軍事革命委員会の創設は、紛れもないクーデター

 

レーニンとは何だったか

 

H・カレール=ダンコース

 

 ()、これは、H・カレール=ダンコース『レーニンとは何だったか』(藤原書店2006年6月、原著1998年)から、ごく一部を抜粋したものである。引用した章は、第3部・是が非でも革命を(1914〜17年)「第9章・すべての権力をボリシェヴィキへ」(P.301〜338)である。その内、「十月革命」ではなく、クーデターだったと規定する節を、3箇所・約4頁分だけ抜粋・転載した。686頁中の短い引用なので、出版社の了解は得ていない。本書は、ソ連崩壊後に発掘された資料を多数載せていて、きわめて興味深い。

 

 これによって、レーニンが1917年10月にしたことは、「革命」ではなく、クーデターだったと規定した研究者・ジャーナリストは、別ファイルに載せたのと合わせると12人になった。()、ソ連崩壊前が、E・H・カー、ハリソン・ソールスベリーである。()、ソ連崩壊後の日本人研究者は、加藤哲郎、中野徹三、梶川伸一、稲子恒夫ら4人がいる。()、ヴォルコゴーノフも、『レーニンの秘密・上下』で何度も、クーデターとしている。()、ソ連崩壊後のアメリカ・フランス・イギリス人研究者は5人になった。マーティン・メイリア、リチャード・パイプス、ニコラ・ヴェルト、ロバート・サーヴィスら4人に、フランス女性学者で、ソ連史研究の第一人者であるH・カレール=ダンコースが加わった。

 

 彼女は、第9章の題名を、従来の「すべての権力をソヴィエトへ」でなく、「すべての権力をボリシェヴィキへ」とした。ここに、彼女の「十月革命」史観が表れている。転載に当たって、私(宮地)の判断で、各色太字( )番号を付けた。

 

 〔目次〕

   1、表紙・裏扉における「序より」 (全文) 本書の目次

   2、蜂起のための軍事装置 (抜粋)

   3、「じわじわと迫る」蜂起 (抜粋、2箇所)

   4、エレーヌ・カレール=ダンコース略歴

 

 〔関連ファイル〕         健一MENUに戻る

    『1917年10月、レーニンがしたこと』革命か、一党独裁狙いの権力奪取クーデター

    『「レーニンによる十月クーデター説」の検証』革命か、クーデター

    『レーニンによるソヴィエト権力簒奪7連続クーデター』第1部

    リチャード・パイプス『ロシア革命史−第6章十月のクーデター』

    R・ダニエルズ『ロシア共産党党内闘争史』蜂起、連立か独裁か

    梶川伸一『レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか』十月革命は軍事クーデター

    中野徹三『社会主義像の転回』制憲議会解散、一〇月革命は悲劇的なクーデター

 

    『見直し−レーニンがしたこと、レーニン神話と真実』レーニン批判全ファイルメニュー

    H・カレール=ダンコース『奪われた権力』ソ連における統治者と被統治者

 

 1、表紙・裏扉における「序より」 (全文)

 

 共産主義が拒絶され、闘争が放棄された現在、偶像にはもはや存在理由はない。ソ連邦は(歴史)の中に入ってしまった。レーニンの今後は、政治的必要性や要請にとらわれずに、人物の功績と出来事を評価しつつ、じっくりと考える人々のものとなる。今日、レーニンに関して次のような重要な問いを発し、自分に問いかけることが可能である。

 

 レーニンとは何者であったのか。二十世紀最大の恐るべき悲劇の一つについて責任を負うべき犯罪者なのか。あるいは(歴史)の突然の転換の犠牲者であって、やがていつの日か新たな、恐らくは最終的な転換が訪れて、正しさが認められることになるのであろうか。政治的行為と政治的生成の中では、人物とその国を切り離すのは困難なものだが、その中でどれほどの部分を、レーニンという人間の人格に帰すべきなのか。彼の選択とその結果の中で、政治的背景−ロシアの遅れ、ロシアの外での革命の遅れ−が占めた部分はどれほどのものであったのか。

 

 レーニンは、人間への軽視が恒常的であった恐ろしい世紀を具現する者だったのか。あるいは人類に対して平和で穏やかな未来への道を描いてみせた――もしかしたらあまりにも早すぎたかも知れないが――予言者なのか。(「序」より)

 

 本書の目次 686頁

 

 第1部ウリヤーノフからレーニンへ (一八七〇〜一九〇〇年)

     人生修業、変化のるつぼ、ロシア、ボリシェヴィズムの起源

 第2部職業的革命家 (一九〇〇〜一四年)
     統一性−一つの党、一つの綱領、一人の指導者、一九〇五年―耐火試験、雌伏の時(一九〇五〜一四年)

 第3部是が非でも革命を (一九一四〜一七年)
     革命のためにロシアの敗北を、すべての権力をソヴィエトへ(一九一七年二月〜十月)、すべての権力をボリシェヴィキ

