クロンシュタットの叛逆

 

A・ベルクマン

 

 (注)、これは、A・ベルクマン『クロンシュタットの叛逆』(麦社、1969年、絶版)の全文である。この英語版全文は、(関連ファイル)ABerkmanThe Kronstadt Rebellion,Berlin,1922』にある。ベルクマン(一八七〇〜一九三六)とゴールドマン(一八六九〜一九四〇)はいずれもロシヤ生まれのアメリカの代表的アナキストで、ロシヤ革命勃発とともに故国に戻ったが、ロシヤ革命のボリシェヴィキ的歪曲をまのあたり見て、ついに亡命せざるをえなかった。1994年、クロンシュタットの反乱者は、大統領令によって、名誉回復された。

 文中の傍点は、黒太字にした。ペトログラードの全市的な労働者ストライキとクロンシュタットの反乱とは密接な関係を持っている。その関連を示すために、主な日付は、私(宮地)青太字にした。

 

 〔目次〕

   1、ペトログラードの擾乱

   2、クロンシュタットの運動

   3、ボリシェヴィキのクロンシュタット攻撃

   4、クロンシュタットの目標

   5、ボリシェヴィキのクロンシュタットに対する最後通牒

   6、第一撃

   7、クロンシュタットの敗北

   8、クロンシュタットの教訓と意義−著者の追記−

   付、ゴールドマンの回想

   付、富田武『クロンシュタット反乱参加者の名誉回復』1994年大統領令

 

 (関連ファイル)          健一MENUに戻る

     『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』

     『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構(3)』

       ペトログラード労働者の全市的ストライキとクロンシュタット反乱との直接的関係

     『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機・クロンシュタット反乱

     『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』クロンシュタット反乱

     『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』電子書籍版

     『クロンシュタット水兵の要請行動とレーニンの皆殺し対応』コメントと6資料

     P・アヴリッチ 『クロンシュタット1921』クロンシュタット綱領、他

     イダ・メット   『クロンシュタット・コミューン』反乱の全経過・14章全文

     ヴォーリン  『クロンシュタット1921年』反乱の全経過

     スタインベルグ『クロンシュタット叛乱』叛乱の全経過

     大藪龍介   『国家と民主主義』1921年ネップとクロンシュタット反乱

     梶川伸一   『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』クロンシュタット反乱の背景

       食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、

       レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討

     ABerkman 『The Kronstadt Rebellion英語版全文

     Google検索  『kronstadt

 

 1、ペトログラードの擾乱

 

 一九二一年の初めであった。長い間の戦争と革命と内乱はロシヤを疲れ果てさせ、民衆を絶望の断崖にまでおい込んだ。だが、内乱はついに終った。多くの戦場が整理され、協商国側の干渉とロシヤ反革命の最後の望みであったウランゲリ軍は潰走して、彼のロシヤ国内における軍事的な活動は終りを告げた。今や民衆は信頼して苛酷なボリシェヴィキ制度の緩和を望んでいる。内乱が終ると同時に、共産主義者は民衆の負担を軽くし、戦時の束縛を廃止してなんらかの根本的な自由を招来し、より正常な生活の組織化を始めるように期待された。一般的というにはあまりに縁遠いものであったが、ボリシェヴィキ政府は、軍事的な活動が終った直後に国内の経済組織に着手するという、しばしば発表してきた計画のなかに、労働者の支持を得てきたのである。民衆は熱心に協同して、荒廃した国土の再建に自発的、創造的に努力しようとした。

 

 最も不幸なことは、これらの期待が失望であったことである。共産主義政府は束縛から解放するための意志を少しも示さなかった。同じような政策が維持され、それとともに労働の軍事化はいっそう民衆を奴隷化し、なおはなはだしくなった圧迫と狂暴は民衆を悲惨にした。そして、その結果、産業復興のあらゆる可能性を縮少してしまった。プロレタリアートの最後の望みは消滅した。共産党は革命を救うよりも、政権を保持することに関心を持っているという確信が強まった。

 

 ロシヤの最も革命的な分子であるペトログラードの労働者がまず口火を切った。彼らはなによりもまず、ボリシェヴィキの中央集権や官僚主義、農民や労働者に対する専制的な態度が、民衆の多くの悲惨や難局に直接的に責任を負うべきであると非難した。ペトログラードの多くの工場や仕事場は閉鎖され、労働者たちは文字どおり飢えていた。彼らはその窮状を考慮するために集会を開いた。集会は政府によって抑圧された。革命戦争の難局にぶつかって、大きな犠牲と勇敢な行為によってのみ市街をユーデニッチの手から救ったペトログラードのプロレタリアートは、政府の行動に憤慨した。ボリシェヴィキのやり方に対する反感は日ましにはげしくなった。さらに多くの集会が催されたが、同じ結果であった。共産主義者はプロレタリアートにどんな譲歩もあえてしないだけでなく、ヨーロッパとアメリカの資本家に妥協を申し込んでいたのだ。労働者は激怒した―彼らは目覚めた。彼らは自分たちの要求を政府に考慮させるために、パトロニィ軍需工場、トルボツチニィ、バルライスキおよびラフェルムの各工場でストライキを起した。「労働者と農民の政府」は、この不満を持った労働者と話しあうかわりに、ペトログラードで最も憎恵の的となっているジノヴィエフを委員長とするコミテッテ・オボロニー(戦時防衛委員会)を創設した。この委員会の目的はストライキ運動を公然と鎮圧することであった。

 

 二月二四日、ストライキが宣言された。同じ日、ボリシェヴィキは、クルサンティとよばれている軍事大学(陸海軍士官教練所)の共産党学生を派遣して、ペトログラードの労働者街であるワシレフスキィ・オストロフに集合していた労働者をけちらかさせた。

 翌日、二月二五日に、激怒したワシレフスキィ・オストロフの罷業労働者は海軍工廠とガレルナヤの船渠におしかけて、そこの労働者たちに、政府の独裁的な態度に対する抗議運動に参加することを勧めた。ストライキに加わっている労働者がこころみた街頭示威行列は武装した軍隊にけちらされた。

 

 二月二六日、ペトログラード・ソヴェトは会議を開き、その席上で、有名な共産主義者ラシェヴィッチ―防衛委員会および共和国革命軍事ソヴェトの一員―は、このストライキ運動を口をきわめて非難し、トルボツチニィ工場の労働者を扇動罪で起訴し、彼らを「利己主義的な強奪者で、反革命主義者だ」とののしって、トルボツチニィ工場の閉鎖を提案した。ジノヴィエフを委員長とするペトログラード・ソヴェトの執行委員会はその提案を承認した。トルボツチニィの罷業労働者はロックアウトされ、賃銀は剥奪されてしまった。

 

 ボリシェヴィキ政府のこうしたやり方は、労働者をいっそうみじめにし、叛逆させるのに役立ったのである。

 罷業労働者の檄文が今やペトログラードの街に現われ始めた。明らかに政治的な性質を帯びたものもなかにはあった。

 

 二月二七日、街の壁にはり出されたものはその最もいちじるしい例である。それは次の通りである。

 現政府の政治の完全な変革が必要だ。なによりまず労働者と農民は自由を要求する。彼らはボリシェヴィキの命令によって生活することを望まない。彼らはみずから自分の運命を支配することを望む。

 同志よ、革命の秩序を保て! 断固として結束して要求せよ!

 逮捕されたすべての社会主義者、すべての非党員である労働者の釈放を!

 戒厳令の撤廃を、働く者のすべてに言論、出版、集会の自由を!

 仕事場、工場の委員(ザーフコミ)、労働組合およびソヴェトの代表の自由選挙を!

 集会を開け! 決議を通過させろ! 官憲に諸君の代表者をおくって諸君の要求実現のために闘え!

 

 政府は罷業労働者の要求に無数の逮捕と労働諸団体への弾圧で応じた。大衆の激怒から生じた行動は日をおってますます反ボリシェヴィキ的となった。反抗的なスローガンが聞え始めた。

 

 かくて、二月二八日、国民集会を要求する「ネフスキイ地方社会主義労働者」の宣言が発表された。

 われわれは国民集会を恐れるものが誰であるかを知っている。それは、もはやこれ以上民衆を搾取できないものである。彼らが民衆代表の前に在って、彼らの欺瞞に、彼らの強奪に、そして彼らのあらゆる罪悪に答えなければならないよりも、むしろそのかわりに、

 憎むべき共産主義者をやっつけろ!

 ソヴェト政府をたたんでしまえ!

 国民集会万才!

 

 まもなく、ボリシェヴィキは地方からペトログラードに大部隊の兵力を集中し、また、最も信頼する共産主義者の連隊を戦地からこの街によびもどした。ペトログラードは「特別戒厳令」の下におかれた。罷業労働者は威圧され、労働者の擾乱は鉄の腕で粉砕された。

 

     『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構』

       ペトログラード労働者の全市的ストライキとクロンシュタット反乱との関係

 

 

 2、クロンシュタットの運動

 

 クロンシュタットの水兵たちは、ペトログラードで起りつつある事件でひどくざわついていた。彼らは罷業労働者に対する政府の苛酷なやり方を、好意の眼で見ることはできなかった。彼らは首都の革命的なプロレタリアートが革命の最初の日以来耐えねばならなかったものを知っていた。また、彼らがユーデニッチに対していかに勇敢に戦ったか、いかに窮乏と悲惨にしんぼう強く悩みつづけてきたか知っていた。だが、クロンシュタットはペトログラードでやかましく言われている国民集会だとか自由貿易の要求などには全く反対であった。水兵たちは精神においても行動においても徹底して革命的であった。彼らはソヴェト制度の最も忠実な支持者であったが、どんな政党の独裁にも反対を唱えた。

 

 ペトログラードのストライキの同情運動はまず戦艦ペトロバヴロフスク号とセヴァストポル号(ともに一九一七年のボリシェヴィキの主力艦)の水兵の間に起った。この運動はクロンシュタットの全艦隊にひろがり、次いでそこに駐屯していた赤衛軍の連隊に伝わった。

 二月二八日、ペトロパヴロフスク号の水兵は一つの決議を可決したが、それはまた、セヴァストポル号の水兵の支持をえた。その決議のなかには在職期間がほぼ満期になっていたクロンシュタット・ソヴェトの自由再選の要求がふくまれていた。同時に、水兵から選ばれた一委員は事情調査のためペトログラードに派遣された。

 

 三月一日、バルチック艦隊の第一および第二分艦隊の乗船員によって、クロンシュタットのヤルコニイ広場に公然として民衆大会が開かれた。一六、〇〇〇名の水兵、赤軍兵士、労働者が集まった。大会はクロンシュタット・ソヴェト執行委員長で共産主義者のワシリエフが司会した。ロシヤ社会主義共和国連邦大統領カリーニン、バルチック艦隊挺督クズミンが出席し、聴衆に演説しようとした。だが、カリーニンがクロンシュタットに到着したときに捧げ銃や軍楽隊や軍旗でむかえられたことは、ボリシェヴィキ政府に対する水兵たちの好意ある態度の表示であったとも言えよう。

 

 この会合に、二月二八日にペトログラードに派遣されていた水兵委員会が報告をよせた。それはクロンシュタットのはなはだしい不安をいやがうえにもあおった。ペトログラードの労働者のきわめて穏健な要求を一蹴した共産主義者の仕打ちに対して、聴衆は憤怒の念を少しもかくさなかった。それで、二月二八日、ペトロパヴロフスクの乗組員が可決した決議がこの集会に提出された。大統領カリーニンと提督クズミンとはこの決議を激しく攻撃して、クロンシュタットの水兵たちのみだけでなく、ペトログラードの罷業労働者の罪を責めた。だが、二人の議論は聴衆を満足させることができず、ペトロパヴロフスクの決議は満場一致で通過した。その歴史的な文書は次の通りである。

 

 一九二一年三月一日、バルチック艦隊第一および第二分艦隊海兵総会の決議

 海兵総会によってペトログラードへそこの状況を調査するため派遣された代表の報告を考え、われわれは次のように決議する。

 1、現在のソヴェトが労働者および農民の意志を代表しない事実にかんがみて、労働者および島民間の討論の絶対的な自由を獲得するため、無記名投票による選挙のやりなおし、予選運動を行うこと。

 2、労働者、農民、アナキストおよび左翼社会党のため、言論、出版の自由を確立すること。

 3、労働組合および農民団体のために集会の自由を確保すること。

 4、どの党にも属さない労働者、赤軍兵士、ペトログラードおよびクロンシュタットの水兵、ならびにペトログラード県の大会を、一九二一年三月一〇日までに召集すること。

 5、労働運動ならびに農民運動に関連して拘留されている労働者、農民、兵士および水兵、ならびに社会党に属するすべての政治犯を釈放すること。

 

