学者党員・長谷川正安憲法学教授の

犯罪加担、反憲法「意見書」

 

1977年末〜79年民事裁判・3重の扉

(日本共産党との裁判第7部)

 

(宮地作成)

〔目次〕

   1、仮処分申請第1回審尋

   2、仮処分申請、本訴訟とその情景

   3、民事裁判・本題に入る前の3重の扉と開閉のたたかい

     第1の扉、民事訴訟法 当事者適性の存否

     第2の扉、憲法 《司法審査権の存否》

     第3の扉、民法 《適用主張する契約条項の適否》

     第4・本題、民法 《契約解除正当事由の存否》

   4、レーニン・スターリン粛清史との同質性

 

(関連ファイル)日本共産党との裁判          健一MENUに戻る

   第1部『私の21日間の監禁査問体験』 「5月問題」

   第2部『「拡大月間」システムとその歪み』 「泥まみれの拡大」

   第3部『宮本書記長の党内犯罪、中間機関民主化運動鎮圧・粛清』

   第4部『「第三の男」への報復』 警告処分・専従解任・点在党員組織隔離

   第5部1『宮本・上田の党内犯罪、「党大会上訴」無審査・無採決・30秒却下』

   第5部2『上田耕一郎副委員長の多重人格性』

   第6部『宮本・不破反憲法犯罪・裁判請求権行使を理由とする除名』

   第7部・関連 長谷川教授「意見書」

      『長谷川「意見書」批判』 水田洋、「大統領」、中野徹三、高橋彦博

   第8部・完結世界初革命政党専従の法的地位「判例」

 1、仮処分申請第1回審尋

 このファイルは、私の民事裁判内容の概説です。以下は、難しい法律用語が多数出るので、概説では分かりにくいと思いますが、お許し下さい。仮処分申請・本訴訟のまとめ、仮処分決定内容=世界初の《判例》については、次の第8部で書きます。ここでは、民事裁判・本題に入る前の“3重の扉”問題に限定します。《審尋(しんじん)とは、民事訴訟における《審理》と同じ意味ですが、仮処分の審理形式を《審尋》と呼びます。

 第3回反撃 私は、査問開始後1年10カ月間、「意見書(1)」提出後では1年8カ月間の党内闘争を経て、30秒殺人とその後も“格子なき党内牢獄”期限なし収監など“四重殺”に直面していました。専従解任不当の民事裁判提訴という“党外での闘争”、彼らの言い方によれば『国際共産主義運動史上一度もない、前代未聞』のたたかいに転じました。この行為は、(1)「意見書」提出、(2)「党大会上訴書」提出に次ぐ、第3回反撃になりますが、市民的権利侵害急迫にたいする正当防衛反撃です。結社内部市民的権利侵害事件への憲法・裁判請求権行使ですから、その行為が規律違反にならないのは当然のことです。

 専従使い捨ての日常的な報復解任ケース 私への“四重殺”について、彼らは、たんなる“専従の日常的な報復解任ケース”と見て、私のリアクション有無に何の心配もせず、私を“なめてかかって”いました。なぜなら、党中央批判発言者の専従解任などは、宮本、袴田、不破氏らがそれまで秘密裏に数百人規模で粛清執行していましたし、著名な作家、中央幹部を除けば、ほぼ100%が泣き寝入りしたという粛清実績を積んでいたからです。1972年新日和見主義「宮本偽造分派・対民青クーデター」事件でも、被除名者1人を含め、被査問者600人・被処分者100人の全員が、「党大会上訴」をしないで、泣き寝入りしていました。

 奇想天外な一手 ところが、私は、1971年U氏専従解任の非道な手口を間近に見聞きして、1969年愛知県「指導改善」第2次民主化運動で何度も党中央批判、党中央責任追求発言した3人中、未排除の私が次には狙われるであろうとの予感とともに、私のケースではどういう形になろうとも、U氏のような泣き寝入りはしないと決意を固めていたのです。党中央批判発言専従者への“四重殺”で“そこまでやっちゃーおしまいよ”という所まで追い詰められて、私が、全世界の前衛党員の誰も思いつかなかったような、専従解任不当の民事裁判提訴という“奇想天外な一手”を発想するとは、彼ら『汚れた手』5人もさすがにシミュレーションできていませんでした。5人とは、宮本・不破・戎谷・上田・井田氏ら、「宮地四重殺」党内犯罪共謀者のことです。

 第1回審尋冒頭 1977年12月20日、民事裁判仮処分申請の第1回審尋冒頭で、資本主義国・民事第一部裁判長を前にして、彼らが『共産党員が共産党中央を提訴するなど、国際共産主義運動史上一度もない! 前代未聞のこと! すぐ却下せよ!』と、『門前払い』を、何度も、大声で叫んで、怒り狂ったのもうなづけることです。私が、他のファイルでも、『前代未聞』という日本語をときどき使っているのは、彼らが、ここで、その言葉を、繰り返し叫んだので、これを『汚れた手』5人の反党的言動に、そっくり、お返しできると思ったからです。資本主義国・裁判長も、『国際共産主義運動史上一度もないから却下せよ!』と怒鳴られても、“なんのことか”と思ったことでしょう。

 彼らが激怒するように、「前衛党員が、前衛党内で発生した市民的権利侵害事件で、前衛党中央委員会を民事裁判に訴える」などは、1917年ロシア革命以来世界で一度もなかったことでした。そんな人権意識、市民権思想を持った前衛党員は、世界中でそれまで一人も誕生していなかったということです。もっとも私の側には、そんな認識はまるでなく、このような卑劣な報復に“怒り心頭に達し”、泣き寝入りの道を拒否しただけで、彼らの大声によって、『なるほど世界で初めての反逆行為か』と分かったのです。

 2、仮処分審尋、本訴訟とその情景

 私の民事裁判・3つのレベル 一つは、専従解任不当の《仮処分申請》です。これは、名古屋地裁民事1部の裁判長室で、審尋形式で行われました。場所は、法廷ではありませんでした。裁判長室にいるのは、弁護士なしの原告宮地1人と、被告日本共産党側弁護士2人、県常任委員2人の計4人、そして裁判長、裁判所事務・速記官です。仮処分では、《申請人・宮地》と《被申請人・日本共産党》と言いますが、私は本訴訟もやっていて、そちらは《原告》と《被告》となります。区別して使用すると、かえってまぎらわしいので、仮処分段階も本訴訟の用語に統一します。

 この審尋は9回行われ、1977年12月20日から1978年8月1日までの8カ月間の審尋には、延べ9時間がかけられました。共産党における、私の「意見書」「上訴書」等22通提出後、1年10カ月間での私との直接審議が0時間であったことと対照的です。この延べ9時間0時間をどう考えたらいいのでしょう。そして、世界で初めての、資本主義国共産党専従者の憲法上・民法上の地位を特定する《仮処分決定》が出されました。本訴での《判決》のことを、仮処分申請では《決定》といい、いずれも《判例》になります。

 下記にのべる民事訴訟〔3重の扉〕のうち、民事訴訟法の第1扉と憲法の第2扉では、共産党や長谷川正安教授の主張は全面的に退けられ、私の主張が勝ちました。しかし、民法の第3扉では、弁護士なしの哀しさで、民法契約条項適用問題で、裁判長側の法律解釈に私が敗れました。〔3重の扉〕のうち、2勝1敗ですが、仮処分申請そのものでは、民法の第3扉により《却下決定》となりました。共産党側は、3扉とも負けて、全敗でした。3敗目という意味は、下記第3扉でのべます。ただし、宮本・不破氏は、敗北・誤りを絶対に認めないことで有名な指導者です。第8部で書きますが、彼らは、反党分子・宮地批判キャンペーンの一つとして、「赤旗評論特集版」で、『民事裁判における宮地全敗、共産党全勝』の記事を全党に公表しました。

