「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害と
レーニン「プロレタリア独裁」論の虚構(3)
クロンシュタット反乱との直接的関係
(宮地作成)
〔目次〕
1、「1917年〜21年のレーニンと労働者」のデータと文献 (別ファイル・虚構1)
2、存否論(1)、ソ連人口におけるプロレタリア比率とボリシェヴィキ支持率(表1〜5)
3、存否論(2)、「プロレタリア独裁国家」下での労働者ストライキ激発と流血の鎮圧
1917年12月〜1920年(表6、7) (別ファイル・虚構2)
4、存否論(3)、ペトログラード労働者の大ストライキと大量逮捕・弾圧・殺害手口
1921年2月22日〜3月3日
(注)、このファイルは、レーニン・政治局による「ストライキ」労働者の大量殺害問題と「プロレタリア独裁国家」の存否論というテーマを扱うだけに、その論証データが膨大になりました。よって、ファイルを(虚構1、2、3)と3分割しました。印刷すると、〔目次1、2〕13ページ、〔目次3〕19ページ、〔目次4、5〕23ページで、全部は55ページになります。
(関連ファイル) 健一MENUに戻る
『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが殺した「自国民」の推計』
『「反乱」農民への裁判なし射殺・毒ガス使用指令と「労農同盟」論の虚実(1)』
『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機、クロンシュタット反乱
『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』クロンシュタット反乱をSF小説化
P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』クロンシュタット綱領、他
イダ・メット『クロンシュタット・コミューン』反乱の全経過・14章全文
ヴォーリン 『クロンシュタット1921年』反乱の全経過
スタインベルグ『クロンシュタット叛乱』叛乱の全経過
A・ベルクマン『クロンシュタットの叛逆』叛逆の全経過
大藪龍介『国家と民主主義』1921年ネップ導入とクロンシュタット反乱
梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1918年
梶川伸一『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』クロンシュタット反乱の背景
食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、
レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討
中野徹三『社会主義像の転回』 制憲議会解散論理、1918年
ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁の誤り
ダンコース『奪われた権力』第1章
アファナーシェフ『ソ連型社会主義の再検討』
ソルジェニーツィン『収容所群島』第2章、わが下水道の歴史
4、存否論(3)、ペトログラード労働者の大ストライキと大量逮捕・弾圧・殺害手口
1921年2月22日〜3月3日の10日間
〔小目次〕
3、ペトログラードのデモ・ストライキと大量逮捕・弾圧・殺害手口
P・アヴリッチは、『クロンシュタット1921』(P.25)で、次のようにのべています。
『一九二〇年の末までに、ペトログラードにおける工場労働者の実質賃金は、公式の推測によれば、その戦前レヴェルの八・六パーセントにまで下落した。貨幣の価値が失われるにつれて、賃金のますます増大する部分は現物で労働者に支払われた。食糧配給量(パヨーク)は労働者の賃金の中核を形成するようになり、それに加えて、彼らは政府から靴と衣頬を、ときには彼らの生産物の断片を受け取り、それらは通常食糧と交換された。
それでも、工場労働者は自身とその家族を養うに足るものをめったに得ることはなく、そこで彼らは、家庭を捨て食糧を探し求めて農村に集っていた都市民の群れに加わったのである。一九一七年一〇月と一九二〇年八月(このとき新しい国勢調査がおこなわれた)との間に、ペトログラードの人口はほぼ二五〇万から三分の二近くの減少にあたる、約七五万に落ちこんだ。同じ時期、モスクワはその住民のほとんど半数を失い、他方ロシアの全都市人口は約三分の一減少した。これら移住者のかなりの部分は、故郷の村へ舞いもどり以前の農民生活に復帰した工業労働者であった。一九二〇年八月、ペトログラードには、たとえば、それが三年まえに誇りえたほぼ三〇万の工場労働者の三分の一が残っていたにすぎず、ロシア全土を通じて労働者の総減少は五〇パーセントを越えたのである。この劇的な凋落の一部は、もちろん、前線での高い死亡率に、また一部は土地の分割にあずかるため帰村した多数に帰せられる。工業の混乱と燃料および衣類の欠乏もまた、人口の流出を加速した。だが、大多数の者は、都市における供給が急速に飢餓水準に近づいた一九一九年と一九二〇年との間にとくに、食糧を求めて出ていったのである。』
E・H・カーは、『ボリシェヴィキ革命2』(P.147)で次のデータを挙げています。
『ブハーリンは、一九一八年三月の第七回党大会で、プロレタリアートの解体について発言した。国内戦が、ふたたび、何十万もの疲れきった人々を双方の陣営の軍隊に追いこんだことは、この過程に大きく拍車をかけた。工業は、動員と、供給および生産の複雑な機構の崩壊とから最大の被害をうけた。一九一八年末に、クラーシンは、ブレスト=リトフスクの当時、「恐怖状態に影響されて」ペトログラードから早急に撤退したことによる「大打撃」について述べているが、これは「ペトログラードの工業のほとんど完全な破壊」をもたらしたのであった。寄せ集めの近似的な数字によっても、工業労働者数の減少はペトログラード地区が口火をきり、しかももっとも急速に進んだことが確かめられる。ここでは、一九一八年末の労働者数は、二年前の総数の半分をいくらも上まわっていなかった。
一九一九年にソヴィエトの支配下にあった全地域についての、労働組合の統計にもとづいた計算によれば、工業企業の労働者数は一九一七年の総数の七六パーセントに減少し、建設では六六パーセントに、鉄道では六三パーセントに減少していた。数年後に発表された包括的な統計表は、工業における雇用労働者数が、一九一三年の二六〇万人から一九一七年には三〇〇万人に増加して、その後は減少の途をたどり、一九一八年には二五〇万人、一九二〇〜一九二一年は一四八万人、一九二一〜一九二二年には一二四万人となって、一九一三年の半数以下となったことを示した』。
2、ペトログラード労働者の飢餓と経済要求、政治要求の激化
この状況については、イダ・メット『クロンシュタット・コミューン』の「クロンシュタット前夜のペトログラード」や、P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』が、詳細な分析をしています。その要点を時系列順に直して書きます。
1920年夏、ジノヴィエフの『商取引を禁じる布告』発令
市場は、公式には廃止となっていました。しかし、なかば黙認された闇市場は、ペトログラードにも存在していました。1920年夏、突然、ジノヴィエフが、『いかなる種類の商取引をも禁じる布告』を発令しました。当局は、それまで開いていたわずかな数の小商店を閉鎖させ、その扉を封印しました。これは、レーニンの「市場経済廃絶」路線に基づいて、ソ連全土で強行されました。この瞬間から、飢餓はもはや住民の創意工夫によっては緩和できないものとなりました。ペトログラードの飢餓はその極点にまでたかまったのです。
1921年1月、ペトログラード市国家供給部(Petrokommouna)の報告
それによれば、金属精錬工場労働者は1日分の配給量として黒パン800グラム、その他の重工業の労働者は600グラム、A・Xカードを所有する労働者は400グラム、残余の労働者は200グラム、をそれぞれ割りあてられていました。黒パンは、当時のロシア人にとって主食でした。
ところが、こうした公式の割当てですら、不規則にしか配給されず、しかも規定量よりも少ないというありさまでした。住居は、暖房なしでした。衣類と靴の欠如はひどいものでした。公式統計によれば、ペトログラードにおける1920年の労働者階級の賃金は、1913年当時のそれのわずか9パーセントにすぎませんでした。
住民は首都から流出していきました。地方に親戚をもっている人びとは、そこへ帰っていきました。正真正銘のプロレタリアートは、地方ときわめて細々とした関係を保ちながら、最後まで留まっていました。当時ペトログラードに駐留していた数千の「労働軍兵士」(Troudarmeitzys)も、同じ事態でした。最後にストライキという階級闘争の古典的武器に訴えたのは、先行する2つの革命「二月革命」と「十月・ソヴィエト革命」で傑出した指導的役割を演じた、かの名高いペトログラード・プロレタリアートそのものでした。
1920年〜21年の冬、飢餓の深刻化
ペトログラードの人口が3分の2も減少したにもかかわらず、1920年〜21年の冬はことに厳しいものになりました。市中の食糧は1917年2月以来、払底していて、その後の事態は、毎月毎月悪化していました。大都市ペトログラードは、他の諸地方から持ち込まれる食料品に、つねに依存してきました。しかし、これらの地域の多くで、農村経済は危機に瀕しており、ペトログラードへの供給は、きわめて少量でした。鉄道の悲劇的な状態は、事態をさらに一段と悪化させていました。
その原因は、(1) レーニンが強行した「食糧独裁令」の「軍事・割当徴発」という根本的に誤った、9000万農民からの穀物・家畜収奪路線と、(2)食糧供給にあたる国家諸機関の行政上の官僚主義的堕落です。その結果、住民に《食糧を供給する》という政府の役割は、実際には反対の飢餓の進行をもたらしました。
ペトログラードの住民は、ありとあらゆる可能なところで、食糧を調達しました。物々交換は、大規模に行なわれていました。農村には未だ若干の食糧の予備があり、農民は、この穀物を自分たちに欠如している品物――長靴、石油、塩、マッチといった生活用品――と交換します。労働者は、それらの品物を携えて農村へ行き、交換に数ポンドの小麦粉や馬鈴薯を肩にかついでくるのでした。
1921年1月21日、政府が『都市へのパン配給量を1/3に削減する』政策を発表
これにより、労働者のボリシェヴィキ体制への怒りは、極限状態になりました。労働者の怒りは、ペトログラード守備軍や周辺のバルチック艦隊水兵にも波及しました。クロンシュタット・ソヴィエトは、ペトログラードのすぐ沖のコトリン島にありました。バルチック艦隊の最大拠点基地である島には、水兵・労働者を含むソヴィエトの住民55000人がいました。
1921年1月、クロンシュタット水兵の5000人集団脱党
