奪われた権力
ソ連における統治者と被統治者
エレーヌ・カレール=ダンコース
〔目次〕
3、特権の誕生
〔関連ファイル〕 健一MENUに戻る
H・カレール=ダンコース『軍事革命委員会の創設は、紛れもないクーデター』
『1917年10月、レーニンがしたこと』革命か、一党独裁狙いの権力奪取クーデターか
『「レーニンによる十月クーデター説」の検証』革命か、クーデターか
リチャード・パイプス『ロシア革命史−第6章十月のクーデター』
R・ダニエルズ『ロシア共産党党内闘争史』蜂起、連立か独裁か
梶川伸一『レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか』十月革命は軍事クーデター
中野徹三『社会主義像の転回』制憲議会解散、一〇月革命は悲劇的なクーデター
大藪龍介『国家と民主主義』レーニンのプロレタリア独裁論−個人独裁、党独裁の容認
『見直し−レーニンがしたこと、レーニン神話と真実』レーニン批判全ファイルメニュー
H・カレール=ダンコースは、フランス女性学者で、ロシア・ソ連史研究の第一人者である。これは、彼女の『奪われた権力』(尾崎浩訳、新評論、1982初版、1987新版、原著1980年)からの抜粋である。全体は八章、536ページある。抜粋個所は、「はじめに」のP.7〜9部分、第一章「人民の権力、神話と現実」中のP.21〜38のレーニンに関する著述部分にした。
原著の1980年とは、ソ連崩壊の11年前になる。その時点で、以下のレベルのレーニン批判を行っていた研究内容には驚かされる。ソ連崩壊後の21世紀から見ても、きわめて高い説得力を持っている。
文中の「料理女」は、レーニンが使った言葉である。「料理女」でも国家運営の管理ができるという意味だった。H・カレール=ダンコースは、「料理女の権力」という言葉を、ソヴィエト権力との同義語として位置づけた。さらに、「料理女から取り上げられた権力」として、レーニン・ボリシェヴィキによるソヴィエトからの権力簒奪過程を検証した。彼女は、レーニンをソヴィエト権力簒奪者と規定している。
ちなみに、熱烈なレーニン信奉者で、共産党専従だった私(宮地)が、レーニン型前衛党の歴史・体質にたいし、強烈な疑惑・批判を持ったのは、まず、個人的な体験からだった。党内民主主義をめぐって、党内で3回の闘争をした。30歳→32歳→38歳だった。4回目の闘争は、党外からで、40歳からの2年間にわたる日本共産党との裁判だった。
『日本共産党との裁判・第1〜8部』党内民主主義をめぐる4回の党内・党外闘争
私の日本共産党批判は、東欧革命・ソ連崩壊体験を経て、全面的なレーニン批判に深化した。レーニンがしたことは、ソヴィエト権力簒奪クーデターだったのではないのかという疑惑を抱き、逆転発想した契機はいろいろある。それらの内の重要な一つが、ソ連崩壊11年前に出版された彼女の『奪われた権力』という著書名と、そこで検証されたソヴィエト権力簒奪過程を読んで、受けた衝撃だった。
1917年、二月革命に始まるロシア革命において、(1)どのような権力を、(2)誰から、(3)誰が、(4)いかなる過程・手段で奪ったのか、(5)奪われた結果として形成された国家・社会の権力とは、という恐るべきテーマに直面させられた。その考察から、私が、レーニンの最高権力者5年2カ月間でしたこと全体を、ソヴィエト権力簒奪7連続クーデターと規定するに至ったのも、彼女のソ連史研究視点の影響が大きい。
ただ、原著1980年時点で、彼女は、まだ、レーニンがしたことを、クーデターと規定していない。彼女が、「軍事革命委員会の創設は、まぎれもないクーデター」と断定したのは、原著1998年の『レーニンとは何だったか』(藤原書店、2006年6月)においてだった。
2006年7月、私(宮地)の判断で、従来のファイルを、第一章・各節の小見出し、色太字や( )番号を付けて編集し直した。各節が長くて、インターネット上では読みづらいと考えたからである。このHPへの転載については、訳者・故・尾崎浩氏遺族の三千子夫人のご了解を頂いた。
「ロシアを治めるものは、誰に対しても責任を負う必要はない。彼らは思いのままに臣民の賞罰を行なうことができる」
ロシアでの権力に関するこの定義は、ピョートル大帝のものだが、奇妙に現代的な響きを持っている。わずか数語でそれは、ソヴィエト権力の性質と、その対社会関係のけわしい歴史を要約していないだろうか。
ボリシェヴィキ党は一九一七年十月、革命的民衆が奪取し、組織しようとしていた権力を取りあげた。党は人民の権力をプロレタリア独裁に、すなわちプロレタリア、ならびにその他の社会全般に対する党の独裁に転化させた。民衆と党とのこの置き換えから生まれた政治体制は、多くの原則に基盤を置いている。
党は、(1)権力の独占と、(2)イデオロギーの独占を当然のものとして主張し、この主張を合法化するために、歴史的必然とか階級闘争の至上命題、さらに“マルクス主義的科学”を引き合いに出すことにより、社会の利益と党の方針とを一体視しようとしている。この合法性については、何ら社会の手を借りる必要はない。党は社会の意識そのものなのであり、したがって社会の中で行使される党の権力に制限などありうるはずがない。
一九一七年のロシアの状態は、なぜ共産党がこんな無制限の権威を打ち出すことができたかを、部分的にせよ説明する。党が行動した舞台は、戦争と幾度もの敗北によって荒廃し、帝国としての統一が吹き飛び、あらゆる社会構造が崩壊した国であった。その社会は教育不足で、政治的経験も乏しく、十九世紀末から始まった近代化が急速に押し進められた結果、伝統的生活様式の基盤や古くからの価値観が揺るがされながら、それらに代わるべきものもいまだ見出せずに、途方に暮れている状態にあった。
