ロシア革命史

 

第6章、十月のクーデター

 

リチャード・パイプス

 

 ()、これは、リチャード・パイプス著『ロシア革命史』(成文社、2000年)から、「第6章、十月のクーデター」の一部を抜粋したものである。原著は、ソ連崩壊4年後の1995年に出版された。全体444頁の大著で、第6章は35頁ある。このファイルは、その内、冒頭1頁抜粋(.123)と後半15頁(.144〜158)のみの全文を抜粋・転載した。本文の傍点箇所は、黒太字にした。レーニンとトロツキーの写真も本書にあるものを転載した。著者紹介や本書の解説は、「訳者あとがき」に詳しい。このHPに転載することについては、成文社と訳者西山克典教授の了解をいただいてある。このファイルを読まれた方が、本書全体を購読していただければ幸いである。

 

 〔目次〕

   1、第6章、十月のクーデター (抜粋)

   2、著者略歴

   3、訳者あとがき―解説にかえて― (抜粋)

 

 〔関連ファイル〕          健一MENUに戻る

     『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが「殺した」自国民の推計』

     R・ダニエルズ『ロシア共産党党内闘争史』蜂起、連立か独裁か

     アファナーシェフ『ソ連型社会主義の再検討』

     ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁の誤り

     ダンコース『奪われた権力』第1章

     梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1918年

           『レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか』十月革命は軍事クーデター

     中野徹三『社会主義像の転回』制憲議会解散論理、1918年

     八百川孝共産党区会議員『夢・共産主義』ロシア革命の総括No.1〜27

 

説明: pipes  説明: lenin  説明: trorskii

                                 レーニン1919年3月  レオン・トロツキー

 

 1、十月のクーデター

 

 1、ボリシェヴィキによる権力奪取の挫折 (冒頭1頁のみ抜粋、P.123)

 

 一九一七年のロシア革命を語る際には二つの、つまり、一つは二月の、もう一つは十月の革命を指すのが通例であるにもかかわらず、その名に値するのは、前者のみである。一九一七年二月には、ロシアは正真正銘の革命を経験した。ツァーリ体制を打倒した騒乱は、謂れの無いものでも予期されないものでもなかったが、自然発生的に勃発し、また、権力を引き受けた臨時政府が、直ちに全国的な承認を得たという点においてである。一九一七年の十月については、どちらも当てはまらない。臨時政府の打倒へと導いた出来事は、自然発生的なものではなく、緊密に組織された謀議のうえで、念入りに策略をめぐらし実行されたのである。これらの陰謀家たちが住民の大多数を制圧するのに、三年の内戦を要した。十月は、典型的なクーデターであり、小数の徒党による支配権力の奪取であり、その時代の民主的信条に敬意を表して、大衆が参加したとみせかけたが、しかし、大衆は殆ど何ら関わることなく遂行されたのであった。

 

 ボリシェヴィキのクーデターは、二つの局面を通して進行した。レーニンが直接、指揮をとった最初の局面では、二月の出来事を摸して、街頭デモで政府を打倒するという戦略がとられた。その戦略は失敗した。レーニンがフィンランドに潜伏している一方で、九月に任務を引き受けたトロツキーは、騒動を編成するという考えを放棄した。彼は、不法に召集された第二回ソヴェト大会という外見の陰で、ボリシェヴィキのクーデター準備を隠蔽し、政府の神経中枢を掌握する任務を特別の突撃隊に委ねた。理論上は、権力の掌握は暫定的であり、ソヴェトのためであったが、しかし、実際は、恒常的なものであり、ボリシェヴィキ党のために実行された。

 

 二月革命が勃発したとき、レーニンはチューリヒにいた。彼は、ほぼ一週間後に、スイスの新聞報道で、それを知った。彼は直ちにロシアへ戻る決意をした。

 

 2、クーデター (後半15頁、P.144〜158)の全文抜粋

 