そこの水兵の怒りは、飢餓だけでなく、軍事方針にも向けられました。彼らは、トロツキーの方針に対抗して、『海軍における「政治部」の完全な廃止』を要求しました。「海軍政治部」の実態は、(1)軍全体にたいするボリシェヴィキの一党独裁システムというだけでなく、(2)軍事人民委員トロツキーによって、ボリシェヴィキ党員水兵にたいする統制・管理機関に変質させられていました。1月だけで、ボリシェヴィキ党員である水兵5000人が、抗議の集団脱党をしました。
1921年2月上旬、燃料欠如による工場閉鎖と食糧供給の途絶
当局は、ペトログラード最大の工場60以上を、燃料欠如のため、閉鎖しました。食糧供給も、「政府の特権階層」以外、おおかた途絶しました。飢えた労働者と兵士たちが、街頭でパン屑を乞う状況が現れました。激昂した市民は、「階級範疇による不平等な配給制度」に抗議しました。レーニン・ジノヴィエフは、ペトログラードにおいて、(1)「32種類の食糧配給カードによる階級差別」政策を施行し、(2)食糧配給「有効期限1カ月間のみのカード」システムを労働者支配・ストライキ鎮圧の武器にしてきていたのです。(3)その中の「特権階層」とは、政府官僚、チェキスト、赤軍、ボリシェヴィキ党員などでした。市民と労働者の怒りは、『ボリシェヴィキ党員だけが、新しい靴と食糧を受け取った』という噂で頂点に達していきました。
1921年2月中旬、モスクワの工場集会とデモ・ストライキの激発
最初の労働者決起は、新首都モスクワで、噴出しました。自然発生的な工場集会のラッシュで始まりました。それに続いて、ストライキとデモが行われるにつれて、決起は全市に広がり、急速にエスカレートしました。「製革工の代表者会議」や「非党員金属工の代表者会議」も開かれようとしました。
経済要求は、(1)「労働の軍事規律化」「戦時共産主義」の即時廃止と「自由労働制」実施、(2)「食糧独裁令」の「穀物徴発」撤廃と「自由取引・自由商業」回復、(3)配給量の増額などでした。彼らは、経済要求に止まりませんでした。
政治要求は、(4)「政治的権利と市民的自由の回復」、(5)「憲法制定議会の復活」でした。なかには、(6)「共産主義者とユダヤ人はくたばれ」というプラカードもありました。
最初、当局は、救済の約束でデモを終わらせようとしましたが、失敗しました。レーニンも、モスクワ金属工場の騒々しい集会に出て、説得しようとしましたが、労働者たちからやじり倒されました。ここにいたって、もはや、“労働者にたいするレーニン演説の権威”は、完全に地に落ちたのです。そこで、レーニンは、正規の軍隊と士官学校生徒(クルサントゥイ)を導入し、「ストライキ」労働者を弾圧し、秩序を回復させました。
ただ、モスクワにおけるストライキ工場数、参加労働者、逮捕・処刑数などは、ソ連崩壊後も、判明していません。
1921年2月15日、第2回バルチック艦隊共産党員水兵会議と決議
軍事人民委員トロツキーは、(1)赤軍正規軍化、(2)ツアーリ将軍らの大量雇用、(3)ボリシェヴィキ党員からなる政治委員(コミッサール)配置、(4)将校選挙廃止と政治部の将校任命制による兵士委員会の権限剥奪、さらには、(5)自主的に結成されていた兵士委員会の廃止を強行しました。トロツキーは、「軍隊内の政治部」を、党の方針を遂行し、他党派支持兵士を排除し、他の国家暴力装置と同じく、(6)「赤軍をボリシェヴィキ一党独裁軍に転換させるためのシステム」に変質させていたのです。
会議は、300人の代議員を集めて、『バルチック艦隊政治部(Poubalt)の所業を公然と非難する決議』を可決しました。それは、次の4項目です。この決議は、その「党独裁」機関自体が、官僚化して、ボリシェヴィキ党員水兵にたいする統制・管理機関となり、「独裁政党」側にいるバルチック艦隊共産党員水兵から、公然と非難される実態に“腐敗”していたことを証明しました。
『第二回共産党員水兵会議は、バルチック艦隊政治部(Poubalt)の所業を公然と非難するものである。
(1)、バルチック艦隊政治部は、自らを大衆からばかりか、活動家たちからも切り離している。それは、水兵のあいだになんらの権威を有さぬ、官僚的機関へと変質してしまったのである。
(2)、バルチック艦隊政治部の仕事には、計画性もしくは順序だった方法が全面的に欠如している。同時にそこには、その行動と第九回党大会で採択された諸決議とのあいだの一致が存在していない。
(3)、バルチック艦隊政治部は、自らを党員大衆からまったく切断してしまった結果、その局部的イニシアティブを全的に破壊してしまった。それは、すべての政治的活動を机上の仕事に変えてしまった。こうしたことは、艦隊における大衆組織に有害な影響を与えてきた。昨年六月から一一月のあいだに(水兵)党員の二〇パーセントが、離党してしまっている。これは、バルチック艦隊政治部の誤った指導方法により説明されうるのである。
(4)、この原因は、バルチック艦隊政治部の組織諸原則そのもののなかに見い出されるべきである。これらの諸原則は、民主主義をより一層拡大する方向に転換されねばならない』(『クロンシュタット・コミューン』P.17)。
数人の代議員は、その発言のなかで、海軍における「政治部」の完全な廃止を要求しました。
1921年2月22日、モスクワの労働者デモとチェーカーによる鎮圧
22日から24日、モスクワで労働者デモが発生しました。デモ隊は、兵士に連帯を表明するために、モスクワ守備隊の兵営に入ろうとしました。チェーカー分遣隊が、それを阻止し、デモ隊何人かを殺し、何百人も逮捕しました。
3、ペトログラードのデモ・ストライキと大量逮捕・弾圧・殺害手口
1921年2月22日〜3月3日の10日間
〔小目次〕
2月22日、ペトログラードの工場ほとんどで自発的労働者集会が勃発
2月23日、トルーボチヌイ工場における最初のストライキ発生
2月24日、労働者集会・3000人デモと、即時弾圧体制確立・「戒厳令」発令
2月25日、トルーボチヌイ工場労働者が周辺の工場に職場放棄を呼び掛け
当局の弾圧と宣伝
2月26日、クロンシュタット調査代表団派遣。当局の弾圧とストライキ沈静化目的の譲歩
2月27日、労働者側の「宣伝文」「ビラ」。当局による譲歩追加
2月28日、プチーロフ工場ストライキ決起
「党員軍」のペトログラード突入命令とストライキ粉砕。
クロンシュタット代表団の帰着と決議
3月 1日、クロンシュタット人民大会。当局の譲歩追加
3月 2日、1万人逮捕・500人即時殺害
レーニン・トロツキーによるクロンシュタット弾圧命令
3月 3日、ストライキの完全鎮圧。工場の操業開始。蜂起の動きと大量逮捕
以下のデータは、主に、ソ連崩壊前に出版された、P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』、イダ・メット『クロンシュタット・コミューン』、ヴォーリン『知られざる革命』ら3人の著書に基づいています。ソ連崩壊後の研究で、ニコラ・ヴェルト、ヴォルコゴーノフ、その他の「ロシア革命史」研究者の著書は、この「ペトログラードの10日間」について、新しい資料をあまり載せていません。E・H・カーも、具体的なデータを書いていません。日本人の研究者で、このテーマを分析した人は、私の知る限り、2002年4月現在までに一人もいません。以下の内容は、3冊の資料を、私(宮地)なりにまとめ、要約し、私の見解を含めて再構成したものです。よって、存否論(2)『共産主義黒書』データ引用と異なり、存否論(3)の『ペトログラードの10日間』では、個々のデータに関する3冊からの引用ページ数を、ごく一部以外書きません。また、P・アヴリッチは、「第2章、ペトログラードとクロンシュタット」(P.39〜100)において、下記データに関する出典の(注)を、92カ所もつけています。しかし、出典文献が、すべてロシア語か英語なので省略します。
ジョン・リードは、『世界をゆるがした十日間』(岩波文庫、1919年初版)で、「十月革命」のペトログラードを生き生きと描きました。彼は、アメリカ共産党員として、これをボリシェヴィキ全面支持の立場から書きました。レーニンは、1919年末の「序文」において、『私はこの書を世界の労働者たちに無条件で推薦する』と絶賛しました。
その11月7日から3年4カ月後、ふたたび、『ペトログラードとレーニンをゆるがした十日間』が勃発しました。今度は、レーニンの路線・政策に反対し、その撤廃要求を掲げた、ペトログラード・プロレタリアートの集会・デモ・全市的ストライキでした。ソ連全土での「農民反乱」、モスクワ・ペトログラード労働者ストライキ、クロンシュタット・ソヴィエト水兵の「反乱」という全階級の「反乱」・反ボリシェヴィキ独裁の総決起によって、レーニンは一党独裁政権崩壊の危機に直面しました。レーニンとペトログラード・ソヴィエト議長ジノヴィエフが採った対応は、「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害でした。そして、“世界をゆるがすことがない”よう、その弾圧データを完璧に隠蔽・消去しました。逮捕者1万人中、500人即時殺害以外の銃殺・強制収容所送り・流刑などの処分データは、その80年後およびソ連崩壊11年後になっても不明のままです。
2月22日、ペトログラードの工場ほとんどで自発的労働者集会が勃発
レーニン、ジノヴィエフは、上記全体の労働者政策を変えることを拒みました。不満・要求をもった労働者たちと討論しようともしませんでした。労働者のどんな提案・発議もはねつけました。労働組合トップはボリシェヴィキ党員で占められ、政府と一体化していました。その労働組合幹部自体が、「労働の軍事規律化」「ノルマ制」「出来高払い制」を積極的に遂行していました。政府と労働組合が、一般労働者の要求を解決する民主主義的ルートを、剥奪・閉鎖していたのです。
モスクワに続いて、ペトログラードでも、労働者たちが決起し、ほとんどの主要工場で、労働者大会を開きました。集会は、政府への要求案を可決し、その決議文を工場、街頭に貼り出しました。演説者たちはみな、まず、食糧問題を解決することを求めました。(1)穀物徴発の廃止、(2)道路遮断物の撤去、(3)特権的配給量の廃止、(4)個人所有物を食糧と交換することの許可、などです。
しかし、要求内容や労働者の行動には、様々な見解が現れ、歪みも出ました。なぜなら、1921年時点には、レーニンが、それまでに、労働者の思想・討論の自由を禁止し、他社会主義政党の革命家・指導者のほとんどを逮捕し、殺害し、監獄に閉じ込めるか、国外追放していたからです。よって、集会は、労働組合主導の正規大会でなく、大部分が“労働組合幹部に逆らった、自発的な、山猫ストライキ的な大会”にならざるをえませんでした。“ボリシェヴィキという「反革命・反労働者」「食糧独裁令」の一党独裁政府”にたいする労働者の非合法集会が、ペトログラードのいたるところの工場で勃発しました。
2月23日、トルーボチヌイ工場における最初のストライキ発生