 二つは、名古屋高等裁判所への《抗告》です。仮処分申請却下決定への不服として、民法の第3扉・民法契約条項適用問題で、名古屋高裁へ仮処分決定への抗告をし、これも却下されました。

 三つ目は、専従解任不当の《本訴訟》です。通常は、ただ《民事訴訟》といいます。しかし、私は、仮処分申請と訴訟の両方をしましたので、仮処分と区別するため、このファイルでは、《訴訟》と言います。仮処分申請段階では、公表しませんでした。しかし、本訴段階では、友人知人にも裁判資料を送り、マスコミにも名古屋地裁司法記者クラブにこちらから記者会見を申入れて公表しました。本訴は、1979年1月12日、名古屋地裁第24号法廷で、第1回口頭弁論として、本格的に始まりました。ただ仮処分申請と同じく、そこにいるのは、大きな法廷にもかかわらず、弁護士なしの原告宮地1人と、被告日本共産党側弁護士3人、県常任委員・反党分子対策部長1人の計4人、そして裁判官3人、裁判所速記官でした。友人知人で応援の傍聴に行くと言ってくれた人もいましたが、そんなことをしたら、即日その人が査問されてしまうので、丁重に断りました。よって、傍聴0人でした。本訴での公表以来、妻HP『道連れ…石堂清倫氏のこと』にあるように、片山さとし元東京都委員と石堂氏が、私たち夫婦のたたかいを手紙やカンパで最初から一貫して支援してくれました。2人の何通もの激励の手紙のなかで、片山氏は『私は、田口氏の論争のような理論的空中戦も必要だし、あなたのように白刃を揮って単騎敵陣に乗り込む地上戦闘も必要だと思います』と励ましてくれました。

 きもをつぶす友人たち ただ、日本共産党中央との党内闘争だけでなく、民事裁判で争うと聞くと、私の友人知人たちのほとんどはきもをつぶし、当初は、そのたたかい方に賛成しませんでした。私のHP『日本共産党との裁判、第1部』を見て、党内でのたたかいは支持するが、資本主義国家権力暴力装置の一つである裁判システムを使うのは許されないというメールもいただきました。党内でのたたかい方がまだあるのではないかとする疑問も出されました。しかし、私が〔四重殺〕の内容を話すと、その状態での党内でのたたかい継続可能性有無についての疑問はなくなり、納得します。いろいろ話し合ってみると、民事裁判についての誤解がかなりあります。

 3種類の訴訟 まず、裁判を受ける権利は、憲法上の基本的人権の一つです。憲法第32条は『何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪われない』としています。裁判には、(1)刑事訴訟、(2)行政訴訟、(3)民事訴訟の3種類があります。

 (1)刑事訴訟は、国家権力の検察側が刑法上の犯罪被疑者を「告訴」するものです。宮本、袴田氏らの裁判は、特高・検察側が治安維持法被疑者と小畑殺人罪・刑法被疑者の2つの法律により「告訴」したものです。これは国家権力が一私人を告訴する関係です。

 (2)行政訴訟には、様々な形がありますが、多くは、一私人または私的結社が原告となり、国家、自治体の被告を相手取って訴えるものです。

 (3)民事訴訟は、私人の訴えに基づき、私人間関係を扱うものです。私の裁判では、一私人の宮地が原告となり、憲法上の一私的結社である日本共産党を被告として訴えたものです。私人間における市民的権利侵害関係の有無と侵害回復を求めて、民事裁判を提訴するのは、憲法上の当然の権利です。これら3種類の裁判において、私の民事訴訟を刑事訴訟と混同して、「国家権力暴力装置を利用する」などとても支持できないという友人知人がほとんどでした。そこで、日本共産党側が原告となって、「サンケイ民事訴訟」を起し、また「袴田住居追出し民事訴訟」を積極的に行っていると言うと、私の裁判闘争への批判内容も氷解してしまいます。

 3、民事裁判・本題に入る前の3重の扉と開閉のたたかい

 

 〔小目次〕

   第1の扉、民事訴訟法 当事者適性の存否

   第2の扉、憲法 《司法審査権の存否》

   第3の扉、民法 《適用主張する契約条項の適否》

   第4・本題、民法 《契約解除正当事由の存否》

 共産党による〔3重の扉〕閉鎖作戦 私の訴えは、市民的権利としての40歳10万円余り生活費支給専従地位の解任不当が本題で、その《正当事由の存否》を被告の私的結社・日本共産党と争うものです。《正当事由の存否》とは、専従解任に正当な理由があるかどうかという問題です。それがなければ専従解任は不当となり、市民的権利侵害で無効となります。通常の民事訴訟仮処分申請は、いきなり本題の審尋に入ります。しかし、私のケースには、本題審尋に入る前に、宮本・不破氏と学者党員・長谷川正安憲法学教授が閉鎖した〔3重の扉〕があり、それぞれ正しく開けないと、本題に到達しないという複雑なものでした。言うなれば、スフィンクスが問いかけた〔3つのナゾナゾ〕に正解しなければ、そこを通り抜けて、〔本題のナゾナゾ〕に取り組むことができない関門でした。私は、即席の猛勉強をしたとはいえ、裁判、法律、憲法にはまったくの素人でした。

 彼らは、宮地裁判の本題審理に入らせないように、〔3重の扉〕をを閉めるか、認否を拒否してきました。よって、本題審尋に入る前に、その開閉が、最大問題なるという“最難関の入口通過ルート”仮処分のたたかいになったのです。

 〔第1の扉〕、民事訴訟法 《当事者適性の存否》

 これは、被告側が閉めてきました。彼らの主張は以下です。『宮地には、裁判を請求する当事者としての適性がそもそもない。なぜなら、専従解任不当を訴えているが、被告は20日前の1977年12月1日午前6時半までの間に、原告宮地を除名している。専従解任が正当なのか不当なのかは、宮地が党員として存在していることが前提だ。除名で党員でなくなっている以上、その前提も消えており、当事者としての適格性に欠けている。したがって、宮地には《当事者適性》に欠け、この訴訟には《訴えの利益》がないので、直ちに門前払い却下すべきである』。これは、民事訴訟法上の入口論争テクニックです。

 私も、第14回大会での〔四重殺〕目を経験して、一夜漬けながら民事訴訟法を連日連夜必死で勉強してきました。法律書の中味は、ちょっとやそっとでは、私の素人頭に入りません。でも、どの本にも、民事訴訟手続きの入口論として、上記用語や《その存否》が書いてありました。おかげで、11月30日午後10時から12月1日午前6時半までの間の、強引な、規約違反手続き除名のやり方を見て、彼らの〔第1の扉〕閉鎖の意図を事前に察知しました。そこで、第2の訴状として「除名無効仮処分申請書」を名古屋地裁に追加提出しました。私が主張した除名無効理由は次の内容です。

 『共産党という憲法上の私的結社において、《正当事由》のない専従解任という市民的権利侵害行為が発生した。結社内で1年10カ月間たたかったが、解決されないので、憲法の《裁判請求権》を行使した。そもそも、結社内における、その性質の侵害にたいして、民事訴訟を起こすこと自体、なんら結社規約に違反するものではない。仮に、党内で発生したという点での「党内問題」側面があるから、提訴が結社規約に違反する面があったとしても、結社内の《急迫した》市民的権利侵害への《正当防衛反撃》となるので、結社規約違反性はなくなる。民法上でも、刑法と同じく《正当防衛反撃》は認められる。即ち、《違法性阻却事由》となるので、私への除名行為自体が無効である。したがって、原告には《当事者適性》があり、この訴訟には《訴えの利益》が存在する』。

 私の反撃によって、彼らの〔第1の扉〕閉鎖作戦は失敗しました。もし、私が、第2の訴状を即座に追加提出し、除名無効を争っていなければ、彼らの卑劣な思惑通り、私の訴えは〔第1の扉〕で門前払いになっていたでしょう。彼らは、それに懲りず、次の憲法の扉も閉めてきました。その閉鎖作戦に、学者党員・長谷川正安憲法学教授が登場してきます。

