『国家と民主主義』

ポスト・マルクス主義の政治理論

 

大藪龍介

 

 〔目次〕

 第二篇2章五、個人独裁、党独裁の容認 (レーニンのプロレタリアート独裁論)

 第三篇4章 ソヴェト民主主義建設の諸問題

  一、ソヴェト民主主義の性格 (「出版にかんする布告」=出版の自由剥奪問題部分抜粋)

  三、ネップ導入と政治の逆改革

    1、1921年の転換

    2、クロンシュタット反乱

    3、党内分派禁止と反対政党の撲滅

    4、民主主義の消滅

 ()これは大藪龍介富山大学教授『国家と民主主義 ポスト・マルクス主義の政治理論』(1992年、社会評論社)からの抜粋である。この抜粋部分は、3つある。第一は、第二篇プロレタリアート独裁新考、第二章五(P.120〜125)全文である。第二は、第三篇レーニンの民主主義論、第4章一(P.202〜P.206)のレーニンによる出版の自由剥奪問題部分抜粋。第三は、同第4章三(P.214〜P.228)の全文である。これら3つの文をこのホームページに転載することについては、大藪氏のご了解をいただいてある。著書での傍点個所は太字にし、○印個所は青太字にした。私の判断で赤太字・青太字や、(番号)入れた。3つの抜粋部分の文末〔註〕は、抜粋範囲だけのものにした。

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    イダ・メット   『クロンシュタット・コミューン』反乱の全経過・14章全文

    ヴォーリン  『クロンシュタット1921年』反乱の全経過

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 第2章、レーニンのプロレタリアート独裁論

     五 個人独裁、党独裁の容認

(〔註〕はこの節の文末にある)

 プロレタリアート独裁が党の独裁に転化したことは、一九一七〜一九二一年のロシアが直面した内戦、外国軍の干渉、荒廃、プロレタリア階級の離散、それに加えて伝統的な後進性、西ヨーロッパ諸国での革命の失敗による一国的孤立、等々の恐るべき惨渦を離れてはありえなかった。しかしまた、そうしたロシアの歴史的状況に帰せしめることもできなかった。

 独裁について最初に概念規定を明らかにした『カデットの勝利と労働者党の任務』で レーニンはその独裁にいて、「ただ革命的人民の独裁であって、全人民の独裁ではない(47)」と説いていた。残酷に苦しめられている人民のなかには、肉体的、精神的にうちひしがれた人々がいるから、独裁を実現するのは、全人民ではなく、革命的な人民だけというわけであった。『国家と革命』のなかでも、「プロレタリアートの独裁、すなわち抑圧者を抑圧するために被抑圧者の前衛を支配階級に組織すること(48)」という考えを、レーニンは折りこんでいた。他方で、革命政党の指導性の揚言は、レーニン主義の真面目であった。また、ジャコバン独裁の模範視もあった。プロレタリアート独裁の前衛党による代意・代行の要素はすでに点在していた。

 一〇月革命後、経済の改造も困難を極め、資本家の収奪から労働者による生産の管理を迎えるなかで、労働の組織化という根本的で焦眉の課題に関して、労働者大衆がその任務を果たしえず、生産が混乱に陥るという事態が出現した。そのとき、レーニンは、経営管理の様式について、管理者の選挙制を任命制へきりかえるとともに、合議制にかわる単独責任制の採用を推し進めた。企業管理者への単独処理の権限の賦与は、生産現場で生じた無責任体制から脱するためのやむをえざる避難措置であった。その際にレーニンが「純行政的な諸機能の一定の時機における、一定の作業過程のための、個人の独裁を決然と擁護(49)」して組み立てた論理は、本節の検討題材として止目すベきものであった。

 レーニンの議論の運びを追いながら評注しよう。まず、彼は個人の独裁とブルジョア民主主義の両立を立言した。「革命運動の歴史では個人の独裁は極めてしばしば革命的階級の独裁の表現者であり、担い手であり、先導者であったということ、これについては反駁のできない歴史の経験が物語っている。個人の独裁がブルジョア民主主義と両立していたことは、疑いない(50)」。ブルジョア革命独裁が、ジャコバン独裁のような党派の独裁よりも更に凝縮した個人の独裁として時折現出したことは、クロムウエルの独裁が例示するように、歴史上の事実であった。だが、その個人の独裁は、のみならず総じてブルジョア独裁は、民主主義と両立してはいなかった。自由主義と民主主義との無差別的混同による前者の後者へのすりかえが、ここにもあった。

 右の立言をプロレタリアート独裁にあてはめて、レーニンは、個人の独裁とプロレタリア民主主義の両立を導いた。「ソヴェト的(すなわち、社会主義的)民主主義と個々人が独裁的権力を行使することとのあいだには、どのような原則的矛盾もけっしてないのである(51)」。ここでは、階級の独裁としてのプロレタリアート独裁の歴史的独自性を、ブルジョア革命独裁を基準にして、いとも簡単に投げ捨てていた。あるいはまた、独裁と民主主義は同一物の相補的な両面であってなんら矛盾し対立しないという所説を、戯画的なまでに極限化していた。

 「プロレタリアート独裁を――個人を通じても――実現する(52)」という原則を確認したうえで、レーニンは、今度は、それを経営管理の場面に適用し、単独責任制を次のように正当化した。「現在の時機に特有の任務という見地から見た、ほかならぬ個人的独裁権力のもつ意義という問題については、あらゆる機械制大工業……が、数百、数千、数万の人々の共同作業を指導する意志の、無条件的な、最も厳格な統一を要求するといわなければならない。……この服従は、共同の仕事に参加する人々の自覚と規律性とが理想的である場合には、むしろ、オーケストラ指揮者のおだやかな指揮を思わせるかもしれない。もし、規律性や自覚が理想的でない場合には、この服従は、独裁の鋭い形態をとることもありうる(53)」。

 ところが、生産の場での管理遂行の権限は、独裁とは次元も性質も異にする別個の問題であった。生産過程での統一的な意志による共同作業の指揮は、共同労働に従事する人々のあいだでの権威的指導の問題であり、敵対階級にたいする権力的支配、しかもすぐれて暴力的な支配の問題ではなかった。ソヴェト・ロシアの現状では単独指導者の管理遂行の権限の承認がさけられなかったとしても、本来的には、プロレタリア民主主義の特質をかたちづくる生産の場での民主主義の開発とあいまって経営管理の歴史的に独自の形態を創出すべき事柄であった。敵対する階級への抑圧関係を示す独裁概念を適用してプロレタリア階級内部の問題を処理したのは、重大な誤りであった。しかも、そのプロレタリア階級内部への独裁概念の適用によって、論理的にはプロレタリアートにたいする独裁への道が開かれたのであった。

 如上のように、個人の独裁の容認は、幾つもの誤謬を重ねた粗雑な論理であった。それにもかかわらず、二年程を経た一九二〇年には、「とうの昔に解決された問題」として、次のことは広く公認されるにいたっていた。「ソヴェト社会主義的民主主義は単独責任制および独裁とは少しも矛盾せず、階級の意志はときとして独裁者によって実現されるものであり、この独裁者は往々、一人でより多くの仕事をなし、またしばしばより必要である(54)」。

 個人独裁が正当化されるや、もはや、一握の人々あるいは政党の独裁の正当性にも疑問の余地はなかった。

 一九一九年以降、レーニンは、政党、それも唯一の政党の独裁を公然と唱えた。それは、メンシェヴィキやエス・エル両派などの他政党のソヴェトからの追放という既存の事実の確認でもあり、党外からは猛烈な非難と反撥をかったが、ボリシェヴィキのあいだでは自明の理のごとく受け入れられた。「『党の独裁か、それとも階級の独裁か? 指導者の独裁(党)か、それとも大衆の独裁(党)か?』という問題の立て方だけでも、まったく信じられないほどの、手のつけられない思想の混乱を証明している(55)」。党の独裁は階級の独裁を全うするものというのであった。革命以後のレーニンは、個人ないし党派の独裁をいかに許さないかではなく、反対に、それをいかに正当するかにきゅうきゅうとしていた。やがて彼は、ロシア共産党第一○会大会において、唯一前衛党とその指導的役割を定式化し、一党独裁をプロレタリアート独裁と公称する論理を組みあげた。「マルクス主義が教えるところ……によれば、労働者階級の政党、すなわち共産党だけがプロレタリアートおよび勤労大衆全体の前衛を統合し、育て、組織することができるのであって、この前衛だけが、……プロレタリアートを指導し、プロレタリアートを通じて勤労大衆全体を指導することができるのである。これなしには、プロレタリアートの独裁は実現できない(56)」。

