ザミャーチン『われら』と1920、21年のレーニン

 

チェーカー・大量殺人犯罪告発のレーニン批判SF小説

 

(宮地作成・3DCG12枚宮地徹)

 

 ()3DCG(スリーディー・コンピューターグラフィックス)の画像12枚は、長男宮地徹が作成した。3Dとは、3次元(-Dimension)の意味で、立体を表す。まず絵の立体データ(3Dデータ)を作り、それをさまざまな角度から「撮影」して、光線の向き、その影のついた画像を作成する。3DCGについては、宮地徹『Grafic World画像で、お分かりいただけるかと思う。3DCG下の添付文(頁数)は、『われら』(講談社文庫、川端香男里訳、1975年)からの引用頁を示す。

 

〔目次〕

   1、ザミャーチンとロシア革命

   2、『われら』の執筆、刊行とソヴィエト文学界

   3、『われら』のストーリー

     1)体制 2)恩人と隣人 3)守護局と私の担当守護者S

     4)反乱計画、進行と恩人による鎮圧

   4、ドストエフスキーとザミャーチン

   5、1920、21年のレーニン批判文学作品としての『われら』

     1)1920、21年までのソヴィエト初期社会主義時代をどう見るか

     2)守護局=チェーカー、恩人=レーニン

     3)宇宙船インテグラルの反乱=クロンシュタットの反乱

     4)レーニンによるクロンシュタット反乱者皆殺しの実態

   6、レーニンの大量殺人指令と「巨大な鉄の手」

     1)レーニンの大量殺人指令文書27通

     2)「巨大な鉄の手」=自国民大量殺害型マルクス主義者 (表1、2)

     3)クロンシュタット反乱参加者の名誉回復

   7、革命ユートピア小説と革命逆ユートピア小説の系譜 (別ファイル)

 

 (関連ファイル)               健一MENUに戻る

    『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』

    『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが「殺した」自国民の推計』数十万人殺人の根拠

    『クロンシュタット水兵とペトログラード労働者』

    『クロンシュタット水兵の要請行動とレーニンの皆殺し対応』6資料と名誉回復問題

    『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構』

    『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令とレーニン「労農同盟」論の虚実』

    『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機、クロンシュタット反乱

    『聖職者全員銃殺型社会主義とレーニンの革命倫理』

    『「反ソヴェト」知識人の大量追放「作戦」とレーニンの党派性』

    『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』電子書籍版

 

    P・アヴリッチ 『クロンシュタット1921』クロンシュタット綱領、他

    イダ・メット   『クロンシュタット・コミューン』反乱の全経過・14章全文

    ヴォーリン  『クロンシュタット1921年』反乱の全経過

    スタインベルグ『クロンシュタット叛乱』叛乱の全経過

    A・ベルクマン『クロンシュタットの叛逆』叛逆の全経過

    大藪龍介   『国家と民主主義』1921年ネップとクロンシュタット反乱

    中野徹三   『社会主義像の転回』憲法制定議会と解散

    梶川伸一   『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』クロンシュタット反乱の背景

      食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、

      レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討

    梶川伸一   『幻想の革命』十月革命からネップへ ネップ「神話」を解体する

    Google検索  『kronstadt151000件、自動的日本語翻訳機能付サイト多数

 

    『ドストエフスキーと革命思想裁殺人事件の探求』3DCG6枚

    『ドストエフスキーと革命思想裁殺人事件の探求』電子書籍版

    『レーニン「国家と革命」の位置づけ』革命ユートピア・逆ユートピア小説

    『オーウェルにおける革命権力と共産党』3DCG7枚

    『オーウェルにおける革命権力と共産党』電子書籍版

    『「革命」作家ゴーリキーと「囚人」作家勝野金政』スターリン記念運河建設での接点

    『ソルジェニーツィンのたたかい、西側追放事件』3DCG9枚

    ソルジェニーツィン『収容所群島・第2章』「わが下水道の歴史」

    ソルジェニーツィン『収容所群島・第3章』「審理」32種類の拷問

 

    宮地徹『Grafic World3DCG画像

 

 ()、ザミャーチン『われら』は、講談社文庫(川端香男里訳)、および岩波文庫(川端香男里訳)で出版された。講談社文庫は絶版で、古本でしか入手できない。岩波文庫からは購入できる。

 

 1、ザミャーチンとロシア革命

 

 ザミャーチンは、1905年、21歳のとき、オデッサでゼネストと戦艦ポチョムキンの反乱を目撃し、ペテログラードでボリシェヴィキの一員となり、革命運動に加わった。逮捕、非合法活動、追放などを経験するが、その中で作家活動を開始した。

 

 1916年、造船技師としてロシア砕氷船建造の監督のためイギリスに派遣され、アレクサンドル・ネフスキー号(革命後、レーニン号と改称)の設計から完成までかかわった。1917年9月に帰国し、文学活動に全力を傾けた。1918年、文学活動家同盟や世界文学出版所活動にゴーリキーとともに参加した。1920年、全露作家同盟ペトログラード支部を組織するために力をつくし、執行委員となった。1917年から20年代の半ばまでザミャーチンはロシア文壇の中心の一人だった。ゴーリキーの庇護のもとに結成された作家グループ・セラピオン兄弟がザミャーチンの強い感化を受けたのもこの頃である。

 

 しかし、その中で共産主義の前途に憂うべき兆候があるのを感じ始めた。個人の自由を奪い計画化を推し進めていった先がどうなるかに心をわずらわせた。そして、ザミャーチンは、1918年、ボリシェビズムだけを唯一の真理と認めることを拒否し、官僚化しつつあるソヴィエト体制を批判する短編『龍』を社会革命党左派=左派エスエルの新聞に発表した。『龍』は、ちっぽけな人間が制服の中に隠れ、銃を持った龍になるという内容である。

 

説明: http://www2s.biglobe.ne.jp/My%20Documents/doragon.jpg

SF短編小説『龍』 ザミャーチンは、この短編で「官僚化しつつあるソヴィエト体制」

を批判した。『龍』とは、「赤色テロル」オルガンとしての28万人チェーカー・シス

テムのことを意味した。それは、SF小説『われら』の全編を貫く「守護局」「守護者」

と「恩人」が支配する「秘密政治警察国家」のレーニン批判へと発展した。

 

 

 2、『われら』執筆、刊行とソヴィエト文学界

 

 1920年から21年にかけて、ザミャーチンは『われら』を執筆した。それまでに、彼は、『龍』以外に、ソヴィエト初期社会主義時代の閉塞された状況を描く他のいくつかのSF短編『ママイ』『洞窟』も発表した。『われら』の刊行は、1924年に英訳がロシア語版より先にニューヨークで出版され、1927年にチェコの亡命ロシア人雑誌でロシア語原文が発表された。

 

 1922年後半、レーニンは、数万人の好ましからざる反体制派知識人に「反ソヴィエト」というレッテルを貼りつけ、逮捕し、国外に追放した。反ソヴィエトとは、共産党に入らず、共産党政権に協力しない知識人たちに、レーニンが国外追放・強制収容所送り目的で、恣意的に名付けた名称である。これは、レーニンが1922年前半に指令し、トロツキーとチェーカーが執行した聖職者数万人銃殺・信徒数万人殺害と一体のレーニン型社会主義文化大革命だった。ソ連崩壊後のデータに基づくこの詳細は、HP『知識人』ファイルに書いた。ザミャーチンも逮捕、投獄されたが、友人の援助で釈放された。釈放後、出国を申請したが、拒否された。

 

    『「反ソヴェト」知識人の大量追放「作戦」とレーニンの党派性』

 

 その頃から、文学におけるプロレタリア派の革命的リアリズム主張が強化され、ザミャーチンだけでなく、ゴーリキー、ショーロホフ、エレンブルグ、マヤコフスキー、エセーニン、パステルナーク等が激しい攻撃にさらされた。非共産党員作家への論難は厳しくなり、ついには「同盟者か敵か」「われらか敵か」という形で反対派に圧力が加えられるようになり、悪名高きラップ時代が始まった。ラップとは、1925年設立のロシアプロレタリア作家協会のことであるが、非プロレタリア系作家に卑俗社会学的・世界観偏重の非難を浴びせ、その批評は<ラップの棍棒>と恐れられた。

 

 その中で、1925年エセーニンが自殺、1930年マヤコフスキーが自殺した。1929年には、その作家たちへの粛清が始まった。ザミャーチンはそれに敢然と抗議し、作家同盟を脱退した。この年、トロツキーが国外追放され、ブハーリン、ルイコフは党政治局から追放された。

 

 1931年、あらゆる出版活動を禁じられた47歳のザミャーチンは、ゴーリキーの仲介によってスターリンに手紙を書き、許可を得てソ連を離れた。ソ連文学界は、文学史からも、ザミャーチンと『われら』の存在を、忌むべきレーニン批判の反革命作家・小説として完全に抹殺した。ゴーリキーの晩年については、別ファイルで、分析した。そこに書いたように、スターリンは、内部告発をし始めたゴーリキーを疑い、1936年6月18日、NKVDの手で、彼を殺害した。

 

    『「革命」作家ゴーリキーと「囚人作家勝野金政」』

 

 3、『われら』のストーリー

 

 〔小目次〕

   1)体制 2)恩人と隣人 3)守護局と私の担当守護者S 4)反乱計画、進行と恩人による鎮圧

 

 これはSF小説である。しかし、1920、21年当時のソヴィエト初期社会主義時代、および1921年2、3月のクロンシュタット反乱とレーニンによる鎮圧という時代背景を色濃く反映した逆ユートピア小説の内容を持っている。

 主人公は私=国民番号D−503号であるが、その未来社会の体制、支配者、秘密警察がSFとしての事実上の主人公ともいえる。D−503号は、その全システムとそこでの反乱を説明する狂言回し的役割も持っている。したがって、まず事実上の主人公から見てみる。特殊用語は、小説中でも、太字になっている。

 

 )体制

 

 「単一国」と呼ばれる国家は、最高指導者「恩人」のもとに、全成員(ナンバー)が規律、義務により完璧に組織化されていた。自由は野蛮な状態のことであり、個人の意識、魂を持つことは病気であるとみなされた。

 

 単一国ナンバー全員が「時間律法表」により、分刻みの時間管理に置かれた。全員が同一時間、同一の分単位の正確さで起床し、仕事を始め、講堂へ行って学習し、1日に2度、16時より17時と、21時より22時の個人時間を持った。その労働はアメリカのテーラー・システムによる時間管理、作業管理をさらに発展させた形で組織されていた。このテーラー・システムは、レーニン・トロツキーが、1920、21年当時、労働の軍事規律化政策の柱の一つとして、強行したものである。それにたいするプロレタリア独裁国家下のプロレタリアートが繰り返し、労働者ストライキで抵抗したこと、レーニンがストライキ労働者を数万人逮捕し、6千人以上を殺害したことは、明白な事実である。ソ連崩壊後に発掘されたレーニンの労働者大量殺人犯罪のデータは、HP『労働者』ファイルで克明に書いた。

 

    『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構』

 

 セックスは、性規制制システムの下で、「ピンククーポン制」で相手を選び、ガラス張りの部屋のブラインドはその時間だけ下ろすことが許された。夜間は、全成員は眠らねばならない。これは義務であって、日中の労働と同様の義務である。夜間就寝せざる者は犯罪者であって……とされた。

 

 しかし、単一国の「緑の壁の西方」には、自由という野蛮な状態が存在していた。「緑の壁」が、鉄のカーテンと呼ばれるのは、スターリン時代である。「緑の壁の西方」と「緑の壁の内側」との対比は、このSF小説の基本テーマである。

 

 )恩人と隣人

 

 「恩人」は、単一国の最高指導者である。「満場一致デー」は、その恩人の年1回の選挙日で、公開、挙手制である。私D−503号はすべての人が恩人に賛成するのを見ているし、すべての人は私が恩人に賛成するのを見ていた。

 

 「裁判祭り」は、恩人が単一国の異端者を立方体広場で処刑する日のことで、恩人が処刑機械のレバーに手をかけると、単一国の規律違反者の肉体は、人々の目の前で融けていき、溶解し、何も残らない。恩人は、「巨大な鉄の手」を付けていた。これは、レーニンが作成し、宣伝した「鉄の手で社会主義を建設しよう」というスローガンにたいする痛烈な批判の比喩である。なぜなら、1991年ソ連崩壊後に初めて判明した鉄の手による建設実態は、下記(表1、2)で分析するように、レーニンの赤色テロルによる無実の自国民数十万人殺人だったからである。

 

説明: http://www2s.biglobe.ne.jp/My%20Documents/syokei.jpg

『われら』「巨大な鉄の手と処刑機械」 「立方体広場、六十六の同心円がある―これが見物

席である」「罪人R-十三号が進んで行く、一段そしてまた一段―最後の臥床(ふしど)へ横た

わった。恩人が機械のまわりを回り、レバーに巨大な手をかけた。手がおろされ、電源が入

れられた。肉体が人々の眼の前で融けて行き、融けて行き、恐るべき速さで溶解してしまっ

た。これは毎回、奇蹟のようであった。恩人の超人的力のしるしであった。」(60〜64頁)

 

 『われら』における、この公開処刑シーンは、ザミャーチンの空想シーンではない。レーニンが直接出し、数十万人殺人結果を引き起こした極秘指令とその執行事実がある。下記1918年資料の出典とその発掘経緯は、HP『農民』ファイルに書いた。

 

    『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』

 

 (資料1)、1918年8月18日、レーニンによる反乱農民への絞首刑指令

 

 「ロシア連邦ソビエト共和国 人民委員評議会議長 モスクワ・クレムリン 一九一八年八月十一日

 ペンザ市ヘ クラエフ同志、ボシ同志、ミンキン同志他のペンザ市の共産党員達へ

 同志諸君!

