、准中央委員として、党中央方針を忠実に実践したものであり、箕浦個人だけの逸脱ではない』『常任幹部会「拡大月間」に瞬時に応え、体制をとり、「月間」中、拡大に関する「赤旗主張」を討論させ、それを厳密に具体化、遂行したものである』。
2)、『箕浦准中央委員の拡大方式や拡大成績を党中央は高く評価していた』『とくに東海北陸地方局(ビューロー)会議は、愛知県「泥まみれの拡大」システムや成果を何度も評価し、東海北陸各県委員会に“典型”として普及していた』『愛知県党は、東海北陸各県党における最大の党であり、箕浦同志はその評価を繰り返し、自慢し、報告していた』。
3)、『袴田同志や他中央役員も北京密航組、帰国組の仲間として、あるいは、東海北陸地方局担当として、時々電話もかけてきて、拡大成果を誉め、激励をしていた』『地区常任委員会会議中にも、その電話を全員が何度も目撃したが、党建設委員会内野竹千代同志など電話の相手役員にたいして、“ぺこぺこ頭を下げて”指示、点検、激励に応答していた』『中央委員会総会などでも、愛知県の成果を発言し、「高い評価を受けた」と、報告していた』など具体的事例をあげ批判しました。
党中央の感情的拒絶反応 しかし、党中央は、それら10数人からの中央委員会批判をまったく聞き入れませんでした。私が拡大地区常任委員会で、砂間幹部会員らにたいし中央委員会批判を発言すると、彼は顔を真っ赤にして『党中央はこうやって援助に来ているんだ』と怒り、それらの批判に拒絶反応をあらわに示しました。この問題で、愛知県に派遣されてきていた幹部会員、中央役員4人は、全員が、私たち数人の度重なる党中央委員会批判に対して、感情的拒否反応を、露骨に表情に現して、その批判の受け入れを拒絶しました。この“党中央委員会批判に対する感情的拒絶反応の露骨な表情”というものを、私は初めて、面と向かって批判を言う度に、体験しました。(1)こちらが箕浦批判を述べるときは、穏やかな表情で、熱心に、耳を傾け、メモを取ります。(2)ところが一旦『党中央にも責任があるのではないか』と、上記の具体的事例を挙げて、発言すると、全員が同じ反応を示すのです。この表情、態度の激変を描写するには、かなりの字数を要します。
4、中央“援助”というカッコつきの意味
3人 中央委員会批判をした10数人の中で、もっとも鋭く、何回も発言したのは、(1)「5月問題」で箕浦批判の中心となった一人・地区常任委員K氏、(2)県委員・県選対部員U氏、と(3)私の3人でした。この時の中央委員会・県常任委員会批判者への報復として、(1)県党会議直後にK氏専従解任(大衆団体事務局への“不自然な”任務変更)、(2)その2年後にU県委員専従解任、(3)その5年後に私の専従解任が起きたのです。(1)(2)経過は、後でのべます。(3)は、次のファイルで書きます。
党中央“援助”の二面性 この「指導改善問題」は、上級機関からの直接介入・援助側面とともに、県党下部からの党民主化運動の側面を持っていました。下部からの運動側面は、5月に始まり、10月の県党会議に向け、爆発的に盛り上がりました。それは、箕浦“家父長的個人中心指導”と一面的・成績主義的機関紙拡大の打撃的思想批判方式による数年間の追求、抑圧への怒りからくるものでした。しかし、派遣されてきた党中央幹部たちの援助に感謝しつつも、他方で県党内の中央委員会批判発言にたいする彼らの拒絶反応態度を見るにつれて、私は当時の宮本書記長の真意を悟らざるをえませんでした。この『愛知県指導改善問題』最終結果からは、次のことが言えます。彼の思惑は、(1)准中央委員の集中的党勢拡大意欲は正しい、(2)やり方の行き過ぎだけ是正する、(3)誤りとその責任は愛知県委員会内に限られたもので、党中央にはなんの責任もない、(4)愛知県党は党中央による「指導改善」援助に感謝こそすれ、中央委員会批判に発展するなどとは、もってのほかである、というものでした。そこで彼は、再三にわたって党民主化運動側面爆発的高揚を鎮火させる卑劣な手を打ちました。その「宮本式高性能消火剤」数回撒布のききめで、県常任委員会の誤りの自己批判、県党による県常任委員会批判は、中途半端におわってしまったのでした。
宮本氏の卑劣な再三の鎮火手口にたいし、10数人の県常任委員全員を除く、愛知県党と3人は粘り強くたたかい、抵抗しました。3人といっても、『5月問題』と違って、今回はなんの打ち合わせもしていません。地区内、県党内での爆発的高揚の中では、そんな必要がなかったのです。二転三転の経過がかなり複雑なので、以下くわしくのべます。
2、県党会議第1次草案 誤り規定『家父長的個人中心指導』
党中央が、愛知県党の誤りにおける責任存在を何一つ認めないなかでも、地区内で、准中央委員批判と県常任委員会批判は、それまでの抑圧されてきた怒りの反動のように、爆発的に盛り上がりました。地区常任委員会、地区委員会総会、地区細胞長会議、各細胞総会で、彼の誤り解明と自分たちの誤り自己批判について、真剣な討論がなされました。
箕浦准中央委員の誤った指導実態、粗暴な態度が、討論・数々の調査文書で克明に暴露されました。地区常任委員会は、自主的に「問題別調査委員会」を作りました。それは、第2部でのべた「北守山ブロック虚偽拡大問題」「『泥まみれの拡大』経過問題」「幹部破壊問題」「財政問題」「規律違反乱用・査問ケース問題」「名古屋大学学生党委員会幹部破壊問題」などです。それらを、箕浦准中央委員と「喫茶店グループ・箕浦分派」を除いた常任委員で、分担し、「各調査書」を提出し、(1)中北地区常任委員会自身の誤りの原因と、(2)“箕浦地区委員長の誤りをどう規定するか”の討論を煮詰めました。
共通認識 地区党、県党の討論によって、明確になり、共通認識になったのは、次の事実です。この内容は、「延期・県党会議」において、第3次草案報告とは別に、神谷県委員長・中央委員が行った『特別・口頭報告』による私(宮地)のメモを、文章化したものです。その報告では、神谷氏の県委員長・中央委員としての自己批判もありましたが、以下は、そこでの箕浦県副委員長・准中央委員の誤りに関する報告部分だけ載せます。
1)、機関紙拡大の一面的追及 成果数字を長期の日報で一面的追及した。極端な批判、自己批判強要の「思想動員システム」を続けた。「2日きざみの拡大」「北守山ブロック1日600部拡大せよ」として“虚偽拡大”典型を普及した。未固定紙・架空申請を知りつつ、抱えて、配達活動をびんらんさせ、機関紙活動を破壊した。機関紙拡大のみで、大衆運動指導を放棄した。
2)、人脈形成による集団主義破壊 「喫茶店グループ」を作り、私的打ち合わせを常時行った。短期間の成果で幹部評価をした。「喫茶店グループ」を意図的に使って、他幹部を批判させた。それは常任委員会の団結を破壊した。
3)、機関権限の自己への絶対的集中 自分が、地区内のすべての事柄について独断的決定を行った。常任委員がブロック問題、地区専門部問題を独自に決めると、『自分に事前承認を得なかった』と批判し、自己批判させた。地区組織部長を事実上の“箕浦秘書”とした。地区内の問題点を県常任委員会に報告しなかった。こうして機関の上に個人を置いた。頻繁な人事・任務変更を恣意的に行い、それにより拡大成果を挙げようとした。
