ボリシェヴィキのテロルとジェルジンスキー

 

スタインベルグ

 

 (注)、これは、スタインベルグ著『左翼社会革命党1917〜1921』(鹿砦社、1972年)からの下記〔目次〕部分の抜粋転載です。絶版ですが、全体を読みたい方には、図書館貸し出しの方法があります。本文中の傍点個所は黒太字にしました。全体を印刷すると21ページになります。

 

 〔目次〕

   紹介・解説(宮地) 左翼社会革命党とスタインベルグ経歴

    (抜粋)

   第11章、ボリシェヴィキのテロル (全文)

   第12章、ボリシェヴィキ・テロル発動す (全文)

   第16章、フェリクス・E・ジェルジンスキー (全文)(4人の写真添付)

   解説、松田道雄「反逆者のふたつの顔」 (抜粋)

 

 (関連ファイル)        健一MENUに戻る

   「赤色テロル」型社会主義とレーニンが殺した「自国民」の推計 (宮地作成)

   「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構

   「反乱」農民への『裁判なし射殺』『毒ガス使用』指令と「労農同盟」論の虚実

   「聖職者全員銃殺型社会主義とレーニンの革命倫理」 (宮地作成)

   「反ソヴェト」知識人の大量追放『作戦』とレーニンの党派性 (宮地作成)

   ヴォルコゴーノフ『テロルという名のギロチン』『レーニンの秘密・上』の抜粋

 

 

 紹介・解説(宮地) 左翼社会革命党とスタインベルグ経歴

 

 左翼社会革命党

 この党は、「左派エスエル」「左翼エスエル」ともいいます。『ロシア・ソ連を知る事典』(平凡社)の説明を引用します。『エスエル党(SR.社会主義者・革命家党)の左右分裂は第一次大戦に対する態度に端を発している。1917年革命の過程で党主流は臨時政府を支え、土地奪取を願う農民の志向と対立したが、これを批判する左派はボリシェヴィキの十月革命に支持を与えるにいたり、党中央より除名された。12月3日から11日(ロシア暦11月20〜28日)この人々は左派エスエル党結党大会を開いた。ナタンソンのような者幹部のほか.スピリドーノワ、カムコフら若い世代が中心となり、首都、バルト海艦隊、カザン、ウファ、ハリコフなどがその拠点であった。12月22日(ロシア暦12月9日)、ボリシェヴィキの求めに応じて、コレガーエフ(農業)、スタインベルグT・ZSteinberg(司法).プロシャン(郵便・電信)らが人民委員会議(内閣)に入った。この党は憲法制定会議の解散にも同意を与えたが、18年3月ドイツとのブレスト講和問題が大詰めを迎えると、党の主流は調印拒否、革命戦争論の立場をとった。講和批准ののち、人民委員会議に加わっていた閣僚を引揚げ、下野した。春から初夏にかけて食糧問題が深刻化し、ボリシェヴィキ政権が食糧独裁路線を打ち出すと、労働者を農民にけしかけるものとして強く反発し、対ドイツ戦争の中での労農の一体化に活路を求めて、7月6日反乱を起こした。ドイツ大使を殺害し、自派の武装部隊を動かして電信局を占拠し、アピールを各国に打電した。この一種の武装デモは翌朝からの鎮圧作戦でつぶされ、開催中の第5回全ロシア・ソヴェト大会代議員中30%を占めた第二党たるこの党は非合法化され、指導者は逮捕された。この行動に批判的であった人々は、革命的共産主義者党とナロードニキ共産主義者党をつくり、のちに共産党に合流した』(P.231)

 

 スタインベルグの経歴

 彼は、左派エスエル指導者の一人として、1917年12月9日レーニンの連立ソヴィエト政権に司法人民委員として参加した革命家です。1907年、モスクワ大学法科の学生であった時、非合法エスエル党員として逮捕され、シベリアへ3年の流刑に処せられましたが、ドイツへ亡命してハイデルベルグ大学で法律を学びました。のち帰国して、モスクワで弁護士を開業するかたわら、非合法活動に従事しました。第一次大戦勃発後、非合法文書発行のかどで再び逮捕されましたが、二月革命後は左派エスエル派に属しました。連立ソヴィエト政権の司法人民委員のポストにつき、他6人の左派エスエル出身の人民委員とともに、3カ月間活動しました。1918年3月、連立解消で全員が人民委員(閣僚)を辞しました。1919年初頭、モスクワで、「反革命政党」指導者として、チェーカーに逮捕され、5カ月間入獄しました。以後1923年4月まで、反ボリシェヴィキ地下活動に従事してチェーカーに再逮捕されました。しかし、同年脱走してドイツへ逃れました。本書は、1955年、ロンドンで出版されました。

 

 本書の最大の特徴

 特徴は、その内容が、連立ソヴィエト政権の司法人民委員(閣僚)の立場からの“痛烈な内部告発論文”になっているということです。これは、連立期間3カ月における直接の現場体験に基づく、もっとも生々しい「レーニン・ボリシェヴィキの国家テロル」批判文献です。本書が分析する期間は、1917年から1921年までです。その内容は、レーニンによる武装蜂起・権力奪取時点からクロンシュタット反乱鎮圧までの最高権力者レーニン批判となっています。とくにレーニンの「赤色テロル」分析とジェルジンスキー批判の内容については、人民委員会議(ソヴィエト)内部の状況に関する現場証言としてきわめて貴重なものです。左派エスエルは、たしかに革命前は、ツアーリ帝政側の「国家テロ」にたいする「反国家テロ」を実行しました。しかし、スタインベルグは、権力者側になってから、しかも、司法人民委員に就いて以後は、公開裁判による犯罪・反革命取締りを主張し、レーニン・ジェルジンスキーの「赤色テロル」=チェーカーによる裁判なし大量処刑に何度も、強烈に反対しました。

 

 権力を握ったマルクス主義者たち

 レーニンは、マルクス主義の唯一正統後継者を自称し、それはコミンテルンを通じて、世界中のマルクス主義者に認められていました。ソ連崩壊後、「レーニン秘密資料」6000点やアルヒーフ(公文書)がぞくぞくと公開されました。それによって、レーニンが、無実の自国民を最低推計でも「赤色テロル」で数十万人殺害したことが明白になってきました。レーニンは、自国民大量殺人型・一党独裁=他党派絶滅殺人型のマルクス主義者だったのです。以下のスタインベルグの証言とレーニン告発内容が「真実」だったことが、諸資料によって証明されつつあります。それらの詳細なデータは、(関連ファイル)の5つにあります。

 1989年から1991年にかけて、“現存した社会主義国”14カ国中、10カ国とそのマルクス主義政党がいっせい崩壊しました。それによって、レーニン・スターリンだけでなく、“権力を握ったマルクス主義者たち”は、すべての国で、批判・反対意見をもつ無実の自国民を大量殺害し、他党派を暴力で絶滅させていたことが判明しました。それだけでなく、彼らは、レーニンが創設した「赤色テロル」オルガンのチェーカーを見習って、東ドイツのシュタージ、ルーマニアのセクリターテなどを創設し、自国を「秘密政治警察型社会主義国家」に変質させていたことが暴露されました。

 “権力を握った数百万人のマルクス主義者たち”が、そのような「前衛党犯罪」を犯した原因はどこにあるのでしょうか。()マルクスの国家論・権力論に根本的な欠陥があるのか。マルクスは、社会主義権力の腐敗防止システムにまったく無知・無関心で、楽観的すぎたのか。それとも、()「赤色テロル」型・一党独裁型の“絶対的権力”が、人類解放の理想に燃え、正義感あふれる権力奪取前のマルクス主義者たちを、権力システムの法則どおり、“絶対的に腐敗”させたことが原因なのか。

 

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  (抜粋、P.9〜11)

 

 ボリシェヴィズムは、あらゆる搾取の即時廃絶というその誇大な約束と社会正義や民族文化の確立といったことで目覚めつつある人びと、決起しつつある人びとを魅了する。それは、西欧国家に対するその猛烈な、絶対的な敵対でもって彼らの目覚めさせられた感情に訴えかける。だが同時にボリシェヴィズムは、その残忍なやり口やその全体主義的要求、それに軍事的規律によって彼らに反撥の念を起こさせている。そうしたことの故にこそ、ボリシェヴィキのテロルということが、本書を貫く主題の一つとなっているのである。

 

 今や世界の舞台へと登場しつつある人類の大多数は、こうして、二つの砲火の板ばさみになっているかのように感じている。ボリシェヴィズムは、もしもこれらの民衆が革命的変革を望むならば、まさにソヴェト・ロシアにおいて成功裡に為し遂げられたごとく、ボリシェヴィキ的形態において、そして、その指導下においてのみ彼らは革命を達成できるのだと主張して、爆発的な状況を自分自身の目的に利用している。《ロシア》は一〇月革命と同一化させられ、《一〇月》はボリシェヴィキ党と同一化させられている。

 

 これは偽りである。ロシアでは、長い間解放の理想への献身が為されてきたのであり、一〇〇年以上にもわたってボリシェヴィズムの目指すものとは遥かに異なった目標をもった無数の戦士たちを生み出してきたのである。ロシア的な解放運動様式のきわだった特徴は、常に《最も深遠な人間性を伴った最大限の革命的行動》に結びついていた。その故に、それはそれ自体で、理論と実践の双方においてボリシェヴィキの方式とは完全に相反しているのである。

 

 世界中の人びとはそれ故、ボリシェヴィズムが人民に対して、とりわけロシア革命の主柱であり続けた農民に対して何を為したかを知らねばならない。人びとは、ボリシェヴィキ・ロシアにおいて《プロレタリアート独裁》下の疑似特権階級である産業労働者がどういう運命をたどったか、さらに知識階級、即ちかつて名をはせたロシア・インテリゲンチャがどういう運命をたどったかを、あますところなく詳細に知り尽さねばならない。人民がこれほど巨大な精神的、道徳的資産を携えてその革命に到達したことは稀有なことであったし、また、人民支配を自称する体制によってこれほど徹底的に人民のそれが枯渇させられたことも稀有なことであった。

 

 そのような《解放的(リベレーティング)》奴隷化の餌食と再びなるのを避けるために、世界中の人びとはロシア革命の最も初期の諸段階に厳しい注意を向けねばならない。人民の純真な信頼が社会的煽動によって最も容易に損われてゆくのは、彼らが熱情と寛大さとに染めあげられている動乱の初期においてなのである。従って、あの威厳に満ちたしかも悲劇的な時期から教訓を引き出すために、《革命の坩堝(るつぼ)》の最初の年月を考究することは重要なこととなる。

 

 一九一七年には、ロシアの人民は自らのためと同時に人類のためにも行動したいと渇望していたのであり、それに向けての彼らの第一歩は、希望と期待とに満ちていた。だがもし、彼らが当時において人類に対するその国際的な影響力や積極的な方向性を維持できぬよう運命づけられていたのだとしたら、ロシア人民のその苦難と無言の抗議とを少なくとも苛烈な警告として現在に生かしめようではないか。何百万という圧殺された叫びの中で、ロシアは全世界に向って、革命はボリシェヴィズムとは異なることを、人類はボリシェヴィキの手から革命の独占権を奪取せねばならないことを、思い起させている。ロシアの広大な原野に湧き起り拡大していった革命のドラマは、ロシアだけのドラマではない――それは全世界のものなのである。