おまけにロシアは、専制的権力では古い伝統を持っていた。たとえこうした状況が、このあとの独裁体制樹立を説明するには不充分だとしても、それがボリシェヴィキの仕事を容易にし、効果的な社会的レジスタンスの可能性をマヒさせたことは確かだろう。
さらに共産主義独裁は、両大戦間時代の欧州では決して孤立した現象ではなかった。一党独裁体制は、ドイツ、イタリア、その他各地で花ざかりだった。たとえ政体の合法性に関する主張がそれぞれの独裁政権によって違ったにせよ、いずれにも共通の特徴が見られた。そこでは(1)一つの集団がきわめて強い権力を握っており、社会からのどのような合法的異議申し立ての余地をも認めない。(2)この集団は単一政党という装置を通じて社会を指導し、(3)自己の権威を広範な公式イデオロギーの宣布によって合法化する。(4)情報手段も完全に掌握しているし、(5)軍、警察力も思いのままに動かせる。
欧州で、これら一党独裁政体は、大部分が第一次大戦のあと生まれた。しかし、第二次大戦とともに衰退期を迎えた。敗戦や独裁者の消滅は、至るところで独裁制の弔鐘を鳴らし、諸国民が民主主義への道に戻ることを可能とした。ところがここでソ連という一つの例外が現われたのである。戦争もスターリンの死も、一党独裁に終止符を打つことはできなかった。いまや欧州大陸で独裁体制を維持する唯一の国々は、共産主義の旗で独裁制を覆い隠した国々なのである。他の独裁体制の命脈がつきたのに、共産主義専制権力がみせるこの異常な生き残り能力は、さまざまな疑問を提起する。
(第一章P.15〜20の冒頭部分略。P.21より)
〔小目次〕
3、特権の誕生
二十世紀初頭、ロシアの革命運動が組織化され、それまでの哲学的討議から行動の形態、目標に関する政治的討議に移行した時、権力とその組織の問題は各グループ、各政党にとって核心的なものとなった。人民主義とマルクスの申し子のような社会革命党(エスエル党)は人民主義的なアナーキズムから離れ、革命的権力が国家的形態をとることもありうることを認めた。疑いもなく社会革命党は、革命が下部から起こり、上部の権力を一掃すべき運動と見ているだけに、国家を永続的に弱め、それを人民管理下に置くことにより、古くからの国家対社会という両分の図式への復帰を防止する必要性は感じていたに違いない。
にもかかわらず彼らはすでに革命の前から、ロシア革命思想が見せ始めていた“国家主義的”転回に参加したのである。一方、自らを唯一正真のマルクスの使徒と称する社会民主労働党の方は際限もなく、ロシアの今後の発展がどんな道をたどるべきかを論議していた。ロシアは資本主義の険しい道をとるべきか、とるべきでないのか。この討論の中では、革命的権力とその性質の問題は片隅に追いやられた。実のところ、この失念は論理的なものでもあった。社会民主労働党の一部で、革命が可能となるまでに、なおたどらねばならぬ歴史的行程の長さを確信しているメンシェヴィキにとっては、権力の問題はまだ手の届かぬところにあった。
一方その敵対派、ボリシェヴィキの方は指導者レーニン以下、権力奪取の技術的問題、その方途と手段に注意を集中していた。(***一八九八年創立されたロシア社会民主労働党は、一九〇三年の第二回大会で、漸進的社会主義路線をとるマルトフら穏健派と労農独裁路線をとるレーニン派に分裂、党規約投票の際の票数から前者がメンシェヴィキ(少数派)、後者がボリシェヴィキ(多数派)と呼ばれた。のち独立党を宣言したボリシェヴィキは、一九一七年革命で政権奪取後、一九一八年ロシア共産党と改名、現在のソ連共産党に至る。)。レーニンが本当に革命的権力の性質について検討を始めるのがなぜすでに革命たけなわで、まさに彼がこの権力を樹立しようとしていた段階にまでずれこんでしまったのかは、これで説明されよう。
2、理論から行動へ、「料理女」から取りあげられた権力
〔小目次〕
レーニンの著作の中で本格的に権力と国家の問題と取り組んだ唯一のものである『国家と革命』は、一九一七年夏の熱っぽい雰囲気の中で書かれた。この作品は何よりもまず、レーニンの急ぎぶり、マルクス主義者の議論のあいまいさ、当時のロシアの状況の複雑さを浮き出させている。『国家と革命』のひどく解釈困難な性格は、こうしたごちゃまぜで両立困難ないろいろの要素によって説明されよう。レーニンはここではっきりと、(1)革命後の国家はすべてのものの国家、すべての能力を集めた国家であり、単なる“料理女”でもその管理にたずさわることができる、とうたっている。(2)ところが同時に、彼は、プロレタリア独裁とは完全に組織され、規律をもつ国家体制であって、その中での任務の付与、権限や責任の配分は何ら間に合わせ的なものであってはならない、とも規定しているのである。
(1)アナーキスト的であると同時に、(2)国家指導主義的でもあるこの本は、マルクスの思想の内部対立、マルクス以来の革命家たちを分裂させた討議の様相をほうふつとさせる。ただ、レーニンがこれを書いた時、権力の問題はそれまで閉じこめられていた知的な枠組みから抜け出して、難しい実践の局面に入っていた。帝政国家はすでに一九一七年二月に崩壊し、臨時政府も有効な国家体制を再建できずにいた。ボリシェヴィキ革命にとってはいまや権力奪取以上に、増大する無政府状態を一定方向に導き、取りこみ、組織化することが急務となっていたのである。
一九一七年十月のロシアには、もはや組織された単一権力などなく、代わって底辺から生まれ、都市や農村での無数の委員会に体現される個別的権力の拡散と並列現象が見られた。“料理女の権力”は現に存在し、自発的に行使されていた。ボリシェヴィキが今や直面した問題は、これら自然発生的権力に対し、どんな態度をとったらよいかであった。
第一、かれらを承認すべきだろうか、この自発性、社会の中へのこうした権力拡散を励ますべきだろうか?