 五つの郷での富農(クラーク)の暴動に対し仮借なき鎮圧を加えなければならない。富農達との最後の決定的戦闘に臨むことは、全革命の利益にかなっている。あなた方は模範を示さなければならない。

 

 一、正真正銘の富農、金持ち、吸血鬼を最低百人は絞首刑にすること(市民がみんな見られるように、是非とも絞首刑にしなくてはならない)。

 二、彼らの名前をすべて発表すること。

 三、彼らの所有している小麦をすべて奪うこと。

 昨日の電報通りに人質を決める。そして吸血鬼の富農達を絞め殺し、その姿を百マイル四方の市民すべてに見せつけて、彼らが恐怖におののき、叫び声をあげるようにしなければならない。(私の)電報の受取とその内容の実行について、電報を打ちなさい。

     あなたのレーニンより  追伸 できるだけ、不撓不屈の精神の人を探しなさい。」

 

 レーニンの公開絞首刑指令には、3つの問題がある。

 第一、ペンザ市のボリシェヴィキは、レーニンの殺人指令を完璧に執行した。

 

 第二、レーニンは、この犯罪的な公開処刑指令を、1918年から1921年にかけて、ソ連全土で執行させ、反乱農民数十万人を殺害した。彼は、マルクスの根本的に誤った机上の空論である市場経済廃絶理論、商品=貨幣経済システムも廃絶する理論を絶対的真理と信じた。そして、それを1918年から「食糧独裁令」として具体化し、穀物・家畜の軍事・割当徴発を、チェーカー・赤軍の暴力を使って、強行した。白衛軍との内戦とは別に、ソ連全土で、レーニンの誤った路線にたいする農民反乱、労働者ストライキ、兵士・水兵反乱が勃発したのは必然だった。レーニンは、国民総反乱による1920、21年の政権崩壊危機を、自国民大量殺害手段と公開処刑指令で切り抜けた。

 

 第三、しかも、この殺人指令における「富農」レッテルは、レーニンによる真っ赤なウソであった。1918年8月時点に、80%・9000万農民に富農は存在しなかった。ロシア帝政末期のストルイピン土地改革で、ヨーロッパ型の農業経営政策により、富農が生まれていた。しかし、1917年二月革命で、帝政が倒されると、5月頃から、ロシア全土で農民の土地革命が勃発した。農民たちは、貴族・地主・富農の土地すべてを暴力で収奪して、農村共同体内で、平等に分配した。飢餓により都市から農村に脱出してきた者を除いて、富農・貧農はなくなり、90%以上が土地持ちの中農になっていたのである。この土地革命は、農民が自力で行なったもので、ボリシェヴィキは関与していない。レーニンも5月のロシア農民大会に出席して、農民要求の支持演説をし、この実態を熟知していた。

 

 レーニンは富農など存在しなくなったことを承知の上で、「食糧独裁令」に反対した反乱中農農民にたいして、ウソのレッテルを貼り付けて、大量殺人を正当化する詭弁を使ったのである。レーニン・スターリンは、この土地革命を評価せず、ロシア革命史から抹殺した。トロツキーは『ロシア革命史一』(岩波文庫)において、この土地革命を詳述している。梶川伸一は、『飢餓の革命』『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』の2冊・1210頁において、ソ連崩壊後に発掘された膨大なアルヒーフ(公文書)を研究・分析し、この経過と実態を論証した。さらに、彼は、その結論として、労働者・農民の政治的軍事的同盟という労農同盟が、実態として存在せず、その本質はボリシェヴィキ一党独裁権力による80%・9000万農民の抑圧・支配体制であり、「労農同盟が成立している」というのは、レーニンのウソであったとして、ロシア革命史の根本的見直しを提起している。

 

 恩人は「堂々とした四角い額」を持ち、「禿げ頭の、ソクラテスのように禿げた頭をもった男で、その禿げた所に小さな汗のしずく」があった。一方、私D−503号のガラス張りの部屋の右手に「隣人」のガラス張りの部屋があった。その隣人はいつも本を読んでいた。「彼の禿頭はこぶがあったり、凸凹している。額は巨大な放物線である」「額の上にはっきりといくつかのしわを見た……黄色い判読できないような何行かの文字のようなしわ」があった。

 

 ザミャーチンは、恩人と隣人の共通する頭部の特徴について繰り返し描写している。同一人物を、(1)最高指導者で、死刑執行人としての恩人と、(2)いつも読書、執筆している隣人とに分類して、二元的に描いている意図は明白である。この頭部描写によって1920、21年のレーニンを暗示した。これは、レーニンの有名な写真である。

 

説明: http://www2s.biglobe.ne.jp/My%20Documents/IMG00061.jpg

 

 )守護局と私の担当守護者S

 

 単一国の国家体制には守護局、行政局、医薬局、オペレーション局(脳手術局)があった。「守護局」とは、国民監視の秘密警察組織である。守護天使とは革命前のロシア語で、警察のことを指す隠語だった。

 

 どんな手紙でも、まず守護局を事前に通過しなければならない。単一国の規律に違反した場合、それを守護局に報告する義務があり、未報告者には罰則があった。「薄膜録音器」がスマートに偽装されていて、すべての道路で守護局のために街頭の会話を録音していた。

 

説明: http://www2s.biglobe.ne.jp/My%20Documents/touchou.jpg

『われら』「守護局の街頭薄膜録音器」 「私は最近、ニュー・タイプの街頭

薄膜録音の曲率計算をやった。現在、この薄膜録音器はスマートに偽装され

ていて、すべての道路で、守護局のために、街頭の会話を録音しているのだ」

「自由と犯罪は切り離し難く結びついている。飛行機の速度=0なら、飛行機

は動かない。人間の自由=0なら、人間は罪を犯さない。人間を罪から救い

出す唯一の手段は、人間を自由から救い出してやることである。」(48頁)

 

 守護局の飛行機が常時上空をゆっくりとした低空飛行で飛んでいた。その飛行機は「黒い長い象のような監視管」をぶらさげていた。

 

説明: http://www2s.biglobe.ne.jp/My%20Documents/stels.jpg

『われら』「長い監視管をつけた守護局の飛行機」 「上の方のあまり高く

ない所で…五〇メートルぐらいだろうか。ゆっくりした低空飛行と、ぶらさ

がっている黒い長い象の鼻のような監視管から、私には守護者たちの飛行

機であることが分かった。機数は一〇ないし二〇機であった」(153頁)

 

 秘密警察メンバーの「守護者」は大群勢で、「われら」の隊列の中に人知られずどこかにいた。「守護者S」は、私にいつも影のようにつきまとっていた。レーニンは、赤色テロル秘密政治警察チェーカー要員のチェキスト人数を、このSF小説執筆時点の1921年初めに28万人にまで増加させた。ソ連崩壊後に発掘されたその詳細なデータは、ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書』にある。

 

    ニコラ・ヴェルト 『共産主義黒書−犯罪・テロル・抑圧−〈ソ連篇〉』

 

説明: http://www2s.biglobe.ne.jp/My%20Documents/S.jpg

『われら』「国民番号と守護者」 「空色のユニファ(ユニフォームの古語)を着て、

服には金色のバッジをつけていたが、バッジには銘々の国民番号が記されてい

た」(12頁)。「単一国万歳! 員数成員(ナンバー)万歳! 恩人万歳! すべ

ての成員はナンバーで呼ばれる。その一人一人に、やさしく厳しい守護天使

がついている。D−五〇三号=私、の担当守護者は、S字型に曲がっているS

である。S…なぜこのところ彼は私につきまとうのか…影のように。」(110頁)

 

 規律、義務違反者は守護者たちに直ちに連行されたが、それを見聞しても、その連行事実について誰も大きな声では話さない。それは「われら」の周りにいる守護者たちの教育的影響によるものである。

 

 連行された者たちは「ガス室の鐘」に入れられた。それはガラスの鐘形の蓋で、規律違反者を中に入れ、エアポンプで中の空気を次第に希薄にしていくか、またはガスを注入した。ほとんどの者は一度だけですべてを自白した。これは単一国の安全保障のための装置である。自白後は、前述の裁判祭りで、恩人の手によって公開処刑された。

 

 )反乱計画、進行と恩人による鎮圧

 

 以上の体制の中での主な登場人物は、D−503号の私、I−330号の反乱者リーダー、恩人、私を担当する守護者Sである。この体制は、1000年前に全地球を征服した単一国の権力下に置かれていた。しかし現在は、「緑の壁」の西方地域にはまだ混沌とうなり声と死体、野獣がおり、理性を裏切ったおびただしい数の員数成員たちもいた。

 

 D−503号の私は、「宇宙船インテグラル」の製作担当官である。インテグラルとは、統合、統一を意味し、この体制発展の象徴的存在となっている。ただ私の位置づけは、「私でなく<われら>である。<われら>は神に、<われ>は悪魔に由来する。<すべての人><>も単一の<われら>なのであるから」「私自身は誰なのだ、<彼ら>なのか<われら>なのか」ということである。<彼ら>とは敵であり、<われら>とは同盟者という意味で使われている。

 

 D−503号のセックスクーポン相手はO−90号である。そこへこの体制の反乱計画のリーダーであるI−330号が接触をはかってきた。彼女は、緑の壁を破壊し、全土に緑の風を行き渡らせるため、宇宙船インテグラルを乗っ取り、反乱を成功させようとするグループの一人である。DはIとの愛に溺れていった。しかしDの思考はあくまで体制側のものである。D−503号「君たちの計画しているのは革命だろう。不合理だよ。なぜって革命なんかあり得ないからさ。われらのやった革命が最後の革命だったんだ」。I−330号「最後の革命なんかないのよ。革命は無限よ」。

 

 Iたちは反乱計画を着々と進行させ、組織していった。ついに、恒例の恩人選出の「満場一致デー」で、「反対の者は」の声に、数千の手が上に向かって振り上げられ、<反対>を宣した。

 

 一方、体制側は、「オペレーション局」で全成員の脳外科手術をいっせいに強行した。国家新聞は「諸君は病気なのである。その病気の名前、それは想像力である。単一国科学の最新の発見によって想像力中枢の存在が明らかになった。その脳神経節のX線による三回の焼灼を受ければ、諸君は想像力病を治癒しうるのである。急げ、全員急いで大外科手術を受けよ。大外科手術万歳、単一国万歳、恩人万歳」とキャンペーンをした。また「全成員は手術を受けに出頭すること。欠席者は恩人の機械の所管するものとなろう」と脅迫した。

 他方、街角には、<機械打倒、手術打倒>の紙がいたる所に張り出された。

 

 その中で、宇宙船インテグラルが完成し、最初の実験飛行が開始された。私D−503号は制作担当官として飛行を指揮した。その乗員にはI−330号をはじめ反乱メンバーが入り込んでいた。しかしそこには守護局も乗り込んでいて、反乱者全員が逮捕された。それは、私D−503号を慕う別の女性が、I−330号に嫉妬し、守護局に反乱計画を密告したことによるものだった。

 

説明: http://www2s.biglobe.ne.jp/My%20Documents/spaceship.jpg

『われら』「宇宙船インテグラルの反乱と失敗」 「守護者の名において

―お前たちに告げる。守護者は聞いている。われらはすべてを知って

いる。<インデグラル>はもうお前たちのものではない!」(260頁)

 

 宇宙船乗っ取り反乱鎮圧後のある晩、私をふくめ人々の全部が「想像力摘出手術証明書不携帯」のかどで逮捕され、テーブルに縛り付けられ、大手術を受けさせられた。「私D−五〇三号も、頭から何か刺のようなものが引き抜かれ、頭の中が軽くなり、空になった。正確に言うなら、空ではなく、異質なもの、微笑をさまたげられるようなものは何もなくなった。微笑は正常な人間の正常な状態である」。

 

説明: http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/orwell.files/image006.jpg

『われら』「想像力摘出手術」 「全員急いで大外科手術を受けよ、恩人

万歳!」「私も、想像力摘出手術証明不携帯のかどで逮捕され、テー

ブルに縛りつけられ、大手術を受けさせられたのである」(298頁)

 

 翌日、私D−503号は恩人のもとに出頭し、彼に「幸福の敵」たちについて知っていることをすべて話した。恩人は「連中にとっては、君は単に<インテグラル宇宙船>制作担当官として必要だったんだ。君によって得られることだけが……」として手術された私D−503号を許した。

 

 「ガス室」における反乱者たちの拷問シーンが描かれた。ソルジェニーツィンは、『収容所群島』「審理」において、レーニンのチェーカー、スターリンのNKVDによるレーニン型共産党が行なった32種類の拷問を克明に描いた。そして、この小説は「明日彼らはみな恩人の機械に至る階段を昇るであろう」……という反乱の鎮圧で終わる。

 

    ソルジェニーツィン『レーニン型共産党が行なった32種類の拷問』

 

説明: http://www2s.biglobe.ne.jp/My%20Documents/glassbell.jpg

『われら』「ガス室とガラスの鐘」 「その日の晩、あの方、恩人と同じテーブルに

座っていた。私は(初めて)有名な「ガス室」にいたのだ。あの女性が連れてこられ

た。彼女はガラスの鐘に入れられた。鐘の中から空気がポンプで抜き取られると、

彼女は頭をうしろへそらし、眼を半分閉じ、唇を噛みしめた。彼女は引き出され、

電極の力を借りて、急速に意識を回復させられ、また鐘の下に入れられた。かくし

て三回反復された。しかし、彼女は依然として一語も語らなかった。」(299頁)

 

 4、ドストエフスキーとザミャーチン

 

 この『われら』には、ドストエフスキー作品の影響が強く見られる。むしろザミャーチンは、ドストエフスキーの視点、文言、構成などを、それとわかるように意図的に、パロディ的に使用していると言ったほうがいいかもしれない。そのごく一部だけを考えてみる。