 ケレンスキーは、自らの権威を高めるためにコルニーロフとの決裂を引き起こしたということが正しいとしても、彼は、その目的の達成に失敗したのみならず、それとは全く反対の結果をもたらしてしまったのである。その衝突により、社会主義者の陣営において、彼の地位は強固となることはなく、自由主義者と保守派の両方から、彼は遠ざけられ疎んじられた。その事件の主な受益者は、不気味に迫る反革命を初めから警告してきたボリシェヴィキであった。八月に、政府はイスパルコム(ペトログラードソヴィエト執行委員会)の圧力に応えて、七月のプッチ()で入獄したボリシェヴィキを釈放し始めた。翌月に行われた市会選挙で、ボリシェヴィキは劇的な躍進を示した。モスクワでは、彼らは議席の四九・五%を獲得し、一方、メンシェヴィキとエスエルは、六月以降、彼らは七一・一%の議席を保持していたが、今や一八・九%に減退したのである。これで全てではなかった。架空のコルニーロフの侵入を阻止するために、ケレンスキーはボリシェヴィキに支援を訴えたのである。その当時、労働者に配られた四万挺の銃のうち、かなりの部分はボリシェヴィキの赤衛隊に渡った。

 

 * プッチとは、突発的で一時的な暴動を否定的に意味するが、それを利用した陰謀家集団による政府転覆およびその企ても指す。−訳者。

 

 それに劣らず重大なコルニーロフ事件の結果は、ケレンスキーと軍部との決裂であった。いつものように政府に忠誠を保ちつつも、ケレンスキーのアピールに困惑した将校団は、コルニーロフの下に結集することはなかったとはいえ、首相を軽蔑した。彼らのあいだで人気のある指揮官への首相の対応や、その彼と共謀したと多くの傑出した将軍を告発し逮捕したこと、そして、左翼に首相が迎合したことが理由であった。十月末に、ケレンスキーが、彼の政府をボリシェヴィキから救うよう支援を軍部へ訴えたとき、彼に応えるものは誰もいなかった。

 

 誰か強いリーダーシップを国にもたらしうる者によって、ケレンスキーが打倒されるであろうということは、時間の問題にすぎなかった。そのような指導者は、左翼から現れねばならなかった。何故なら、左翼の諸党は彼らを分かつ差違がどのようなものであれ、「反革命」の妖怪に直面したとき、一致団結したからである。「反革命」とは、彼らの定義によれば、ロシアに有効な統治と信頼できる軍事力を取り戻そうとするあらゆるイニシアチヴを含みこむ用語であった。しかし、この国には、その両者がともに必要であったから、秩序を回復するイニシアチヴは、左翼自らの隊列から現れねばならなかった。「反革命」は、「真の」革命を装って到来するのである。

 

*    *    *

 

 その間に、レーニンは、田舎に潜伏して、世界を再び構想し直すのに忙しかった。

 ジノヴィエフの回想録から、二人は畑の小屋に住み、農場の労働者を装いながら、しかし、ペトログラードとは密使により連絡を維持していたことを、我々は知っている。レーニンは、彼と彼の党は打ち負かされたが、たとえそうであっても、彼の失敗に終わった努力は将来の革命家たちにとり一つの教訓として役立ちうると、最初は考えた。このことを心に留め、再び一冊の本の著述にとりかかった。それは、スイスで書き始めており、翌年に『国家と革命』という表題で世に出ることになる。この著作を貫くのは、マルクスの言明に依拠して(二一八頁参照)、成功した革命は、旧体制の現存する官僚および軍事機構を粉砕しなければならないということであった。これが、移行期の「プロレタリア独裁」の課題であった。その使命を達成すると、政府は消滅するであろう、

 

 何故なら「社会主義の下では、全ての人が順に統治し、誰も統治しないということに急速に慣れるであろう」からである。未来の経済を扱ったところでは、レーニンはさらにずっと保守的であった、資本主義を破壊するよりは、むしろ、社会主義国家のために、それを利用することを望んだのである。この場合には、彼は、ドイツの社会主義者の影響を受けていた。彼らは、発展した、すなわち、「金融」資本主義は、所有の集中した水準を達成し、それが銀行とシンジケートの国有化という簡単な措置により社会主義の導入を容易にするであろうと、論じていた。

 

 コルニーロフ事件は、レーニンに新たな希望を与えた。彼は、ケレンスキーが軍と決裂したことが致命的であると認識し、首相がレーニンの支持者を復権し、武装さえさせているのを、喜びと驚きをもって見守っていた。労働者と兵士が、メンシェヴィキと社会革命党の主要な支持基盤であるソヴェトから離れ、決然とした少数派の操作に任されているということも、彼にはよくわかっていた。

 