 一党独裁の積極的な承認は、レーニン主義とボリシェビズムの根本教義の一つになった。トロッキーとジノヴィエフは、それぞれに述べた。「われわれは一度ならず、ソヴェトの独裁を党の独裁によって置き換えたといって非難されてきた。だがソヴェト独裁が党独裁によって初めて可能となったということは、全く正しいのだ(57)」。「プロレタリアート独裁は、その前衛の独裁なしには、すなわちプロレタリア党の独裁なしにはありえない。すくなくともプロレタリアートの勝利の、安定した独裁は、プロレタリア党の独裁なしにはありえない(58)」。

 独裁は、その祖型であった個人ないし一握りの人々の独裁へと回帰しやすい。階級としての独裁は、いかにして可能か、この難問について、マルクス、エンゲルスは未解明であり、レーニンやボリシェヴィキは解答に失敗した。

 バブーフやブランキが、新社会への移行にあたって過渡的な革命権力の樹立を唱導したものの、それを革命に献身する少数者にゆだねたのは、当時の民衆の無知、無力を知悉していたからであった。民衆への不信、恐怖にとらわれていたブルジョア革命独裁と異なって、民衆への愛情、共感に溢れながらも、バブーフやブランキは、民衆が自治能力を欠く現実を踏まえて、一握りの革命家達が民衆に代わって意志し行動し、革命権力を全面活用して新しい時代を拓いていくことを目論んだ。レーニンも、マルクスがプロレタリアート独裁を定式化した事情として、搾取者の必死の抵抗に加えて、「プロレタリアートの弱さ(59)」を挙げたことがあった。「これまでの革命の不幸は、その革命の緊張状態を保ち、腐敗分子を仮借なく弾圧するだけの力をその革命に与える、大衆の革命的熱情が、十分にながつづきしなかったことである(60)」。このことは、革命ロシアについても紛れのない事実であり、レーニンが革命党によるプロレタリアート独裁の代意・代行を合理化していった事情をかたちづくっていた。

 社会を支える直接的生産者にして国民のなかの多数者でもあるプロレタリア階級が、その力量を発揮しうるべく対自的階級として覚醒し政治的な統一性を形成することなしには、階級としての独裁という以前に、階級としての政治的支配は成り立ちえない。その政治的な統一性の確保には、少なくとも二つのことが必要であろう。

 一つは、プロレタリア階級内部の分岐した政治的諸傾向をそれぞれに体現している諸政党のあいだでの民主主義的な関係である。革命の激動のなかでの大衆の創意性、能動性の開花は、通常時にもまして政治的に多種多様な傾向を生み、複数の政党を必至とするだろう。そのなかでの政治的統一は、他の諸政党を排除した一政党の政治的独占によってではなく、複数政党の競争と提携を保証する政党間民主主義に基づいて築かれなければならない。また一つには、労働組合、協同組合、言論・出版・報道団体、文化・芸術団体、青年・婦人団体、等の大衆諸組織と労働者諸政党とのあいだの民主主義的関係である。これらの大衆組織が政党に従属しその下請機関になることなく、逆に、自律的にイニシアティブを発揮して変革を担い、ときに政党をも統制することが求められる。前衛党の複数化にとどまらない、前衛の多種多様化が必要である。

 つまるところ、プロレタリア民主主義の発揚と生き生きした作動なしには、階級としての政治的支配、ひいては階級としての独裁はありえない。階級としてのプロレタリアートの独裁は、ひとえにプロレタリア階級の民主主義の高揚いかんにかかっているのである。

 ブルジョア独裁にたいするプロレタリアート独裁の優越性の最大の理由とされてきたのが、少数者ではなくして多数者の独裁であったことからすると、個人の独裁や前衛党の独裁の容認は、プロレタリアート独裁の歴史的特質の自壊に等しかった。更に、独裁と民主主義の外と内へのふりわけの論理に立てば、プロレタリアート独裁に代位した前衛党独裁、個人独裁の是認は、プロレタリア階級の内部にあっても、他の諸党派、他の諸個人にたいする民主主義からの排除を可能にするのだった。

 (第二章 五 は以上。六は「独裁の任務の拡張」になっている。)

 (第二章 五の〔註〕) (47)(60)

47) レーニン 『カデットの勝利と労働者党の任務』、二三四頁。

48) レーニン 『国家と革命』、四九九頁。

49) レーニン 『ソヴェト権力の当面の任務』、第二七巻、二七八頁。

50) 同右、二七〇頁。

51) 同右、二七一頁。

52) 同右。

53) 同右。

54) レーニン 「ロシア共産党(ボ)第九回大会」、第三〇巻、四九四頁。

55) レーニン 『共産主義内の「左翼主義」小児病』、第三一巻、二六頁。

56) レーニン 「ロシア共産党(ボ)第一〇回大会」、第三二巻、二五七頁。

57) トロッキー 『テロリズムと共産主義』、一五〇頁。

58) ジノヴィエフ 『レーニン主義研究』、三六〇頁。

59) レーニン 『ソヴエト権力の当面の任務』、二六七頁。

60) 同右。

 

 

 第4章、ソヴェト民主主義建設の現実問題(1)

    −ソヴェト民主主義の性格

()以下は、「出版にかんする布告」=出版の自由剥奪問題部分(P.202〜206、10行目まで)の抜粋である。〔註〕はこの節の文末にある。

 一〇月革命の勝利から翌年初めまでの時期、国際的なプロレタリア社会主義革命の時代への突入という熱狂のなかで、レーニンは、パリ・コミューン型国家の即時実現としてソヴェト国家の創設を目指し、プロレタリア民主主義の具現としてソヴェト民主主義の創出に取り組んだ。彼は、「ソヴェトが最高の形態の民主主義である(2)」と、いまだ嘗てなく高度に発展をとげた民主主義としてソヴェト民主主義を主張してやまなかった。

 しかるに、ソヴェト民主主義は、レーニンのプロレタリア民主主義論のひずみをそのまま体現していた。レーニンのプロレタリア民主主義論の第一の基本的な特徴をなすのは、敵階級にたいする一連の自由の除外と民主主義からの排除の論理であったが、それに則るとともにロシアの現実の諸関係に基づいて、ソヴェト民主主義も敵階級からの民主主義的権利の剥奪を当然のこととした。

 一九一八年一月の「勤労被搾取人民の権利の宣言」および同年七月制定のロシア社会主義連邦ソヴェト共和国憲法は、()勤労し搾取されている人民大衆の権利を保障したが、()その反面旧支配階級にたいしては権利を与えなかった。加えて、()勤労被搾取者の権利についても、保障したのは、集団としての人民の権利であって、()個々人の権利ではなかったし、また、()国家にたいする権利含んでいなかった

 敵階級からの権利の剥奪は、ブルジョア階級の頑強な反抗や帝国主義諸国の敵対的な攻囲という、生まれたばかりの革命権力がおかれた極めて厳しい状況に強いられた対抗措置、あるいはまた、革命権力を圧殺せんと襲いかかる白衛軍と帝国主義諸国の軍隊との必死の戦争という、非常事態に対処する一時的なやむをえざる応急措置として、追認されるかもしれない。

 確かに、そのような傾向は、現実に存在したし、事態の複雑に絡みあった進行につれて強まっていった。一九一九年三月に採択されたロシア共産党綱領は、「政治的権利の剥奪や、なんらかの自由の制限は、自分らの特権を固執したり復活しようとする搾取者の試みとたたかうための一時的な措置としてだけ必要である(3)」と明記した。

