テロルという名のギロチン

 

ドミートリー・ヴォルコゴーノフ

 

 ()、これは、ヴォルコゴーノフ著『レーニンの秘密・上』(NHK出版、1995年)の第4章「粛清の司祭たち」5節を全文引用・転載したものです。『上下』全体で779ページの大著ですが、そのうちの19ページは“「引用」範囲内”という了解で、このHPに載せます。本文中の傍点個所は、黒太字にしました。山内昌之教授の文は、『下』巻末にあります。それは、私(宮地)が別個に、山内氏にHP転載のご了解をいただいて、全文を載せたもので、(別ファイル)になっています。

 

 〔目次〕

   1紹介・解説(宮地) ヴォルコゴーノフ経歴と『レーニンの秘密』

   2第4章5節、テロルという名のギロチン (全文、『上』P.373〜391)

   3、山内昌之『政治家と革命家との間---レーニンの死によせて』 (全文、『下』)

 

 (関連ファイル)          健一MENUに戻る

   「赤色テロル」型社会主義とレーニンが殺した「自国民」の推計 (宮地作成)

   「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構

   「反乱」農民への『裁判なし射殺』『毒ガス使用』指令と「労農同盟」論の虚

   「聖職者全員銃殺型社会主義とレーニンの革命倫理」 (宮地作成)

   「反ソヴェト」知識人の大量追放『作戦』とレーニンの党派性 (宮地作成)

   スタインベルグ『ボリシェヴィキのテロルとジェルジンスキー』(4人の写真)

 

 

 1紹介・解説(宮地) ヴォルコゴーノフ経歴と『レーニンの秘密』

 

 ヴォルコゴーノフの経歴

 ヴォルコゴーノフは、陸軍大将の軍籍を持ち、軍事史研究所所長です。それとともに、極秘文書保管所に最初に閲覧を許され、自由に出入りできた最初の研究者でした。しかも、1991年クーデター未遂事件後、エリツィン政権下で、「党と国家の文書保管所の管理と機密扱い解除」を担当することになり、ロシア共和国最高会議歴史文書委員長も務めました。その公表・研究の一端が、この著書です。彼と出版当時のエリツィン政権との関係や「レーニン未公開資料」公表の意図には、いろいろ問題点もあります。しかし、この著書で使用されているのは、その著述内容から見ても、レーニン第1次資料であり、その正確な引用です。

 彼の「指導者3部作」は、『勝利と悲劇、スターリンの政治的肖像・上下』(朝日新聞社、1992年)、『トロツキー、その政治的肖像・上下』(朝日新聞社、1994年)、『レーニンの秘密・上下』(NHK出版、1995年)です。

 

 『レーニンの秘密・上下』

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(NHK出版)の表紙カバー

 

 これは、779ページの大著で、「レーニン秘密・未公開資料」に基づく出版物です。その「はじめに」によれば、モスクワのソ連共産党中央委員会ビル内に「レーニン関連文書保管所」があり、そこにはレーニンの未公開資料が3724点と、そのほかにレーニン署名入り未公開文書が3000点近くもあることが、1991年ソ連崩壊後、明らかになりました。本書の内容は、そのほとんどがその6724点に基づく分析です。

 

 ヴォルコゴーノフは、そこで、『なぜこれらは隠されていたのか? レーニンは、制裁や「100〜1000人の役人と金持ちどもを吊るせ・・・」といった指示をだしているが、こういうものを公開すると彼の栄光に傷がつく可能性があったのだろうか?』としています。

 

 レーニンにたいする著者の最終的評価は、「はじめに」に書かれています。その一部だけ引用します。

 『レーニン主義は、旧世界を革命によってぶち壊し、その瓦礫の上に、やがて新しく、輝かしい文明をつくりあげることを可能にするのだと、われわれは教えられた。どうやって? どんな手段を使って? その答えは、「無制限の権力をもつ独裁によって」であった。レーニン版マルクス主義の原罪の発端はここにあったのであって、公平に見て、独裁という理念にかなり拘泥していたマルクスにあったのではなかった。だが、レーニンは、この独裁の理念を、マルクスの国家問題にたいする最大の貢献とみなした。「闘争および戦争によってしか」、「人類の重要な問題」は解決できないという彼の主張は、破壊的志向を優先させたのである。

 こうして武装したレーニンとその後継者たちは、未来世代の幸福という名のもとに、革命の輸出、内戦、果てしない暴力、社会主義の実験など、すべてが許され、道徳的であると決め込んだ。そのヴァイタリティ、否定されることもないままに盛んになったレーニン主義のアピールは、もとをただせば、完全で公正な世界を求める永年の人類の切なる願いから生まれたものである。レーニンを含めたロシアの革命家たちが、人間存在にとって昔からの諸悪の根源である搾取、不平等、自由が欠如している実態を暴いたことは正しい。だが、レーニン主義者たちは、こうした諸悪の根源を一掃する機会を獲得したあと、新たな、少々形を変えた国家による搾取形態をつくりあげたのである。社会的・人種的不平等の代わりに、官僚主義的不平等が生まれた。階級的隷属状態の代わりに、総体的隷属状態が起こった。マルクス主義のレーニン版は、この広大な国で具体化され、その過程で、一種の世俗宗教のようなものになっていった』(P.9)

 