 九月半ばに、モスクワとペトログラードの両ソヴェトの労働者部会で、ボリシェヴィキは多数を占めるにいたった。トロツキーは監獄から保釈中であったが、ペトログラード・ソヴェトの議長を引き継ぎ、直ちに、それを全国のソヴェトを支配するための道具にし始めた。彼はイスパルコムを無視して、ボリシェヴィキが多数を占めるソヴェトを代表する疑似全国的なソヴェト組織を並行して作り出した。

 

 コルニーロフ事件とソヴェトでの成功によって生まれたより有利な政治情況のなかで、ボリシェヴィキは、別のクーデターの論議を新たに始めた。七月の惨敗は、彼らの心にまだ生々しく、カーメネフとジノヴィエフは、さらなる「冒険」に強く反対した。彼らは、ボリシェヴィキの増勢は認めたが、ボリシェヴィキは少数派に留まっており、たとえ、彼らが権力をどうにか掌握することができたとしても、「ブルジョワ」と農民の「反革命」の結合した勢力にあって、権力をすぐに失うことになろうと、考えた。彼らは、第二回ソヴェト大会の召集をまって、そこで合法的手段で権力を獲得する方を選んだ。

 

 レーニンはそのような方針を、全く狂気じみていると考えた。九月の十二日と十四日に、フィンランドから、彼は二通の手紙を中央委員会へ宛てた。一つは「ボリシェヴィキは権力をとらねばならない」と、もう一つは、「マルクス主義と蜂起」と題されていた。ペトログラードとモスクワのソヴェトで多数派を形成したので、「ボリシェヴィキは、権力を掌撞することができるし、せねばならない」と、彼は主張した。カーメネフとジノヴィエフに反して、ボリシェヴィキは権力の掌握のみならず、その保持も可能である。直ちに講和を提案し、農民に私有地の奪取を促すことにより、レーニンは、懐疑論者に「ボリシェヴィキは、誰も打倒しようとは思わない政府を樹立することができる」と請け合った。しかし、迅速に行動することが、何としても肝要であった。

 

 何故なら、臨時政府がペトログラードをドイツ軍に明け渡すか、さもなければ、戟争が終結する可能性があったからである。「勝利の手順」は、「ペトログラードとモスクワ(プラス両市を含む地域)での武装蜂起、権力の奪取、政府の打倒」である。我々は「印刷物ではそうとは述べずに、そのためにどう煽動するか考慮せねばならない」。ひとたび、ペトログラードとモスクワで権力が奪取されれば、問題は解決されるであろう。党は、第二回ソヴェト大会での民衆の委任を待つべきであるとのカーメネフとジノヴィエフの提案に対しては、彼は、それを「ナイーヴである」、「それを待つ革命などない」と斥けた。

 

 中央委員会は、納得するには程遠かった。トロツキーによると、そのメンバーのうち、直ちに蜂起することに賛成するものは、誰もいなかったのである。スターリンの提議により、レーニンの手紙を党の主な地方組織に送り、その反応をみることになった。

 

 そのような消極性にレーニンは怒り狂った。というのは、蜂起に有利な時機がすぎ、決して戻ってこないことを、彼は危惧したからである。九月二十九日に、彼は、「危機は熟した」という第三の手紙を中央委員会に送った。中央委員会が第二回ソヴェト大会の召集を待つ方を選んだことに、彼は青ざめた。「そのような時機を逃し、ソヴェト大会を『待つ』とは、全くの白痴か、さもなくば、全くの裏切りである」。ペトログラード、モスクワ、バルチック艦隊で同時に攻撃しながら、迅速に、決然と行動することが必要である。そして、モスクワでの予期せぬ動きが、政府を完全に「麻痺させ」得るであろう。「七月三〜五日に我々が蒙ったより少ない犠牲で、勝利するという成算はある、何故なら、平和をもたらす政府に敵対して軍隊は出動しないであろうからである」。

 