 第4部、夢の終わり (一九一七〜二四年)
     国家の死から革命国家へ、是が非でも権力を守る、世界革命か、一国のみの革命か、

     民族自決が終わり再び複合国家が構築される、『一歩前進、二歩後退』、ある知性の衰退

 

 

 2、蜂起のための軍事装置 (抜粋、P.310〜311)

 

 軍事行動を支持する者であれ、それに反対する者であれ、ボリシェヴィキは誰しも自分たちの相対的弱さを自覚していた。いくつもの軍単位に対して宣伝活動を行なっていたにもかかわらず、兵士たちは大半が彼らのあとに従う態勢にないことを、彼らは知っていた。それゆえ行動への移行を計画するためには、有効な軍事装置を所有する必要があった。この装置が十月九日、党中央委員会の会議の直前に設立された軍事革命委員会である。

 

 元々、()この機関は、ドイツの攻勢の恐れが強まった頃、首都の防衛を組織するために、ソヴィエトのメンシェヴィキ空想したものである。

 ボリシェヴィキは熟慮の末、このような計画を自分たちが利用できることを理解し、討論の際に、

 ()独自の防衛委員会構想――外敵に対すると同時に、「内部の」敵に対する防衛――を規定した。

 ()また、同委員会に代表を送り込む諸機関と同委員会が持つ諸権限を列挙した決議案を提出した。

 

 このボリシェヴィキの決議案を綿密に読んでみると、彼らの構想の中で、軍事革命委員会の創設それ自体が、すでに紛れもないクーデターにほかならなかったことが分かる。

 

 第一政権の合法的機関は、この委員会に対して何の権限も持たない。

 第二唯一ソヴィエトのみがこれに権限を有する。

 第三執行委員会すなわち(イスパルコム)は軍事的全権をその手に集中する、すなわちすべての権力を専有するべきものとする、というわけである。

 

 スハーフはボリシェヴィキの決議案を解説しつつ、これがソヴィエトの全体会議によって最終的に採択された時の様子がいかなるものであったかを報告している。

 

 討論の際に、一人のメンシェヴィキの代議員が、「軍事革命委員会は政権奪取のための革命司令部にほかならない」と公言した。するとたちまち、トロツキーから痛烈な反撃が返って来た。その意見は、()ケレンスキーの名において表明されたものか、それとも、()〈オフラーナ〉の名において表明されたものなのか、とトロツキーは尋ねたのである。これをきっかけに議場は逆上的な熱狂に包まれて、圧倒的多数でこの法案は採択されることになった。

 

 そういう訳で、革命の装置は存在しており、ボリシェヴィキの掌中にあった。ボリシェヴィキは、政府を軍単位から切り離す有効な手段を握っており、全く合法的に各単位に指令を発することができた。そのため、ボリシェヴィキの権力増大に不安を募らせていた者は懸念を表明したが、彼らのうちで、レーニンが何を準備しており、何をすることができるかについて正確な見通しを持つ者はほとんどいなかった。

 

 ゴーリキーは、十月十八日に不安を示す記事を発表した。「ボリシェヴィキの行動に関わる噂がますますしつこくなっている。…‥ボリシェヴィキの中央委員会は武力行使に関する噂を確認しなかったが、否定もしなかった。委員会が本当に強力で、自由に行動でき、大衆を支配することのできる組織であるならば、それを否定しなければならない」。ゴーリキーによってこのように表現された不安は、参謀長もまた抱いたものだった。彼は首都に飛び交うさまざまな噂を伝えるために、ケレンスキーに宛てた報告書の中で次のように記していた。「ボリシェヴィキは政府に対する抗議デモを準備しています。デモは平和的なものとなるべきところですが、それには労働者が加わるでしょうし、彼らは武器を持つことでしょう」。

 

 

 3、「じわじわと迫る」蜂起 (抜粋、2箇所)

 

 (抜粋1、P.314〜315)

 

 早くも十月二十一日には、首都の状況は、ボリシェヴィキの権力獲得のための準備作業の開始をうかがわせるものとなる。レーニンはヘルシンキの労働者・兵士・水兵委員会の議長であるスミルガに以下の伝言を送った。「ケレンスキーを打倒する準備をしなければならない時に、決議案や修正案の決議で時間を無駄にするのはばかげている。もっとも重要な問題は、武器を手に入れることである。…貴下の役割は、フィンランドとバルチック艦隊の協力をわれわれのために確保することである」。

 

 翌日には作戦が始まる。軍事革命委員会は、()首都の守備隊を正式にその権限下に置くことを企て、()もはや同委員会から出される命令のみに従うべきこと、()何事についてもこの委員会に対して責任を負うべきことを、守備隊に対して通達した。

 