 『レーニンは不寛容という全体主義的イデオロギーの生みの親だった。独裁政権の懲罰機関で、彼のお気に入りの創案であるチェーカー(KGBの前身の反革命・サボタージュ取締非常委員会)の創設によって、レーニンは、共産主義者の思考方法に大きな影響を与えた。彼らはまもなく、党の利益になるならば、道徳意識をもたないことが道義に適うと信ずるようになった。党統制委員会メンバーのS・T・グセフは、一九二五年十二月の第一四回党大会の演説で、次のように主張した。「レーニンはかつて、それぞれの党員はチェーカーの代行者でなければならないとわれわれに教えました。つまり、われわれには監視と通報の義務があるのです……各党員は情報を提供すべきだと思います。もしもわれわれに悩みがあるとしたら、それは公然たる非難から起こるものではなくて、公然たる非難の欠如から起こるのであります。われわれは、たとえ最良の友であっても、一度政治的見解が異なりはじめれば、友情を断ち切らなければならないばかりでなく、さらに進んで密告をしなければなりません」。レーニン主義の教えは、警察のスパイの仮面を着けていたのである』(P.20)

 

 『レーニンは、肉体的暴力を行使することによってしか新しい世界の建設はできないという信念を隠そうともしなかった。一九二二年、彼はカーメネフにこう書いている。「ネップがテロルに終止符を打つと考えるのは最大のあやまちである。われわれは必ずテロルに戻る。それも経済的テロルにだ」。そして実際に、そうしたテロルはやがて、うんざりするほど起こった。何十年も経ってから、私たちロシア人はそれに有罪の判決を下した。テロルをはじめたのはだれだったのか、それを革命家の行動様式の神聖な目的にしたのはだれだったのかという問いには、恥ずかしさのあまり、答えるのを拒否した。私はレーニンが、国民の幸福、少なくとも彼が「プロレタリアート」と呼んだ人たちの現世的幸福を求めていたことは疑わない。だが、彼は、その「幸福」を血と、強制と、自由の否定の上に築くのを当たり前だと思っていたのだ』(P.21)。

 

 「指導者3部作」のうち、『勝利と悲劇、スターリンの政治的肖像・上下』『トロツキー、その政治的肖像・上下』(朝日新聞社)には、引用文献の「文書保管所名、フォンドno.目録no.資料no.ファイルno.」からなる膨大な「原注」も翻訳・添付されています。しかし、この『レーニンの秘密・上下』(NHK出版)は、「原注」を省略した英訳本を日本語に訳したもので、出典が載っていません。ロシア語原本には、他2冊と同じく、詳細な引用文献「原注」がありますので、上記、および『テロルという名のギロチン』のレーニン発言、他の発言などは、すべて出典が明確なデータです。

 

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 2第4章5節、テロルという名のギロチン (全文、『上』P.373〜391)

 

 レーニンの暗殺未遂事件を境に、個人テロルが国家政策の重要な要素として大規模テロルに取って代わることになった。レーニンはそのために長い間奮闘した。トロツキーの回想によれば、レーニンの「社会主義の祖国は危険にさらされている」という布告の草案について討論していた時、左翼エスエルのシュティンベルグが、敵に加担した人間はその場で射殺するという考え方に断固反対した。するとレーニンは、「それどころか、そうした中にこそ、本当の革命家の悲痛な思いがあるんだ」と叫んだ。彼はさらに、皮肉っぽい効果を狙って、「もっとも冷厳な革命的テロルを利用せずに勝者になれるとは、あんたもまさか思っていないだろう」と声高にいった。レーニンは決して機会を逃さなかった。革命や独裁について議論をしている時、「それでは、われわれの独裁はどんな独裁なんだ? いってくれ! そんな煮え切らない態度は独裁なんかじゃない」と評した。トロツキーはさらに、レーニンは次のようにいったと書いている。「白衛軍の破壊活動家を撃つことができないようでは、どこが大革命なんだ? ただの空論で、煮え切らない態度にすぎないではないか」。小冊子「ソヴィエト権力の当面の任務」の中でレーニンは、「わが政権は信じられないほど穏健で、すべての点で鉄というよりミルク・プディングみたいだ」と書いている。

 

 ミヘリソン工場での暗殺未遂事件以前に、チェーカーによるテロルはすでに心に寒気をもよおさせる現象になっていた。射撃の時のボルト・アクションの二音に似た「チェー・カー」と聞いただけで、会話はぴたりと止んだ。反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会を指す「チェーカー」が、フェリックス・ジェルジンスキーを議長として設立されたのは一九一七年十二月だった。彼は異端分子のきびしい取り調べ、冷酷無情、執念深さで“鉄のフェリックス”の異名があった。レーニンの暗殺未遂事件は、ちょうどいい時に起こった。体制側は兵士を戦わせたり、確実に穀物を供出させるには、テロルを使うしかなかった。暗殺未遂事件から一週間後の一九一八年九月五日、レーニンの欠席でスヴェルドロフが議長を務めた人民委員会議(ソヴナルコム)の会合で、ジェルジンスキーとスヴェルドロフが大規模テロルの問題を提起し、ジェルジンスキーが短い報告書を読み上げた。ブルジョア階級とその提携者たちが台頭しつつある、と彼はいった。ヒュドラー〔ヘラクレスに殺された九頭のヘビで、一頭を切ると二頭が生えてくるという〕の頭は切り落とさなければならない。暗殺未遂事件と、こうした敵対行為は実力行使によって阻止せよという労働者からのたくさんの要求になおも突き上げられていた人民委員たちは、人々をちぢみ上がらせるようなものであればどんな命令でも積極的に承認するつもりでいた。いつもの「煮え切らない態度」とは打って変わった「赤色テロルについて」彼らが承認した布告を見て、レーニンはたいへん満足した。ここにその全文を引用する価値があると思われる。