 しかしながら、「一時的」とは、革命期ないし過渡期の特定の局面ではなく、「人間による人間の搾取の客観的な可能性がなくなる」、すなわち社会主義にいたるまでの全時期――これ自体、当時にあっては、短期間だと想定されていた――を指していた。つまり、搾取者からの権利剥奪は、ロシアの具体的状況下での当面の非常処置にとどまらない、革命が勝利し社会主義に到達するまでの経過処置であった。それに、なによりも、敵階級からの民主主義的権利の剥奪は、一九一八年にはいってからの国内戦と干渉戦に先立ち、一九一七年一〇月の権力の奪取と同時に、社会主義への移行の過渡たるプロレタリアート独裁の政策として開始されたのであった。

 代表的な事例として、出版の自由の扱いを取りあげよう〈5〉。

 一九一七年一○月二六日、臨時政府を打倒して革命政府(人民委員会議)が樹立された翌日、軍事革命委員会は、カデット機関紙『レーチ』その他のブルジョア新聞反革命的活動の理由で封鎖した。更にその翌日「出版にかんする布告」を発して、革命政府は敵対的な新聞封鎖を命じた。一○月革命当時は、極度に緊迫した革命闘争の真只中にあるとはいえ、首都ペトログラードでの蜂起がほぼ非流血的に勝利をおさめたことが示すように、レーニンも後日述べるごとく、テロルなどは問題にもならなかった6)」。

 革命政府はテロルの行使については、極めて自制的であり、敵にたいして寛大でさえあった。カデットも革命政府にたいする武力闘争の方針をとったのでもなかった。そのなかで、ボリシェヴィキは権力を獲得するや即座に、敵階級からの出版の自由の剥奪にのりだしたのであった。

 「出版にかんする布告」は、一一月四日の全ロシア中央執行委員会で審議され、社会革命党左派だけでなく、ボリシェヴィキの一部反対し廃止を求めたが、それを押しきって実施されていった。その席上で、レーニンはこう演説した。「権力を掌握すれば、ブルジョア新聞発行停止すると、われわれは以前にも声明した。こういう新聞の存在を大目にみることは、社会主義者でなくなることを意味している。『ブルジョア新聞の閉鎖を解け』という人は、われわれが全速力で社会主義にむかって進んでいることを理解していないものである(7)」。

 また、同日、レーニンは、「出版の自由についての決議案」を草して述べている。「労働者・農民の政府は、資本の圧迫のもとから、定期刊行物を解放し、製紙工場印刷所を国家の所有に移し、一定の数……に達した、それぞれの市民のグループに、用紙ストックの適当な部分と印刷労働の適当な量とを利用する平等な権利を与えることを、出版の自由と解している(8)」。

 明らかに、ブルジョア新聞閉鎖は、革命権力を脅かす熾烈な反革命という逼迫した状況での反撃というより、()ブルジョア階級からの出版の権利の剥奪()それに加えて出版の物質的手段国家的所有により勤労者大衆に出版の自由を保障するレジームの確立という、レーニンが唱えてきた論理に立脚した先制攻撃であった。

 更にいま一つ、()ブルジョア新聞にたいする赤衛隊的強襲は、西ヨーロッパでの革命の勝利と社会主義建設に結びついて早期に社会主義へ到達するという仮定に基づいていた。ブルジョア階級からの出版の権利の剥奪を経過的措置として、出版における新しいレジームを確立し、世界的規模での社会主義の実現へと一路邁進するというコースを、レーニンは思い描いていたのであった。

 前記の全ロシア中央執行委員会の会議で、「出版にかんする布告」の廃止を求めた社会革命党左派は、例えば次のようにその理由を明かにした。「われわれは、社会主義を暴力的というべき方法……をもって導入しようと考える世界観厳しく拒否する。……われわれが勝利をおさめるのは、()われわれがブルジョア新聞を閉鎖するからではなく、()われわれの綱領と戦術が広範な勤労大衆の利益を表現し、兵士、労働者、農民の鞏固な団結をつくりだしているからである。()……ブルジョア新聞および黄色新聞のおびただしい虚報にたいして、われわれは、革命家の、社会主義者の真実をもってこたえた。勤労大衆には、大衆闘争という信頼すべさ羅針盤がある(9)」。

 ブルジョア新聞にたいしては、それを暴力的に閉鎖することによってではなく、真実の訴えをもって思想闘争により勤労人民大衆の団結を組織することによって勝利すべきだし、勝利できる、というのであった。他にも、()出版の自由の規制は、自由な出版を不可欠とする大衆運動を害することになりかねない、()のみならず政治的テロルや国内戦争火をつける、等々、社会革命党左派の民主主義革命の原則的立場とそれをもってするボリシェヴィキの革命路線にたいする批判は、ローザ・ルクセンブルクのそれと共通するところがあり、傾聴すべさ正当な理があった。

 同じ会議で、別の問題に関してであるが、レーニンは説いた。「社会主義は上からの命令によってつくりだされるものではない。……生き生きとした、創造的な社会主義は、人民大衆自身の創造物である(10)」、と。ところが、ブルジョア新聞にたいしてどのように打ち勝つかについて、人民大衆自身の下からの自発的な力と闘争によって民主主義的に包摂しつつ政治的に打ち勝つ道ではなく、()革命権力の上からの命令によって強圧的に排除する道を彼はとった。

 一〇月の権力奪取と同時に革命政府がおこなった諸決定のなかには、「平和にかんする布告」、「土地にかんする布告」等の巨大な変革の陰に隠れて目立たないが、「出版にかんする布告」が含まれていた。ブルジョア新聞にたいする強襲は、()状況に強いられての不可避的な選択ではなかった()最適の選択肢でもなかった。そして、()権力的強圧策の採用は、ソヴェト権力誕生早々に、ボリシェヴィキと社会革命党左派とのあいだに深い亀裂を走らせた。()敵階級からの権利の剥奪の論理に基づく革命権力による出版の自由の過度の制限は、厳しい対抗状態にあるボリシェヴィキと他の諸政党の軋轢を必要以上に激しくした。「出版にかんする布告」は、ソヴェト民主主義建設のうえでの最初の岐路であった。

 ブルジョア階級にたいして権利を剥奪し民主主義から排除したソヴェト民主主義は、レーニンのプロレタリア民主主義論のひずみを具現しており、プロレタリア民主主義としては歪んだ形態であった。一〇月革命後からソヴェト国家が全構造的に創建されるまでの一年間ほど、ソヴェト民主主義はプロレタリア民主主義のモデルとして扱われたが、本当のところは逸脱モデルであった。

 ソヴェト民主主義は、ロシア史のうえでは紛う方なく一大前進であっても、世界史的には、西ヨーロッパ諸国で定着しているブルジョア民主主義と比して、前進的とは言えなかった。社会革命党やメンシェヴィキが唱える民主主義がブルジョア民主主義を突破しえない限界内にとどまっていたとしても、レーニン流のソヴェト民主主義はそれとは違った意味での欠陥を内有していた(11)

[註]以下は、P.202〜P.206、10行目までの()から(11)の[註]

1)本章の記述にあたり、ソヴェト・ロシア史に関する以下の研究書を参考し、多くのことを学んだ。EH・カー『ボリシェヴィキ革命』一〜三、原田三郎、宇高基輔、他訳(みすず書房)。同『ロシア革命の考察』、南塚信吾訳(みすず書房)。同『ロシア革命』、塩川仲明訳(岩波書店)。 R・ダニエルズ『ロシア共産党党内闘争史』、国際社会主義運動研究会訳(現代思潮社)。M・リーブマン『ロシア革命』、茂田東子訳(批評社)。 M・レヴイン『レーニンの最後の闘争』、河合秀和訳(岩波書店)。C・ベトレーム『ソ連の階級闘争一九一七〜一九二三』、高橋武智、天羽均、杉村昌昭訳(第三書館)。G・ボッファ 『ソ連邦史 @』。HC=ダンコース『ソ連邦の歴史1』、石崎晴己訳(新評論)。渓内謙『現代社会主義の省察』(一九七八年、岩波書店)。T・ドイッチャー『ロシア革命五十年』。

 

