レーニン「分派禁止規定」の見直し

 

1921年危機と分派禁止規定導入

 

4カ月後、反主流2分派全員異様な規模の大量除名事件との連結

 

(宮地作成)

 〔目次〕

    1、1921年政権崩壊危機までの経過

    2、「危機」5つの内容

    3、レーニン・3つの選択肢と大粛清選択

    4、「党の統一について」決議

 

 (関連ファイル)            健一MENUに戻る

    『レーニンによる分派禁止規定の国際的功罪』大量除名事件の性質

       1921年クーデター政権崩壊危機とレーニン選択の4作戦

       分派根絶・一枚岩統一功績党内民主主義抑圧犯罪の二面性

    『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが“殺した”自国民の推計』

    『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』

    『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構』

    『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』

    イダ・メット『クロンシュタット・コミューン』反乱の全経過・14章全文

    P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』クロンシュタット綱領の検討

    梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民

    梶川伸一『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』1920、21年農民反乱

    中野徹三『社会主義像の転回』憲法制定議会と解散

    大藪龍介『国家と民主主義』1921年ネップ導入と政治の逆改革

 1、1921年政権崩壊危機までの経過

 その根本的見直しとなると、1917年二月革命から1921年までのロシア革命全過程の分析、見直しが必要となる。それは長大になりすぎる。よって、ここでは1921年政権崩壊危機問題だけにとどめる。そのポイントは、2つある。

 第一は、ロシア革命の最重要起点が、()ツアーリ帝政を倒した二月革命と見るか、それとも従来どおり、()十月ボリシェヴィキ単独武装蜂起・単独政権樹立に置くかである。さらには、それをレーニンによるソヴィエト権力簒奪クーデターと見るかどうかである。

 第二は、1917年から1921年までのロシア革命勢力の捉え方である。二月帝政打倒の中心勢力は、労働者・兵士・農民ソヴィエトと、ソヴィエト内社会主義政党エスエル、メンシェヴィキ、アナキスト党派だった。ボリシェヴィキは、二月革命で、弱小党派のため中心的役割を果たさなかったことが、ソ連崩壊後の新資料でも一層明確になってきた。これら全体をロシア革命勢力と見るか、それとも十月単独武装蜂起・単独政権樹立、その後の一党独裁政権党としてのボリシェヴィキを中心とする革命勢力と見るかである。そして、レーニンのレッテル貼りどおり、他のすべてを「反革命・武装反革命」に転落した党派と見るかである。左翼エスエルとの連立は、3カ月間で破綻した。

 この文では全経過を書かないが、その資料として、私(宮地)は、HPに、いくつかの研究文献を載せている。

 (1)、1917年10月、単独武装蜂起の是非、連立政権か一党独裁政権かをめぐる党内論争が起きた。レーニンが選択した単独武装蜂起と一党独裁政権は、他のロシア革命勢力から強烈な批判、反発を受けた。そのことは、R・ダニエルズ『ロシア共産党党内闘争史』が多面的な資料を駆使して解明している。

 (2)、1917年11月、ボリシェヴィキ政権が憲法制定議会選挙を実施した。そこで175議席、25%しか取れなかった少数派ボリシェヴィキ、レーニンが、1918年1月その憲法制定議会開会第1日目で武力解散させた。他の75%政党およびそれらに投票した国民、支援した諸ソヴィエトが猛反発し、ボリシェヴィキ政権は、二月革命以来のロシア革命勢力の中で一挙に孤立化した。その経過について、中野徹三教授『社会主義像の転回』が詳細な分析をしている。

 (3)、1918年5月から夏、ペトログラード、モスクワの飢饉が急迫し、レーニンが「食糧独裁令」を出し、ボリシェヴィキの食糧徴発隊と貧農委員会が、暴力で農民から食糧を徴発した。その政策は、ロシア革命の中心勢力の一つであるロシア全土の農民ソヴィエト全体を、貧農を除いて、ボリシェヴィキ反対勢力に追いやった。この詳細な実証的研究は、梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民にある。それが、内戦の主要原因となったのである。ボリシェヴィキ自らが作った、レーニンの決定的誤りについては、ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』がある。彼は、ソ連崩壊後に発掘された新資料を使って、内戦の主要原因を、従来説の外国干渉軍、白衛軍ではなく、第一原因をレーニンの憲法制定議会武力解散の誤り、第二原因をこの「食糧独裁令」の誤りにあるとし、その時点での別の具体的選択肢があったと、画期的なロシア革命解釈を提起している。1920年、その内戦は、「戦時共産主義」体制の下、1000万人の犠牲者を出して終結した。