 6、監獄および戦地衛成監獄収容所の再審のため委員会を選挙すること。

 7、いかなる団体にもその思想宣伝に関して特権を与えず、その目的で政府の財政的な支持を受けさせないために、すべてのポリトツデリ(政治的省局)を廃止すること。

 8、すべてのザグリアディテルニエ・オトリアディ(注)をただちに廃止すること。

 9、健康上有害な職業に従事するものをのぞいてすべての労働に対して同額の日給を支給すること。

 10、軍隊の各部門における共産主義者の戦闘部隊、ならびに各工場を監視する共産主義者の衛兵を廃止すること。もしこのような衛兵または戦闘部隊が必要なときは、軍隊では兵卒、工場では労働者の意向で指名されること。

 

 11、農民に彼らの土地に関する処置の絶対的な自由を与え、また農民が自分の手で管理すること―すなわち、雇傭労働者を使用しないことを条件として、家畜を飼養する権利を与えること。

 12、軍隊の各部隊ならびにわれわれの同志クルサンティに対し、われわれの決議に同意することを要求する。

 13、各新聞がわれわれの決議を広く一般に報道することを要求する。

 14、移動する管理委員会を設置すること。

 15、各人みずからの労働によってクスタルノエ生産(小規模の個人的生産)の自由を許可すること。

 右の決議は左記両名の投票不参加を除いて、満場一致で可決された。

                         旅団会議議長 ペトリチェンコ

                         同書記 ペレベルキン

 右の決議はクロンシュタット守備兵の圧倒的な多数で可決された。

                         議長 ワシリエフ

 同志カリーニンとワシリエフはこの決議に反対した。

 ()Zagryaditelniye otyradi交易を禁止し、食料品その他の生産物を没収する目的で、ボリシェヴィキが組織した武装団体。彼らのやり方の無責任と専横はすでに国内に広く知られていた。クロンシュタットを攻撃する前夜、政府はペトログラード県のそれを廃止した。――それはペトログラードのプロレタリアートに対するごきげんとりの手段であった。

 

 すでに述べたように、カリーニンとクズミンが極力反対したにもかかわらず、彼らの抗議を粉砕して可決された。閉会後、カリーニンは無事にペトログラードへ帰ることが許された。

 この同じ旅団会議ではペトログラードへ委員を派遣することも決議された。それは、そこの労働者や守備兵にクロンシュタットの要求を説明し、同時に事件の真相と水兵の要求を知るために、ペトログラードのプロレタリアートが、党派に関係ない代表をクロンシュタットへ送るように依頼するためであった。三〇名から成るこれらの委員たちはペトログラードでボリシェヴィキに逮捕された。それがクロンシュタットに対して共産主義政府が与えた最初の打撃であった。彼ら委員の運命はいまだに謎のままである。

 

 クロンシュタット・ソヴェト委員の任期が満了に近づいたので、近く行なわれるべき新しい選挙方法を討議するために、旅団会議は三月二日に代表者評議会を開くことを決定した。その評議会は、軍艦、守備兵、各種のソヴェト機関、労働組合および工場など、各団体から二名ずつ選出された代表で組織された。

 

 三月二日、評議会は、元クロンシュタット機関学校であった教育省で行なわれ、三〇〇名の代表が出席し、なかには共産主義者もやはりいた。会議は水兵ペトリチェンコが司会し、五名の執行委員が口頭選挙で選ばれた。代表たちの主な議題は、クロンシュタット・ソヴェトの近づきつつある新選挙を、従来よりももつと平等の原則にもとづいて行うことであった。この会議は三月一日の決議を実施し、飢餓と燃料不足による絶望状態から国家を救出すべき方法手段をも考慮した。

 

 評議会の精神は一貫してソヴェト主義者の精神であった。すなわち、クロンシュタットはソヴェトがいかなる党派の干渉をも受けないことを要求した。労働者と農民の要求と意志を事実において反映し、表示すべき政党なきソヴェトを要求した。代表の態度は官僚的な委員の専横な支配には反対であったが、共産党そのものには友好的であった。彼らはソヴェト制度の忠実な信奉者であり、穏健な、平和な手段でさしせまった問題の解決を見出そうと努力していた。

 

 評議会で最初に演説したのはバルチック艦隊の提督クズミンであった。彼は判断力よりも鋭気の方が強い人なので、この危機の重大な意義を把握するのに全く失敗した。彼はその地位に耐え得る人物ではなかったのである。革命のために身も心も投げ出し、今ではもう疲れ果てて絶望のどん底に追いやられた水兵や労働者のような素朴な人々の心にどうして触れたらいいか、彼は少しも知らなかった。代表たちは集って政府の委員と協議していた。が、クズミンの演説は火薬のなかに投げこまれた炬火であった。評議会は彼の尊大と倣慢に激昂した。彼は、街は静穏だし、労働者は満足していると述べて、ペトログラードの労働者の騒動を否認した。彼は執行委員の処置をほめちぎり、クロンシュタットの反乱の動機を攻撃し、ポーランドからやって来る危険を警告した。卑屈にも彼は見苦しい諷刺を用いたり、大声でしかりつけておどしつけたりした。クズミンはこう結論した。「もし諸君が戦争を始めるつもりなら、やるがいい。共産党はけっして政権を譲りわたしはしないから。おたがいに最後の一人まで戦おうではないか。」

 

 バルチック艦隊提督のこの拙劣な毒々しい演説は代表たちを侮蔑し凌辱した。次に立ったクロンシュタット・ソヴェトの議長で共産主義者のワシリエフの演説は、聴衆になんらの印象も与えなかった。彼はどちらつかずで、冷淡であった。会議が進行するにつれて、一般の態度はますますはっきりと反ボリシェヴィキになってきた。代表たちは政府代表とある程度の諒解を得るだろうわずかの望みを持っていた。だが公報(注)に掲げられたように、まもなく次のことが明らかになった。「われわれは同志クズミンとワシリエフをこれ以上信頼することができなくなった。共産党が武器を持っているかぎり、そしてわれわれが電話の便宜さえ得られぬかぎり、彼らを一時監禁する必要に迫られていた。この集会で読みあげられた手紙でもわかるように、兵士たち(クロンシュタットの)は執行委員を恐れ、共産党は守備兵の集会を許さなかった。」

 ()、クロンシュタット臨時革命委員会の報告、『イズヴェスティア』第九号(一九二一年三月一二日発行)による。

 

 そこでクズミンとワシリエフは集会から退席を命ぜられ、拘束された。しかし、他の出席している共産主義者を監禁すべきだという動議が大多数で否決されたことは、この集会の精神で特筆すべき点であった。代表たちは共産主義者が他の諸団体の代表と同等の資格を持つべきであり、同等の権利と待遇を受けるべきであると決議した。クロンシュタットはいまだに共産党およびボリシェヴィキ政府と何らかの協定を見出そうと期待していた。

 

 三月一日の決議が朗読され、熱狂のうちに可決された。その瞬間である。ボリシェヴィキが集会を襲撃しようとして小銃と機関銃で武装し一五台のトラックに乗った兵隊と共産党員が出動したという一代表の報告によって、集会は大きく動揺した。「このニュースに」と『イズヴェスティア』の記事はつづけた。「代表たちは激怒した。調査の結果、まもなくそれが事実無根であることが判明したが、かの名うてのチェカの隊長ドルキスの指揮するクルサンティの連隊が、クラスナイア・ゴルカ要塞をめざしてすでに進軍しつつある、という風説は容易に打ち消すべくもなかった。」 こうして次々に伝わってくる情勢を考慮し、またクズミンやカリーニンの威嚇を思い出して、委員会はただちに、ボリシェヴィキの襲撃にそなえるためにクロンシュタット防衛軍を組織することを相談した。そうこうしている間にも時間は迫りつつあった。そして、集会の権限を臨時革命委員会にうつし、首都の安寧秩序を維持する義務を負わせることに決定した。この委員会はまたクロンシュタット・ソヴェトの新しい選挙を行うに必要な準備をすることになった。

 

 

 3、ボリシェヴィキのクロンシュタット攻撃

 

 ペトログラードの状態は極度に緊張していた。新しいストライキが起り、モスクワに労働者の騒乱が起った、あるいは、東部地方やシベリアに農民一揆が起ったという風説が絶えず伝わった。信頼すべき情報が欠けていたため、民衆はきわめて誇張された、もしくは明らかに流言にすぎない報告さえ信じた。あたかも時局の進展を予想するかのごとく、すべての人々の眼がクロンシュタットにそそがれていた。ボリシェヴィキは時を移さずクロンシュタット攻撃を開始した。

 

 すでに、三月二日、クロンシュタットの運動を、ミアテズ、すなわち共産主義政府に叛旗をひるがえしたものとして、レーニンとトロツキーの署名したプリカーズ(命令書)が発せられた。この文書では、水兵たちは「プロレタリア共和国に対する反革命的な陰謀をくわだてた社会革命党員と共謀したかつての帝政主義者の将軍どもの手先である」と告発されていた。クロンシュタットの自由ソヴェト運動は、レーニンとトロツキーによると、「協商国側の干渉とフランスのスパイの仕事」であった。プリカーズには次のように書かれていた。「二月二八日、百人組の息がかかった決議をペトロパヴロフスクの水兵が可決した。やがて舞台には前総督コズロフスキー一派が登場した。彼とその手下の三将校―氏名はまだわからない―が公然と蜂起を指揮している。このように今回の事件の真相はきわめて明白である。社会革命党員の背後にはやはりツアーの将軍がいる。これらすべての点からして、労働委員会と防衛委員会は次のように命令する。(1)、前将軍コズロフスキーとその協力者の公権を剥奪する。(2)、ペトログラード市とペトログラード県に戒厳令を布告する。(3)、ペトログラード防衛委員会はペトログラード地方一帯に至上権をもって対処する。」

 

 たしかに前総督コズロフスキーはクロンシュタットにいた。彼を砲学専門家としてそこへ任命したのはトロツキーであった。彼はクロンシュタットの事件には全く関係していなかったが、ボリシェヴィキは彼の名を巧妙に利用して、水兵たちがソヴェト共和国の敵であり、彼らの運動が反革命であると非難した。ボリシェヴィキの御用紙は今やクロンシュタットが「コズロフスキーによって指揮された白色陰謀」の温床であると中傷し、挑戦を開始した。そして、ペトログラードやモスクワの工場労働者として派遣された共産党員の扇動者はプロレタリアートに「クロンシュタットに起りつつある反革命暴動に対抗して労働者と農民の政府を支持し防衛するために団結せよ」とさけんだ。

 

 クロンシュタットの水兵たちは、将軍どもや反革命主義者と行動をともにしないだけでなく、社会革命党からさえも援助を受けることを拒否した。ちょうどそのときにレヴァルにいた社会革命党の領袖ヴィクトル・チェルノフは、党とその要求のために水兵たちに加担しようとしたが、臨時革命委員会は全く賛成しなかった。チェルノフはクロンシュタットに次のような無線電信をおくった。

 

 国民議会議長ヴィクトル・チェルノフは、一九〇五年以来三度蜂起して、暴政の桎梏を打破しようとしているわが勇敢な同志水兵諸君、赤軍兵士および労働者諸君に親愛なる挨拶をよせるものである。私はクロンシュタットに広くロシヤの各協同組合の手を通じて人と糧食を提供しようとしている。何が、どれくらい必要か知らせてくれ。私が自ら当地へ行って私の力と職権で民衆革命につくす覚悟である。私は労働大衆の最後の勝利を確信する。民衆解放の旗を掲げる最初のものに栄光あれ! 諸君の周囲から専制を一掃せよ!

 

 同時に、社会革命党は次のメッセージをクロンシュタットに送った。

 わが社会革命党の委員は、今や民衆の憤怒が充満しているこのときに、自由と民衆の政府のための闘争にあらゆる手段をつくして援助する。いかなる方法での援助を希望するか知らせて欲しい。民衆革命万才! 自由ソヴェト万才! 国民議会万才!