 

 )、『地下室の手記』と『われら』

 

 ドストエフスキーは、『地下室の手記』を名前のない地下室の住人のモノローグ形式で、題名なしの21節に分けて書いた。そして有名な「諸君、あまりに意識しすぎるのは病気である」「たんに意識の過剰ばかりでなく、およそいっさいの意識は病気なのである」とのモノローグを発した。また「二二が四は数学なのだ」「二二が四だけが幅をきかすようになったら、もう自分の意思も糞もないじゃないか。自分の意思がそんなものであってたまるか!」として、ナロードニキ哲学者・作家チェルヌイシェフスキーの革命小説『何をなすべきか』の水晶宮批判を強烈に展開した。

 

 これを受けて、ザミャーチンは『われら』で、国民番号D−503号という名前のない、単一国メンバーのモノローグ形式で、覚え書を40節に分けて書いた。D−503号は「個人の意識は病気に外ならぬというのは明白ではないか」「病気の名前、それは想像力である」「魂は病気なのだ」とした。そして単一国全成員への強制的想像力中枢焼灼手術を描いた。また「二掛ける二は情熱的な四に永遠に合流する」と覚え書に書かせた。

 

 )、『カラマーゾフの兄弟』の『大審問官』伝説と『われら』

 

 ドストエフスキーは『大審問官』伝説で、恐るべきアンチユートピアの世界を提示した。自由と幸福について、神と服従について、群集と支配者の関係についての革命後社会の様相を1870年代に洞察した。その内容は、『ドストエフスキーと革命思想殺人事件の探求』で書いた。

 

説明: http://www2s.biglobe.ne.jp/My%20Documents/iesu.jpg

『大審問官』 一五世紀すぎて再び現われたキリストと、彼を捕らえた大審問官

「人々がわれわれのために自由を放棄し、われわれに服従するときこそ、

はじめて自由になれるということを、われわれは納得させてやる」

 

 彼の洞察を受けて、ザミャーチンは1920、21年の現実の革命後社会に基づいてD−503号に語らせた。「人間を犯罪から救い出す唯一の手段は、人間を自由から救い出してやることである」「自由なき幸福か、あるいは幸福なき自由かで、第三の選択は与えられなかった」「恩人、処刑機械、ガス室の鐘、守護者…これらがわれらの非自由、つまりわれらの幸福を保障している」とした。

 

 そしてドストエフスキーの『悪霊』におけるシガーレフの革命後の未来社会共同体構想、『大審問官』伝説でのさらに詳細に考察された構想を受け継いで、「われわれはふたたびアダムとイブのように純真で無邪気になって、善悪についての混乱もなくなって、すべてはまったく単純になり、楽園のように、子どものように単純になった」と革命後社会を描いた。

 

 小説の最後における、私D−503号と恩人との対話は、『大審問官』伝説での沈黙のイエスキリストを前にした大審問官の一人芝居モノローグ形式と内容を意図的に取り入れた。恩人は私D−503号に語りかけた。「どうしたね、なぜ黙っているのかね。死刑執行人と思っているのかね」「君は、私の殻を取って、その中に何があるかを見ようと試みたことがあるかね」と切り出した。

 

 その上で恩人は、大審問官と同じ趣旨で神とキリスト教徒との関係を述べて、「真の人類に対する愛は誤ることなく非人間的なものとなり、真実の誤ることのないしるしはその残酷さにある」と宣言した。恩人は私に対して「想像力の手術を受けた至福の人。手術を受けて初めて至福を得るわけだ」と祝福するのである。

 

    『ドストエフスキーと革命思想殺人事件の探求』

 

 5、1920、21年のレーニン批判文学作品としての『われら』

 

 〔小目次〕

   1)1920、21年までのソヴィエト初期社会主義時代をどう見るか

   2)守護局=チェーカー、恩人=レーニン

   3)宇宙船インテグラルの反乱=クロンシュタットの反乱

   4)レーニンによるクロンシュタット・ソヴィエト反乱者皆殺しの実態

 

 )1920、21年までのソヴィエト初期社会主義時代をどう見るか

 

 ソ連崩壊前までは、スターリン時代を別として、レーニンが指導した十月革命は、世界最初の社会主義革命として、かつ、プロレタリアート、農民、兵士の楽園を実現したものとしてバラ色に包まれ、描かれていた。しかし、そのロシア革命にボリシェヴィキの一員として参加し、ゴーリキーらとともに文学運動の中心指導者の一人であったザミャーチンが、なぜソ連国内における初めてのレーニン批判文学作品を執筆するようになったかを考える必要がある。

 

 ただ、ロシア革命評価・レーニン評価とその視点は、一様でない。ヨーロッパの共産党は、1989年東欧革命から1991年ソ連崩壊の大津波を、大陸地続きで直接受けて、ポルトガル共産党を除き、全滅した。フランス共産党は、党員数6万人に激減し、党機関紙ユマニテ発行も商業新聞社に委託するなど、共産党名が残っているが、事実上、半崩壊状態となっている。ソ連崩壊後に発掘された「レーニン秘密資料」6000点や膨大なアルヒーフ(公文書)によって、レーニンの自国民数十万人大量殺人犯罪が判明した。それは、当時の歴史的状況や革命に犠牲がつきものとするには、けた違いの数字である。しかも、その殺人犯罪の実態は、批判・抵抗者を殺さなければレーニン側が殺されたから、やむをえなかったと正当化できる性質のものではない。

 

 しかし、高度に発達した資本主義国においては、東方の島国の日本共産党だけが、唯一生き残っている。また、日本の左翼や知識人の中には、ヨーロッパと比べると、レーニン信奉者が依然として多い。この文は、ザミャーチン『われら』の文芸評論を通した、私(宮地)独自のロシア革命評価・レーニン評価である。ただ、それは、全般的な評価ではなく、レーニンが殺した自国民数と殺し方、および、レーニンに殺害された労働者・農民・兵士数十万人の側から、レーニンの再検討をするという特殊な視点に基づいている。

 

 レーニンの政治体制とは、マルクスのプロレタリア独裁理論に基づき、民主的選挙で多数派となって政権を掌握する路線を拒否し、単独武装蜂起で国家権力を奪取し、その18日後から始まった憲法制定議会選挙において、得票率・議席25%しかとれなかった少数派が秘密政治警察チェーカーの暴力で政権を無理やり維持するという内実だった。暴力革命を遂行する軍事・政治組織としてのマルクス主義前衛党は、社会全体の中での改良の積み重ねという社会民主主義、議会制民主主義路線を暴力で抑圧した。ソ連崩壊後のデータで明らかになったことは、レーニンが、メンシェヴィキ・社会革命党などの他社会主義政党・アナキストらに、恣意的に「反革命」のレッテルを貼りつけ、他党派絶滅・大量殺人政策と表裏一体の一党独裁システムを意図的に追及したことだった。このスタート時点から、そのいびつな体制は崩壊を運命づけられていたといえる。

 

 なぜなら、1917年十月ボリシェヴィキの武装蜂起・単独権力奪取の、18日後に始まった憲法制定議会選挙で、707議席中、第一党の社会主義政党エスエル410議席(うち左派40議席)に対し、175議席しか取れなかった少数派のボリシェヴィキが、ツアーリ専制崩壊後の普通選挙で選ばれた議会を武力解散するというクーデターで暴力的に権力奪取した瞬間から、その国家権力を死滅させるどころか、国家権力という暴力装置の肥大化なしには、自らの不法なクーデター権力維持は不可能となったからである。

 

 クーデターについて、広辞苑は「急激な非合法手段に訴えて政権を奪うこと。通常は支配層内部の政権移動をいい、革命と区別する」としている。十月にケレンスキー臨時政府を倒したのは、ボリシェヴィキ、メンシェヴィキ、エスエル等のソヴィエト内社会主義3政党とアナキストが中心勢力で、その性格は革命である。しかし、単独武装蜂起を敢行したボリシェヴィキによる一党政権が成立した。その18日後に始まった憲法制定議会選挙は、支配層となった上記社会主義3政党が中心となった民主的選挙だった。ボリシェヴィキはその選挙で敗北したのである。レーニンには、選挙で国民の4分の1の支持しか得られない以上、410議席の社会主義政党エスエルに政権を渡すか、3党連立政権を作る選択肢があった。レーニンはそのいずれをも拒否し、憲法制定議会召集第一日目で、それを武力解散させた。このレーニンの行為は、革命ではなく、権力をとった革命諸勢力の中でのクーデターそのものである。

 

 1918年1月5日の憲法制定議会武力解散行為の性格をクーデターと規定する見解は、ロシア人研究者の中では、かなり広がっている。日本では、加藤哲郎一橋大学教授が「クー」としている。coup(クー) coup 'etat(クーデター)と同じ意味である。中野徹三札幌学院大学教授は、『社会主義像の転回』で、レーニンのこの行為の詳細な研究をしているが、中野氏はクーデターという用語は使っていない。

 

    中野徹三『社会主義像の転回』制憲議会解散論理、1918年

 

 もっとも、どの行為をクーデターと規定するのかについては、様々な見解がある。ソヴィエト内社会主義3党のケレンスキー臨時政府にたいする対応は複雑だった。1917年10月前後、すべての権力をソヴィエトへのスローガンが高まった。その中で、レーニンとボリシェヴィキがエスエル、メンシェヴィキを出し抜いて、ボリシェヴィキだけの単独武装蜂起を決行したことをクーデターと規定し、批判する意見は、ボリシェヴィキ武装蜂起の時点に、ボリシェヴィキ内部からも、他党からも出されていた。

 

 その問題に関して、中野徹三氏から次の内容の手紙を頂いた。宮地さんは、制憲議会解散をクーデターと規定するということであるが、私は、十月革命自身を一つの(独自の)クーデターとしてまずとらえております。私は、クーデターの語は用いていないが、十月武装蜂起と呼んで、十月革命の伝統的概念の変更を試みている。そして、十月武装蜂起そのもののうちに、制憲議会の受容そのものを不可能にする論理が内包されていたこと、そしてそれは内戦を不可避的によびおこし、他党派への弾圧、および、一党独裁とスターリン主義への道を大きく開いたことを論証したつもりである。

 

 マルクス、レーニンの国家論、国家権力の暴力的奪取論の落とし穴は、このクーデターが成功した瞬間から、蟻地獄のように抜け出せないものとなった。

 

 投票率約50%で、175議席、25%というロシア国民の4分の1の支持しか得られない少数派が、二月革命、十月革命をともにたたかい、410議席で第一党となった社会主義政党エスエルに政権を渡すのではなく、連立政権を組むのでもなく、クーデターで不法に権力奪取した以上、他党派の猛反発、国内に大混乱と内戦と食糧難が起きるのは当然だった。ただ十月革命後、ボリシェヴィキとエスエル左派の連立政府ができたが、3カ月足らずの短期間で終わった。

 

 ヨーロッパ、日本の軍事・経済干渉の外部要因がそれら発生の重要な原因として上げられる。しかし基本は内部要因である。ソ連反体制歴史学者ロイ・メドヴェージェフは、ソ連崩壊後のデータ発掘・研究によって、内戦を引き起こした第一要因は、白衛軍や軍事・経済干渉の外部要因ではなく、憲法制定議会武力解散という内部要因であると断定した。さらに、内戦の第二要因は、レーニンの根本的誤りとしての1918年5月食糧独裁令発令と、それによる、80%・9000万農民からの穀物・家畜の軍事割当徴発であるとした。

 

    ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁令の誤り

 

 一方、レーニンらの十月ボリシェヴィキ単独武装蜂起決行と1918年1月5日憲法制定議会武力解散の決断は、ドイツ革命が連鎖的に発生し、成功することを予測し、その成功を絶対的前提条件としていた。ドイツ革命の勃発とその敗北経過の詳細は、レーニンらの情勢判断がいかに非現実的、かつ、空想的であったかを証明した。

 

 それは、普通選挙に基づく憲法制定議会への少数派による武力議会解散の反民主主義的暴挙とドイツ革命の成功を前提とする空想主義的誤りという二重の誤りだった。そのクーデター権力を、(1)ドイツ革命の支援なしに、ソ連一国で、かつ、(2)他の社会主義政党、革命諸勢力の猛反発を受けつつ、ボリシェヴィキ一党で維持することは、通常の国家運営のやり方では不可能だった。スタート時点からの二重の誤りとそこからくる歪みは、ソ連全土、他党派関係、各ソヴィエト内で加速度的に広がっていった。

 

 このテーマに関して、中野徹三は、『社会主義像の転回』第1部憲法制定議会とその解散、制憲議会解散の論理とロシア革命において、詳細な分析をしている。

 

 (1)最初の食糧難と軍事的穀物割当徴発=食糧独裁令、(2)1920年まで続く内戦と戦時体制、(3)単独武装蜂起権力奪取と同時のカデット、ブルジョア新聞などの出版の自由抑圧、()その問題をふくめた他党派によるクーデター政党=ボリシェヴィキ批判、()そしてレーニンによる他党派粛清、逮捕、銃殺などが連続して発生した。カデットなどの保守政党だけでなく、エスエル、メンシェヴィキ、左翼エスエルをふくむ約10の社会主義党派は、1921、22年にかけ、レーニンによる粛清指令で完全に消え去り、レーニン生存中にボリシェヴィキの一党独裁が完成した。

 

 それらの誤り、歪みを逆に正当化し、理論化し、維持したのは、レーニン、チェーカーと赤軍だった。内戦終結後も続く戦時体制とボリシェヴィキの違法な粛清の結果としての一党独裁に対して、1920年以降農民の暴動とペトログラートの労働者ストライキが頻発し、ついに1921年2月末クロンシュタット・ソヴィエトの反乱が起きた。