 2、「危機」5つの内容

 1921年の危機は、1920年内戦が終わっても、赤軍、チェーカーを中心とするボリシェヴィキの「戦時共産主義」継続への不満、批判として、5つの分野で、勃発した。それは、ボリシェヴィキ一党独裁政権発足以来の最大の危機だった。内戦中、国民は、白衛軍将軍・旧地主たちの政治体制には戻りたくないという気持ちから、レーニンの上記2つの決定的誤りと「戦時共産主義」の暴力、抑圧への不満を沈潜化させていただけだった。その全階層の不満、批判内容は、(4)イダ・メット『クロンシュタット・コミューン』「15項目のクロンシュタット綱領」に集約的に示されている。白衛軍敗北により、レーニンの誤り、ボリシェヴィキ一党独裁政権への、国民全分野での不満、怒りが爆発した。

 ()ボリシェヴィキ「食糧独裁令」政権への広範な農民反乱がロシア全土で勃発した。「すべての地主の土地を農民へ」というレーニンのスローガン、公約を信じて、ボリシェヴィキ単独政権を支持したのにもかかわらず、レーニン指令の「食糧独裁令」「食料徴発武装部隊」「貧農委員会」の実施と農民弾圧は、ロシア国民80%農民にたいするレーニンの犯罪的な公約違反・裏切り行為だった。

 ()、ペトログラード労働者の大規模なストライキも同時に発生した。10月ボリシェヴィキ武装蜂起の中心階級が、レーニンの裏切りに抗して、決起した。労働者ストライキの原因と経過については、『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構』で詳細な分析をした。

 ()、クロンシュタット・ソヴィエト、水兵・労働者55000人の反乱は、「15項目のクロンシュタット綱領」にあるように、レーニンとボリシェヴィキ政権の3年半における一党独裁政策、体制への全面的批判だった。

 ()農民基盤のエスエル・左翼エスエル、労働者基盤のメンシェヴィキ、クロンシュタット基盤のアナキストなど、レーニン、チェーカーによる逮捕、強制収容所送り、国外追放、銃殺から生き残っていたロシア革命党派は、それらロシア全階層の決起に参加した。

 ()それらのボリシェヴィキ党内への反映として、レーニン主流派批判の「労働者反対派」「民主主義的中央集権派」らの3つの分派となって表れた。

 レーニンは、クロンシュタットの反乱に特別強い衝撃を受けた。なぜなら、それはまさに、ペトログラード十月単独武装蜂起における革命の栄光拠点ソヴィエトによるボリシェヴィキ一党独裁路線の否定だったからである。(5)P・アヴリッチは『クロンシュタット1921』で、これら5つ全体を分析しつつ、レーニンによる、第10回大会への演説のための概況メモを公表している。レーニンは、そこに『クロンシュタットの教訓:政治学では――党内における隊列(および規律)の閉鎖、メンシェヴィキと社会革命党にたいする一層の闘争。経済学では――中産農民を可能なかぎり満足させること』と記していた(P.271)

 ただ、分派問題は複雑である。「1918年戦時共産主義」開始から、「1921年の危機」にいたる諸問題と、それをめぐる党内論争、そこから形成された意見対立と3つの分派の内容、規模を解明するには、長大な分析を必要とする。それには、(1)R・ダニエルズ『ロシア共産党党内闘争史』の第4章「戦時共産主義と中央集権化論争」、第5章「労働組合論争」、第6章「1921年の危機」が、膨大な関係資料を利用して、詳細な研究をしている。私(宮地)のHP転載は、第2章の一部だけである。

 こうして、レーニンは、1917年10月以来の誤った路線、政策の度重なる積み重ねの結果による最大の危機を迎えた。その間におけるボリシェヴィキ一党独裁体制とは、1918年1月、議席獲得率25%少数派政党による議会武力解散独裁にもかかわらず、レーニン直属秘密政治警察チェーカーと赤軍という警察・軍隊赤色テロルによって、かろうじて支えられているシステムだった。(6)中野徹三教授は、『共産主義黒書を読む』で、ソ連崩壊後の解禁された新資料の一例を引用している。それによれば、1919年1月24日のボリシェヴィキ党中央委の秘密決議は、「最後の一人まで根絶し、肉体的に抹殺すべき、富めるコザックに対する無慈悲な闘争、大量テロルこそが、唯一の正しい政治手段である」と記録されている。それら暴力的抑圧を基本手段とする少数派独裁への全国民的総決起にたいして、レーニンには、3つの選択肢があった。