 

 クロンシュタット革命委員会は、この社会革命党の提議を拒否した。そしてヴィクトル・チェルノフに次のように返電した。

 クロンシュタット臨時革命委員会は広く私たちのすべての兄弟に対し、その同情に深甚なる謝意を表する。臨時革命委員会は同志チェルノフの申し出を感謝する。しかし今はそれを辞退する。さらに時局が進展してはっきりするまでは、今しばらくの間、そっとしておいて欲しい。

                 臨時革命委員会議長ペトリチェンコ

 

 だが、モスクワでは、なお、でたらめの宣伝戦がつづけられていた。

 三月三日、ボリシェヴィキの無電放送局は次の電報を世界へ送った。(他の放送局と混線して聴取できなかった部分もある。)

 ……前将官コズロフスキーの武力蜂起がこれまでの同じような多くの陰謀とひとしく、連合軍のスパイによって起されたことは、コズロフスキーの暴動に先立つ二週間前に、フランスのブルジョア新聞『マタン』に掲載された次のようなヘルシングフォルス電報によって明らかである。「今回のクロンシュタット暴動の結果、ボリシェヴィキの軍務当局はクロンシュタットを孤立させ、クロンシュタットの水兵と兵士のペトログラード侵入を妨げるための手配をした。」……クロンシュタットの暴動がパリで準備され、フランスのスパイによって組織されたことは確かだ。……同じくパリから統御され指令を受けている社会革命党員がソヴェト政府に対して叛乱を企てつつあり、その準備が完了するや否や、真の指揮者である帝政主義者が現われた。モスクワから発せられた他の多くの通信がどんなものであるかは、左の無線電信によって判断することができよう。

 

 ペトログラードは秩序正しくかつ平穏である。ソヴェト政府を非難した二、三の工場さえ、それが煽動者のしわざだということを諒解したと最近声明した。彼らは連合軍や反革命家の手先が彼らをどこへ導こうとしているかを知っている。

 ……ちょうどこの時、アメリカで新しく共和党が政権を握って、ソヴェト・ロシヤと通商関係を結ぼうとしている時、でたらめの風説を流し、クロンシュタット暴動を組織化する唯一の目標は、アメリカの新大統領をそそのかしてロシヤに対する彼の政策を変えさせようということである。同時にロンドン会議が開会され、同様の風説はまたトルコ代表をそそのかして連合国側の要求に対して更に従順にさせたにちがいない。ペトロパヴロフスク乗組員の叛逆はソヴェト・ロシヤに内乱をひき起して、われわれの国際的な地位を傷つけようとする大陰謀の一部にすぎないことは疑いない。……この計画はロシヤ国内においては帝政主義者の将軍とかつての将校たちによって実行されたもので、彼らの背後にはメンシェヴィキと社会革命党が動いている。

 

 議長ジノヴィエフを首領とするペトログラード防衛委員会はペトログラード市とペトログラード県を完全に支配した。北区一帯には戒厳令が布かれ、すべての集会が禁止された。政府の建物は特別警衛が担当し、ジノヴィエフ以下ボリシェヴィキ高官の宿泊するホテル、アストリアの屋内には機関銃がすえつけられた。街頭の掲示板にはり出された布告は、すべての罷業労働者にただちに工場へもどることを命じ、作業中止を禁じ、市民が街頭で集会することに対して警告していた。「このような場合には軍隊は武器に訴える。命令に服さないものはただちに射殺に処す」とその布告に書かれていた。

 

 防衛委員会は組織的な「市民の一掃」に着手した。クロンシュタットに同情を寄せた嫌疑を受けて無数の労働者、兵士、水兵が逮捕された。「政治的に信用できない」ペトログラードの水兵全部と陸軍の数個連隊は遠隔地への派遣を命ぜられ、一方において、ペトログラード在住のクロンシュタット水兵の家族は「人質として」拘引された。

 

 三月四日、防衛委員会は市の上空に飛行機から次のような布告文をまいた。「わが防衛委員会は、バルチック艦隊提督NN・クズミン、クロンシュタット・ソヴェト議長T・ワシリエフその他の共産主義者の人質として逮捕者を監禁しておくことを宣言する。もし諸君が彼らを少しでも傷つけるならば、人質は彼らの生命でつぐなわれるであろう。」

 「われわれは流血を好まない。われわれは共産主義者を一人だって殺してはいない。」これがクロンシュタットの回答であった。

 

 

 4、クロンシュタットの目標

 

 クロンシュタットの生活は新たによみがえった。革命的な情熱は水兵たちの献身と努力が確固たる役割を演ずるようになった、あの十月革命の日の高さにまで燃えあがった。今や、共産党が革命の絶対的な支配とロシヤの運命を掌握するようになった日以来、クロンシュタットははじめて彼ら自身の自由を感じたのである。相互扶助と友愛の精神は水兵を、守備隊の兵士を、工場の労働者を、そしていずれの党派にも属しない人々を彼らの共通の目的のために団結させた。共産主義者でさえもこの全市をおおう親しい結合に動かされ、迫りつつあるクロンシュタット・ソヴェトの選挙の準備行動に参加したほどであった。

 

 臨時革命委員会の第一の仕事のなかに、クロンシュタットにおける革命的な秩序の維持と、委員会の機関紙である日刊『イズヴェスティア』の発行とがあった。クロンシュタットの民衆に訴えた最初のもの(一九二一年三月三日に第一号が発行された)は、一貫して水兵の態度や気持ちを現わした特色あるものであった。それには次のように書かれていた。「革命委員会は流血の惨事がないようにできるかぎり注意する。委員会は市街、要塞、堡塁内の革命的な秩序を維持するために最善の努力を払った。同志および市民諸君、仕事を中止するな! 労働者諸君は諸君の機械から離れるな。水兵および兵士諸君は諸君の持場につけ。ソヴェトのすべての役員とその機関は仕事をつづけてくれ。同志および市民諸君、臨時革命委員会は諸君のすべてに支持と助力をお願いする。その使命は諸君の親密な協力によって、新ソヴェトの公平な正しい選挙に必要な状態を組織することである。」

 

 『イズヴェスティア』の紙面は、クロンシュタットの民衆が革命委員会に深い信頼の念を示し、共産党の官僚的な圧迫から脱して真の解放の道へ向うべき自由ソヴェトへの熱望を示す証言にあふれている。この日刊機関紙において、革命委員会は憤然としてボリシェヴィキの中傷を怒り、くり返しくり返してロシヤと全世界のプロレタリアートに、理解と同情と助力とを訴えた。

 

 三月六日、無線電信はクロンシュタットの要求の主眼点をよくつかんでいる。

 われわれの動機は正当だ。われわれはソヴェトの権限に味方するのであって、党派に味方するのではない。われわれは労働大衆によって自由に選挙されるべき代表を支持するのだ。共産党によって操縦されるエセ・ソヴェトは常にわれわれの必要な要求をききいれない。そして唯一の返答としてわれわれの受けたものは銃殺である。……同志諸君! 彼らは諸君をだますだけでなく、黒を白とし、最も卑しむべき誹謗を武器とするのだ。‥‥‥クロンシュタットでは全勢力はことごとく革命的な水兵、兵士および労働者の手中にある。―モスクワの無線電信が虚報を放送して諸君に信じこませようとたくらんでいるように、コズロフスキーどもに指導された反革命主義者は断じて味方のなかにはいない。……同志諸君、ためらうな! われわれと結合せよ、われわれと隊列をくめ。クロンシュタットに諸君の代表を送ることを要求せよ。彼らのみが諸君に真相のすべてを語るであろう。フィンランドから食糧を受け取ったとか、連合軍側の後押しがあるとか、非道きわまる非難をあばくであろう。

 革命的プロレタリアートおよび農民万才!

 自由選出ソヴェト万才!

 

 臨時革命委員会は最初その本部を旗艦「ペトロパヴロフスク」においたが、数日後クロンシュタットの中心にある「民衆会館」に移された。それは『イズヴェスティア』にも書いてあるように、「民衆と密接な関係を保ち、艦上にあるときよりももっと委員会に民衆を近づけさせるため」であった。共産党の新聞がクロンシュタットを「コズロフスキー総督の反革命的叛乱」だと毒々しいその罵言を止めないにもかかわらず、事実は、革命委員会は大部分が有名な革命的な経歴をもつ労働者より構成された本当のプロレタリアートであった。委員会は左の一五名から成る。

 

 1、ペトリチェンコ (旗艦「ペトロパヴロフスク」高級書記)

 2、ヤコヴェンコ (クロンシュタット区電話交換手)

 3、オスソソフ (「セヴァストポル」機関兵)

 4、アルヒポフ (技師)

 5、ペレベルキン (「セヴァストポル」職工)

 6、パトルシェフ (「ペトロパヴロフスク」職工監督)

 7、クーポロフ (高等看護卒)

 8、ヴェルシニン(「セヴァストポル」水兵)

 9、ツーキン (電気工)

 10、ロマネンコ (格納庫番人)

 11、オレーシン (第三工業学校管理者)

 12、ヴァルク(木挽工)

 13、パヴロフ (海軍水雷敷設夫)

 14、バイコフ (荷馬車夫)

 15、キルガスト (潜水夫)

 

 彼らの間柄についてクロンシュタットの『イズヴェスティア』はいくらかユーモアを用いないでもなかった。「これがわれわれのトロツキー、ジノヴィエフ将軍閣下たちだ。ブルシーロフ、カーメネフ、トハチェフスキー、およびその他の帝政時代の名士貴顕は君たちの方だ。」

 

 臨時革命委員会はクロンシュタットの全民衆に信頼された。また、「何人にも特権を与えず、万人に平等の権利を」という原則を樹立し、それを厳重に守ったことによって民衆の信頼をかちえた。パピョク(一日分の食糧)は平等にされた。ボリシェヴィキの支配下にあったときには常に労働者よりもはるかに多くの支給を受けていた水兵たちは、一般市民や労働者より多く受けることを自発的に拒絶した。特別の食料や珍しいものは病院と子供のある家庭にのみ与えられた。

 

 クロンシュタットに住む共産党員―ボリシェヴィキが水兵たちの家族を抑圧し監禁したにもかかわらず、彼らのうち逮捕されたものはきわめて少数であった―に対する革命委員会の公平かつ寛大な態度は共産党員の尊敬さえもかちえた。『イズヴェスティア』に転載されたクロンシュタットに住む共産党諸団体からのおびただしい書簡は、中央政府の態度を非難し、臨時革命委員会の立場と処置を裏書きしたものであった。クロンシュタットの多数の共産党員は党の専制と官僚的な堕落に反抗して、公然と党から脱退した旨を声明した。『イズヴェスティア』のどの号にも、彼らのうちの誰かが言ったように、「死刑執行人トロツキーの党にとどまる」ことを良心がゆるさなくなった数百名の共産党員の名前が見い出される。共産党を去るものはまたたくまに増加して脱退が一般的となった(注、ロシヤ共産党執行委員会はそのクロンシュタット支部員がはなはだしく「堕落」したことにかんがみて、クロンシュタットの敗北後、全クロンシュタットの共産党員の再登録を命じたほどであった)。次にかかげる手紙は数多くのなかから手あたり次第に選び出したものだが、いずれもクロンシュタット共産党員の気持を如実に表わしている。

 

 私は今になって共産党の政策がこの国を望みなき、出口のない袋小路に引きずりこんだことを知った。党は官僚的となった。それは何物をも知らず、また知ろうともしないのだ。一億一五〇〇万の農民に耳を傾けることを拒んでいる。言論の自由、および新しい選挙法によってこの国の再建設にあずかるべき機会の自由のみが、わが国土を昏睡状態から救い出しうることを考えようともしないのである。私は今後、ロシヤ共産党員の一員たることを拒絶する。私は三月一日の全市民大会で通過した決議に衷心から賛成する。そしてこれ故に、私は私のエネルギーと能力とを臨時革命委員会の処理にゆだねる。

                一九三人裁判(注)によって追放された政治犯人の子

                赤軍士官(クラスニ・コマンディール)

                ヘルマン・カーネフ

               (一九二一年三月五日発行の『イズヴェスティア』第三号所載)

 (注)、有名な一九三人裁判は、ロシヤ革命運動の初期に起ったもの。一八七七年末に始まり、翌年一月までつづいた。

 

 工業学校、赤軍および海軍学校のわが学生諸君に与う

 ほとんど三〇年間、私は深い民族愛のなかで生活し、今日にいたるまで、私の力の及ぶかぎりで光明と知識を、それに飢えている人々に提供してきた。一九一七年の革命は私の仕事に広い展望を与え、私を力づけてくれた。そして私は私の理想を実現するために非常に精力的に努力したのである。

 共産党の「民衆のためにすべてを」というスローガンはその崇高さと美しさで私を鼓舞した。私は一九二〇年二月、志願して共産党に入った。だが平和な民衆に対して、クロンシュタットに七〇〇〇人もいる私の心から愛する子供たちに対して「第一撃」が向けられたとき、かくして流された罪のない民衆の血に対して責任を分たねばならないと考えると、私は恐怖でいっぱいになった。私はもはや残忍な行動によって自らを恥かしめるようなことを信ずる気にもなれないし、また宣伝する気にもなれない。だから私は第一撃とともに私を共産党の一員として認めることをやめる。

                教師マリア・ニコラエフ・シャテル

                (一九二一年三月五日発行の『イズヴェスティア』第六号所載)

 

 こういう通信が『イズヴェスティア』にほとんど毎号現われた。わけても最も顕著な例は、共産党クロンシュタット支部臨時事務局の声明書である。

 三月四日発行の『イズヴェスティア』第二号に、党員に与えられたこの声明書は発表された。

 ……わが党のすべての同志に、現在という時点が重要であることをお知らせしたい。

 共産主義者が砲撃しつつあるとか、クロンシュタットの共産党員が武力に訴えようとしているとかいう、でたらめの風説を信じないでくれ。そういう風説が流血の原因となるのだ。われわれは宣言する。わが党は常に労働者および農民ソヴェトの権力の敵―その公然の敵たると未知である敵たるとを問わず―に対抗して、攻撃される労働階級を防衛してきた、また今後もそうするであろう。

 クロンシュタット共産党支部臨時事務局は、ソヴェトの新選挙の必要を認め、共産党員がその選挙に参加すべきことを要求する。

 わが共産党臨時事務局は党員各自がその地位を放棄することなく、また臨時革命委員会のとる手段に対し絶対に妨害もしくは干渉しないことを命ずる。

 ソヴェト権力万才!