 

 それは、ソヴィエトの再生を唱え、ソヴィエト内部で発生した反乱だった。レーニンは、それを武力で鎮圧するとともに、同時に開催中の第十回大会でフラクション禁止(分派禁止)を決議し、党内民主主義を抑圧した。翌1922年前半には、数万人の聖職者を銃殺し、数万人の信徒を殺害した。1922年後半に、数万人の知識人、文化人を逮捕、国外追放、または強制収容所送りにした。これらを通じて、レーニンは、無実の自国民数十万人を粛清・殺害した。このデータ詳細は、HPファイル『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが殺した自国民の推計』に載せた。また、これらの問題に関する綿密な研究として、大藪龍介『国家と民主主義。第2篇第2章個人独裁、党独裁の容認。第3篇第4章ネップ導入と政治の逆改革』がある。

 

    『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが“殺した”自国民の推計』

    大藪龍介『国家と民主主義』1921年ネップとクロンシュタット反乱

 

 レーニンが、1922年12月16日の第2回発作後に、スターリンに対して行なった最後の闘争があったとしても、スターリンはレーニン思想の正統な継承者として、レーニンの民主主義抑圧路線を全面的に維持し、拡大したのである。ザミャーチンは、ゴーリキーとともに文学運動の中心で活躍しながら、ソ連内部で以上を全体験した。

 

 )守護局=チェーカー、恩人=レーニン

 

 ザミャーチンは守護局、守護者を、アンチユートピアSFとしてかなりオーバー気味に描写し、秘密警察国家システムとその未来を予測している。これは明らかに1921年までのチェーカーをモデルにしたものである。また守護局と恩人との関係描写も、チェーカーとレーニンとの関係を念頭に置いたものである。SFスタイルで誇張した書き方にしなければ、ゴーリキーと並ぶ有名作家の彼といえども、レーニン指令による1922年の逮捕だけに留まらず、強制収容所送りか銃殺にされていたであろう。ゴーリキーや友人たちによる必死の運動で釈放された後、レーニン・スターリンは、彼の言論・出版の自由権を全面剥奪した。彼の創作は、『われら』で途絶させられた。以後、ソ連共産党は、ザミャーチンを、レーニン批判の反革命分子としてソ連文学史からも完全抹殺した。

 

 チェーカーは、1917年12月に設立され、その初代議長はジェルジンスキーだった。その意味は「反革命・サボタージュ・投機行為取り締り全ロシア非常委員会」である。レーニンの「赤色テロルを活用し、反革命分子を摘発した現場で、即座に射殺しなければ我々は何事も達成できない」という方針に基づいて、ジェルジンスキーは何の制約も受けずに活動できた。

 

 政府には、警察を管轄する内務人民委員が存在していたが、レーニンはそれとは別に超法規的な措置が可能な秘密警察の設置を強力に主張し、実現させた。1918年には、地方、運輸部門、軍隊内にも創設され、裁判所の決定なしに逮捕、投獄、処刑を行いうるようになった。同年9月、人民委員会議は白色テロルに対する赤色テロルを宣言した。

 

 チェーカー問題についてのレーニンの肩入れは徹底している。ソ連崩壊後明らかになったレーニンの、秘密資料中のジェルジンスキー宛の指令メモでは「監禁、監視などは徹底的に行うこと。不意の捜査、犯罪捜査のあらゆる技術を駆使した二重、三重のチェックシステムなど」と指示している。また別のメモでは「逮捕するなら夜が好都合」とも書いている。

 

 レーニンは、1919年10月22日のトロツキー宛のメモでは「攻勢の始めに際して…千人のブルジョアを動員して、その背後に機関銃を置いて、その何百人かを射殺する、といったことが出来ないか?」と質問した(as faule Gift er Macht.in:SpiegelNr.14、1990、S.196)。レーニンの背後からの機関銃による大量殺人思想は、(1)イダ・メット『クロンシュタット・コミューン』にあるように、1921年3月クロンシュタット反乱鎮圧において、クロンシュタット水兵側に降服しようとする赤軍兵士を背後からの機関銃によって大量殺人をしたこと、(2)1939年9月ソ連軍が捕虜にしたポーランド将校15000人を、スターリンの指令によってNKVDが、スモレンスク近郊のカチンの森で背後からの機関銃により全員虐殺したこと……で実行された。カチンの森での犠牲者は、45%が職業軍人、他の多くは予備役で召集された弁護士、裁判官、医師、大学教授など当時のポーランド社会の中心的な人々だった。アンジェイ・ワイダ監督の父親も、犠牲者の一人だった。ゴルバチョフは、それをNKVDの犯行と認め、ポーランド政府に正式に謝罪した。

 

 1921年5月14日、レーニンを議長とする政治局は「死刑の適用に関するチェーカーの権利の拡大」の動議を可決し、それに関する法律を成立させた。

 

 1922年5月15日、レーニンは司法人民委員クルスキーに「銃殺刑の範囲をメンシェヴィキ、エスエル、その他あらゆる形態の反革命の活動に拡げること」と指示した(レーニン全集第42巻)。その2日後の5月17日、レーニンはクルスキー宛の手紙で「テロルの本質と正当性、その必要性、その限界を述べた原則的な政治的に正しい命題を公然と掲げるということが、それである。裁判所はテロルを排除してはならない」とした(レーニン全集第33巻)

 

 塩川伸明『「スターリニズムの犠牲」の規模』(表8)にあるように、レーニン生存中に治安機関によって反革命罪で裁かれた人の数は、1921年35829人、内死刑9701人、1922年6003人、内死刑1962人、1923年4794人、内死刑414人だった。1920年までの統計がないのは、チェーカーによる裁判なき処刑が公然と行われていたからである。

 

    塩川伸明『「スターリニズムの犠牲」の規模』粛清データ

 

 1998年に来日したロイ・メドヴェージェフの講演によれば、1910年代のロシアでは、社会主義を志向する約10の政党、政党グループが存在し、活動していた。レーニンの上記指令とチェーカーの裁判なき処刑により、カデットなどの自由主義政党だけでなく、それらの社会主義志向政党も、それらの政党はすべて反革命、武装反革命に転落したというレーニンらの捏造、因果関係の歪曲により、1922、23年までにすべて逮捕、銃殺され、ボリシェヴィキの一党独裁制が確立していった。

 

 エスエル、メンシェヴィキ等の一部がボリシェヴィキ一党独裁政権に対して、武装闘争の準備をしたのは事実である。しかし、そもそものスタートは、憲法制定議会を4分の1議席のボリシェヴィキが武力解散というクーデターで不法に権力奪取したことにある。その違法なクーデターで権力を奪われた他の社会主義党派は、当初は言論でレーニン、ボリシェヴィキ批判をしていた。レーニンは、ボリシェヴィキ政権批判のすべてに対して反革命のレッテルを貼りつけた。レーニンは、さらにチェーカーを使ってエスエル、メンシェヴィキ幹部たちを続々と逮捕、投獄し始めた。

 

 その逮捕・銃殺について、ニコラ・ヴェルトがソ連崩壊後のデータを発掘している。「すでに一九二一年二月二十八日に、ジェルジンスキーはすべての地方チェーカーに以下のように命じていた。(一)すべての無政府主義的、メンシェヴィキ的、エスエル的インテリゲンツィア、とりわけ農業と食糧調達部門の人民委員部で働いている役人をただちに逮捕すること。(二)この活動開始後、工場で働いていて、ストライキやデモを呼び掛ける可能性のあるすべてのメンシェヴィキ、エスエルおよびアナキストを逮捕すること。

 一九二一年三月からのネップの導入は、抑圧政策の緩和どころか、穏健な社会主義の活動家の一層の抑圧を招いた。この弾圧は彼らが経済的新政策に反対する危険からではなく、むしろ長いこと彼らがこの政策を唱えてきて、その分析の正しさと洞察力を示したからであった。自称であれ、僭称であれ、メンシェヴィキとエスエルの唯一の居場所は…とレーニンは一九二一年四月に書いている…それは牢獄である。

 数カ月後になっても社会主義者がまだあまりにも活動的なのを見たレーニンは、もしメンシェヴィキとエスエルが、まだちらっとでも顔を見せるようだったら、容赦なく彼らを銃殺してしまえ! と書いた。一九二一年の三月から六月の間に二〇〇〇人以上の穏健な社会主義の活動家やシンパが逮捕された。メンシェヴィキ党の中央委員会の全委員が投獄された。シベリア流刑で脅迫された彼らは、一九二二年一月にハンストを始めた。ダンとニコラエフスキーを含む十二人の指導者が国外追放になり、一九二二年二月ベルリンに到着した。」(124頁)

 

    ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書』クロンシュタット反乱前後の他党派逮捕・銃殺

 

 それは、()単独武装蜂起権力奪取クーデター、(2)憲法制定議会武力解散クーデター、(3)1918年6月ソヴィエト機構から全他党派排除を決定し、ソヴィエトをボリシェヴィキ一党独裁機関に変質させたクーデターに次ぐ、4度目の反民主主義的暴挙だった。これはレーニンの党間民主主義抑圧・反対政党撲滅政策に基づくものだった。レーニンによる武力権力奪取と不法な暴力的弾圧に抗して、チェーカーにより撲滅寸前に追い詰められた社会主義他党派が、最後の手段として武装抵抗を準備するのは当然だった。しかし、ジェルジンスキーの秘密警察力の前では、その抵抗も無力だった。レーニンはそれに対して武装反革命というレッテルを貼りつけ、それらの幹部の銃殺を指令した。これらは、レーニンによる白黒逆転の論理、因果関係の歪曲にほかならない。レーニンは、事実関係の捏造、因果関係の歪曲を正当化し、マルクス主義言語を使って理論化する点ではまさに天才だった。このレーニンの全他党派抹殺指令の根底には、プロレタリアート独裁理論をボリシェヴィキ一党独裁にすりかえて正当化する詭弁的思想がある。大藪龍介は、『国家と民主主義』でこのレーニン一党独裁肯定・推進思想の分析をしている。

 

    大藪龍介『国家と民主主義』1921年ネップ導入と政治の逆改革

 

 たしかに、レーニンが憲法制定議会の武力解散をしていなくても、ソヴィエト型議会システムとヨーロッパの普通選挙型憲法制定議会との矛盾が激化したであろう。しかし、そのいずれも、社会主義3党が中心勢力であった。憲法制定議会が活動できたとしても、ロシアでは、うまく機能しなかっただろうというのは、一理ある。しかし、それは、武力解散を正当化する理由にはならない。それへの75%の国民と全他党派の強烈な反発こそが、メドヴェージェフが規定したように、内戦の第一原因を作ったからである。というのも、レーニンは、1917年5月のロシア農民会議の演説において、土地革命中の農民要求にたいして、12月から始まる憲法制定議会選挙を認め、その議会で要求を法制化するとの公約をしていたからである。

 

 しかも、武力解散4カ月後の1918年5月、レーニンが他党派と9000万農民の強烈な反対を無視して、強行した「食糧独裁令」は、憲法制定議会武力解散反対運動と合わせて、ボリシェヴィキの支持率を25%から一挙に10%台に激減させた。6月のソヴィエト選挙において、ボリシェヴィキは、18のソヴィエトで惨敗し、エスエルとメンシェヴィキが勝利した。レーニンは、チェーカーを使って、選挙惨敗のソヴィエトを強制解散させた。さらに、全ソヴィエトから、ボリシェヴィキ以外の社会主義他党派の追放を決定させた。

 

 ()11月の単独武装蜂起権力奪取、()1月の憲法制定議会武力解散、()マルクスの根本的誤りとしての市場経済廃絶理論をロシアに具体化した5月の食糧独裁令、(4)6月の選挙敗北したソヴィエトの暴力的解散、()6月の全ソヴィエトからの他党派追放は、全他党派とソ連国民を敵に廻す犯罪的な誤りであった。それらは、まさにレーニンによる5連続クーデターだった。レーニンを見限った90%前後の国民と他党派は、怒りに燃えて、レーニン・ボリシェヴィキの5連続クーデターに反対して、総決起し、デモやストライキを行なった。レーニンは、それらボリシェヴィキ批判勢力にたいして、「人民の敵」というレッテルを逆に貼りつけて、自国民の逮捕・銃殺・強制収容所送りを一段と推し進めた。このレッテルは、スターリンからでなく、レーニンが最初に使用したことも証明されている。一党独裁最高権力者レーニンによる暴力使用の果てしなき連鎖である。これらを、権力奪取をした以上、やむをえなかった行為と弁護できるであろうか。

 

 1922年春、チェーカーは国家保安部に改称された。しかし議長はジェルジンスキーのままだった。1917年から22年までのチェーカーの動向、チェーカーとレーニンとの関係については、ソルジェニーツィンが『収容所群島』第2章わが下水道の歴史で詳細な記述をしている。

 

 赤色テロル・オルガンとしてのチェーカーを使ったレーニンの赤色テロル路線とその自国民数十万人殺人結果については、1991年ソ連崩壊後、詳細なデータが発掘されつつある。()1920、21年執筆のザミャーチン『われら』において恩人がしたことと、()1920、21年、実在のレーニンがしたこととは、ほとんど同一であったことが判明してきた。そのデータは下記HPファイルにある。

 

    ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書−犯罪・テロル・抑圧−〈ソ連篇〉』

    スタインベルグ 『ボリシェヴィキのテロルとジェルジンスキー』

    ヴォルコゴーノフ『テロルという名のギロチン』『レーニンの秘密・上』の抜粋

 

 )宇宙船インテグラルの反乱=クロンシュタットの反乱

 

 ザミャーチンは造船技師の経歴を生かして、宇宙船インテグラルの製造、実験飛行をリアルに描いている。これはレーニンによるソヴィエト電化スローガンの象徴的事業をイメージしただけでなく、この体制に対する反乱計画の中心舞台に位置づけられている。