 3、レーニン・3つの選択肢と大粛清選択

 第一選択肢は、レーニンが自ら上記誤りを認め、一党独裁を放棄して、他の二月革命以来のロシア革命政党と連立政権を組む、あるいは、少なくとも「15項目のクロンシュタット綱領」のいくつかを受け入れることだった。ただ、この選択は、一党独裁の誤りを認め、マルクス・レーニン型社会主義革命からの決定的後退となる。

 第二選択肢は、赤軍とチェーカーの暴力を使って、5つの分野における反乱を全面弾圧するとともに、「戦時共産主義」の暴力、抑圧体制を、そのまま継続し続ける。しかし、この選択は、他の二月革命以来のロシア革命政党、ソヴィエトによる反ボリシェヴィキ一党独裁のさらなる全国的総決起を惹き起こし、孤立した、議席獲得率25%少数派の一党独裁権力が崩壊してしまう危険が大だった。

 第三選択肢は、あくまで一党独裁に固執し、それを維持し続けつつ、その危機を切り抜けるためには、5つへの異なった対策により、各個撃破作戦を採ることだった。()ストライキ労働者へは、懐柔策と弾圧の両面作戦を行ない、ストライキを鎮圧する。()クロンシュタット・ソヴィエトへは、15項目要求受け入れを全面拒否し、赤軍50000人を派遣して、クロンシュタット・ソヴィエト55000人を武力鎮圧、殺戮、逮捕者の銃殺、強制収容所送りをする。()他党派へは全面弾圧、逮捕、銃殺、強制収容所送り、国外追放をする。ボリシェヴィキ以外の他党派すべてを、チェーカーの暴力で、最終的に殲滅する。()党内分派には、対ボリシェヴィキ反乱4つが党内に反映した3つの分派にたいする『党の統一について』決議の「フラクション禁止7項目規定」で、レーニン・フラクション以外のフラクションを解散させる。

 それら4つの作戦を成功させるために、()国民の80%を占める農民にたいしてだけ「ネップ導入」による懐柔政策で、『クロンシュタットの教訓:経済学では――中産農民を可能なかぎり満足させ』、政権生き残りを画策することだった。

 レーニンは、第三選択肢を選んだ。レーニン・メモ『クロンシュタットの教訓:政治学では――党内における隊列(および規律)の閉鎖』は、クロンシュタットの衝撃と「フラクション禁止規定」の決断とが直結していたことを証明する貴重な資料である。第10回大会代議員たちは、()から()の反一党独裁全面反乱によって、ボリシェヴィキ一党独裁権力が崩壊する恐怖におののいた。そこで、レーニン提案の5方面作戦に賛成した。

 レーニンは、()から()の各個撃破作戦に、大規模な粛清、赤色テロルを付随させた。以下は(5)P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』および、(6)中野徹三教授『共産主義黒書を読む』に載っているデータである。

 ()、労働者へは、市内への大軍事力の集結以外では、ボリシェヴィキは一層の罷業者をかれらの工場からロック・アウトすることによって抗議運動を打破しようとした。それと同時に、広範な逮捕がペトログラート・チェーカーによって遂行された。工場集会や街頭デモで体制を批判した演説者は拘留された。1921年2月の最後の数日間に、約500名の反抗的労働者と組合幹部が牢獄で絶え果てた。同様に検挙された学生、知識人、およびその他の非労働者はおそらく数千名を数え、その多くは反対政党およびグループに所属していた。それ以前に、「プラウダ」紙の1920年2月12日号には、「ストライキをする労働者、この有害な蚊の最良の場所は、集中収容所(KZ)である」という表現が、すでに現われていた。

 ()、兵士へは、1921年3月のクロンシュタットの水兵反乱が鎮圧されたのち、4〜6月の間に2103名が死刑の判決を受け、6459名が投獄された。あとの数千名は、フィンランドに送られ、いつわりの恩赦の約束でロシアに帰されたが、すでに出来ていた北極海につながるソロヴェツキー島とアルハンゲリスクの収容所に送られ、その大多数は手を縛られ、首に石を付けてドビナ河に投ぜられた。

 ()、他党派へは、ペトログラートのメンシェヴィキ組織はチェーカーの急襲によってとくに手痛い打撃を蒙った。それまで逮捕をまぬがれていた、ほとんどすべての活動的指導者が監獄へ護送された。1921年の最初の3カ月間に、党の全中央委員を含む約5000名のメンシェヴィキがロシアにおいて逮捕されたと推定されている。それと同時に、まだ自身を自由とみていた少数の著名なエスエルとアナキストが同じく検挙された。ヴィクトル・セルジュがその『一革命家の回想』において語っているところによれば、チェーカーはそのメンシェヴィキ収監者をストライキの主要な教唆者として銃殺しようとしたが、マクシム・ゴーリキーが干渉して彼らを救った。