 

 

 第11章、ボリシェヴィキのテロル (全文、P.122〜127)

 

 ボリシェヴィキの凶手を身でもって感じたことのある者だけが、そのテロルの真の意味を知りうる。革命後長年にわたってロシアの市民は、テロルによる強力な締めつけに慣らされてきた。そのさまざまな形の発現は、当初は屈辱的かつ恥ずべきものと感じられたが、次第にあたりまえのことと見なされるようになった。そして人びとは徐々に減らされてゆくパンの配給に順応していくように、そのやり口に自分たちを順応させていったのである。

 

 今日の疲弊しきったロシア人に「テロルとは何か?」とたとえ尋ねてみても彼には自分を抑圧している暴力の体系を描き出すことはできないであろう。彼は、特に彼の目を引いたあれこれのテロルの断面――無意味な逮捕、大量処刑、官僚の横暴など――をあげるにとどまるであろう。そして、もちろんこうしたロシア人は誤っている、というのは、テロルは個人的行為、孤立した行為、権力の一時的な怒りの偶然的表現といったものではないからである。

 

 テロルとは、これらとは区別された暴力の体系とでも言うべきものなのである。テロルは、威嚇し恐怖させることを通じて人民を服従させんとする計画的かつ似而非合法的綱領である。テロルは、支配体制が人民をその絶対的意志に従わせるための、詳細に考えぬかれた脅しと懲罰の計画なのだ。

 

 それでは誰がその権力を行使するのか? 誰が全人民の頭上で脅迫し続けるのか? もしも人民とは相容れない別個の侵害者が存在しないと仮定して、人民が自分たち自身をこのように抑圧するなどということがありえたであろうか?

 

 無論、そのようなことはありえない。こうした体系にあっては、多数の支配というものは存在しえないのだ。テロルによる支配は、常に少数の支配であり、孤立を感じ、しかもそれを恐れている少数者の支配なのである。絶えまないパニックが、テロリスト体制をしてその網の目を更に拡げ、人民の新たな部分を常に自己の敵と定めていくことを余儀なくさせてしまうのだ。

 

 テロルの体系の一端を担う者として《革命の敵》が登場し、革命のあらゆる失策と人民の苦難とについて責任を負うべき身代り(スケープゴート)とされる。革命が前進している限り《敵》は重要なものとしては存在しない。しかしいったん革命の風向きが変るや、それは身近に感じられるようになり、目に見えるようになり、明確なものとなってくるのである。革命の進路が人民の大多数によって導かれている限り、《敵》を恐れる必要はない。それはたやすく処理しうるのだ。だが、いったん権力が臆病で孤立した猜疑心の強い少数派の手に握られるや《革命の敵》(あるいはフランス革命でいう《容疑者》は巨人に成長し、その影を国中に投げかけ、遂には《支配者を除く全員》が革命の敵となってしまう。《敵》は人民そのものと同義語になるのである。

 

 こうしてこれら支配者とその《敵》とは、テロルの体系という舞台上の登場人物となる。では《敵》に突きつけたテロルという武器とは何か? そもそもその武器のすべてを列挙しうる者が存在するだろうか? それは数えあげるには余りに多すぎるし、しかもテロルという武器を行使する者の想像力は、果てしもなく拡がってゆくものなのだ。テロルの量的規模は、個々人についての犯罪の証拠によってではなく、あらゆる人間が《疑わしい》という観念によって決定されるのであり、したがってそれは無限のものとなる。そしてその質、即ちテロルの実質的内容は《すべてが許される》という原理の結果、無制限に拡がっていくのである。力に依拠して支配する少数者は、あらかじめ道徳的免罪符というこの原理を流布し、事態を自ら単純化してしまう。《人民の敵》に対しては《すべてが許される》――これがテロルの二つの指導的観念である。実践においては、それはすべての者に対するありとあらゆる暴力および弾圧手段の行使にいきつく。そしてこれが、《革命の名において》、人類が渇望しつつある至高の理想の名において、行なわれるのである。

 

 テロルのよく知られた形態について今一度目を向けてみよう。肉体的テロルと精神的テロルとを区別する必要はない、何故ならどのような抑圧行為も両方の要素を含んでいるからである。それはある人びとには直接的かつ即座の打撃を与えるが、間接的には他の人びと、更に多くの人びと、一人ひとりの人間に対しても影響を与えるのだ。

 

 テロルは殺人であり、流血であり、処刑である。しかし死刑は、テロルという建築物の単なる尖塔にすぎない。テロルは無数の貌(かお)を持っているのである。それはソヴェトや政党や私的慈善団体といった合法的諸組織を解散させることの中にすら認めることができる。こうしたすべての組織の中に、民衆の主体的意志はその自由な表現を見い出していたのである。そのようなはけ口を欠けば、人間は屑同然となる。テロルは革命的国家の津々浦々で歴史の最も決定的な瞬間に自由な発言を圧殺することの中に存在している。印刷物の形であれ、公開の席であれ、組織の中であれ、支配権力は一切の反対意見を許しはしなかった。たとえもし、不注意にすぎるかあるいは大胆にすぎる人間の口から、批判、抗議もしくは絶望の言葉がもれるようなことがあるにしても、その言葉は、何の反応も得られなかったり、その発言者の処罰におわるが故に、空中で空しく死ぬこととなる。彼の言葉は、周囲の聴衆の寒々とした、屈辱的な沈黙に出会うのみである。

 

 テロルの支配する国に住む人民は、自由に話すことも、自分たちについての真実を知ることもできない。テロルは、人の思想と創造的エネルギーをも金縛りにする検閲という重い鎖の中に存在している。その結果、思想は冷やかな沈黙へと凍りついていくか、さもなくば奴隷の服従へと堕落していく。《黙してはおれぬ》と反抗の声をあげるのが、人間の本性である。しかしテロルの支配する国にあっては、この人間の衝動に最も厳しい規制が課せられているのである。こうして思想上の怯儒、恐慌そして停滞が、万人の意識の内奥へと浸透していくこととなる。

 

 テロルは、権力が社会のあらゆる細胞・組織にしっかりと張りめぐらした政治的監視の網の中に存在している。それは個々人の一挙手一投足を監視している――あるいは監視していると見せかけている――秘密警察の中に存する。テロルは陰険な悪魔の如きスパイ活動、相互の密告、挑撥の中に在り、個人の内に秘めた思いさえも支配体制の前にむきだしにしてしまうのである。テロルは、被疑者が尋問される際の蔑みと嘲りに在り、破廉恥にも、しかもたびたび《革命と社会主義》の名において行なわれる精神的拷問の際の狡猾(こうかつ)な仕掛けに在る。更にテロルは、飢えた男女があふれるように押し込まれている監獄に、見せかけの大赦の際にもほとんど門が開かぬ監獄に存在する。テロルは、政治の空模様のように予測し難い行きあたりばったりの有罪判決の中に存在している。テロルは、有罪とされた者たちの首で政治をもて遊ぶ政府の出世主義者たちの気まぐれの中に在る。テロルは、富裕者を対象とすると主張されながらも、実際には貧困者と疲れた者に打撃を与える恣意的な徴発や収用の中に存在するのである。

 

 しかしながら、テロルの最も恐るべき相貌は、もちろん死刑である。往時の《聖なるギロチン》のように、それは再び《革命》の最前線に立ち塞がっている。その刃は宙に吊り上げられ、有罪無罪を問わず、人を選ぶことなく、いつ如何なる時に頭上に落下してくるかも知れぬ。テロルは、無慈悲に、無意味に流されたそうした血潮の中に存在しているのだ。

 

 テロルは「壁に立て!」という叫びの中に在り、それは所得税滞納、軍隊からの逃亡、馬や穀物の隠匿、大逆罪、こそ泥、向うみずの商業的投機、目的意識的な反革命陰謀、あるいは瑣末な《現体制に対する侮辱》などといった事に対して等しく人を脅かす。

 

 テロルは「壁に立て!」という叫びが容認された規範となっているという事実、弱者や無力者への報復の過程で人間の中の野獣性が完全に放任されているという事実の中にある。テロルは意志を麻痺させてしまい、強い人間をも震えあがらせ、そして全人民を、銃を手にした人間に引き渡すこととなる、動物的な恐怖感の中に存在するのである。

 

 最後にテロルは、権力の手に捕えられるか、あるいはたまたま投獄されている敵対的諸階級の成員が無差別に引き出されて、他の人間の罪科を着せられる際のような、無辜(むこ)の者に対する大量処刑に在る。したがってテロルは、他人の行為の故に誰かが責任を負わされるという、人質制度の中に存在するといえよう。

 

 テロルは、支配権力が自己保身のためにあれこれの暴力行為を犯すにとどまらず、国民生活の全局面にわたって自己を浸透させるために類似のある行為を際限なしに永久に繰り返す、という事実の中に存している。テロルはその実践におけるのと同様、それが有する脅威においても現実的なものである。不断の脅威を与えること自体が、テロルなのだ。

 

 テロルは人びとを二つの陣営に分かつ、即ちテロルを行なう側と受ける側、である。前者にとってテロルは、勇敢さ、強靭さ、大胆さであり、恐らく何世紀もの後に初めて獲得した自己主張の機会なのである。後者にとってそれは、悲嘆、屈辱、恐怖を意味している。両者の間には、相互理解があろう筈もなく、ただ怨念と憎悪があるのみである。一方の側には、権力を手にした陶酔、傲慢、被支配者に対し絶えずつのってゆく侮蔑の念―― 一言で言えば、支配がある。もう一方の側には、処罰に対する恐怖、恨み、無言の羨望、権力者へのへつらい――即ち隷属がある。こうして、底なしの社会的・心理的深淵に隔てられた新たな二つの階級が生み出されるソヴェト人民委員(コミサール)およびその部下たちという階級と、ソヴェトの《臣民》という階級とが。

 

 ソヴェト・ロシアにおけるこのような権力の道徳的腐敗堕落は、明らかに対人民との関係においてのみ生じているのではなく、人民相互間の関係にまで及んでいる。隷属状態が人民の中に浸透していくにつれ、それは人民を分断し、打ちひしぐ。相互の懐疑と不信、全能の優越者の笑顔や好意を求めての争い、隣人への公然・非公然の裏切り、《保護色》の装い――これらすべては、底辺でのいわば、ミニチュアとしてのテロルの再現である。こうした態度や行動は、恐るべき規模で、支配者の玉座の周囲にあい集まる人民の諸階層に拡がっていく。すべての人間が国家との関係において奴隷であるのならば、奴隷同士は互いに敵対することとなろう。上からのテロルが市民の頭上を飛び交っていれば、市民の間では下からのテロルが生じるであろう。更にまたソヴェト・ロシアでは、権力の抑圧の規模は他のどんな社会体制よりも遥かに大きく、包括的であるということを忘れてはならない。ツァーリ体制やブルジョア体制にあっては、支配体制の私権は、政治、宗教、ナショナリズムといった限られた分野でのみ発動され、経済的分野において発動されることは稀れであった。市民の個人的生活という完全に無制限な領分は、武装した国家権力の支配の外にあったのである。ところがソヴェト・ロシアでは、個人、経済的、社会的生活のすべてが、国家権力、排他的なまでにテロルに立脚した権力の手に引き渡されてしまっているのだ。

 

 つまりこれこそが、ロシアのテロルなのである。人民のどのような集団であろうとそれに従わされ、それは生活の全領域を覆いつくしている。ロシアで行なわれることはすべて、強制と嘲笑によっており、説得と同意によるものは何ひとつない。このような故意に培われた無政府状態にある体制は、どのような国民にとっても悲惨なものとなろう。何世紀にもわたる隷属状態から抜け出したばかりの国ロシアにとっては、何という不幸なことだろう! ツァリーズムの悪しき遺産が新たなテロルの毒と混ぜ合わされる時、それはどれほど危険なものとなるだろうか!