最初のストライキが、トルーボチヌイ工場において勃発しました。ここは、ペトログラードで最大の金属工場でした。「ストライキ」労働者たちの要求内容は、飢餓対策として食糧供給援助への緊急処置です。具体的には、(1)ジノヴィエフが「市場経済廃絶」政策として全面禁止した地域的な市場の再設置、(2)市から半径30マイル以内の旅行の自由、(3)市周辺の道路を押えて農村からの食糧持ち込みを阻止している民兵分遣隊の退去などです。こうした経済的諸要求と並んで、いくつかの工場は、(4)言論および出版の自由とか、(5)労働者政治犯の釈放とかいった、一層政治的な要求を前面に押し出していました。トルーボチヌイ工場の集会は、さらに、(6)『食糧配給量の増額と手持ちのすべての靴および冬物衣類の即時分配を要求する』決議を通過させました。
2月24日、労働者集会・3000人デモと、即時弾圧体制確立・「戒厳令」発令
(1)、労働者のデモ・集会
24日朝、ストライキ鎮圧に必死の当局は、トルーボチヌイ工場で、労働者手帳を一人一人検査しました。それは、当局の決定的な挑発でした。工場全体が仕事を止めました。労働者は、道具を置いて、工場から退出しました。ストライキ参加者は、ネヴァ川北岸にあるヴァシリエフスキー島への道をとったのち、街頭における大衆的示威行進(デモンストレーション)を組織しました。ストライキ代表団は、ペトログラード守備隊の一つであるフィンランド連隊の兵営と連絡をとろうと試みました。しかし、兵士をデモに引き入れることには失敗しました。にもかかわらず、追加の労働者が付近の工場から、学生が鉱山専門学校から到着し始め、やがて3000人の群衆が政府にたいする彼らの否認を叫ぶために集りました。ある説明によると、ペトログラード労働組合評議会のボリシェヴィキ議長アンツェロヴィチが現場へ急行し、労働者に仕事にもどるよう促したが、車から引きずり降ろされ殴りとばされました。
いくつかの大工場労働者は、1918年3月のように、「労働者全権会議」を選挙で作りました。これには、メンシェビキやエスエルの影響がありました。この会議は、最初の声明で『(1)ボリシェヴィキの独裁廃止、(2)ソヴィエトの自由選挙、(3)言論・結社・出版の自由、(4)全政治犯の釈放』を要求しました。
(2)、ジノヴィエフによるデモの武力解散措置
ジノヴィエフは、一般兵士でなく、ボリシェヴィキ党員からなり、政府に絶対忠誠の「クルサントゥイ」(士官学校生徒)の分遣隊を彼らデモ隊3000人に対抗して繰り出しました。なぜなら、一般兵士では、他地方ですでに何回も発生していたように、鎮圧命令を拒否して、「ストライキ」労働者に加担する危険が高かったからです。その士官学校生徒軍隊は、非武装の大衆デモを武力で解散させました。その軍隊とペトログラード・チェーカーは、いくつかの集会を阻止しました。無数の報告書によれば、ジノヴィエフはペトログラードにおいて、真の専制君主のごとく振舞っており、暴力に訴える以外に「ストライキ」労働者を説得するすべを知らなかったのです。
こうした間にも、ストライキは拡大していきました。バルチスキイ工場が操業を停止しました。ラファーマ工場や多くの工場――スコロホッド靴工場、アドミラルチスキイ工場、ボーマンおよびメタリスチェスキイ工場もストライキに加わりました。パトロニイ軍需工場もストライキに入りました。大工場のいくつかで、ストライキ参加者は、党代表者たちが発言する機会を拒否しました。
(3)、レーニン・ジノヴィエフによる防衛委員会設置と「戒厳令」と包囲状態宣言
24日、レーニンの緊急指令に基づいて、党指導者たちは、防衛委員会と呼ばれる特別参謀本部を設置しました。ペトログラード市の全地区にも、地区党指導者、地区旅団の党員大隊指揮官それに将校訓練隊付政治委員からなる同様の3人委員会(「トロイカ」)を設置するよう命令しました。また同様な委員会を、遠隔地域にも組織しました。「トロイカ」とは、地方党指導者、地方ソヴィエト執行委員会議長、それに地区軍事人民委員という、「党・ソヴィエト・軍からなる、一党独裁型のストライキ弾圧システム」のことです。
同日、防衛委員会はペトログラード全市に「戒厳令」と包囲状態宣言を発しました。(1)夜間11時以降の市街地の通行禁止、および(2)防衛委員会に前もって特別に許可されなかった集会や会合は戸外たると屋内たるとを問わず、全面的に禁止、(3)「いかなる違反も軍隊法に従って処断されるであろう」とする内容です。この布告は、ペトログラード軍管区司令官アヴローフ(後にスターリンによって銃殺される)、軍事会議委員ラシェヴィチ(後年、自殺した)、それにペトログラード要塞地区司令官ボーリン(後にスターリンによって銃殺される)らの「トロイカ」が、署名しました。
当局は、ボリシェヴィキ党員にたいする総動員令を発令しました。特別部隊を編制し、これは《特別な目標》に向けて派遣されることとなりました。同時に、この都市への入口と出口に通ずる道路とを警戒していた民兵分遣隊を、「ストライキ」労働者に加担する危険があるとして、撤退させました。そうした後で、ペトログラード・チェーカー分遣隊は、デモ隊に発砲し、労働者12人を殺害しました。ストライキの指導者たちの大量逮捕を開始し、この日だけで、1000人の労働者と社会主義者を逮捕しました。
2月25日、トルーボチヌイ工場労働者が周辺の工場に職場放棄を呼掛け。当局の弾圧と宣伝
(1)、労働者ストライキの拡大、兵士の脱走・労働者への参加
デモ・ストライキの動きは、さらに大きくなり、町中に広がりました。「ストライキ」労働者は、海軍兵器廠とギャレルネイア港湾労働者に呼掛けました。労働者があちこち群をなして集会をしようとするたびに、特別部隊が追い散らしました。
ヴァシリエフスキー島におけるデモの翌日、トルーボチヌイの労働者はふたたび街頭に出て、周辺の工場地区の間を扇動してまわり、仲間の労働者に職場を放棄するよう呼掛けました。彼らの努力はただちに成功を収めました。工場退去が、ラフェルム・タバコ工場、スコロホート製靴工場、およびバルトおよびパトロンヌイ金属プラントに起こりました。ついで、ヴァシリエフスキー島デモ隊のいく人かが前日士官学校生徒によって殺傷されたとの噂にあおられて、ストライキが海軍造船所とガレールナヤ乾ドックを含む、その他の大企業に拡大しました。数地点で、群衆が政府の政策への即席攻撃を聴くために集りました。
何千ものペトログラード守備隊兵士が、労働者に加わるために、部隊から脱走しました。「二月革命」の4年後になって、同じシナリオが繰り返されるかの情勢が現れ始めました。
(2)、当局の弾圧とペトログラード全市包囲体制
そこで、もう一度クルサントゥイが彼らを退散させるために呼び寄せられました。混乱の拡大を見て、政府はペトログラード守備隊にも鎮圧出動するよう「警告」を発しました。しかし、守備隊自体も大きく動揺しており、いくつかの部隊は、労働者にたいしてたたかおうとしませんでした。当局は、危険を感じて、守備隊を武装解除しました。レーニン・ジノヴィエフは、もはや守備隊さえも頼れなくなったので、あわてて、地方や国内の他前線から、多数の「絶対忠誠のボリシェヴィキ党員軍」を、ペトログラード全市包囲に急行するよう緊急動員をかけました。
(3)、ボリシェヴィキ側の大キャンペーン開始
(1)、当局は、「赤色ペトログラードの労働者へ」という共同アピールを発し、彼らに仕事にとどまるよう訴えました。このアピールとともに、彼らは、市内の不安をくい止めるため大宣伝キャンペーンに乗り出しました。あらゆる公式筋から、罷業者は反革命の手に乗らないよう警告されました。『飢え、食糧の枯渇、および寒さは、国土が通り過ぎたばかりの「七年戦争」の不可避的な結果である。かくも高価な勝利を「白衛軍の豚ども」と彼らの支持者に没収されることは、いったい意味をなすだろうか』。
(2)、ペトログラードのクルサントゥイも声明を発しました。内容は、トルーボチヌイの労働者をたんに『イギリス、フランス、およびその他の国々の地主、いたるところに散らばっている白衛軍の手先き、および彼らの従僕、資本主義の追従者――エスエルならびにメンシェビキをよろこばせるにすぎない行動である』と非難していました。
(3)、ペトログラード防衛委員会は、イギリス、フランス、およびポーランドのスパイが混乱を利用するため市内に潜入したと警告しました。
(4)、毎日の政府側新聞は、『「挑発者」と「怠け者」が騒擾に責任がある』と糾弾しました。また、ペトログラードのさまざまな工場と“御用”労働組合(政府と一体化した機関)からの決議の洪水を印刷しました。騒動の発起人といわれたストライキ労働者にたいして好んで使われたあだ名は、シクールニキすなわち「我利がり亡者」――文字通りには、自身の生皮〔肉体的幸福〕にのみ関心をもつひとびと――でした。そして、「ストライキ」のための通常のことば(スターチカあるいはザバストーフカ)を使う代わりに、坐りこみ罷業者と怠業者をも包摂する口語、ヴォルインカの語を貼り付けました。
2月26日、クロンシュタット・ソヴィエトが調査の代表団派遣。当局の弾圧と一方でのストライキ沈静化目的の譲歩(ムチとアメの二面政策)
(1)、クロンシュタットの調査代表団派遣
2月26日、ペトログラードで進行しつつあった事態のすべてに関心を寄せていたクロンシュタット・ソヴィエトの水兵たちは、ストライキについての事実を知るために代表団を派遣しました。
クロンシュタット代表団がペトログラードに到着したとき、彼らは工場が軍隊と士官学校生徒によって包囲されているのを見出しました。いまなお稼動している作業場では、武装した共産党員の分隊が労働者に監視の眼を光らせており、水兵らが近づいていったとき、労働者は沈黙したままでした。「人は考えたにちがいない」とさし迫った反乱における指導的人物ペトリチェンコが記しています。「これらは工場ではなくて帝政時代の強制労働監獄である」と。
以下は、彼が書いた調査の様子です。これを、スタインベルグ『左翼社会革命党1917〜1921』(鹿砦社、1972、P.254)から、そのまま引用します。
「この代表団は、直接にストライキで閉鎖された工場へ赴き、労働者自身の口から説明を求める予定であった。だが、水兵の代表たちは、予期せぬ障害に遭遇した。彼らは、外部を軍隊によって包囲され、内部を武装したチェーカー部員(チェキスト)によって埋めつくされていた。労働者たちは、当惑したような目つきをして、無目的に立ちつくしていた。工場委員会議長がクロンシュタット代表団の話を聴く集会を告げた時、労働者は誰も動きはしなかった。その代りに、『俺たちは彼らを、こうした代表団を知ってるさ』というような呟きを我々は耳にした。そこで我々は尋ねた、『諸君はどうして我々と物事をざっくばらんに討論しようとしないのだ? 我々は諸君の不満の原因を知るためにやってきたのに』。彼らは長い間黙りこくっていた、それから誰かが言った、『俺たちは、前にも代表団に会ったんだ。でも後になって代表団を信用した者は皆、しょっ引かれちまったんだ』。我々は彼らに、我々が間違いなくクロンシュタットから派遣されたのだということを証明する書類を提示した。『さあ、諸君は我々を信じてくれるな?』。それでもなお彼らは動こうともせずその視線は兵士や工場委員会のメンバーに向けられていた。それで我々はすべてを理解し、もはや何も言わずに、彼らの顔をじっと見つめた。彼らの涙にうるんだ目をみているとそのうちの幾人かの頬を涙がつたって落ちていった。我々は、最後に彼らに向かって呼びかけた、『でも同志たち、我々はクロンシュタットに何と報告すれは良いのだ? 諸君は口がきけなくなってしまったのか?』