第二、それとも底辺の諸権力の外側に政治的枠組みを再建すべきだろうか。
第三、底辺権力を調整し、吸収するシステムが必要だろうか?
レーニンの個人的な答えは、最初からあいまいさを切り捨てたものであった。ただ彼の使っている言葉が今なおあいまいさを維持し、彼の選択を隠していたにすぎない。臨時政府からソヴィエトヘの権力移行にはずみがつき出した一九一七年四月、ロシアに帰ってきたレーニンはすぐさま「すべての権力をソヴィエトヘ」と叫んだ。
(1)、そのこと自体によっても、革命の無政府主義的指向を支持するように見えた。
(2)、しかし実際には、ロシアの事態進展に関する彼の分析は、増大する無政府状態に対抗するものとして、一貫した政治的秩序を置く決断を彼に促していたことを、すべての徴候が示している。彼のアピールは、ソヴィエト権力に対する信仰告白などではなく、彼がロシアで見出した状況に関する現状認識表明にすぎなかった。
革命は、一九一七年春の時点では、まさしく人民権力の表現である各種ソヴィエトの中で実行、展開されていたのである。
(3)、そのことを認識したからこそ、レーニンはソヴィエトを権力奪取の道具として使うことを決意した。
(4)、そのためソヴィエトに、ボリシェヴィキを滲透させることにしたのだ。
(5)、もともと革命機関として案出された彼の党は、何らソヴィエトのために奉仕する気になったのではない。
(6)、全く逆に、党はソヴィエトに“潜入”し、これをボリシェヴィズム勝利のための道具に転化させようとしたのである。
3、権力奪取直後における3つの決定とその性格=一つの権力体
一九一七年十月二十五日、ボリシェヴィキ党の名で権力を奪取すると同時に、レーニンのあらゆる決定は同じ一つの方向を指すこととなった。それらはいずれも一つの権力体を――(1)独自の論理と手段を持ち、(2)社会に対し圧力を及ぼす一方で、(3)社会の気まぐれに振り回されることは拒む権力体を――強化しようとするものだった。(4)真の権力を支持し、(5)周辺的アナーキズムとは訣別したこのレーニンの選択を、はっきり裏付けるのが、革命直後に下された三つの決定である。当時はよく認識されなかったものの、これらの決定はソ連権力を以後数十年間にわたり、決定的な形で導く性質のものであった。
〔決定1〕、抑圧機構チェーカー創設
第一は、革命のただ中の時点で、社会からの影響力の及ばぬ抑圧的権力のヒナ型を創設したことである。マルクスはつねに、人民権力の実現には不可欠の一つの条件があり、それは抑圧的機構(警察と軍)が人民の管理下に置かれることだ、と強調していた。ただし手中にこうした独裁機構の一つを保有する権力は、もはや人民権力ではなくなっているだろう。
まさに権力を奪取しようとしていたこの時点でレーニンは、自分の計画を実施する小指導部である革命軍事委員会の内部に、警察権力をこしらえることにした。古い戦友フェリックス・ジェルジンスキーに、こうした抑圧機構を発足させるよう委任したのである。彼は、当時党中央委員、一九一七年十二月に反革命と闘うため創設された非常委員会(チェーカー)議長となった
疑いもなく、レーニンの心中では、目的は革命反対派の策略と闘うことにあったのに違いない。それにしてもこの革命的公安の任務を、彼が自分の傍で決起した民衆に任そうとせず、最初から民衆のイニシアチブや管理とは無縁の専門的抑圧機構を作り出した点は意味深いものがある。まだ胚芽的なこの警察細胞から、やがて二十世紀の最も怖るべき抑圧機構、スターリン時代のゲーペーウー(GPU)(国家政治局)や現在のカーゲーベー(KGB)(国家保安委員会)が育ってくるのだ。
(* ソ連の政治秘密警察機能は、革命直後のチェーカーからGPU、MGB(国家保安省)を経て、五四年四月以降閣僚会議直属の現在のKGBに受け継がれている)。
これらの制度をそのさまざまな段階において結ぶ絆は、論理的でもあり、不可避的なものでもある。革命を防衛することは、社会の外部にある専門的集団の権限に属するとみなすことにより、レーニンは暗黙のうちに、社会とははっきり区別された国家という形で革命を固めることを選んだのである。
〔決定2〕、憲法制定議会の武力解散
レーニンの第二の選択も、同様に決定的な意味を持つ。多くの政治的傾向、集団が参加した革命から、どのような政府を作り出すか? 民衆に、たとえば強力な鉄道員組合を通じて、意見を表明させれば、おおむねその場にある政党の広範な連合を支持するだろう。現存する革命的政党がすべて、新たに樹立される権力の中に代表されることは、正常なことと彼らには見えるのだ。ボリシェヴィキ党自体の中にも、この立場を支持するものが数多くいるのをレーニンは見た。
ところがレーニンは、彼自身がほとんど孤立しているだけに、一層驚くべき頑強さをもって、社会主義連立政府を樹立する考えを拒否し、とうとう自分の意志を押し通してしまう。