 

 

 第12章、ボリシェヴィキ・テロル発動す (全文、P.128〜142)

 

 ボリシェヴィキのテロルを考察するにあたっては、一九一七年一〇月から遡って一九一七年二月の革命開始時に話を戻すのが好都合であろう。ロシア人たると外国人たるとを問わず歴史家の間では、二月革命は「無血」にして平和的革命であり、善意に満ちあふれた牧歌とでもいうべきものだった、というのが通説となっている。ツァリーズムの崩壊と民主主義的政体への移行は、大抵は無血革命の模範として、一〇月蜂起の野蛮さと狂暴さとにはっきりと対比されて述べられている。

 

 こういった像は歴史の真実からはほど遠いものである。一九一七年の春の日々は、ツァーリ体制の代表者たちに対する人民大衆による数多くの暴力行為によって曇らされていたが、ほとんど皆無と言ってよいほどそれらについては語られてこなかった。例えば、白衛軍司令官デニキン将軍は「混沌たるロシア」、彼は革命をそう呼んだのだが、について五巻の著作を出版しているが、この問題には、手短かに無造作に触れているだけである。デニキンはこう書いている。「革命の最初の日々における首都の犠牲者数は、それほど多くはなかった。ペトログラードでは、死傷者は一四四三人で、そのうち八六九人が軍人であり、さらにその六〇人が将校であった。当然この数字は、負傷者の数をすべて含むものではない」

 

 ただこれだけである。ペトログラードだけで一五〇〇人にも及ぶ死傷者の数が「それほど多くなかった」と片づけられている。ところが我々は、モスクワや他の大都市でも流血事件が起ったのを知っているし、バルト海艦隊の水兵による上官への大規模な復讐も記憶にとどめている。だがこれらの革命の祭壇へ供えられた多くの犠牲者たちは黙殺され無視されてきたのである。パーヴェル・ミリュコーフ、ヴィクトル・チェルノフ、アレクサンドル・ケレンスキーといったロシアの権威ある歴史家や政治家の著作にも、それについての詳細な説明や、遺憾の意の表明についぞ見当らない。この時期の勝利者やその称讃者たちは、流血の惨事と犠牲者の苦しみを、悲しむべきことであるがやむを得ぬものとして、決して非難はせず、冷静に静観していた。心理的にそうできたのは、彼らがブルジョア民主主義革命を全体として受け入れていたからである。社会的利害と政治的理論が彼らの目から道徳的問題を覆い隠してしまっていたのだった。

 

 しかしながら、暴力事件は公正な観点から検討され吟味されなければならない。それらは無名の大衆、即ち明らかに誰の手でも組織されることのなかった大衆の衝動的な行動であった。こうした爆発的な政治的リンチを通じて、圧政により長い間奴隷化され堕落させられてきた民衆は、鬱積した抗議の感情を一挙に表現したのだった。このような大衆の怒りの噴出は、時として残酷な形態をとったが、それは決して、もみ消されたり無視されてはならないものである。しかし、この種の激発は長続きはしなかった、というのは、それが自然発生的なものだったからである。民衆は、短期間の嵐のような衝動的行動で怒りの衝迫を満足させると、やがて平静に戻った。間もなく友愛、同志愛、連帯といった感情が優勢を占めてきた。勝利を得た民衆は、かつての自分たちの敵を赦すという類いまれな度量を示すこととなった。怒りと憎しみにかわって、今や彼らは敵に対する憐憫と軽蔑を覚えるだけだったのである。

 

 このロシア民衆の資質を、一つの重要な歴史的事実が立証している。彼らがどんな激しい憎悪をもってツァーリ専制を憎んでいたかは、周知の事実である。しかし大衆の中には、ツァーリ個人やその家族に対して最後的に結着をつけるという露骨な欲求は存在していなかった。当時ソヴェトにおいてもツァーリを公開裁判にかけるという積極的な主張がなされたことは一度としてなかった。ルイ一六世の劇的な斬首刑とパリにおけるギロチン・パレードというあの明白なフランス革命の先例にならうことは、ロシアの革命的大衆の心に同情心を喚び起しはしなかった。

 

 さて、そろそろボリシェヴィキと左翼社会革命党の連立時代に人民委員会議でツァーリ一族の運命が論じられた、最初にして最後の折のことを想起すべき時であろう。この問題が突然提起されたのは一九一八年二月のことであり、ドイツ軍がロシアに対する侵攻を再開した危険な日々の最中のことだった。農民大会の代表たちが、人民委員会議の席上に現われ、ツァーリ一族を公開裁判にかけるためトボリスク(シベリアの)から連れ戻すという動議を提出したのである。こうした要求の背後にある動機を理解するのは困難なことではなかった。その起草者は、そうした歴史的な演出によって、新たな軍事的危機に脅えている人民を鼓舞し勇気づけることができると信じていたのだ。

 

 人民委員会議が、この正義と報復との大がかりな見世物を立案し演出することとなる司法人民委員の意見を求めたのは当然のことだった。しかし私はその計画全体に幾つかの疑義を持っていた。最も大切なことは、人民にとって帝制がもはや切実な問題ではなくなっており、前皇帝の裁判は、それがいかに厳粛、かつ劇的なものであろうとも、新たな喜びも勇気ももたらすものではない、ということを銘記することであった。私は発言した、社会革命はもっと異なる目的とシンボルを持っている、と。さらに私は、シベリアからのツァーリの長途移送は狂信者や自称革命家たちのリンチを誘発すると警告した。

 

 人民委員会議の幾人かの他のメンバーがその見解を述べたが、最後に全員の目が議長であるレーニンに注がれた。ところが、きわめて不思議なことは、この時だけ彼が私に同意したのである。彼は冷静に、彼もまたこのような時期に裁判を行なうことについての疑問を持っており、大衆は他の事柄に心を奪われているが故に裁判は延期した方が望ましいと述べた。そうして司法人民委員部は、将来のために関連文書を用意する任にあたることになった。もちろんレーニンは、彼自身がとった立場に関して彼なりの政治的読みがあったのである。ところが、その晩問題は棚上げされ、それっきりになってしまった。司法人民委員部は《文書を用意する》に及ばなくなくなったのである。

 

 革命の二月段階を通じて、数多くの暴力行為にもかかわらず、人民は全体としては寛大で人道的であることを示した。だがこのことは、八か月後の一〇月蜂起の際も同じだったのである。実際一〇月における自然発生的暴力行為の数は――大規模なものであれ、個人的なものであれ――八か月前とは比較にならぬ程少なかった。このことは注目すべきことである、というのは、人民は一層激しい恨みを抱いて一〇月革命に突入したのだからである。しかし、社会的解放がもたらした大いなる歓喜が余りにも巨大だったので、それは人民の中のどのような報復本能をも凌駕していた。なるほど、一〇月の勝利に続く日々には再びバルト海艦隊、黒海艦隊において上官に対する残酷で無意味な殺戮が見られた。陸軍最高司令官ドゥホーニン将軍はリンチにかけられた。さらに一九一八年一月には、二名のカデットの前大臣がむごたらしく殺害された(第六章を参照)。しかしながら、報復的暴行は拡大しなかった。間もなく激昂した人民の怒りにまかせた行動はおさまり、政治的リンチはやんだのであった。

 

 確かに一〇月革命の歴史家と回想記録者たちは、その野蛮に血塗られた途について喧伝することを止めようとはしない。しかし再度言うが、これは、歴史的真実を求める真摯な探究心の表現ではなく、政治的激情にかられた肉声なのだ。二月の暴力を縮小鏡で見たその同じ眼が、一〇月革命を評価するのに拡大鏡を用いたのである。

 

 ところで人民の暴力がかなりの程度まで制御され、制限可能なものであると判明した、というまさにその故に、これ以上の予想される無法行為を押え、直ちに人民を正義の道へ導くのが革命指導者の道徳的任務となった。とりわけ上級政府機関や演壇あるいは社会主義的新聞からの、憎悪と報復を煽るような挑発は厳に慎まねばならなかった。しかし、不幸にもこの真理を理解しようとも認めようともしない集団が一つ存在していた。ボリシェヴィキ党は、この問題をまったく逆に見ていた。彼らは、人民の内なる劣情に意識的に訴えかけることにより革命を操ることを好んだのである。さらに、この大衆に対するデマゴーグ的煽動は、平和に対するその態度、プロレタリアートの権力という立場等の故に、大衆からの信頼を先ず勝ち得た党派によってなされたのである。したがって人民は、ボリシェヴィキの急進的な社会的な政策にとどまらず、それと共にほとんど無意識のうちに、彼らの革命の道徳的価値に対するニヒルでシニカルな態度の一部をも受け入れた。ここに危険が潜んでいたのだ。

 

 一〇月のそもそもの初めの日々より、レーニンはその同僚たちに、暴力、処刑、テロルに対する絶対的必要性を力説していた。一九二四年に発行されたレーニンについての著作で、レオン・トロツキーはこのことを証明する数多くの挿話に触れている。一〇月蜂起を承認したソヴェト大会の席上で、ボリシェヴィキのカーメネフは、トロツキーの賛意を得て、前線での死刑を復活したケレンスキーの法令を廃棄しようとの提案を行なった。この法令は、正式に取り消された。レーニンは、一日後にソヴェトのこの最初の行為を知って烈火の如く怒った。「何たる馬鹿げたことだ」と彼は叫んだ。「諸君は、処刑なしに革命がやれるとでも思っているのか? 自分を武装解除しておいて、敵を倒せるというのか?」。彼は、思いやりあるロシア人気質を「恐れていた」。彼は、ロシア人が毅然たる態度をとりうるのかどうかについて不信を抱いていたのである。「優しすぎる、余りに優しすぎるのがロシア人だ」と彼は断言した。「ロシア人には、革命的テロルという断固たる手段をとることができないのだ」。

 

 その後にも、レーニンは人民委員会議の席上で同じ考えを繰り返し述べた。そして一九一八年二月、ドイツ軍が攻撃を開始した時、政府は「社会主義祖国は危機に瀕している!」(一九一八年二月二一日)という宣言をもって人民を引き締めることを決定した。その起草者はトロツキーであった。彼は、ロシア人民のヒロイズムに訴えかけるこの文書に、政府の命令に反対する者すべては「即座に処断される」という脅しを盛り込むよう提案した。人民委員たちがこの文案を検討した際、私は、この残酷な脅しは宣言全体のパトスを殺してしまうとして反対した。レーニンは嘲りをもって答えた、「それどころか、ここにこそ真の革命的パトスがあるのだ。君は、我々が残酷そのものである革命的テロルなしに勝利できるなどと本気で信じているのか?」。