2) レーニン 「労働者・兵士・農民代表ソヴェト第三回全ロシア大会」、第二六巻、四八五頁。

3) 「ロシア共産党(ボリシェヴィキ)綱領」、稲子恒夫『ソビエト国家組織の歴史』(一九六四年、日本評論社)、一四二頁。

4) 同右。

5)以下の一連の事情については、藤田勇「ロシア革命と基本的人権」、(東京大学社会科学研究所編『基本的人権 3』(一九六八年、東京大学出版会)、三三一〜三三六頁、森下敏男『ソビエト憲法理論の研究』、二〇〇〜二〇四頁を参照。

 

6) レーニン 「アメリカの一ジャーナリストの質問にたいする回答」、第二九巻、五二八頁。但し、この文の直前には、「一九一七年一〇月二五日の革命ののち、われわれはブルジョア新聞さえ閉鎖しなかった」とある。

7) レーニン 「全ロシア中央執行委員会の会議」、第二六巻、二九一頁。

8) レーニン 「出版の自由についての決議案」、第二六巻、二八八頁。

9) 藤田勇「ロシア革命と基本的人権」、三三二頁。

10) レーニン 「全ロシア中央執行委員会の会議」、二九二〜二九四頁。

 

(11) 藤井一行『社会主義と自由』(一九七六年、青木書店)は、()自由、民主主義の問題でのスターリン主義批判の先駆的な著論であるが、()レーニンの所説一面的な視角から読みこみ無批判的に美化している。社会主義と自由は両立しえないものではなく、社会主義的自由は資本主義体制以前のいかなる社会の自由よりも豊かな内容をもつ、という問題意識は、正当である。しかし、スターリン主義から「原始マルクス=レーニン主義」(F頁)に回帰すれば、そこに社会主義と自由、民主主義の問題についての解答が与えられている、とは決して言えない。

 

 逆にあまりにも多くの事柄が未解明に残され、レーニンにおいては構造的ひずみをもって説かれていた。本書の理論的な基調と主要な記述は、次の点にある。「プロレタリア・デイクタトゥーラがそうした〔搾取階級に属する〕人間の自由の剥奪を必然的に伴うものでないことは、当のレーニンやボリシェヴィキ党自身が明確に指摘していたところであった。……しかも、それ〔ロシア革命の過程での搾取階級の諸自由の剥奪〕は、人民の諸自由や諸権利が旧権力によって不当に侵害されるという革命過程の特殊な状況のもとでの対抗措置にほかならなかった」(二六二頁)。

 

 しかしながら、拙稿のなかに引用した以外にも数多くの典拠を挙げることができるのだが、レーニンの所説を貫流しているのは、反対に、「プロレタリア・デイクタトゥーラが、そうした人間の自由の剥奪を必然的に伴う」ということである。

 

 解釈上の問題点を一つだけ挙げよう。『プロレタリア革命と背教者カウツキー』の論述、「()独裁の不可欠の標識、必須の条件は、階級としての搾取を暴力的に抑圧することであり、したがって、この階級にたいして……平等と自由を破壊することである。()……搾取者にたいする民主主義のあれこれの制限、あれこれの破壊が、いかなる国々で、あれこれの資本主義のいかなる民族的特殊性のもとで適用されることになるか――それはあれこれの資本主義、あれこれの革命の民族的特殊性にかんする問題である」

 

 これについて、著者は、後半の命題()のみに注着して、「レーニンが、デイクタトゥーラの具体的・個別的形態はそれぞれの民族の革命が直面する状況の特殊性によって規定されると考えていた」(一五七頁)と解釈する。

 

 だが、これは一面の強調であって、前半の命題()を放擲している。()プロレタリアート独裁は、理論的問題、一般的原則としてブルジョア階級にたいし一連の自由を制限し民主主義から除外するが、()現実問題、個別的方策として、どういう自由をどの程度に制限するかは各国での革命の民族的特殊性にかかる。これが、レーニンの論旨である。また、プロレタリアート独裁は、本来、ブルジョア階級にたいする民主主義的自由の制限をいっさい必要としないという著者の自説――この主張を投影してレーニンの所説を作為しているのだが――は、レーニン的な敵階級からの権利の剥奪論の裏返しであり、もしそうであれば、そもそもプロレタリアート独裁の存在自体が不要であろう。

 

 

 三、ネップの導入と政治の逆改革

 

〔小目次〕

   1、一九二一年の転換

   2、クロンシユタット反乱

   3、党内分派禁止と反対政党の撲滅

   4、民主主義の消滅

   〔註〕

 、一九二一年の転換

 ソヴェト権力は、国内戦と干渉戦のなかで何度も危うく潰滅しかけたが、一九二〇年にいたると軍事的危局から脱し、年末には白衛軍と連合軍を最終的に粉砕して戦争に終止符をうった。しかし、生さ残るための総力をあげた必死の戦闘の被害は、あまりにも甚大であった。三年半の――第一次大戦からすると七年に及ぶ――戦乱は、実に惨憺たる帰結を生んでいた。食糧難、あらゆる物資の不足、工業の倒壊など、経済は徹底的に破壊されていた。大戦中のそれに倍する死者、都市人口の激減、つまり革命の中核であった都市プロレタリアートの半ば消滅、都市居住者と農村住民の疎隔、大衆の疲労困憊など、社会も大打撃を蒙っていた。レーニンの表現によれば、「ロシアが戦争から抜けだしたときの状態は、半殺しの目にあわされた人に、なによりも似ている。七年間打ちのめされ、それでも有り難いことには松葉杖で前進している! それがわれわれの現状である!(37)」。政治的には、「軍事的−プロレタリア独裁」がボリシェヴィキ党によって代行され、ソヴェト民主主義は消滅しかかっていた。

 国内が破局的状況にあっただけではなかった。西ヨーロッパの諸国の革命運動は、革命的徴候はあったが、結局いずれも敗退した。一九二〇年七−八月の第三インターナショナル第二回大会と時を同じくして、国際化への熱狂が最高潮に達するなか、赤軍が企てたポーランド侵攻、革命の軍事的輸出が撃退された後には、西ヨーロッパでの革命を間近かに望める見通しは失われていた。一九二一年三月、中部ドイツでの蜂起は、ドイツ政府によって困難もなく取り鎮められ、西ヨーロッパ革命の早期到来を期待できないことを最終的に立証した。レーニン以下ボリシェヴィキは一貫して、ロシアにおける社会主義の達成を世界革命の見地から考え、自足的な完結体としてではなくて、世界的規模での社会主義建設の一環として位置づけてきたが、頼みの綱である西ヨーロッパは革命に背をむけたのであった。

 こうして、打ちつづいた戦乱による荒廃とそれによって一段とひどくなったもとからの全般的後進性、西ヨーロッパヘの革命の拡大の失敗による、帝国主義の包囲と重圧の下での一国的孤立という、ロシアのプロレタリア革命と以後の建設の悲劇的な枠組が確定した。帝国主義世界の鎖の一端を果断に断ち切った革命ロシアは、帝国主義列強による圧殺攻撃を辛うじて撥ね返したものの、惨烈な諸条件で再出発しなければならなかった。

 一九二一年三月に開かれたロシア共産党第一〇回大会は、荒廃から立ち直り後進性を克服してゆくべく、「発展した資本主義諸国ではまったく不必要な多くの特殊な過渡的方策(38)」を打ちだし、ソヴェト社会と国家の建設の時代を幕開けした。それらの過渡的方策は、社会主義への移行の基礎的条件が欠けている現在のロシアでこそ必要とされるものであった。それは、社会主義への過渡的方策ではなくて、社会主義への過渡的方策へのさらにまた過渡的方策であった。