 

  全ロシア[チェーカー]の議長の報告を聞いた人民委員会議は、現状においてはテロルを使った銃後の保安は絶対に必要であることがわかった。[チェーカーの]活動を強化し、これにいっそう徹底した性格を導入するために、できるだけ多くの党の同志にそこで働いてもらうようにすることが何よりも大事である。ソヴィエト共和国を階級の敵から守るには、敵の強制収容所への隔離、白衛軍の組織・陰謀・反乱に関与した者の射殺は当然である。これらの処刑された者の名前、およびこうした措置を適用した根拠についても、当然公表することとする。

 

 レーニンは欠席したので、司法人民委員クルスキー、内務人民委員ペトロフスキー、総務部長のポンチ--ブルーエヴィチがこの布告に署名した。亡命した歴史家のセルゲイ・メルグノフは、「テロルの精神的恐怖、それが人間の心理に与える衝撃的な影響は、個々の殺人や、その数でさえなくて、そうした制度そのものにある」といっている。フランス革命の間はギロチンの刃が革命の悲しい産物を絶えまなく刈り取ったが、今やチェーカーが住民の間を、銃を撃ちまくりながら突進していた。

 

 ボリシェヴィキ体制は、不安と隷従を“組織的に”醸成しはじめた。一九一八年十一月、ペテルスはある会見で、「ウリッキー[北部地区内務人民委員兼ペテルブルグ・チェーカー議長]がペテルブルグで殺されるまで、処刑はなかった。だが、そのあと、あまりにもたくさんの処刑が、しばしば見境もなく行われた。ところが、モスクワでは、レーニンの暗殺未遂事件にたいする体制側の措置として、わずか数人の帝政時代の閣僚しか処刑していない」と主張した。実際は、チェーカー出身の司法人民委員部の高官ペテルスはよく知っていたように、何百人もの人が銃殺されていた。彼はこの会見を利用して、「ロシアのブルジョア階級が再び台頭しようとすれば、このような形の阻止や、罰を受けるにちがいないと、赤色テロルの意味を知った人はみな青ざめるだろう」と警告したわけだ。

 

 ロシア国民を敵に回した戦争は、ボリシェヴィキの最大の罪だった。テロルは反体制的行為で有罪となった者にたいしてのみ適用されたという反論があるかもしれない。だが、そうではなかった。赤色テロルについての命令が立法化される一カ月前、レーニンは食糧生産人民委員のAD・ツュルーパに、「すべての穀物生産地城で、余剰物資の徴集と積み出しに生命賭けで抵抗する富農から二五〜三〇人の人質をとるべきである」という命令を出すように勧告している。ツュルーパはこの措置のきびしさに仰天し、人質問題については返事をしなかった。すると、次の人民委員会議でレーニンは、彼がなぜ人質問題について返事をしなかったのか答えよと詰め寄った。ツュルーパは、人質をとるという発想そのものがあまりにも奇想天外だったため、どういう段取りでそれを行ったらいいかわからなかったのだと弁明した。これはなかなか抜け目のない答えだった。レーニンはさらにもう一通の覚え書を送って、自分の意図を明確にした。「私は人質を実際にとれといっているのではない。各地区で人質に相当する人間を指名してはどうかと提案しているのである。そうした人たちを指名する目的は、彼らが豊かであるなら、政府に貢献する義務があるのだから、余剰物資の即時徴集と積み出しに協力しなければ生命はないものと思わせるためである」

 

 そのような措置は差しせまった状況があったからで、特殊なケースにのみ適用されたのだと考えるのはまちがっている。これは内戦中のレーニンの典型的な作戦で、大々的な規模で実施された。一九一八年八月二十日、彼は保健人民委員で、リヴヌイの内戦のリーダーでもあったニコライ・セマシュコにこう書いている。「この地域での富農(クラーク)と白衛軍の積極的弾圧はよくやった。鉄は熱いうちに打たねばならない。一分もむだにするな。この地区の貧乏人を組織し、反抗的な富農たちのすべての穀物、私有財産を没収せよ。富農の首謀者を絞首刑にせよ。わが部隊の信頼できるリーダーのもとに貧乏人を動員して武装させ、金持ちの中から人質をとり、これを軟禁せよ」

 

 矯正労働収容所国家管理本部(グラーグ)による強制的な収容所送りというシステムや、一九三〇年代のぞっとするような粛清といえば、すぐにスターリンの名が連想されるが、ボリシェヴィキの強制収容所、処刑、大規模テロル国家の上に立つ“機関(オルガン)”の生みの親はレーニンだった。レーニンのテロルを背景にして見れば、ただ疑わしいというだけでその人間を処刑できるスターリンの中世の異端審問風の措置もわからなくはない。レーニンはただ単に革命的テロルを示唆しただけではない。彼はそれをはじめて国家的制度にしたのである。一九一八年にペトログラードで、新聞・宣伝・扇動人民委員のMM・ヴォロダルスキーが暗殺された時、レーニンはこの地区のボリシェヴィキ当局がきびしい措置をとるものと予想した。ところが、彼らの措置は手ぬるく、いい加減だったので、レーニンは苛立ちの手紙をジノヴィエフへ送った。「本日、中央委員会は[ペトログラードの]労働者たちがヴォロダルスキーの殺害に大規模テロルで報復しようとしたところ、諸君(きみ個人ではなく、地元[党リーダーたち])はそれを阻止したと聞いた。私は断固これに抗議する! これではわれわれの信用を落とすだけだ。われわれの決議の中でさえ、大規模テロルで脅しているのに、いざ実行という段になって、大衆のまったく正当な革命的イニシアティヴにブレーキをかけているのだ。これは許すべからざることだ! テロリストたちはわれわれを腰抜けだと思うだろう。われわれは極限的戦争状態にあるのだ。われわれは反革命派にたいし、全力をふりしぼって大規模テロルを行使しなければならない。とくに[ペトログラードの]模範が決め手になる