 

 この点については、レーニンと議論することさえ困難なことであり、我々はすぐに行詰ってしまった。我々は、広範囲のテロル能力をもつ厳格な警察的手段について議論していた。私が革命的正義の名においてそれに反対したことがレーニンを立腹させた。そこで私も憤慨して叫んだ、「それでは何故わざわざ司法人民委員部などという名称にかかずらうのだ。いっそのこと直截(ちょくさい)に、社会敵撲滅人民委員部と改称し、そこにまかせればいいじゃないか!」。レーニンは突然顔を輝かして答えた、「そう……まさにそうすべきなのだが……でもそう呼ぶ訳にもいくまい」。

 

 ボリシェヴィキのテロルについて語るに際して私は時期を一九一八、一九、二〇年にしぼろうと思う。その理由はこの時期にテロルの波が脅威と野蛮さにおいて最高に達したからではない。それに続く年代、特に一九三〇年代は未だかつて誰にも想像できなかった程すさまじいテロルの高まりを示すこととなった。しかし一九一八年から二〇年にかけて、シニカルなテロルの体系――これはそれ以降あたりまえのこととなるが――が創出され、強化されるようになったのである。この時期に起った諸事件は、後にボリシェヴィキ国家が建設される基礎を形成することとなった。そして革命ロシアの土壌は、この時期に毒され、やがて将来そこに毒々しい果実が実るのは必然だったのである。一九一八年二月二一日の宣言は、略式の銃殺刑を正当化し、これを煽動するものとして、チェー・カーによるテロルへの道を掃き清めた。それ以後全土を赤く染め尽すこととなった血の河については、ここで詳細に述べることはできない。「社会主義の名において」何がなされつつあったかを知るには、『チェー・カー週報』に発表された処刑者の長い、しかも完全というにはほど遠いリストを見れば十分である。

 

 ドイツとのブレスト=リトフスク条約締結(これが左翼社会革命党の政府からの引揚げの原因となった)後の事態の全般的悪化と打ち続く食糧危機とは、結局のところ政府に懲罰および徴発分遣隊を組織して農村へ派遣することを余儀なくさせたが、そこでこれらの分遣隊は残虐な強制手段を行使することとなった。一九一八年の三月から八月末までが未だ公認のものではなかったが、事実上の赤色テロルの一時期であったことに疑問の余地はない。革命法廷が死刑廃止を取消すという指令を受取ったのはこの期間のことであった。チェー・カーの「超合法的」処刑とならんで、死刑宣告の権限が今や法廷にも認められることになった。こうして特に一九一七年一〇月の第二回ソヴェト大会で確認された革命の最高の成果は、吹き飛ばされてしまったのである。このようなやり方を通じて反革命的叛乱鎮圧の任務を帯びたチェー・カー、革命法廷、懲罰分遣隊それに軍隊の活動はすべて結び合わされて、散発的ではあったが事実上のテロル状態を作りあげていった。これを恒久的体制へ転じるには、ほんの何ほどかのきっかけとなる口実があればよかったのだ。

 

 ボリシェヴィキは、一九一八年八月の末に恰好の口実を見つけた。ペトログラード・チェー・カー長官ウリツキーがペトログラードで暗殺され、モスクワでは、著名な革命家ドーラ・カプランによるレーニンの暗殺が企てられたのである。全ボリシェヴィキの憤激と報復衝動とが解き放たれた。今や政府の新聞が口やかましく叫び始めた。「何千人という敵が我々の同志の死に対して償いをせねばならぬ」とペトログラードの『クラースナヤ・ガジェータ』は書いた。「センチメンタリズムはもう沢山だ。敵は無慈悲なのであり……我々もまた情けを捨てるだろう。我々は、ブルジョアジーに、奴らを永久に片づけてしまうという血の教訓を思い知らせてやるのだ。生残りにテロルを! 同志水兵、労働者、兵士諸君! 白衛軍とブルジョアジーの残党どもを最後の一人まで殲滅せよ。『ブルジョアジーに死を』これを今日のスローガンとせよ」。また『プラウダ』も書いていた、「労働者諸君! 今こそ諸君がブルジョアジーを倒さねばならぬ時がきた、さもなくばブルジョアジーが諸君を倒すであろう。革命の敵どもに向けて断固たる手段を整えよ。都市からブルジョア的腐敗を一掃せよ。ブルジョア階級の人間は将校ともども監視下に置かれねばならず、革命の大義に危険をもたらすような者はすべて粛清されねばならない。今日より、労働者階級の讃歌は憎悪と復讐の讃歌となり、ドイツ人が英国人に対して歌うものよりはるかに恐ろしいものとなるであろう」。

 

 ここで「階級意識をもつプロレタリアのための教理問答からの二つの戒律(第八および第一○戒)を掲げてみよう。(原註) 『プラウダ』一九一八年八月四日付。「労働者、貧民よ、銃を執れ。射撃に巧みであれ。背後のクラークや白衛軍の叛乱に備えよ。ソヴェト権力に悪宣伝を行なう者を銃殺せよ。ソヴェト権力に対し拳を振り上げる輩へ一〇発の弾丸を」「ブルジョアジーは飽くことなき敵である。資本家、地主、僧侶それに将校の最後の一人が死に絶えるまで資本の力が消滅することはないのだ」。

 

 新聞によるキャンペーンの後に政府の措置が続いた。一九一八年九月二日、ソヴェト中央執行委員会の会合において、レーニンの暗殺未遂事件ならびにウリッキーの暗殺に関して以下のような決議がなされた――

 「中央執行委員会は、ロシアおよび連合国のすべてのブルジョアジーの下僕どもに厳粛に警告する。すべての反革命派とそれを教唆する者は、ソヴェト政府のメンバーと社会主義革命の思想の担い手に対するあらゆる襲撃の責任を引き受けることとなるだろう。労働者・農民国家の敵による白色テロルに対しては、労働者および農民は、ブルジョアジーとその手先きへの大衆的赤色テロルをもって報いるであろう」。

 

 翌九月三日の朝、内務人民委員ペトロフスキーは、次のような電報による命令をすべての地方ソヴェトに発した――「感傷と逡巡には直ちに終止符が打たれねばならぬ。地方ソヴェトに判明している限りの反革命的社会革命党員は即刻逮捕すること。資本家と将校団から多数の人質を確保せよ。白衛集団において僅かな抵抗もしくは動きが見受けられた際には略式大量銃殺刑で直ちに鎮圧せよ。地方執行委員会は率先して事に当るべし‥…大衆的テロルの発動に際しては躊躇、懐疑は無用である」。

 

 政府の最高機関がこのような言葉で語っているとすれば、その執行機関、その地方機関の行動は推して知るべしであろう。そして事実、中央執行委員会の布告が未だ「警告」にとどまっているのに、地方では既に復讐が開始されつつあったのである。

 

 ペトロフスキーとチェー・カー部員の言葉は、実際にはレーニン自身によって予言されていた。一九一八年八月九日彼がニジニー・ノヴゴロド市ソヴェトに送った電報は、テロリスト的性向の典型的な例を与えてくれる。電文は二〇年後の一九三八年になって初めて公開された。

 「ニジニー・ノヴゴロドで公然たる白衛軍の叛乱が明らかに準備されつつある。諸君は全兵力を動員して独裁権力を樹立し、即時大規模なテロルを導入し、ウォトカで兵士と将校とを籠絡する何百人もの淫売どもを射殺し追放せよ。寸時も躊躇してはならぬ。敏速に行動を起し、大規模な隠匿武器の捜索および犯人の処刑、メンシェヴィキの大量追放を行なって、危険を防止せよ。 諸君のレーニン」。

 

 ウリツキーとレーニンへの襲撃は八月三〇日に起ったが、九月一日までには、ニジニー・ノヴゴロドの《対反革命闘争中央委員会》は、既に四六人を銃殺していたのである。ニジニー・ノヴゴロド『労働者農民ブレチン』はこう報じていた、「共産主義者の暗殺あるいはその企ての各々に対して、我々はブルジョアジーの人質の銃殺をもって報いるであろう。殺され傷ついた我々の同志たちの血潮が、復讐を求めているからである」。

 

 ペトログラードのチェー・カーは、直ちに拘留していた人質の中から五一八人を処刑した。この途方もない数は幾人かのボリシェヴィキを驚愕させたが、それとともに他の者たちの下衆(げす)根性を鼓舞することともなった。《狂気と怯儒(きょうだ)》へのこのような大量の生贄は、赤色テロルの信奉者たちの間においてすら、いくらかの反撥をひき起したが、同時にロシア全土に人質という方式を定着させる道を開いたのである。

 

 「同志ウリツキーおよび世界プロレタリアートの指導者、同志レーニンに対する襲撃の報復として全露チェー・カーはモスクワで一五人を、さらに後には追加として九〇人を銃殺した」(原註)『チェー・カー週報』第六号。その中には、共同組合員や官吏に対して盗みを働いた窃盗犯やコソ泥、偽造犯たち、即ち純然たる刑事犯が含まれていた。ところがツァーリ専制下のロシアでさえ、刑事犯に対する死刑は存在していなかったのだ。したがってボリシェヴィキ権力は、旧体制のそうした寛容をも自らの手で抹殺し、エカテリーナ大帝以前の時代に行なわれた野蛮な《裁き》の方法を再興したわけである。

 

 「ウリツキーの暗殺およびレーニンの暗殺未遂の報復として、アルハンゲリスク・チェー・カーは九人、キムルイ・チェー・カーは三人、ヴィテフスクでは二人、セベシでは一七人、ヴェリシでは二人、ヴォログダでは一四人、ヴェリスタでは四人、北ドヴィンスクでは五人、クルスクでは九人を処刑した」。同時にポチェホーニ.チェー・カーは三一人を処刑(シャラィエフ家五人、ヴォルコフ家四人、セミョーノフ家二人の家族を含む)、ペンザでは八人、チョールニイでは横領罪でたまたま入獄していた三人の男、ヴァラノフスクでは八人、ノヴゴロドでは八人が処刑された。同様の事件は、ムスチスラフ、リヤザン、タムボフ、リペックの各県でも起った。スモレンスクではチェー・カーは、刑事犯、前地主、将校、警察官を含む三四人を銃殺し、また取調べに際して、ここのチェー・カーは肉体的拷問を行なった。

 

 ルイビンスクの執行委員会は、ベルリンでドイツの草命家カール・リープクネヒトが暗殺されたという報に接すると赤色テロルをもって《地方ブルジョアジー》に報復することを検討した。この執行委員会のメンバー全員は後に、横領および収賄と裁判ぬきに処刑を行なった科で裁判にかけられ有罪とされた」。しかもこうしたことが、際限もなく続いたのである。

 