 レーニンの切迫感は、主に、憲法制定会議に先を越されるのではないかという危惧によって引き起こされていた。だらだらと引き延ばした挙げ句、政府は、八月九日にやっと、その選挙を十一月十二日に、その開会を十一月二十八日と決めた。民主的選挙権に基づき選出された会議は、大部分が農民の一団からなるに違いなく、それは、社会革命党によって会議が支配されると言うに等しかった。人々の委任を受けているとボリシェヴィキが装える見込みは、彼らがその多くで多数派をなしていた都市ソヴェトのみであった。国が民主的選挙を通じて、その意志を宣言したあとでは、彼らは、もはや、「人民」の名のもとでの行動を装うことはできないであろう。逆に、彼らがひとたび権力に就けば、彼らは状況を支配することになろう。ボリシェヴィキのある印刷物が軽率にも述べたように、会議の構成は「誰がそれを召集するかに強く依存する」のである。したがって急がねばならなかった。クーデターは、十一月十二日よりも前に遂行されねばならなかった。さもなければ、ボリシェヴィキは、「ブルジョワ」政府ではなく、国民によって選ばれた社会革命党の政府を攻撃していると思われるであろう。

 

 レーニンは直ちに行動することを望んでいたが、彼の同僚の大多数に譲歩せざるを得なかった。彼らは、むしろクーデターがソヴェトの名のもとに遂行されることを主張していたのである。ソヴェトの全国大会が誠実に選出されれば、ボリシェヴィキが少数派となるのは、ほぼ確実であったので、トロツキーと彼の副官たちは、おもに彼らが多数を確保したソヴェトからなる大会を召集することに向かった。イスパルコムが、それのみがソヴェト大会を召集する権限を有すると抗議したのを無視して、彼らは、十一人のボリシェヴィキと六人の左派エスエル(エスエル党の分派で、一時、彼らと提携した)から成るもっともらしい「北部地方委員会」を設置した。この委員会が、イスパルコムの権威を横奪して、ソヴェトと軍委員会に対し、来る大会に代表を送るように要請した。ボリシェヴィキが明らかに多数を制するソヴェトや軍の部隊は、二倍、三倍に代表を出すことになった。ある地方のソヴェトには五人の代議員が割り当てられたが、それは、ボリシェヴィキがたまたま弱体であったキエフ市に割り当てられたものより多かった。これは、正統なソヴェト組織に対する紛れもないクーデターであり、イスパルコムは、そのことをきわめて厳しい言葉で次のように非難した。

 

 「他のどの委員会も、大会召集のイニシアチヴを自らに引き受ける機能も権限も有していない。北部地方委員会は、地方ソヴェトのために定められたあらゆる規制をこもごも侵犯し、専横にでたらめに選ばれたソヴェトを代表しているのであるから、なおさら、この権限が北部地方委員会に属することは、ありえない」。

 

 イスパルコムの社会主義者たちは、ボリシェヴィキのとる手順に強く反対したが、しかし、結局、彼らに屈服した。九月二十六日に、イスパルコムは、ボリシェヴィキの認可のもとで選出される第二回大会を十月二十日に召集することに、その議事日程は、国内情勢と憲法制定会議の準備、新しいイスパルコムの選出に限られるとの条件をつけて、同意した。後に、イスパルコムは大会の日付を十月二十五日に延期したが、地方の代議員が首都に到着する時間を与えるためであった。それは、驚くべき、かつ、後で判ったことだが、致命的な降伏であった。ボリシェヴィキが何を意図しているかに気付きながら、イスパルコムは、彼らが望むものを彼らに与えてしまったのである。彼らの信奉者と味方を詰め込んだ選り抜きの組織に、クーデターの合法化を許したのである。

 

 ボリシェヴィキを支持するソヴェトの集まりが第二回ソヴェト大会を装い、ボリシェヴィキのクーデターを裁可することになっていたが、そのクーデターは、レーニンの主張によれば、大会が行われる前に彼の軍事組織の突撃隊によって遂行されるはずであった。それらの部隊の任務は、首都の戦略的要衝を制圧し、政府は打倒されたと宣言することであった。この目的のためにボリシェヴィキが利用しようとした道具が、軍事革命委員会であり、それは、予期されるドイツの攻撃から市を防衛するため、十月初めのパニックのなかで、ペトログラード・ソヴェトにより設置されたものであった。

 

