革命家と政治家との間

 

――レーニンの死によせて――

 

山内昌之

 

 ()これは、ヴォルコゴーノフ著『レーニンの秘密・下』(NHK出版、1995年)の巻末にある、山内昌之東大教養学部教授の解説文(P.377〜383)である。山内氏は、歴史学、イスラム地域研究、国際関係史が専攻で、『イスラームと国際政治』など多くの著書を出版してきた。このHPに全文を転載することについては、山内氏の了解を頂いてある。

 

 (関連ファイル)            健一MENUに戻る

    『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが殺した「自国民」の推計』

    『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構』

    『クロンシュタット水兵とペトログラード労働者』

    『「反乱」農民への裁判なし射殺・毒ガス使用指令と「労農同盟」論の虚実』

    『聖職者全員銃殺型社会主義とレーニンの革命倫理』

    『「反ソヴェト」知識人の大量追放作戦とレーニンの党派性』

    『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』

    ヴォルコゴーノフ『テロルという名のギロチン』『レーニンの秘密・上』の抜粋

    スタインベルグ『ボリシェヴィキのテロルとジェルジンスキー』(4人の写真)

 

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 レーニンの生涯をふりかえると、どうしてもマキアヴェッリの言を思い出してしまう。

 「指導者というものは、結果で判断される。それゆえ、かれらは自分の権力を維持し、勝利をあげるように努めなければならない。それを成し遂げるためなら、どんな手段を用いても、それらが常に価値あるものと思われ、認められる」。

 

 レーニンは、革命という至高の目的を実現するためなら、いかなる手段を使うことも正当化されると信じていた。レーニンは、ロシア革命によって、無制限の絶対権力をふるう全能の地位を手に入れた。その権力は、レーニンその人にとっても、信じられないほど大きかったのである。マキアヴェッリの時代においても、これほど完璧な権力を行使した君主はいない。恐ろしいのは、権力の行使にあたって、レーニンの確信に少しの衒いも迷いもなかったことであろう。

 

 現在では誰でも、ロシア国民の多くがレーニンとボリシェヴィキを支持しなかったことを知っている。ボリシェヴィキは、国民の意志を正しい政治の手続きで確かめたことは一度もなかった。信じられないことだが、ボリシェヴィキには権力の座につく支配の正統性を、憲法制定会議や議会を通して国民によって認知されることが絶えてなかったのである。そのうえ、レーニンは、労働者の出身でもなく一度も社会生活のために働いたこともなかったのに、プロレタリアート独裁の名目で無制限に権力を行使した。それを可能にしたのは、職業革命家の政党イデオロギーへの信念にもまして、秘密警察や軍隊による暴力と恐怖を国民の間で有効に使ったからである。第一次大戦中にはドイツ軍に屈服し、その後ポーランド軍とも休戦した赤軍は、タンボフ地方の農民たちが飢餓や迫害からの救いを求めて決起した時、脆弱な自国民には毒ガスの使用さえためらわなかった。一九二一年四月にこの毒ガス作戦を命じた指揮官は、後にスターリンに粛清されるトゥハチェフスキーであった。もちろんレーニンは、この措置を承知しており、認めてもいた。毒ガスとレーニンとの組み合わせは、十二分に議論されて然るべきテーマである。

 

 毒ガスの使用にしても、政治目標の達成と権力行使の緊急性との――あまり使いたい表現ではないが――(弁証法的な関係)からすれば、レーニンにとっては、とるに足らないことだったのかもしれない。歴史が自分の使った手段の正しさを証明するだろうというレーニンの信仰は、狂信的な境地にまで達していた。まったく予想もしない容易さで短期間に権力を掌中に収めてしまうと、権力への絶対信仰ともいう魔物がレーニンの心に宿ってしまったのだろうか。

 

 しかし、悲劇だったのは、レーニンの死がロシアとその国民を恐怖や疲労から解放することにはならなかった点にある。それどころか、国民から信任を得たことのないボリシェヴィキの権力は、レーニン廟や個人崇拝を通して、レーニンを無謬の存在に高めることさえ辞さなかった。もっと悲劇的なのは、レーニンの名において共産主義のユートピアが語られると同時に、二〇世紀後半の世代にとっては、まるで信じがたい犯罪が正当化されたことであろう。この点において、レーニンとスターリンは確実に太い線で結ばれている。スターリンは、レーニンの思想を現世的な〈イデオロギーの宗教〉に変えたが、その起源はレーニンその人が国民に独裁への服従を説いた点に求められるからだ。その意味は、現代の狂信的な原理主義信仰を唱える輩が、人びとに無条件の服従を強いる宗教と比べた方が分かりやすいほどである。

 