 これらの《革命》という大義名分のもとでの恐慌的大量テロルの頂点を飾る事件は、この体制の中心人物レーニンに対して果敢にも拳を振り上げた人物への旧態依然たる復讐行為であった。レーニンの負傷が癒えたという事実、ツァーリのカートルガ(監獄)で長年過したこのテロリストのよく知られた社会主義者としての経歴、さらには過去の同様の事件では多くの場合寛大な処置がとられたという歴史的先例、そうしたことどもにもかかわらず、ドーラ・カプランは処刑されたのであった。

 

 その当時、マリア・スピリドーノワはこう書いている、「しかもそうした寛大さは、単なる細やかな政治的配慮にとどまらなかったでしょう。ただ一言の気高い言葉も愛情のこもった言葉も聞かれない、この狂気と怒りのみが蔓延している時代にあっては、その寛大さは私たちの革命にとって貴重なものになっていたでしょうに」(原註)マリア・スピリドーノワのボリシェヴィキ中央委員会宛の公開状。

 

 流血は続き、テロルは《白軍》と《赤軍》が凄惨な戦闘で釘づけになっている内戦の最前線におけるそれでなくても重大な死傷者数を、増加させていた。あらゆる戦線の場合と同様、兵士たちは敵味方を問わず戦死しつつあった。チェー・カーの最重要人物の一人ラツィスは、一九一八年八月二三日、『イズヴェスチヤ』に論文を発表した、が、その見出しは雄弁に内容を物語っていた

 ――「内戦に法は存在せず」。彼は続けていう――「ほとんどあらゆる時代を通じて、あらゆる国家で、戦争についての確立された慣行が成文化されてきた。資本家間の戦争は、さまざまな協定のかたちで述べられている自身の法を有している。曰く、捕虜は処刑されることはない、和平使節を攻撃してはならない、捕虜の交換を行なう……だがしかし、我々の内戦に目を転ずれば、そのような類のものは何も見あたらない。かつては神聖なものと見なされた、こうした法の適用を試みたり要求したりすることは馬鹿げている。諸君に対する戦闘で傷ついた者はすべからく殺せ――これが内戦の法なのだ。ブルジョアジーは、これを既に受け入れているが、我々は未だこれを我が物としていない。これが我々の弱点である‥…内戦の法は未だ成文化されていない、ようやく現在この狂暴な戦闘の中でそれは形をとりつつあるのだ。我々はそれに通暁するようにならねばならぬ‥…敵は我々を百人、千人と大量に射殺している。我々は依然として委員会と法廷での長い討議の末に敵を一人づつ射殺するだけだ。内戦では敵に対する裁判は不必要である。諸君が敵を倒さなければ、敵が諸君を倒す。だから敵に粉砕される前に敵を粉砕せよ」。

 

 これがラツィスの内戦に対する見解である。ここに同じ筆者の他の文からの引用があるが、彼のイデオロギー全体を同一の赤い糸が貫いていることがよくみてとれる。彼は、武装解除された反革命分子を裁く法廷について論述している――「起訴に際し、その囚人がソヴェトに対して銃をもって反逆したのか言葉の上で反逆したのかについて証拠を求めてはならない。先ずその囚人に、彼がどの階級に属しているのか、社会的出身は何か、どの程度の教育を受けどんな職業についていたのか、を尋問せねばならない。それに対する回答が、被告の運命を決するのだ。これが赤色テロルのもつ意味である」。

 

 内戦における残忍さには如何なる制限も課せられなかったし、内部のテロルについても同様であった。地方の実情は、一旦狂者の手によって始動された振子がどこまで振幅を拡げるのかをやがて示すこととなった。首都の政府代弁者は、論理的正当化の装いの下でその鞭を依然として反革命分子に対してのみふるっていたことであろう。だが辺境の地へ行けば、この理論は著しく歪曲化され、革命を完全に受入れた村やその人民に襲いかかっていたのである。これから述べるのは、数多くの挿話、真実の話であり、ロシアの果しない底知れぬ悲しみのほんの一断片なのである。(原証)以下の引用は一九一九年における農民の一連の報告と政府文書よりなされている。

 

 コストロマ県ウラニィ村では、「執行委員会代表レハーロフと彼の同僚たちは驚くほど暴れまわった。ソヴェトにおける請願者への殴打は日常茶飯事であるし、笞打は県下のすべての村で行なわれている。例えばベレソフカでは、農民は拳固と棒で殴られていた。彼らは長靴を脱いで長時間雪の中に座らせられた。ウレンスク地方では、レハ一ロフとその配下は単独ではなく、バルナビンスク執行委員会委員のガラホフ、マーホフその他の者が加わっていた。彼らはパンの徴発の際、とりわけ酷く振舞った。村に近づくと、ガラホフとマーホフの分遣隊は住民を驚かすために発砲するのが常だった。村人たちは苔打に耐えるために五枚以上ものシャツの重ね着をしたりするが、苔は捩(よじ)れたワイヤーなのであまり役にたたず、度々シャツが肌に喰い込んでしまい、それが乾くと湯に浸して剥ぎ取られなければならないほどであった」。

 

 ある赤軍兵士はこう報告している、「マーホフは我々に逮捕した農民をこっぴどく扱うように、つまり笞でたたきのめすように命令した。彼は、彼らを引っ立てて連行する代りに苔打ってソヴェト政府の恐ろしさを思い知らせてやれ、というのだった」。またコストロマ県のある村の集会は記している、「彼らは私たちを滅ぼそうとしている。私たちの自由意志に足伽をはめ、私たちがまるで愚かな家畜ででもあるかのように軽蔑している」。

 

 さらに別の報告によれば、「サラトフ県のハヴァリンスク地方で、赤軍と特別食糧徴発分遣隊が村に到着した。三人の将校が夜に村人を狩り集め、村の浴場を暖めてそこへ若い娘たちを追い込むよう命令した。『一番美しい娘どもに若い娘もだ!』。農民たちは叫び、悲鳴をあげ始めた。衝突が起り、赤軍兵士の一人が発砲した。一晩中戦いは続き、挙句に将校の一人は殺され、残る二人は徴発分遣隊と一緒に逃げ去った」。こうして無数の《農民暴動》が現実に起ることとなったが、これは後に無慈悲に弾圧されていったのである。

 

 幾つかの村では、チェー・カーが農民大衆を寒い倉庫に閉じ込め、裸にして銃の台尻で殴打した。地方官吏は次のように語っていた、「中央では我々にこう言った、塩は中途半端にやるよりは、やり過ぎる方が良いのだ、と」。

 

 マカラィエボの農民の報告では、「昔は、村の警官は農民の背にまたがるということはしなかったが、今のコミュニストたちは戯れに農民の背に乗るのである」。ヴィテフスク県のビエルスク郡では、農民は地区ソヴェト執行委員会の命令で苔打された。スモレンスク県のドゥホーヴチナの「執行委員たちは飲んだくれのならずもので、暴動の責任は挙げて彼らにあった」。ある貧民委員会は、食糧委員からの次のような命令を受取った、「市民たちに一万プードのパンを供出するのに三日の猶予を与える旨布告せよ。これに従わない場合、私が今夜すでにバルバリンカの村で一人のならず者を射殺したように、全員を射殺する。権限をもつ当該機関は……不服従の場合、とくに卑劣なごまかしが策された場合には、銃殺することが許可されている……」。

 

 オリョール県リブニイでは、税の半分を納めることができなかったことに対して苔打刑と銃殺刑が執行された。一人の農民が手紙で報告している、「彼らは私たちから何もかも残らず略奪して行きました。婦人からは衣類や下着さえも、男からコート、長靴や時計といったものまでもです。そしてパンはもちろん言うまでもありません」。また別の農民はこう書いていた、「彼らは私たちの手を縛り上げ苔打ちました。そして従おうとしなかった一人の男を殺しました、その男は精神異常だったのに。彼らは、沢山の小冊子やパンフレットを置いていきましたが、私たちはそれもみんな焼いてしまいました。嘘と偽り以外の何物でもないからです」(原註)この最後の手紙およびこれ以降の手紙は、マリア・スピリドーノワのボリシェヴィキ党中央委員会宛の「公開状」から引用されたものである。

 

 以上の叙述をもって革命の国を十分な色彩で描きうるだろうか? 我々は、今まで述べたことから《社会主義への移行》という結論を導くことができるだろうか? 我々は、超えることのできない極限を見きわめたのだろうか? 否、そうではない。未だこの先があるのだ。我々はさらに進んで、見なければならない。

 

 さらに他の手紙は述べている、「私たちは、パンを隠したりはしませんでした。布告で命じられた通りに、一人当り一年分として九プードのパンをとっておいただけなのです。ところが彼らは、七プードだけ残して残りの二プードを供出せよとの命令を伝えてきました。私たちはその通りにしました。それからボリシェヴィキとその分遣隊とがやってきて、何もかも破壊してしまったのです。とうとう私たちは起ち上りました。事態はユフノフスク地区では悪化し、砲撃によって私たちは壊滅させられました。村々は炎に包まれ、家屋は地面に引き倒されました。それでもなお私たちはすべてを差し出したのです。私たちは平和的にこうしたことを行ないたいと望んでいました。私たちは都市が飢えていることを知っていましたし、自分たちだけが満足しようとは思ってはいなかったのです」。

 

 さらにもう一つの手紙には、「彼らは、人が左翼社会革命党員であったり、また現在もそうであるという理由だけでその人々を殺したのだ。例えばコテルニチではマホーノフとミシュノをただ彼らが、左翼社会革命党員だからという理由だけで殺したのである……しかし彼らこそ人民革命の真の息子たちであり、その深みから起ち上った者たちだった。彼らは常にその姿勢を正して、誠実に献身したので、ミシュノの現れたいたる所で、彼について実際に伝説が生まれるほどであった」。彼らは「我々の一〇月革命をその双肩に担ってなしとげた無名の英雄たち」だった、とスピリドーノワはつけ加えている、「ミシュノは、自分の墓を掘ることを拒否したため処刑の直前に酷い目にあわされました。マホーノフは死ぬ前に一言いう許可が与えられるなら、という条件つきでそれを認めたのです。彼の最後の言葉は『世界社会主義革命万歳!』でした」。

 

 カルガ県メジンスク郡では一七〇人の男と四人の女教師が銃殺された。彼らは、銃弾に倒れて行きながら、「汚れなきソヴェト権力万歳!」と叫んだのであった。

 

 さらに他の事件についての報告は、こう述べている――「スハック郡には、人民にとくに崇拝されているヴィチンスクの聖母像があった。この村は、その全住民に伝染し、拡まった疫病に苦しめられていた。そこで人びとは、救いを求める祈祷会と聖母像(イコン)への行進を思いたった。ところがチェー・カーの郡委員長は、司祭を逮捕し、その聖母像を没収したのである。本部で彼らは、その聖母像をなぶりものにし、唾を吐きかけ、床の上を引きずりまわし、さらに、司祭をありとあらゆる方法で辱かしめた。スハック郡は非常に遅れたところである。人びとは激昂し、婦女子も老人も一緒になって聖母をとりかえしに押し寄せた。チェー・カーの郡委員長は、彼らに対して発砲した」。

 