 

 大規模テロル命令は、体制が依って立つ土台となり、レーニンの後継者たちによってその規模が広げられ、ジェルジンスキーとウンシュリフトがこれを受け継いだ。ベートーヴェンやスピノザを愛し、カントを読み、ボリシェヴィキはどれだけ知識人を高く評価しているかをゴーリキーやルナチャルスキーに好んで語る人間が、どうして警察支配の浸透する体制に甘んじていられたのか、推し量るのはむずかしい。新しい世界のリーダーを宣言したレーニンが、自ら絞首刑や銃殺、人質、強制収容所への収監命令が、単なる言葉で終わらないことを知りながら、どうしてこれを制定することができたのであろうか?

 

 ボリシェヴィキが最初にテロルを用いた時、彼らは“革命家意識”を引き合いに出してこれを正当化し、人民委員会議は矢継ぎ早に命令を出してそれを促進した。だが、テロルが日常茶飯事になり、時には大々的に行われるようになると、レーニンはこれに論理的根拠を与える必要性を感じた。テロルについて説明した論文はたくさんある。一九二〇年十一月、『コムニスチーチェスキー・インテルナツィオナール(共産主義インターナショナル)』は、「独裁の問題の歴史によせて」という一文を載せている。「どの革命的階級でも勝利をえるためには独裁が必要であるということを理解できなかった者は、革命の歴史を少しも理解しなかった人である」というお決まりの書き出しで、革命的テロルを正当化し、うまくいい繕うためのたくさんの主張を片っ端から挙げている。「独裁とは---これを機に永久に参考にしてもらいたいが---法律に依拠するものではなく、暴力に依拠する無制限の権力を意味する」。レーニンはゴーリキーの「斧の論理」という言葉を何度か繰り返し、「無制限の、法律外の、もっとも直接的な意味での力を依りどころにした権力、これが独裁である」ことを発見して、得意になっているように見えた。そして彼は独裁を定義する。「独裁とは、何ものにも制限されない、どんな法律によっても、絶対にどんな規則によっても束縛されない、直接暴力に依拠する権力以外の何ものでもない」。「革命的人民は、自ら裁判と制裁を行い、権力を用い、新しい革命的法律をつくり出す」。レーニンによれば、プロレタリアート独裁の名において行使される暴力は、「革命的正義」なのだった。

 

 革命前のレーニンが、概して、死刑執行人的方法である「斧の論理」に屈従していなかったことは注目に値する。ところが、権力奪取後の彼は、社会民主主義者の外着を脱ぎ捨て、ジャコバン派の外套を着込んだ。彼のこうした態度すべてを決定づけたのは、どんな犠牲を払ってでも権力にしがみつきたかったからだとしか考えられない。だが、彼は国家方針としてテロルの理論的基盤を確立するだけにとどまらず、その行使にも直接関与した。司法人民委員D・T・クルスキーとの手紙のやりとりは、それを雄弁に物語る。レーニンは、司法機関が蔓延しつつある途方もない官僚主義を簡略化するのに役立つだろうと、単純素朴に期待していた。彼はクルスキーに、「何が何でも一九二一年秋から二二年の冬までに、モスクワのいわゆるお役所仕事の中から四〜六件の“典型的な”事件を選んで、それぞれを政治的大義名分により裁判にかける」ように指示した。この司法人民委員が泥沼にはまり込んだ官僚主義に何らかの「革命的秩序」を与えてくれることを期待して、レーニンは次のように書いている。「われわれの国家的事業計画はお粗末な状態にある。そしてその最悪の犯人、最たるなまけ者は“善意の”コミュニストたちである。彼らは命じられるままに動くことに甘んじている。[司法人民委員ならびに革命法廷は]こうしたなまけ者や彼らをもてあそんでいる白衛軍に断固とした措置をとる大きな責任がある」。彼はさらに、なまけ者の中にはたくさんの聡明な人間がいると述べ、クルスキーに、「こうした“学識者”の泥沼を揺すぶるような政治的訴訟を起こすように」命じている。

 