遂に一人の勇敢な男が口を開くと毅然として語り出した。『そうだ、俺たちは自分の舌をなくしてしまったし、記憶もなくしてしまった。俺はあんた方がここからいなくなったら俺の身の上に何が起るかを承知している。それでも、あんた方がクロンシュタットからやってきている以上は、しかも奴らが俺たちを、クロンシュタットの名前を使って脅迫し続けている以上は、あんた方は本当のことを、つまり、俺たちは飢えさせられているってことを知らなきゃいけない。俺たちには着る物も靴もない。俺たちは、精神的にも肉体的にもテロられているんだ。ペトログラードの監獄を見に行って、この三日間にどれほど多くの俺たちの仲間が逮捕されたのかを知ってほしい。それだけじゃない、同志たち、共産党(コミュニスト)の奴らに――あんたらは俺たちの名前のかげに長い間隠れてきたが、もうたくさんだ!――って言ってやる時がきたんだ。自由に選出されたソヴィエト万歳!』」。
この代表団は、数多くの工場を訪れて回り、28日にクロンシュタットに帰着しました。彼らは目撃した光景への憤慨に満ちて、クロンシュタットへもどり、戦艦『ペトロパヴロフスク』艦上での歴史的集会において彼らの知ったことを提示しました。
(2)、当局における政権崩壊の恐怖感と、一層の弾圧、ロックアウト・大量逮捕
騒擾が高まったので、ペトログラード・ソヴィエトは、以後の行動を検討するため特別会議を開きました。数週間後に悪名をうることになるバルト艦隊コミッサール・クジミーンが、ペトログラードのすぐ沖にあるクロンシュタットに碇泊している戦艦の乗組員の中に不穏な動きがあることを報告しました。そして、水兵らの高まりつつある怒りに注意を促し、もしストライキの継続が許されるなら、クロンシュタットでも爆発が起こるかもしれないと警告したとき、不吉な旋律がかき鳴らされました。クロンシュタットは、ペトログラードの西方約20マイル、フィンランド湾内に位置する、コトリン島上の要塞都市ならびに海軍基地です。(1)ペトログラードの全工場労働者、(2)ペトログラード守備隊兵士、(3)クロンシュタットの武装した水兵などの3つの勢力が、ボリシェヴィキ政権に反対して連携し、同時決起すれば、レーニン一党独裁政府の即時崩壊を引き起こします。
(注)、地図の□印は、クロンシュタット側の海上砦です。
『二月二十六日二十一時、ペトログラードのボリシェヴィキの長であるジノヴィエフは、レーニンに電報を送って、パニックを予告した。「労働者は兵営内の兵士と接触をとり始めた……我々は相変わらずノヴゴロドからの救援隊を待っている。もし信頼できる軍隊が近いうちに来ないなら、我々は後れをとることになろう」』(『黒書』P.122)。
この恐怖にあおられて、ペトログラード軍事会議委員ラシェヴィチは、トルーボチヌイ工場の労働者を『厄介者』『自分たちだけの利益を考えている者ども』『反革命』と呼びました。彼は、『断固たる措置こそストライキ参加者を取り扱う唯一の方法だ』と宣言しました。彼はとりわけ、『運動の主要な教唆者、トルーボチヌイの労働者を彼らの工場からロックアウトし、そして自動的に彼らの配給量を剥奪するべきだ』と要求しました。特別会議も意見を同じくし、そしてただちに必要な指令を発しました。プロレタリアの不満の第2温床となっているラフェルム工場もロックアウトしました。他企業の労働者には、『彼らの機械に復帰すること、さもなければ同じ懲罰を受けるだろう』と命令しました。
市内への大軍事力の集結以外では、当局は、すべての「ストライキ」労働者を彼らの工場からロックアウトすることによって抗議運動を打破しようとしました。このことは――トルーボチヌイとラフェルムの場合におけるように――その「ストライキ」労働者に配給券を渡さないことを伴いました。食糧配給停止を武器とした「ストライキ」弾圧政策です。
それらと同時に、ペトログラード・チェーカーは、広範な逮捕を遂行しました。工場集会や街頭デモで体制を批判した演説者を拘留しました。
(3)、当局の一方での「ストライキ沈静化目的」の譲歩
ジノヴィエフは、弾圧の一方で、緊急の譲歩措置を採り、ストライキの不満を沈静化させようとしました。それは、反対運動の利刃をそぐに充分な大きさの一連の譲歩でした。即座の措置として、1日1缶の保存肉と1ポンド4分の1のパンの特別配給を兵士と工場労働者にしました。それは、ゲイボルク駐在アメリカ領事の報告によれば、「ペトログラードの減少しつつある食糧供給にかなりの穴を空けました」。それと同時に、政府は、現在の貯えがなくなったとき使われる緊急供給を大急ぎで他の地区から運びこみました。
2月27日、労働者側の「宣伝文」「ビラ」。当局による譲歩追加
(1)、ストライキの拡大と労働者側の「宣伝文」「ビラ」配布
ストライキ労働者を、ロックアウトし、配給券を渡さず、兵糧攻めにして屈服させようという、この試みは、ただそれまでの緊張を強めたにすぎませんでした。2月の残る日々の間に、運動は拡大を続け、工場から工場へと広がり、当局は、工場操業の中止に追い込まれました。
2月27日から、労働者は、さまざまな種類の無数の宣伝文を町々にまき、ペトログラードの壁に貼りました。そのなかでもっとも代表的なビラのひとつは次のように言っています。
『政府の政策についての根本的な変革が要求されている。第一に労働者と農民は自由を必要としている。彼らはボリシェヴィキの規制の下に生活したいとは思っていない。彼らは彼ら自身の運命を自分たち自身で決めたのだ。』『同志諸君、革命の秩序を守れ! 組織的に断固として次のことを要求する。(1)すべての投獄された社会主義者と無所属の労働者の釈放。(2)戒厳令の撤廃。(3)働く者すべてに対する言論・出版・集会の自由。(4)工場委員会、労働組合、ソヴィエトの代表の自由な再選挙』(『知られざる革命』P.27)。
(2)、当局の追加譲歩
保存肉とパン特別配給以外にも、ジノヴィエフは、2月27日、労働者のもっともさし迫った要求にたいする数々の追加的譲歩を発表しました。(1)労働者が食糧買い出しのため市を離れることの許可。(2)これを容易にするため、周辺の農村地帯へ特別旅客列車を仕立てる約束。(3)ペトログラード周囲の道路遮断分遣隊が、一般労働者からは食糧を没収しない訓令。(4)政府が外国から約1800万プードの石炭を購入、それが近く到着してペトログラードや他の都市における燃料不足を緩和する方針の発表。(5)もっとも重要であったのは、はじめて、農民からの穀物の強制的奪取を放棄して現物税に代える計画の立案中、などでした。
これらの追加譲歩政策の性格は、戦時共産主義の制度がついに、町と農村との間の取り引きの自由を少なくとも部分的に復するであろう政策・「ネップ」新経済政策によって置き換えられなければならないことを示しました。レーニンは、1920年8月からのソ連全土での「農民反乱」勃発、1921年2月のペトログラード労働者大ストライキ、3月のクロンシュタット・ソヴィエトの「反乱」という9000万農民、220万プロレタリアート、赤軍水兵の総反乱に直面し、彼の根本的に誤った「市場経済廃絶」路線の撤回に追い込まれたのです。それは、彼自身が認めているように、『後退』『敗北』でした。しかし、彼は、『赤色テロル』ファイルで分析したように、「反乱」農民・「ストライキ」労働者・「反乱」兵士を数十万人殺害しようとも、一党独裁権力だけは放棄せず、それに執着しました。
2月28日、大プチーロフ金属工場自身も、ストライキに決起。「ボリシェヴィキ党員軍」のペトログラード突入命令とストライキ粉砕。クロンシュタット代表団の帰着と決議
(1)、プチーロフ金属工場のストライキ決起、労働者要求の変化
28日、ストライキは、6000人の労働者を擁する巨大なプチーロフ金属工場に達しました。この工場は、それが第一次世界大戦中にあったものの6分の1にすぎなかったけれども、なお侮りがたい企業体でした。
いまや、「二月革命」の4周年記念日が近づいていました。そしてペトログラードにおける不穏は、メンシェビキ指導者ダンが注目したように、ツアーリ専制崩壊の直前、1917年におけるその都市の気分を想起させたのです。当局の懸念をかきたてたもう一つの要素は、労働者要求の性格が変化したことでした。当初、工場集会で通過した決議は、(1)食糧の規則的な配給、(2)靴と防寒衣類の発給、(3)道路遮断物の撤去、(4)農村への買い出し旅行と村人と自由に取り引きすることの許可、(5)特別の労働者範疇にたいする特権的配給量の排除など、圧倒的に経済問題を取り扱っていました。2月の最後の2日間に、これらの経済的要求は一層緊急の語調を帯び、あるチラシは、たとえば、凍死体となって発見されたか自宅で餓死した労働者の事件を引き合いに出していました。だが、当局の観点から、それ以上に警戒しなければならなかったのは、政治的苦情がストライキ運動において顕著な地位を占め始めたという事実でした。とりわけ、労働者は、その若干が最近大きなペトログラード企業に配属されていた、(6)労働者軍の解散を求めました。さらには、(7)純粋に警察的機能を遂行していた、武装ボリシェヴィキの特別分隊が工場から引き揚げることを要求しました。最初は散発的であった、(8)政治的および市民的権利の回復にたいする訴えが執拗かつ広範になってきました。
(2)、レーニン・ジノヴィエフによる「ボリシェヴィキ党員軍」のペトログラード突入命令とストライキ粉砕
ジノヴィエフらの「ストライキ鎮圧」任務を複雑したのは、ペトログラード守備隊のかなりの部分が、全市的ストライキの雰囲気にとらえられており、政府の命令を遂行するうえで信頼が置けなかったという事実でした。当局は、信頼しがたいと考えられた部隊を武装解除し、営舎に閉じこめました。ペトログラード守備隊兵士らが、「十月・ソヴィエト革命」において決起したように、持ち場を離れて群衆と混じり合うのを阻止するため、長靴の発給が禁止されたという噂すら流れました。正規の守備隊の代わりに、当局は、共産党士官候補生・クルサントゥイにたより、市の巡回任務で付近の士官学校から何百名と呼び寄せました。加えて、市内秩序を回復にそなえて、その地域における全党員を動員しました。
レーニン、ジノヴィエフ、軍事人民委員トロツキーは、ペトログラード守備隊を武装解除した上で、他地方・前線から急行させた「絶対忠誠のボリシェヴィキ党員軍」を、ペトログラードに突入させました。党員軍は、容赦のない弾圧を“反革命レッテル”の労働者に加えました。一夜にして、ペトログラードは軍隊の兵舎に変わりました。どの街角でも、党員軍は、歩行者を誰何(すいか)し、身分証明書を点検しました。ときおり、散発的な銃声が路上にこだましました。レーニンは、『鉄の手で社会主義を建設しよう!』というスローガンを自ら創作していました。彼は、「匪賊」「黄色い害虫」の労働者ストライキを、軍隊とチェーカーの『鉄の手』で粉砕しました。