 ソヴェト権力が直面している第一義的任務は、崩壊状態にある経済を再建して、生産力を回復し農業と工業を復興することであった。一九一八年五月の食糧独裁令と一九一九年一月の食糧徴発令以来、ソヴェト権力と農民の関係は極度に緊張し危機に瀕していた。労農同盟は、実質的に崩壊していた。そこで、まずもって、戦時下に革命国家を助けるべく穀物の強制的徴発に応じなければならなかった農民が耐え忍んできた極限的な窮境を改善する必要があり、割当徴発を現物税に代え、商業の自由を許す政策を採らねばならなかった。圧倒的多数者である農民大衆との良好な関係を再構築しないでは、ソヴェト権力を維持することができなかったし、西ヨーロッパ革命の見通しが立たないなかでは、労働者階級と農民階級との闘争かそれとも同盟かが革命の今後の命運を左右した。「われわれは他の国々に革命がやってこないかぎり、農民との協定だけが、ロシアの社会主義革命を救うことができるということを知っている(39)」。その他に、大工業の再建基金たらしめられる利権事業の導入や協同組合の育成が決められた。こうしたネップの採用は、一〇月革命後の一時期追求されたが内戦とともに掻き消えた「国家資本主義」――プロレタリア国家の統制の下での資本主義の養成――の再定置であった。

 ネップへの転換と符節を合わせるように、三カ月程後の第三インターナションナル第三回大会も、強襲から攻囲へと革命運動の基本方針を変更した。革命的情勢が遠のき、彼我の力関係が不利に転回しているなかで、労働者階級の多数者にとどまらず、農村を含めた勤労人民大衆の多数者を獲得する戦術に転じることを、大会は各国の革命党に指示した。

 官僚主義の病弊を癒しつつソヴェト国家を革命の保塁として堅固に打ちかため、市場経済を導入して、農民との経済的同盟を再構築するとともに「国家資本主義」を発展の軌道にのせて、徐々に、累積している災厄と危機を克服するだけでなく社会主義への移行の基礎条件を創出し、自力でやれる最大限のことを開拓すること、そして西ヨーロッパで勝利した革命が援助にくるまで持ちこたえること、これが新たに描かれた展望であった。

 政治についてはどうか。いっさいを戦争のために投入しなければならないという状況から解放されたいまこそ、政治的な自由化、民主化の新政策、そのための特殊な過渡的方策が必要とされたのではないか? しかし、そうした方策への転換はなされなかった。それとは逆の方向で、新政策は採られた。経済政策を資本主義的に自由化し開放した反面、レーニンと党は、政治においては戦時よりも一段と厳重に自由、民主主義を統制し締めあげる方策にのりだした。ロシア共産党第一〇回大会は、党内のいっさいの反対派を禁止するとともに、他のすべての諸政党の撲滅にむかい、一党独裁の国家体制を確定した。それは、ネップの根本的な急転換とは違って、なしくずし的に進められてきた政策の結節としての新政治政策であった。

 2、クロンシュタット反乱

 第一○回大会の直前に発生したクロンシュタット事件の衝撃は、決定的であった。クロンシュタット海軍基地は、一九〇五年にも一九一七年にも革命の不抜の城塞であり、革命の栄光に輝き続けてきた。そのクロンシュタットの水兵と守備隊が、ボリシェヴィキ政権の打倒を叫んで反乱に立ちあがった。反乱者達の綱領的要求は、次のようなものであった。

  現在のソヴェトは労働者と農民の意志を表現していない事実にかんがみ、すべての労働者と農民への事前に扇動をおこなう自由とともに、即時秘密投票による新選挙を実施すること。

  労働者と農民に、アナーキストと左翼社会主義諸政党に、言論および出版の自由を与えること。

  労働組合と農民諸組織に集会の自由を確保すること。

  遅くも一九二一年三月一〇日までに、ペトログラード、クロンシュタット、およびペトログラードの県の労働者、赤軍兵士、および水兵の無党派会議を召集すること。

  労働ならびに農民運動の関連において投獄されているすべての労働者、農民、兵士、および水兵と同じく、社会主義諸政党のすべての政治犯を釈放すること。

 

  監獄と強制収容所に抑留されている者たちの一件を再検討する調査委員会を選出すること。

  いかなる政党もその理念の宣伝において特権を与えられたり、かかる目的にたいして国家の財政的援助を受けてはならないがゆえに、すべての政治部を廃止すること。その代わり、地方的に選出され国家によってまかなわれる、文化ならびに教育審議会が設置されるべきこと。

  すべての道路遮断分遣隊を即時撤収すること。

  健康に害のある職種に雇われている者を除いて、すべての勤労人民の配給量を平等化すること。

 10 工場と作業場において監視の任務につけられている共産党警備隊と同じく、軍隊のすべての部署における共産党戦闘分遣隊を廃止すること。そのような警備隊あるいは分遣隊が必要であると判明したときには、それらは軍隊では卒伍から、工場と作業場では労働者の判断によって任命されるべきこと。

 

 11 農民が自身の手段で、すなわち、雇用労働を用いることなく経営するという条件のもとで、農民に土地にかんする完全な行動の自由を、また家畜を保有する権利をも与えること。

 12 われわれの同志士官学校生徒と同じく、軍隊のすべての部署に、われわれの決議に裏書きを与えるよう要請すること。

 13 新聞がわれわれの決議の一切を広範に報道するよう要求すること。

 14 巡回統制局を任命すること。

 15 自身の労働による自由な手工業生産を許可すること」。

 要求の基幹は明らかなように政治的改革であり、労働者と農民の意志を体現していない現行ソヴェトの自由な再選挙を筆頭とする政治的改革要求のいずれもが、この間のボリシェヴィキ政権下でのソヴェト民主主義の重大な侵犯を鋭く告発し、一党による権力の独占の廃止と民主主義的諸権利の全面的な復活と徹底を訴えていた。ここでは本章一で取りあげた出版の自由に関係する 7の条項に注目すると、出版の物質的手段の国家的所有による国家を介しての出版の自由の実質的保障策が、レーニンによる自讃にもかかわらず、支配政党と国家の癒着を介して、ボリシェヴィキ党への国家による特権的庇護を生んでいることを批判し、選挙に基づく審議会の設置によって出版の自由の確保にあたることを唱えていた。

 クロンシュタットの反乱者達によると、ボリシェヴィキは変節して革命の理想を裏切ったのであり、ボリシェヴィキの圧制を打ち砕き社会主義への新たな大道を切りひらく第三の革命が必要であった。

 すでに前年来、ウクライナでのマフノの反乱や緑の反乱、ロシア中央部でのタンボフ県ではアントーノフの反乱など、穀物の割当徴発制その他のソヴェト権力の政策のもとで犠牲を強要されてきた不満を沸騰させた大規模な農民反乱が燎原の火のように農村に広がっていた。加えて、一九二一年になるとモスクワやペトログラードでも、食糧難をはじめとする経済的苦情から、労働者の騒擾やストライキが相次いでいた。この事実を、レーニンは、次のように認識していた。「近来、党外の労働者のあいだに、動揺と不満があらわになってきたことは疑いない。モスクワでいろいろの党外の集会が開かれるとき、彼らが民主主義や自由を、ソヴェト権力の打倒に導くスローガンにしていることが明白になった(41)」。クロンシュタット蜂起は、先行して決起した農民や労働者の諸要求を集成した改革要求を掲げていたように、いたるところに渦巻いている現状への不満、ボリシェヴィキ政権にたいする抗議の自然発生的で人民主義的な爆発であった。モスクワやペトログラードの労働者の闘争とともに、クロンシュタットの水兵の反乱は、ボリシェヴィキ党の最後の支持基盤さえ消え失せつつあることを示していた。

 クロンシュタット反乱は、更に深刻な全般的大動乱を誘発するかもしれなかった。もっと恐ろしいことに、白衛軍の再起への跳躍台となり、国内戦への逆行、帝国主義列強による再干渉を招きかねなかった。事実、外国に追われていた白衛派やブルジョア勢力は、一斉にクロンシュタット蜂起を歓呼して迎え、反乱への介入と反ソヴェト権力のキャンペインに躍起となった。そして、大衆の反乱と白衛軍の反革命攻撃とに挟撃されるなら、今度はボリシェヴィキ政権とソヴェト権力の破滅へいたるであろう、とボリシェヴィキには思われた。クロンシュタットの反乱は、一〇月革命以来最も深刻なソヴェト権力にたいする内部からの脅威であり、白衛軍よりも一層危険であった。