 労働者の国際的団結万才!

                ロシヤ共産党クロンシュタット支部臨時事務局

                F・ベルグーシン

                Y・イリイイン

                A・ガバノフ

 

 同様に、その平和的であると軍事的であるとを問わずに、他の各種の団体はモスクワの統治に反対し、クロンシュタットの水兵の要求に完全に賛同することを表明した。クロンシュタット駐屯軍と要塞勤務の赤軍連隊もまた同趣旨の多くの決議を可決した。次に示すものは、彼らに共通した精神と傾向を表わしている。

 

 われわれ「クラスノアルメーツ」要塞の赤軍兵士は臨時革命委員会に対し完全に賛意を表し、あくまで革命委員会、労働者および農民を防衛しようとするものである。飛行機からまかれた共産主義者のでたらめの布告文を信ずるな。ここには将軍どもも帝政時代の士官もいないのだ。クロンシュタットは常に労働者と農民の街であり、またそうあるであろう。将軍どもはむしろ共産党に加担しているのだ。

 ……国家の運命がいずれとも決しないこのときにあたって、権力をわれわれの手に収め、革命委員会に戦闘の指導をゆだねたわれわれは、守備隊および労働者のすべてに、労働大衆の自由のために死を決意していることを声明する。三年間にわたる長い共産主義者の桎梏と恐怖より脱して、われわれはたとえ死のうとも、一歩も退かない。労働大衆の自由なロシヤ国万才!

                「クラスノアルメーツ」要塞兵

               (一九二一年三月七日発行の『イズヴェスティア』第五号所載)

 

 クロンシュタットは自由ロシヤに対する熱愛と真のソヴェトに対する無限の信頼に鼓舞された。クロンシュタットは全ロシヤ、特にペトログラードの支持を得つつ、かくしてこの国の徹底した解放をもたらすことを確信していた。クロンシュタットの『イズヴェスティア』はこの情勢と希望をくり返して述べ、多くの論説や主張によって、ボリシェヴィキに対する立場と、クロンシュタットならびに全ロシヤのための新しい自由な生活の基礎を定めようとする抱負を明らかにしようと努力した。この偉大な抱負、この動機の純粋さ、熱烈な解放の希望は、クロンシュタット臨時革命委員会の機関紙の紙上でなまなましく浮きあがり、兵士、水兵、労働者たちの精神を一貫して表現している。ボリシェヴィキの新聞の毒々しい攻撃、モスクワ無線電信局から放送される、クロンシュタットを反革命であり白色陰謀であると非難する破廉恥な虚偽に対して革命委員会は堂々たる態度で応酬した。委員会は、ボリシェヴィキがいかにはなはだしく堕落したかをクロンシュタットの民衆に知らせるため、その機関紙にしばしばモスクワ側の声明書を転載した。

 

 三月八日発行の『イズヴェスティア』第六号は、「われわれと彼ら」なる見出の下に、時たま、共産党のやり方をさらけ出しているが、その憤激は正しい。

 彼らの手中から没落しつつある勢力をいかにして挽回すべきかを知らずして、共産主義者は醜劣きわまる煽動手段に訴えている。彼らの卑しむべき新聞は全力をあげて大衆を扇動し、クロンシュタットの運動を白色防衛の陰謀であると信じさせようとしている。今や厚顔無恥な無頼漢一味は世界に「クロンシュタットは自らをフィンランドに売った」という言葉をおくった。彼らの新聞は火と毒をはいている。彼らはプロレタリアートに、クロンシュタットが反革命主義者の手中にあると信じこませることに失敗したので、今や国家主義的な感情を利用しようとしているのだ。全世界はすでにわれわれの無線電信によってクロンシュタットの守備兵や労働者が何のために戦っているかを知っている。にもかかわらず、共産党は事件の真相を故意に曲解して、ペトログラードの兄弟たちの眼をくらまそうとしているのだ。

 

 ペトログラードはクルサンティと共産党防衛隊の銃剣で包囲され、マリウタ・スクラトフ…トロッキーは党員でない労働者と兵士がクロンシュタットに代表をおくることを許さない。彼は、彼らがクロンシュタットであらゆる真相を知るにちがいないということを、そしてその実相がただちに共産主義者を一掃し、かくして自覚した労働大衆はその節くれだった手の中に権力をおさめるであろうことを恐れているのだ。

 これが、われわれが無線電信で、なんら偏見にとらわれていない同志をクロンシュタットにおくれと言ったのに対して、ペトログラード・ソヴェトが返事をしない理由である。

 

 自分の身のことを案じながらも、共産主義者は事実を隠蔽し、白軍防衛隊がクロンシュタットで活動しているとか、クロンシュタットのプロレタリアートが自らをフィンランドやフランスのスパイどもに売ったとか、あるいはフィンランド人がクロンシュタットの「ヨアテズニキ」(暴徒)の助力を得てペトログラードを攻撃すべく軍隊を組織したなどのでたらめを広めつつある。

 これらのすべてに対してわれわれが答えることができるのは次の通りである。全権力をソヴェトへ! 諸君の手で、白色擁護者や地主やブルジョアと戦って死んだ自由の殉難者の鮮血によって赤く彩られたその諸君の手で彼らを防げ! と。

 

 簡潔な誠実な言葉のなかで、クロンシュタットは自由にあこがれ、自分自身の運命を創造する機会を渇望する民衆の意志を表わそうとした。クロンシュタットはそれ自身、偉大な熱望……そのためにこそ民衆は十月革命で戦いかつ悩んだのである……を防衛するために蜂起しようとするロシヤ・プロレタリアートのいわば前衛を自認していたのである。ソヴェト制度に対するクロンシュタットの信頼は厚くかつ固かった。「全権力を党にではなくソヴェトヘ!」これがすべてを包括するそのスローガンであった。これがそのプログラムであった。それを発展させ、あるいは理論づけるひまもなかった。それはただ共産主義の桎梏から民衆を解放するために努力した。とうていこれ以上は耐えることのできないその桎梏は必然的に、新しい革命、「第三革命」をもたらしたのだ。自由と平和への道は自由に選挙されたソヴェト、「新しい革命の礎石」のなかにこそあるのだ。『イズヴェスティア』紙は、クロンシュタットの水兵と労働者の純真と卒直について豊富な実証をあげ、また彼らが「第三革命」の先駆者としてその使命に絶大な信仰を持っていたことを述べた。

 

 これらの抱負や希望は、三月八日発行の『イズヴェスティア』第六号の「何のためにわれわれは戦っているのか」と超する社説のなかにはっきりと表現されている。

 十月革命が起るや、労働階級は彼らの解放をそれによって達成しようと期待した。しかし、その結果は人間性のよりはなはだしい奴隷化をもたらしたにすぎなかった。

 警官や憲兵の独裁的な権力は簒奪者―共産主義者―の手中におちた。彼らは民衆に自由を与えるかわりに、帝政時代の憲兵制度よりも更に恐ろしいチェカの絶えざる恐怖のみを注ぎこんだ。……あらゆるもののなかで最も悪い、最も罪深いものは共産主義者の精神的な陰謀である。彼らは労働大衆の精神的な生活にまで干渉し、だれでも共産党の命令にさからわないで考えることを強制したのだ。

 

 ……初めて労働者解放の赤旗を掲げて蜂起した労働者のロシヤは、共産主義者統治の偉大な栄光のために殉じた人々の海のなかに、労働者革命の希望にあふれた約束と実現性をおぼれさせようとしている。ロシヤ共産党が、自ら労働大衆の防衛者であると僭称することのいつわりは、今や明白となった。労働大衆の利害は彼らに関係ない。権力を獲得した彼らは、今やただそれを失わないことのみ恐れ、許すかぎりのあらゆる手段を工夫している。それは叛逆者の家族にくわえられる誹謗、偽瞞であり、また暴力、虐殺、復讐である。

 

 長い苦難を耐えしのぶにも限度がある。ここかしこに、圧迫と暴力に抗争する叛乱の火の手があげられた。労働者のストライキが増加した。けれども、ボリシェヴィキの警察制度は、もはや避けることのできない第三革命の爆発に対してあらゆる予防策を講じた。

 

 だがそれにもかかわらず革命は到来した。それは労働大衆の手によってなされた。共産主義の将軍たちは、決起したものが民衆であり、共産主義者が社会主義者の思想を裏切ったことを確信した民衆であったことをまざまざと見たのである。身の安全を祈ってびくびくし、また労働者の激怒をのがれえないことを知った共産主義者は、なおも投獄や銃殺やその他の蛮行で叛逆者を威嚇しようとしている。だが、共産党独裁の下にあっては生は死よりもなお恐るべきものだ。

 

 そこには中途半端な方法はない。掠奪か、しからずんば死だ! その試みは左翼からも右翼からも反革命として恐れられているクロンシュタットによって行なわれている。偉大な革命的な行為がなされたのだ。三年の長期にわたって、三〇〇年の古い君主専制の闇黒そのままであった共産党独裁の、暴虐と抑圧に抗して反旗があげられているのだ。労働者の最後の鉄鎖を断ち切って、社会主義的な建設への新たなる大道を開くところの第三革命の基礎はここクロンシュタットにすえられたのである。

 

 この新たなる革命は東西の民衆をよびさまし、政府的な、残忍冷酷な共産主義者の、建設とは相反した、新たなる社会主義的建設の試みとして役立つであろう。労働大衆は、今日まで労働者および農民の名において行なわれてきたものが社会主義ではないことを知るであろう。一発も銃弾を放たず、一滴も血を流さずに第一歩が始められた。彼らは流血を望んではいない。彼らが流血の挙に出るのはただ自己防衛のときのみであろう。……労働者と農民は進軍する。彼らはその背後に、労働者の首に縄をかけて絞殺しようとするウチレデイルカ(国民議会)のブルジョア制度や、共産党独裁のチェカや国家資本主義などを放置している。

 

 かくして現在の変革はついに労働大衆に、党の鞭を恐れることなく職能を果たすべき自由選出ソヴェトを追求する機会を与えている。彼らは今や権威主義的になった労働組合を、労働者、農民および知的労働者の自由意志にもとづく連合に再組織することができる。ついに共産主義者独裁の警察組織は打倒されたのである。

 

 以上がプログラムであった。直接の要求であった。そしてこのためにボリシェヴィキは一九二一年三月七日午後六時四五分を期してクロンシュタット攻撃を開始したのである。

 

 

 5、ボリシェヴィキのクロンシュタットに対する最後通牒

 

 クロンシュタットは寛大であった。ボリシェヴィキ側のあらゆる扇動や都市封鎖や弾圧政策にもかかわらず、共産主義者の鮮血を一滴たりとも流しはしなかった。クロンシュタットは共産主義者の復讐の例にならうことを警告し、共産党員に暴行の罪を犯さぬようにクロンシュタットの民衆に警告さえした。臨時革命委員会は、ペトログラードにとらわれている人質を釈放せよという水兵たちの要求をボリシェヴィキ政府が無視した後でさえ、クロンシュタットの民衆に対し同じ意味の警告を発した。

 

 三月七日、ペトログラード・ソヴェトに無線電信でおくられたクロンシュタットの要求と革命委員会の宣言書は、同時に発表された。それは次に転載する通りである。

 クロンシュタット守備兵および臨時革命委員会の名において要求する。ペトログラードに人質として捕われている水兵、労働者および赤軍兵士の家族を二四時間内に釈放せよ。

 クロンシュタット守備兵は、クロンシュタットにおいては共産主義者が完全なる自由を享有していること、および彼らの家族は絶対に安全であることを声明する。ペトロ・ソヴェトの先例はここではけっしてくり返されないであろう。なぜなら、われわれは、たとえどんな絶望、憤怒に駆られようとも、そういう手段をとることは最も恥ずべきであり、最も憎むべきであると思うからだ。歴史はまだこのような破廉恥な行為を知らない。