 いずれの場合にも、レーニンの法的基盤を無視した抑圧機構の設定を阻止するものは何もなかった。レーニンの考える合法的という概念は正義とはあまり関係がなかった。一九二二年、クルスキーはロシア連邦共和国の刑法の制定に着手した。一九二二年にソヴィエト社会主義共和国連邦(USSR)が形成されると、それぞれの憲法をもった共和国が独自の刑法を制定した。これは理論的には各国別々のものであるが、実際にはソヴィエト連邦共産党が制定した規則に準拠していた。レーニンはそのモデルとなるロシア連邦共和国の刑法の制定に積極的に口出しをした。彼はクルスキーに、「私の意見としては、強制執行処分の通用範囲を(国外追放などに減刑して)広げるべきだと考える」と書いている。二日後、さらにこう追加した。「この法律はテロルを廃止すべきではない。自己幻惑、もしくは自己欺瞞を生み出すのに有効だからだ。抜け道や粉飾なしに、原則としてはっきりこれを具体化し、法制化すべきである」。彼は率直この上ない形で、テロルは原則として法制化すべきであり、その適用範囲はできるだけ広くすべきであるといっている。それだけではない。「強制執行処分の適用範囲をどのように広げるか」について、ふたつの異なった形がありうるとしている。このふたつの相違はそれほど重要ではないので、そのうちのひとつだけを記そう。「資本主義に代わる共産主義体制の所有権を認めず、実力行使、干渉、妨害、スパイ行為、新聞の財政援助や、これに似た手段により体制打破を謀る、国際的ブルジョア階級の一部を助ける組織への参加、もしくは協力、プロパガンダ、扇動は‥刑罰[死刑]の宣告を受けるか、情状酌量によっては自由の剥奪もしくは国外追放に減刑することとする」。これがあらゆる点でかの悪名高いソヴィエト刑法第五八条の基礎となったことは、一九七〇年に出版されたレーニン全集第四五巻の中に、「レーニンの提案は刑法の---反革命的犯罪に関する条項に取り入れられた」と記されていることからもわかる。

 

 ソヴィエト社会が懲罰機関を設置し、それに特殊な役割をもたせることができたのは、レーニンのおかげである。彼はマルクスやエンゲルスの教えにしたがってこれを行ったのではない。ふたりともそのような機関をいかに創設し、機能させるかということについては何の指示も残さなかった。チェーカーの守護聖人はレーニン自身だった。一九一七年十二月に設立されたチェーカーは、まもなく、レーニンの強い要請により、非合法な対処姿勢が認められた。全能のチェーカーには、逮捕、捜査、刑の宣告とそれを実施する権力があった。何万もの人たちがチェーカーの地下室で裁判もなしに銃殺された。それでもまだ足りないかのように、一九二一年五月十四日、レーニンを議長とする政治局(ポリトビューロー)は、「[死刑の]適用に関する[チェーカーの]権利拡大についての動議を可決し、それに関する法律を成立させた。

 

 チェーカーのテロルは党の決議と密接に連動していた。一九一八年六月、赤色テロル命令が採択される三カ月前、チェキストたちの党集会でいくつかの法令が可決された。「君主主義者---カデット、右派エスエル、メンシェヴィキの著名で積極的な指導者たちの活躍を阻止すること。将軍、将校たちの名簿をつくり、絶えず監視すること。赤軍、その指揮官……から目を離さないこと。目立った、明らかに有罪の反革命派、山師、略奪者、収賄者を銃殺すること」などである。たとえば、「バスマチ運動〔革命期にロシア帝国の旧植民地トルキスタンにおいて新生のソヴィエト政権にたいして行われた現地イスラム教徒の反革命運動〕指導者は決して見逃すことなく、ただちに革命裁判にかけ、死刑の適用を考えること」と中央アジア局に命令している。

 

 チェーカーの問題についてのレーニンの肩入れは、「監禁、監視などは徹底的に行うこと(特設仕切り壁、木の仕切り壁、戸棚、着替えのための仕切り壁にまで)、不意の捜査、犯罪捜査のあらゆる技術を駆使した、二重、三重のチェック・システムなど」、ごく基本的な技術面にまで及んでいる。こうした言葉は、政府の最高責任者というより保安機関の専門家のものである。彼はジェルジンスキーに、「逮捕するなら夜が好都合」とまで書いている。

 

 レーニンは“秘密”の漏洩、ボリシェヴィキの計画の発覚、外国の陰謀の不安にとりつかれた。アメリカの食糧庁長官ハーバート・フーヴァーが、一九二一年七月、食糧の配布とロシアでの飢饉と闘うための救済計画に乗り出した時でさえ、これを行う人たちの大半が若いアメリカ入学生だと聞いてレーニンは危険を感じた。彼はモロトフにこっそりとこう書いている。「アメリカのフーヴァーとの合意により、大勢のアメリカ人がどっとやってくるはずである。われわれは監視の目を光らせ、情報収集に努めねばならない。チェーカーその他の機関を通じてこれらの外国人にたいして徹底的監視と情報収集を行う準備と、作業手順、作戦を担当する委員会を創設するよう、政治局命令を出してはどうか。委員会にはモロトフ、ウンシュリフト、チチェーリンを入れること。委員を交替する場合には、モロトフの承認をえて、党員でしかも高位にある者にかぎって入れ替えてもよい」

 

 何十年もの間、ソヴィエト国民はレーニンの“美点”の神話を聞かされて育ち、数え切れないほどの書物が彼の同胞にたいする配慮について同じ物語を反芻した。彼の“美点”は特殊な、つまり“革命家ならでは”の美点だった。たとえば、ツァリーツインでヴァレンチナ・ペルシコーヴァという人物が警戒中のチェキストからレーニンの肖像画に落書きをしたという理由で逮捕されたと聞いた時、「肖像画に落書きをしたくらいで逮捕する必要はない。ヴァレンチナ・ペルシコーヴァはすぐに釈放せよ。ただし、彼女が反革命派なら、目を離さないこと」と書き送った。

 