4)、粗暴な官僚的態度 批判でなく、どなりつけた。『拡大の遅れ』で、一人の常任委員を罵倒しつつ、足を蹴った。そのことが、『5月問題』の発端であった。それらにより、自覚的自主的活動を阻害した。常任委員個々人の自主的な思考、計画、決定を敵視した。
5)、党内民主主義の極端な抑圧 人脈による支配で、“物が言えない”雰囲気を作った。事実を報告できず、よいことしか報告できなくさせた。『「意見書」を党中央に出しても、それは県に戻ってくる』と発言して、党中央宛「意見書」提出を阻止した。
6)、打撃的批判と自己批判強制 『先進』と『遅れ』の比較指導をつねにした。それは、成績主義と不団結を生んだ。北守山ブロックの虚偽拡大を『典型』とねつ造して、その数字成果を他細胞、他ブロック、他地区に強要した。その“虚偽拡大”数字レベルの成果を挙げないと、思想的自己批判と決意表明を強制した。この「思想動員スタイル」を、准中央委員・県副委員長の権限を使って、全県に押し広げた。
7)、規律違反・査問の乱用 『5月問題』をはじめ、いくつかの細胞、党員を査問し、誤った処分をした。自発的積極的な党員の諸権利を抑圧した。『5月問題』では、地区委員長批判をした一人の常任委員を3週間も監禁査問した。
8)、幹部活動家の健康破壊 これらの指導により、幹部多数の自信を喪失させ、未結集にさせた。数十人もを自律神経失調症にさせた。
9)、家父長的個人中心指導 これらの誤りは、成績主義に基づく『家父長的個人中心指導』であった。
この「延期・県党会議」になった経過、第3次草案報告とは別に、神谷県委員長・中央委員が行った『特別・口頭報告』がなされた経過は、下記でのべます。
これらの討論・調査を通じて、誤りの性格は、私的グループを作って県・地区支配をした、異常な出世主義による『家父長的個人中心指導』である、という認識に細胞、地区、県、党中央派遣者とも到達し、「県党会議第1次草案」が決定しました。
ただ、党中央は自らの誤りや責任所在を認めることを上記態度で、一貫して拒否し続けました。
3、第2次草案での宮本指示による1回目後退 『個人指導』
1、宮本クレームと後退内容『個人指導』
その規定に宮本氏はクレームをつけました。彼の指令により、まず党中央派遣役員と県常任委員会は、(1)私たち拡大地区常任委員全員を参加させる「拡大県委員会総会方式」を解除して、県役員だけの県委員会総会に切り替えました。(2)誤り規定をただの『個人指導』に後退させ、(3)他の誤り事例もぼかした「県党会議第2次草案」を強行可決しました。これは、徳田球一式、および宮本側近グループ・私的分派式の最高指導者私的分派が中間機関・愛知県党で再現したことを隠蔽したかったのでしょう。また、誤り発生中心の、私たち中北地区常任委員を参加させれば、規定後退に反対されるからと、宮本氏はここで卑劣な手段を強行したのです。
2、後退内容にたいするたたかい
後退した草案批判 それが、中北地区拡大常任委員会に提起され、それにたいし、「喫茶店グループ」4人を除く、ほとんどの常任委員が反対しました。なかでも、私と上記「北守山ブロック虚偽拡大問題」「財政問題」調査をしたK氏が猛反対し、中央委員会・県常任委員会批判をしました。「喫茶店グループ」6人の内訳は、箕浦氏、中北地区担当県常任委員1人、地区常任委員4人でした。『愛知県指導改善問題』が始まってからは、箕浦氏は党中央派遣役員により、調査(査問)されていて、その後、地区党会議、県党会議を含め、一度も姿を現しませんでした。
『家父長的』の日本語解釈はいろいろあります。中北地区では、それを(1)箕浦准中央委員が絶対的権限をもつ『個人中心指導』と、(2)私的分派「喫茶店グループ」5人とが一体化した、反民主主義的中央集権制システムととらえていたのでした。
『個人指導』規定だけでは、分派支配実態がなくなり、箕浦個人の誤りに矮小化され、分派メンバーとその支配実態が免罪になるからです。それによって彼の誤りも大部分が免罪になるからです。党中央派遣者阿部准中央委員は、はっきりした規定後退理由を何一つ言いません。この規定問題は、宮本氏の一方的な後退指令により、「指導改善」総括上の中心問題に浮上しました。しかし、その批判は、一切受け入れられず、県党会議準備が強行されました。ただ、その反対意見にたいし、阿部准中央委員は、『神谷県委員長・中央委員が県党会議で「草案」とは別に、詳細な口頭報告をする』と約束しました。それが、“苦し紛れの、言い逃れの「真っ赤なウソ」”だったことは、「県党会議」当日に判明しました。これも含めて、私の専従体験15年間全体から、残念なことに、“宮本氏や中央役員は、下部にたいして、ウソを平気でつく体質をもっている”という認識に、到達せざるをえませんでした。
3、宮本書記長による別の後退手口 “理由なき3人召還”
規定後退とともに、宮本指令<逆転評価人事1>が強引に行われました。1979年5月「指導改善」当初から「県党会議第1次草案」完成までの党中央派遣者4人中、砂間一良幹部会員、八島勝麿中央委員ら3人が、完成草案の中央事前点検・承認に中央に帰ったまま、理由なく愛知県に来なくなってしまいました。
たった一人帰ってきた阿部准中央委員にその理由をみんなが問いただしても、『党中央の任務変更だ』という返事だけです。私と上記調査書のK氏が中心で、他常任委員も、その不自然な召還人事問題でも強烈な中央委員会批判を阿部氏にしました。批判、疑問を言うたびに、彼の表情がこわばってきます。彼ら4人は、私たちの中央委員会批判には、いつも感情的拒絶反応を見せました。しかし、党中央責任問題を除いては、箕浦准中央委員の誤り問題解明と地区・県党下部からの党民主化運動の掘り起こし援助を献身的に行いました。そして、『5月問題』の名誉回復をし、『家父長的個人中心指導』実態解明、規定の「県党会議第1次草案」作成に貢献しました。その“理由なき規定後退”手口と3人“理由なき召還”とは、一体のものです。それは、『家父長的個人中心指導』実態明記とその規定に賛成した3人への“宮本式粛清”でした。このような二重逆転を強引にやれるのは、宮本私的分派を率いる個人独裁的権限保持者宮本書記長以外にはいません。これはまさに宮本指令<逆転評価人事1>でした。
4、『規定』復活へのたたかいと第3次草案
1、私の地区党会議における「第2次草案・反対」発言
県党会議に向けた“上り(前期)”中北地区党会議での「県党会議第2次草案」討議にあたって、私は「発言通告」を提出し、発言しました。冒頭で、『草案に“反対”する立場から意見をのべます』として、(1)地区専従としての私自身の自己批判をのべ、(2)県党の誤りでの中央委員会の責任存在指摘意見とともに、(3)『家父長的』『個人中心』を削除した『個人指導』規定への後退経過を暴露し、『この規定後退がいかに数年間の地区実態に反する誤り規定か、中北地区全体がそれにいかに納得しないか』を発言しました。後退規定草案への批判発言はかなり出ました。「草案への“反対”表明発言」は、私一人でしたが、多くの党会議代議員が個別に私に発言賛成の声をかけてくれ、党会議会場も私の趣旨を支持する雰囲気でした。ただ、規約上、地区党会議では、その県党会議草案採決をしません。