 この点で、ウィンストン・チャーチルが述べているように、ロシア国民はボリシェヴィキとレーニンによって歴史の泥沼に引き込まれたともいえよう。「彼らの最大の不幸は、レーニンの誕生であり、次に大きな不幸は、彼が死んだことだった」というのは、やはりチャーチルの警句である。レーニンが死んだ後にも、その人格の一部をグロテスクなまでに極大化して継承したスターリンに支配されたこと、その遺訓がレーニンの意志さえ超えてテロルや犯罪も同然の統治体制に利用されたこと。この二点でチャーチルの指摘は決して間違っていない。

 

 かつてソ連国防省の軍事史研究所所長を務めたヴォルコゴーノフの新しいレーニン伝、『レーニンの秘密』を読み進めると、豊富な未公刊史料による新しい事実の発掘にもまして、ロシアと旧ソ連の国民がレーニンの名において蒙ってきた悲劇に改めて暗澹とした思いを禁じえない。およそ四世代にわたって、善良な人びとが自分では選べない体制の非合理と不条理によって涙を流し、愛する者たちとの別れを強いられ、そして自ら死を選ぶか、あるいは刑死を強制されてきた。その反面、権力に執着する者たちは、革命や党の活動に名を借りて、自分や家族や近親者については例外措置と特別待遇を要求するのが普通であった。これもレーニンその人によって始められた悪習なのである。そして、現在の北朝鮮の金正日体制やイラクのサッダーム・フサイン政権、ひいては中国の一部にも見られる社会主義と官僚的特権が癒着した独特な統治構造の淵源にもなった。

 

 レーニンは、ウクライナやヴォルガ流域の国民が飢饉で苦しみ叛乱に立ち上がらざるをえなかった一九二一年春でさえ、妻クループスカヤのために、物資を調達することを側近にこっそりと命じている。「スイス通貨で、小麦粉(できればライ麦粉)、ソーセージ、缶詰(出来合いの調理ずみ食品でなく)、肉、魚」などを購入するように依頼したこともある。「スイス通貨」など、一般のロシア国民は影も形も見たことがなかったにちがいない。クループスカヤのために靴ひも、丸いフランス・パンを頼んでもいる。もっと公私の混同が目立つのは、(親密な女性同志)イネッサ・アルマンドにかかわる便宜供与の命令である。亡命中の一九〇九年に始まるイネッサとの親しい関係については、最近になって秘密のヴェールがはぎとられた。ヴォルコゴーノフは、絶えず精神的緊張を強いられたレーニンにとって、イネッサの存在が唯一の気分転換のオアシスだったと同情的ではあるが。

 

 レーニンが最後にイネッサに宛てた手紙(一九二〇年八月)には、カフカスへの転地保養を勧めているが、そこにはグルジア人のセルゴことオルジョニキーゼについての興味深い論評がある。「セルゴなら、休養も、日光も、おもしろい仕事も用意してくれるでしょう。彼はそういう段取りが何でもできる男です」。イネッサについての案件が党の同志に頼む性格のものかどうかは詮索しないにせよ、同志の価値をこの論評程度にしか見ない思考がレーニンのどこかに潜んでいたこと、そしてこうした特権的な便宜供与の依頼が国民の目から見えないところで頻繁に行なわれていたこと、などを指摘すれば十分だろう。また、首相としての資格で関係組織宛に、イネッサとその息子について、「私の個人的知り合いにつき、全面的信頼とできるだけの援助をされたし」と打電もしている。また、イネッサにわざわざブーツの寸法を尋ねる電話や手紙も有名である。その理由というのも、靴を「何足かもっていてほしいので」というものであった。これが単なる一個人の私信というなら、格別に意味もないつまらぬ私信にすぎない。しかし、内戦や干渉戦争で国民経済が破綻に瀕し、多くの民族が塗炭の苦しみに陥っている時に、親しい女性の私生活にここまで気が回ることも、レーニンの人間愛や美徳という次元で解釈されてよいものだろうか。実際のレーニンは、同時期に数えきれないほど多数の国民や少数民族を死に追いやっていたことを考えると、ヒューマニズムの信奉者というわけでもなかった。

 

 こうした面に限らず、最近の新史料に目を通すと、レーニンにはどこか成熟した大人としての風情が感じられない面があるのも事実である。レーニンは、弁護士助手として小さな窃盗事件(一八九二年)などの裁判書類を扱った二年間を別とすれば、四七歳で一九一七年の革命を迎えるまで、自分の力で生活の糧を手に入れるために働く経験をまったくもたなかった。それでいながら革命が起きて権力の座につくと高級保養地で長期の休暇を過ごしたり、イネッサらの近親者たちに特権を与えることには躊躇を感じなかった。この体質も、その後のブレジネフやゴルバチョフに至るソビエト・エリートに受け継がれている。レーニンにしても、スターリンやトロツキーにしても、共通していたのは、誰ひとりとして生活の資を得るために努力したことがなく、日夜汗を流して働いたこともなかったという事実である。言い換えれば、レーニンたちの生活や行動様式には、労働者階級と共通するものがなかったのである。