 レーニンはチェーカーを個人的にかばっていた。革命後、懲罰機関の管理は政治局が単独で行っていたが、のちには政府の長と党とが行うようになった。チェーカーと他の国家機関との間に軋轢が生じると、レーニンは必ずチェーカーの肩をもった。一九一七年十二月下旬、司法人民委員部の高官M・コズロフスキーは、チェーカーの“根拠のない処刑”についてレーニンに抗議を申し入れた。「私がいつでもうかがいますとスターリンに知らせてからすでに数日が経ちました。だが、彼はぐずぐずしています。私がチェーカーにした抗議に関係のある八つの事件を添付しました……村の巡査や警察官にはじまる警察の役人すべての処刑の見直しを提案しました……“銃殺”の決定は、しばしば捜査や根拠もなしに行われています(……単に君主主義者であるというだけのこともあります)」。レーニンはスターリンに手紙を書き、ジェルジンスキー〔チェーカー議長〕から聞いたところによれば、チェーカーはレーニンがコズロフスキーに会うことに反対したのだと知らせた。これでこの問題は落着した。

 

 チェーカーはたちまち事実上の国家の中心的存在となり、一般国民ばかりでなくボリシェヴィキ自身の間にも不安を巻き起こした。N・X・クルイレンコは、チェーカーがまもなく人民委員部のひとつのようなものになり、「その冷酷無情な弾圧と、奥深いところで何が行われているのかだれにもまったく知りようがないことで、恐怖を掻き立てていた」と書いている。

 

 チェーカーにたいする暗黙の敵意が高まりつつあるのを察したジェルジンスキーは、レーニンの同意をえて、モスクワでの---チェーカーによる---宣告にたいする承認なしに、地方で死刑を執行することを止めるよう提案した。同時に彼は、死刑は経済戦線における腐敗した役人にたいしていっそう徹底的に適用することも提案している。

 

 チェーカーの弾圧活動を司法人民委員部の管轄へ移そうという企てがあった時、ジェルジンスキーは抗議した。「それではわれわれの威信に傷がつき、犯罪との闘いにおいてわれわれの権限が小さくなり、われわれの“非合法行為”にたいする白衛軍の誹謗を認めることになる……これは監督行為ではなくて、チェーカーとその機関への不信任行為である……チェーカーは党の監督下にあるのだ」。ジェルジンスキーの言葉は正しくない。チェーカーはすでに党の手に負えなくなっていた。それは党の最高責任者にのみ従属していたのである。そしてそれは党の不吉な伝統になった。着々と、しかも急速に、チェーカーは国家の中の国家になり、その裁量次第で国民のだれをも刑に処する権力をもつようになった。

 

 チェーカーと並行して革命法廷もあった。この名前はフランス革命を真似て付けられたものである。革命法廷の弁護士だったセルゲイ・コビヤコフの回想によれば、「法廷が下した宣告に上訴する者はいなかった。宣告はだれの追認も受けず、二十四時間以内に執行された」という。革命法廷はその影響力、あるいは活動規模においてチェーカーとはくらべものにはならなかったが、それでも多くの場合、単に“搾取”階級に属していたというだけで、何千もの人が始末された。

 

 全体的な数はつかめていないが、個々の出来事については明らかになりつつある。一九二一年三月、第一〇回ボリシェヴィキ党大会がモスクワで開かれている間に、ペトログラードから三〇キロあまりのところにあるクロンシュタットというバルト海艦隊の要塞島で、兵士と水兵がボリシェヴィキ支配にたいして反乱を起こし、本来の社会主義諸政党ソヴィエトを基盤にした政府を要求した。レーニンは五万人の赤軍を派遣してこの暴動を鎮圧した。死者の正確な数はわからないが、戦艦「ペトロパヴロフスク」号だけでも一六七人の水兵が三月二十日に死刑を宣告され、同じような裁判は三月から四月までつづいた。

 

 一九二一年、内戦は沈静化しつつあったが、軍事法廷は以前と同じように開かれていた。軍人の処刑は一九一八年や一九年よりは少なくなっていたが、軍部内の革命的テロルは驚くべき規模で拡大していた。最高裁判所軍事法廷の副裁判長N・ソローキンと革命法廷の統計課長M・ストロゴヴィチは、一九二一年に四三三七人の赤軍兵士および指揮官が処刑されたとトロツキーに報告している。これは勝利の風が赤軍の帆にはらみ、彼らの軍事的敗北は過去のものになっていた年の話である。

 

 時によっては、レーニン自身が事件の処理に口を出すことがあった。一九二一年八月二十七日、トロツキー、カーメネフ、ジノヴィエフ、モロトフ、スターリンから成る政治局の小集会で、白衛軍のウンゲルン--シュテルンベルク将を裁判にかける問題が討議されたことがある。「われわれは徹底的な告発を目指すべきである。十分な証拠があり、それが疑いようのないものなら、公開裁判の段取りを整え、手っ取りばやくこれを行い、彼を銃殺に処すべきだ」というレーニンの提案は、その場で承認された。この場合の問題は、ウンゲルンを裁判にかけるべきか否かではなく---東シベリアの内戦の指揮官としての彼の行為は残虐そのものだった---なぜ政治局がこれに介入したかである。レーニンの提案は、実質上、法廷にたいする政治的命令に等しい。彼はまるで捜査官兼検事兼裁判官であるかのように振る舞っている。弁護士は不要だった。

 