(3)、戦艦「ペトロパヴロフスク」乗組員の『15項目要求』決議
同日、戦艦「ペトロパヴロフスク」の乗組員は、ペトログラード・ストライキと鎮圧についての事態を討議した後、以下のような決議を採択しました。クロンシュタット・ソヴィエトが行動に入ったのは、正確には、この2月28日からでした。
『艦隊乗組員総会によってペトログラードにおける状況を把握するために派遣された代表団の報告をきいた結果、水兵たちは以下のことを要求する――
(1) ソヴィエト再選挙の即時実施。現在のソヴィエトは、もはや労働者と農民の意志を表現していない。この再選挙は、自由な選挙運動ののちに、秘密投票によって行なわれるべきである。
(2) 労働者と農民、アナキストおよび左翼社会主義諸政党にたいする言論と出版の自由。
(3) 労働組合と農民組織にたいする集会結社の権利およびその自由。
(4) 遅くとも一九二一年三月一〇日までに、ペトログラード市、クロンシュタットそれにペトログラード地区の非党員労働者、兵士、水兵の協議会を組織すること。
(5) 社会主義諸政党の政治犯、および投獄されている労働者階級と農民組織に属する労働者、農民、兵士、水兵の釈放。
(6) 監獄および強制収容所に拘留されているすべての者にかんする調書を調べるための委員会の選出。
(7) 軍隊におけるすべての政治部の廃止。いかなる政党も自らの政治理念の宣伝に関して特権を有するべきでなく、また、この目的のために国庫補助金を受けるべきではない。政治部の代りに、国家からの資金援助でさまざまな文化的グループが設置されるべきである。
(8) 都市と地方との境界に配備されている民兵分遣隊の即時廃止。
(9) 危険な職種および健康を害するに職種ついている者を除く、全労働者への食糧配給の平等化。
(10) すべての軍事的グループにおける、党員選抜突撃隊の廃止。工場や企業における、党員防衛隊の廃止。防衛隊が必要とされる場合には、その隊員は労働者の意見を考慮して任命されるべきである。
(11) 自ら働き、賃労働を使用しないという条件の下での、農民にたいする自己の土地での行動の自由および自己の家畜の所有権の承認。
(12) われわれは、全軍の部隊ならびに将校訓練部隊が、それぞれこの決議を支持するように願っている。
(13) われわれは、この決議が正当な扱いの下に印刷、公表されるよう要求する。
(14) われわれは、移動労働者管理委員会の設置を要求する。
(15) われわれは、賃労働を使用しないという条件の下での、手工芸生産の認可を要求する。』
この決議を、ついで全クロンシュタット水兵総会が、また赤衛軍の多数の部隊も、賛成しました。さらにこの決議を、クロンシュタットの全労働者大会も賛成しました。そしてこれが、「反乱」の政治的綱領となったのです。それゆえに、これは注意深く検討するに価する内容を持っています。
3月1日、クロンシュタット人民大会。当局の譲歩追加
(1)、クロンシュタット人民大会
3月1日、錨広場で人民大会が開かれました。それはバルチック艦隊の第一、第二戦隊によって招集され、クロンシュタット・ソヴィエトの機関紙に告知されました。同日、全ロシア中央執行委員会議長カリーニンとバルチック艦隊の人民委員クジミーミンがクロンシュタットに着きました。カリーニンは軍礼と軍楽隊と、ひるがえる軍旗に迎えられました。
1万6千の水兵と赤軍兵士と労働者がこの集会に参加しました。議長はクロンシュタット・ソヴィエトの執行委員長で共産党員のヴァシーリエフでした。カリーニンとクジミーンも出席しました。ペトログラードへ送られた代表たちは報告を行いました。
大会は、ペトログラード労働者の正当な熱望を押し殺す共産主義者のやり方を、怒りをこめて非難しました。つづいて戦艦「ペトロパヴロフスク」がすでに可決している決議が上程されました。討議の際、カリーニン議長とクジミーン人民委員はその決議とペトログラードのストライキとクロンシュタットの水兵を非常にはげしく攻撃しました。しかし、彼らの弁説は役に立ちませんでした。「ペトロパヴロフスク」の決議は、ペトリチェンコという名の乗組員によって提案され、満場一致で承認されました。
クジミーン人民委員は次のような言葉でこのことを記しています。『決議はクロンシュタットと守備隊の圧倒的な多数で決定された。それは約1万6千の市民の出席した3月1日の市総会に提出され、満場一致で可決された。クロンシュタットの執行委員長ヴァシーリエフと同志カリーニンはその決議に反対投票をした』(『知られざる革命』P.39)。
ここに歴史的文書の完全な記録があります。『一九二一年三月一日バルチック艦隊第一、第二戦隊総会決議。情勢を調査するために、水兵総会からペトログラードへ送られた代表の報告をきいたのち、現在のソヴィエトが労働者と農民の意志を表明していない事実を確認し、次のことを必要事であると決定した』。その内容は、28日における戦艦「ペトロパヴロフスク」乗組員の『15項目要求』決議と同一です。
(2)、ストライキ沈静化目的の当局の譲歩追加
3月1日、ペトログラード・ソヴィエト当局はペトログラード県全体からのすべての道路法断物の撤去を声明しました。同日、さらに、ペトログラードにおいて労働兵役を課されていた赤軍兵士約2000人ないし3000人が動員解除され、彼らの故郷の村へ帰ることを許されました。公式の説明は、「生産の削減が彼らのそれ以上の滞在を不必要にした」からでした。「労働者軍」とは、1920年11月に内戦が終了し、赤軍550万人を半減させたとき、徴兵除隊兵士を返さないで、兵士のままで工場労働者として「労働の軍事規律化」方針により使用するというレーニン・トロツキーの政策でした。その政策にたいする兵士の怒りも強烈でした。公式説明は口実で、その「労働者軍」が、クロンシュタット・ソヴィエト反乱と連動することを恐れた、ジノヴィエフの「反乱予防措置」でした。
3月2日、1万人逮捕・500人即時殺害。レーニン・トロツキーによるクロンシュタット弾圧命令
(1)、ペトログラード、ロシア全土での1万人逮捕・500人即時殺害
2月の最後の数日間に、メンシェビキ指導者ダンの計算によれば、チェーカーは、約500人の反抗的労働者とストライキ「リーダー」を牢獄で殺害しました。同様に、学生、知識人、およびその他の非労働者を数千名検挙し、その多くは反対政党およびグループに所属していました。チェーカーは、ペトログラードのメンシェビキ組織を急襲しました。それによって、それまで逮捕をまぬがれていた、ほとんどすべての活動的指導者を監獄へ護送しました。カズコーフとカメンスキーは労働者のデモを組織したのち、2月の末に逮捕されました。ロシコーフとダンを含む少数の者は、一日長く自由の身でとどまり、夢中で彼らの声明やチラシをつくって配付しましたが、まもなく警察が検挙しました。1921年の最初の3カ月間に、チェーカーは、党の全中央委員を含む約5000人のメンシェビキ逮捕をロシア全土において行ったと推定されています。それと同時に、チェーカーは、まだ自身を自由とみていた少数の著名なエスエルとアナキストを同じく検挙しました。ヴィクトル・セルジュがその『一革命家の回想』において語っているところによれば、チェーカーはそのメンシェビキ収監者をストライキの主要な教唆者として銃殺しようとしたが、マクシム・ゴーリキーが干渉して彼らを救いました。
ただ、ソ連崩壊後11年経った、2002年でも、大量逮捕・殺害の具体的データは判明していません。
(2)、レーニン・トロツキーによるクロンシュタット弾圧命令
レーニン・トロツキーが出した、3月2日の「クロンシュタット弾圧命令」を、スタインベルグ『左翼社会革命党1917〜1921』(鹿砦社、1972、P.254)から、そのまま引用します。
『ボリシェヴィキは、譲歩することなど考えもしなかったのだ。ボリシェヴィキ間のイニシアティヴは、すでに地方的独裁者ジノヴィエフの手からレーニンとトロツキーの中央権力へと移っていた。そしてモスクワにおいて、彼らはすばやく自分たちの闘争手段を準備したのであった。早くも三月二日、レーニンとトロツキーは、邪悪な嘘言と中傷に満ちた公式声明に署名し、これを発表した。彼らは、クロンシュタットの運動を暴動と呼び、水兵たちを「社会革命党の裏切者どもと結託してプロレタリア共和国に対して反革命的陰謀を画策しつつあるかつての帝政派将軍どもの手先」と呼んだのである。
つづいて、ロシア人民および全世界に、以下の如き《純然たる》真実を知らせるために彼らの命令が出されていた。
「二月二八日、『ペテロ=パウロ』乗組員は、『黒百人組』(かつての君主主義的ギャング)の精神を体現している決議を採択した。それから、前将軍コズロフスキーが前面に登場した。かくして、帝政派将軍が今一度、社会革命党の尻押しをつとめているのだ。この全ての事に鑑み、労働・防衛会議は――
(1)、コズロフスキーとその援助者を非合法化すること
(2)、ペトログラード管区を戒厳令下に置くこと
(3)、最高権限をペトログラード防衛委員会の手に与えること、を命令する」。
(原註) コズロフスキー将軍は共産党政府によってクロンシュタットに任命配属されていたのであり、叛乱に際しては、いかなる役割をも果していなかった』。
3月3日、ストライキの全面鎮圧。工場の操業開始。蜂起の動きと2000人逮捕
(1)、ストライキの全面鎮圧
3月3日、当局、チェーカーと赤軍は、ロックアウト・「ストライキ」労働者全員解雇・配給券支給停止・大量逮捕・「リーダー」500人即時殺害などの手口によって、ペトログラードの労働者ストライキを全面鎮圧しました。
クロンシュタット反乱にかんする《官許》歴史家であるプーホフは、直前のペトログラードの労働者ストライキに関して、「労働者階級とその前衛である共産党の手から権力を奪うために、プロレタリアートの没階級意識的部分を利用している革命の敵を打倒するために、断固たる階級的手段をとる必要があった」と記しています。これは、プーホフ、『1921年のクロンシュタット叛乱』国立出版所、「若き親衛隊」版、1931年、叢書「内戦期」に所収されています。
(2)、労働者蜂起の動きと2000人逮捕
ただし、その後も、労働者蜂起の動きがありました。『黒書』(P.123)がそれを伝えています。
『毎日のチェーカー報告の一つ、「クロンシュタット革命委員会は今日明日にでもペトログラードで一斉蜂起が起きないかと待っている。反乱兵と大工場の間の連絡ができた……今日海軍造船所の集会において、労働者は蜂起に参加を呼び掛けるアピールを採択した。クロンシュタットとの連絡係として三人の代表――アナキストとメンシェビキとエスエル――が選出された」。