 〔第2の扉〕、憲法 《司法審査権の存否》

 〔小目次〕

   1、学者党員・長谷川正安憲法学教授への「特殊任務」指令

   2、長谷川「意見書」にたいする私の「反論趣旨」

   3、長谷川教授の憲法理論、4つの構造

 )学者党員・長谷川正安憲法学教授への「特殊任務」指令

 これも、被告側が閉めてきました。彼らは、9回・9時間の審訊の最初から最後まで、この扉閉鎖を最重点において《答弁》してきました。彼らの主張は以下です。『政党には、憲法で保証された「結社の自由権」があり、結社内部の運営は、結社が自主的に決める権利がある。これは《政党の自律権》である。専従を解任することは、政党内での任務変更にすぎない。その解任が正当かどうかについて、裁判所という司法機関が審査するという権利は存在しない。政党の内部問題には、憲法上での《司法審査権》がないので、宮地の訴えの審訊に入らず、今すぐ門前払い却下せよ』。これは憲法レベルの入口論争のハイテクニックです。

 「特殊任務」指令 宮本・不破氏は、「特殊任務」を発令しました。『長谷川正安同志は、名古屋大学法学部憲法学教授の肩書きを利用し、“宮地仮処分申請は門前払いすべき”という裁判所宛党側「意見書」を書く「特殊任務」を遂行せよ』。

 長谷川正安同志 これについては説明が要ります。長谷川教授は、憲法学の最高権威の一人であるとともに、事実上の公然党員です。それは、この年1978年11月から始まった「田口・不破論争」における田口富久治名古屋大学法学部政治学教授を、その論争を報じるマスコミが「学者党員・田口教授」と公然党員扱いしたのと同じことです。同じ名古屋大学法学部教授として、党中央との関係において、長谷川同志と田口同志の対応は、大きく異なりました。田口同志の対応は、下記で触れます。

 長谷川「意見書」 次に、私と長谷川同志との関係に触れます。学者党員・長谷川同志は、1978年7月5日、宮地仮処分申請の第8回審訊で、『名古屋大学法学部教授』の肩書を使って、《疎乙第十二号証二》の疎明資料として、自らの「意見書」を名古屋地方裁判所に提出しました。以下も《 》印内は、民事訴訟法、憲法、民法上の法律用語です。《疎乙》とは、仮処分申請書以外に、請求の趣旨を証明する添付資料のことで、疎明資料といいます。原告(申請人)宮地のものは《疎甲》、被告(被申請人)日本共産党側のものは《疎乙》となります。私は名大学生時代に彼の格調高い憲法講義を聞いたり、平和運動での活躍を尊敬していただけに、この「意見書」提出行為にショックを受けるとともに、その内容レベルにはがっかりしました。ここで長谷川同志を批判するのは苦痛を伴いますが、やむをえません。

 )長谷川「意見書」にたいする私の「反論趣旨」

 《司法審査権の存否》という憲法用語 私は、このテクニックをまったく想定していませんでした。早速、憲法を付け焼刃的に勉強しました。もっとも、《司法審査権の存否》という憲法用語も知らずに、「怒髪衝天」のあまり、民事訴訟を起こす私の方が無謀ということでしょう。憲法関係の本をあわてて数冊買い、愛知県図書館へ連日のように通って、憲法文献を読み漁り、数十冊ある判例集のなかで、《司法審査権の存否》関係の判例をすべてコピーして、反論を《準備書面》で提出しました。《準備書面》とは、「仮処分申請書」以外の、追加意見陳述書のことです。私の反論趣旨は次の内容です。

 私の反論趣旨 当時40歳における手取り10万円余りの生活費明細、およびそれで生計を立てている実態から見れば、それは《市民的権利》に該当する。専従解任は、(1)私的結社内の《自律権》に属する、結社内任務変更という面があるとともに、(2)《専従解任事由が不当》なとき、その解任行為は、生活費支給の不当停止という市民的権利侵害の側面を伴う。憲法上、政党は特別な地位を持たず、数ある私的結社の一つにすぎない。私的結社内部で、市民的権利が《正当事由》なく侵害されたという今回の私のケースでは、その侵害からの回復を裁判に訴える《裁判請求権》の方が《私的結社の自律権》より優位に立つ。その訴えにより《私的結社の自律権》は、当然制約を受ける。したがって、原告宮地が、被告日本共産党の行った市民的権利侵害行為からの救済を請求することについて、《司法審査権》が存在し、直ちに門前払い却下せよとする被告の《答弁》は、誤った憲法解釈である』。

 民事1部裁判長の《訴訟指揮》 それは、私人双方の意見を聞き、質問することで、裁判長室での原告1人対被告側4人の論争の途中では、自分の意見は言いません。彼が、〔第1、2の扉〕閉鎖の被告側主張が正しいと認定すれば、すぐ《結審》になったでしょう。しかし、彼の《訴訟指揮》は、どの民法契約条項を適用するかという〔第3の扉〕と、専従解任理由への質問に入っていったのです。そこで、被告日本共産党は、大いにあせり、あわてました。なぜなら、この裁判提訴自体が、『国際共産主義運動史上一度もない』だけでなく、このままいけば、それについての“世界で初めての《判例》”が出てしまうのです。仮処分申請の《決定》も、《判例》となります。被告側には、審訊出席弁護士2人以外に、そのバックには、党中央法規対策部と強大な日本共産党員弁護士グループがついています。そこで、彼らはあくまで〔第2の扉〕で宮地を門前払いすべく、日本共産党員・長谷川正安教授に白羽の矢を立て、「特殊任務」を与えました。彼は、憲法学会の最高権威の一人で、全国的に有名な教授でした。

 )長谷川教授の憲法理論、4つの構造

 〔小目次〕

   第1の構造 憲法上での政党の特別地位主張

   第2の構造 2側面の性格を持つ専従解任にたいし、一方を《故意》に黙殺

   第3の構造 裁判請求権行使を理由とした私的結社除名の法的効果否定

   第4の構造 門前払い却下主張とその根拠

 その内容は、(関連ファイル)「(長谷川)意見書」の通りです。反革命分子宮地にたいし、どういう指令が誰からあったのか、長谷川教授がどういう心境で「特殊任務」を引受けたかは分かりません。ただ、「意見書」が物的証拠として残っているので分かります。これを分解すると、次の4つになります。「意見書」提出行為を、レーニン・スターリン式粛清における「理論的銃殺」行為と同質であるとする見解は、最後にのべます。

 第1の構造 憲法上での政党の特別地位主張

 そもそも政党は、憲法上特別な地位はなく、無数にある私的結社の一つにすぎません。ところが、彼は『政党は憲法がその自由を保障する結社のうちでもっとも重要なものの一つである』として、政党の特別地位を主張し、政党に関する3法律以外での政党の『完全な私的自治』特別扱いを要求しています。これが、一般的な政治主張なら、政党の役割・地位論として通用するでしょう。しかし、この「意見書」は、宮地裁判という具体的訴訟事件における、憲法と政党との関係論提起になります。この私人間の民事訴訟において、政党は私的結社の一つという法的地位を持つだけです。

 スターリン憲法理論に類似 「意見書」にあるように、彼は、その冒頭から長々と、この訴訟事件にはなんら直接的意味も持たない憲法と政党との関係論を展開しているのです。これは、14の一党独裁国前衛党のすべてが、スターリン憲法に従って、憲法に共産党の指導的地位・役割を明記し、民主主義的中央集権制という共産党の組織原則を国家、社会運営の原則にまで拡延明記したという、共産党特別地位要求の法理論に類似しています。