結局のところ、彼が下した選択をとりわけはっきり示すものは、制憲議会に対する彼の態度である。十月革命直後に行なわれたこの制憲議会選挙は、レーニンにとっては否認の意味をもつものだった。普通選挙による投票結果は、農民社会が自分を最も確実に代表してくれるものとみなしている社会革命党(エスエル)の優位を示した。選出七〇七議席のうちエスエルが四一〇をとったのに対し、レーニンの党は一七五だけだった。確かにエスエル党の内部で分裂が生じ、エスエル左派は党を離れてボリシェヴィキに合流したが、それでも過半数には足りなかった。
複数政党主義を承認したこの民衆投票結果から、レーニンは専制的な教訓を引き出した。彼によれば、社会はすでに起こった変化を考慮に入れなかった。このように遅れた意識を示すその投票結果には、したがって何の価値もないであろう。かくして、自分の論理に忠実なレーニンは、制憲議会を解散してしまい、民衆投票の結果よりも彼の党の利益、事態や全般的利害に関する彼自身の解釈の方を優先させるのである。
一九一八年初頭以来、ボリシェヴィキ権力と社会の間の関係はこうして明確になってきた。レーニンにとって、ボリシェヴィキ党(および同党中心に生まれた政府。ただし連合政府といっても、ボリシェヴィキの他には左派エスエルの数人がいるだけ)は単に社会とその意識の前衛であるばかりでなく、社会自身もまだ明確に認識できずにいるその利益や社会的意志を委託されたものなのであった。一九一七年二月から十月にかけて現出した人民権力は、(1)この時以後姿を消してゆき、(2)ボリシェヴィキ権力がそれに取って代わった。
(1)、社会が支持を表明した諸政党を政府から排除した。
(2)、普通選挙から生まれた制憲議会をつぶしてしまった。
(3)、あらゆる言論機関をボリシェヴィキの管理下においた。
(4)、さらに警察機構を創設した。それもこれらの決定を押しつけ、各党や委員会の反対が組織化するのを防ぐため、急速に増強しなければならなかった。
それらをすることにより、レーニンはきわめて短時日のうちに、完全に一貫した権力体制を作りあげた。それは社会の監視の眼をのがれつつ、社会を支配するものであった。
〔決定3〕、各ソヴィエト=「料理女」からの権力簒奪
最後の段階がまだ残っていた。底辺部権力の名残りである各ソヴィエトから実質的な中味を抜いて空っぽにし、それらの権限を中央と党に移管する作業である。この段階は一九一九年以後達成されることになるだろう。
社会から、また一九一七年の決起した労働者からのこの権力収奪について、レーニンは内外の脅威から守らねばならぬ革命が要請したものとして正当化した。しかし事態の推移を調べた歴史家は、(1)労働者権力か、(2)労働者の名において行使される権力かという選択がいきなり、いろいろな危険が明らかとなるより以前の段階で行なわれたことを指摘する。
この選択で、“料理女”は国家指導に参画するいっさいの希望を失ってしまった。しかも、レーニンは、彼が“おとぎ話”と形容するこのユートピアを嘲笑した最後の人物ということにはならないだろう。
たとえプロレタリア独裁が、はやばやと、労働者委員会を除外し、中央集権化された国家指導型権力の形態をとることになったにせよ、別にボリシェヴィキが伝統的国家を復活するつもりでいたわけではない。彼らの心積りによれば、この彼らが作り出す新しい国家では、一つの階級が他の階級を支配するようなことがあってはならなかった。第一、そんなことはありようがない、と彼らは考えた。伝統的国家の経済的基盤(生産手段の私的所有)が消滅していたからである。
ボリシェヴィキたちは、彼らが全く前代未聞の権力タイプを体現していると考えていた。彼らが保持する権力は、測定可能な武力とか物質的基盤、あるいは出身の社会的集団とかによるものではなく、触知不能な歴史的条件によるものであった。つまり彼らこそがプロレタリアートの意識であり、また歴史の流れの所産であるからであった。
彼ら権力を正当化するものとして、歴史的理性が彼らの側についているという確信があった。彼らの合法性とは、プロレタリアートとその歴史的利益、その意志が彼らの中に体現されているという点だった。たとえ、投票とか他の政治グループに対する支持などの形で表明された労働者のさまざまな意志との間に、見かけ上の矛盾があったにしても、一向に構わなかった。もし矛盾があるとすれば、それはプロレタリアが歴史的必然の在り方を必ずしも正しく把握できるとは限らない結果であった。
レーニンはすでに一九一七年以前に、歴史的必然とプロレタリアによるこの必然の認識との間に、一致するには程遠い距離があると考察している。そこで彼はこうした事態に対処するために、歴史的必然の正しいビジョンをもち、したがってプロレタリアを導く責務を帯びた前衛党の建設が必要だと結論していたのである。