 厳しい試練の前に立たされたボリシェヴィキは、これまでの農民反乱や労働者騒擾にたいして臨んできたように、譲歩や妥協を排して断固として鎖圧することを決定した。開会中の党第一〇回大会の代議員までもが急派され、悲惨きわまりない兄弟殺しの戦闘を交えて、クロンシュタット反乱を粉砕した。以降、革命政権の弱体な基盤を補い、それが生き延びるうえでの功労者であった赤軍とチェカ(反革命およびサボタージュとの闘争のための非常委員会)が、新体制の基柱となっていくのだった。

 クロンシュタット事件は、ボリシェヴィキを震撼させ、何物をも恐れず真実を見つめてきたレーニンさえもたじろがせ盲目に近い状態にした。レーニンは、事件を「小ブルジョア的反革命(42)」として弾劾し、その原因を「小ブルジョア的・無政府主義的自然発生性(43)」に帰着させた。「一般的にいって、小生産者の『本性』そのものとなっている政治的動揺……の最も顕著な現れが、クロンシュタットの暴動である。この説明は、同一の階級は勿論のこと、同一の政治的党派のなかでも生じる政治上の熾烈な対立を社会階級的基盤の相違にこじつけそれに解消していた。これとともに、レーニンは、反乱者達が社会革命党、メンシェヴィキや白衛派、資本家・地主勢力に唆され操られていると難詰し、反乱は不可避的に「白衛軍が現れるための踏台、階段、橋渡し(45)」となり、「直接プロレタリア独裁の倒壊に、つまり資本主義、地主・資本家の旧権力の復活になるであろう(46)」と断じた。国内戦以来白衛軍と直接間接に結託して企てられてきた幾多の反革命策動の一つにすぎないという、多くのボリシェヴィキがおこなった断罪をともにしたのではなかったが、レーニンもクロンシュタットの反乱者達の改革要求と反乱に便乗して反革命を画策した白衛派やブルジョア勢力のプロパガンダを混同し一体視していた。代表例として、「ミリュコフや、ブルジョアジーのあらゆる賢明な指導者どもが、『ボリシェヴィキ抜きのソヴェト』というクロンシュタットのスローガンを歓迎した(47)」と、彼は繰り返し非難した。ところが、「ボリシェヴィキ抜きのソヴェト」は、亡命カデット指導者ミリュコフがふりまいたスローガンであり、クロンシュタットが掲げたのは、「すべての権力をソヴェトヘ、だが政党ではなく」であった。また、反乱は憲法制定議会を求めているとも彼は語ったが、「憲法制定議会の復活」 は社会革命党のスローガンであり、クロンシュタットが蜂起したのは、ソヴェト権力に反対してではなく、ボリシェヴィキの一党独裁権力に反対しソヴェト権力の復位を求めてであった。ソヴェト民主主義に反対してではなく、ソヴェト民主主義の歪曲に反対しソヴェト民主主義の全面的回復を求めてであった。この重要な差異を、レーニンは弁別しなかった。そこには、体制の欠陥にたいする内部的批判を外部の敵からの攻撃にかこつけて葬り去るやり口の始まりが刻されていた。

 「クロンシュタット事件は」とレーニンは述べた、――「いわば、現実をなによりもひときわ明るく照らしだした稲妻であった」。その際に、彼はクロンシュタット反乱の背後で待機している白衛軍と資本家・地主の反革命策動に最大の注意を促したのであった。しかしながら、クロンシュタット事件がそれにもましてあらわに照らしだしたのは、理想を歪め目標から離反してしまっている革命の痛ましく傷ついた姿であった。しかも、クロンシュタット蜂起の鎮圧によって、革命はその本質的精神からますます遠ざかったのであった。

 第一〇回大会は、クロンシュタット事件の衝撃のなかで、穀物の強制的徴発の停止と現物税への置き換えを否応なしにとりいれた。だが、クロンシュタット反乱に柔軟に対処し、譲歩や妥協を折りこんだ交渉によって事態収拾の道を探ることをしなかった。「プロレタリアートの政治権力の根底そのものを傷つけることなしに、……小農民のためにある程度まで商業の自由を、資本主義の自由を回復する(49)」、つまり経済的要求は受けいれるが政治的要求は峻拒するというのが、基本的態度であった。レーニンと党にとって、政治的改革は絶対的に受けいれられないものであった。

 ソヴェトの自由な再選挙の要求を、レーニンは 「『全人民的な、総選挙によって生みだされた、全人民によって神聖にされた』権力などというおしゃべり……駄弁(50)」として嘲り一蹴した。ソヴェトの新選挙になれば、労働者階級の大部分が弱体化し分散して「階級脱落」状態にあり、労働者のあいだでさえも不満が高まっているなかでは、メンシェヴィキや社会革命党の勢力増大は避けられず、ボリシェヴィキが多数を確保できるかどうか疑わしかった。それに加えて、ソヴェト権力内での政権交代はおろか、連立政権の再形成も、他政党との協定も、大混乱をきたし危機を一層甚だしくする以外にないものとして、レーニンの眼中になかった。ボリシェヴィキ政権に真向うから挑戦した政治的な自由と民主主義の要求は、レーニンによると、ソヴェト権力そのものの打倒を狙っていた。

 3、党内分派の禁止と反対政党の撲滅

 レーニンがクロンシュタット事件の経験的教訓として引きだした()新政治政策、()党内反対派の禁止、ならびに、()反対政党の清算は、更に正当性を欠いていた。

 当時のボリシェヴィキ党内では、労働組合論争において労働組合の国家からの独立を主張する労働者反対派や、強まりゆく官僚主義に反対して党とソヴェト双方の民主化を求める民主主義的中央集権派が党指導部に対抗し、その分派的対立は一途に熱を帯び拡がり続けていた。殊に労働者反対派の政綱は、クロンシュタットの水兵達の改革要求と似かよっていた。双方の間に直接の結びつきはなかったが、どちらもボリシェヴィキ党指導部を革命の精神に違背して民主主義を抑圧していると攻撃していた。

 レーニンの考えでは、党と国家が未曽有の難局に直面し党が一つに団結することがこれほど求められているときはないいま、分派闘争は直ちにやめなければならなかった。「小ブルジョア的・無政府主義的自然発生性」を助長し「小ブルジョア的反革命」を利することになる労働者反対派認められなかったし、党の一致協力をぶちこわす反対派いっさい許されなかった。「このような時横に、このような党のなかで、反対派を結成することも、――冗談ごとではないのである!(51)」

 こうして第一〇回大会は、労働者反対派やそれに類する者の思想を「サンディカリズム的および無政府主義的偏向(52)」と批判して、これとのたゆみない、系統的な闘争を決定するとともに、「党の統一について」という決議で、党内の偏向が反革命勢力によって利用される明瞭な実例としてクロンシュタット事件を挙げ、すべての分派の禁止を定めた。すべての党内反対派の禁止は、「現在の時機から生じる政治的結論(53)」であり、危急事態に対処する一時的な避難措置であった。反対派の禁止は党内民主主義を危うくするが、それはいま現に党がさらされている危機より危険ではないのだ、と思われた。

 第一〇回大会は、他方で、「党建設の諸問題にかんして」という決議を採択し、広範な討議、批判の完全な自由を含む党内民主主義の諸原則を再確認した(54)。分派の禁止の決定には、党内の民主的論争を確保する措置が付随していた。が、それは、労働者反対派への歩みよりとしてであった。大会が党内民主主義に関しておこなった諸決定は、一義的ではなく明白に矛盾があった。しかし、ボリシェヴィキ党の伝統を覆して決定された党内分派の禁止は、分派の観念を一変させるとともに党内民主主義狭隘化しその限界内に閉じこめることになり、中央委員会に党からの除名の手段を与えたこととあわせて、一枚岩的団結を至上目的化した党内民主主義の厳重な統制への道を開いた。

 それよりも更に重大なことに、反対諸政党一掃されることになった。党内反対派禁止という民主主義制限の他面は、反対諸政党絶滅という党民主主義の抹殺であった。いやむしろ、他の諸政党の禁圧の撥ね返りが、党内分派の禁止であった。党内反対派の禁止も、党内党が党外党に転化するのを封殺する意味を有していた。一〇月革命の勝利後、ボリシェヴィキの党内民主主義の伝統が全面的に開花した一時期があった。しかし、党内民主主義の白熱も党外にたいしては無縁であり、党民主主義については冷淡であった。そして、()社会における民主主義、()階級間民主主義や、()党間民主主義を欠くにいたったいま()党内民主主義も不可能になっていくのだった。党内分派の禁止は、その第一歩であった。