 レーニンの一面的理論と一党独裁完成 レーニンは、政治の優位性、革命における政党の特別役割を一面的、誇大に唱える誤りを犯しました。さらに、レーニンは、政党のなかでも前衛党の特別役割をことさらに持ち上げ、ソヴェト内3大社会主義政党党員120万人とその家族を粛清し、自己生存中にボリシェビキ一党独裁を完成させました。彼の一面的理論と他党派粛清結果は、必然的に一党独裁前衛党の特別地位明記のスターリン憲法となりました。長谷川教授が、この主張・要求を、被告側「意見書」として提出したことは、日本共産党自体が現在も一党独裁型憲法理論指向を隠蔽・堅持していることを示しています。

 第2の構造 2側面の性格を持つ専従解任にたいし、一方を《故意》に黙殺

 専従は、私の場合40歳で、10万円強手取り生活費を支給され、その内訳として、基本給・年齢給・党専従歴給の支払があり、所得税・厚生年金保険料・健康保険料が源泉徴収されていました。これで生計を立てている以上、これは市民的権利の側面です。専従解任は、(1)党内任務変更という「党内問題」の側面を持つとともに、(2)その解任に《正当事由》が存在しないときには、政党内部における市民的権利侵害の法律上事件の側面を持ち、合法・違法の法的問題となります。

 長谷川教授は、「意見書」を書く上で、宮地「仮処分申請書・副本」2通とともに、生活費支給明細を証明する「宮地疎明資料」数点を当然見ています。彼は、「意見書」で『専従解任の当・不当は事実上の問題であって、合法・違法の問題とはなりえない』『それがどのようになされようとも法的な問題を生ずることはない』と断定しました。彼は、私的結社内での“有給・有償”専従解任の両面性存在について、《故意》に市民的権利存在の法的側面を黙殺するという詭弁を平然と使っています。刑法に《故意》と《未必の故意》という用語があります。彼の弁法は、両側面の一方を意図的に無視するもので、《未必の故意》でなく、まさに《故意》そのものによるものです。

 私が、専従解任に《正当事由》がなく、党中央・県常任委員会批判への報復解任であると訴えている以上、その市民的権利侵害回復請求は《合法・違法》の問題になります。そこでは、《裁判請求権》によって《私的結社の自律権》が制限されるのは常識です。著名な憲法学者がこれほど見え透いた詭弁を使うとは、ちょっと考えられないほどです。憲法学者の立場・良心を捨て去り、「特殊任務」指令を遂行する共産党員の立場だけから書いたのなら、この弁法も分からないではありません。

 第3の構造 裁判請求権行使を理由とした私的結社除名の法的効果否定

 除名理由は、口頭通告の(1)『党を裁判所に告訴するという党破壊と謀略行為である』、(2)『不特定の人々に話した』の2つでした。〔理由2〕については、第6部に詳述しましたが、『電通の人に話した行為のことだ』とし、私の反論にしどろもどろとなり、『主要なことは裁判に出したことだ』と認め、そそくさと帰りました。この問答経過は、追加提出した「除名無効仮処分申請書」に正確に記述してあります。彼は、「意見書」を書く上で、これも当然読んでいます。それを読めば、この除名が《裁判請求権行使》を基本理由とするものであることは、一目瞭然です。

 私の民事訴訟行為は、私人宮地健一と私的結社日本共産党との私人間で発生した市民的権利侵害事件について、その回復を要求する憲法第32条《裁判請求権》行使行為です。私的結社構成員が、結社内部での市民的権利侵害事件発生という法的問題で、憲法の基本的人権を行使したことを直接の理由として、私的結社がその構成員を除名すること自体、恐るべき反憲法犯罪です。日本共産党のこの理由での除名の仕方は、憲法違反行為という重大な法的効果を持ちます。

 しかし、長谷川教授は、その具体的除名理由と憲法違反法的効果を十分承知の上で、「意見書」に『その除名の仕方によって政治的効果が問題になることはあっても、法的効果が問題になることはない』と断定しました。彼は、この具体的除名理由を《故意》に黙殺して、一般的抽象的な除名事実、除名仕方にすりかえるという、見え透いた詭弁をここでも使いました。全国で、私的結社は無数にあり、そこには多数の“有給・有償”専従職員がいます。その一人が、私的結社から《正当事由》のない専従解任を受け、その市民的権利侵害事件で《裁判請求権》を行使したとします。彼は、「意見書」の論理でいけば、その憲法上の権利行使を直接理由とする結社除名は、なんの法的効果をもたず、憲法違反でもないと主張していることになります。長谷川「意見書」は、日本共産党の憲法違反行為を具体的除名理由の恣意的黙殺詭弁によって正当化しています。それだけでなく、彼は、憲法学者として、具体的訴訟事件において反憲法理論を自ら唱えていることになります。

 第4の構造 門前払い却下主張とその根拠

 彼は、「意見書」最後で、党員相互の関係であっても、政党の内部問題をこえた市民的関係の場合には、別の角度からの検討が必要になる。しかし、本件の場合の問題点は、すべて政党内部の組織問題に限定されているので、その検討を行う必要を認めないと結論づけ、本件の門前払い却下を主張しました。それは二段構えの門前払い却下詭弁をふくんでいます。

 (1)宮地専従解任は『そこに政党の内部問題をこえた市民的関係はなく、合法・違法の問題となりえず』、よって『専従解任は政党内部の組織問題に限定される』ので、本件には憲法上の《司法審査権》が存在しないから、本件を検討せず、門前払い却下せよという詭弁です。

 (2)次に、それが認められない場合でも、『宮地除名法的効果が問題となることはない』、よって『宮地除名の仕方は政党内部の組織問題に限定される』ので、除名は有効であり、宮地は日本共産党員ではなくなっている。故に、宮地には民事訴訟法上の《当事者適性》に欠け、《訴えの利益》がないので、本件の検討を行う必要はなく、門前払い却下せよとする詭弁です。これは、(1)の主張が認められない場合でも、仮に(2)の主張をしておくという《仮定主張》テクニックです。長谷川教授は、法律のプロとして、この《仮定主張》テクニックで、二段構えの門前払い却下主張をしました。

 以上の四重構造の法律的詭弁使用テクニックは、常任幹部会と法規対策部が、白羽の矢を立てただけあって、実に見事なものです。しかも、私の具体的民事訴訟事件での「意見書」でなければ、一般的抽象的法理論としては十分通用するような文言を連ねていて、原告宮地や両者の主張を直接見聞きする裁判長でなければ、反論・否定できない論理構成になっているのも、さすが憲法学会権威者「長谷川正安」です。

 原告の私から見れば、《故意》の黙殺や事件内容の極度な抽象化や詭弁多重使用の、乱暴きわまりない「意見書」なので、それを本当に「長谷川正安」が書いたのかと疑いました。しかし、「名古屋大学法学部教授」という肩書と彼の自筆署名・捺印があるからには、本物なのでしょう。9回あった仮処分審訊終盤の第8回審訊で出された「意見書」は、想定していなかっただけに、私にとって強烈なショックでした。私は、彼の憲法関係著書3冊を本屋を駆け回って買ってきて、克明に分析をしました。そこには、このような理論は一つもありません。

 私は、この「意見書」にたいして、長大な《準備書面》を提出しました。以上4点の構造分析は、その《準備書面》の基本的論旨です。ただし、長谷川「意見書」内容は裁判長により却下され、被告の〔第2の扉〕閉鎖作戦も失敗し、私は次の〔第3の扉〕民法契約条項適用問題に進むことができました。なぜなら、これらの構造は、法曹界でも一般的に認められている法理論から逸脱し、具体的訴訟事件であまりにも《故意》の黙殺を多用した詭弁術に基づくものなので、裁判長としてもとうてい受け入れられない内容だったからです。これらについての長文の《仮処分決定》の《判例》は、第8部に載せ、この文では長谷川「意見書」のみリンクします。