                  臨時革命委員会議長 水兵 ペトリチェンコ

                  同書記 ギルガスト

 

 クロンシュタットの民衆に対する宣告文には次のような文句がある。

 共産党独裁による長い間の労働大衆の抑圧が大衆の激昂と怨恨を生んだことはきわめて当然である。その結果として共産党員の家族でその地位を追われたり、取引を拒絶されたりした例がときどきあった。それはけっしてよくないことだ。われわれは復讐を求めているのではない―われわれはわれわれ労働者の利益を防衛しているのだ。

 

 クロンシュタットは聖十字軍の精神のなかに生きていた。その動機の正当に対して確固たる信念を有し、自らを革命の真の防衛者であると考えた。こうした気持でいた水兵たちには、政府が武力で攻撃してくるなどとは夢にも考えられないことであった。この単純な「土と海の子供たち」のあいまいな意識のなかには、おそらくは、ただ暴力によってのみでは勝利が得られないという考えがきざしていたのである。スラブ魂は、正当な動機と革命的な精神の力によってのみ勝利を獲得できるにちがいないと信じているかのごとくであった。ともかくもクロンシュタットは攻勢に出ることを拒絶した。革命委員会は、軍事上重要な価値あるオラニエンバウム港にただちに上陸せよという軍事専門家の再三の助言をききいれようとしなかった。クロンシュタットの水兵や兵士は、自由ソヴェトの建設を目標とし、攻撃に対し敢然として彼らの権利を防衛しつつあったが、けっして攻撃者になろうとはしなかった。

 

 ペトログラードでは、政府がクロンシュタットに対して軍事的な行動に出ようとしているといううわさが絶えなかった。だが、民衆はそんな話を信じようともしなかった。事態は一笑に付してしまうにはあまりに重大に見えたのである。前述したように、防衛委員会(正しくは労働者および防衛ソヴェトと呼ばれている)は首都を「特別戒厳状態」におくことを布告した。あらゆる集会が禁止され、街頭での集会が禁止された。ペトログラードの労働者はクロンシュタットで何が起りつつあるか、ほとんど知らなかった。彼らが入手できる唯一の情報は、「帝政主義者コズロフスキー将軍がクロンシュタットで反革命暴動を起した」と伝える共産党機関紙と、まれな告示だけであった。民衆は不安のうちに、クロンシュタット事件を討議するために近く開かれるはずのペトログラード・ソヴェト会議を待ちこがれていた。

 

 三月四日、ペトロ・ソヴェトは召集され、いつものように、出席者は共産主義者のみが入手しうる許可証を持ったものに限られた。著者はボリシェヴィキ、特にジノヴィエフと親交があったので出席した。ペトログラード・ソヴェトの委員としてジノヴィエフが開会を宣し、クロンシュタットの状況について長々と演説をしようとした。告白すると、私はジノブィエフの主張にむしろ賛成してこの会議にやって来たのだ。私はクロンシュタットにおける反革命的な影響がどれほど確実性を持つものかについて注意を払っていたのである。ところがジノヴィエフの演説は、水兵に対する共産主義者の非難はこれっばかしの真理さえも含まない全くの捏造であることを私に信じさせた。私は以前ジノヴィエフの演説を何度も聞いたことがある。私は彼の演説のまえおきが聴衆に首肯されさえすれば、彼が人を説得させる雄弁家であると思っていた。

 

 だが今は、彼のすべての態度は、彼の推論は、彼の語調や動作は―すべて彼の言葉をでたらめのものとした。私は彼の良心が自らをあざむいているのを見て取ることさえできた。クロンシュタット事件に対してあげられた唯一の「証拠」が、その要求も正当かつ穏当でさえある、かの有名な三月一日の決議なのだ。だが、それに対して断固たる手段に出たのは、カリーニンが水兵たちに浴びせかけた、激越な、ほとんどヒステリカルな非難を含んだ、かの声明書にもとづいてなされたものであった。ジノヴィエフのふところ刀で、その三軍を叱陀するような大声で知られているイエフドキモフによってあらかじめ用意され、提出されたクロンシュタットに対する決議文は、頑迷な血に飢えた委員たちの高潮のうちに通過した―若干のペトログラードの工場代表や水兵代表から出された騒々しい抗議のまっただなかで通過した。その決議は、クロンシュタットをソヴェト権力に反抗した反革命暴動の故で断罪し、ただちに降伏すべきことを要求したものであった。

 

 それは戦いの宣言であった。共産主義者でさえその決議が実行に移されるなどと信じないものが多勢いた。トロツキーがクロンシュタットの水兵を賞讃して、「ロシヤ革命の誇りと栄光」と呼んだものに対して武力を用いて攻撃するなどとは奇怪千万なことであった。彼の周囲の真面目な共産党員は、そのような残虐な行為が承認されるくらいなら党から脱退するとまでいきまいた。

 

 トロツキーはペトロ・ソヴェトに出席して演説することになっていた。そして彼が出席を怠ったのは形勢の逼迫があまり誇大視されたからだといいふらすものがあった。だが、その後、彼はペトログラードに到達した。

 

 翌朝三月五日、彼はクロンシュタットに対する最後通牒を発表した。

 労農政府はクロンシュタットおよび叛逆した艦船がただちにソヴェト共和国の権力に服従すべきことを命ずる。従って私はまた社会主義の祖国に対して叛旗をひるがえすものはすべて直ちに武器を放棄するように命ずる。従わないものは武装解除され、ソヴェト当局に復帰させられるであろう。逮捕された執行委員およびその他の政府代表をただちに釈放せよ。無条件に降伏するもののみがソヴェト共和国の慈悲にあずかることができるであろう。同時に私は武力で暴動を鎮定し、叛徒を一掃する出動命令を発する。罪もない民衆が受けるかもしれない傷害の責任は、ことごとく反革命叛逆者にあるであろう。これが最後の警告である。

                  共和国革命軍ソヴェト委員長 トロツキー

                  司令長官 カーメネフ

 

 事態は急を告げた。巨大な軍隊が間断なくペトログラードとその近郊に流れこんだ。トロツキーの最後通牒は、「貴様たちを雉のように撃ち殺してやる」という歴史的な威嚇をもったブリカース(命令状)のようなものであった。そこでペトログラードにいるアナキストの一団は、ボリシェヴィキにクロンシュタット攻撃の決心を今一度ひるがえさせようという最後の努力を試みた。彼らは、たとえそれが望みないことであっても、ロシヤ革命の華であるクロンシュタットの労働者や農民に対して明日にも行なわれようとする虐殺を防止するために力を尽すことが、革命に対する義務であると考えたのだ。

 三月五日、彼らは防衛委員会に抗議文をおくり、クロンシュタットの企図が平和的であること、その要求が正当であることを指摘し、共産主義者にかの水兵たちの勇敢な革命的な歴史を想起させ、同志や革命家たちを傷つけないでこの問題を解決する方法を軽示したのである。

 

 その文書は次の通りである。

  ペトログラード労働および防衛ソヴェト委員長ジノヴィエフに与う。

 たとえ罪を犯すことになろうとも、今は黙視しているわけにはいかなくなった。最近の諸事件はわれわれアナキストをして、現在の状態におけるわれわれの態度を声明させざるをえなくした。労働者と水兵の騒擾と不満の表明の精神は、われわれの重大な注意を喚起した原因から生じたものである。

 寒気と飢餓が離反を生み、討論と批判の機会を少しも持たないことが労働者や水兵をして彼らの苦痛を爆発させつつあるのだ。

 自己擁護者の一味はこの不満を彼ら自身の利益のために利用しようと思い、そう努力している。労働者や水兵の背後にかくれて、彼らは自由貿易やこれに類似した要求を含む国民議会のスローガンをまき散らしている。

 

 われわれアナキストは早くからこれらのスローガンの欺瞞を暴露してきた。そしてわれわれは世界にむかって声明する。われわれは社会革命のすべての友とともに、またボリシェヴィキと提携してあらゆる反革命的な企図に対し武器をとって戦おうとするものである。

 ソヴェト政府と労働者および水兵との確執について、われわれはそれが武力に訴えることなく、うちとけた親しい革命家らしい協定によって解決されなければならないと信ずる。ソヴェト政府側が流血に訴えることは―この状勢にあっては―労働者を何ら威嚇し沈黙させるものではない。否、むしろそれはただ事態を悪化させ、協商国側と国内反革命の魔手をのばせるのに役立つだけである。

 

 さらにもつと重大なことは、労農政府が労働者および農民に対して武力を用いることは、国際的な革命運動に反動的な結果をもたらし、いたるところでおびただしい損害を社会革命に与えるものだということである。

 ボリシェヴィキの同志よ、今考えなおしてもけっして遅くはない! 断じて砲火に訴えるな。諸君は今や最も重大かつ決定的な行動に出ようとしていることを反省せよ。

 われわれはここにおいて次のように提案する。五名―うち二名はアナキストであること―から成る委員会を組織すること。平和的手段によって紛争を解決するために、委員をクロンシュタットへ派遣すること。現在の状態ではこれが何よりも焦眉の手段である。それは国際的な革命的意義を有するであろう。

 一九二一年三月五日 ペトログラードにて

                 アレクサンドル・ベルクマン

                 エマ・ゴールドマン

                 ペルクス

                 ペトロフスキー

 

 クロンシュタット問題に関するある文書が防衛ソヴェトに通達されたとの報告を受けたジノヴィエフは、そのために個人的に代表を送った。その文書を彼らが討議したかどうか著者は知らない。とにかく、それについて何らの処置も講ぜられなかったことは確かである。

 

 

 6、第一撃

 

 勇敢で寛容なクロンシュタットは自ら火蓋を切ったことを誇りとするその第三革命によってロシヤを解放することを夢みていた。クロンシュタットはなんら決定的なプログラムを公式化してはいなかった。自由と広大な友愛とがそのスローガンであった。彼らは第三革命をもって解放にいたる漸進的な過程であり、その方向への第一歩はいかなる政党にも支配されない、民衆の意志と利害を代表する、独立したソヴェトの自由選出にあると考えた。一途で純な水兵たちは、全世界の労働者にむかって彼らの偉大な「理想」を開明し、プロレタリアートが彼らと共同戦線を張ることを望み、彼らの「動機」が熱狂的な支持を得、ペトログラードの労働者がまず第一に助力を与えてくれるであろうことを確信していたのである。

 

 その間に、トロツキーは彼の兵力を集中していた。最も信頼されている数師団―クルサンティ連隊、チェカ分隊およびほとんど共産党員だけから成る部隊によって編成されている―が戦線から召還され、今やセストロレック、リシー・ノス、クラスナイア・ゴルカの堡塁やその付近の築城地に集結した。最もすぐれた軍事専門家たちはクロンシュタットの封鎖と攻撃のために現場へ急派され、またかの有名なトハチェフスキーがクロンシュタット包囲軍の司令長官に任命された。

 

 三月七日の夕刻六時四五分、セストロレックとリシー・ノスの共産党砲兵隊はクロンシュタットにその第一撃を放った。

 その日は婦人労働者の記念祭であった。クロンシュタットは、包囲され攻撃を受けつつも、この偉大な記念日を忘れなかった。無数の砲台から打ち出される弾丸の雨の下で、勇敢な水兵たちは全世界の労働婦人に無線によって挨拶をおくった。それは「叛逆都市」のもつ心理の最もめざましい行動であった。その電文は次の通りである。

 

 今日は世界的な休日―婦人労働者の日である。クロンシュタットのわれわれは巨砲のとどろきのなかで、全世界の労働婦人にわれらの親愛なる挨拶をよせる。……願くば諸姉が遠からずあらゆる形式の暴虐と圧迫からの解放を成就されんことを。……自由な革命的な労働婦人万才! 全世界の社会革命万才!