運動をただちに止めるためにペトログラードのチェーカーは、三月七日に「労働者に対して断固たる措置を取るように」との命令を受けた。四八時間内に二〇〇〇人以上の労働者、シンパ、戦闘的社会主義者あるいはアナキストが逮捕された。反乱兵と違って労働者には武器がなく、ほとんどチェーカーの別働隊に抵抗することができなかった。反乱の後方基地を破壊したあと、ボリシェヴィキは入念にクロンシュタット攻撃を準備した。反乱鎮圧にはトゥハチェフスキー将軍が任命された。この一九二〇年のポーランド戦線の勝利者は、民衆に発砲するために、革命の伝統のない若い士官学校生やチェーカーの特別部隊に援助を求めた。作戦は三月八日に開始された』。
当局は、「ストライキ」労働者に流血をみずに仕事へ復帰するよう説得する最後の努力として、彼らの宣伝活動を強化しました。新聞だけでなく、民衆の尊敬を受けていた党員を街頭、工場、および兵営における扇動のために狩り出しました。宣伝の中心テーマは、『ストライキとデモは、白衛軍とそのメンシェビキならびにエスエル同盟者ら扇動者によって企まれた反革命陰謀である』と非難しました。
レーニンは、それまでに、メンシェビキ、右派エスエル、社会革命党やアナキストのかなりの人数を、大量逮捕し、獄中に入れ、処刑していました。『彼ら政治犯の釈放』は、「ストライキ」労働者の政治要求の一つでした。しかし、未逮捕の活動家たちは、ひとたびストライキが勃発するや、それらを激励するのに最善を尽しました。このことはメンシェビキについてはとくにそうで、彼らは1921年までに、彼らが1917年革命の期間に失った労働者階級の支持の多くを取りもどしていました。「ペトログラードの十日間」のとき、トルーボチヌイ工場やその他の争議のあった企業におけるメンシェビキの勢力はかなりのものに回復していました。メンシェビキの扇動者は労働者集会で同情的な聴衆を獲得し、彼らのチラシと宣言書は多くの熱心な手を経て回覧されました。それでもなお、ストライキの扇動において疑いもなくある役割を演じたとしても、メンシェビキや他のなんらかのグループがそれらを事前に計画し組織したという証拠はありません。
ペトログラードの労働者は、すでにみたように、政府にたいする公然たる抗議に噴出する彼ら自身の広範な理由を持っていました。それらが計画されたものではないという意味で、2月のストライキは民衆的不満の自然発生的な表現でした。
(1)、ジノヴィエフの「ムチとアメ」弾圧行動
ペトログラード騒擾は急速に消滅しました。3月2日あるいは3日までに、ストライキ中のほとんどの工場は操業に戻りました。当局側の譲歩はその任務を終えました。というのも、民衆の謀反心を刺激したのはなによりも飢えと寒さだったからです。それでもなお、当局が行った軍事力適用と広範な逮捕こそ秩序を回復するうえで不可欠でした。ペトログラード・ボリシェヴィキはすばやく同志的結束を固め、鎮圧という気のすすまない任務を効率的かつ迅速に遂行しました。ジノヴィエフは、危険が迫ったとき恐慌状態に陥りやすい、臆病者としてのその一切の評判にもかかわらず、「ストライキ」労働者を鎮めるため「ムチとアメ」弾圧行動を指揮しました。
(2)、労働者側の問題点
ペトログラードの労働者・住民側にまったくの問題点がなかったなら、運動の瓦解は、かくもすみやかには起こらなかったでしょう。労働者はただあまりにも消耗していたので、どのような持続的政治活動をも維持していくことができませんでした。飢えと寒さは多くの者を無関心の状態におとしめていました。そのうえ、彼らは効率的な指導と首尾一貫した行動のプログラムを欠いていました。過去、それらは急進的インテリゲンチャによって供給されてきました。だが、1921年には、ペトログラードの知識人は、かつて革命的抗議の先鋒であったとしても、いまや、あまりにも「赤色テロル」の恐怖を感じており、かつ、個人的努力のむなしさによってあまりにも麻痺させられていたので、反対の声をあげることができませんでした。その同志の大部分は投獄あるいは流刑に処せられ、またいく人かはすでに処刑されている状態のもとでは、生き残っている者で同様の運命に陥る危険をすすんで犯そうというものは少数でした。彼らにとって形勢がかくも圧倒的に不利であるときには、またいささかの抗議も彼らの家族から“32種類に細分化された”食糧配給カードを奪うかもしれないときには、とくにそうでした。
これらの理由で、ペトログラードにおけるストライキは短命に終わる運命にありました。実際、それらは始まるやいなやほとんど突然終息し、体制にたいする武装蜂起の地点にまではついに到達しませんでした。にもかかわらず、それらの影響は絶大でした。旧首都における暴動の発展にぴったりと調子を合わせていた、近くのクロンシュタットの水兵をかきたてることによって、それらは多くの点でソヴィエト史におけるもっとも重大な反乱であった「クロンシュタット・ソヴィエトの反乱」のために背景を設定したのです。
「1905年革命」「二月革命」「十月・ソヴィエト革命」の革命拠点都市ペトログラードにおける、反ボリシェヴィキ・労働者ストライキは、これが4回目になります。
第1回、1917年12月、公務員ストライキ
レーニン・ジェルジンスキーは、即座に「リーダー」を逮捕し、鎮圧しました。
第2回、1918年5〜7月2日、金属労働者が中心のデモ・集会・ストライキ。ゼネスト呼び掛け
ペトログラード・チェーカーは、この期間に、ストライキ、反ボリシェヴィキ集会、デモなど「70の事件」を報告しました。ストライキの主力は、1917年とそれ以前において、最も熱烈にボリシェヴィキを支持していた金属労働者でした。彼らのストライキにたいして当局は国営化された大工場をロックアウトすることで応えました。このやり方は、その後何ヶ月かの間、労働者の抵抗を打ち破る常套手段となりました。(『黒書』P.78)
6月20日、このような労働者ストライキ弾圧状況の中で、ペトログラードのボリシェヴィキ指導者であるV・ヴォロダルスキーが、エスエル活動家によって暗殺されました。暗殺後の2日間で、当局は、「首謀者」800人以上を逮捕しました。
ペトログラード・ソヴィエトは、すでに、6月14日のレーニン指令により、ソヴィエト執行委員会から「メンシェビキと社会革命党の排除」を強行していました。レーニンは、これにより、政府機関だけでなく、「ソヴィエト内の一党独裁化」をも強引に完成させたのです。“他党派排除で権力を簒奪し、ボリシェヴィキが私有化した”ペトログラード・ソヴィエトに対抗して、メンシェビキが「労働者全権会議」を作りました。当局は、それも解散させました。(『黒書』P.78)
7月2日、800人の大量逮捕にたいして労働者側は、ゼネスト呼び掛けで応えました。社会革命党指導者マリア・スピリドーノヴァは、ペトログラードの主な工場をめぐって、大喝采をあびました。このゼネストは、弾圧で失敗しました。ボリシェヴィキは、その直後に、彼女を含む社会革命党指導者を逮捕しました。(『黒書』P.94)
第3回、1919年3月10日、ペトログラードの大騒動と鎮圧
これは、上記データの再録です。『一九一八年七月二日のゼネスト失敗のあと、ボリシェヴィキは社会革命党の何人かの指導者を逮捕したが、これはその中のマリア・スピリドーノヴァが、ペトログラードの主な工場をめぐって大喝采を博した直後だった。この逮捕のあとの一九一九年三月に、労働者の二度目の大きな騒動が古都〔ペトログラード、新都はモスクワ〕で起こった。すでに食糧供給の難しさから、情勢はかなり緊張していたが、この逮捕によって広範な抵抗運動とストライキが開始された。一九一九年三月十日、プチーロフ工場の労働者の総会は、一万の参加者の前で正式にボリシェヴィキを非難する宣言を採択した。「この政府は、チェーカーと革命裁判所の助けをかりて統治する共産党中央委員会の独裁でしかない。」
宣言は、『(1)全権力のソヴィエトへの移行、(2)ソヴィエトと工場委員会における自由な選挙、(3)労働者が田舎からペトログラードへ持ち込むことのできる食糧の制限(一・五プード、すなわち二四キロ)の廃止、(4)投獄されている「真に革命的諸党派」の政治家、とくにマリア・スピリドーノヴァの釈放』を要求した。
日毎増大する運動を抑えるために、レーニンは一九一九年三月十二〜十三日に、自らペトログラードにおもむいた。労働者に占拠されている工場で演説をしようとした時、彼はジノヴィエフとともに「ユダヤ人と人民委員を倒せ!」という叫びにやじり倒されてしまった。一九一七年十月の革命のあとボリシェヴィキが一時的に獲得していた信頼が失われるや、いつでも表面化せんとしていた民衆の底辺にあった昔からの反ユダヤ主義が、ただちにユダヤ人とボリシェヴィキを結びつけたのだった。有名なボリシェヴィキ指導者の中に占めるユダヤ人(トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、ルイコフ、ラデックら)の割合が大きかったことが、大衆の目には、ボリシェヴィキとユダヤ人の融合を証明するようにみえた。
一九一九年三月十六日、チェーカーの分遣隊は、武器を手にして守っていたプチーロフ工場を襲撃した。およそ九〇〇人の労働者が逮捕された。その後数日間に、約二〇〇人のストライキ参加者が、ペトログラードから五〇キロほど離れたシュリッセリブルク要塞監獄で、裁判もなしに処刑された。新しい儀式によって、スト参加者は全員解雇されたあと、自分たちが反革命のリーダーによって騙され、「犯罪に引き込まれた」という声明に署名したあとでなければ、再雇用されることがなかった。このあと労働者は厳しい監視下に置かれた。一九一九年春以降、チェーカーの秘密部門は、いくつかの労働運動の中心に、あれこれの工場における「精神状態」を定期的に報告する任務を負った密告者網を設置した。労働者階級は危険な階級となった…』(『黒書』P.94)。
第4回、1921年2月22日〜3月3日の10日間、ペトログラードの全市的ストライキ
このストライキ・デモ・集会は、ペトログラード全市に広がりました。「ストライキ」労働者の経済要求・政治要求は、ボリシェヴィキの路線・政策を批判し、その撤回を求める全面的なものになりました。レーニン、ジノヴィエフ、ペトログラード・チェーカーは、上記のように、「ストライキ」労働者だけでなく、メンシェビキ、学生、知識人など約1万人を逮捕しました。チェーカーは、約500人の反抗的労働者と「ストライキ・リーダー」を即座に牢獄で殺害しました。
ペトログラード・ソヴィエトとその労働者たちは、「ロシア革命史」における3回の革命で、つねに先進的な革命拠点の役割を果たしてきました。
「プロレタリア独裁国家」下のペトログラードにおいて、4回もの反ボリシェヴィキ・ストライキ、デモ、集会が勃発しました。その規模、プロレタリアートが掲げた要求内容、それにたいするレーニン・ジノヴィエフの鎮圧実態から見ても、革命拠点都市ペトログラードには、「プロレタリア独裁体制」は存在していませんでした。
ソ連崩壊後に、存否論(1)(2)(3)の諸データが判明しました。ただ、存否論(3)の大部分は、ソ連崩壊前の資料です。その内容については、さまざまな見解が存在します。そのレーニンの論理と心理を〔3つの見解〕として検証します。期間は、5年2カ月間です。1917年11月7日単独武装蜂起・権力奪取から、1922年12月16日第2回発作による最高権力者活動停止までです。見解内容は、それらのいずれも、(1)「プロレタリア独裁国家」存否論と、(2)「ストライキ」労働者の大量殺害問題に関するものです。