 〔第3の扉〕、民法 《契約条項の適否》

 《雇用契約者》か、《有償委任契約者》か これは、民法契約条項のうち、共産党専従には、どの条項を適用するかという問題です。私は、上記生活費内訳からして、《雇用契約条項》適用を主張しました。被告側は、〔第1、2の扉〕で門前払いしたいために、裁判長が彼らに、私の適用条項主張の《認否》をするよう何回要請してもほとんど答えませんでした。したがって、これは私と裁判長との《適用条項》判断の争いになったのです。結論だけ言えば、裁判長は、「仮処分決定」で、日本共産党の専従者の民法上の地位は『《雇用契約者》でなく、《有償委任契約者》と認定される』『ところで、原告は《雇用契約適用》のみを主張しているので、仮処分申請は却下する』としたのです。

 《有償委任契約者》 これは、対等・平等関係にある私人間において、有償=お金を払い、受け取って、ある仕事を委任し、その契約をする者、という民法契約条項の一つです。宮本・不破氏と県勤務員宮地とは、対等・平等関係にあり、上下関係はないとする《認定》です。ただ、これは、従来、弁護士や会社役員に適用されてきました。この2つの民法契約条項適用問題については、かなり詳しい民法上の説明が要りますので、それは、次の第8部で行います。《専従解任の当・不当》という本題に入らないままでの〔第3の扉〕での却下です。これは、第3の扉における、裁判長による私の敗北でした。3重の扉・開閉のたたかいで、私は“2勝1敗”になりました。

 裁判長による共産党側三度目の敗北 宮本・不破側も三度目の敗北を喫しました。宮地裁判にたいする宮本・不破基本方針は、裁判実質審理に入らせず、『門前払い却下』を勝ち取ることでした。そのため第1、2の扉を閉めてきました。しかし、宮地の『除名無効仮処分申請』追加提出と、「長谷川意見書」批判・反論の長大な《準備書面》提出によって、扉閉鎖作戦は失敗し、宮地に連続敗北しました。さらに、裁判長の質問方向が、原告が主張する《雇用契約条項》適用にたいして、《被告側の認否》《否認するのであれば、被告は、どの民法契約条項適用を主張するのか》に集中してきたのです。彼らにとって、この“審訊9回戦・9時間勝負の裁判バトル”は、怖れていた、最悪の事態に突入してきました。

 なぜなら、前衛党職業革命家・専従は、資本主義体制の暴力的転覆と国家権力の暴力的奪取をする革命組織の中核であり、いかなる資本主義国法律にも拘束されず、超越した存在である、というのが、レーニン『なにをなすべきか』以来の基本理念になっているからです。宮本・不破氏は、合法・「人民的」議会主義政党になってからも、4000人『職革』集団を、その非合法理念・方針で管理・統制してきたからです。その職業革命家・専従を、資本主義国法律・民法《なんらかの契約条項適用者として認め、《どの民法契約条項適用を主張するのか》などの質問に《答弁》するなどという“屈辱的対応”は、とてもできたものではありません。そんなことを自ら認めたなら、“日本革命の放棄につながる”と、恐怖におののいたのです。

 そこで、彼らは、審尋の度ごとでの裁判長の《認否》要求にたいして、『次回に《答弁》します』と繰り返すだけで、一向に、認否をしません。認否拒否のままでは、全敗すると思ったのか、“審訊9回戦裁判バトル”最終ラウンド近くになって、彼らは、最初の《答弁書》内容どおり、『労働基準法、雇用契約適用を認めない』との《否認》だけを繰り返しました。それにたいして、裁判長が、《それでは、どの契約条項適用を主張するのか》質問しても何も《答弁》しませんでした。上記の革命論理からは、答えようがなかったのです。

 ところが、裁判長は、《仮処分決定》において、一方で、宮地の《雇用契約者》主張を退けたものの、他方、前衛党職業革命家・専従《有償委任契約者》という“資本主義国・民法契約者”《法的地位》を有すると《認定》してしまったのです。これは、宮本・不破氏にとっての大敗北となりました。かくして、3重の扉閉鎖作戦において、3戦3敗という屈辱的敗北を喫しました。ただ、裁判長が、本題に入らずに《原告の適用法主張が誤りとして却下》してくれたのが、せめてもの“救い”でした。

 《仮定主張》の本訴提出 私の方は、そんな馬鹿な却下の仕方があるかと、裁判長に怒りを覚えました。こちらが弁護士なしでやっているので、裁判長は私をなめているのではないかと思いました。しかし、主張する適用契約条項が裁判長の判断と合わなければ、却下してしまうというのが、民事訴訟のやり方なら仕方がないとして、両方ともの契約条項を併記し、《仮定主張》とした本訴を提出しました。お粗末な話ですが、私は仮処分申請にあたって、政党専従は《雇用契約者》だと頭から思い込んでいました。民法契約条項のなかに、《有償委任契約》という用語があることも知らず、したがって政党専従がその条項に該当するという民法解釈があるかもしれないことに考えも及びませんでした。そこから、9回の審尋において、「県常任委員会という執行機関と、県役員でない県勤務員とは、上意下達、指導・被指導の関係実態にあり、弁護士と有償委任契約するような対等・平等な関係にはない」ことの主張、立証が弱かったことを反省しました。

 第4・本題、民法 《契約解除正当事由の存否》

 3重の扉のうち、第3の扉で、《却下》されてしまったので、《仮処分決定》に、この本題に関する法的判断はなにも書かれていません。こうなれば、本訴訟を起し、この本題審理とその本題・判決をたたかい取るしかありません。

 本訴提出までに、例によって、今度は「民法契約条項」の猛勉強をした次第です。これは、なんの自慢にもなりませんが、まさに走りながら民事訴訟法、憲法を勉強し、今度は民法を勉強しながら走るといった民事裁判でした。

 4、レーニン・スターリン粛清史との同質性

 〔小目次〕

   1、レーニン・スターリンの二段階銃殺システム

   2、第1段階銃殺執行者・長谷川教授の多重人格性

 1、レーニン・スターリンの二段階銃殺システム

 学者党員・長谷川正安教授の、上記のような憲法理論と詭弁内容をもつ「意見書」提出行為について、レーニン・スターリンの粛清史との同質性を検討します。レーニンの粛清スタイルについては、『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』で分析しました。スターリンは、ソ連共産党員100万人をふくむ、2000万人から5000万人に「人民の敵」レッテルを貼り、OGPU、NKVDを使って、銃殺とともに『収容所群島』を構築しました。そのなかで、学者文化人やその党員にたいするレーニン式銃殺、スターリン式銃殺は、いずれも理論的銃殺と肉体的銃殺の二段階銃殺になっています。

 レーニン式第1段階銃殺

 ソ連崩壊後、レーニン「秘密資料」で「極秘・作戦指令」が暴露されました。ロイ・メドヴェージェフは、『1917年のロシア革命』(現代思潮社、1998年)で、レーニンの粛清を書いています。その研究によれば、1917年の二月革命と10月武装蜂起の間の7月には、メンシェビキ党員約20万人、エスエル党員約100万人がいました。ただ、2党とも、その後党勢は下降し始め、エスエルから左翼エスエルが分裂しました。レーニンは、メンシェビキ、エスエル、左翼エスエルのソヴェト内社会主義3党にたいし、様々な口実で党活動の禁止に追いこみ、労働者・農民・兵士ソヴェトから排除し、そのリーダーたちを逮捕し、デッチ上げに基づく裁判にかけました。レーニンは、その多くを10年の禁固刑にするよう指令しました。

 1921年、クロンシュタット反乱において、レーニンは、それを『反革命』とし、『白衛軍将軍どもが、ここで大きな役割を演じたことは疑いない。それは完全に立証されている』と、第10回大会で報告し、自らが、クロンシュタット・ソヴェト55000人の理論的銃殺という第1段階銃殺をしました。しかし、レーニン・レッテルの真相は、(1)『反革命』ではなく、イダ・メットが『クロンシュタット・コミューン』で分析しているように、革命の栄光拠点ソヴェトによる『ボリシェヴィキ一党独裁にたいする15項目要求を掲げた決起』でした。また、(2)『白衛軍将軍どもが〜』は、P・アヴリッチが『クロンシュタット1921』で解明しているように、真っ赤なウソでした。レーニンは、それらのレッテルが事実に反することを十分承知の上で、ボリシェヴィキ一党独裁システムを維持・擁護するために、平気で(1)(2)の詭弁を使ったのです。