歴史的必然を体現するというこうした絶対的確信が、ほとんど宗教的性格を帯び、いっさいの論理的説明の域外にあることを、改めて強調する必要があるだろうか。さらにそこから生ずる合法性なるものが、かつて“神の祝福を受けた”と称し、内在的必然を振りかざすことにより自己の権力を正当化していたキリスト教君主らの合法性と根本的には異なるところがないことを、改めて強調する必要があるだろうか。権威を押しつけられる側の得心を促すこうした権威合法化のシステムは、一貫した、明確な、社会を共通のはっきりした価値観の周囲に動員できるようなイデオロギー体制の存在を前提とする。
このタイプのイデオロギーは、漠然とした形で広められるわけにはゆかない。(1)当然それらは社会の骨組みを作り、(2)社会を教育し、(3)安心させ、(4)絶えず権力の基盤となっている信念との触れ合いを維持させるような、大掛かりな機構を必要とする。このことは、(5)ソ連体制の中でイデオロギーが核心的な場所を占めるようになること、(6)さらにそれが社会的な、また私的な活動の全体をカバーし、(7)個人や集団の存在のあらゆる分野に滲みこむようになることを説明する。
このことはまた、ソ連の実際の進化ぶり、起こった変化、ソ連イデオロギーの基本原則と現実との間の落差、市民の確信や反応がどのようなものであれ、(8)イデオロギーの役割が、いったん打ち出された命題を不変のまま維持し、(9)つねに社会に対して現実と最初の計画とは一致しているのだと保証することにあったことを説明する。
最後に、このことは、ソ連社会においてこのイデオロギーを付託された集団、すなわち党が帯びる重要性を説明する。この最初の選択は、改めて想起しておきたいが、それは信仰に関わるものであって、事実の合理的分析などではない。それは、ソ連体制にとって明確で拘束的な結果を意味するものであった。ソ連体制はイデオロギー的体制、それもイデオロギー的独占体制であり続けなければならなくなった。他のイデオロギーの存在を認めることは、体制を支える真理を問題にすることを認めることだからである。さらにこの体制は、単一の政治組織によって、になわれなければならなくなった。
競合する組織の存在は、論理的帰結として、(1)理念の競合、さらに進んで、(2)真理の競合さえ引き起こしてしまうからである。真理は、それが信仰に関わるものである時、分割不能で、論議不能なものとなるのだ。
権力を、(3)歴史的必然の名において党が独占し、(4)党が同時にその担い手、審判者、保証人を兼ねるという、このレーニンの最初の決定から、その後組織されていく全ソ連体制――(5)単一の、一枚岩的な党、それに真理の独占体制を保持するイデオロギー――が生まれることになった。と同時に、この選択の結果としてソ連体制は、その方法、その選択においては変わりうるにしても、(6)単一組織、単一イデオロギーの体制自体は触れてはならぬものとなった。まさに、この不可変性の中にこそ、(7)体制の合法性、(8)その不死身性が存在するからである。
〔小目次〕
3、位階制の導入とその急速な発達→経済的・政治的不平等、特権的集団の確立
体制の創始者であるレーニンは、それが生み出しそうな結果のすべてに最初から気づいていた。だから彼は、一九二一年三月の第十回党大会で、党内部に派閥を作ることを禁じた規則を採択させることにより、党を強化し、その内部的結合を確立しようと努めた。しかし専制強化がレーニンによる努力の唯一の姿ではない。いわばイデオロギーだけが証人となっている形のこの“労働者権力”についても、彼は物質的平等主義を打ち出すことにより、最小限にせよ、それを労働者に近づけ、権力の座にある者と生産に携わる者との生活条件を均一化することに努めた。
レーニンが頂上で政務を処理していた時期には、民衆の権力は奪われていたにせよ、それでもなお彼らが社会的モデルを体現しているとみなす平等主義的イデオロギーの発展が見られた。体制発足直前にとられたさまざまな措置は、権力の保持者らが特権層となることを防ぎ、彼らの権力からいっさいの物質的土台を取り去ることをねらいとするものだった。レーニンにとってのモデルは、公務に携わる者が労働者より少ない報酬を受け取る制度をとっていたパリ・コンミューンである。
一九一七年十一月十八日の政令は、新体制の指導者や官僚が得ることのできる給与の上限を設定した。このころ高度技能労働者で月約四〇〇ルーブルを得ていたのに対し、人民委員、ないし同水準の高官がとることのできる給与の最高は五〇〇ルーブルと定められ、さらに働かない家族成員一人につき一〇〇ルーブルの追加が認められた。人民委員とは、革命以後の制度で大臣に相当する。同様に人民委員部は省に、人民委員会議は閣僚会議=内閣に相当する。
住宅入居権も厳しく規制された。このような高官でも、一人一室以上の占有は認められなかった。もっとも、これだけ厳しい措置をとったにせよ、周囲の悲惨な状況、失業、共同住宅にぎっしり詰めこまれた都市住民の生活に比べれば、責任ある地位、権力の空間を泳ぎ回る連中を特権層に仕立てあげるような状況の余地はなお残されていたに違いない。それでもレーニンは、特権層ができるだけ限られたものであるよう望んでいたし、彼自身の質素な生活も側近たちへのモデルの役を果した。