このファイルを読まれる方は、そのうちのどの〔見解〕を選択されるのでしょうか。ただ、このファイルは、「プロレタリア独裁」理論内容の検討を目的とするものではありません。「プロレタリア独裁」理論に関する学問的解釈については、大藪龍介HPにある『マルクスカテゴリー事典』(青木書店、1998)の「プロレタリアート独裁」項目内容をご覧下さい。または、「google検索・『プロレタリアート独裁』関連HP」があります。
レーニンが最高権力者であった5年2カ月間、存在したのは、「プロレタリア独裁国家」であった。レーニンがその間に『書いたこと』と『したこと』とは、言行一致しており、基本的にすべて正しかった。そして、レーニンは、死ぬまで、自分とボリシェヴィキ党が樹立した国家を「プロレタリア独裁体制」であると、“信じて”いた。
「ストライキ」労働者とは、その「労働者が主人公となった革命国家」にたいする「反革命」分子である。それらにたいして、レーニンが大量逮捕・殺害指令を出し、チェーカーに執行させたことは、正当な革命政権防衛策である。それは、“殺人”ではなく、マルクス・エンゲルスも奨励した、正しい「赤色テロル」である。
(1)「プロレタリア独裁国家」存否論
マルクス・エンゲルスは、フランス革命やパリ・コミューンの政治体制を「プロレタリア独裁」と規定した。その時点のフランス・プロレタリア階級は、まったく少数であり、「十月革命」時のロシア・プロレタリアート300万人と、その人口比率2.1%より低かった。「レーニンの諸公約」を支持したボリシェヴィキ支持労働者は、その60%・180万人であり、人口比率1.3%であった。
しかし、国家の階級的性格は、国民の階級構成比率によるものではない。『国家と革命』で規定したように、それは、軍隊、警察、裁判所、行政機構などの国家暴力装置をどの階級が占有しているのかによって決まる。資本主義体制は、少数のブルジョアジーが全権力を握っているがゆえに、「ブルジョア独裁国家」である。「十月革命」によって、プロレタリアートの前衛部隊であり、指導政党であるボリシェヴィキが一党独裁権力を奪取した。ボリシェヴィキ党員40万人と、人口比率1.3%のボリシェヴィキ支持労働者が、秘密政治警察チェーカーを中心とする国家暴力装置を完全に占拠した。
レーニンをはじめとして、政治局や党中央委員会メンバーは、ほとんどが労働体験を持たないインテリ出身・亡命革命家であるが、マルクス主義の「人類と労働者・被抑圧民族の解放」「プロレタリア独裁」「市場経済廃絶・貨幣経済も廃絶」理論を信奉する職業革命家である。『国家と革命』における「国家を一つの工場とする」構想を実践する「市場経済廃絶に基づく社会主義的計画経済」機関である最高経済会議・食糧人民委員部を、プロレタリアートであるボリシェヴィキ党員が独占している。「反革命」を阻止するための秘密政治警察員チェキスト28万人、赤軍内のコミッサール(軍隊内政治部員)、国有化工場内の政府任命3人管理者、革命裁判所裁判官などにも、すべてボリシェヴィキ党員であるプロレタリアートを配置してある。これこそ、「プロレタリア独裁国家システム」そのものではないか。
「十月革命」直前の1917年8、9月に、レーニンが書いた『国家と革命』理論と、「十月革命」以降の国家暴力装置掌握実態との間には、なんの理論的矛盾もなく、実態的錯誤もない。マルクス主義国家論の「真理」から見ても、プロレタリアートが、国家暴力装置や国家行政機構を占拠すれば、それ自体、「プロレタリア独裁国家が成立していた」ことを証明する。この“絶対的真理を信ずる”ことができない者は、マルクス主義者ではない。
(2)「ストライキ」労働者の大量殺害問題
そもそも、「プロレタリア独裁国家」と「プロレタリアートが主人公である国有化工場内の政府任命3人管理体制」、および「国家と労働組合中央評議会とが一体化したシステム」にたいして、労働者が不満を持ち、抗議集会・デモ・ストライキをおこすなどということは、理論的にも、歴史的現実としてもありえない。それらが無数に発生したという『共産主義黒書』のデータや、P・アヴリッチらのデータは、すべて「反共攻撃のウソ」である。
仮に、ごく少数のストライキが発生していたとしても、それらは「反革命」「武装反革命」に転落し、革命を裏切ったエスエル・メンシェビキ・アナキストなどが、無知な労働者を扇動したものにすぎない。その「ストライキ」労働者らは、明白な「匪賊」「黄色い害虫」「内戦中の敵前逃亡者」であり、真のプロレタリアートではない。彼ら「反革命分子」を即座に逮捕し、全員解雇をし、食糧配給カードを支給せずに飢えさせること、あるいは、「リーダー」全員を殺害することは、世界初の「十月社会主義大革命・ボリシェヴィキ革命」を守り抜く上での“絶対必要条件”であった。
1917年11月7日は、労兵ソヴィエトによる「十月・ソヴィエト革命」であった。レーニンが樹立したのは、まさに「プロレタリア独裁国家」であった。しかし、国際・国内情勢のきびしさにより、レーニンの現実路線・政策は、彼が意図した『国家と革命』理論から次第に“後退”していった。実際の国家運営システムにおいても、労農兵ソヴィエトによる「地方分権型国家」機構から権力を簒奪し、中央集権型国家機構に転換させた。プロレタリア人口の激減もあって、「プロレタリア独裁国家」を「党独裁国家」に“転換・変質”させざるをえなかった。その基本原因は、外国の軍事干渉とその支援を受けた白衛軍との内戦にある。よって、レーニンの“後退・変質”があったとしても、レーニンの路線・政策のすべては、革命政権を防衛する唯一の選択肢だったとして基本的に正当化されるべきである。
その“権力簒奪、変質”などの『国家と革命』公約違反にたいして、ボリシェヴィキ支持率が、権力奪取半年後に急落した。さらに、「農民反乱」だけでなく、労働者ストライキが大量に発生した。秘密政治警察チェーカーを徹底的に活用して、「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害をする以外に、「一党独裁型社会主義」権力を固守する選択肢はなかった。それらの路線・大量殺害は、行き過ぎもあったが、当時の国際・国内情勢から見て、やむをえない選択であった。
(1)「プロレタリア独裁国家」存否論
レーニンは、自己の国家・経済・農業政策構想が、“机上の空論”であったことに気づかされて、300万プロレタリアート、9000万農民に公約した『国家と革命』の理論を次々と放棄した。彼は、「党独裁権力」に固執し、それを維持する面では、“天才的なプラグマティスト(実利主義者)”だった。彼は、現実政治家として、“空想的・ユートピア的”な『国家と革命』公約を裏切り続けた。そもそも、当時の国際・国内情勢において、「労兵農ソヴィエトによる地方分権型国家」が維持できる条件は、ソ連にはなかったのである。
マルクスの「市場経済廃絶」理論や「社会主義青写真」内容は、『資本論』内容が正しいのと同じく、いまなお社会主義経済理論として真理である。ただ、当時のロシアの条件においては、すぐ生産が行き詰まり、生産量が激減した。レーニンは、ブルジョアジーの経済・経営専門家を高級で雇用し直し、「ノルマ」「出来高払い賃金」を強行し、『国家と革命』の「平等賃金」公約を裏切った。
彼の“後退・変質”は、このように歴史的事実である。その第一原因は、外国干渉軍・白衛軍との内戦という外的要因にある。第二原因は、当時、世界の共産主義者は、ほぼ全員が、マルクスの「社会主義青写真」を“絶対的真理”と信じて疑わなかった。そこから、マルクスの「市場経済廃絶」「その廃絶の上での中央集権的計画経済」という正しい理論を、ロシアの特殊条件を無視して、やや教条的に実践したことである。
(2)「ストライキ」労働者の大量殺害問題
レーニンは、「十月社会主義大革命・ボリシェヴィキ革命」を成功させるため、プロレタリアート300万人に、労働者ソヴィエトへの権力移譲・労働組合の権限強化・工場委員会による労働者統制・「平等賃金」などを公約した。しかし、現実の生産関係において、その公約を次々と裏切る路線に、“やむなく”追い込まれた。
マルクス主義型社会主義実現は、ボリシェヴィキ以外のいかなる政党でも不可能であった。もともと「反革命」労働者・農民・知識人・白衛軍の大発生は想定済みである。それらを大量逮捕・殺害することなしに、世界初の社会主義政権は生き延びることができない。「ストライキ」労働者の大量殺害は事実であるが、これもやむをえない選択として正当化されるべきである。
レーニンが隠し持ち、目指したのは、最初から「ボリシェヴィキ一党独裁国家」であった。「プロレタリア独裁国家」という政治体制は、レーニン・ボリシェヴィキの単独武装蜂起・権力奪取の当初から、実態として存在していなかった。実在したのは、「プロレタリア独裁国家の成立」という虚構(フィクション)を看板とした「党独裁国家」だった。上記「レーニンの3つの本心」に基づいて、彼は、(1)ドイツ革命成功・世界革命勃発への熱望とその導火線的役割、(2)他社会主義政党との連立拒否、(3)ヨーロッパ・ブルジョア議会と同質の憲法制定議会武力解散を貫いた。「プロレタリア独裁国家の樹立」「労農同盟の成立」演説は、彼が、マルクス理論の唯一の正統継承者であるとして、一党独裁クーデターを成功させるために、労働者・農民・兵士の支持率を高める“方便”として使ったものである。
『共産主義黒書』にある労働者ストライキのデータは、事実である。1921年2月のペトログラード労働者の大ストライキと1万人の逮捕・指導者500人の即時殺害も事実である。「プロレタリア独裁国家が成立している」というフィクション看板を唱え続けたレーニンは、その虚構性を暴露・証明する労働者「ストライキ」と、労働者の大量逮捕・殺害データを完璧なまでに隠蔽・秘匿した。ただ、2002年現在、労働者殺害データを発掘・公表したのは、P・アヴリッチとニコラ・ヴェルトの2人だけである。
(1)「プロレタリア独裁国家」存否論
プロレタリアートにたいするべっ視は、彼が隠し持った本質的な思想である。それは、『なにをなすべきか』(1903年執筆)に明記されている。プロレタリアートは、いくらストライキ・デモをしても、自然成長性に止まり、マルクス主義「社会主義青写真」理論に到達しない。よって、その理論を身につけた党・知識人が彼らに「外部から注入」しなければならない、という思想である。第10回党大会は、ペトログラード労働者大ストライキ鎮圧とクロンシュタット「反乱」鎮圧最中の1921年3月に開かれた。レーニンは、その大会において、『党(全連邦共産党・ボリシェヴィキ)を通じてしか、プロレタリア独裁は実現できない』とその思想を再確認する演説をした。それは、いかなる他社会主義政党も、「プロレタリア独裁」を実現できない、とする思想である。それこそ、まさに「うぬぼれたエリート意識を剥き出しにした党独裁国家」の宣言でもあった。