 さらに、1921年という『われら』執筆完了時期から見て、その反乱と舞台が1921年2月28日、クロンシュタット・ソヴィエトの水兵・労働者たちが、戦艦ペトロパヴロフスク号上でソヴィエトの民主化を要求する決議を採択したクロンシュタットの反乱を素材としてSF小説化していることは間違いない。

 

 ザミャーチンは、()1905年、オデッサで戦艦ポチョムキンの反乱を目撃してボリシェヴィキに加わり、()1916年、イギリスで砕氷船レーニン号(革命後の船名)の設計、製造を監督し、()今度は、1921年2月、ボリシェヴィキ一党独裁に反対し、民主化を求めるクロンシュタットの水兵たちの戦艦ペトロパヴロフスク号での逆の反乱を目撃した。それらの3つの艦船への体験と思い入れが、この小説では宇宙船インテグラルの反乱となって昇華されている。

 

 この事件は、「クロンシュタットの反乱」と呼ばれている。しかし、ソ連崩壊後に発掘されたデータによって、それは、当初からの反乱目的行動ではなく、ソヴィエト内における合法的な要請行動であったという見解も広まっている。クロンシュタットの15項目綱領の要求内容がそれを証明している。しかも、その時期は、3月初めであり、フィンランド湾は完全に凍結していた。戦艦を動かすことはできなかった。外国勢力との接触は一切なく、クロンシュタット水兵・労働者の独自行動だった。カリーニンの演説も聞いた上で、モスクワに帰還させている。ただし、それは、武器を持っていなかった農民反乱やペトログラードの全市的労働者ストライキ要求と決定的に異なっていた。それは、バルチック艦隊軍事基地における軍艦を持ち、もともと武装している水兵と基地労働者の要求だった。

 

 もし、ボリシェヴィキ一党独裁権力打倒の意図的な武装反乱であれば、その時期を、湾凍結がなくなる4月以降にするはずである。4月後の反乱決起ならば、凍結したフィンランド湾上を、トハチェフスキー指揮下の5万人の赤軍が突撃することはできなかった。それどころか、不満が高まっていたソ連全土の赤軍によるボリシェヴィキ政権打倒の軍事反乱に波及したであろう。

 

 クロンシュタット水兵・労働者の甘さは、レーニンが、ソヴィエト内の革命仲間として、平和的な交渉に応ずるだろうと錯覚したことにある。クロンシュタットの多数の宣言・チラシ内容を見ても、彼らは、トロツキーによる兵士委員会廃止、旧ロシア軍将官利用、軍隊のボリシェヴィキ化路線に厳しい批判を表しており、それも決起の一要因だった。しかし、なぜか、レーニンにたいしては、ほとんど批判せず、レーニンによる要求受け入れとソヴィエト改革に幻想を抱いていた。しかし、レーニンは一党独裁政権の崩壊に怯え、平和的な要求交渉を拒絶し、クロンシュタットの軍事鎮圧と皆殺し対応路線を採った。その時点から、ソヴィエト内部における合法的な15項目綱領の要請行動は、軍事反乱にならざるをえなくなった。

 

 クロンシュタットの反乱の背景には、1920年までに内戦が基本的に終了したのにもかかわらず、戦時体制を続けたボリシェヴィキ一党独裁政府に対する労働者、農民、兵士の不満がある。1921年二月革命拠点ソヴィエトのペトログラート労働者十数万人が、プチロフ工場労働者6000人を先頭として、一党独裁反対・食糧独裁令撤廃の全市的ストライキに総決起した。しかし、レーニンとジノヴィエフは、ペトログラード全市を軍事封鎖し、工場を逆ロックアウトした。さらに、ストライキ労働者を大量逮捕し、500人のストライキ指導者を即座に銃殺した。当時のペトログラードのボリシェヴィキ権力者ジノヴィエフが、レーニンの指令の下に、500人を即時殺害・銃殺した事実については、V・セルジュとメンシェヴィキ指導者ダンが明白な証言をしている。ペトログラード・チェーカーが、ストライキ労働者たちを、さらに大量銃殺しようとしたのにたいして、ボリシェヴィキのV・セルジュがなんとか止めさせた。彼は、その後、『母なるロシアを追われて』(現代思潮社)亡命した。

 

 クロンシュタットの水兵・労働者は、ペトログラード全市ストライキに連帯して、調査団を派遣した。彼らは、鎮圧・虐殺されたペトログラード労働者ストライキの要求項目を受け継いで、(1)ソヴィエトの秘密再選挙、(2)労働者、農民に対する言論、出版、集会の自由、(3)社会主義政党に属する政治犯の釈放という政治要求の他に、経済要求をふくめた15項目を採択した。1921年3月1日、16000人が参加したクロンシュタット大集会は15項目を採択し、あまりにも挑発的な演説をした一部共産党幹部を逮捕し、臨時革命委員会を設立した。この要求内容と行動は反社会主義的なものでなく、社会主義体制内部での民主化を求めるものだった。大会は、そこで反対演説し、反対投票した全露ソヴィエト執行委員会議長カリーニンを安全にペトログラードに帰還させることを承認した。

 

   

『The Truth about Kronstadt           『Kronstadt Uprising

 

 ソヴィエトとは、会議、和合などを意味したが、1905年革命で出現し、ペトログラード・ソヴィエトが中心だった。1917年二月革命でツアーリを退位させ、全国各地に労働者、兵士、農民のソヴィエトができ、全ロシア・ソヴィエト大会が作られた。十月革命でケレンスキー臨時政府が倒され、全権力のソヴィエトへの移行が実現した。1918年1月の第3回ロシア・ソヴィエト大会は、ロシアは、労働者・兵士・農民ソヴィエトの共和国である、中央および地方の全権力はこれらのソヴィエトに属すると決議した。

 

 クロンシュタットは、地図にあるように、ペトログラード(レニングラード)西方海上29qのフィンランド湾内のコトリン島にある軍港都市で、バルト海艦隊の主力基地だった。人口は当時約45000人だった。その内、水兵は10000人、艦隊基地労働者は4000人いた。1905年革命でも革命反乱を起こし、1917年十月革命では革命軍最大拠点の一つで、武装部隊をペトログラードにも派遣し、クロンシュタット水兵は<革命の栄光>としてたたえられた。ジョン・リードの『世界をゆるがした十日間』にも革命水兵たちの活躍や発言がいろいろ描かれているが、これらの水兵はほとんどがクロンシュタット・ソヴィエトの水兵たちだった。

 

説明: http://www2s.biglobe.ne.jp/My%20Documents/IMG00063.jpg

 

 革命運動の2つの最大拠点ソヴィエトであるペトログラード・ソヴィエトの全市労働者やクロンシュタット・ソヴィエトの全員が、なぜ十月革命から3年4カ月後に、ソヴィエトの民主化を要求して立ちあがったかを考える必要がある。15項目の要求は、その期間にレーニン、ボリシェヴィキによって権力がソヴィエトからどのように簒奪されていったかを証明している。クロンシュタット臨時革命委員会は、戦艦ペトロパヴロフスク、戦艦セバストポリ、クロンシュタット電話局、ドック修理維持工場、第3労働学校、海軍機雷敷設工場、クロンシュタット要塞建設部、港湾水先案内人等の、長い兵役についていた水兵・労働者代表者たちで構成された。

 

 ロシア共産党(ボリシェヴィキ)第十回大会直前に発生した、ボリシェヴィキ一党独裁への民主化要求と反乱がレーニンらに与えた衝撃は決定的だった。1921年3月8日、レーニンは第十回大会第一日目で「白衛軍将軍どもが――諸君はみなそれを御存知であるが――ここで大きな役割を演じたことは疑いない。それは完全に立証されている」と報告した。これは、レーニンの真っ赤なウソである。そもそも、クロンシュタットの最高指令官に、その旧ロシア軍将軍を配置したのは、レーニン・トロツキーであって、旧軍事専門家を利用する方針に転換したことによるものであった。一党独裁権力に執着するレーニンは、平気でウソをついたのである。

 

 レーニンには、十月革命時点の最大拠点の一つであるクロンシュタット・ソヴィエト内部からの民主化要求に譲歩や妥協する選択肢があった。しかし、彼はそれを白衛軍の新たな陰謀、西側の策謀による反革命反乱と捏造、歪曲し、その武力鎮圧を決定した。第十回大会は、鎮圧を命じられた赤軍内の動揺拡大、鎮圧行動拒否の動きを受けて、300人の代表団を赤軍政治委員に任命し、鎮圧に派遣した。

 

 この革命の栄光に包まれた、仲間のクロンシュタット水兵の鎮圧を、クロンシュタット側の要求の内容も知らされないままで、レーニン、ボリシェヴィキ一党独裁政権=ソヴィエトからの権力簒奪政権に命じられた赤軍兵士、部隊が動揺し、部隊丸ごと鎮圧出動を拒否し、あるいはクロンシュタット側に同調し、そこに降服しようとする者が大量に出るのも当然のことだった。レーニンは、それに対して赤軍の再編制を急遽、全土で大規模に行うとともに、上記のようにクロンシュタット臨時革命委員会側に降服、寝返りしようとする赤軍兵士の背後からの機関銃による大量殺人をも実行させた。

 

 

フィンランド湾氷上を突撃する赤軍        反乱者殺害・一掃の戦闘をする赤軍

『Kronstadt Uprisingimagesからの写真2枚

 

 アイザック・ドイッチャーは「ボリシェヴィキは、クロンシュタットの人びとを白色将軍に率いられた反革命謀反者として非難した。この非難が、根拠のないものであったことは、明らかになっている」(『武装せる予言者』オックスフォード大学出版、1954年、551頁)としている。レーニンのウソは、ソ連崩壊後、完全に証明されている。

 

 クロンシュタット・ソヴィエトのあるコトリン島は、全島とその周辺が海上要塞になっており、冬季はフィンランド湾が厚い氷で全面凍結した。鎮圧赤軍部隊5万人はその氷上を渡り、赤軍水兵10000人、基地労働者4000人が守る島の四方から総攻撃を仕掛けた。革命赤軍同士の戦闘という兄弟殺しの悲惨な戦闘を経て、3月18日反乱は鎮圧された。5万人対1・4万人の激烈な赤軍内の殺し合いだった。軍当局の発表では、赤軍側死者527人、負傷者4127人となっているが、ここには溺死者および負傷したまま氷上に置き去りにされて死亡したおびただしい人々はふくまれていない。クロンシュタット側の死亡、負傷の数字はなにもない。革命法廷の犠牲者数、その後の報復虐殺数も不明である。判っているのは、17、18日にかけて水兵やクロンシュタット・ソヴィエトの約8000人が、クロンシュタットを脱出して、フィンランドへ亡命したことだけである。1970年は人口39000人であるが、当時のコトリン島人口、約45、000人の残りが戦闘で死んだのか、『収容所群島』に送られたかも不明である。

 

説明: http://www2s.biglobe.ne.jp/My%20Documents/IMG00065.GIF  

地図の□印は、クロンシュタット側の海上堡塁。左図の赤矢印は、3月7、8日の

第一次攻撃だが、壊滅的な損害で退却。黄色基地と矢印は、3月16〜17日の

南北からの第二次総攻撃で、氷結した湾内の堡塁を占領し、市街戦で鎮圧した

 

 4)、レーニンによるクロンシュタット反乱者皆殺しの実態

 

 1991年のソ連崩壊後、レーニン指令による大量殺害データが、発掘された。

 『共産主義黒書』(恵雅堂、2001年)が、ソ連崩壊後に判明した衝撃的なデータを載せた。「作戦は三月八日に開始された。十日目にクロンシュタットは双方数千の犠牲を出して陥落した。反乱の鎮圧は容赦ないものだった。敗北後、投獄されていた何百人もが銃殺された。最近公刊された史料によれば、一九二一年四月〜六月だけで二一〇三人が死刑、六四五九人が強制収容所へ収監となった。クロンシュタット陥落の直前に約八〇〇○人が凍った広い湾を越えてフィンランドへ逃げ延びたが、結局彼らはテリオキ、ヴィボルグ、イノの移送収容所に強制的に収監された。彼らのうち大赦の約束に騙されてロシアに帰った者は、ただちに逮捕されてアルハンゲリスク近くの最も忌まわしい収容所であるソロフキ島とホルモゴールイに送られた。アナキスト系の史料によれば、ホルモゴールイに送られた五〇〇〇人のクロンシュタットの拘留者中、一九二二年春まで生き延びた者は一五〇〇人以下であった。同年、移送特別委員会は、事件の時要塞にいたというだけで、二五一四人のクロンシュタット市民をシベリアに送ったのだった!」(124頁)

 

説明: http://www2s.biglobe.ne.jp/My%20Documents/water.jpg

『共産主義黒書』「クロンシュタット反乱者たちを集団溺殺」 「ドヴィナ河畔の

ホルモゴールイの収容所は、多くの収容者を手早く処分することで、悲しい名声

を轟かせていた。平底船で上陸した囚人は首に石を、両手に手枷をつけられて、

川に投げ込まれた。この集団溺殺は一九二〇年の六月に、ミハイル・ケドロフ

というチェーカーの指導者によって始められた。一致した証言によると、ホルモ

ゴールイに運ばれてきた多くのクロンシュタットの反乱兵やコサックやタンボフ県

の農民が、一九二二年にドヴィナ川で溺殺されたに違いなかった。」(124頁)

 

 生き残って、別のソロフキ収容所に送られた者も、収容所内の処刑システムで殺された。内田義雄・元NHK特派員は『聖地ソロフキの悲劇』(NHK出版、2001年)で次の事実を記している。

 