 このクーデターを知った参謀本部は、すでに全面的にボリシェヴィキに服従しているこの委員会を創設した原則上の主体たるソヴィエトの方に目を向け、守備隊に与えられる命令を即座に破棄通告するようにせよ、さもないと政府との公然たる敵対関係に突入することになるぞと、ソヴィエトに対して強く申し入れた。ケレンスキーは十分に情報を得ていたが、相変わらずボリシェヴィキの現実の力をあまり承知しておらず、このクーデターの発端を利用して反撃に転じ、最後には敵を残滅する可能性をなおも信じていた。十月になっても彼はまだ七月に支配的であった力関係に基づいて思考していた。彼は、レーニンが今回は計画を最後までなし遂げる決意でペトログラードに来ていることを、ことさらに無視したのである。

 

 同じ日に、ソヴィエトは、スモーリヌイ学院にて臨時会議を開く。ボリシェヴィキはその会議に、首都に駐留している連隊の責任者、あるいは、代表者たちを列席させるように取り計らった。彼らに向けた発言の中で、トロツキーは、参謀本部が軍事革命委員会の権威に従うことを拒否したことを告げ、次のように言い放った。「参謀本部がこの委員会の命令を承認することを拒否した以上(‥‥)、参謀本部は反革命勢力の道具となった。ペトログラードの兵士諸君、革命の防衛は、唯一軍事革命委員会のみの権威の下にある諸君の双肩にかかっているのだ!」

 

 (抜粋2、P.316〜317)

 

 ケレンスキーが忠実に履行されない命令を出して時間を無駄にしている間に、クーデターの準備は続けられた。二十三日、同僚と議論を続けたレーニンは、ついに自分の見解を彼らに押し付けるに至る。蜂起はこれ以上引き延ばすことはできない。ソヴィエト大会の開会当日である翌々日までに実行されねばならない8(Trotski The History of the Russian Revolution, New York,1937 ,第3巻P.355)

 

 蜂起が始まった時、軍事革命委員会には、党中央委員会のメンバー二人、エスエル左派の代表者二人、ペトログラードの兵士の代表者四人、そして特にもっとも活動的な人物として、トロツキー・彼は全作戦を指揮する、ジェルジンスキー、アントーノフ=オフセーエンコ、ラシューヴイチ、ネフスキー、ポドヴォイスキーがいた。こうしてこの決定的瞬間にトロツキーの周りに集まっていた者たちは、これまでにたどった道は異なるものの、この十月二十四日の夜にスモーリヌイ学院に居合せる論理的な理由を持ったボリシェヴィキたちであった。

 

 まず、アントーノフ=オフセーエンコは、クーデターの軍事面を監督するのにうってつけの人物であった。彼は首都の貴族学校で教育を受けた職業軍人で、後輩にあたる一九一七年の若き見習い士官たちを革命の側に引き入れる力を他の誰よりも持っていた。十月に彼がすることは、すでに一九〇五年に彼が試みたことで、当時、PSDOR(ロシア労働者社会民主党)の党員であった彼は、将校として所属していた軍の反政府行動に参加して、ポーランド駐留の二大隊の反乱を引き起こした。彼は一九一四年まではメンシェヴィキだったが、次いでトロツキーの国際派グループに加わり、トロツキーに極めて近かった

 

 軍人としての過去と一九〇五年の殊勲によって、アントーノフ=オフセーエンコは、蜂起を組織するのにもっとも適任の専門家の一人であるとの評判を勝ち得ていた。とはいえ彼とレーニンとの関係は困難なままであった。メンシェヴィキであったので、ボリシェヴィキを激しく攻撃し、その指導者と党を「腐敗をもたらす者」呼ばわりしていたのである。蜂起を指揮した「トロイカ」の中で彼に重要な役割が与えられたのは、トロツキーの支持もさることながら、彼自身の軍事面での類い稀なる手腕の故であった。

 

 

 4、エレーヌ・カレール=ダンコース略歴

 

 ロシアおよび中央アジアを専門とする歴史学者・国際政治学者。アカデミー・フランセーズ終身幹事、欧州議会議員。パリの政治学院卒、ソルボンヌ大学で歴史学博士号、さらに同校で文学・人文科学国家博士号を取得、母校で教鞭を執った。

 主な著書に、『崩壊したソ連帝国』(1981.増補新版1990)、『民族の栄光』(1991)、『甦るニコライ二世』(2001)、『エカテリーナ二世』(2004)(邦訳、いずれも藤原書店)、『未完のロシア』『ユーラシア帝国』(邦訳、藤原書店近刊)など。

 

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 〔関連ファイル〕

    『1917年10月、レーニンがしたこと』革命か、一党独裁狙いの権力奪取クーデター

    『「レーニンによる十月クーデター説」の検証』革命か、クーデター

    『レーニンによるソヴィエト権力簒奪7連続クーデター』第1部

    リチャード・パイプス『ロシア革命史−第6章十月のクーデター』

    R・ダニエルズ『ロシア共産党党内闘争史』蜂起、連立か独裁か

    梶川伸一『レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか』十月革命は軍事クーデター

    中野徹三『社会主義像の転回』制憲議会解散、一〇月革命は悲劇的なクーデター

 

    『見直し−レーニンがしたこと、レーニン神話と真実』レーニン批判全ファイルメニュー

    H・カレール=ダンコース『奪われた権力』ソ連における統治者と被統治者