(1)「労働の軍事規律化」とは、「220万プロレタリアートにたいする党軍事独裁」である。(2)「食糧独裁令」は、「9000万農民にたいする食糧人民委員部独裁」であった。(3)「軍隊内政治部」機能は、「500万赤軍兵士にたいする党独裁」であり、かつ、それは「ボリシェヴィキ党員兵士・水兵にたいする軍事人民委員部独裁」機関となった。(4)「赤色テロル称賛」は、「1億4千万国民にたいする28万人チェキストの大量殺人独裁」を意味した。
レーニンは、『鉄の手で社会主義を建設しよう!』とのスローガンを創作し、宣伝した。(5)『鉄の手』の実態は、「軍事独裁・軍事規律」のことであった。そのスローガンの本質は、『軍事独裁システムと自国民数十万人殺害手法による社会主義建設』であった。党員文学者・詩人たちは、それを受けて、『われらか敵か』と訴え、国民二分法に加担した。『われ』の個性・要求を敵視・抹殺し、『われら』という“かおなし”人間の大量生産に手を貸した。
(6)ザミャーチンは、「反乱」農民、「ストライキ」労働者、「反乱」兵士・水兵の隊列に加わり、ボリシェヴィキ文学者としての「たった一人の反乱」を起こした。彼は、1920年、SF小説『われら』を執筆し、そこにおいて、“かおなし・アルファベット記号人間”製作者となったレーニンを『最高権力者・恩人』にたとえた。その作品は、革命現場からのもっとも痛烈な「世界初のレーニン告発文学」となった。当局は、彼の即時逮捕で報復した。
『われら』 「恩人は、ソクラテスのように禿げた頭をもった男で、
その禿げた所に小さな汗のしずくがあった」 「その方の巨大な
鉄の手は、自分自身を押しつぶし、膝を折ってしまっていた」
「彼ら(反逆者)は、みな恩人の処刑機械に至る階段を昇るであろう」
「私でなく《われら》です。《われら》は神に、《われ》は悪魔に
由来する。すべての人も私も単一の《われら》なのであるから」
(2)「ストライキ」労働者の大量殺害問題
プロレタリアートにたいするべっ視思想がなければ、「労働の軍事規律化」などというレーニン・トロツキーの“反労働者”的方針が出てくるはずがない。その政策に反対・抗議する労働者ストライキが激発したのは、彼らが、そこに、レーニンの「労働者べっ視思想」を見抜いたからである。「プロレタリア独裁国家」という“レーニンのフィクション・ウソ”を拒否したからである。
「赤色テロル」思想は、レーニンの革命理論、国家権力維持・強化論の本質的部分をなしている。彼は、フランス革命、パリ・コミューン敗北の教訓から、「党独裁にたいする反革命」の大発生と、それにたいする大量殺人政策を、あらかじめ想定していた。レーニンは、「党独裁」国家とそのシステムの強化に反対し、批判・抵抗する政党・労働者・農民・兵士を“皆殺し”にすることが、マルクス主義型社会主義体制を守るための当然の防衛措置である、とした。彼は、「ストライキ」労働者という「匪賊」「黄色い害虫」「内戦中の敵前逃亡者」を逮捕し、大量殺害することを、正当な革命擁護行為である、とした。ただ、「プロレタリア独裁国家」のフィクションを掲げるからには、「黄色い害虫」殺害といえども、労働者ストライキ実態や大量殺害事実を完全に隠蔽し、それらのデータを抹殺・消去しなければならない、とした。何十年経とうとも、この「完全極秘事項」が、党外や外国に漏れるようなことがないよう、秘匿・消去工作をした。。
ソ連崩壊後11年間における「ロシア革命史」研究では、2002年現在、研究者3人が、『フィクション』類似の規定を発表している。梶川伸一氏は、「農民」問題の大著2冊で、『レーニンの「労農同盟」の存在を否定』した。ニコラ・ヴェルトは、『共産主義黒書』(P.60)で、『「ソヴィエトの国」において、人民の名において、ボリシェヴィキが統治するというフィクション』と明言した。マーティン・メイリアは、大著『ソヴィエトの悲劇・上』(P.178)で、『レーニンのファンタジーであるコミューン国家は、共産主義国家の理論的仮面、つまり隠れ蓑』『ソヴィエト流の虚構』と断定した。
『レーニンがしたこと』は、「プロレタリア独裁国家を樹立した」「労働者と農民の政治的軍事的同盟が成立している」という2大フィクションを唱え続け、その裏側でチェーカー・赤軍に「殺人指令」を出して、最低推計でも数十万人の労働者・農民・兵士・聖職者・知識人を殺害し続けたことである。
〔第3見解〕における「国家の性格」規定
ソ連は、「プロレタリア独裁国家」ではなかった。「労農同盟」も、一定地域・一定期間以外は、存在しなかった。「食糧独裁令」、「市場経済廃絶」路線、「その廃絶の上での中央集権的計画経済」、「工場・企業国有化」、「労働の軍事規律化」などは、マルクスの「社会主義青写真」を全面的に実験しようとしたものであり、いかなる意味でも、「資本主義国家」ではない。
ソ連崩壊後、国家規定として、『国家資本主義』『国家社会主義』『兵営社会主義』など、さまざまな見解が現れた。しかし、現時点では、塩川伸明著書の題名とその分析内容の『現存した社会主義』という規定が、もっとも適切であろう。
レーニンは、1918年1月「憲法制定議会」を武力解散した。1918年6月14日、ソヴィエトから他社会主義党派すべてを排除し、ソヴィエトを「ボリシェヴィキ一党独裁の機関」に変質させた。それ以降、1991年ソ連崩壊までの73年間にわたって、この国家は、一度も、(1)普通選挙、および、(2)ソヴィエト内の自由選挙を行っていない。よって、ボリシェヴィキ支持率の急落にもかかわらず、6月14日以後、その支持率の選挙データは、一つも存在しない。レーニンは、この少数派の支持率急落政権を、「赤色テロル」なしでは、まったく維持できなかった。また、レーニンは、一貫して、「他党派絶滅・一党独裁」体制を、明白な目的意識を持って、追求したことが、ソ連崩壊後の資料からも明らかになっている。
よって、この国家は、『赤色テロル』型・『一党独裁』型の『現存した社会主義』と規定できる。
〔第3見解〕におけるレーニンの権力思想と人間性
彼は、これだけの労働者ストライキの激発を受け、また、かつてはボリシェヴィキ支持でもあった「ストライキ」労働者を、判明しただけでも6279人殺害するという前衛党犯罪を、裏側で犯し続けた。一方、表向きは、「プロレタリア独裁国家が成立している」というフィクションを唱え続けた。そのレーニンの二面的人格をどう評価するのか。
ドストエフスキーは、1880年、レーニンが最高権力者であった5年2カ月間にさかのぼること30数年前に、『カラマーゾフの兄弟』の『大審問官』において、最高権力者の思想と人間性を洞察した。その思想は、大審問官をレーニンとし、「われわれ」党をボリシェヴィキに置き換えれば、2つがほとんど一致する。
ドストエフスキーは、革命権力下での直接体験をしていない段階で、ナロードニキの革命思想と運動が、そのまま発展し、権力を奪取したとき、革命権力と国家宗教とが合体した最高権力者像「大審問官」が生まれることを洞察した。「われわれ」という支配党派による独裁体制を洞察した。自由を差し出さない「異端者100人」を火焙りにする「赤色テロル」を想定した。
『大審問官』 15世紀すぎて再び現われたキリストと、彼を捕らえた大審問官
「人々がわれわれのために自由を放棄し、われわれに服従するときこそ、
はじめて自由になれるということを、われわれは納得させてやる」
オーウェルは、スペイン内戦で「共産党が行う、批判政党の人間狩り」を体験して、政治の目的、権力の目的をスペイン、ソ連の現実から探求した。1948年、その時点までのスターリン「大テロル」・モスクワ裁判の批判として、『1984年』を書いた。その巻末で、思想警察オブライエンは、思想改造後に銃殺する方針である党外局党員ウィンストンを拷問しつつ、「一党独裁国家の権力思想」を赤裸々にのべる。
『いったい、なぜわれわれは権力を望むのか。・・・答えはこうなのだ。党はもっぱら権力のために権力を追求するのだ。われわれは他人の利益には関心ない。つまり、ひたすら権力だけに関心があるのだ。富でも、ぜいたくでも、長生きでも、幸福でもない。ただ権力、純粋な権力にだ。――権力は手段ではない、目的なのだ』。これがオーウェルの「革命権力と共産党」認識の到達点であった。
彼は、人間のさまざまな欲望のなかでも、権力欲こそ、抑制のきかない、絶えざる強化を強制する欲望と位置づけた。自己目的化した権力欲は、その強化、絶対的集中、独裁化しつつ、一方でその絶対的腐敗化を進行させる。その「権力のための権力」を遂行するオーガニズムは、絶対的服従規律に固められ、大量殺人指令を平然と遂行する「共産党」である。
ドストエフスキーは、30数年後の未来ロシアについて洞察をした。オーウェルは、自己の体験を通じて、スターリン批判にとどまらず、結果的に、さらに30年遡って、最高権力者レーニンの『権力のための権力』党思想までをも、刺し貫いたのである。
以上 『虚構1』に戻る 『虚構2』に戻る 健一MENUに戻る
(関連ファイル)
『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが殺した「自国民」の推計』
『「反乱」農民への裁判なし射殺・毒ガス使用指令と「労農同盟」論の虚実(1)』
『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機、クロンシュタット反乱
『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』クロンシュタット反乱をSF小説化
P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』クロンシュタット綱領、他
イダ・メット『クロンシュタット・コミューン』反乱の全経過・14章全文
ヴォーリン 『クロンシュタット1921年』反乱の全経過
スタインベルグ『クロンシュタット叛乱』叛乱の全経過
A・ベルクマン『クロンシュタットの叛逆』叛逆の全経過
大藪龍介『国家と民主主義』1921年ネップ導入とクロンシュタット反乱
梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1918年
梶川伸一『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』クロンシュタット反乱の背景
食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、
レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討
中野徹三『社会主義像の転回』 制憲議会解散論理、1918年
ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁の誤り
ダンコース『奪われた権力』第1章
アファナーシェフ『ソ連型社会主義の再検討』
ソルジェニーツィン『収容所群島』第2章、わが下水道の歴史