『聖地ソロフキの悲劇』収容所の機関銃による虐殺 「一九二一年春のクロンシュタットの反乱

の鎮圧後、処刑を免れた水兵およそ二〇〇〇人が送られてきた。その他コルチャーク将軍

指揮下の白軍の残党、農民、知識人、聖職者、ドンコサックなどいろいろの人たちがいた。連日

のように処刑が行われ、ある時は人々の目の前で囚人たちを川に浮かぶはしけに乗せて流し、

そのまま沈めて溺死させた。そのなかには女性や子どもたちも大勢混じっていた。何とか泳いで

岸に向かってくる者は、機関銃で容赦なく、撃たれた。それが何回も繰り返された。」(55頁)

 

 レーニンは、クロンシュタット臨時革命委員会が採択した15項目の民主的要求と決起にたいして、白衛軍の将軍の役割と、真っ赤なウソをついた。これが、レーニンの恣意的なウソであったことは、アイザック・ドイッチャー、P・アヴリッチ、イダ・メットらが、歴史的事実として証明している。農民・労働者・兵士の総反乱による一党独裁政権崩壊の恐怖におののいたレーニン・政治局は、それだけでなく、クロンシュタット水兵・労働者14000人にたいして、反革命の豚・白衛軍の豚というレッテルを貼りつけ、鎮圧司令官トゥハチェフスキーに皆殺しを指令した。反革命の豚の殺し方が上記のようになるのは必然だった。

 

 1921年2月末から3月上旬時点で、レーニンは、3つの選択肢から、いずれを選ぶかのぎりぎりの決断を迫られた。第一選択肢は、栄光の革命拠点ソヴィエト・赤軍反乱の15項目綱領を呑んで、ボリシェヴィキ党独裁という反民主主義政権崩壊を認める。その結果は、自国民大量殺害政党ボリシェヴィキと秘密政治警察28万人チェキストにたいする労働者・農民・兵士の逆テロルで、レーニンたちが皆殺しにされる。ただし、1989年東欧革命のとき、前衛党権力者で殺されたのは、チャウシェスク夫妻だけだった。第二は、国外亡命の道になる。第三選択肢は、レーニン・政治局側が、14000人を皆殺しにするという犯罪作戦の採用だった。そして、レーニンが選んだのは、第三選択肢だった。

 

 このような自国民大量殺害のやり方は、(1)『レーニン全集』で公開されてきたレーニンが書いたことに違反し、とうてい信用できないのか。それとも、()ソ連崩壊後、『レーニン全集』に載らない『レーニン秘密資料』6000点から発掘された、反乱自国民の大量殺害・極秘指令に基づく殺し方だったのだろうか。大量殺人を遂行したチェキストとは、全員が、レーニンとジェルジンスキーに絶対忠誠を誓う共産党員だった。鉄の軍事規律Democratic Centralismの下では、大量殺人命令を拒否する共産党員は、自分が殺された。

 

 

 6、レーニンの大量殺人指令と「巨大な鉄の手」

 

 〔小目次〕

   1)レーニンの大量殺人指令文書27通

   2)「巨大な鉄の手」=自国民大量殺害型マルクス主義者

   3)クロンシュタット反乱参加者の名誉回復

 

 )レーニンの大量殺人指令文書27通

 

 レーニンが自ら直接発令した反乱自国民の大量殺害極秘指令資料27通が、ソ連崩壊後に発掘された。27通の殺人指令すべてを読めば、レーニン評価が180度逆転する。どの指令を見ても、レーニンの側に、自国民大量殺人を正当化できる根拠はない。私は、HP『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令文書27通』に、それら全文を載せている。その内、上記に(資料1)を載せた。ここには、他の5点のみを載せる。いきなり全面改訂・加筆版の冒頭になるが、生の原資料を載せる理由は、これらを読まなければ、レーニンの大量殺人犯罪の誤りを、とうてい理解できないと考えるからである。

 

 (資料2)1919年1月21日、コサックへの赤色テロル指令

 

 中野徹三は、『共産主義黒書を読む』において、次のデータを載せた。そこでは、赤色テロル司令官オルジョニキッゼは、ドンとクバンのコサック30万人から50万人を殺戮、粛清したとしている。コサックは、農民で、440万人いた。レーニン・政治局は、当時のコサック側に何の原因もないのに、コサック優遇措置を一方的に破棄した上で、下記の赤色テロルを先制的に仕掛けた。

 

 次に、ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』(現代思潮社、1998年)の文をそのまま引用する。

 「1919年春までに赤軍も著しく力をつけ、その兵員数は二百万に近づきつつあった。中農の気分が急変し、三百万人にまで増員することが決定されていた赤軍の補充が容易になった。1919年秋までに内戦を成功裡に終結させることができるだろうとの確信が生まれた。しかし、ちょうどこの頃から、赤軍にとっては失敗と敗北続きの時期が始まるのである。1919年3月12日ヴェンシェンスカヤ村を先頭とするドン北部のコサック村で新しい反乱の火の手が上がった。それはすでに反赤軍の反乱であった。

 

 反乱の原因はドン上流地域のコサック村でおこなわれた最も無慈悲な赤色テロルであった。このテロルの直接の実行者は軍後方部隊あるいは前線司令官たちであったが、イニシアチブを取ったのは彼らではなかった。赤軍の側につき、戦闘をつい最近開始したばかりのコサック自身もテロルへの口実を全く与えてはいない。テロルの指令はモスクワから入ってきたのである。それは、ロシア共産党中央委員会組織局指導者にして全ロシア中央執行委員会議長であったヤコフ・スヴェルドローフ署名の同党組織局決定であった。指令は次のようなものであった。

 

 各地の戦線やコサック地区での最近の諸事件、コサック入植地奥地へのわれわれの前進とコサック部隊に囲まれての崩壊によりわれわれは党活動家に対し、上記地区での仕事の性格について指示を与えねばならない。コサックとの内戦の経験にかんがみ、コサック上層部全員に対する最も仮借なき闘争、彼ら全員を根絶やしにする闘争を唯1正しいものであると認めねばならない。

 

 1、裕福なコサックに対して大量テロルをおこない、彼らを一人残らず根絶やしにすること。ソヴイエト政権との闘いに直接あるいは間接に、何らかの参加をしたコサック全員に対し仮借なき大量テロルをおこなうこと。中間コサックに対してはソヴイエト政権に反対する新たな行動をとろうとするいかなる試みをも予防するためあらゆる措置を講ずること。

 2、穀物を没収し、余剰すべてを指定の場所へ運び、引き渡させること。これは穀物だけでなく、あらゆる農産物に適用される。

 3、よそから来た貧民移住者を援助するあらゆる措置を講じ、移住可能なところへ移住させること。

 4、土地関係やその他すべての関係において、他都市から来た人々とコサックとを平等に遇すること。

 

 5、完全武装解除をおこない、武器引渡期限以降に武装の所持が発覚した者は、すべて銃殺すること。

 6、他都市から来た人々のうち信頼のおける人々にのみ武器を渡すこと。

 7、今後完全な秩序が確立されるまでコサック村には武装した部隊を駐留させること。

 8、いずれかのコサック入植地へ任命されたコミッサールは最大限に毅然たる態度を示し、一貫して本命令を遂行すること。農業人民委員部は貧民がコサックの土地へ大量に移住できるように実際的措置を早急に準備すること。

 ロシア共産党中央委員会」(党中央アルヒーフ、ЦПА、Ф.17、 оп.4、д.21、 л.216)

 

 2月にドン上流地域のコサック村で実施され始めた恐ろしい、身震いさせるこの指令について私はコメントするつもりはない。これは極めてひどい誤りであるばかりでなく、ロシアと革命に対する犯罪行為であった。政治的あるいは倫理的判断やその結果については言うまでもない。」(121頁)

 

 (資料3)、1920年10月23日、オルジョニキッゼのコサック解体命令

 

 これは、ニコラ・ヴェルトの『共産主義黒書』にある。

 もっとも手っ取りばやいコサック解体の方法は、コサックの村を破壊して、すべての生存者を収容所送りにすることだった。ボリシェヴィキ指導者の一人で、当時北カフカス革命委員会の議長だったセルゴ・オルジョニキッゼの文書の中には、1920年10月末から11月初めにかけて展開された作戦の一つの資料が含まれている。

 

 10月23日、セルゴ・オルジョニキッゼは以下のような命令を下した。

 「1、カリノフスカヤ村を完全焼却すること。

 2、エルモロフスカヤ村、ロマノフスカヤ村、サマシンスカヤ村、およびミハイロフスカヤ村の全住民を立ち退かせ、住民の家と土地は、ソヴィエト権力に常に愛着を示してきた貧農とチェチェン人に分配すること。

 3、上記諸村の18歳から50歳までの全男子を列車に乗せ、見張りを付けて、重度の強制労働を行なわすべく、北方へ強制移住させること。

 4、女・子ども、老人を退去させること。ただし、もっと北の他の村に居住する許可を与えること。

 5、上記諸村の住民の全家畜と全財産を徴発すること。(注1)」

 

 3週間後、オルジョニキッゼあての報告は、以下のように作戦の展開を述べている。

 「カリノフスカヤ村−全村焼却。全住民(4220人)は強制移住または退去。

 エルモロフスカヤ村−全住民排除(3128人)

 ロマノフスカヤ村−1600人強制移住。1661人移住待ち。

 サマシンスカヤ村−1018人強制移住。1900人移住待ち。

 ミハイロフスカヤ村−600人強制移住。2200人移住待ち。

 

 このほか、154両の食糧輸送車がグローズヌイに向けて出発しました。強制移住がまだ完了していない村では、まず初めに白軍と緑軍の家族と、最後に反乱参加者の家族が移住させられました。移住させられなかった者の中には、ソヴィエト体制のシンパ、赤軍兵士・役人・コミュニストの家族がいます。強制移住作戦の遅れは、もっぱら車両の不足からきています。作戦のために送られてくる列車は、一日平均たった一編成でした。強制移住作戦を完了するために、さらに306車両の追加が緊急に要請されます。(注2)」

 

 (注1)、ロシア現代史文書保存研究センター、85・11・131・11

 (注2)、ロシア現代史文書保存研究センター、85・11・123・15

 

 これらの「作戦」は、どのように行なわれたのだろうか? 残念ながらこの点については、我々にはいかなる正確な資料もない。わかっているのは、「作戦」は長引き、最終的に移住者はしばしば極北地方ではなく、その後も相次いだように、近くのドネッ炭田の方へ送られたということである。1920年末の列車の状況からして、数量的に把握するのは難しい……それでも、諸方面から見て、1920年のコサック解体の「作戦」は、10年後のクラーク撲滅の大「作戦」の前ぶれであった。連帯責任といい、列車による強制移住のやり方といい、経理の問題といい、移住者を受け入れる場所が準備されていなかったことといい、移住者を強制労働に使うという考えにおいて、このように言えよう。

 

 ドンとクバンのコサック地域は、ボリシェヴィキに反抗したために、多大の犠牲を払わされた。最も信頼できる評価によると、300万足らずの全人口中、1919〜1920年に殺されたり、強制移住させられたりしたものは、30万から50万の間であった。(109〜111頁)

 

 (資料4)、1921年4月27日、タンボフ農民への毒ガス使用・絶滅指令

 

 ヴォルコゴーノフは、この詳細を『レーニンの秘密・下』で公表した。

 「1921年4月27日、レーニンの率いる政治局は、トゥハチェフスキーをタンボフ地方の司令官に任命した。彼は一カ月以内に農民の反乱を鎮圧すること、およびその進捗状況を毎週文書で報告するように命じられた。トゥハチェフスキーはその期限を守ることはできなかったが、要求の達成には全力を尽くした。

 

 6月12日に、トゥハチェフスキーは次のような命令を出した。

 敗北集団や単独行動の盗賊の生き残り……などが森に集まり、平和に暮らしている住民を襲っている。

 (1)、盗賊が隠れている森に毒ガスを撒き、彼らを一掃すること。窒息ガスを森中全体にたちこめさせ、そこに隠れているすべてのものを確実に絶滅させるように綿密な計画を立てること。

 (2)、小火器監察官は必要数の毒ガス入り気球と、その取り扱いに必要な専門技術者をただちに現場に派遣すること。

 

 体制から見て、どういう種類の農民が本物の階級の敵とみなされたのかは想像しにくい。だが、似たような措置は他のところでもとられ、政治局はそれを承知し、認めていた。」(135頁)

 

 (資料5)、1921年6月11日、タンボフ農民への裁判なし射殺指令

 

 レーニンは次のような命令を、政治局の承認をえて、6月11日に発令した。これは、『レーニンの秘密・下』(NHK出版、1995年)にあるレーニン秘密・未公開資料によるものである。その文をそのまま引用する。

 

 「反乱の指導者アントーノフの率いる[タンボフ県の]一団は、わが軍の果断な戦闘行為によって撃破され、ちりぢりばらばらにされた上、あちこちで少しずつ逮捕されたりしている。エスエル・ゲリラのみなもとを徹底的に根絶するために……全ロシア・ソヴィエト中央執行委員会は次のように命令する。

 

 (1)、自分の名前をいうのを拒否した市民は裁判にかけずにその場で射殺すること。

 (2)、人質をとった場合は処罰すると公示し、武器を手渡さなかった場合は射殺すること。

 (3)、武器を隠しもっていることが発見された時、一家の最年長の働き手を裁判なしにその場で射殺すること。

 (4)、ゲリラをかくまった家族は逮捕して他県へ追放し、所有物は没収の上、一家の最年長の働き手を裁判なしに射殺すること。

 