 1922年、レーニンは、多数の人文系学者を追放することを承認し、その大規模な追放措置は「作戦」というコード名で呼ばれました。ジェルジンスキー宛のレーニン「指令」メモの一つには次のように書かれていました。『ウラジーミル・イリイチ〔レーニン〕の指令。極秘。 積極的な反ソヴェト・インテリゲンツィア(まずはメンシェヴィキ)の国外追放を、たゆまず継続する。入念にリストを作成し、それらをチェックしわれわれの文芸学者たちに批評させる。文献は全部彼らに割り当てる。われわれに敵対的な協同組合活動家のリストを作成する。「思想」と「家族共同体」の論集参加者のチェックをする。草々  F・シェルジンスキー(P.135)。レーニンは、これにより、理論的銃殺という第1段階銃殺を指示しました。レーニン指令により、繰り返し、理論的銃殺の批判キャンペーンが行われました。

 1922年、レーニンは、強い要求を出し、最初のソヴィエト刑法の中で、刑事上のではなく、政治的行為に関する多くの条文にも死刑を規定させました。今やあらゆる「反ソ的」活動が刑法上罰せられることとなったのです。これについてレーニンは、司法人民委員D・クルスキーに宛ててこう書きました。「同志クルスキー・・・裁判所はテロルを排除してはならない。そういうことを約束するのは自分を欺くか、人を欺くものであるだろう。これを原則的に、はっきりと、偽りなしに、かざらずに、基礎づけ、法律化しなければならない。できるだけ広範に、定式化しなければならない。というのは、革命的な法意識と革命的良心だけが、それを実際に、また多少とも広範に適用する諸条件をつくりだすからである」。「革命的良心」が裁判と取り調べをいかなるところへ導くかという例は、枚挙にいとまがない(P.136)

 スターリン式第1段階銃殺

 もっとも有名なものは、ルイセンコ学説により『生物学には、ブルジョア生物学とプロレタリア生物学がある』として、生物学者の大部分をルイセンコ学説銃により理論的銃殺したケースです。ジョレス・メドヴェージェフは『ルイセンコ学説の興亡』で、その銃殺の規模と範囲について、ソ連生物学会における銃殺者側学者党員と被銃殺者側の個人名を多数挙げて、告発しています。双子兄弟のロイ・メドヴェージェフは『共産主義とは何か』(三一書房)の第6章「ソ連の科学および技術インテリゲンチィアの弾圧」「ソヴェト文学者と芸術家の弾圧」において、その分野の数十万人が、どのように理論的銃殺されたのか、その分野の理論的銃殺に加担した学者党員、文化人党員がその何倍もいたかを個人名を挙げて、具体的に記録しています。

 レーニン式第2段階銃殺、肉体的銃殺・抹殺

 1921年の危機において、レーニンは、自ら率先して、4つの分野における大粛清、第2段階銃殺、肉体的銃殺・抹殺を指令し、執行しました。

 ()労働者ストライキへは、広範な逮捕をペトログラート・チェカーによって遂行させました。1921年2月の最後の数日間に、約500名の反抗的労働者と組合幹部が牢獄で絶え果てました。同様に検挙された学生、知識人、およびその他の非労働者はおそらく数千名を数え、その多くは反対政党およびグループに所属していました。

 ()、クロンシュタット・ソヴェトへは、1921年3月の反乱を、赤軍5万人で武力鎮圧したのち、4〜6月の間2103名に死刑の判決を出し、6459名を投獄しました。あとの数千名は、フィンランドに送られ、いつわりの恩赦の約束でロシアに帰されましたが、すでに出来ていた北極海につながるソロヴェツキー島とアルハンゲリスクの収容所に送り、その大多数は手を縛り、首に石を付けてドビナ河に投じて、虐殺しました。

 ()、他党派へは、ペトログラートのメンシェヴィキ組織を、チェカーの急襲によって、それまで逮捕をまぬがれていた、ほとんどすべての活動的指導者を監獄へ護送しました。1921年の最初の3カ月間に、党の全中央委員を含む約5000名のメンシェヴィキがロシアにおいて逮捕されたと推定されています。それと同時に、まだ自身を自由とみていた少数の著名なエス・エルとアナーキストが同じく検挙しました。ヴィクトル・セルジュがその『一革命家の回想』において語っているところによれば、チェカーはそのメンシェヴィキ収監者をストライキの主要な教唆者として銃殺しようとしたが、マクシム・ゴーリキーが干渉して彼らを救いました。

 ()、党内異論へは、レーニンが、第10回大会で、いかに党内論争が反革命諸勢力によって利用されるかの実例としてクロンシュタットを引用しました。その後まもなく、レーニンは信頼の置けない分子を排除するため「頂上から底辺まで」の党の粛清を命じました。1921年夏の終わりまでに、全党員のほぼ四分の一を除名しました。

 ()、農民の大規模反乱にたいしてだけ、レーニンは、1918年春以来の「食料徴発令」「戦時共産主義」を止め、新経済政策「ネップ」で、自由市場・交換を認める譲歩を、1917年10月後、初めてしました。国民の80%を占める農民反乱への政策転換・譲歩と、他の4つの分野への大粛清執行との関係をどう捉え、評価するかの見解は、大きく分かれています。同時・大粛清と切り離して、かつ、その事実を無視して、「ネップ」だけを高く評価するのが、従来の見解です。P・アヴリッチは、『クロンシュタット1921』で、レーニンが、4分野の粛清を執行し、あくまでも一党独裁に固執するために、80%農民にたいしてのみ作戦的譲歩をしたとしています。私(宮地)も、それと同じ見解です。その全体的見方は、『逆説・1921年の危機』で分析しました。

 1922年、レーニンは、理論的銃殺した反ソヴィエト・インテリゲンチィア数千人を、チェーカーに指令して逮捕し、肉体的銃殺または国外追放しました。ロイ・メドヴェージェフは、『秘密資料』から、次の事実を書いています。『大勢の傑出した哲学者の一団がペトログラードやモスクワから、汽船(「哲学船」)で送り出された。ペトログラードからは経済学者や歴史家が西側諸国へ向かった。法律家、文学者、協同組合活動家、農学者、医者、財政学者も追放された。これはきわめて大規模な措置であり、モスクワやペトログラードだけでなく、キエフ、カザン、カルーガ、ノヴゴロド、オデッサ、トヴェーリ、ハリコフ、ヤルタ、サラトフ、ゴメリにまで及んだ。ゲー・ペー・ウーの文書ではこの措置は「作戦」というコード名で呼ばれ、その実施指導のために、L・カーメネフを議長とするロシア共産党中央委員会政治局特別委員会が設置された。委員会にはその他ジェルジンスキーの代理ヨシフ・ウンシリフトとゲー・ペー・ウー秘密工作部部長T・レシェトフが加わった』(P.135)

 他党派だけでなく、ボリシェヴィキ作家のザミャーチンも、レーニン批判文学作品『われら』を出版したとして、『ウラジーミル・イリイチ〔レーニン〕の指令・極秘』により、逮捕された一人でした。新経済政策「ネップ」による国民の80%を占める農民反乱への政策転換・譲歩をどう見るのかにおいて、翌年の「作戦」という、レーニンによる大規模粛清続行事実を無視することは、歴史の一面的評価になります。