2、私の県党会議における「第2次草案・保留」発言、妻の発言
1)、私の「保留」発言
1969年9月、県党会議が、後退草案のままで開催されました。党中央が約束した「神谷県委員長の特別口頭報告」はされませんでした。そこで、私は、中北地区代議員「発言通告」を提出し、今度は『草案に“保留”の立場から意見をのべます』として、発言しました。私の発言順番は、“自主的”「発言通告」117人、「発言許可67人」中、たまたま、最初から10数人目でした。
私は、(1)『家父長的個人中心指導』規定の「第1次草案」が存在したこと、(2)「第2次草案」は規定、誤り内容記述ともひどく後退したものになっていること、草案に書かれていない箕浦指導実態、(3)党中央の責任所在を、10分の制限時間をかなり超えて発言しました。最後に、(4)『神谷県委員長が「草案」とは別に、詳細な口頭報告をするとの約束を反故にして、党中央はウソをついた』と暴露しました。
地区党会議での『反対』から、県党会議での『保留』にしたのは、中北地区の実情をあまり知らない他地区代議員の気持ちを考慮して、トーンダウンしたのです。なぜなら、草案採決は、反対⇒保留⇒賛成の順序になっていて、他地区代議員がいきなり反対挙手をしにくいだろうという配慮からです。
それ以後の党会議が大変でした。『保留』発言したのは、私が最初でした。他代議員が続々と『保留』発言、質問に立ち、私の見解の支持表明を10数人がしたのです。会場は騒然となり、この後退草案では、県党の1/2を占める中北地区代議員全員がとても納得しないだろうという雰囲気になりました。ひな壇に並ぶ県常任委員全員と党中央派遣役員たちは、苦虫を噛み潰したような顔をしています。“理由なき召還”をされた党中央3人はいません。党中央は、箕浦准中央委員も意図的に欠席させました。代わりに、党中央派遣次期新役員予定者として、井田幹部会員・新県委員長、阿部泰准中央委員・新県副委員長、佐々木季男中央勤務員・新県常任委員ら3人がそこに並んでいました。
2)、妻の発言
私(宮地)の妻・K総細胞LCも、中北地区選出・県党会議代議員として、次のように発言しました。以下は、妻の「発言通告メモ」を文章化したものです。『党を建設するという名のもとに、いかに党が破壊されたかを報告します。
(1)、条件無視の一律拡大指導 私たちの細胞は90%以上が女性で、そのほとんどが子持ちです。1964年頃までは、地区拠点細胞として評価されました。ところが、4・17ストを共産党が『謀略だ』として、突然中止させ、現場が大混乱して以来、職場の党は一転して孤立を深めました。4・17以降は悪い典型としていつも地区から批判されていました。私は、連日の拡大活動で腎臓炎になり入院しました。退院したら、地区担当常任は、「家にいてできる拡大活動をやれ」との指導がきました。流産し、休んで出てきた党員に、夜中の2時、3時まで、拡大をやるかやらぬか、と決意を強要しました。拡大、拡大でノイローゼになった同志にも「敵とは拡大でたたかう」と追及しました。こういう中で、多くの党員が、自信をなくし、「党は支持するからやめさせてくれ」と不結集になっていきました。
((注)、4・17ストとは、1964年、総評、社会党系組合幹部が体制づくりし、2・1スト以来初といわれる公労協が中心となったゼネスト規模のもので、その“根拠のない『謀略』理由”直前中止指令は、戦後労働運動史上における共産党中央の最大の誤りの一つでした。それは、結果として、全国の公労協細胞のほとんどを破滅、職場での孤立状態に追いこんだ党中央の犯罪的誤りでした。)
(2)、細胞会議討論 職場の要求をたたかう方針を出すはずの総細胞LC会議が、いつも拡大の討論だけで終わりました。そのことでLCが激論になっても、担当常任は拡大だけを指導しました。職場の条件や力関係に関係なく、「たたかうためにも拡大だ。たたかったら拡大だ」と追及しました。折角出来かけた職場闘争の芽もつままれ、大衆をすべて拡大対象とのみ見るようになりました。
(3)、民主的権利抑圧 「意見書」はすべてあいまいにされました。班長から総細胞長への「意見書」、労音活動家から県委員会への「意見書」、白鳥問題活動家から地区への「意見書」など、すべて無視され、彼女らは「党を信頼できない」と不結集になりました。地区党学校へ勤務をやりくりして参加すると、「今日は講義を中止して、拡大統一行動」とされました。
(4)、K総細胞・査問事件 拡大問題でのLC意見の不一致を、細胞会議で出したら、担当常任は「派閥行為だ。党を破壊する最悪の行為だ」と追及しました。事実上の“強制と脅迫の”査問会議で、「派閥だった」と認めさせられました。地区は、私と他一人を事実上の「権利停止処分」にしました。
(5)、私たちの反省と意志統一 これらの地区指導は、党破壊でなくてなんでしょう。しかし、LCの指導も、課題から出発し、現状を無視した一律指導になっていました。自分で考え、職場に責任をもつ党風でありませんでした。党員評価の基準が、上級の会議に何回出たかであって、大衆の利益をどれだけ守ったかではなかったこと、などを自己批判しています。』
「発言許可67人」発言内容は、各地区、ブロック、細胞のそれぞれの立場、実情から、「県常任委員会と箕浦准中央委員の党破壊指導実態」を批判し、それを許した自分たちの反省を伴ったものでした。
3、県党会議“中断・延期”と第3次草案、「賛成」挙手
県党会議は、中断し、一時休憩にされ、急遽、別室で県委員会総会が開かれました。そこでは、中立派の中北地区選出県委員も、強硬に発言し、その規定では地区を説得できないと主張しました。他地区県委員、県専従・県委員U氏も反対発言をしました。そして、県党会議は、中断のまま、延期となりました。宮本氏の強引な「規定後退」手口は失敗しました。
その後の県委員会総会では、中立派県委員、U氏など批判派県委員や数人の県常任委員も、後退規定に批判を出し、「第1次草案」の『家父長的個人中心指導』規定に戻り、「喫茶店グループ」の策動を認め、誤りの分析が細かく、具体的になり、「第3次草案」ができました。後日、1969年10月、再開された延期県党会議では、党中央が前回約束を破った、神谷県委員長・中央委員が箕浦副委員長と県常任委員会の誤りの、詳細な指導実態を、上記のように、口頭報告しました。
愛知県党の誤りにおける党中央の誤りや責任所在は、あいかわらず拒絶され、愛知県常任委員会と箕浦准中央委員個人の誤りに限定され、矮小化されていました。それには不満でしたが、それ以外は私たちの要求が取り入れられたので、私は発言もせず、『賛成』の挙手をしました。
4、宮本書記長の3つの敗北