2、平等実現への意欲がつまずいた経済的・政治的要因
しかし、すでにこのころから平等実現への意欲は経済面、政治面の二つの現実につまずくことになる。経済的要因は、厳しい戦時共産主義時代の終りごろ現われてきた。一九二一年春、ソヴィエト政体は農村、都市で噴出した社会の貧窮と不満による反抗の嵐の中にのみこまれかけていた。体制を救い、再び生命を与えるためにレーニンは戦時共産主義をあきらめ、新経済政策(ネップ)を選んだ。この選択は、共産主義への行軍の中での小休止であり、経済に息をふき返させるための時間であった。
(1)、農民が再び仕事に戻り、工場が操業を再開するようにさせるためには、いろいろな拘束をゆるめ、物質的刺激が作動する場を作り、創意や能力を優遇する必要があった。それがどういうことかといえば、農村では農民が十分に生産し、都市を養う任務を果す限り、自分も豊かになれるということだった。
(2)、工業部門では、企業になくてはならぬ専門家たちがその能力に見合った高給の約束に心を躍らせるということだった。
(3)、戦時共産主義時代にはほとんど姿を消していた貨幣経済も次第に本来の地位を取り戻したため、こうした金銭的刺激はたちまち現実的な意味を帯びることになった。
3、位階制の導入とその急速な発達→経済的・政治的不平等、特権的集団の確立
(4)、それは職業的生活の中に位階制を導入したものであり、急速にこの位階制は発達をはじめる。
(5)、ところで、職業的能力には金銭的な面で報いておきながら、一方ではこれまた増加してきている政治家、官僚群をこうした給与序列化から遠ざけておけるものだろうか。平等が経済的必要の前に犠牲にされた以上、政治関係者も同様の恩恵を手にするだろうことは明白であった。それに彼らもまた、体制にとっては絶対的必要物ではないか。
この点、レーニンはできる限り不平等への復帰を抑えようと努めた。一九二一年六月二十三日の政令は、政治的幹部の給与が、彼らの配属されている企業の平均賃金の一五〇%を越えてはならないと規定している。しかしこのような規定は、これら幹部らの活動量がふえ、手当が増大したこともあって引き起こされた予想以上に大きな幹部給与の伸びの前にたちまち空文になってしまう。
(6)、一九二五年三月二十一日に出た新たな政令はこうした事態の教訓を汲み、政治活動に対する報酬の枠をひろげたが、すでに実際にはそれが平均的労働者賃金の三倍から四倍の間を動いていることはよく知られていた。ただしここでは肝腎の問題は給与ではない。
(7)、このようにソヴィエト政権が一方で平等主義、一方で経験主義的な問題の取り組み方のいずれをとるか迷っていたこのころからすでに、平等主義をうたいあげた声明や、政治的責任を持つ者に課された給与制限などは、限られた意味しか持たなくなっていた。金銭とか俸給とかは、決して唯一の生活手段ではないからである。欠乏状況は、つねに独自の律法を生み出すものである。特別な流通回路が生まれ、人がモノを手に入れられるのは、使えるカネがあるからではなく、それを入手できる立場にあるからだ、という事態となる。
革命直後のロシアで何よりも問題だったのは、食べることと住むことだった。一九一七年に採択され、その後補足された食料配給制度は、不足がちな物資を社会的な、また公益性の基準にしたがい配分する使命を帯びていた。労働者の国家では労働者が王さまであり、一番多い配給量を手にした。一方、旧体制の生き残りである雑多なカテゴリー、たとえば貴族、ブルジョア、聖職者、無職の連中などは、社会的階層の最下段に追いやられ、しばしば配給量決定に当たって考慮に入れられることさえなかった。ただ、公益性という基準はやがて事態をひどく複雑なものにしてしまう。
(8)、体制側は当初、国家の機能に欠くことのできない専門家に特典を与えることを決定した。一九一九年のロシアは流行病とたたかわねばならない状況にあったため、一九一九年四月十日の政令は医師、看護婦に対する食料の特配を決めた。一九二〇年四月三十日、こんどは経済的に特別な重要性をもつ企業の労働者・職員、危険な作業をしている労働者、並みはずれて高度の技能をもつ非肉体労働者らが同様の特典を手に入れた。同様にして、公的職務を行使するもの、権力中枢周辺で働くものにも特典を与えてよいのではないだろうか。
(9)、ただ政治的分野へのこうした特権拡大は、余りにも平等主義イデオロギーに抵触することが明らかなので、権力側は、すでに戦時共産主義期から公式の平等主義と内密の特典供与慣行を組み合わせる道を選んでおり、それは時とともに増幅されていった。政府メンバーとその家族、党メンバー、警察、軍隊、さまざまな官僚たちは、まさしく一つのウラ経済体系全体を作りあげることにより、彼らの物質的問題も解決したのである。