 目撃者である農夫はスハック事件についてこう書いている、「私は、兵士としてドイツ軍を相手に数多くの戦闘を経験してきた。しかし、このような光景は未だかつて目にしたこともなかった。弾丸は彼らの列をバタバタとなぎ倒していった。それでも彼らはそれが目に入らないかのように、死傷者を乗り越えて前進し続けた。彼らの目は憎悪に燃え上がり、女たちはその子供を胸にしっかり抱きしめ、『聖母さま、お救い下さい、どうかお恵みを。私たち皆、貴女さまのために死にます』と叫びながら。彼らは、何ものをも恐れはしなかったのだ。多くの、実に多くの人びとが、絶望的になったボリシェヴィキの手でその日殺された」。

 

 もうこれで止すことにしよう。我々はすべてを見きわめたわけではない、が、仮にそうしたところで、我々がすべてを見きわめたことには決してならない、なぜなら、こうした記述は無限に継続され、その恐るべき件数と多様さと残虐とで人の心を激しく揺り動かし続けるに違いないからである。もはや我々は、こうした個々の事件に立ち戻ることはない。我々は、ここで発せられた言葉と為された行為とを記憶に刻み、後にテロル、ボリシェヴィキのテロルに対して最後的な結論を下す際の良心と理性の一助としよう。

 

 

 第16章、フェリクス・E・ジェルジンスキー (全文、P.200〜210)

 

 フェリクス・エドムンドヴィチ・ジェルジンスキーは、チェー・カーの全能の頭目――その教師、唱道者そして絞刑吏であった。彼は、過去を象徴する人物として、さらには未来に対する戒めとして、歴史に残ることとなった。そのことの故に、彼の生涯は、一層注意深く検討するに値するのである。私の前には、ジェルジンスキー自身の手になる、その初期の獄中生活を述べた記録がある。一八九八年に二〇歳の若者であった彼は、最初の流刑地北部ロシアのノリンスクより、その姉に書き送っていた――

 「姉さんは、子供や若者の頃の僕を御存知でした。でも今僕は、自分がはっきりとした考えを身につけた大人であると確信しています。人生は、嵐が一〇〇年の樹齢もつ樫の木を打ち倒すような意味でなら、僕を破壊できるでしょうが、それでも僕を変えることはないでしょう。人生は僕の進む途を定めてくれました、そして僕をとらえてしまった思潮は、僕が燃え尽きるまで、さらに先へ先へと僕を運んでゆくことでしょう。ただ死だけが僕の闘いを止めることができる、というわけです」(原註)全て引用は、一九三二年と一九三七年の『プラウダ』紙よりなされている。

 

 こうした言葉は、意識せざる異端審問官の自画像を内包している。この若者は、自分の一生の展開――それは四九歳の時に心臓発作に襲われて幕を閉じた――を正しく予見していた、即ち彼は、闘争と《死》の中に自分を見い出していたのである。将来、彼はさしたる困難もなく他人――何千人という――の死に遭遇することになるだろう。

 

 後になって一九〇一年に、ポーランドのセジェレツ監獄からの手紙で、ジェルジンスキーは「僕は、中途半端に憎んだり愛したりはできない。僕は自分の全存在を投げ出さねばならない、そうでなければ一切は無なのだ」。こうした言葉もまた、この人間の激情的な心を明らかにしている、とすれば、我々が彼の手紙を読む時、いかなる動機がこの社会主義者を導いたのか、と問うのは当然である。その獄中日記の一九〇八年五月一〇日付の書き込みで同じ監獄にとらわれている一八歳の女工の悲劇的な運命について記した際、彼はこの疑問への明確な解答を与えていた――

 

 「恐るべき生活だ! しかも、子供の時からそうした哀れな生存を宿命づけられている人びとが、どれほど多くいることか? 生きることの本当の幸福と真の歓びとを、たとえ夢の中においてさえも、決して見てはならぬと宣告された人びとが、どれほど多くいることか! にもかかわらず人間は、幸福を感じとり、受けとる資格を持っている。ほんの一握りの人間が、何百万という人びとに対して、これを拒否してきたのである。もし人類が社会主義の星に照し出されないとすれば、私にとって人生は生きるに値しないだろう、何故ならば、この《私》は、社会主義が現実の世界と人類とを包摂しない限り、生きていけないからである。個としての《私》は、そうした存在なのだ」。

 

 これより数日前、四月三〇日に、彼はこの日記にはるかに重要な書き込みを行なっていた――「少数ではあってもイデオロギー的に強力な一握りの人間が、自己の周囲に大衆を結集し、彼らに欠けているものを与え、彼らに新たな希望を告げるであろう……無辜(むこ)の人びとの血潮は無駄に流されてはならないし、大衆の飢えと苦しみ、子供たちの泣き声、母親たちの絶望は、虚しくされてはならないのだ」。

 

 これらの文章には、大衆に対する深い同情心、彼らの無力や弱さに対する蔑視、と共に、大衆を助け、彼らの苦難の復讐を行ないたいという熱烈な欲望――こうしたすべてが含まれている。ジェルジンスキーは、大衆の復讐者となっていくであろう。だが、彼は大衆が自身の運命について決定を下すのを認めるのだろうか? 二度にわたって彼は《一握りの人びと》―― 一方は全世界の富を略奪しており、もう一方は「自己の周囲に大衆を結集している」――について言及している。歴史的闘争は、この強力な集団の間でたたかわれるのに反して、人民大衆はこの闘争の対象物にすぎないのである。

 

 長年にわたってジェルジンスキーは、非合法生活をおくり、監獄にぶち込まれ、シベリアへ流刑され、カートルガ(監獄)で過した。彼の激しい短気な性格は、この苦悩、相剋、失望に充ちた全期間を耐え抜くのに苦痛を伴なわせることとなった。彼の心は、火山のように、革命の爆発へ向けて張りつめた力であふれんばかりであった。この力とは何だったのか? それは、まず第一に《抑圧者も被抑圧者もいない》新たな生活、実際的な社会主義的組織への願望であり、次に、旧社会に対する抗議、怒り、憤激の荒れ狂う力であった。そうした激しい憤激の対象となったのは誰か? ジェルジンスキーは、ボリシェヴィキ的意味においてではあったが、社会民主主義者だった。それ故に彼は、来るべき革命を、労働者階級が巨大な影響を及ぼすブルジョア=資本主義的革命と見なしていた。したがって彼の敵は、ツァーリ政治体制のすべての代表者、地主階級、部分的には、手工業者や製造業者たちであった。彼の監獄や(四年間の)重労働での苛酷な体験は、その獄吏やツァーリの役人たちへの個人的憎悪を一層激しいものとしていた。

 

 後に一九一七年になって彼は、直接の社会主義革命という問題に関してレーニンと一致した。その時を境として、彼の憎悪の対象、彼の敵は、資本家そのもの、銀行家そのもの、資本主義的構造に参加するすべての者、貿易商、商人それに《投機家》のすべてを含むこととなった。当然のことながら、今や彼の敵対者には、ボリシェヴィキに反対する穏健派社会主義者の一大集団もまた含まれていた。

 

 私は、どうしてレーニンが多くの人物の中から彼に、《非常委員会》即ちチェー・カーとして血まみれの勇名をはせることとなった、反革命に対する闘争機関である組織を、任せるようになったのかは知らない。一九一七年一二月二〇日、彼はその初代委員長に任命された。けれども、明らかにこうした活動――敵に対する厳しい監視と無慈悲な迫害――が、ジェルジンスキーにその才能を発揮する機会を与えたのに反して、依然としてロシアの解放運動における伝統を身に帯び、ツァーリ監獄の苦痛を今なお記憶にとどめている他の著名なボリシェヴィキたちは、この仕事から尻込みしていた。

 

 その性格からして、ジェルジンスキーは、自己の《職務》に完全に没頭した。そのマルクス主義的訓練にもかかわらず、彼は、社会的諸階級とその機関とに対する闘争を、個々の階級敵に対する直接的戦争に置き代えた。こうした戦争の只中においては、彼は自分の行く手に、当の敵の社会的性格ばかりではなく、その容貌とか身体つきとかいった肉体的在り方をも考慮に入れた、つまるところ彼は、敵を個人的な敵として憎んだのである。この点にこそ、ジェルジンスキーの恐るべき危険性が潜んでいたのだ。

 

 チェー・カーの成立後最初の数週間は、まさにその危険な性格をさし示すものだった。その職員を一度に集めることが、きわめて困難であることは判っていた。ジェルジンスキーは、自分の最も緊密な協力者としてラツィスおよびG・ペトルスを選んだ、が、この二人の名はやがて狂信的な残忍性の象徴と化してゆく(我々は後に彼らのテロルの有益性についての説明を聴くことになろう)。左翼社会革命党は、チェー・カーの全機構およびその《精神》に反対していた。にもかかわらず彼らは、自己の監督権を行使するためにチェー・カー評議会に代表を送ることが必要である、と考えた。選ばれたのは、アレクサンドロヴィチと水兵エメリアーノフで、二人とも強靭な精神力をそなえた人道主義的な社会主義者であった。彼らは幾度となく、その身の毛もよだつような協議会から彼らを解放してほしいと彼らの党に嘆願してきた。そして、アレクサンドロヴィチは自己の任務の代償としてその生命を支払うこととなった―― 一九一八年七月、彼はジェルジンスキー自身によって銃殺されたのである。

 

 だが、もしチェー・カーの《上部(ヘッド)》に何らかの方法でその秘密警察的機能を革命の事業の故に正当化しようと試みる人びとがいたにしても、チェー・カーの機構それ自体がそうした二重性を容認することはできなかったであろう。その機構は、上司の命令に疑問を抱くことなく、しかもあらゆる手段を用いて実行するような信頼できる人間を必要としていた。反革命に対して、怠業(サボタージュ)に対して、投機に対して、戦いの火蓋は切って落された。中級および下級のチェー・カー部員は、半端なイデオロギーをもち、冒険家を気どった分子――腕力が強く、射撃や手榴弾を投げるのが素早い人間ども――の中から手あたり次第に選抜された。彼らは、あらゆる家屋や公共機関へ踏み込む権利、尋問し脅迫する権利、個人の持つすべての権利を無視する権利を持っていた。

 

 ところで、全露チェー・カーはその活動をペトログラードに限られていたのではなかった。支部や地方チェー・カーが、国中のすべての市や関連地に開設された。地方のチェー・カーでは、公正で誠実な人びとを選べる可能性ははるかに少なく、これらは、正体不明の人間、暗い前歴をもった人間、そして一部はかつてのツァーリ秘察警察つまりオフラーナから引き抜かれた人間、で一層急速に一杯になっていった。一般市民を支配する途方もない権力が、彼らの手に集中された。すぐさまロシア全土がチェー・カーの忌わしい無制限の権力の下に呻吟することとなったにしても、少しも驚くにはあたらない。《反革命》的環境を一掃するはずの組織が、自らを下劣な不正と抑圧を働く最大の犯罪者と化していったのである。

 

 当初は、ジェルジンスキー自身、チェー・カーの危険性を実感していた。私は、一九一七年も終ろうとする頃、ジェルジンスキーがソヴェト政府の閣議の休憩時に私の所へやってきた時のことを憶えている。彼は、司法人民委員部も含めて、《法》というものを好んでいなかった。はじめから彼とレーニンは、チェー・カーを別個の《警察省》として司法人民委員部から独立した地位に置いたのである。これが原因で、チェー・カーと私との間は、絶えざる緊張関係にあった。