 

 実際の社会体験が未熟だった点は、レーニンの早すぎた死の原因を考える時に、重要な手がかりになると思える。レーニンの死因は、動脈アテローム(動脈内壁への脂肪沈積)、つまり心臓の太い血管と大動脈の狭窄による動脈硬化症だったと推定されている。しかし、死を早めたのは、十月革命以来、レーニンが受けた猛烈なストレスと過労に対して、身体に適応する準備ができていなかったことであろう。これは、レーニンが四七歳になって初めて社会的責任なるものを感じる地位に就いたことと関係がある。しかも、それは些細な役場仕事でもなければ、企業工場の末端管理でもなかった。全能の権力と引き換えで手に入れた巨大な重荷を負う仕事だったのである。

 

 晩年のレーニンが日夜直面した仕事は、中年後期になるまで、まるで社会的自覚や責任をもたずに自由気儘な生活を送っていた人間には大きすぎるものであった。レーニンは、すでに一九二〇年になるとストレスで参りはじめていた。たえまない焦燥感、発言の自家撞着、周囲への神経質な対応など、ストレスは休暇をとっても解消できなかった。一九二一年後半と一九二二年の全時間は、一般の国民には到底許されない休暇にすべて充てられた。革命前の仕事といえば、文筆活動や亡命先での散歩、せいぜいが亡命仲間や外国人の政敵との論争にあけくれたレーニンにとって、政治の実務に携わり、多領域の問題を処理する作業は未知のものだった。レーニンの妹、マリヤ・ウリヤーノヴァは、最期の六カ月に頭痛などに悩まされたレーニンが、スターリンに青酸カリを求めた事実を明らかにしている。

 

 これは痛ましい事実には違いない。しかし、もっと痛ましいのは、レーニンの病気がロシアと国民の未来にもった意味であろう。ヴォルコゴーノフは、レーニンがストレスの高まりに応じて、内政などで極端に苛酷な決定を下したことを強調する。ここでソビエトの統治制度は明らかに欠陥を露呈した。チェック・アンド・バランスの機能を欠く体制において、無制限の権力をもつ人間が病に侵されたときに、いかに大事な決定が正しくなされるのか。この問いにソビエト政治体制は答えを与えることができなかった。レーニンの心に宿る病的傾向を悪化させたのは無制限の権力の重みであろうか。それとも、無制限の権力を行使するストレスがその病状を悪化させたのだろうか。真実は、おそらくその両方にまたがっているだろう。

 

 もし、レーニンのストレスを少しでも和らげられる人物がいたとするなら、イネッサ・アルマンドだったかもしれない。二人をよく知っていたアレクサンドラ・コロンタイは、イネッサの死がレーニンを致命的な病に陥れた、と語っているほどである。レーニンをストレスから救い、死に到る病から助け出すためなら、イネッサらへの公私の混同などはとるに足らない些事だったという解釈も相変らず消えないかもしれない。

 

 それにしても、レーニンがロシア文化の根絶と知識人の追放を決めた一九二二年八月という時期は、病床のレーニンが妻の力を借りて、文字の書き方を再学習したり、小学生程度の計算問題を解こうとしたり、簡単な聞き書きの練習をしていた頃から二カ月しか経っていなかった。医師から12×7の計算をするように言われて、すらすらできなかった時期である。このような患者が知識人の追放、秘密警察の権限強化、コミンテルンの戦略戦術の決定など、世界とロシアの運命を左右する重大な決断を下したとは驚きである。

 

 レーニンは、あまりにも大きい権力の重圧に負けたのである。その死は、国民の真の幸福とは何か、などを具体的に考えたこともない職業革命家の死としては名誉あるものだったかもしれない。しかし、国民の未来に責任を負うべき政治家の死としては、栄光の輝きに欠けるのではないだろうか。

 

(やまうちまさゆき 東京大学教授 歴史学)

 

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 (関連ファイル)

    『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが殺した「自国民」の推計』

    『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構』

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    『聖職者全員銃殺型社会主義とレーニンの革命倫理』

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    『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』

    ヴォルコゴーノフ『テロルという名のギロチン』『レーニンの秘密・上』の抜粋

    スタインベルグ『ボリシェヴィキのテロルとジェルジンスキー』(4人の写真)