宮本氏は、(1)“理由なき3人召還”、(2)「規定後退」策謀、(3)「神谷県委員長特別口頭報告約束を無視するウソ」だけでなく、さらに(4)「喫茶店グループ」の一人「北守山ブロック虚偽拡大を遂行、宣伝した張本人の常任委員」を『県委員候補』にするとの「機関推薦リスト」を、この県党会議議事日程の最後に提出してきたのです。この無神経さと評価逆転人事には、県党会議代議員全員があきれ、かつ、怒りました。「リスト」が配られて、会場は、瞬時に、怒りと不信の雰囲気に包まれました。当然ながら、代議員は、彼に×印を打ち、彼は『過半数を超える96票の不信任』で、落選しました。宮本氏は、この策謀(4)で敗北しましたが、それは(1)に続く二度目の<逆転評価人事2>でした。
宮本書記長は、(1)を強行できただけで、(2)(3)(4)という3つの後退、ウソ、指導改善評価逆転人事の策謀で、愛知県党に敗北したのです。党中央と中間機関党会議との関係で、彼がこのような敗北、屈辱を味わわされたのは、前代未聞のことでしょう。
5、党中央の2回目後退 『指導改善』評価の大逆転
1、細胞レベルでの『指導改善総括』禁止措置
県党会議後は、その具体化をする“下り(後期)”地区党会議、細胞総会が開かれます。細胞レベルでは、この数年間の、党中央設定「拡大月間」、県・地区独自設定「月間」、連日の深夜までのブロック点検会議、そこでの打撃的思想批判拡大方式など『泥まみれの拡大「月間」』連続で、深刻な打撃を受けつづけ、大量の幹部が病気、未結集、離党になっていました。中北地区専従53人中12人が自律神経失調症になり、地区委員・細胞LCクラスで数十人が自律神経失調症になり、崩壊状態の細胞も数十出ました。赤旗減紙申請を出すと批判されるので、拡大申請だけをやり、細胞によっては、膨大な架空部数、未配達部数をかかえ、機関紙財政は破綻していました。県党会議前後にそれらが減紙申請となってどっと吐き出されました。細胞が立ち直るには、一定の期間を要するだけでなく、そのレベル実状に合った総括討論が必要でした。
ところが、党中央派遣後、愛知県新副委員長になった阿部泰准中央委員は、私の担当組織の総括を禁止したのです。その理由は『県党会議、“下り”地区党会議で総括はすんだ。細胞レベルの総括は必要ない。それより大量減紙にたいして機関紙拡大に直ちにとりくむべき』というのです。その時期、中北地区で、私は名古屋大学学生党委員会を担当していました。県党会議後、私は県勤務員に任務変更となり、学生党委員会も私の担当のままで、県直属に移行しました。細胞は、大部分が地区所属ですが、一部は県直接所属の「県直属細胞」になります。北守山ブロック調査書を提出した一人と同じく、県党会議に向けて、私は担当組織の調査をまとめ、『地区常任委員会と名大学生党委員会との関係で生じた諸問題』を表10以上を付けたB5版レポート用紙83ページにして、提出しました。この調査方針は地区拡大常任委員会で決定し、私の分担となったものです。この調査書はわかりやすいと好評でした。そのごく一部「幹部破壊」データは、第2部で書きました。
総括会議の中止指令 これらの総括は、党委員会指導部自身の強い要望で、県党会議前後から精力的に進められました。岐阜県恵那町で一泊の総括党会議を計画しました。阿部泰准中央委員は、それを聞きつけて、党委員長と担当者私を、県委員長室に呼びつけ、中止を指示しました。この討論経過はいろいろありますが、2人はその中止命令を不当として、反論し、会議を強行しました。阿部氏は最後には折れて、別の県青年学生部員を参加させることで妥協しました。泊り込み総括会議に参加した名大全学部細胞選出代議員数十人に、県青年学生部員と私から阿部氏の中止指令理由をきちんと伝えました。中止に賛成したのは一人もいませんでした。
異様な参加方式 ところが、その部員は、(旧)箕浦グループの一員で、阿部指示で一泊の総括党会議の部屋には入らず、襖の外で討論に聞き耳を立てて、その逐一を阿部氏に報告したという参加スタイルです。県勤務員2人のうち、担当者私は襖内側、阿部通報者は襖外側というなんとも異様な参加方式でした。私はこれで完全ににらまれましたが、その総括を私から煽ったことはいっさいなく、自主的総括は“破壊指導”から立ち直るための彼らの心からの要求だったのです。阿部氏は、私の「名大問題レポート」も読んでおり、その中止指令にはなんの道理もありません。この中止指令拒否後、県常任委員会は県党会議直後の状況なので、私を規約上の処分にはしませんでしたが、少し経って、名大担当を解任し、県選対部員に任務変更しました。
中央派遣新役員3人を中核とする新県常任委員会は、名古屋大学学生組織だけでなく、全県的に細胞レベル総括活動にストップをかけ、大量減紙を転じて、直ちに拡大に取り組むよう強烈な指導を再開しました。(旧)県常任委員たちは、誤り自己批判をストップ、棚上げして、上からの拡大指導方式で息をふき返しました。『いったいなんで、この名大が自主的総括をしていかん(=してはいけない)のきゃーなも』。これはふざけているわけでなく、彼らや私の怒りの名古屋弁です。こう書いていくと、こんなことが起こりうるのかという、カフカ的世界、ジョージ・オーウェル『一九八四年』的世界にだんだん入っていく錯覚に陥ります。この日本共産党世界の迷路は、まだまだこの『日本共産党との裁判第8部』まで続くのです。
2、宮本書記長の『清算主義』規定と『それとの闘争』提起
「指導改善」県党会議前後、“先進”北守山ブロック虚偽拡大からくりの結末、減紙4668部/9034部ほどでないにしても、それまで未配達など無理に維持されていたり、未固定紙、架空申請部数がどっと吐き出され、急激な減紙が続きました。また、当面は、拡大の意欲も出ず、全党のなかで愛知県拡大実績は、赤旗「党生活欄・拡大一覧表」で最下位近くを低迷しました。それは何年間にもわたる上記の一面的党活動スタイルからの結果として当然のことでした。
しかし、宮本書記長と党中央派遣の井田幹部会員・新県委員長、阿部泰准中央委員・新県副委員長、佐々木季男中央勤務員・新県常任委員ら3人はそうは見ません。2、3カ月後の幹部会会議から帰ってた井田県委員長は、全県勤務員会議を緊急召集し、『現在の県党活動には、機関紙拡大への清算主義が現れている。独自の拡大追求を軽視したり、集中的拡大を否定的にとらえる傾向である。今後は、それとの闘争を最重点課題にする』と宣言しました。その後は、全県的に『清算主義との闘争』キャンペーンが大々的に行われました。
そのレッテルは、1970年7月第11回大会で宮本書記長が定式化しました。彼は、中央委員会報告で『愛知県党組織は重要な県でありますが、党勢拡大運動などにおいての行政的な官僚的な指導の欠陥が一時期あらわれました。この欠陥が指摘され、克服されていったことは、重要な意義がありました。しかし、同時にその欠陥の克服の過程、克服の仕方が、また逆の一面性をもっておこなわれました。党が十年間の党建設のなかで、その重要性を確認している党勢拡大のとりくみをたえず独自に、また一定期間集中的にやることの意義まで、理論上無視するというような、逆の受動的な清算主義的傾向におちいりました。衆議院選挙におけるこの県の不成績も、この指導の両翼への動揺と結びついております』(「前衛」P.92)としました。