 ()、党内異論へは、レーニンが、第2項で、いかに党内論争が反革命諸勢力によって利用されるかの実例としてクロンシュタットを引用した。その後まもなく、レーニンは信頼の置けない分子を排除するため「頂上から底辺まで」の党の粛清を命じた。1921年夏の終わりまでに、全党員のほぼ四分の一を除名した。

    『レーニンによる分派禁止規定の国際的功罪』大量除名事件の性質

       1921年クーデター政権崩壊危機とレーニン選択の4作戦

       分派根絶・一枚岩統一功績党内民主主義抑圧犯罪の二面性

 4、「党の統一について」決議

 「党の統一について」決議は、もともと大会の議事日程で予定されていなかった。それは、1921年3月16日大会最終日の会議で、レーニンがいわば緊急動議のかたちで提出したものだった。それだけでなく、「フラクション禁止」の第7項は、まさに前衛党そのものを変質させる根本的誤りだった。レーニンは、その7項目規定によって、党内での批判の自由、党内民主主義の実質的抑圧に決定的な一歩を踏み出した。あまりに誤った非常事態規定だけに、レーニン自身が、その第7項だけを、大会以外への公表を禁じ、「秘密条項」とするよう提起した。

 「秘密」第7項の内容は、「党内に、また、ソヴィエトの全活動のうちに厳格な規律を打ちたてるため、また、あらゆる分派結成を排除して、最も大きな統一を成し遂げるために、大会は、規律の違反とか、分派の発生や黙認とかの場合には、党からの除名をふくむあらゆる党処罰の措置をとる。また中央委員については中央委員候補に格下げするとか、非常措置としては党から除名さえする全権を中央委員会に与える」とするものだった。これは、党組織の歴史における転換点だった。党大会で選出され、したがって大会でしか格下げ、除名できない中央委員にたいする処分権を中央委員会に与えるという非常事態規定である。

 これらの規定によって、レーニンは、党内民主主義を抑圧する道をスターリンに先駆けて、切り開いた。スターリンは、3年後の1924年、レーニン死後、「秘密条項」を解禁した。それによって、この規定を公然とした恒常的規定に格上げし、政敵排除に全面的に活用した。それだけでなく、スターリンは、レーニンの「教訓」を受け継ぎ、それをエスカレートさせた。党大会だけにある処分権の一部を剥奪して中央委員会に全権移譲させることから、さらにスターリン支配下の書記局に全権を集中させた。それは、スターリン・側近グループの私的分派独裁に必然的に移行した。スターリンにとって、レーニンは、この党内民主主義抑圧路線における偉大な教師だった。

 (7)大藪龍介教授は、『国家と民主主義』で、この1921年問題を「ネップ導入と政治の逆改革」と規定している。

 (8)ザミャーチンは、SF小説スタイルの『われら』で、ボリシェヴィキの一人として、ソ連国内における、最初のレーニン批判・告発文学作品を1921年に書き、逮捕された。

 (9)石堂清倫氏は、『二〇世紀を生きる』で、ロイ・メドヴェージェフとの一致点として、『だから、ロシア革命は1921年をもって終わってしまった』としている。もちろん、分派による弊害はいろいろある。

 (10)私(宮地)は、『イタリア左翼民主党の規約を読む』で、「分派禁止規定」を放棄した後の、党内における複数意見の潮流の横断的形成と、3つの潮流による3つの党大会議案への党中央の対応策を分析した。

 暴力革命のための軍事的集権を基本理念とする民主主義的・中央集権制と、この「分派禁止規定」とが、1921年に初めて合体した。それは、党中央批判意見の横断的、水平的交流・動向すべてに分派レッテル貼りをするという、世界政党史上もっとも反民主主義的システムをレーニン自らが完成させたことを意味する。その日本における具体的表れについては、(11)宮地『なぜ民主集中制の擁護か』と、『ゆううつなる党派』で書いた。

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 (関連ファイル)

    『レーニンによる分派禁止規定の国際的功罪』大量除名事件の性質

       1921年クーデター政権崩壊危機とレーニン選択の4作戦

       分派根絶・一枚岩統一功績党内民主主義抑圧犯罪の二面性

    『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが“殺した”自国民の推計』

    『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』

    『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構』

    『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』

    イダ・メット『クロンシュタット・コミューン』反乱の全経過・14章全文

    P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』クロンシュタット綱領の検討

    梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民

    梶川伸一『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』1920、21年農民反乱

    中野徹三『社会主義像の転回』憲法制定議会と解散

    大藪龍介『国家と民主主義』1921年ネップ導入と政治の逆改革