 

 顔をしかめて考え込んだ様子で、ジェルジンスキーは私に、金に投機しているペトログラードの山師どもの中にチェー・カーから挑撥者を送り込むのは賢明な策かどうかについて話しはじめた。彼は明らかに、革命政府を代表する者が積極的に投機に加わり、そのことによって国の経済を掘り崩す手助けをするというような事態のもつ欺瞞性を感じとっていたのである。私がこのことを彼に指摘すると、彼は同意するかのようにうなづいた、が反論した、「だが、他にどんな方法で奴等と闘えばよいのだ?」。

 

 マリア・スピリドーノワは後になって(そのボリシェヴィキ党中央委員会宛の『公開状』で)、チェー・カーの委員長になりたての頃よくジェルジンスキーが、その顔を「ペトログラードでほんの数人の略奪者を銃殺した後で、死人のように蒼白にし苦痛にゆがめて」戻ってきたことを、想い起こしていた。彼が、チェー・カーの残虐行為をなおも本能的に嫌悪する自己の良心を鈍らせるために、麻薬に逃避しているという信ずべき噂が拡まったのも、故なきことではなかった。彼はその政治的敵対者を軽蔑していた、が、人間に肉体的拷問を加える前には、しばしの間、震えるのだった。

 

 時が流れ、一〇月革命内部での衝突が生じてきた。革命そのものの領域が拡大してゆき、その拡大と共に、革命が闘争せねばならない人間の数も増えていった。こうした人間とは、もはやブルジョアや地主たちにとどまらず、その名の下に革命が戦われた労働者人民――プロレタリアと農民――も今やその中に含まれることとなった。後者が、君臨する党に反対するようになるにつれて、徐々に彼らもまた《階級敵》となり、その先輩たちと同じように容赦なく断ぜられるものとなったのである。反対者の数が増大するに従って、ジェルジンスキーとチェー・カーの権力、そして征服し、弾圧し、勝利するという彼の野望、もまた増大していった。一九一八年五月二七日に、チェー・カー委員長としての自分の職務について、その妻に書き送った中で、彼は述べている――

 

 「私は最前線の部署に任命されてきた、そこで私の決意は、脅威的な事態のもつ恐るべき危険性と闘い、これを直視すること、さらに、敵をバラバラに引き裂くにあたって、忠実なる番犬の如く無慈悲となることである」(原註)この引用は、一九三七年一二月二〇日付『プラウダ』のジェルジンスキー夫人の論文からなされている。傍点は私のものである。

 

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ジェルジンスキーは、1918年から4年間で、12733人を処刑した。

彼は、『たとえ無実の者の頭上に刃を振り下ろすことがあるにせよ、

チェーカーは革命を守り、敵を打ち破らなければならない』とした。

コンクエスト序文『赤い帝国−写真270枚、目で見るソ連

の隠された歴史』(時事通信社、1992年、絶版、P.58)

 

 当時ですら革命の国家を侵蝕しつつあった流血と暴力とを理解するためには、人はこうした言葉を、一九一八年五月という状況のコンテキストの中で吟味せねばならない。その時以来何百万というロシア人民の精神と肉体とが、どれほど多く、どれほど深く、荒廃させられていったかを数的に概算することさえ、困難なことである。我々は、この天下御免の体制の恐るべき行為と一九一八年にチェー・カーの下に開始され内戦(一九一八年〜一九二一年)の期間を通じて継続されたテロルとを本書のいたるところで例示してきた。今日の歴史家は、ボリシェヴィキ国家と同義語と化した永久的《テロルによる政府》――人質の拷問と殺害、奴隷的労働キャンプ、粛清、「裁判」による――の全体系が、チェー・カーによって導入された体系の延長にすぎないことを銘記せねばならない。

 

 ジェルジンスキーとその同僚たちは、その執務室から、人民の抹殺、彼らの貧しい財産やその家庭生活の破壊に関する命令を幾千となく発した。彼の手は一瞬の心の動きにうち震えはしなかっただろうか? 彼は時おり、僅か一〇年前にその獄中日記に「大衆の苦しみ、子供たちの泣き声、母親たちの絶望」について書き記したことを、憶い出しはしなかっただろうか? だが権力を手にするや否や彼の標語(ウオッチワード)が「敵をバラバラに引き裂く」ことへと変わっていった時に、そうした思想が一体誰のためになったというのか。

 

 左翼社会革命党が不信と嫌悪の念をもってチェー・カーの活動に敵対していたことは、この機関の誕生に際してジェルジンスキーと共にあったG・ペトルスの記述の中で明らかにされている。彼は、一九二六年に書いている。

 「最初の頃人民委員会議(ソヴェト)は、二つの党、即ち共産党(ボリシェヴィキ)と左翼社会革命党のメンバーによって構成されていた。当時、司法人民委員部は、ソヴェト権力の敵との戦いにおける多少とも断固とした措置にはすべてブレーキをかけていた左翼社会革命党のスタインベルグに率いられており、彼はチェー・カーを自己の支配下に従属させようと試みていた。左翼社会革命党は、チェー・カーの失策をことごとく誇張し、その権限に挑戦していた」(原註)《一〇月の守護者》と呼ばれたジェルジンスキーについてのペトルスの論文(政府出版所発行、モスクワ、一九二六年)より引用。

 

 同じペトルスは、後に、怒りに満ちた報告を行なっている――「逮捕した白衛軍の徒をいかに処分するかという問題について、チェー・カー協議会の内で我々と左翼社会革命党との間に、鋭い不一致が現われた。当時、我々は、囚人にどういう刑罰を与えるべきかを決定する委員会を任命していた。だが、見解の相違があまりにも明確だったため、委員会の構成が数度にわたって実際に変更されたにもかかわらず、我々は全員一致の決議に到達できなかった――ことごとく、左翼社会革命党のために。彼らは、ソヴェト権力の側に一たんは留まって奉職しながらもこれに逆らって叛乱をいどんだような、旧将校どもに対する死刑を拒否したのだ」。

 

 一九一八年七月に生じたボリシェヴィキと左翼社会革命党との最終的決裂の後、チェー・カーは純ボリシェヴィキ型に再組織された。テロルに対してチェー・カーに課されるいかなる統制も、内からと外からとを問わず、もはや存在していなかった。そしてペトルスは、勝ち誇ってこう報告することができた。「チェー・カーの装置は、今や完全に強固なものとなっている。我々は、ソヴェト権力の強化ではなくその解体を目的とする左翼社会革命党員たちの意見を考慮せねばならない、といった変則的な事態と縁が切れたのである」。

 

 一九一八年夏ジェルジンスキーは、当時なお存在していた少数の非ボリシェヴィキ派新聞の代表たちとのインタビューに応じた。彼らは彼に、チェー・カーが誤りをおかし、個々人に対して不正行為を働くことがありうるとは考えていないのか、と尋ねた。

 

 「チェー・カーは法廷ではない」とジェルジンスキーは答えた。「チェー・カーは、赤軍がそうであるように、革命の防壁である。丁度、赤軍が内戦に際して、個々人な傷つけはしまいかと立ち止って考えることなど出来ず、ただブルジョアジーに対する革命の勝利だけを念頭におかねばならないように、チェー・カーは、革命を防衛し敵を絶滅せねばならないのだ――たとえ、その剣が偶々無実の者の頭上にふりおろされるようなことがあろうとも」。

 

 (原註)ここで私は、一九二三年にベルリンで、マクシム・ゴーリキーが私に語った出来事を記録せねばならないと思う。彼はその頃は未だ《彼らの》――即ちボリシェヴィキの――残虐行為に対して憤激の念をいだいていた。彼の語った話とは、自分たちの町がコルチャーク将軍の軍隊に占領されている間、市ソヴェトの選出された議員として活動し続けたトクーメン市の一団のメンシェヴィキ派労働者たちに関するものであった。この市がボリシェヴィキの手で奪回された時、これらの労働者たちは「コルチャークの協力者」として裁判にかけられ、死刑を宣告された。モスクワの彼らの弁護士は、当時の共和国法務長官N・X・クルイレンコに助けを求めた。被告がそうした嫌疑について潔白であることが彼に判明した時、彼は答えた、「我々は罪の有無とは関係なく、死刑を執行せねばならぬ。無実の者の処刑は、はるかに大衆に強い印象を与えることだろう」。

 ゴーリキーは、この劇的な事件を恐ろし気に回顧しながら「私は彼らのうちの幾人かを個人的に知っていた。彼らは生れながらの才能と高度の教育をうけた優秀な労働者だった」とつけ加えた。

 

 おぞましくも不誠実きわまりないこうした言葉は、ジエルジンスキーの記念に献げられたカール・ラデック――当時、ボリシェヴィキの指導的理論家であった――の論文の中で、くったくなげに引用されたものであった。さほど遠くない将来に、彼自身が賞讃してやまなかったその組織の虜囚となり、やがて、無実の者の頭上にチェー・カーの「剣が偶々ふりおろされる」のを身をもって知るようになるのを彼が予見しえたのかどうかは疑わしい。

 

 ラデック同様、NE・ブハーリンもまた、年がたつにつれて一層頻繁にチェー・カーの革命的美徳を頌える讃歌を歌ったのだった。彼が『プラウダ』の編集者だった時、彼は、チェー・カーは革命の最も重要な機関の一つであること、それは国家と党との単なる一機関にとどまらず全党は挙げてチェー・カーの同志とならねばならぬこと、即ち、ボリシェヴィキは一人の例外もなく「チェー・カー部員たる名誉の勲章」を誇りをもって身に帯びるべきであることを書いた。彼は想像しえたであろうか? 自らもまた、この「神聖なる異端審問所」のいけにえとなり、チェー・カーの手で捏造された罪状により告発されて法廷に立つようになることを。また、彼を告発した最高責任者、チェー・カー長官のヤゴダが自分の番がやってきて同じ法廷に人民の敵として立ち、生命でその償いをするようになることを。さらには、ヤゴダの代理人、チェー・カーの新長官エジョフが、まず国とボリシェヴィキ党とを血の海に溺れさせ、次いで同じチェー・カーの手で、自らも人民の敵として消されていくだろうことを。

 (原註)我々は、全露非常委員会を、その実際の名称が年次を追い数度にわたって変更されたにもかかわらず、チェー・カーと呼び続けることにする。一九二一年末に、それは《再組織化》されて、GPU、即ち国家政治行政部と呼ばれた。一九三一年以後、それはNKVD、即ち内務人民委員部となった。現在ではそれは、MVP、即ち内務省である。だが、その精神とやり口においては、それは常に同じチェー・カーであり続けたのである。

 

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ヤゴーダ(1891-1938処刑)
Genrikh Yagoda

エジョフ (1895-1939処刑?)
Nikolay Ivanovich Yezhov

ベリア(1899-1953処刑)
Lavrenty Pavlovich
 Beria

 

HP『KGBとジェルジンスキー』より転載。他にジェルジ

ンスキーの切手2枚写真、詳細な「KGB変遷図」を収録

 