 内戦の開始時にソヴェトから追放されたメンシェヴィキ社会革命党は、その後、前者は、ソヴェト体制を受け入れて一九一八年一一月に、後者は、分裂を重ね、ソヴェト権力との武装闘争の放棄、内外の反革命勢力との闘争に路線を転換して一九一九年二月に、それぞれ公然たる活動の再開を認められ、ボリシェヴィキ政権の条件つき宥和政策のもとで半合法的とでもいうべさ不安定な地位を許されていた。一九二〇年一二月の第八回全ロシア・ソヴェト大会では、両党は参加して、自由と民主主義の回復、ソヴェトの新選挙などを要求した。

 クロンシュタット事件に際し、メンシェヴィキは影響力を揮うことができず、社会革命党は介入しようとして拒否された。蜂起は、始終「自然発生性」を特質とする運動であった。ところが、反乱の「小ブルジョア的反革命」としての性格が断定されると、反乱者達と同じような政治的要求を掲げる人々も不可避的に反革命者にされた。両党はいずれも、「小ブルジョア的反革命」を助長し、ブルジョア階級のための「権力の移動」に努めている先導隊として糾弾された。「いまでは、ブルジョアジー全体がメンシェヴィキと社会革命党を援助している。エス・エルとメンシェヴィキは、現在では全反動派の前衛である。今年の春、われわれはこの反革命的協力の結実を見る機会をえたのである(55)」。反ボリシェヴィキ政権も、反ボリシェヴィキ党も即反革命として扱われた。

 一○月革命の直前、権力奪取の闘争のただなかにあったレーニンは、ソヴェトの内部での諸政党のあいだの公然たる闘争と諸政党相互間の協定による平和的な政権交替について説いたことがあった。「ソヴェトが単独の権力、全一の権力をもっていることをもとにすれば、権力を握っている諸階級と諸党の交替は、ソヴェトの内部で平和的におこなうことができたであろう(56)」。また、一〇月革命後、農民ソヴェト大会で過半数を占めた社会革命党左派を迎えいれて、「エス・エル左派と権力をわかつ(57)」ことを、承認した。そして、三カ月たらずの短期間に終ったが、ボリシェヴィキと社会革命党左派の連立政府が形成された。

 しかし、先に見たように、一九一九年のロシア共産党第八回大会他の政党権力を分かちもたないことをすでに決議していた。そして、一九二一年のボリシェヴィキは、ソヴェト権力、なかんずく赤軍やチェカを独占的に掌中におさめていて、単独でも、否単独である方がより効果的に、それらの権力を行使できた。それに、ネップの採用はメンシェヴィキや社会革命党の年来の要求の取り入れでもあったから、両政党はボリシェヴィキ党独裁掘り崩す危険な勢力に発展しかねなかった。

 こうして、一九二一年春には、ソヴェト国家の命綱と見做されているボリシェヴィキ党独裁が死守され、メンシェヴィキも社会革命党も反革命派の前衛として扱われ、他政党との協定や連立は一顧だにされなかった。それどころか、諸政党のあいだの公然たる闘争は禁圧され政府党以外の諸政党は撲滅の対象とされた。第三インターナショナルは各国での権力獲得を目指して統一戦線戦術へと路線転換を図ったが、権力をすでに獲得しているロシアでは、他政党との統一戦線など、まったく考慮の圏外におかれた(58)。

 「クロンシュタットの経験と教訓(ソヴェト権力の政治史における新しいもの)。メンシェヴィキ、社会革命党、無政府主義者との妥協のない闘争59)」、このメモが示すように、メンシェヴィキや社会革命党にクロンシュタット反乱の責任を負わせて、これまでは反革命軍との対抗の必要上不安定な存在を認められてきた両党以下、いっさいの反対政党とそれに類する勢力止めをさすことが、レーニンとボリシェヴィキの新政策であった。

 「メンシェヴィキやエス・エルにたいしては――公然のものも、無党派分子に変装したものも――監獄のなかに(または白衛派といっしょに外国の雑誌のなかに)席を与えてやればよい。われわれは喜んでマルトフを外国に放してやった。……議会主義遊び、憲法制定議会遊び、非党員会議遊びをしたいものは外国へ行くがよい。……われわれはメンシェヴィキとエス・エルを、公然のものも、『無党派分子』に変装したものも、同じように監獄に入れよう60)」。レーニンはこう述べたが、これは冗談めいた威嚇ではなく、すでに進行している事実の駄目押であった。ペトログラードの労働者ストライキでのメンシェヴィキにたいする弾圧以降、反対政党撲滅は加速度的な進行途上にあった。

 EH・カーの書によれば、「党中央委員会全体を含む二〇〇〇人のメンシェヴィキがネップ導入前夜に逮捕されたといわれており、このメンシェヴィキ野党の絶滅は、与党ボリシェヴィキ党内異端の抑圧時を同じくした。これら逮捕者の多くは後に釈放され、指導的メンシェヴィキは国外へ出ることを許された。しかしエス・エル指導者の頑強な中核は、一九二二年反革命的活動の廉で裁判にかけられ、死刑を宣告される(この宣告は執行されなかった)か、長期の禁固刑を宣告されるかした(61)」。

 、民主主義の消滅

 メンシェヴィキや社会革命党の反対政党が、ソヴェト民主主義の復活の要求もろとも最終的に一掃されていくことにより、ソヴェトから消えかかっていた民主主義は、最後的に姿を消していくことになった。ソヴェト民主主義はもはや、ボリシェヴィキの党内に窄まりゆく姿で余命を保っているにすぎなかった。レーニン的意味でのプロレタリア民主主義さえ、レーニン自身の目から見ても消滅しかかっていた。いまでは、プロレタリア民主主義の語は滅多に用いられなかった。現下のソヴェト権力を言い表すのに使われる語は、プロレタリアート独裁であった。そのプロレタリアート独裁の観念も、ボリシェヴィキ一党独裁を虚構する性格をますます強めていた。一〇回大会でプロレタリアート独裁とならんで多用された語は、官僚主義であった。

 反対政党絶滅にともなって、ボリシェヴィキはプロレタリア階級および勤労大衆の唯一の前衛党を自任し、自党の指導的役割をプロレタリアート独裁の指令系統として定位させた。第一〇回大会の決議「わが党内のサンディカリズム的および無政府主義的偏向について」の原案の一項目で、レーニンは、ソヴェト国家における唯一前衛党としての共産党とその指導的役割を定式化したが、それによって、マルクス主義の教えにかなうものとして、プロレタリアート独裁を党独裁へと橋渡しする論理を示し、ボリシェヴィキ党独裁の現実をも正当化した。それはまた、一九一七年一〇月蜂起の際のペトログラード・ソヴェトの軍事革命委員会とボリシェヴィキの軍事革命センターの関係以来、しばしば生じ加速度的に進行してきたボリシェヴィキ党とソヴェト国家の癒着が制度的に固定化され公認されていく、「党=国家体制」の決定的な一歩になった。

 一方でのネップ、農民への譲歩と他方での新政治政策、政治的批判勢力にたいする厳しい抑圧は、一体的両面であった。経済的な緩和、多元主義の導入は、政治的な締めつけ、一枚岩的主義の採用と裏腹であった。「いまや最大限の柔軟さが必要であり、かつそのために、柔軟な駆引のために、機構の最大限の堅固さが必要である(62)」。崖つ淵に立たされたボリシェヴィキは、経済的自由化政策を取り入れたが、それとひきかえに、政治的ひきしめ政策に走った。ボリシェヴィキ党による政治的権力の独占が、ネップが惹起する政治的結果にたいする備えでもあり、現下の危局からの活路を開く適正な方策なのだと、レーニンは思料したのであった。だが、いまや、革命陣営内部における民主主義さえ、党派主義的に限定された。敵階級だけでなく、プロレタリア階級、農民階級内の政治的反対勢力も権利を剥奪され民主主義から排除されるにいたった。ソヴェト民主主義の二重の歪みは決定的なものになった。