 

   

『The Truth about Kronstadt           『Kronstadt Uprising

 

 三月八日、第一撃が放たれた後の『イズヴェスティア』第六号に掲載された「全世界をして知らしめよ」というクロンシュタットの悲壮な叫びは、これにも増して異彩を放つものであった。

 第一発は放たれた。……労働者の血潮のなかに突っ立った将軍トロツキーは、ソヴェトの本当の力を構築するために共産党独裁に叛逆して蜂起した革命的なクロンシュタットに向って火蓋を切った最初の男であった。クロンシュタットの赤軍兵士、水兵および労働者は、一滴の血をも刃にぬることなく共産主義者の桎梏からわれわれ自身を解放し、また彼ら共産主義者の生命を庇護さえしてやった。巨砲の威嚇によって、彼らは今やわれわれを再び彼らの虐政に従わせようとしている。流血を欲しないわれわれは、ペトログラードのプロレタリアートであっていずれの党派にも所属しないものを代表としてわれわれのもとに派遣し、クロンシュタットがソヴェト権力のために戦っていることを知ってもらいたかったのである。だが、共産主義者はわれわれの要求をペトログラードの労働者に伝えることを禁じ、今や彼らは砲火を開いたのだ。……それはエセ労働政府が労働大衆の要求に答える常套手段なのだ。

 全世界の労働者をして、われわれソヴェト権力の防衛者が社会革命の成果を死守しつつある事実を知らしめよ。

 われわれ労働大衆の正当な動機のために闘いつつ、勝利を得るか、さもなければクロンシュタットの廃墟の下に倒れるまでである。

 全世界の労働階級はわれわれの審判者であろう。罪のない民衆の鮮血は、権威におぼれる共産主義狂信者の頭上にふりそそがれるであろう。ソヴェトの権力万才!

 

 

 7、クロンシュタットの敗北

 

 三月七日の夕刻に始まったクロンシュタットの砲撃につづいて、暴風雨をついて要塞の占領が企てられた。襲撃は北と南から、白装束をつけた共産党軍隊の選抜隊によって行なわれた。この死装束は、凍結したフィンランド湾上に厚く降りつもった雪をあざむく保護色であった。大胆にも生命を投げ出して、暴風雨に乗じて要塞を奪取しようとするこの恐るべき最初の試み―クロンシュタットが反革命であると信じこまされ、武器をとって向かってくるものが、自分たちの同胞であることは、水兵たちを何よりも悲しませた。

 

 三月八日発行のクロンシュタット『イズヴェスティア』はこう書いている。

 われわれはわれわれの同胞の血を一滴たりとも流そうとは思わなかったし、またやむをえず強いられるまでは一発たりとも撃ちはしなかった。われわれは労働大衆の正しい動機を防衛しなければならなかった。しかもわれわれは殺さなければならなかった―民衆を踏台にして肥満した共産主義者によって死地におくられたわれわれ自身の兄弟たちを銃殺しなければならなかった。

 

 …‥諸君にとり不幸なことに、恐ろしい吹雪が起って、暗い夜があらゆるものを闇に塗りつぶしてしまっていた。だが、かの共産党の死刑執行人どもは自分たちが少しも損害をこうむらずに、諸君を氷の上にかりたて、共産党部隊は機関銃を動かして、諸君を背後から威嚇した。

 諸君のなかの少なからぬものがその夜、フィンランド湾の茫漠たる氷原の上で死んでいった。そして夜が明け、吹雪が静まったとき、疲労と飢餓でほとんど身動きもできなくなった諸君の僚友のほんの少数が、白装束のままかろうじてわれわれのところへもどってきた。

 

 

フィンランド湾氷上を突撃する赤軍        反乱者殺害・一掃の戦闘をする赤軍

『Kronstadt Uprisingimagesからの写真2枚

 

 朝早く、その氷上に諸君の約一〇〇〇名が横たわり、刻々とその数を増していった。諸君は自ら進んでこの冒険に鮮血をささげた。そして、諸君の敗戦の後、トロツキーは更に新たなる殉教者をかりあつめるためにペトログラードへ急行した―われわれ労働者および島民の鮮血を安価に求めるために……

 

 クロンシュタットは、ペトログラードのプロレタリアートが援助に来るであろうと深く確信して生活していた。しかしそこの労働者は威嚇されていたし、それにクロンシュタットはたくみに封鎖され孤立させられていたので、事実、どこからも援助を期待することはできなかったのである。

 クロンシュタットの守備兵は一万四〇〇〇足らずで、そのうち一万は水兵であった。この守備兵は広い湾一帯に点在する多くの要塞や砲台の広大な戦線を防御しなければならなかった。中央政府から絶えず精鋭な軍隊を増援させるボリシェヴィキの再度の襲撃、孤立におちいった都市の食糧の欠乏、厳寒のなかを眠らずに警戒する長い幾夜―すべてがクロンシュタットの意気をくじきつつあった。だが水兵たちは、自分たちの偉大な解放の企図が国中に共鳴者を見出し、かくして救援と助力が得られるであろうとの確信を最後まで勇敢に捨てなかった。

 

 三月一一日発行の『イズヴェスティア』第九号「同志、労働者および農民に訴う」という檄文のなかで、臨時革命委員会は次のように述べている。

 同志労働者よ、クロンシュタットは諸君のために、飢餓と寒気と欠乏のために闘っているのだ。……クロンシュタットは叛旗をあげた。そして数千万の労働者と農民がその叫びに応ずるであろうと信じている。クロンシュタットに始まった黎明が、やがて全ロシヤを照らす輝かしい光明にならないとどうして言えようか。クロンシュタットの爆発が全ロシヤを、とりわけ最初にペトログラードを覚醒させないということがどうしてありえようか。

 

 けれどもどこからも救援はこなかった。日に日にクロンシュタットは困窮していった。ボリシェヴィキは絶えず新しい軍隊を包囲された要塞に集中し、連続的な襲撃によって要塞を弱らせていった。そのうえに数においても、糧食においても、また地の利においても、あらゆる利点は共産主義者の側にあった。クロンシュタットは背後からの攻撃に備えるために築造されていなかった。水兵たちがペトログラードを爆撃しようとしているようにボリシェヴィキから伝えられたうわさは真赤なうそであった。この有名な要塞は海上からペトログラードに近づこうとする外敵を防御するために役立たせようという、唯一の見地から建造が企画されたものである。それにこの都市が外敵の手に落ちた場合には、海岸のクラスナイア・ゴルカの堡塁はクロンシュタットと戦うようにできているのだ。こうしたこともありうることを予想して、築城家はわざとクロンシュタットの背面を堅固にしなかったのである。ほとんど毎夜、ボリシェヴィキは攻撃をつづけた。

 

 三月一〇日はずっと、共産主義者の大砲が南方と北方の海岸から間断なく、打ちつづけられた。

 一二日から三一日にかけての夜、共産主義者は南方から再び白衣決死隊により、数百名の「クルサンティ」を犠牲にして猛襲した。クロンシュタットは長い不眠の夜と食糧および人員の欠乏にもかかわらず、死物ぐるいで背後の敵と戦った。クロンシュタットの砲台がかろうじて西側からの襲撃だけを支えることができる要塞であるのに、彼らは北方、東方、南方から同時に襲撃して来たのに対して最も勇敢に戦った。水兵たちは共産主義者の武力の及ばないところに到達するための砕氷船さえ持っていなかったのである。

 

 三月一六日、ボリシェヴィキは三方から一度に攻撃した―北からと南からと、それから東から。かつてボリシェヴィキの海軍大臣であり、後に敗北したクロンシュタットの支配者となったディベンコはその後にこう言っている。「攻撃の計画はきわめてささいな点にいたるまで司令官トハチェフスキーと南方軍の参謀の手になったものである。真暗になってからわれわれは要塞を襲撃し始めた。白衣決死隊とクルサンティの勇士たちがわれわれを入城させてくれた。」

 

 三月一七日、朝になって多くの堡塁が占領された。クロンシュタットの最も弱い地点「ペトログラード門」からボリシェヴィキは市になだれこんだ。そして最も恐ろしい野蛮な虐殺が始まった。水兵がゆるしてやった共産主義者は今や彼らを売って、その背後から襲撃した。バルチック艦隊司令官クズミンとクロンシュタット・ソヴェト総督ワシリエフとは共産主義者によって監禁所から助け出され、まさに同胞的な血を流しつつある暴力的な市街戦に参加した。夜中まで、クロンシュタットの水兵と兵士は圧倒的多数に対して死物ぐるいの闘争をつづけた。五〇日間にわたって共産主義者を少しでも傷つけなかったこの街は、今やクロンシュタットの男子、婦人および子供にいたるまでの鮮血で赤く彩られた。

 クロンシュタットの総督に任命されたディベンコは「叛逆都市を清掃する」絶対的な権力を与えられた。チェカが無数の犠牲者を毎夜大じかけにラズストレル(銃殺)することによって、復讐の饗宴がつづけられた。

 

 三月一八日、ボリシェヴィキ政府およびロシヤ共産党は、公にガリフェ、ティエールのためにフランス労働者の血にまみれた一八七一年のパリ・コミューンを祝った。それと同時に彼らはクロンシュタットに対する「勝利」をも祝福した。

 

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地図の□印は、クロンシュタット側の海上堡塁。左図の赤矢印は、三月七、八日の

第一次攻撃だが、壊滅的な損害で退却。黄色基地と矢印は、三月一六〜一七日

の南北からの第二次総攻撃で、氷結した湾内の堡塁を占領し、市街戦で鎮圧した

 

 数週間、ペトログラードの牢獄はクロンシュタットの囚人でいっぱいであった。彼らは少人数の一組ずつ毎夜チェカの命令で引き出されては消えて行った―けっして再び姿を現わさなかった。最後に銃殺されたのは、クロンシュタットの臨時革命委員会の一員であるペレベルキンであった。

 

 アルハンゲルの氷結地方の牢獄や収容所、およびはるかなトルキスタンの監獄では、クロンシュタットの人々を徐々に殺戮して行った。彼らはボリシェヴィキの官僚政治に反抗して、一九三年三月に、かの十月革命の「全権力をソヴェトヘ!」というスローガンを主張した人々であった!!

 

 

 8、クロンシュタットの教訓と意義−著者の追記−

 

 クロンシュタットの運動は自発的な、予期しない、平和的な運動であった。武力衝突となり、鮮血の悲劇に終った。それは実に共産主義者独裁の憎むべき専制政治にもとづくものである。ボリシェヴィキの一般的性格を知ってはいたけれども、それでもクロンシュタットはなお平和的な解決が可能であると信じていた。彼らは共産主義政府が正当な理由には従うと思っていた。正義と自由の観念でそれを信じていた。

 

 クロンシュタットの経験は国家ないしは政府―たとえどんな名称や形式であろうとも―というものは常に自由と民衆の自発的行動の恐るべき敵であることを立証している。国家は誠実も正義も持たない。国家はいかなるものをも犠牲にして権力を追求し、それを獲得する唯一の目的を有するのみである。

 

 これがクロンシュタットの政治的な教訓である。あらゆる革命がさずけてくれるもう一つの教訓に軍事上の教訓がある。蜂起の成功はその決意と精力と団結力とで決される。その革命は大衆の感情を引きつける。この感情は革命が勃発したと同時に急激に燃え上る。日々の生活の享楽に復帰することによってそれを弱らせ、衰えさせてはならない。

 

 他方、あらゆる蜂起は国家の強大な機械力と対抗する。政府はその手中に食糧の資源と交通の方法とを集めることができる。政府がこの権力を用いるには時間がかからない。叛乱は力強く、めざましく、急激に、かつ注意深くあらねばならない。局部的にとどまっていてはならない。なぜなら、それは沈滞を意味するからである。それは拡大され、発展させられなければならない。範囲をそれ自身に局限する革命、受動的政策をとる革命、防御の立場に立つ革命は必然的に失敗する。

 

 この意味において、特に、クロンシュタットはパリ・コミューンの戦略上の致命的な誤謬をくり返した。後者はティエール政府が組織されない間にただちにヴェルサイユ攻撃を行なうとする人々の忠告に従わなかった。一八七一年のパリの労働者もクロンシュタットの水兵も政府を廃止しようとは思わなかったのだ。パリ・コミューンの人々は単なるある共和的な自由を望んでいた。そして政府が彼らを武装解除しようとしたときに、彼らはティエール内閣をパリから追放して彼らの自由を確立し、防御の準備をした―それだけなのだ。このように、クロンシュタットの要求も単なるソヴェトの自由選挙にすぎなかった。少数の委員長を逮捕して、水兵たちは攻撃に対して防御の準備をした。クロンシュタットはただちにオラニエンバウムを占領せよ、という軍事専門家の忠告に従って行動することを拒否した。そこは軍事上きわめて重要な地域で、またクロンシュタットに属する小麦を五万プード(注)も持っているのである。

 ()、一プードはロシヤでは四〇ポンド、イギリスでは約三六ポンドに相当する。

 

 オラニエンバウムの上陸は可能であって、それを実行したならばボリシェヴィキは驚愕して、援軍をおくるいとまもなかったのである(注)。だが水兵たちは攻撃的な立場をとろうとはしないで、この微妙な機会を失ってしまった。それから数日後、ボリシェヴィキ政府の宣言と行動とはクロンシュタットに、彼らが生活のための闘争に混乱し、誤謬を訂正するにはすでに遅すぎたのだということを知らせたのである。