 この導火線となったのが、リガ湾の海上で展開されたドイツ軍の軍事行動であった。十月初めに、この軍事行動が戦略的な三島の占領をもって完了したとき、それは、ペトログラードに直接の脅威を生み出した。ドイツ軍による攻略を恐れて、ロシア軍参謀部は、政府をペトログラードからモスクワへ疎開させることを提案した。イスパルコムは、この計画の動機には政治的理由がある、つまり、臨時政府は「革命の首都」を明け渡すのを望んでいるのだと解釈し、この計画を非難した。十月九日に、メンシェヴィキのある代議員が、市を守るための措置をとるために、ソヴェトが「革命防衛委員会」を形成することを提議した。ボリシェヴィキは、それは臨時政府を強化することになるとの理由で、初めは、この決議案に反対した。しかし、彼らは機敏に態度を変えた。というのは、そのような委員会は、政府の統禦の外にある唯一の武装勢力である、彼らボリシェヴィキの軍事組織に頼る以外に、選ぶ道はないであろうと、認識したからであった。これにより、ボリシェヴィキが計画したクーデターをソヴェトの名のもとで、また、その統率のもとに実施することが可能になる。その日(十月九日)の遅くに、ボリシェヴィキが提議し、ソヴェト総会は、メンシェヴィキの反対を押して、ドイツ軍のみならず、国内の「反革命分子」に対しても市の安全を守る任務を引き受けるため、防衛に関する革命委員会を形成するという動議を是認した。この組織は、軍事革命委員会と改称し、ボリシェヴィキ軍事組織の表看板となった。

 

 この一見無害に見えるソヴェトの票決が、躊躇するボリシェヴィキを行動に駆らせたということには、確証は決してないが、かなりの蓋然性がある。十月十日から十一日にかけての夜に中央委員会の秘密会議が開かれ、決定がなされた。十二人のメンバーが出席しており、危険をおして潜伏先から現れたレーニンも、そのなかに含まれていた。というのは、彼は、部下の決然とした行動に信を置いていなかったからである。三つの見解が表明された。レーニンは、わずか一人であったが、ソヴェト大会とは独立して直ちに権力を掌握することを求めた。ジノヴィエフとカーメネフは、他の三人の支持を受けて、クーデターをより遅く、都合の好い時期に延期することを提起した。残りの五人はクーデターのために時機は熟しているが、それはソヴェト大会と結合させて、その名において行われねばならないとするトロツキーに同意した。妥協がなされた。クーデターは、十月二十五日に第二回大会が召集される前夜に遂行され、大会には、その事後に、それを裁可するのを求めることになった。

 

 カーメネフは、この決定は受け入れられないと判断した。彼は中央委員会から辞任し、次の週に、メンシェヴィキの新聞とのインタヴューで、彼とジノヴィエフは「近い将来に何らかの武装蜂起のイニシアチヴを党がとるのに強く反対した」と述べた。レーニンはこのインタヴューを読んだとき、二人の「ストライキ破り」を直ちに除名するように求めた。「我々は、資本家に、真実を、すなわち、我々がストライキを〔行い、つまり、クーデターを起こすと読め〕、その時機の選択を彼らに知られないように決定したことを、告げてはならない」からである。中央委員会は、レーニンの要求にそって行動するのを怠ったが、しかし、レーニンは、カーメネフとジノヴィエフを、この重大な日々に臆病であったために、決して完全に許すことはなかった。

 

 中央委員会が革命の防衛を装ってクーデターを始めることができるように、政府を挑発して報復的な措置をとらせることが、中央委員会の戦術であった。トロツキーもスターリンも、後に、これが実は計画するところであったと確認した。トロツキーの言葉によれば、「本質的に、我々の戦略は攻撃的であった。我々は政府を強襲する準備をした。しかし、我々のアジテーションは、敵はソヴェト大会を解散する準備をしており、容赦なく敵を撃退する必要があるとの主張に依拠していた」。また、スターリンによれば、「革命〔ボリシェヴィキ党と読め〕は、その軌道に、不確かで躊躇する分子を引き入れることを、より容易にするために、その攻撃的な行動を防衛という煙幕で覆った」。

 

 メンシェヴィキとエスエルはボリシェヴィキの大胆さに眩惑されて、もう一つのボリシェヴィキの「冒険」を甘んじて受け入れたが、しかし、彼らは、その冒険は七月のプッチのように失敗するであろうと確信しており、大して心配もしていなかった。トロツキーは、この重大な日々に、いたるところに直ちに現れ、蜂起が進行中であることを、ある日は認め、翌日は否定しながら、神経戦を行っていた。彼は、約束と脅迫を、賞揚と嘲りを交互に織り交ぜた演説で、聴衆を魅了した。

 