それだけでなく、規約前文第5項にも『清算主義におちいらぬよう注意』文言を挿入しました。井田県委員長は、代議員発言を行い、清算主義の側面だけをさらに具体的に強調しました。こうして、第11回大会は、(1)宮本顕治書記長・中央委員会報告、(2)岡正芳常任幹部会員・規約改正報告、(3)井田誠幹部会員・愛知県委員長代議員発言による『清算主義三重唱』披露の場ともなりました。
たしかに今はまだ拡大に取り組む気がしないという清算主義的傾向は出ました。しかし、数年間にわたって“細胞破壊指導”を継続し、「指導改善」県党会議後、細胞レベル総括をしようと思ったら、『細胞では、その必要がない』とストップをかけ、『これだけ減紙して、愛知県は全党で最低だからすぐ拡大成果をあげろ。それへの批判、不満を言う者は清算主義だ』ときめつけ、レッテルを貼る指導スタイルは、県党全体、細胞の実態からかけ離れていました。ただし、宮本報告にあるような『意義まで、理論上無視する傾向』などは、どこにも発生していません。これは、宮本式歪曲、ねつ造による愛知県党批判でした。
3、箕浦准中央委員と「喫茶店グループ」への逆転処遇
宮本氏と党中央派遣新県役員3人の狙い ただ、彼らの狙いは、拡大に立ち上がらせることだけでなく、もう一つありました。それは、このキャンペーンによって、「指導改善」問題の逆転評価をしかけ、かつ、逆転人事体制をつくることでした。彼らの策謀の証拠をいくつかのべます。
きびしい逆批判 まず、「指導改善」で箕浦、県常任委員会、党中央批判をしたメンバーには、きびしい逆批判が浴びせられました。私が、ある泊り込み県専従者会議で、拡大の停滞原因について『長期にわたる細胞破壊から立ち直るためには、一定の期間がかかる』と、細胞弁護の発言をしました。すると、阿部泰准中央委員・新県副委員長は『それは日和見主義だ』との断定的批判がすぐきました。県委員U氏にも『清算主義だ』の批判をしました。第2部でのB教員細胞、名古屋大学学生党委員会、上記のK総細胞や圧倒的多数の細胞が、『すぐ集中的拡大に立ち上がらない、取り組めない』のは、はたして『清算主義思想』で片付けるられることでしょうか。
井田幹部会員・新県委員長の裏切り 一方、(旧)箕浦分派グループは、県党会議後3人が地区常任委員から県勤務員になっていました。この『清算主義』批判キャンペーンによって、名誉挽回の時期が到来したと、ボスを箕浦から党中央派遣新県役員3人に切り替え、すりより、県委員長室に何度も個人的に“報告”に入りました。そのうちの一人を、井田幹部会員・新県委員長は『君たちの拡大指導は正しかった。しかし、もう少しの間我慢してくれ』と励ましたのです。この内容は、その一人が喜びいさんで、グループ外の他党員に話し、彼が私に伝えてくれたのです。県委員長室への出入りは、私の県選対部机がそのドアの傍にあるので、すぐわかるのです。
<逆転評価人事3> 誤りの責任をとって党中央に召還されていた箕浦准中央委員は、まもなく「党中央宣伝部長」に大抜擢されました。これは、『箕浦式拡大指導は、一部行き過ぎがあったとしても、基本的に正しかった』とする宮本式逆転評価人事でした。愛知県党は、その赤旗人事発表によって、『清算主義三重唱』と合わせて、党中央において「指導改善」問題が逆転評価されたことを知らされました。
<逆転評価人事4> 次に愛知県党内での逆転評価人事問題が発生しました。1970年7月第11回大会の『清算主義三重唱』披露後に“下り(後期)”県党会議が開かれました。なんとそこで、(旧)箕浦分派グループ県勤務員中2人が、県常任委員会推薦、県委員会総会“形式的承認”の「新県役員候補者リスト」に載り、役員選考委員会に提出されたのです。「指導改善」県党会議からまだ10カ月しか経っていません。この県党会議代議員にその噂は一挙に広まりました。ひそひそ話レベルですが、騒然、憤然の雰囲気になってきました。日本共産党における『役員選挙』を詐称した“役員任命システム”とそのからくりについては、『ゆううつなる党派』に詳述してあります。
6、中央“統制”への最後抵抗と3回目後退・専従解任報復
1、中央“統制”逆転評価への全県的抵抗
県党会議役員選考委員会会議 県党会議は、通常どおり、冒頭に10数人の「次期役員」選考委員を決定しました。役員選考委員会は、県常任委員会側メンバー数人と、11地区推薦の選考委員メンバー11人から構成されていました。K氏は、地区推薦による県党会議役員選考委員にたまたまなっていました。彼は、(1)「5月問題」箕浦批判常任委員3人の一人であり、かつ、(2)「北守山ブロック問題調査書」「財政問題調査書」を担当・提出して、虚偽拡大のからくりを具体的データで暴き、(3)「指導改善」で党中央批判を10回前後した3人の一人でした。地区からの役員選考委員11人は、「喫茶店グループ」の2人が県委員会機関推薦の「新・県役員候補者リスト」に載っていることに驚き、怒りを抱いて、会議休憩時に、各地区代議員にひそかに伝えました。ほとんどの代議員たちは、選考委員たちに絶対反対意見をひそかに表明しました。この「リスト」提出により、大部分の代議員は、宮本「新・幹部会委員長」と井田「新・県委員長」、県常任委員会の“裏切り・転向”を悟らされたのです。
長時間の大激論 私は県勤務員なので、代議員でなく、会場設営・裏方として会場にいて、その怒りの雰囲気は手に取るように分かりました。K氏をはじめ、何人かが、『箕浦私的分派メンバーを「新・県役員」にするなど許されない』と、私に伝え、私は当たり前と腹を立てました。10数人の役員選考委員会では、県常任委員会側メンバーと、ほとんどの代議員たちから絶対反対意見をひそかに受けている地区の選考委員メンバー11人とが真っ向から対立し、長時間の大激論になりました。なかでも、K氏は箕浦分派策動の直接体験者として、2人の県役員不適格根拠事例を詳細にあげました。
役員選考委員会レベルで2人削除 結果として、2人は『県役員として不適格』として、県党会議に提出する「新県役員候補者リスト」から、役員選考委員会レベルで削除されました。宮本氏と党中央派遣新県役員3人の県レベル<逆転評価人事4>策謀は失敗しました。上意下達式機関役員任命システムにおいて、「新役員候補者リスト」一部がこのような経過で役員選考委員会レベルで削除されたのは、1961年綱領決定以降の日本共産党史上で初めてのことでした。この前代未聞の、中間機関レベルにおける反宮本抵抗行為は、愛知県党に潜在する、箕浦と分派グループ批判雰囲気持続を“なめてかかった”宮本氏と中央派遣役員3人に強烈な衝撃を与えました。その削除で中心的役割を果たしたK氏は、反井田・反宮本の“憎むべき清算主義分子”になりました。彼らは、宮本式逆転評価人事を強行する上で、彼を緊急の専従排除対象者にリストアップしました。
2、K氏、U氏2人の専従解任報復
1)、K氏専従解任報復