 スターリン式第2段階銃殺、肉体的銃殺・抹殺

 スターリンは、理論的銃殺をした学者、文化人とその党員数十万人を、OGPU、NKVD所属共産党員を使って、レーニン「極秘メモ」指令『逮捕するなら夜が好都合』式『深夜のドアノック』で逮捕し、32種類の拷問にかけました。そして本物の銃弾で肉体的銃殺または強制収容所送りにしました。

 彼は、百万人の現役党員粛清以外にも、レーニンが除名した四分の一の党員を、1936年から38年の「大テロル」で、すべて逮捕し、銃殺または、強制収容所送りにしました。

 長谷川教授の「意見書」提出行為の性質

 それは、レーニン・スターリン式二段階銃殺における、学者党員による第1段階銃殺加担と同じ性質のものです。一体なぜ学者党員である長谷川正安教授が、宮本・不破から指令を受けたからといって、宮地裁判に介入する必要があるのでしょうか。資本主義国民事1部裁判長から一蹴されたような、こんなずさんな憲法理論を組み立てる「党員の義務」がどこにあったのでしょうか。レーニン・スターリンの一党独裁国家と強大な秘密警察の下なら、この程度の憲法理論で、宮地を次の段階の肉体的銃殺に追い込むことができたでしょう。

 ただ、宮本、不破氏らは、国家権力という暴力装置をまだ持っていないので、《作戦(1)》の尾行・張込みレベルの非合法活動、および彼の憲法理論だけで、残念ながら反革命分子宮地の肉体的銃殺はできませんでした。『日本共産党は、暴力装置を握ったら、自分たちを肉体的銃殺する体質を、今も持っている』と、自らの直接体験から認識した党員は、私たち夫婦を含めて、少なくとも5人います。その個々の体験は『ゆううつなる前衛』文末の「おわりに」に書きました。

 2、第1段階銃殺執行者・長谷川教授の多重人格性

 長谷川教授は、第5部2で、解剖した“共産主義的人間”上田耕一郎副委員長と、違う側面をもつ多重人格者です。

 第1人格 民主的な憲法学者、護憲運動家の顔

 長谷川教授は、憲法学の権威であるとともに、憲法擁護運動、平和運動にも取り組んでいました。彼は、憲法の基本的人権としての市民的権利擁護を主張し、国家・自治体・会社による様々な市民的権利侵害にたいして、激しくたたかうよう、激しい論調を展開して、多くの論文、著書を発表してきました。

 彼は、憲法・法律のプロとして、政党とは、全国に数百万以上ある《憲法上の私的結社》の一つにすぎず、スターリン憲法や他の一党独裁国憲法と異なって、資本主義国日本において、なんら“憲法的特別地位”も持たないことを十分承知しています。そして、私的結社・共産党内には、(1)「党員権」と、(2)「憲法上の市民的権利」の2つがあることも分かっています。さらに、共産党県勤務員宮地健一の、40歳毎月10万円余り生活費とその内訳、生計使途が、《市民的権利》に属し、『報復意図に基づく、正当な理由がない専従解任だ』と、宮地が提訴した以上、(1)不公平・報復的な警告処分という党員権侵害とは異なって、(2)専従解任問題が、《市民的権利侵害事件》になり、《司法審査権》により《政党の自律権》が制約されることなど、憲法学者として、当然熟知しているのです。

 第2人格 反憲法「意見書」を提出する学者党員の顔

 宮本・不破指令と、それとの矛盾

 ところが、宮地が、《市民的権利侵害事件》として民事訴訟を起したとき、宮本・不破氏は、長谷川教授に白羽の矢を立て、彼が、「共産党員・法律家」として、『活動費支払いの宮地専従地位は、市民的権利ではない、また、憲法・裁判請求権行使を理由とする除名は、なんら法的効果を持たない、よって「門前払い却下」をせよ、との「意見書」を書け』と指令しました。その命令内容は、彼が、従来から主張してきた、憲法理論、市民的権利侵害との闘争・護憲活動と完全に矛盾していました。

 憲法学者と共産党員とを使い分ける二重人格性

 一方で、憲法学者として、裁判請求権行使を支援し、市民的権利侵害事件でたたかう。他方で、学者党員としては、それを行使した原告・宮地にたいして、矛盾した理論で、被告・宮本顕治の弁護を行う。これほどの二重人格性はありません。彼は、自己の憲法理論を放棄して、レーニン・スターリンから粛清指令を受けた共産党員と同じ行動をしました。この二重人格性を、別の日本語で表すとどうなるでしょう。「長谷川・意見書」を批判した4人のうちで、水田洋教授と中野徹三教授は、学者党員・長谷川氏を『三百代言』と規定しています。それは、依頼者の頼みに応じて、まったく矛盾した弁護活動・法理論展開を平気でする、節操のない弁護士、法律家を指す言葉です。

 党中央指令・批判と自己の理論・理念が対立・矛盾したときの学者党員の態度パターン

 1978年、長谷川正安名古屋大学法学部憲法学教授は、上記全体の態度をとりました。それにたいして、まったく同時期の1978年、同じ大学法学部で、田口富久治名古屋大学法学部政治学教授は、別の態度をとりました。「田口・不破論争」の契機となった田口著『先進国革命と多元的社会主義・「あとがき」』での一節を引用します。この「あとがき」を書いた時点では、すでに党中央が学者党員・田口教授を、2回にわたって批判していました。それは、()1976年7月の「朝日新聞夕刊」記事『さまざまな「傾向」が党内で共存する権利』にたいする個別党内批判と、()1977年9月の雑誌掲載・田口論文『先進国革命と前衛党組織論』にたいする、「関原一郎」名の、榊夫、上田耕一郎ら4人連名ペンネーム論文による公然批判でした。田口氏は、それらの批判内容を受け入れていませんでした。

 田口著書「あとがき」の一節

 『このような重要な課題をあえて研究の対象とし、理論的に探究することは、学問にとってはいわば一種の「冒険」であり、その科学性は、将来において歴史的に定められる以外にないであろう。そして「政治の世界」で当面具体的に追求されている価値と、学問が追求する「真理価値」が、時に矛盾し、時には鋭い緊張関係にさえ入りうることもまた、世界と日本のこれまでの歴史が示してきたことである。

 そこで、本書を編むにあたって私がとった基本的立場(Stellungsnahme)について、一言しておきたい。冒頭にものべたように、私は、先進国革命と多元主義的社会主義の実現を希望している。しかし、この問題を学問の問題として、理論的に探究するという営為においては、私は、学問内在的な価値としての「真理」のみをもっぱら基準としてきた。

 私は、政治の必要ないしそれの追求する価値と、学問の追求する「真理価値」が緊張関係に立つときに、学者が現実政治の必要に従属するのではなく、逆にその「真理価値」への忠誠を貫くことによって、長期的に見れば、「政治」――もしそれが本来的に民主的でヒユーマスティックな諸価値を追求すベきはずのものであるならば――の追求する目的にも、よりよく貢献しうるだろう、と信じている。

 とくに政治学の場合には、現実政治の批判的科学的解明という任務を持ち、そして政治権力の方は、経験則的にいえば、その「実態」をあばかれるのを極度に嫌うという特性を持っている以上、右の命題はますます重要性を持ってくるように思われる。』(大月書店、P.239)

 田口「あとがき」内容の意図

 これは、党中央による2回の田口批判にたいする反論として、屈従拒否の決意表明でした。私(宮地)は、著書出版と同時に購入して、その真意を明白に理解しました。多くの読者も、その著書を直接、編集・出版した大月書店社員・加藤哲郎氏(当時)も、そうとらえたでしょう。宮本・不破氏も、それを学者党員・田口教授による「反中央的な挑戦文」と受け止めたから、「ネオ・マル粛清」の筆頭として、『田口・不破論争』を始めたのです。それと同時に、藤井一行富山大学教授著『民主集中制と党内民主主義』批判を、不破氏と榊氏が行いました。