 (5)、ゲリラの家族や財産をかくまった家では、最年長の働き手を裁判なしにその場で射殺すること。

 (6)、ゲリラの家族が逃亡している場合には、その所有物はソヴィエト政権に忠実な農民たちに分配し、放棄された家屋は焼き払うか取り壊すこと。

 (7)、この命令は厳重に、容赦なく実行すること。この命令は村の集会で読み上げること。政治局は、あちこちの県で大虐殺が行なわれるのを認めていた。」(158頁)

 

 (資料6)、1921年7月10日、タンボフ県匪賊抑圧政策の人質・公開処刑報告

 

 これは、ニコラ・ヴェルトが『共産主義黒書』に載せた。

 「タンボフ県匪賊抑圧政策に関する全権5人委員会議長報告 1921年7月10日

 クドリュコフスク郡の掃討作戦は、以前匪賊の一味をかくまったオシノフカ村から、6月27日に開始された。わが抑圧部隊にたいする農民の態度は、ある種の不信感をもって特徴づけられる。農民は森の匪賊どもを通報することなく、質問にたいしては何も知らないと答えた。われわれは40人の人質をとらえ、村に戒厳令をしき、村の住民に匪賊と隠匿武器を引き渡すために2時間の猶予を与えた。村人は集まって相談し、いかになすべきか躊躇していたが、しかし積極的に追い出し作戦に協力するとは決しなかった。

 

 きっと彼らは、人質を処刑するというわれわれのおどしをまじめにとらなかったのだろう。猶予時間が過ぎたので、われわれは21人の人質を村人の集まる前で処刑した。全権委員、共産主義者の目の前で、慣例にしたがって形式にのっとり、一人ひとりを銃殺によって公開処刑にしたことは、農民に衝撃的な印象を与えた……

 

 カレーフカ村に関しては、その地理的情況から、匪賊の一味にとって恵まれた場所になっていた……委員会はこれを地図から抹消することに決定した。全住民は赤軍勤務者の家族を除き、移動させられ、その財産は没収された。赤軍勤務者の家族はクルドウーク村に移され、匪賊一味の家族の、没収された家に住まわせた。いくつかの価値ある品−窓枠、ガラス製品、木製品等々−を回収したあと、村の家々に火が付けられた……

 

 7月3日、われわれはボゴスロフカ村の作戦を開始した。ここの農民ほど頑固で、組織化された者は、前に出会ったことがまずない。これらの農民と言い争っていると、若い者も年取った者も、異口同音に驚いたふうでこう言うのだった。

 「わしらのところに匪賊だって? まさか、そんなことを考えなさるなんて、とんでもない! 一度くらい近くを通るのを見たことはあったかもしれねえが、匪賊だなんて思ってもみませんでした。わたしどもはだれにも悪いことはせず、静かに暮らしとりますだ。なんにも知りません。」

 

 われわれはオシノフカでも同じ処置をした。人質を58人とった。7月4日にわれわれは第一グループの21人を公開処刑し、翌日には15人処刑した。しかし匪賊ども60家族、約200人を退治することはできない。最終的にわれわれは目的を達し、農民は強制されて匪賊狩りと隠匿武器の探索に出発した……

 上記諸村の掃討は7月6日に終了した。作戦は見事成功し、その影響は近くの2郡を越えて響いている。匪賊どもの降伏が相次いでいる。

     全権5人委員会議長 ウスコーニン。(注)」(128頁)

 (注)、ダニーロフ、シヤーニン『タンボフ県における農民反乱1919〜1921年』218頁

 

 これらソ連崩壊後に発掘された6資料は、レーニン・政治局によって発令された正式文書、および、殺人指令遂行報告書である。大量殺人を遂行したチェーカーは、ほぼ全員が共産党員だった。その結果として、レーニンの大量殺人指令をチェーカー・赤軍は、無条件で執行し、根本的誤りである食糧独裁令と穀物・家畜の軍事・割当徴発に反対した農民数十万人を殺害した。いずれも、極めてひどい誤りであるばかりでなく、ロシアと革命に対するレーニンの犯罪行為であった。当時の全状況を見ても、レーニンの大量殺人犯罪を、やむをえなかったと正当化しうる根拠はない。

 

 あるとすれば、彼の革命思想において、一党独裁権力の維持こそがすべてであり、政権交代という発想はまるでなく、その権力が崩壊の危機に陥れば、批判・反対勢力の大量殺人によってでも、社会主義権力を守るべきという価値観があったということである。マルクス主義者の彼には、大量殺人をしなければならないのなら、一党独裁権力を放棄するという人命優先価値観はなかった。そのような当時の価値観だったから、レーニンの大量殺人犯罪はやむをえなかったという理屈が成立するのか。

 

 )「巨大な鉄の手」=自国民大量殺害型マルクス主義者

 

 栄光の革命拠点ソヴィエトの赤軍水兵・労働者1万4千人反乱の衝撃を受けて、レーニンは、やむなく、農民への譲歩としてネップ(新経済政策)への転換を決定した。他方で、党内引き締めのために党内分派を禁止した。ネップへの転換は、労働者・農民・兵士の総反乱と飢餓の深刻化によって、政権崩壊の危機に直面したレーニンの一時的な戦術後退作戦である。しかし、それは、根本的に誤ったマルクスの市場経済廃絶理論、その具体化としての食糧独裁令を撤回した政策という点で、正当なものとして評価されるべきであろう。しかし、党内分派禁止は、それまでの全党派粛清という社会内、ソヴィエト内民主主義抑圧だけでなく、党内民主主義抑圧の性質を持つものだった。

 

 レーニンは、1917年十月革命時点から1918年1月にかけて、(1)ドイツ革命の連鎖的発生、成功という情勢判断の空想主義的誤りと、(2)その成功を絶対的前提条件とした、民主的選挙による憲法制定議会への武力解散という議会制民主主義抑圧クーデターという二重の誤りを犯した。その誤りからくる歪みを正当化、理論化し続けるだけでなく、1920、21年にかけては、(3)全他党派幹部を逮捕、銃殺するという政党間民主主義抑圧者、(4)クロンシュタット水兵・労働者要請行動の武力鎮圧というソヴィエト内民主主義抑圧者、(5)党内分派禁止=レーニン分派独裁という党内民主主義抑圧者としての性向を強化した。

 

 その中で、レーニンは、自ら、スローガン「鉄の手で社会主義を建設しよう」を創って、キャンペーンを展開した。これらの誤りと、全分野における民主主義抑圧者に変質した、最高権力者レーニンの一側面は、歴史上でひた隠しにされ、偉大なマルクス主義者レーニンの虚像が作られていった。レーニンは、巨大な鉄の手をセットした絶対的権力者として、反民主主義・赤色テロル型一党独裁システム維持・強化に固執する中で、絶対的に腐敗した。

 

 ザミャーチンは、「自分自身を押しつぶし、膝を折って」という言葉で、レーニンの腐敗状態を文学的に表現した。1905年革命・戦艦ポチョムキンの反乱以来の同時代をたたかってきたボリシェヴィキ仲間の視点から、彼は、「その方の巨大な鉄の手」と書いて、レーニンのスローガンを否定しただけでなく、レーニンを殺人者と規定した。それにたいして、レーニンは彼を逮捕させただけでなく、ゴーリキーらの運動によって釈放した後も、彼が小説を発表する言論出版の自由権を全面剥奪し続けるという報復をした。彼の小説は『われら』が最後になった。スターリンもレーニンの報復措置を継承した。レーニン、スターリン、ソヴィエト作家同盟とも、ソ連文学史から、ザミャーチンの作品だけでなく、作家の存在そのものも完全に抹殺した。

 

説明: http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/orwell.files/image004.jpg

『われら』 「恩人は、ソクラテスのように禿げた頭をもった男で、その

禿げた所に小さな汗のしずくがあった」「その方の巨大な鉄の手は、

自分自身を押しつぶし、膝を折ってしまっていた」「明日、彼ら(反逆

)は、みな恩人の処刑機械に至る階段を昇るであろう」(299頁)

 

 レーニン・政治局が、抵抗・反乱・異端の自国民を殺したテロルの手口は、3種類あり、それぞれはさらに細分化されている。レーニンが殺した自国民の推計と合わせて、2つの()にした。

 

(表1) 自国民を「殺した」テロルの手口

性質

細目

 

肉体的殺人

絞首刑、裁判なしの射殺、逮捕時点の拷問死、革命裁判所による48時間以内の銃殺刑、反乱の武力鎮圧時の殺戮、毒ガスによる殺戮、

強制収容所移送中の殺害、強制収容所内での拷問死・銃殺、強制労働死

緑の銃殺(伐採作業の疲労による意図的殺人)、乾いた銃殺(殺人的作業による殺人)

 

政治的殺人

抵抗農民の大量人質、反乱した農民・労働者・兵士の強制収容所送り、コサック農民の強制移住、左派エスエル・エスエル・メンシェヴィキ党員のほぼ全員の逮捕・投獄

反ソヴェト知識人の国外追放または辺地流刑

 

飢餓の殺人

軍事=割当徴発結果としての飢饉死亡者500万人。3大農民反乱地方や、戦争状態になった36県の、または118件、数百件の反乱郷・村にたいする報復的な穀物・家畜の完全没収による意図的な飢餓発生殺人。マフノ農民軍反乱で、赤軍側が数万人の死者を出したことへの報復措置とウクライナ100万人餓死との直接的関係()

 

(表2) レーニンが「殺した」自国民の推計

階級階層

時期

レッテル

人数

()反乱農民

()脱走兵・徴兵逃れ

()コサック身分農民

()ストライキ労働者

()ペトログラード労働者

()クロンシュタット水兵・基地労働者

()聖職者・信徒

()反ソヴェト知識人

()カデット、エスエル、左派エスエル、メンシェヴィキ、アナキスト

1918.5〜21.6

1918夏〜21末

1919.1〜

1918〜20

1921.2

1921.3

1922.2〜

1922.6〜

1918〜22

クラーク反乱

犯罪、腰抜け

白衛軍加担

反革命ストライキ

反革命ストライキ

白衛軍の豚

黒百人組

反ソヴェト

反革命、武装反革命

数十万人

数十万人

30〜50万人

15379人

500人

14000人

各々数万人

数万人

(数十万人)

(10)亡命者

(11)内戦犠牲者

(12)飢饉死亡者

1917〜22

1918夏〜20.11

1921〜22

(200万人)

(700万人)

(500万人)

(13)総計(最低で見た数字)

数十万人

(+250万人)

 

 ()、この人数は、肉体的殺人と政治的殺人とを合計したものである。これらの殺人指令レッテルは、すべてがレーニンの真っ赤なウソであったことも、ソ連崩壊後に証明された。レーニンの根本的に誤った路線・政策に抵抗・批判したロシア革命勢力数十万人にたいして、これほどのウソをついてまで殺害した人間を、それでも社会主義者と呼ぶことができるのか。もっとも、レーニンがウソの殺人レッテルを貼り付けたことによってのみ、共産党員たちは、同じ革命仲間だった、ボリシェヴィキ以外のロシア革命勢力を殺害できたといえる。

 

 レーニンが無実の自国民=ロシア革命勢力を大量殺害した犯罪データの根拠に関する詳細については、9つのHPファイルに書いた。

    『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』

    『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが「殺した」自国民の推計』数十万人殺人の根拠

    『クロンシュタット水兵とペトログラード労働者』

    『クロンシュタット水兵の要請行動とレーニンの皆殺し対応』6資料と名誉回復問題

    『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構』

    『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令とレーニン「労農同盟」論の虚実』

    『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機、クロンシュタット反乱

    『聖職者全員銃殺型社会主義とレーニンの革命倫理』

    『「反ソヴェト」知識人の大量追放「作戦」とレーニンの党派性』

 

 レーニンのこれら大量殺人犯罪の思想的根源はどこにあるのか。

 (1)、マルクスは、社会主義経済体制を、市場経済廃絶・貨幣経済も廃絶させるというシステムとして描いた。レーニンは、市場経済廃絶路線を、食糧独裁令と穀物家畜軍事割当徴発政策として強行した。レーニンは、マルクスの根本的に誤った机上の空論を絶対的真理と信仰した。それが、いかに誤った理論であったのかは、東欧・ソ連型社会主義10カ国のいっせい崩壊が証明した。彼は、マルクス主義真理を具体化した政策に抵抗・反乱した無実の自国民すべてを、絶対的真理の路線に背く人民の敵として殺害した。

 

 (2)、マルクスは、社会主義政治体制を、プロレタリア独裁国家システムとした。1917年当時、1億4千万国民中、労働者は2%・3百万人しかいなかった。それを、レーニンは、プロレタリア独裁国家と名付けた。この体制規定も、レーニンの真っ赤なウソであったことも、ソ連崩壊後に判明した。その実態は、ボリシェヴィキの党独裁だった。少数派の党独裁国家を、誤った経済政策で維持するには、暴力の連続使用と拡大しかなかった。彼の独裁肯定理論は、階級敵・人民の敵の権利を、その生存権を含めて、抑圧・剥奪することを正当化した。1970年代、ヨーロッパのすべての共産党が、プロレタリア独裁理論は完全に誤った政治体制思想であったとして、公然と放棄宣言をした。今や、東方の島国の日本共産党だけが、様々な訳語変更をしつつ、隠蔽・堅持しているだけである。人民の敵は殺せ指令・執行は、マルクスのプロレタリア独裁理論が行きつく必然的結末であった。

 

 (3)、レーニンは、それらの理論を一党独裁権力には、反革命分子の生存権を剥奪する(=殺す)ことが許されているという思想に高めた。最高権力者となってから、レーニンは変質した。絶対的権力者は絶対的に腐敗する。彼は、ボリシェヴィキ党独裁にたいする労働者・農民・兵士の総反乱に直面した。その時点における彼の価値観には、大量殺人をしてでも党独裁権力に執着することと、人命優先で権力放棄・政権交代をすることと、いずれを選ぶのかという選択肢そのものが、もはや存在しなかった。スイス亡命革命家が生まれて初めて出くわした総反乱に直面して芽生えたのは、抵抗・反乱した農民・労働者・兵士、異端の聖職者、共産党に協力しない知識人にたいする明白な憎悪と殺意だった。