(10)、それは彼らメンバーだけに対し、酒保、レストラン、部門別特定商店など、外部世界に対しては門戸を閉ざし、ほとんど知られてさえいない場所への出入を開放するもので、成文化してはいないものの、完璧に機能するルールにより社会を序列化するものであった。こうしてすでに、一九一八年から、軍隊の中で特別なパイヨーク(配給)が供与され、しかもその量が普通の基準に比べてひどく豊富なので、軍人でない連中まで数多く不正手段で軍籍に登録し、おこぼれにあずかろうとする光景が見られたのである。
(11)、欠乏状況のおかげで、建て前上の平等の陰に事実上の不平等がこうして発達していったが、この不平等を、受益者側集団の方はいずれも覆い隠すことに専念した。それがソ連国家は労働者国家であるという、あれだけ声高に、絶えず繰り返されてきた主張と完全に矛盾するものだったからである。専門家たちの享受する特典だけは大っぴらに扱われたが、それも平等主義のテーゼを根拠づけるのに役立つからであった。専門家たちは、全体的にみて旧特権階級の出身者が多く、当面必要とされる彼らへの特典も、消えてゆく世界への最後の供物にすぎなかった。専門家たち自身も消え去る運命にあった。
(12)、公式の、あるいは覆い隠された経済的不平等に、政治的不平等も加わった。
すでに見たように、レーニンは一九一七年に、抑圧機構を復活させていた。内戦や体制反対派との闘いの歳月は、警察を極度の権力をもつ機構に肥大させ、その権限(抑圧的、司法的)は全社会をカバーした。ただしこの権限にも、レーニンが最初から定めておいた限界があった。すなわち「党」はこうした警察のせんさくの眼を免かれることができたのである。党のまわりにこのような保護ネットを張りめぐらすことにより、レーニンは党に対し、一般社会ではとても考えられぬような安全性を付与した。
それはまた免責性を与えることでもあり、おかげで党は、法律では必ずしも認められていないような物質的利得を重ねることができた。このように政治権力層を一般法や民衆共通の運命から引き離すことにより、レーニンは一般社会とこの生まれつつある政治的階級との間に溝を掘ることに貢献する。とりわけ彼は、同質的な社会集団――ソ連官僚機構を作りあげるのに貢献したのである。
(13)、不平等慣行が発達し、特権的集団が確立される一方で、イデオロギーは革命の熱望にかなった社会モデルを掲げ続けた。公式の演説が競って繰り返し、新聞が書きたて、小説家たちが描写するよう求められていたもの、それは貧しい人たちの叙事詩であり、同じ運命を分かち合う男たちの友愛の世界だった。言葉でも態度でも、ソ連権力はいま生まれつつある社会的現実を否定した。権力側は、ロシアの地で勝利を収めた労働者階級が、国際的な舞台での孤立の代価を払っているのだという、困難な時代の神話に依然すがりついていた。ただしすでに、ソ連で始まったこの新たな階層分化を今後合法化してゆくための説明の素描が、ここには浮かび出している。ただ一国で勝利してしまった革命は、この予見されなかった状況に対する適応の努力を払わねばならないのだ。
(14)、レーニンの個性に色どられたソヴィエト国家創建の時代は、結局のところ(それが望まれたものだったかどうかは別として)、ソ連体制を一つの明確な方向――本来のユートピア的構想や革命で描き出された目標とは無縁の方向へ導こうとするさまざまな選択によって特徴づけられている。権力(政治的、あるいは技術的な)は底辺から遠ざかった。それは専門家の仕事だった。レーニンは今世紀初め、『何をなすべきか』を書いて革命の手段を規定しょうとした際、革命がアマチュア主義や自然発生的イニシアチブなどに耐えられるものではなく、職業的専門家や厳密な組織化を必要とするものだ、とあっさり結論を下している。
一九一七年に権力を握ったレーニンは、その権力の行使に当たって、彼が革命実行のために作りあげたルールを適用しようとするのだ。プロフェッショナル化と(革命的ユートピアとは無縁な)権力の厳密な組織化とは、レーニン主義思想の中の、いわば定数である。一九一七年から二三年にかけて、レーニンがソ連の政治舞台を支配する中で形成されていった権力は、たちまち官僚主義的、専制的、守旧的になってしまう。こうした展開は、そもそも誕生の時からこの権力が社会の管理外におかれていただけに、一層容易だった。一九一七年の帝国国家の廃墟の上に、ほとんど踵を接して出現した新しい国家は、革命家たちが非難してやまなかった諸国家と同様、みずからが独占管理権を握る抑圧横構の上に基盤をおいた国家だった。しかもこれら抑圧機構の勢力と管轄範囲は、その後も増大してやまなかったのである。
4、特権特典への接近権(アクセス)による四つの身分タイプ
権力も、それを管理する手段も取りあげられてしまった社会は、またすでにこの当時から、指導党の外部での表現手段を持つこともできなかった。権力との間を分かつ溝を埋める唯一の可能性は、全面的に党と一体化し、自分がその申し子であると認めることだった。しかし、たとえ社会が権力と一体化したとしても、現実を覆い隠すことはできなかった。指導階層は、(1)入手可能な物質的特典の保有を序列化し、(2)さまざまな特権を組織することにより、(3)短い年月の間に社会共同体を、特典への接近権(アクセス)によって分離されたさまざまなカテゴリーに分割してしまった。