 ()、クロンシュタットがオラニエンバウムを占領しなかったことは、政府に、信頼する連隊―「感染した」部分を除いた―で要塞を固め、クロンシュタット叛乱にほぼ加担している飛行中隊の指揮官を死刑に処する余裕を与えた。後にボリシェヴィキはこの要塞をクロンシュタット攻撃の有利な地点として用いた。

 オラニエンバウムで死刑に処せられたものは、赤軍分隊長で、オラニエンバウムで組織された臨時革命委員会の首脳で、飛行士であるコロソフ、委員会書記バラバノフ、および、委員ロマノフ、ウラジミノフなどである。

 

 クロンシュタットは陥落した。クロンシュタット自由ソヴェト運動は鮮血にまみれて窒息した。同時に一方ではボリシェヴィキ政府はヨーロッパの資本家と和解し、リガ平和条約を締結して、一二〇〇万の人口をフィンランドに売り、トルコの帝国主義を支援してコーカサス共和国を圧迫した。

 

 だが、クロンシュタットに対するボリシェヴィキの勝利は、それ自身のなかにボリシェヴィズムの没落を含んでいた。それは共産主義者独裁の真相を暴露した。共産主義者は国際資本主義とほとんどいかなる和解をもするために共産主義を犠牲にし、民衆自身の正当な要求、―ボリシェヴィキ自身の十月スローガンと称する要求を、ロシヤ社会主義共和国連邦の憲法に従ってなされる直接無記名投票のソヴェト選挙を、革命団体に対する言論および出版の自由を否定することを自ら立証したのであった。

 

 クロンシュタットの叛乱が勃発したときに、モスクワでは共産党の全露大会が開かれていた。この大会においてクロンシュタット事件やロシヤ各地およびシベリヤにおける民衆の威嚇的な態度の結果として、ボリシェヴィキの経済政策は一変することになった。ボリシェヴィキは「ラズウニルカス」(強制的召集)を廃止し、自由貿易を開始し、資本家に譲歩して共産主義を放棄するために―その共産主義のために十月革命は血にまみれて戦い、ロシヤは滅亡し絶望するところであった。―根本政策を裏切り、ソヴェトの自由選挙を許さなかった。誰がこれ以上ボリシェヴィキの真の目的を疑うことができよう。彼らが追求したのは共産主義の理想なのか、あるいは政府の権力なのか。

 

 クロンシュタットは偉大な歴史的な意味を持つ。それは党の独裁、悪質の中央集権、チェカのテロリズム、および官僚的な傾向をもつボリシェヴィズムの死の葬鐘を乱打した。共産主義者独裁の心臓を強打した。同時にそれはヨーロッパおよびアメリカの教養ある誠実な人々に感動を与え、ボリシェヴィキの理論と行動を批判考察させた。共産主義国家は「労働者および農民の政府」を持つというボリシェヴィキの荒唐無稽の神話が暴露された。共産党独裁とロシヤ革命とは対立する正反対の相互排他的なものであることが示された。ボリシェヴィキ制度が軽減されない暴虐であり反動であること、および共産主義国家それ自身が最も権威ある恐るべき反革命であることが宣言された。

 

 クロンシュタットは陥落した。だがその理想主義と道徳的な純潔、その寛大さと崇高な人間性とのなかに勝利を記念している。クロンシュタットは壮美であった。共産主義者をなかに擁しながらも一滴の血をも流さなかったことについて、それは誇るべきである。何らの死刑も行なわれなかった。教育を受けない、そのふるまいや行動の粗野な、無作法な水兵が、ボリシェヴィキの復讐の例にならうにはあまりに高潔であった。彼らは憎むべき委員長すら射殺しようとはしなかった。クロンシュタットはスラブ魂の寛大なすべてを許容する精神と一世紀も遅れたロシヤ解放運動とを表現していた。

 

 クロンシュタットは国家社会主義の桎梏から解放されようとする民衆的な、全く独立的な努力の最初のものであった。―その努力は直接民衆によって、兵士および水兵自身によって行なわれた。それは不可避的な、そして―われわれは信ずる―長い間苦悩したロシヤに永遠の自由と平和とをもたらす第三革命への第一歩であったのだ。

 

 

 付、ゴールドマンの回想

 

 私たちのアピール〔本書三九〜四一頁〕が功を奏さなかったことは、トロツキーが到着し、クロンシュタットへの彼の最後通牒が発せられたその日〔三月五日〕に明らかとなった。労働者と農民の政府の命令によって、彼はクロンシュタットの水兵と兵士に、あえて「社会主義の祖国にはむかう」ものはすべて「雉のように射殺される」であろう、と宣言した。叛逆した艦船やその乗組員はソヴェト政府の命令にただちに服するか、武力に屈服するかが命ぜられた。無条件に降服するものだけがソヴェト共和国の慈悲をあてにしえたであろう。

 

 最後の警告には革命軍事ソヴェト議長トロツキーと赤軍司令官カーメネフが署名した。支配者の神聖な権利をあえて疑うことはここでも死をもつて罰せられた。

 トロツキーは約束をたがえなかった。クロンシュタットの人々の助けで権威を得た彼は、今や、「ロシヤ革命の誇りと栄光」へ負債を十分に払う位置にいた。ロマノフ体制の最良の軍事エキスパートや戦術家がトロツキーの意のままになり、そのなかには悪名高いトハチェフスキーがいた。トロツキーは彼をクロンシュタット攻撃の司令長官に任命した。そのうえ、虐殺の技術の訓練を三年間受けた大量のチェカ部隊がいた。命令に盲目的に従う、特に選ばれたクルサンティと共産主義者がいたし、いろいろの前線からの最も信頼された軍隊もいた。命運の定められた市にむけて集結したこうした力をもつてすれば、「叛逆」はたやすく鎮圧されると予想されていた。ペトログラード守備隊の兵士や水兵が武装解除され、包囲された同志との連帯を表明した人々が危険区域から移動した後には特にそうであった。

 

 インタナショナル・ホテルの室の窓から、私は彼らが小さなグループになってチェカ部隊の強力な分遣隊にとりかこまれて連れて行かれるのを見た。彼らの足どりは、はずみがなく、手は横腹にぶら下がり、頭は悲しげに垂れていた。

 

 当局はペトログラードのストライキ参加者をもはや恐れなかった。彼らは飢えで少しつつ弱まり、精力も衰えた。彼らやクロンシュタットの同胞に敵対して広められたウソは彼らの志気をくじき、ボリシェヴィキの宣伝が浸透させた疑惑の毒素が彼らの精神を破壊した。彼らの運動を無私にとりあげたことがあり、彼らのために命を投げ出さんばかりであったクロンシュタットの同志を援助する気力も信念も彼らには残されていなかった。

 

 クロンシュタットはペトログラードに見放され、残りのロシヤから切り離された。クロンシュタットは孤立し、ほとんど抵抗もできなかった。「クロンシュタットは最初の一撃で屈服するであろう」とソヴェトの新聞は表明した。それらはまちがっていた。クロンシュタットはソヴェト政府への叛逆もしくは抵抗しか思いつかなかった。最後の最後まで、クロンシュタットは流血を避けることに決めていた。クロンシュタットはいつも理解と平和的な解決を訴えていた。しかし、いわれのない軍事攻撃からやむなく自己を防衛するために、クロンシュタットはライオンのように戦った。痛ましい日夜、包囲された市の水兵と労働者は、三方からの絶え間のない大砲と飛行機から非戦闘員の居住区へ投げつけられる爆弾に抗してもちこたえた。彼らはモスクワからの特別軍による要塞を強襲するボリシェヴィキのくり返しての攻撃を英雄的に撃退した。

 

 トロツキーとトハチェフスキーはクロンシュタットの人々よりもはるかに有利であった。共産主義国家の全機構が彼らを支援し、中央集権化された新聞はでっちあげられた「叛逆者と反革命家」に対して悪口を広めつづけた。彼らには際限のない補充があり、クロンシュタットの猜疑心のない人々に対して夜間の攻撃をカムフラージュするために凍結したフィンランド湾の雪と混同する白衣でおおわれた人々を持っていた。クロンシュタットが持っていたものは、ひるむことのない勇気と、彼らの運動の大義および彼らが独裁からロシヤを守る救済者として戦う自由ソヴェトに対する変ることのない信念だけであった。彼らには共産主義者という敵の突進を阻止する砕氷船さえなかった。彼らは飢え、寒さ、夜を徹しての不寝番のために疲れ切っていた。しかし、彼らは責任を果たし、死にものぐるいで圧倒的な不利をものともせずに戦った。

 

 重砲のとどろきがやまない日夜、恐ろしい不安のなかで、銃砲のうなりの間に、残忍な血の水浴に反対する叫びやそれを停止させようとする呼びかけの声は一つとして聞かれなかった。ゴーリキー、マキシム・ゴーリキー、彼はどこにいたか。彼の声は聞かれなかった。「彼のところへ行こう」と私は何人かのインテリを説得した。彼は、自分の職業の人間に関するときでも、彼が判決された人々の無罪を知っているときでさえ、個人的な大事件ではけっしてわずかでさえも、抗議したことがなかった。彼は今抗議しないであろう。それは望みがなかった。

 

 インテリ、かつては革命のたいまつの奉持者、思想的指導者、作家や詩人であった男女は私たちと同様どうすることもできず、個人的な努力が役立たないことで無気力になっていた。彼らの同志や友人の大部分はすでに投獄されるか亡命していた。処刑されたものもいた。彼らは人間の価値がすべて崩壊したことですっかり挫折したのを感じていた。

 

 私は知りあいの共産主義者に向かって、何かするように懇願した。彼らのなかには自分たちの党がクロンシュタットに対して犯しつつあるとはうもない犯罪を認めるものもいた。彼らは反革命という告発が全くのでたらめであることを認めた。誤認されたリーダーのコズロフスキーはつまらない男で、自分の運命にびっくりして、水兵たちの抗議にかかわることができなかった。水兵たちの性格は純粋で、彼らの唯一の目標はロシヤの繁栄であった。ツアーの将軍どもと共通した運動を行うどころではなくて、彼らは社会革命党のリーダー、チェルノフが申し出た援助を辞退さえしたのである。彼らは外部の助力を望まなかった。彼らが要求したのは来るべき選挙でクロンシュタット・ソヴェトへの自分たち自身の代表を選ぶ権利であり、ペトログラードのストライキ参加者に対する正義であった。

 

 これらの共産主義者の友人たちは私たちといっしょに幾夜も―議論に議論を重ねながら―すごしたが、彼らは誰一人としてあえて抗議の声を公然とあげようとしなかった。私たちはクロンシュタットがもたらす結果を実感しないのである、と彼らはいった。彼らは党から除名され、彼らとその家族は仕事と配給を奪われて、文字通り飢餓によって死刑を宣告されるであろう。あるいは、彼らはあっさりと消息を断って、誰も彼らの身に何が起ったかは少しもわからないであろう。しかし、彼らの意志をまひさせたのは恐怖ではない、と彼らは私たちにうけあった。それは抗議ないしはアピールが全く役に立たないということであった。共産主義国家の戦車の車輪を止めるものは何もなかった、まさに何もなかったのである。車輪は彼らを平伏させ、それに抗して叫ぶヴァイタリティさえ彼らには残っていなかった。

 

 私たち―サーシャ〔ベルクマンを指す〕と私―も同じ状態になり、これらの連中のように軟弱に黙従するかもしれないという恐ろしい懸念に私はつきまとわれた。それよりも好ましいものは何もなかったであろう。牢獄、亡命、死刑さえも。それとも脱出! ぞっとするような革命の見せかけと僭称。

 

 私がロシヤを離れたがるかもしれないという考えは以前は絶対に思いつかなかった。私はそれをちょっと思いついたことでびっくりしたし、ショックであった。私がロシヤをカルヴァリー〔キリストが十字架にかけられた場所〕にする! けれども、機械の歯車、思いのままにあやつられる生命のないものになるよりも、むしろその手段を選びさえするであろうと感じた。

 

 クロンシュタット砲撃は十日間というもの日夜休むことなくつづき、三月一八日の朝突然停止した。ペトログラードにもたらされた静寂は前夜の間断なき砲声よりももつと恐ろしかった。それは誰をも重苦しい不安におとし入れた。何が起ったのか、なぜ砲撃が絶えたのか知ることはできなかった。午後おそくに、緊張は無言の恐怖に変った。クロンシュタットは征服された―数万人が殺害された―市は血に浸された。多くの人々、クルサンティや若い共産主義者の墓場ネヴァ川は彼らの大砲で氷がこなごなにされてしまった。英雄的な水兵や兵士は最後まで自分の部署を守った。不幸にして戦闘で死ななかったものは敵の手中に落ちて、処刑されたり、ロシヤ最北の凍原地帯に送られて、徐々に苦しめられたのである。