 

 レーニンは、大量殺人の具体的な指令以外に、その根底の殺意を示す言葉を頻発している。殺人思想用語は、1918年「(ストライキ労働者などの)害虫駆除」、1919年「絞首刑で反乱農民を恐怖におののかせよ」、1921年「もしメンシェヴィキとエスエルが、まだちらっとでも顔を見せるようだったら、容赦なく彼らを銃殺してしまえ!」、1922年5月「銃殺刑の適用範囲拡大」1922年「(知識人数万人追放作戦による)浄化」である。このような人間を、なお、社会主義者と呼ぶことができるのか。

 

 6資料の具体的殺人指令や殺人思想用語を頻発し、かつ、現実にも数十万人を殺害したレーニンにたいして、ローザ・ルクセンブルクの言葉を想い起こすとどうなるのか。「プロレタリア革命は、自己の任務を実現するのにテロルを必要とはしない。それはただ、殺人に対して、憎悪と嫌悪を持つだけである」。

 

 )クロンシュタット反乱参加者の名誉回復

 

 『新版・ロシアを知る事典』(平凡社、2004年)に「名誉回復」の項目(742頁)がある。旧版ではなかった「ソ連解体以後」の部分を、富田武が執筆担当をしている。「[ソ連解体以後]名誉回復の対象は、共産党解散・ソ連解体とともに、レーニンの下での弾圧の犠牲者にも及ぶようになった。〈政治弾圧犠牲者の名誉回復に関するロシア共和国法〉に基づき、従来〈反革命分子〉とされていたクロンシタットの反乱参加者が、94年1月の大統領令で名誉回復された」。

 「内戦期に大多数が〈白衛軍〉についたとされるコサックは、1991年8月クーデター前に採択された〈被弾圧諸民族の名誉回復に関するロシア共和国法〉の適用を受けて、1992年6月の大統領令で名誉回復された。」

 

 私はこの件の詳細について富田教授に問い合わせ、次の返事をもらった。「1994年1月10日の大統領令では『1921年春のクロンシュタット市における武装反乱の廉で弾圧されたロシア市民の歴史的公正、法的権利を回復するため』とあり、具体的には、1921年3月2日の労働国防会議決定第1項(コズロフスキーもと将軍と部下を法の保護外におく)を廃止し、水兵らに対する弾圧を不法な、基本的人権に反するものと認め、事件犠牲者の記念碑をクロンシュタット市に建立するという3つの措置を決めた。」

 

    富田武『Professor Tomita's Platformソ連政治史、コミンテルン史

 

 歴史の公的評価が、クロンシュタット水兵1万人・基地労働者4千人は反革命分子でなく、いわゆるクロンシュタット反乱とは、正当な15項目綱領に基づく、ソヴィエト内の平和的合法的な要請行動だったと逆転した。となると、(1)それにたいして「白衛軍将軍どもの役割」と真っ赤なウソをつき、()彼らに「反革命の豚」というレッテルを貼りつけ、(3)上記のような殺し方で皆殺しをさせたレーニンの評価はどうなるのか。レーニンの側こそ、ソヴィエト権力の簒奪者であり、ソヴィエト機構をボリシェヴィキ一党独裁権力に変質させた軍事クーデター指導者だったことになる。現在のロシア歴史学会では、十月の規定として、それを、十月プロレタリア社会主義大革命などでなく、レーニン・ボリシェヴィキによる単独権力奪取の軍事クーデターだったとする見解が、主流になってきている。

 

 クロンシュタット臨時革命委員会の15項目の綱領とその鎮圧を、イダ・メット、P・アヴリッチ、ニコラ・ヴェルト、スタインベルグらの著書で仔細に検討すると次のことが浮き彫りになる。1917年十月革命で、約10の社会主義党派とロシア全土の労兵農ソヴィエトが「すべての権力をソヴィエトへ!」のスローガンでソヴィエト権力を勝ち取った。しかし、その革命権力を、その後の1921年2月までの3年4カ月間で、レーニンとボリシェヴィキが簒奪したこと、即ちレーニン、ボリシェヴィキはそれらの政党と全ソヴィエトに対する権力簒奪者であり、その性格は秘密警察チェーカーを最大限に使った奪権クーデターであったことを示している。

 

 1918年5月「食糧独裁令」絶対反対の全他政党・全階級の決起によって、ボリシェヴィキの支持率が激減した。ロイ・メドヴェージェフは、それを「大衆がボリシェヴィキから顔をそむける」状況と規定した。6月のソヴィエト改選選挙において、ボリシェヴィキは、30の県庁所在地中、19ソヴィエトで惨敗した。63%もの県庁所在地におけるソヴィエト国民が、ボリシェヴィキ一党独裁権力を拒否したのである。ところが、レーニンは、惨敗したソヴィエトを武力解散させた。それだけでなく、すべてのソヴィエトから、メンシェヴィキ、エスエル、アナキストを追放する決定をし、ソヴィエト機構をボリシェヴィキ一党独裁システムにした。これが、レーニンによるソヴィエト権力内における権力簒奪クーデターの最初の契機と行動となった。クロンシュタット・ソヴィエトの武力鎮圧は、レーニンによる、ソヴィエト権力にたいする仕上げ的な権力簒奪クーデターだった。1921年3月で、労働者、兵士、農民ソヴィエト精神は、レーニンにより窒息死させられ、ソヴィエト社会主義共和国連邦というソヴィエト名をつけた形骸が、1991年のソ連邦崩壊まで残ったのである。

 

 ソ連崩壊後に発掘された(表1、2)のデータや殺人指令文書27通を事実と認めるのかどうかという問題がある。その事実認定こそがソ連崩壊後におけるレーニン評価の共通の土台となる。27通は出典が完全に証明されている「レーニン秘密資料」やソ連共産党のアルヒーフ(公文書)だが、その信憑性を疑う人もいる。その人との討論は、共通の土台が成り立たず、不毛のすれ違い議論に陥る。しかし、その共通認識が成立した場合でも、3つの歴史判断の食い違いが生れる。第一、それが、当時の国際国内情勢によってやむを得ないロシア革命勢力数十万人を殺害した行為だったとレーニンの大量殺人事実を肯定する。第二、社会主義体制を守るための反革命分子・人民の敵にたいする正当な赤色テロルだったのではないのか。第三、レーニンの行為は、ボリシェヴィキ以外のロシア革命勢力にたいする大量殺人犯罪だった、という歴史判定の相違が残る。

 

 反革命勢力は、当然存在した。白衛軍、旧貴族・地主、帝政復活を企む諸グループなどである。レーニンが権力奪取一カ月後に創った秘密政治警察チェーカーが、それら反革命勢力にたいして行使した赤色テロルは正当といえる。また、内戦の犠牲者は700万人といわれている。内戦における死者とレーニンによるロシア革命勢力数十万人殺人とは、厳密に区別する必要がある。ツアーリ帝政を倒す二月革命を成し遂げ、十月を支持した労働者・兵士たちは、ロシア革命勢力である。1917年5月以降の土地革命に決起した80%・9000万農民もロシア革命勢力だった。二月革命において、また、ロシア全土の農民土地革命においても、ボリシェヴィキはほとんど影響力を持っていず、レーニンは4月に帰国したばかりだった。それだけに、レーニン・ボリシェヴィキは、権力奪取後、二月革命と農民土地革命の意義を軽視し、ロシア革命史全体の記述から抹殺してきた。それは、レーニンによるロシア革命史の偽造・歪曲だった、というのもソ連崩壊後のロシア歴史学会の主流の見解になってきている。ロシア革命史の根本的見直しである。

 

 それらのロシア革命勢力・政党のすべては、レーニンとボリシェヴィキが(1)権力奪取6カ月後に始めた食糧独裁令と穀物・家畜軍事・割当徴発の強行クーデター、(2)権力奪取7カ月後に強行したソヴィエトからの社会主義他党派追放というソヴィエト権力簒奪クーデターに猛反対した。レーニンは、自分の一党独裁路線・政策に反対・抵抗するロシア革命勢力にたいして「反革命」「武装反革命」というウソのレッテルを、意図的に貼り付けた。

 

 ソ連崩壊後に判明したことは、それらの反対・抵抗の方こそが正当性を持っていたことである。ロシア革命勢力である労働者・農民・兵士・社会主義政党にたいして、ソヴィエト権力簒奪クーデター指導者レーニンが、共産党秘密政治警察チェーカー28万人と赤軍に命令して、数十万人を殺害した行為は、レーニンの殺人犯罪以外のなにものでもない。それとも、スターリンによる4000万人粛清データに比べて、レーニンによる殺人規模はせいぜいその1、2%と少ないから、彼の誤りを免罪、または、無視・隠蔽できるとでも言うのか。または、「革命に犠牲がつきもの」という論理によって、レーニンによるロシア革命勢力数十万人殺人から眼を背けることが許されるのか。

 

 

 ちなみに、インターネットGoogleで「レーニン」を検索すると、驚くようなリストが出る。さすがに、レーニン検索結果は、142000件ある。ところが、ランク上位の過半数は、ドイツ映画『Good Bye Lenin』である。インターネットの若者たちは、「レーニン」と言えば、レーニンの業績・文献などではなく、1989年ベルリンの壁崩壊前後の状況、ヘリコプターで宙吊りになって捨てられに行く巨大で憐れな、破壊されたレーニン像を思い浮かべるレベルになったと言える。この映画は、ヨーロッパ各国における2003年度映画賞を総ざらえし、ドイツアカデミー賞9部門をとり、ドイツ国内だけで400万人の観客を動員した。ウクライナ首都キエフを舞台にしたスターリン批判のフランス映画『East West』が、フランス国内で50万人を動員して、評判になった。しかし、このドイツ映画は動員数や影響力の規模がけた違いに大きい。

 

    Google検索『レーニン』

    ドイツ映画紹介HP『Good Bye Lenin

 

 現ロシア・旧東欧だけでなく、ヨーロッパでは、レーニンの大量殺人犯罪実態への認識が広まるにつれて、ポルトガル共産党を除き、レーニン型前衛党はほぼ壊滅し、『Good Bye Lenin』が一般的な思想状況になったと規定できる。映画題名を含め、それは、ヨーロッパの政党と国民におけるレーニンとの決別を象徴的に示した。21世紀の世界において、残存する4つの一党独裁型社会主義国を別として、資本主義国では、日本ほど、「レーニン神話」信仰者が多数残存している国はない。また、日本のロシア・ソ連史研究者の誰も、レーニンの大量殺人実態を正面から取り上げようとしていない。なぜなのか。その歴史的政治的要因は何なのか。

 

 ただ、梶川伸一教授は、ロシア革命三部作において、80%・9000万農民の視点から、食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、レーニンの「労農同盟」論を否定した。また、第三部において、これまでのネップ「神話」を解体する作業を行っている。これらの内容は「ロシア革命史」の根本的再検討を問う業績である。

 

    梶川伸一『飢餓の革命』1918年

           『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』クロンシュタット反乱の背景

           『幻想の革命』十月革命からネップへ ネップ「神話」を解体する

 

 

 7、革命ユートピア小説と革命逆ユートピア小説の系譜

 

 ファイルが長くなったので、このテーマは、別ファイルにした。

 

    『レーニン「国家と革命」の位置づけ』革命ユートピア・逆ユートピア小説

 

以上  一MENUに戻る

 (関連ファイル)                  

    『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』

    『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが「殺した」自国民の推計』数十万人殺人の根拠

    『クロンシュタット水兵とペトログラード労働者』

    『クロンシュタット水兵の要請行動とレーニンの皆殺し対応』6資料と名誉回復問題

    『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構』

    『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令とレーニン「労農同盟」論の虚実』

    『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機、クロンシュタット反乱

    『聖職者全員銃殺型社会主義とレーニンの革命倫理』

    『「反ソヴェト」知識人の大量追放「作戦」とレーニンの党派性』

    『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』電子書籍版

 

    P・アヴリッチ 『クロンシュタット1921』クロンシュタット綱領、他

    イダ・メット   『クロンシュタット・コミューン』反乱の全経過・14章全文

    ヴォーリン  『クロンシュタット1921年』反乱の全経過

    スタインベルグ『クロンシュタット叛乱』叛乱の全経過

    A・ベルクマン『クロンシュタットの叛逆』叛逆の全経過

    大藪龍介   『国家と民主主義』1921年ネップとクロンシュタット反乱

    中野徹三   『社会主義像の転回』憲法制定議会と解散

    梶川伸一   『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』クロンシュタット反乱の背景

      食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、

      レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討

    梶川伸一   『幻想の革命』十月革命からネップへ ネップ「神話」を解体する

    Google検索  『kronstadt151000件、自動的日本語翻訳機能付サイト多数

 

    『ドストエフスキーと革命思想裁殺人事件の探求』3DCG6枚

    『ドストエフスキーと革命思想裁殺人事件の探求』電子書籍版

    『レーニン「国家と革命」の位置づけ』革命ユートピア・逆ユートピア小説

    『オーウェルにおける革命権力と共産党』3DCG7枚

    『オーウェルにおける革命権力と共産党』電子書籍版

    『「革命」作家ゴーリキーと「囚人」作家勝野金政』スターリン記念運河建設での接点

    『ソルジェニーツィンのたたかい、西側追放事件』3DCG9枚

    ソルジェニーツィン『収容所群島・第2章』「わが下水道の歴史」

    ソルジェニーツィン『収容所群島・第3章』「審理」32種類の拷問

 

    宮地徹『Grafic World3DCG画像