 ジェルジンスキーの友人たちは、彼の性格を検討し確定する際に、敵を弾圧する時の無慈悲さだけが彼の特性ではなく、彼が「人類に対するこの上なく深い愛に満たされた」(ラデック)魂の持主であったことを明らかにしたいと願っていた。彼らは、繰り返し児童施設についての彼の関心を述べ、「得がたい心」を持った人間と彼を呼んだのである。おそらくそれは真実であろう、というのは、彼は、その社会主義者としての活動を、まさしく抑圧された人間に対する憐れみから開始したのだから。だがこのことは、彼が何千何百あるいはそれ以上の人びとに取りかえしのつかない不幸をもたらす妨げとはならなかったのだ。彼が子供たちのことを心配していたというのか? それでも彼は、その命令が父親や夫たちを殺すたびに、何千人という子供たちを孤児にし、無数の妻たちを未亡人にしたではないか。

 

 さらにある時、私はかつての監獄(カートルガ)仲間ジェルジンスキーが、彼のチェー・カーがそのテロルの支配を開始した後ですらも、自分の過去の経験を完全には忘れ去れないでいることを思い知らされることとなった。一九二〇年に、五名の左翼社会革命党員が、看守を平和裡に武装解除して、モスクワ監獄から白昼脱獄した。これらの若き革命家たちは、まもなく再逮捕されたが、その大胆不敵な脱獄ぶりは、チェー・カー部員たちの間にさえ称賛の念をまき起したのだった。後に、ジェルジンスキーと痛烈にやりあっている時、私がこの事件のことを想い起こさせると、彼は短かく笑って応えた、「よかろう、君等をぶち込んでおくのは我々の仕事だし、脱獄しようとするのは君等の仕事さ」。一瞬、ほんの一瞬の間だけ、彼の過去が、突き破って表へその顔をのぞかせたのだった。

 

 一九二一年、レーニンは突然ジェルジンスキーを交通運輸人民委員に任命し、次いで一九二四年には国家最高経済会議議長に任命した。けれども国家資源の管理を引き継いだ時ですら、ジェルジンスキーはチェー・カーの《最高指導者》であり続けた。建設的な《社会主義的任務》への転任も、ボリシェヴィキ国家内での彼の主要な仕事を根底から変更することはなかったのである。彼自身の同志たちは、まさに最後に至るまでの彼の位置をこのように見なしていた。

 

 一九二六年にラデックが語った逸話が、このことを証明している――「一九二一年、ポーランドとの戦争の最中のこと、前線へ赴き、ポーランドの労働者が自らのソヴェト国家を樹立するのを援助すべく我々が準備していた時、ジェルジンスキーが私にこう語った、『勝利したあかつきには、僕は教育人民委員部を引き受けたいね』。この会話の場に居あわせた同志たちは、冷やかに笑った。ジェルジンスキーは、身をこわばらせた」

 

 ジェルジンスキーが現実に貧しい人びとを憐れみ、彼らのために新たな生活を建設することを心底から夢みていたとしよう。それにしても彼の夢は、この新たな生活をめざす《彼の戦い》の惨劇の中に消失してしまい、人びとは、彼が人間にもたらした涙と絶望との海に葬られていったのである。彼は、ただ彼らを憐れんだだけで、彼らを愛することがなかったが故に、人民を押しつぶしてしまったのだ。彼は、その死にいたるまでそうであったが、残酷な憐れみに充ちた男であった。

 

 

 解説、松田道雄「反逆者のふたつの顔」 (抜粋、P.281〜285)

 

 十月の革命で、プロレタリアでなく農民の意志を尊重しなければ、一日もボリシェヴィキは権力を維持できないことをレーニンは知った。それだから、ナロードニキの嫡流である社会革命党の農民政策をそのまま実行して、総割替えをみとめねばならなかった。ロシアの革命は農民の意志を無視してはおこなえないという点で、ゲルツェン以来のナロードニキの考えは、あやまっていなかった。

 

 ナロードニキ嫡流のなかでも、もっとも純粋な反逆者たちが、左翼社会革命党に結集したとかんがえていい。彼らを純粋な反逆者であるというのは、二月革命のあと、ブルジョアと連合政府をつくることに、徹底して反対したからである。

 

 左翼社会革命党が十月革命ののちに、結党したことは、重大な意味がある。彼らは農民を代表しただけではない。農民の土地だけでなく、人間の自由をも代表した。「土地と自由」をボリシェヴィキの権力のもとでまもろうとしたのであった。

 その点で一九一七年から一九二一年までの左翼社会革命党の行動と指導者の心情をかいたスタインベルグの『左翼社会革命党一九一七〜一九二一』は貴重な文献といわなければならない。それはボリシェヴィキによって埋没されてしまった資料の出土というだけではない。革命権力と個人の自由の問題をもっとも切実な形でつきつけている。

 

 旧権力を物理的な力によって打倒した新しい権力は、きわめて不安定な時期をむかえる。しかもロシアにおいては、パワー・ポリティクスが戦争の形でじかに周辺に切迫している事情のなかで新しい権力をもちこたえねばならなかった。危機のなかの新しい権力は、一切の手段をつかって自分を維持しなければならない。権力の危機とは法の存在の疑わしい状況なのだから、不法な物理的な力が権力によってもちいられることを防ぎえない。政治的な、きわめて政治的な状況である。この時期に人間の尊厳をまもろうとした左翼社会革命党の人たちは、政治のABCをわきまえない人間として、そしられてきた。

 

 彼らの要求したように、軍隊における死刑の廃止を実行したなら、逃亡兵が続出してトロツキーは赤軍を創設できなかったろう。彼らの要求したように、ブレスト=リトフスクでドイツ軍との和平を拒否して、革命戦争を続行したら、革命権力は崩壊しただろう。それなら左翼社会革命党のおこなったさまざまの政治行動は児戯に類した愚行であっただろうか。

 

 「全世界の注視のうちに人民の手で支えられている社会革命は、その道徳的誠実さを保持することによってのみ、全世界を席捲しうる。我々一人ひとりは、いかなる問題においても、革命の持つ栄光に対し道徳的に責任を負っている」(本書九二ページ)。

 

 革命が道徳的でありうるか。

 一九一九年ドイツ革命のなかで、マックス・ウェーバーはその問題にふれていった。「実際に、政治は頭脳によって行われるものであるが、頭脳だけで行われるものでないことは全く確かである。この点において心情倫理家は全く正しい。だが、人々は心情倫理家として行為すべきか、それとも責任倫理家として行為すべきであるかということ、ならびに如何なる時に一方を取り、如何なる時に他方を取るべきかということについては、何人にも指図することは出来ない」(清水幾太郎訳河出版世界大思想全集21 二一六ページ)。

 

 結果にたいして責任をおう政治家に、頭脳による計算だけでなしに、心情をもって行動せよということは容易である。心情の道徳にもとづいて行動したとき結果について責任をもてるかと、逆に問われたら心情倫理家は返答に窮するだろう。ウェーバーは、心情倫理と責任倫理とは「相互に補い合うもの」であるという可能性をのこした。

 

 たとえば、それは現代のソ連の生産水準を維持するためには、スターリンのやったような大粛清をやらないでもよかったのではないかという「可能性」のことであろう。また現在のソヴェト社会を維持するために、科学者や作家を今日ほど束縛しないでいいのでないかという「可能性」のことであろう。左翼社会革命党が、その純粋な血によってロシア史のなかにかきのこしたこともこの「可能性」にほかならない。

 

 この「可能性」の最初の可能性は一九一七年十一月二十八日の布告にたいする左翼社会革命党の抗議の重要さをボリシェヴィキの側でどれだけ考慮するかというところにあった。十一月二十八日の布告は「革命に対する内乱の指導者たちの逮捕に関する布告」で、ソヴェト執行部への相談なしにレーニン、トロツキー、アヴィロフ、メンジンスキー、スターリンらの署名で発せられた。それはカデット党(ブルジョアの党)の執行機関のメンバーたちは人民の敵として逮捕され、革命法廷で裁判に付されることを告示したものである。

 

 ソヴェトの司法人民委員であったスタインベルグは、ソヴェト会議で発言した。「勝利した革命には、その敵対者を略式裁判で有罪とする必要はない。我々勝利者は、正当な裁判を実現するに十分の力を有している。もし個人としてカデット党員が人民に対する陰謀のかどで告発されたとしたら、彼を個人的に公開裁判――その時には、我々は証拠を提示すべきであり、彼は弁護の権利を有するべきである――にかけようではないか。だが、一つの集団全体――不特定多数の人びとの集団――を人権の保護外に置くことは我々にはできない」(本書五五ページ)。

 

 権力の奪取にむかって、すべての反逆者がたたかっているときは、人民の敵は権力であることは明白である。だが、反逆者が権力を奪取した時点から人民の敵は不明確になる。人民を代行する反逆者が、はたしてどの点まで人民と同一化できるかわからないからである。この時点において権力を掌握した反逆者、新しい支配者にとって最大の誘惑は自分を人民と観念的に同一化することである。

 

 支配者が自分を人民と同一化して、人民の敵にたいしてすべては許されるとしたとき、支配者は人民にたいして、きわめて危険な関係に自分をおくことになる。支配者の政策にかならずしも同意するとかぎらない不特定多数を、無制限に罰することができるからである。危機感をもった支配者によって、人民の敵というレッテルをはられたものはすべて有罪になる。

 

 革命が成功するためには、たしかに不特定多数の協力が必要であった。しかし、それらを革命勢力として一括することは、革命に参加した個々のイワン、個々のマリアの人間を尊重しないことになる。イワンなり、マリアを人民の敵として有罪にするためには、彼らを不特定多数のなかから、個人としてひろいだし、イワンの責任、マリアの責任として告発するのでなければ、彼らの人間性は無視される。不特定多数のなかから個人を識別すること、それが基本的人権をみとめるということである。いかなる犯罪もそれが人間の犯罪であるかぎりにおいて、無限定であるはずはない。

 

 スタインベルグがボリシェヴィキの指導者たちに要求したものは、権力の非人間性にブレーキをかけることであった。それだけが、革命の道徳性をまもることができるものだった。

 もしどんな被告にたいしても公開裁判でさばくことが革命政権の道徳的伝統として確立されていたら、それ以後のソ連の歴史はちがったものでありえたろう。

 そして、自由世界の権力をもっていない一政党が、自分と意見のちがう不特定多数に「人民の敵・トロツキスト」などというレッテルをはる習慣も生じなかっただろう。また、テロリストの少数集団になった反逆者たちが、「人民裁判」で「人民の敵」を消すこともなかっただろう。

 

  一九七二年三月一〇日

 

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 (関連ファイル)

   「赤色テロル」型社会主義とレーニンが殺した「自国民」の推計(宮地作成)

   「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構

   「反乱」農民への『裁判なし射殺』『毒ガス使用』指令と「労農同盟」論の虚実

   「聖職者全員銃殺型社会主義とレーニンの革命倫理」 (宮地作成)

   「反ソヴェト」知識人の大量追放『作戦』とレーニンの党派性 (宮地作成)

   ヴォルコゴーノフ『テロルという名のギロチン』『レーニンの秘密・上』の抜粋

 

   藤井一行『粛清のメカニズム』