<逆転評価・報復人事5> 宮本氏の党内人事工作の陰険さと報復心の強さは、有名で、「六全協」以来一貫しており、多くの幹部が証言しています。当時は、彼が、宮本側近グループ・宮本「秘書団」独裁体制を築きつつあった時期でした。彼が、井田幹部会員・県委員長に指令した<逆転評価人事4>が、県党会議で、しかも役員選考委員会レベルで拒否、削除されるという“前代未聞の屈辱”、4度目の敗北を味わわされて、怒り狂った宮本「新・委員長」の顔が目に浮かぶようです。4度目の“煮え湯を飲ませた”中心専従K氏の即時排除を決断したことは、容易に推察できます。彼は、その報復執行を、井田幹部会員に指令しました。
ところが、その県党会議後しばらくして、彼らにとって好都合なことに、ある共産党系大衆団体事務局に空席ができました。彼らは、百数十人もいる愛知県党専従のなかで、その大衆運動になんの関係もない地区専従の彼に白羽の矢を立て、共産党専従を解任して、そちらへの任務変更を決定し、伝えました。これは、ときどきあるケースなので、表面的には“報復解任”に見えません。
空席になれば、まず、その大衆団体内活動家を事務局専従にすべきです。また、県レベル大衆団体だったので県専従数十人の中からから派遣すべきです。K氏に決める合理的理由は何一つありませんでした。この共産党専従解任・任務変更は、まったく不自然でした。この性質は、役員選考委員会レベルで2人削除にたいする報復としか考えられません。彼は、決定に従いました。ただ、県委員U氏と県勤務員私の「中央批判・清算主義分子」2人が、まだ未排除で残っていました。彼らは、次に、1971年春、U氏を捏造した規律違反口実で、専従解任しました。
2)、県委員U氏専従解任報復
<逆転評価・報復人事6> 1971年7月に参議院選挙があり、選挙前の春に伊豆学習会館で、党中央招集の各県政策担当者2、3人ずつを対象として、党中央選挙政策学習会が開かれました。愛知県党からは、県政策委員長・県委員U氏と労働組合専従書記・県政策委員・県委員2人が参加しました。U氏は、1967年「五月問題」時期に、県委員として私たち地区の箕浦批判活動を応援し、県委員会レベルで支援活動をしました。その挫折後県委員としてただ一人査問されました。「指導改善」運動では、拡大県委員会総会で県常任委員会批判とともに、党中央批判を10回前後発言した県専従です。
2人の井田誠愛知県委員長・幹部会員批判発言 学習会の主催責任者は上田耕一郎副委員長でした。その正規の会議上での討論で、2人が、愛知県党における県政・名古屋市政政策とその指導のやり方について、井田誠愛知県委員長・幹部会員批判発言をしました。批判内容は、共産党愛知県議団・名古屋市議団から、それらの政策問題について県常任委員会に提起しても解決されず、彼らや県政策担当者2人のなかに、井田県委員長への批判、不満として蓄積されていたもので、まったく正当なものでした。
2人への査問 その場は何事もなく、2、3日後党中央から『2人の井田幹部会員批判は発言行為、発言内容とも重大な誤りであり、査問し、自己批判させよ』との電話があり、2人は瞬時に査問されました。2人は、中央招集の正規の会議における批判発言であり、内容も正しく、なんの規律違反でもないからと、自己批判書提出を拒否しました。2人の批判行為・内容を宮本氏に“密告”したのは、上田氏でした。ただし、彼の一般的報告を、宮本氏がリストアップされていた「反中央専従」の絶好の粛清口実にねつ造したのかは不明です。すると中央から折り返しの指示があり、井田幹部会員はU氏に『自己批判書を書かなければ専従解任する』と通告したのです。これは共産党専従者にたいするもっとも卑怯な最後通告的脅迫です。なぜなら解任された専従者の再就職先は皆無に近いからです。
だまし討ちの専従解任 U氏は、やむなく自己批判書を提出し、他の一人は党専従でないので、自己批判そのものも拒否し続けました。拒否した彼を規約上の処分にもできなかったことは、この批判行為がなんの規律違反でもなく、党中央批判発言専従を規約に違反して排除するための宮本・井田式粛清手口であることを示しています。U氏が自己批判書を提出すると、党中央は『Uは専従としてふさわしくないから、専従解任せよ』とだまし討ち解任を指令しました。愛知県委員会事務所内でU氏と私はすぐ近くの机にいました。彼は、5年後の私の専従解任時と同じく、風呂敷包み一つに私物をまとめて立ち去りました。彼を専従解任措置だけで、規約上の処分にしなかったことは、これが規律違反ねつ造脅迫の宮本反党行為であることを証明しています。専従解任措置と規約処分とのちがいについては、『私の21日間の監禁査問体験』文末で分析してあります。U氏は、これまでの数百人の党中央批判発言専従の“首切られ側作法”どおり泣き寝入りしました。その後、彼は再就職先もなく、しばらくして自宅で学習塾を始めました。
宮本・不破幹部会“秘密口頭指令と施行” その数日後、井田幹部会員は、数十人の県勤務員全員を緊急招集し、U氏専従解任報告とともに、『幹部会方針である』として、『党中央批判は一般党員には許されるが、専従者には一切許されない』と全員をにらみつけながら脅迫通告をしました。この通告が、幹部会会議から帰った直後になされたことは、これが宮本・不破指示により全党的な党中央批判専従粛清方針として決定されたことを示しています。この“秘密指令”文言は、私が、怒りをもって、その日の日記に記したもので、一字一句間違いありません。私は、これにたいして何もできませんでした。U氏と私とは、「五月問題」や「指導改善」運動で関係があり、前選対部員と現選対部員という関係もあり、私がその場で異議を唱えていれば、私も即座に専従解任されていたでしょう。しかし、私は現在でも、自責の念をもって、その時点で私は何らかの発言・行動をすべきではなかったかと考えるのです。私は、この1971年春のU氏専従解任経過を体験し、幹部会の党中央批判専従首切り方針を聞いて、彼らが次に狙うのは私であろうという予感を抱きました。ただ、その時が来たら、私は絶対泣き寝入りはしないと決意を固めたのです。
この「党中央批判発言専従の粛清秘密指令」は、翌1972年、『新日和見主義「分派」事件』として、600人査問、100人処分・民青専従解任という、日本共産党史上最大規模の宮本・不破党内犯罪として拡張、執行されたのです。
3、箕浦「喫茶店グループ」3人を県役員に大抜擢
<逆転評価人事7> K氏専従解任、U氏専従解任後、彼らは、次回の県党会議に再度、(旧)箕浦分派グループ2人を「新県役員候補者リスト」に載せました。地区推薦の役員選考委員リストで、それに異論を言いそうな党員は、事前チェックで排除しました。今度は、2人は県委員候補に“信任”されました。さらに、その次の県党会議では、分派グループ3人目の県勤務員も県委員候補にしました。彼らは、最初の2人を、そこで10数人からなる県常任委員に大抜擢し、宮本・井田式逆転評価人事体制は完成しました。
残るは、『第三の男』宮地だけになりました。<逆転評価・報復人事8>宮地粛清事件は、次のファイルで書きます。
7、中間機関民主化運動の到達点と限界
1、中間機関民主化運動の性格と到達点