 ボリシェヴィキ党指導部と反対諸分派のあいだの深刻化する軋轢やボリシェヴィキと反対諸政党のあいだの重大化する衝突は、ソヴェトにおける民主主義の消失の危機を政治的機因として有していた。分派闘争の激化によって拡大する党内の対立やボリシェヴィキと他政党の闘争の熾烈化によって深化する党派問の亀裂は、ボリシェヴィキ党独裁と化したプロレタリアート独裁とソヴェト民主主義の矛盾が噴出し、ソヴェト民主主義が抑えこまれ切り崩されて窄められている現実を、基盤としていた。

 第一○回大会で採用した諸方策によって、レーニンは、プロレタリア民主主義が危殆に瀕している事態(原因)を取り除くのではなく、党内反対派や反対政党の批判や闘争(結果)禁圧することによって、軋轢、衝突や対立、亀裂を払拭しようとした。従って、それは、本末転倒であった。ソヴェト民主主義は歪みを倍加させ最後的に窮地に追い詰められ、政治的矛盾は更に奥深く内攻した。

 ()党内分派の禁止、()反対政党の絶滅、()唯一前衛党とその指導的役割の定式化を三点セットとする新政治政策は、気息奄々のソヴェト民主主義喉頸を締めあげた。しかも、これら、現下の危急事態に対処する一時的な諸措置を再建の進展のなかで徐々にでも解除し、ソヴェト民主主義へと立ち帰る展望は、まったく欠けたままであった。新政治政策は、ソヴェト・ロシアを出口のわからない迷路のなかへ導き入れた

 経済建設の根本問題で「『改良主義的な』、漸進的な慎重で、遠まわりな行動方法(63)」に転換したように、政治建設において必要なのもそうした方向での転換であったろう。一〇月革命の日々から数年間の内戦にいたった動乱の年月に拡がり深まった溝は、容易には埋められえなかったが、ボリシェヴィキ党独裁を改めて、他政党、とりわけメンシェヴィキとの協定や連立に転じることは、不可能ではなかった。少なくとも、ソヴェト内反対政党としての諸政党の存立は、許容さるべきであった。そうすればまた、党内反対派の扱いも違ったものになったろう。しかし、そうした方向への転換の機会は、最終的に失われた一九二一年逆改革は、レーニン時代のソヴェト権力の最後の運命的な岐路であった。

〔註〕(以下は、第三節「ネップの導入と政治の逆改革」の〔註〕)

(37) レーニン 「ロシア共産党(ボ)第一〇回大会」、二三六頁。

38) 同右、二二六頁

39) 同右、二二七頁

40) P・アヴリッチ 『クロンシュタット 一九二一』、菅原崇光訳(現代思潮社)、七七〜七八頁。クロンシュタット事件に関しては、この書に多くを負っている。T・メット『クロンシュタット・コミューン』、 『クロンシュタットの叛乱』(一九七一年、鹿砦社)所収、も参照。

41) レーニン 「ロシア共産党(ボ)第一〇回大会」、一九八頁。

42) 同右、一九一頁。

43) 同右。

44) レーニン 『食糧税について』、第二九巻、三八六頁。

45) レーニン 「ロシア共産党(ボ)第一〇回大会」、一九二頁。

46) 同右、一九三頁。

47) レーニン 「ペトログラード党外労働者全市会議へ」、第三二巻、三四一頁。

48) レーニン 「運輸労働者全ロシア大会での演説」、第三二巻、二九六頁

49) レーニン 「ロシア共産党(ボ)第一〇回大会」、二三一頁

50) レーニン 「運輸労働者全ロシア大会での演説」、二八九頁。

51) レーニン 「ロシア共産党(ボ)第一〇回大会」、二〇〇頁。

52) 同右、二五六頁。

53) 同右、二〇一頁。

54) 藤井一行『民主集中制と党内民主主義』(一九七八年、青木書店)。この書は、しかし、第十回大会における党内民主主義にかんする諸決定について、@クロンシュタットの反乱の衝撃を捨象し、A他面でのいつさいの反対政党の撲減、また唯一の前衛党とその指導的役割の定式化との三位一体性を無視しており、B労働者反対派など党内反対派の側からの要求、提案との相関にも注意を払っていない。そして、党内分派の禁止をやむをえざる一時的措置として追認している。

 一面で党内民主主義の確保の措置が盛られていたとしても、それ自体が、党間民主主義の圧殺のうえに成り立っていることを直視すべきである。党内分派の禁止がやむをえざるものではなく過誤であることは、反対諸政党の根絶との不可分の関係を捉えれば明らかになる。レーニン時代のソヴェト・ロシアにおいて、より重大な意味を有したのは、党内民主主義にもまして党間民主主義のあり方であった。

 

 また、藤井『社会主義と自由』、一三〇頁、高岡健次郎「ロシア革命と一党制の形成」、中野徹三、高岡健次郎、藤井一行編著『スターリン問題研究序説』(一九七七年、大月書店)、一二一〜一二五頁、は、一九二一年春のボリシェヴィキの新政治政策、いっさいの反対政党の撲滅を狙上に載せることなく、反ボリシェヴィキ=反ソヴェトの論理のまやかしを見抜くこともなく、結局のところ、メンシェヴィキや社会革命党の反革命への転落という公式論を鵜呑みにしている。そうすることによって、時代の事実上の帰結であった一党制、「党=国家体制」の形成を、すべてスターリンの罪、一九三六年憲法の規定に帰せしめている。

 

 中野徹三「『スターリン主義』とは何か」も、「一党制を『プロレタリアートの独裁』の『基本的条件』と最初に宣言したのはほかならぬスターリン」(前掲中野他編著、五一頁)とする。これらは、あまりにも単純で一面的な把握であり、史実にも合わない。スターリンの誤りを批判するがレーニンについては無批判に美化するのでは、レーニン主義、その時代とスターリン主義、その時代の連続面を見落とし、スターリン主義の問題の深刻性、それの克服の至難性を捉えないことになる。スターリン問題の研究から進み出てレーニン主義の見直し、ソ連「社会主義」批判がすでに進捗していた時点で、これらの書が、スターリンによるレーニン主義の神格化、ソ連社会主義の神話になお強く呪縛されている面を有したのは否定しがたい。

55) レーニン 「共産主義インターナショナル第三回大会」、五二九頁。

56) レーニン 「スローガンについて」、第二五巻、二〇〇頁。

57) レーニン 「ロシア社会民主労働党(ボリシェヴィキ)中央委員会から」、第二六巻、三一四頁。

58) 第三インターの統一戦線術は、ボリシェヴィキの一党独裁が確定しメンシェヴィキや社会革命党が根絶される途上にあるソヴェト・ロシアの体制を、モデル視して、ないしその歪みを不問に付して打ちだされた。そのかぎり、策略性が歴然としており、社会民主主義諸政党がそれを受け入れるのに重大な障害があったと見られる。

59) レーニン 「小冊子『食糧税について』のプラン」、第三二巻、三四八頁。

60) レーニン 『食糧税について』、三九一頁。

61) カー 『ロシア革命』、五〇〜五一頁。アプリッチ『クロンシュタット 一九二一』によれば、「新たな抑圧の波が、当局が反乱と共謀しているといって非難してきた、メンシェヴィキ、エス・エル、およびアナーキストのうえに落ちた。より幸運なものは移住を許されたが、何千という人間がチェカの捜査網で一網打尽にされ、そして極北、シベリア、および中央アジアに追放された。その年〔一九二一年〕の終わりまでに、政治的反対派の活動的な残党は沈黙をさせられるか地下へ追いやられ、そして一党支配の地固めはほぼ完成した」(二七一〜二七二頁)。

62) レーニン 「ロシア共産党(ボ)第一〇回大会での割当徴発を税に代えることについての演説プラン」、第三六巻、六三七頁。

63) レーニン 「現在と社会主義の完全な勝利ののちとの金の意義について」、第三三巻、九九頁。

 

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