 

 私たちはろうばいした。ボリシェヴィキに対する信頼の最後の糸が切れたサーシャは街を絶望的に歩きまわった。私の手足は鉛のようで、全神経はいいようもなく疲れ切っていた。私は弱々しくすわって、暗闇を見つめていた。ペトログラードは黒いとばりのなかでただよっていた。気味悪い死体であった。街の灯は消えかかったローソクのように黄色に明滅していた。

 

 三月一八日、不安な一七日間の睡眠の不足した後のまだものうい翌朝、私は多勢の足音で目がさめた。共産主義者が行進し、楽隊は軍歌を演奏し、「インタナショナル」を歌っていた。かつて私の耳にこころよかったこの旋律が今では人間の燃え立つような希望の葬送歌のようにひびいた。

 

 三月一八日、―パリ・コミューンの記念日。パリ・コミューンはその二カ月後に三万人のコミュナールの虐殺者のティエールとガリフェによって粉砕されたが、一九二一年三月一八日にはクロンシュタットでそれが踏襲された。

 クロンシュタットの「清算」の十分な意義は弾圧三日後にレーニン自身によって明らかにされた。クロンシュタット包囲が進行中であったときにモスクワで行なわれていた第一〇回共産党会議で、レーニンは意外にも彼の発案になる共産主義歌を、彼の発案(インスパイアド)になる新経済政策賛歌に変えたのである。

 

 自由貿易、資本家への譲歩、農場と工場労働者の私的雇用、これらすべては三年以上も俗悪な反革命とののしられ、投獄や死刑にすら処せられたのに、今ではレーニンによって独裁の栄光ある旗にしたためられたのだ。相変らず厚かましくレーニンは、党内外の誠実な思慮深い人々が一七日間に知ったこと、「クロンシュタットの人々は本当のところは反革命家を欲さなかったが、私たちを欲しもしなかった」を認めた。純真な水兵たちは「全権力をソヴェトヘ」という革命のスローガンを真剣にかかげていたが、レーニンとその党はこのスローガンを堅く守ると厳粛に約束した。それは彼らの許しがたい犯罪であった。そのために彼らは死なねばならなかった。彼らはレーニンの新しいスローガンを植え付ける大地を肥沃にするために殺害されねばならなかったが、このスローガンは古いものを完全に逆転したのである。その傑作が新経済政策、NEPである。

 

 クロンシュタットに関するレーニンの公けの告白によっても、敗北した市の水兵、兵士、労働者の捜索は中止されなかった。彼らは幾百人となく逮捕され、チェカは再び「ねらい射ち」にいそがしかった。

 とても奇妙なことに、アナキストはクロンシュタットの「叛逆」と結びつけて言及されなかった。しかし、第一〇回会議でレーニンは、最も仮借ない戦争がアナキスト勢力を含む「プチ・ブル」に対してなされねばならない、と宣言した。労働者反対派のアナルコ・サンジカリスト的な性向は、これらの傾向が共産党それ自身のなかで発展したことを証明する、と述べた。レーニンがアナキストに対して武力に訴えたことはただちに反応があった。ペトログラードのグループは急襲され、多数が逮捕された。そのうえに、チェカは私たちの陣営ではアナルコ・サンジカリスト派に属する『ゴーロス・トルーダ』の印刷所と発行所を閉鎖した。私たちはこのことが起るまえにモスクワ行きの切符を買っていた。私たちは大量の検挙について知ったとき、もし私たちも追われているのなら、もう少し滞在しようと決心した。しかし、私たちは干渉されなかったが、それは多分ソヴェトの監獄には「ならずものども」だけしかいないことを示すために、二、三のアナキストの知名人を自由にしておくことが必要であったからであろう。

 

 モスクワでは六人を除いてすべてのアナキストが逮捕されていたし、『ゴーロス・トルーダ』の書店は閉鎖されていた。どの市でも私たちの同志に対するどんな告発もなされなかったし、彼らは審問されたり裁判されたりしなかった。にもかかわらず、彼らの多くはサマラ刑務所へすでにおくられていた。まだブチルキやタガンカ監獄にいる人々は最悪の迫害と肉体的な暴力さえも受けていた。このようにして、私たちの若い仲間の一人、若いカシーリンは看守の面前でチェカ部隊になぐられた。革命の前線で戦ったことがあり、多くの共産主義者に知られ、尊敬されていたマクシーモフと他のアナキストたちはぞっとするような状態に反対してハン・ストを宣言せざるをえなかった。

 

 私たちがモスクワへもどって最初に要求されたことは、私たちの仲間を根絶するために協定された戦術を告発するソヴェト当局に対する宣言に署名することであった。

 私たちはもちろん署名したが、私と同じく、いまではサーシャも、まだ獄外にある一にぎりの国事犯たちのロシヤ国内での抗議は全く役に立たぬと力説した。他方、たとえ私たちがロシヤの大衆に近づくことができたとしても、彼らから効果的な行動を期待することはできなかったであろう。長年にわたる戦争、内戦、苦労は彼らのヴァイタリティを侵食し、テロルは彼らを沈黙させ、従順にした。私たちのたのみはヨーロッパと合衆国である、とサーシャは断言した。海外の労働者が「一○月」の恥ずべき裏切りについて知らねばならないときが来た。あらゆる国におけるプロレタリアート、他の自由な急進的な勢力の覚醒した意識が、信念のために仮借ない迫害に対する強い叫びに具体化されねばならなかった。それだけが独裁の手を止めたであろう。他のものは何もそれができなかった。

 

 クロンシュタットの殉教は私の仲間に代わってすでにこのことを大いになしとげていた。それは彼がボリシェヴィキの神話を信じていた最後の形跡を打ち破った。サーシャだけでなく、かつては共産主義者の方法を革命期には不可避的であると擁護していた他の同志たちも、ついに「一〇月」と独裁との間の深淵を見ざるをえなくなったのである。

 

 彼らの知った深遠な教訓の費用がさほど莫大なものでなかったらば、私とサーシャが再び同じ立場で手を結んだということ、これまでボリシェヴィキに対する私の態度に敵対的な私のロシヤの同志が今では私と親しくなったということを知って、私は安堵したであろう。苦しい孤立のなかであれ以上模索しなかったこと、アナキストの間で最も有能な人間として私が過去に知った人々のなかでさほど疎外を感じないこと、三二年間の共通の運命を通じて私の生命、理想、労働を共有した一人の人間の前に、私の思想と情緒を押えなかったことはなぐさめであろう。だが、クロンシュタットには黒い十字架が建てられ、現代のキリストたちの血が彼らの心臓からしたたり落ちている。いかにして個人的ななぐさめとすくいをいだくことができるであろうか。

(木田冴子訳)

 編者あとがき

 

 本書は、ベルクマン(小池英三訳)『クロンシュタットの叛逆』(自由書房、昭和三年。集団「変革者の言葉」、昭和三五年)の復刻である。ただし、復刻にあたっては伏字を回復し、誤植を訂正し、旧かなずかいを新かなずかいに、旧漢字を新漢字に改めたほか、訳文を少し修正したが、この作業による誤訳はないと信ずる。

 

 

 付、富田武『クロンシュタット反乱参加者の名誉回復』

 

 (注)、これは、『新版・ロシアを知る事典』(平凡社、二〇〇四年)における「名誉回復」項目の抜粋(七四二頁)である。旧版ではなかった「ソ連解体以後」の部分を、富田武が執筆担当をしている。ただ、名誉回復の根拠は、ここに書かれていない。歴史の評価が、クロンシュタット水兵一万人・基地労働者四千人は反革命分子でなく、いわゆるクロンシュタット反乱とは、正当な十五項目綱領に基づく、ソヴィエト内の合法的な要請行動だったと逆転した。となると、(1)それにたいして「白衛軍将軍どもの役割」と真っ赤なウソをつき、()彼らに「白衛軍の豚」レッテルを貼りつけ、(3)上記のような殺し方で皆殺しをさせたレーニンの評価はどうなるのか。レーニンの側こそ、ソヴィエト権力の簒奪者であり、ソヴィエト機構をボリシェヴィキ一党独裁権力に変質させた軍事クーデターの反革命指導者だったことになる。現在のロシア歴史学会では、十月の規定として、それを、十月プロレタリア社会主義大革命などでなく、レーニン・ボリシェヴィキによる単独権力奪取の軍事クーデターだったとする見解が、主流になってきている。

 

    富田武『Professor Tomita's Platformソ連政治史、コミンテルン史

 

 [ソ連解体以後]名誉回復の対象は、共産党解散・ソ連解体とともに、レーニンの下での弾圧の犠牲者にも及ぶようになった。〈政治弾圧犠牲者の名誉回復に関するロシア共和国法〉に基づき、従来〈反革命分子〉とされていたクロンシュタットの反乱参加者が、94年1月の大統領令で名誉回復された。また、内戦期に大多数が〈白衛軍〉についたとされるコサックは、91年8月クーデタ前に採択された〈被弾圧諸民族の名誉回復に関するロシア共和国法〉の適用を受けて、92年6月の大統領令で名誉回復された。この法に基づいて、第2次世界大戦中に対独協力の疑いでシベリア等に強制移住されたチェチェン人、イングーシ人、ヴォルガ・ドイツ人や、大戦前に対日協力の疑いでシベリア、中央アジアに強制移住(民族強制移住)させられた朝鮮人も名誉回復されている。

 

 〔名誉回復問題について、富田武氏への私(宮地)のメール質問〕

 (1)、クロンシュタット反乱者の名誉回復にいたる経過と、名誉回復理由

 (2)、コサックの名誉回復にいたる経過と、名誉回復理由

に関して、分かる範囲で教えて頂けないでしょうか。(なお、返事のHPへの転載の了解を頂いています)

 

 〔富田武氏からのメール返事の全文〕

 宮地さん、とりあえずのお答えをします。富田武。
 1)、コサックの名誉回復について:コサックはヴォルガ・ドイツ人、チェチェン人等と並べられる民族ではなく、ロシア人だが独特の歴史と文化、風俗を持つため「民族」の扱いを受けたと言えます。その名誉回復はコサック自身の運動によるものですが(モスクワでも祖父譲りの制服をまとった彼らをよく見かけました)、そこにロシア民族主義の尖兵として使いたいというエリツィン政権の思惑が働いたことは言うまでもありません。ちなみに、1992年6月15日の大統領令では「コサックに関わる歴史的公正の回復、歴史的に形成された文化的・民族的一体性をもつ集団としての名誉回復を目的とし、コサック復興運動代表者のアピールに応えて」となっています。

 2)、クロンシュタット反乱参加者の名誉回復:こちらには名誉回復の運動はありませんでしたが、十月革命そのものを不当な権力奪取とみる(二月革命のブルジョア議会コースが望ましかったとする)エリツィン政権にしてみれば、水兵たちの要求(ボリシェヴィキ抜きのソヴィエト)の正当性を認めたのではなく、共産党の歴史的不当性を照明するためでした。ちなみに、1994年1月10日の大統領令では「1921年春のクロンシュタット市における武装反乱の廉で弾圧されたロシア市民の歴史的公正、法的権利を回復するため」とあり、具体的には、1921年3月2日の労働国防会議決定第1項(コズロフスキーもと将軍と部下を法の保護外におく)を廃止し、水兵らに対する弾圧を不法な、基本的人権に反するものと認め、事件犠牲者の記念碑をクロンシュタット市に建立するという3つの措置を決めました。
 *労働国防会議決定第2項「ペトログラード市とペトログラード県を戒厳状態に置く」、第3項「ペトログラード要塞地区の全権をペトログラード市防衛委員会に移管する」。

 なお、両者とも詳細な資料集が1997年に刊行されています(前者はまとめてではなく、ドン地方の『ミローノフ』など)。

 

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 (関連ファイル)

     『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』

     『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構(3)』

       ペトログラード労働者の全市的ストライキとクロンシュタット反乱との直接的関係

     『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機・クロンシュタット反乱

     『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』クロンシュタット反乱

     『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』電子書籍版

     『クロンシュタット水兵の要請行動とレーニンの皆殺し対応』コメントと6資料

     P・アヴリッチ 『クロンシュタット1921』クロンシュタット綱領、他

     イダ・メット   『クロンシュタット・コミューン』反乱の全経過・14章全文

     ヴォーリン  『クロンシュタット1921年』反乱の全経過

     スタインベルグ『クロンシュタット叛乱』叛乱の全経過

     大藪龍介   『国家と民主主義』1921年ネップとクロンシュタット反乱

     梶川伸一   『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』クロンシュタット反乱の背景

       食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、

       レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討

     ABerkman 『The Kronstadt Rebellion英語版全文

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