この1969年という時期は、「プラハの春」党民主化・社会主義国家体制民主化運動が1968年に爆発的に高揚し、ワルシャワ条約機構5カ国軍戦車がそれを蹂躙した直後でした。ブレジネフは、「制限主権論」を唱え、冷戦下の社会主義世界体制で、チェコ共産党・国家の独自の改革権限・主権は制限されると主張しました。ブレジネフは、「プラハの春」とドプチェクらに『反革命』レッテルを貼り、チェコ傀儡政権に命令して、50万人の改革派党員を除名し、職場から追放しました。これらの粛清実態とその欺瞞は歴史的に明らかになりました。
宮本顕治は、「中間機関論」を唱え、愛知県党という民主主義的中央集権制規約下の中間機関が、中央統制をはみ出して独自の民主化を徹底して進めたり、中央委員会批判を決定する権限はないとしました。宮本顕治は、愛知県党の民主化運動側面に、『清算主義』レッテルを貼り、党中央派遣新役員3人に命令して、中央委員会批判と愛知県党の誤りでの党中央の責任追求発言を10回前後もした3人に、それぞれなんらかの排除口実が出るとすぐ、専従解任の報復をしました。宮本批判・党中央批判発言専従にたいする宮本氏の報復は、様々な事例で証明できますが、実に感心させられるほど執念深いものがあります。
中間機関民主化運動 都道府県党レベルでの党民主化運動は、具体的に報告されたことが一度もありません。1967年「5月問題」は、愛知県党での第1次民主化運動でした。それは、党中央援助要請を無視され、県常任委員会による抑圧のなかで、地区独自で1カ月間続きました。しかし、一人の裏切り・密告によって挫折し、私は『首謀者、危険思想の持ち主』とされ、21日間監禁査問されました。
1969年「指導改善」運動は、第2次民主化運動でした。そこには、上級機関の介入・援助側面と地区・細胞という下級組織からの党民主化運動という両側面がありました。しかし、ある時点から党中央統制を乗り越え、さらに党中央批判にまで収斂しそうな気配を現わした民主化運動側面は、宮本氏の再三にわたる、卑劣な手口で中途半端におわり、挫折しました。この県レベルの党民主化運動側面とその挫折、宮本式鎮火・粛清方式を分析することは、歴史的意味があると、私は思っています。
愛知県党・民主化運動の性格と到達点 これは、綱領路線、党勢拡大方針そのものへの批判ではありませんでした。また、民主主義的中央集権制への本質的批判でもありません。一面的拡大批判、様々な党破壊への抗議、最高指導者私的分派支配への反対、民主的党運営を求める中間機関レベルでの爆発的高揚をもった民主化運動でした。そして、閉鎖的、反民主主義的な組織原則と運営実態において、かつ、宮本側近グループ・私的分派支配体制において、その民主化要求と運動の方向は、必然的に、党中央批判に向かわざるをえません。そして、「プラハの春」党員50万人粛清と同じく、宮本・不破体制下では、運動全体とその党中央批判認識に到達した専従は、鎮圧・粛清されざるをえなかったのでしょう。
2、『規定』明記をめぐる二転三転攻防劇の真因
宮本体質と手口 こうして、全経過において、党中央はなんの自己批判もしませんでした。中央役員ではあるが、箕浦という個人だけが悪いとし、彼を成績主義的な、一面的赤旗拡大に突っ走らせた党中央の責任を認めませんでした。また、数十人もの“機関紙拡大の一面的、成績主義的追及を主因とする自律神経失調症患者”大量発生という幹部破壊を引き起こした党中央の誤りをまったく認めませんでした。党中央は、誤りの原因を、愛知県党と箕浦一人だけに押し込め、矮小化したのです。それだけでなく、愛知県党・箕浦問題に『清算主義』発生という逆転評価を下し、<逆転評価人事1>から<逆転評価人事7>の二重逆転評価をしました。これらの全経過ほど、宮本書記長の党民主化運動への強烈な嫌悪感、弾圧・粛清体質を浮き彫りにするケースはないでしょう。この宮本体質と手口は、1972年、民青新日和見主義分派問題の宮本式ねつ造と無実の百数十人粛清事件にもストレートに再現されました。
県常任委員会 彼らも、「指導改善」討論過程で、箕浦准中央委員とともに、党中央、各地区、県委員たちから集中批判を浴び、自ら一定の自己批判をしました。しかし、以上の過程で『改善はすんだ。よって清算主義と闘争し、赤旗拡大することこそ最重要』と、宮本氏ら4人に煽られて、誤りの自己批判内容を棚上げし、またたくまに従来の指導作風に戻りました。以前と異なるのは、箕浦県副委員長が党中央召還後、「党中央宣伝部長」に大抜擢され、神谷県委員長が県副委員長になり、それらの椅子に党中央派遣新県役員3人が座ったということだけです。そして新県常任委員として、(旧)箕浦分派グループ3人を加えたことです。
『家父長的個人中心指導』規定になる経過 1967年『5月問題』での箕浦批判活動当初は、第1部(添付資料)に載せたように、きわめて具体的な4項目批判内容で始まりました。『家父長的個人中心指導』という性格規定づけは、1969年『愛知県指導改善問題』数カ月間の全地区的批判活動が爆発的に高揚する中で、地区全体の意見集約として、それが箕浦・「喫茶店グループ」体制をもっとも的確に表す用語として、次第に形成され、合意されてきたものです。
それは、徳田氏のやり方、体制を念頭に置いたものではありません。箕浦分派批判の中心になった常任委員、地区委員、細胞長は、一部古参党員を除いて、50年分裂時代を経験していません。ほとんどが、60年安保闘争前後・入党世代でした。
この規定は、第1部、第2部上記の指導内実に照らして、名古屋中北地区委員会という前衛党中間機関において、『そこの最高指導者が、自ら積極的に結成する私的分派・グループを伴う個人独裁的指導体制』という内容で、限定的使用したものです。また、准中央委員批判党員たちは、その日本語を党中央への批判とか、宮本側近グループ体制批判の意味を含むものとして考えたのではなく、あくまで箕浦批判に限定した用語として提起しました。県党会議第1次草案での明記、第3次草案での規定復活において、中北地区党内において、その日本語と意味内容について何の異論もでないほど一致していました。
宮本書記長の異様な“拒絶反応”の真因 ところが、この日本語にたいして、宮本書記長は、強引な規定後退、鎮圧策動をするという対応に出ました。この規定明記をめぐる二転三転の攻防劇と、逆転評価、第11回大会での『規定』無視報告という結末は、上記でのべました。この不可思議な攻防劇発生と粛清劇結末の真因は、この規定が、実は、宮本側近グループ・私的分派体制=“最高指導者宮本顕治による「宮本秘書団」私的分派を伴う個人独裁指導体制”にたいする本質的根源的批判につながる性質を持っていたからと言えます。
准中央委員批判での規定が、そのままストレートに宮本私的分派体制疑惑、批判に連結し、エスカレートすることを、宮本顕治、宮本秘書出身側近グループ数人の常任幹部会員が怖れたからです。愛知県党の10数人および10回前後発言3人が、名指しの宮本批判でなくとも、准中央委員『家父長的個人中心指導』体制形成にたいする党中央責任所在批判を表明していました。そこから、後顧の憂いを断つためには、念には念を入れて、その連結思考をする危険性を孕む、3人の党中央批判専従の“始末”指示をしたのでした。