 第3人格 宮本・金子の対平和委員会クーデターに、理事長として反対し、抗議の辞任をした抵抗者の顔

 平和委員会理事長・長谷川教授

 1984年、宮本・金子氏と小島優常任幹部会員は、対平和委員会クーデター、対原水協クーデターを一体のものとして行い、古在由重氏「除籍」を含む、数十人もの大粛清をしました。そのとき、長谷川氏は、平和委員会理事長でした。クーデター全経過は、『5つの選択肢』で書きました。ここでは、長谷川氏のとった態度との関係で、対平和委員会クーデター部分のみを検討します。

 反核平和運動の変化と宮本・金子氏の対応

 ユーロ・ジャポネコミュニズムの影響は、反核平和運動にまで及んできました。1977年、それまで分裂していた原水協と原水禁は、「年内をめざして国民的大統一の組織を実現する」との「5.19合意」を結びました。ところが、金子満広統一戦線部長は、宮本氏の指示を受けて、『原水協内・共産党グループが党中央の許可を得ずに勝手に、自主的に結んだ「合意」を認めない』と批判したのです。そして、『原水禁との共闘を許さない。原水禁を解体させて、原水協による組織統一が優先』と、大衆団体レベル合意の破棄を指令しました。金子・宮本指令の根底には、『何から何まで、分裂組織である原水禁を含めた共闘組織で行なうようになれば、「原水禁運動の本流」である原水協の影は薄くなり、原水禁運動の組織統一も不可能になる』という危機意識があったのです。その指令に基く紛糾が、「平和行進での団体旗自粛」「反トマホーク集会」問題などをめぐって、いろいろ発生した。それにたいして原水協、平和委員会から強烈な党中央批判が噴出しました。宮本氏は、それを抑えきれないと見て、金子氏一人に“詰め腹を切らせ”、統一戦線部長を解任しました。

 平和問題担当上田氏の方針転換

 平和問題担当後任は1980年以降、上田副委員長になりました。彼は、反核平和運動の高揚を前にして、原水協、平和委員会側の提案を受け入れ、金子・宮本方針を事実上完全否定する「原水協と原水禁の限定的持続共闘論」を提起し、第1回方針転換を強行したのです。これによって、“上耕人気”は、(1)先進国革命理論、新しい党組織論以外に、(2)反核平和運動分野でも高まりました。宮本権威は、大衆運動分野でも“上耕人気”に脅かされるようになりました。それらが、1982年の2人への査問原因の一つとなったのです。ただ、査問後も、上田副委員長は平和問題担当を解任されませんでした。1984年2月、市民団体が、「反核平和運動の恒常的組織づくり」を提案しました。その運動のすべての団体が、それに賛成しましたが、金子・宮本氏は反対しました。上田氏の賛成主張、説得工作により、党中央も賛成になりました。これは、第2回方針転換であり、反核統一行動の展望を大きく開いたと、歓迎されました。

 宮本・金子氏の方針転換

 ところが、宮本氏は、そこで方針の逆転換を強行させたのです。上田副委員長の平和問題担当を解任して、再度金子氏を統一戦線部長に据えました。『赤旗論文』を矢つぎばやに掲載して、そこで、原水禁批判、総評“右転落”批判をし、上田氏や平和委員会・原水協内党員が推し進めた限定的持続共闘論を批判、否定しました。そして、現実的可能性が、まったく低い『原水協側による』組織統一優先の路線に戻りました。金子・宮本氏による、上記2回の転換を全面否定する、第3回目の逆転換でした。

 大粛清

 その後の経過は、さらにいろいろありますが、ここでは触れません。2回の上田“方針転換”を支持し、反核平和運動の現場から盛り上がってきた統一意志と限定的持続共闘拡大にあくまで固執して、金子・宮本“逆転換方針”に抵抗する党員は、ことごとく排除・粛清しました。平和委員会にたいする粛清経過は以下です。

 1、1984年6月1日、森賢一平和委員会事務局長を、小島優常任幹部会員が、党本部に呼びつけて、『党中央決定である。平和委員会など大衆団体を一切辞めろ。自ら辞任した形にせよ』として、事務局長の辞任決意を迫りました。それは、6月2日からの平和委員会全国大会の前日でした。彼は、代々木党本部から戻って、全国大会運営委員会の冒頭で、所属する組織の決定によって、理事および事務局長を辞任したい』と発言しました。

 2、小笠原英三郎会長、長谷川正安理事長らは、彼から聞いて、彼への、共産党による辞任強要は誤りとしました。長谷川理事長は、『会長も私もまったく知らないことが出てきた。それが通るようなことがあれば、平和委員会は民主団体ではない。もしそうであるなら私は辞任したい』と表明しました。6月2日の大会で、森事務局長の辞任表明とともに、小笠原、長谷川氏2人も抗議の辞任表明をしました。長谷川氏は、『私は法律家だからはっきり言うが、判決が先にあってから、あとからそれをとりつくろうようなことは、大衆団体としての自殺行為ではないか』『こういうことでは大衆団体としての最高責任が持てない』と発言し、共産党中央を批判し、それに抗議して理事長の辞任表明をしました。大会は、そんな“逆転換方針”の方こそ誤りとして、3人の辞任を承認しませんでした。

 3、6月9日、二度目の大会を強行開催 そこで、金子・宮本氏らは、各都道府県レベルで、平和委員会内共産党グループを緊急招集し、“逆転換方針”支持派に大会代表を差し替えさせました。そして、代表、代理代表”で固められた、人事問題だけの二度目の大会を、6月9日に強行開催して、事務局長、会長、理事長を3人とも辞任させたのです。

 4、辞任強要に反対する最初の大会代表数十人は、県レベルで、大会代表からも、党からも排除しました。かなりの党員が、抗議の離党をしました。

 5、森賢一氏を、平和委員会事務局長をから辞任させた後で、彼は規律違反を犯していたとして権利停止処分にしました。彼が、その『森一人だけに通告した党中央秘密指令』を、全国大会運営委員会や長谷川正安同志や吉田嘉清同志らに漏らしたのは、『党内問題を党外にもちだした』規律違反である、としました。森氏は、平和委員会・党グループ所属党員です。長谷川正安教授は、名古屋大学教職員・法学部支部所属党員です。吉田嘉清氏は、原水協・党グループ所属党員です。共産党員・森事務局長にとって、民主主義的中央集権制の「横断的交流禁止」組織原則にてらせば、他の2人は『党内』ではなく、『党外』なのです。全国大会運営委員会や2人に党中央秘密決定を漏らした森の行為は、規約第2条8項違反の重大な規律違反として、彼を査問し、処分しました。そして、平和運動からの“永久追放処分”にもしました。彼は、出身地の名古屋に帰りました。

 この対平和委員会クーデターにおける態度の点では、学者党員・長谷川正安教授は、上田耕一郎副委員長の『第3人格』とはでした。ただ、長谷川氏も、レーニン・スターリンによる粛清指令を執行した数百万人の共産党員と同じく、かつ、上田耕一郎副委員長と同じく、民主的憲法学者の顔と、平和委員会理事長としての抵抗者の顔とを使い分けるという、複雑な多重人格者になったのです。

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(関連ファイル)日本共産党との裁判

   第1部『私の21日間の監禁査問体験』 「5月問題」

   第2部『「拡大月間」システムとその歪み』 「泥まみれの拡大」

   第3部『宮本書記長の党内犯罪、中間機関民主化運動鎮圧・粛清』

   第4部『「第三の男」への報復』 警告処分・専従解任・点在党員組織隔離

   第5部1『宮本・上田の党内犯罪、「党大会上訴」無審査・無採決・30秒却下』

   第5部2『上田耕一郎副委員長の多重人格性』

   第6部『宮本・不破反憲法犯罪・裁判請求権行使を理由とする除名』

   第7部・関連 長谷川教授「意見書」

      『長谷川「意見書」批判』 水田洋、「大統領」、中野徹三、高橋彦博

   第8部・完結世界初革命政党専従の法的地位「判例」