こうして彼らは、権力に物質的基盤を与えたのである。確かに諸特権は、それを入手することが可能なすべてのカテゴリーに平等に与えられたわけではなく、各カテゴリーの間で身分的な相違が現われた。こうしてわれわれは四つの身分タイブを識別することができる。それは少なくとも四つの、それぞれ固有の特典の周りに結集した社会集団を生むのだが、彼らはいずれもすでに二〇年代初頭から社会全体とは切り離された存在となっていった。
〔身分タイプ1〕、専門家集団
まず、専門家集団である。その社会的出身環境のため、公然と特典を与えても差し支えないもので、彼らは高い給与を手に入れた。
〔身分タイプ2〕、党、国家、警察の政治責任者ら
つぎに、(党、国家、警察の)政治責任者らで、その特典は公に認めるわけにいかないし、その給与は労働者賃金を基準に算定され、厳重に管理されている。ただし、給与面での制限は、行政面での飛び切りの特典や珍重すべき特権(食品、住宅、交通)で埋め合わされた。
〔身分タイプ3〕、軍隊
軍隊は、早くから物質的特典(特殊商店、酒保、住宅)に加え、平均水準より高い給与とおまけにそれをウラ活動による副収入で改善する権利、とりわけ有利な年金システム、軍人の子のための教育上の特典(優先的な高等教育機関入学と授業料免除)などをしっかり抱えこんだ。
〔身分タイプ4〕、創造的インテリゲンチヤ
最後に、創造的インテリゲンチヤ(アカデミー会員、作家、芸術家、弁護士、医師、科学研究者など)は、権力と協力することを受け入れているだけに、特別な配慮の対象となった。たとえば二〇年代初めに決まった食料特別配給、住宅面の特典(一九二二年一月十六日の法令は、研究者の仕事のためにそれぞれ一室を追加割当しており、この規定は一九二四年に、“適当な場所の供与を必要とするような”知的活動を行なうものすべてに拡大された)、旅行、そしてとりわけ一九二五年以後になると、創造的活動に報いる賞の授与がある。こうした賞は相当な金額のほかに威信面、身分面でのさまざまな特典をもたらすものであった。
こうして、短い歳月のうちに、労働者の社会の外側に、特権者の社会が作りあげられた。それは、ある時は自己の特権を見せびらかし、またある時は(これは政治的責任をもつものの場合だが)給与のつつましさという虚構(フィクション)のかげにそれらを隠した。公表されたものであろうとなかろうと、こうした社会的分化は重い影響を及ぼすことになった。それが高等教育への接近の機会という面を通じて、差別の永続化の可能性に結びついていたからである。以上(P.38まで)
以下、第二章から第八章で、スターリン体制からブレジネフ体制までの分析がされている。(注)が多数ある。しかし、ほとんどフランス語か英語の原典なので、省略した。
ロシアおよび中央アジアを専門とするフランスの女性歴史学者・国際政治学者。アカデミー・フランセーズ終身幹事、欧州議会議員。パリの政治学院卒、ソルボンヌ大学で歴史学博士号、さらに同校で文学・人文科学国家博士号を取得、母校で教鞭を執った。ソルボンヌ大学教授とパリ政治学院のソ連研究課程主任を兼ねている。また、シカゴ大学のソ連民族問題研究グループにも属し、中央アジアを担当してきた。その研究分野は、ロシアおよびソ連史、中央アジア史、ソ連の外交政策ときわめて広範囲に及び、さらに、一般に現代世界における民族問題に特別な開心を寄せている。
主な著書に、『崩壊したソ連帝国』(1981.増補新版1990)、『民族の栄光』(1991)、『甦るニコライ二世』(2001)、『エカテリーナ二世』(2004)(邦訳、いずれも藤原書店)、『ソ連邦の歴史』(1985年)、『パックス・ソビエチカ』(1987年)(以上、新評論刊)、『未完のロシア』『ユーラシア帝国』(邦訳、藤原書店近刊)など。
ソ連崩壊後の1998年出版が、別ファイルに一部引用した『レーニンとは何だったか』(藤原書店、2006年6月)である。
以上 健一MENUに戻る
〔関連ファイル〕
H・カレール=ダンコース『軍事革命委員会の創設は、紛れもないクーデター』
『1917年10月、レーニンがしたこと』革命か、一党独裁狙いの権力奪取クーデターか
『「レーニンによる十月クーデター説」の検証』革命か、クーデターか
リチャード・パイプス『ロシア革命史−第6章十月のクーデター』
R・ダニエルズ『ロシア共産党党内闘争史』蜂起、連立か独裁か
梶川伸一『レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか』十月革命は軍事クーデター
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