 チェーカーが行う処刑は、ブルジョア階級、労働者、農民、赤軍にとどまらなかった。怪しいと思えば自分たちの仲間をも銃殺に処することがあった。一九二一年三月、トルキスタン前線のあるチェキスト・グループから中央委員会に、チェーカー内部での処刑が増えていることに抗議する手紙が届いた。「[チェキストが]さまざまな罪で銃殺されてます。こうしたプロレタリア懲罰機関で働いている共産主義者は、だれひとりとして、何らかの名目で明日にも銃殺されないという保障はありません」。手紙はさらにつづく。「共産主義者はこの懲罰機関で働きだすと、たちまち人間ではなくなり、ロボットになってしまいます……常に処刑の恐怖があるので、自分の意見をいったり、要求を口に出すことができないのです」。彼らの仕事ぶりや、そして絶え間ない懲罰への恐怖を与えることにより、チェキストは「横柄、虚飾、残酷、無慈悲なエゴイズムなどの悪しき傾向を助長し、彼らは次第に特殊な階級(カースト)になっていった」

 

 レーニンの特別な関心を引いたのは、この「特殊なカースト」だった。彼にしてみれば、チェーカーにはある特質、つまり忠誠がなければならなかった。彼にたいし、党にたいし、革命にたいしての忠誠である。ボリシェヴィキはこれを察知して、いろいろな提案を行ってこれを促進しようとした。たとえば、ガネッキーはレーニンに、チェーカーと党との間の団結をいっそう強めなくてはならないと進言した。彼はこう書いている。「党組織と[チェーカー]との間にできるだけ緊密な絆を確立することが重要です……責任ある地位にある党員はみな、自分がえた情報は私的あるいは公的ルートのいかんを問わず、すべてをチェーカーに報告させる必要があります。反革命派と闘うにはそれが役に立つと思われます」。レーニンはこれに答えて、ガネッキーにこの問題をジェルジンスキーと話し合ったかどうかを尋ね、彼に電話をするように命じた。レーニンのチェーカーにたいする思いは、「よきコミュニストはよきチェキストでもある」という有名な言葉によく表われている。

 

 レーニン主義テロル集団のやり方は、人質をとる、国外追放にする、市民権を剥奪する、つまらない理由で処刑する、罠にかけるなどさまざまだった。後年、メンジンスキー、ヤーゴダ、エジョーフ、ベリヤらが、すでに効果のほどがわかっていたレーニン主義者の経験をもとに、さらに新しい方法を発明したり、改良を加えたりした。その一例を挙げると、一九四一年四月、内務人民委員代理のT・セロフは次のようなスカウト・“プログラム”を認可した。“風車作戦”という暗号名(コードネーム)のもとに、極東のハバロフスク地方にソヴィエトと日本の偽の国境地帯を設定し、ソヴィエト市民に特殊“任務”と称してこの“国境線”を越えさせる。するとそこで、彼らは日本軍警備隊の制服を着たチェキストに逮捕され、残忍やり方で尋問され、“日本軍”に工作員としてスカウトされる。そして今度は、ソヴィエトの国境の向こうへ送り返される。するとただちに“本物の”チェキストの手に捕らえられるという仕組みになっていた。“日本軍”の拷問によって、彼らが内務人民委員部(NKVD)との関連を自白していたことがわかると、死刑を宣告された。運悪くこの方式に引っかかった人は数百人にのぼる。“風車作戦”は、六月にソヴィエトが戦争に突入したために、ようやく中止された。

 

 国中が経済的困窮に苦しんでいたにもかかわらず、レーニンがチェーカーへの財政援助を拒否したことがないという資料がたくさんある。ひとつだけその例を引き合いに出すと、一九二一年十一月、労働・国防会議議長としてのレーニンは、臨時費としてチェーカーに七九万二〇〇〇ルーブリの追加予算支出をする命令書に署名した。政治局は十一月二十四日この決定を承認した。

 

 レーニンはチェーカーから目を離さなかった。この組織は自分が生み出した体制に大きな貢献をしているもののひとつだと彼は考えていた。一九二二年の第九回ソヴィエト大会で、「このような組織がなければ労働者政権は存続することができない」と彼はいっている。だが、十月革命のわずか数週間前、レーニンは『国家と革命』の中で、プロレタリアートが権力を奪取した暁には、国家機構は粉砕され、国家は消滅しはじめるといっていたのである。レーニンは社会の進歩の彼方にある地平線が見えていなかった。彼の視線はいつも、自分の足元や毎日の出来事、大国ロシアを強制収容所の生みの親にする実験にだけ注がれた。

 

 ロシア革命のギロチンは銃だった。内戦の勝利が明らかになった時、銃殺隊の一斉射撃は次第に止み、代わって拳銃の発砲音が時折り響くようになった。だが、反革命派やテロリスト、破壊行為者との闘いは、チェキストの拳銃だけで片付けられていたわけではなかった。すでに一九一八年の時点で、ボリシェヴィキは強制収容所の組織化に着手し、弾丸を免れた人たちがぞくぞくと送られるようになった。一九二一年四月二十日、レーニンを議長とする政治局は、極北のヴフタ地方に一万から二万人を入れる収容所の建設を承認している。一週間後ジェルジンスキーは、一九二一年三月にソヴィエト政権にたいして反乱を起こし、赤軍の攻撃にたいし二週間の抵抗を示したクロンシュタットの兵士と水兵--- 一九一七年にはボリシェヴィキ支持の先鋭だった---を「ウフタの犯罪者植民地に入植させる」べきだと提案した。当時、チェーカーはやはり北部のホルモゴルイに新しい入植地の建設を提案していた。計画は続行された。まもなく、この国の大きな秘密地図には忌まわしい収容所の所在地を示すマークが点々と散らばるようになる。そこにはレーニン主義体制下の七十年間に数百万の人が送られることになった。