3人目の“粛清てんまつ”は、次の第4部で書きます。
1、「第25回県党会議決定」(第3次草案内容) 抜粋 1969年10月
2、「第11回大会・宮本書記長の中央委員会報告」抜粋 1970年7月
1、「第25回県党会議決定」(第3次草案)抜粋 1969年10月
以下は、決定された「第3次草案」内容です。その時期認めたのに、直後から棚上げされた県常任委員会の誤りの一部だけを抜粋・引用します。「第25回県党会議」文書に記されていても、すぐに“歴史的死文”となったものです。この棚上げされ、かつ、復活した県常任委員会の誤りが、次の私への報復査問開始と査問内容にそのままつながっていきます。
『県常任委員会は、とくに「5月問題」に集中的にあらわれたように、県常任委員会内の問題を提起して、県委員会として解決する態度を一貫してとらず、また県委員会総会にしばしば個々の県委員から提起された県党の指導と活動の弱点についても、県常任委員会全体の問題として一致してうけとめず、自らの指導の問題としてふかく検討することをせず、それらの弱点を個々の党組織、個々の幹部の問題として解消してきた』(P.63)。
『さらに県常任委員会のなかには、県委員会の集団指導の中核としての自覚が弱く、常任委員会の集団責任を個々の常任委員の個人責任に解消する傾向がつよく、県党の一部にあらわれた党組織と活動の停滞、後退、困難を、県常任委員会全体の責任として打開する姿勢に欠けていた。このため、とくに県党最大の地区党組織にたいする県委員会の指導を個人指導に解消することによって、県委員会の指導に重大な弱点とあやまりをつくりだしたのである』(P.63)。
『県委員会と常任委員会の運営において集団主義がそこなわれ、担当する任務には責任を負うが、県委員会、常任委員会の集団としての指導には責任をおわない、またそれによって事実上は個人責任も果さない集団指導と個人責任をきり離す弱点、欠陥があったのである。そしてこのなかからあやまった個人指導が生まれ、それが県党の最大の地区である中北地区党に対する指導に家父長的個人中心指導として極端にあらわれた。また、民主集中制にもとづく党内民主主義が著しく抑圧された』(P.65)。
『規約の精神にもとづく民主集中制と集団指導の原則が無視され、家父長的個人中心指導のもとで党内民主主義が抑圧され、相互批判と自己批判にもとづく集団討議がなされず、反対に打撃的批判がおこなわれ、批判的意見をもつものが官僚主義的に圧迫され、不当に排除された。そしてこれは、規約第59条の乱用など、規約にそむくところまで発展した』(P.66)。
2、「第11回大会・宮本書記長中央委員会報告」抜粋 1970年7月
以下は、『前衛No.312、8月号、第11回大会特集』(P.92、93)から愛知、熊本問題部分の抜粋です。太字は私(宮地)がつけたものです。
『若干の県でおこつた指導上の欠陥について、教訓をくみとらなければなりません。
愛知県党組織は重要な県でありますが、党勢拡大運動などにおいての行政的な官僚的な指導の欠陥が一時期あらわれました。この欠陥が指摘され、克服されていったことは、重要な意義がありました。しかし、、同時にその欠陥の克服の過程、克服の仕方が、また逆の一面性をもっておこなわれました。党が十年間の党建設のなかで、その重要性を確認している党勢拡大のとりくみをたえず独自に、また一定期闘集中的にやることの意義まで、理論上無視するというよう々、逆の受動的な清算主義的傾向におちいりました。衆議院選挙におけるこの県の不成績も、この指導の両翼への動揺と結びついております。
また、最近、中央委員会は、熊本県党組織におこった処分問題や機関紙活動をはじめとする党機関の指導を点検した結果、事実にもとづかない不当な処分がおこなわれたこと、およびその基礎としての官僚主義的な指導の傾向を明らかにしてその克服をよびかけました。熊本県党組織は、第七回党大会当時からみれば、党員と「赤旗」本紙約十倍、日曜版約六十三倍などの大きな発展水準に達しており、最近停滞傾向にあるとはいえ、こうした前進をかちとったことについては、県委員会の指導上の積極的な役割をみとめなければなりません。しかしながら、この数年来、末固定紙の無理な保有をつづけさせるなど、県委員会の指導傾向が極端に一面化して、こうした一面的な指導への不満を契機として離党した元党員を反党分子として大々的に非難したり、すでに機関紙読者の拡大目標を達成した細胞にたいしても、機関紙拡大をあくまでも重点とするようもとめ、それに批判的意見をいったということなどを契機として、いくつかの理由をあげて、ある同志を処分するといったことがおこりました。
これらの処分理由は、点検の結果、いずれも根拠がないことが明白になりました。また、事実上の買取りをもとめてかえって基礎組織の積極性をよわめる一面的指導、大衆団体の自主性を十分尊重しない欠陥、財政問題の重大化、学習・教育活動の軽視、幹部政策における適切な配慮の不足、集団指導の不十分さなども明らかになりました。これらの問題については、最近書記局員数人をふくむ有力な調査団が相当長期にわたって熊本県に滞在し、問題の全面的点検をおこない、統制委員会とともにその処理にあたりました。』
「宮本報告」内容は、愛知県党と熊本県党の誤りについてのべています。
熊本県党の誤りについては、きわめて具体的に触れています。その赤太字項目は、愛知県党の誤りと、すべてまったく同一内容です。
一方、愛知県党にたいして、県党会議規定『家父長的個人中心指導』の誤りを完全に無視し、熊本県党と同じ具体的誤りに、一言も触れず、『行政的な官僚的な指導の欠陥』と抽象的にごまかしました。それだけでなく、むしろ『逆の受動的な清算主義的傾向』発生を強調した報告にしています。これは、その規定認識に到達した愛知県党全体への“裏切り、背任”です。
このきわだった対比の真因は、上記で分析しました。ここにも宮本書記長の逆転評価と『家父長的個人中心指導』規定にたいする拒絶姿勢、嫌悪感が表れています。同時に、この実態からは、愛知県党と熊本県党だけでなく、47都道府県党にも類似の誤りが発生していたと推測されます。ただ、“水平的横断的党内交流禁止”の反民主主義的な民主主義的中央集権制においては、隠蔽、歪曲、一部報告の手口は、宮本・不破氏の意のままになります。
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(関連ファイル)日本共産党との裁判
第1部『私の21日間監禁査問体験』 「5月問題」
第2部『「拡大月間」システムとその歪み』 愛知県「泥まみれの拡大」
第4部『「第三の男」への報復』警告処分・専従解任・点在党員組織隔離
第5部1『宮本・上田の党内犯罪「党大会上訴」無審査・無採決・30秒却下』
第6部『宮本・不破反憲法犯罪、裁判請求権行使を理由とする除名』
第7部『学者党員・長谷川正安憲法学教授の犯罪加担、反憲法「意見書」』
第7部・関連 長谷川教授「意見書」
『長谷川「意見書」批判』 水田洋、「大統領」、中野徹三、高橋彦博
第8部・完結『世界初・革命政党専従の法的地位「判例」』