 

 収容所への最初の追放が行われたのは内戦の最中だった。コサックにたいする残酷な報復行為のあと、とりわけ大勢の婦人と子供が、ドン川とクバン川流域から“再移住”させられた。収容所内またはそこに着くまでに数千人が死んだ。トロツキーはスターリンのシベリア“行進”を先取りして、一九二〇年八月にモスクワにこう報告している。「クバンでは、政府の名において、ウランゲリ[白衛軍の将軍]に協力した廉で有罪とされた家族は、日本軍その他に占領されているバイカル湖以遠に追放すると宣告することを提案する。異議があれば知らせよ」。異議申し立てはなかったが、輸送手段がなかった。

 

 元の党文書保管所やKGBNKVDの倉庫には、数知れない収容所の見捨てられた囚人たちからきた手紙がたくさんしまい込まれていた。その大部分は当局が要処分にしてしまったが、残っているものもある。レーニンの“協同組合計画”が実現されつつあった一九三〇年代はじめの集団農場時代のものはとくに多い。手当たり次第に選んだ次のような手紙は、当時の風潮がどのようなものであったかを物語ってくれるであろう。

 

  セヴェロドヴィンスク地方、コトラス地区の流刑者による要求。マカリハ収容所の大勢の人たちより。われわれのケースを取り上げてください。なぜわれわれがここで拷問を受けたり、ばかにされたりするのか[教えていただきたい]。どうしてわれわれはたくさんの穀物を収穫し、国を助け、その上、役立たずといわれなければならないのですか? われわれが役立たずなら、外国へやってください。ここでは飢えに怯え、毎日拳銃を胸に突きつけられ、撃つぞと脅かされているのですから。ある女性は銃剣で刺し殺され、男性ふたりが銃殺されました。六週間で一六〇〇人が姿を消しました。

 

  多数の者が、われわれを視察し当地の生活状況を調べてくれる委員会の派遣を求めています。よい農場主は自分の家畜によい場所をあてがうものです。ところがここでは地面はぬかるみ、砂が上から降ってきて目に入り、衣類や靴は着たきりすずめです。パンは不足がちで、われわれがもらえるのは三〇〇グラムずつです。お湯はまったく出ません。このままの状態があと一月つづけば、ほとんど何もなくなるでしょう。

 

  われわれがたくさんの穀物を植えたのですから、ロシアは困っているはずはありません。その反対だと思います。穀物がなくなったことき、これまでありませんでした。それなのに今では何ひとつなくなり、われわれはていねいな扱いも受けず、まるでばか者扱いです。いったいどうなっているのかご存じないのでしょうか? われわれは何もかもとられたあげくに、強制的に移住させられました。幸せな人はだれもいません。ロシアは滅びかけています。中央執行委員合に、マカリハの富農の現状を見ていただきたい。われわれの小屋は倒れかけていて、ここに住みつづけるのは非常に危険です。小屋の中には糞便が溢れています。人々はどんどん死んでいき、一日に担ぎ出す柩は三〇にもなります。われわれには何もありません。小屋には薪もなければ、お湯も出ません。食糧の配給もないのです。体を清潔にするための風呂もありません。たったの三〇〇グラムのパンだけです。ひとつの小屋に二五〇人もいるので、息をするだけでも気分が悪くなります。とくに赤ん坊はそうです。何の罪もない人間をあなた方がこんなふうに苦しめているのです。

 

 流刑者たちを助けようとした人たちもまだたくさんいた。わざわざ北部へ彼らを探しに出かけた勇敢な人たちもいる。ここに一九三〇年代はじめに“当局宛てに”書かれた匿名の手紙がある。

 

  この手紙にあるようなことを、ぜひ信じていただきたくて一筆啓上いたします。これは北部ツンドラ地帯からの悲痛な涙というより暗澹たる血を振り絞っての呻き声なのです。私たちは何の罪もないのに追放された人間を探しに出かけて、ナンドムスクの北部ツンドラ地帯のある場所に着きました……彼らはただ単に他のところへいけといって放り出されたのではなく、生きながらにしてとても人間の住むべき場所ではない悲惨な場所へ追いやられたのです。私たちはここで、一日最高九二人もの人が死んでいくのを目撃しました。子供たちは私たち自身で埋葬してやらなければならなかったほどで、埋葬はひっきりなしにつづいてます。この手紙はほんの短いものです。しかし、私たちがしたように、一週間でもここで過ごしてみれば、大地が海に沈み、まるごと宇宙に消えて、この世はなくなり、そこに住む生物すべてがいなくなるほうがましだと思われるでしょう。

 

 レーニンが断言していたように、革命の鋤は「ロシアを掘り返した」。記名、無記名を含むたくさんの手紙の差出人、詩人までもが助けを求めてむなしい叫び声をあげていたのに、体制側は彼らがまるで声なき人であるかのように注意を払わなかった。レーニンにいわせれば、彼らはプチ・ブルで、革命の大きな敵だった。彼らを殺さずにおくなら、どんな犠牲を払ってでも再教育を施し、“社会主義を教え”なければならなかった。社会主義を目指すこのような運動は、ギロチンなしには実行できないとボリシェヴィキは思い込んでいた。目的は手段を正当化した。「ブルジョア社会の愛玩犬は……われわれが古い大きな森の伐採をしている間、要らない子犬よろしくキャンキャン鳴かせておけ」とレーニンは書いている。

 

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