 クーデター前夜のペトログラードにおける力関係を概観すると、ある意味では、ボリシェヴィキ陣営のペシミストたちは正しかったということがわかる。決定的な要素は、今や、七月におけるように、守備隊の態度であった。最もよく見積もっても、首都とその近郊における二四万の兵士の全勢力のうち、ボリシェヴィキを積極的に支持したのは一万を越えるものではなかった。他のものは、迫りくる衝突のなかで、「中立」を宣言していた。しかし、レーニンの評価は、基本的に正しかった。何故なら、もし、彼が守備隊のわずか四%にしか頼ることができないとしても、政府がその背後に擁する部隊はさらに少なかったのであるから。

 

 軍事革命委員会の最初の措置は、ソヴェトを代表して守備隊を支配下におくと主張したことである。軍事革命委員会は、これを十月二十一〜二十二日に成し遂げたが、それは、クーデターにおける、まさにその帰趨を決した最初の、そして最も決定的な処置であった。軍事革命委員会は、二〇〇名ほどの「コミッサール」を軍の部隊へ急派したが、彼らの多くは、七月のプッチに参加し、最近、監獄から仮出所した下級将校であった。次に、軍事革命委員会は、守備隊委員会の集会を召集した。トロツキーは、その集団へ向けた演説で、反革命の脅威を述べ、守備隊に、ソヴェトとその機関である軍事革命委員会を支持するように促した。彼の要求に対して、集会は、前線と後方がより密接な連絡をとるように呼びかける無害とも思われる決議を採択した。

 

 軍事革命委員会の代表は、この当たり障りのない声明で身をかためて、軍参謀部へと赴いた。そのスポークスマンであるボリシェヴィキの中尉は、ペトログラード軍管区の司令官に、守備隊の決定により、参謀部の命令は、今後、軍事革命委員会の連署を得てのみ効力を有する、と通告した。軍の部隊は、勿論、そのような決定を行っておらず、この軍事革命委員会の代表は、ボリシェヴィキの軍事組織の命令に従って行動していた。司令官が彼らを逮捕すると脅すと、代表はボリシェヴィキの蜂起の新しい司令部となったスモーリヌイに引き返した。急遽、招集された集会では、それに誰が出席したかは誰にもわからないが、軍参謀部は守備隊集会の決議を拒否することにより、反革命の武器に転化した、とのボリシェヴィキの決議を承認した。守備隊は、軍参謀部の指令には、もし軍事革命委員会によって確証されなければ、従わないことになった。これは、トロツキーとスターリンの言及した欺瞞であった。軍事革命委員会は革命の防衛という煙幕の背後にその攻撃を隠蔽したのである。ボリシェヴィキの軍事組織の司令官であるポドヴォイスキーによれば、これらの措置が、武装蜂起の始まりを示すことになった。

 

 それでもなお、政府はぐずぐずと一時しのぎをしていた。政府は、ボリシェヴィキのいくつかの新聞を閉鎖したが、軍事革命委員会の逮捕は、ケレンスキーはそれを求めていたのだが、行わなかった。閣僚たちは、交渉を通じて新たな危機を解決することを選んだからであった。ケレンスキーの決意には、ともかく、疑わしいところもある。当時の人々のなかには、首相は、ボリシェヴィキを一気に完全に粉砕する好機を得るために、彼らが蜂起することを実際は望んでいたと主張するものもいる。また、彼は、右翼の反革命を解き放つのを恐れて、軍を巻き込むことにもあまり熱心ではなかった。七月にボリシェヴィキを鎮圧することにみせた軍の熱中は、彼を怯えさせてしまったと言われている。このように、当時、首都で無為にすごしていた約一万五〇〇〇の将校を含め、忠実な部隊を動員するために何ら効果的な措置はとられなかった。防護のための予防措置は、弛緩しており、軍参謀本部を守るものは誰もいなかった。政府のこの神経中枢に、誰何されることなく誰でも入ることができたのである。

 

 ボリシェヴィキによる権力奪取の最終局面は、十月二十四日の朝に、軍参謀部が政府の命じる中途半端な予防措置を実施したときに、進行し始めた。

 

 十月二十四日の早朝、ユンケルと呼ばれる軍士官学校生が、要衝守備の任務に就いた。二、三個分隊が、ケレンスキーの在所で閣議の場でもある冬宮へ向かった。一四〇人の志願者からなるいわゆる婦人決死大隊、多少のコサック兵、自転車部隊、そして、義足の一将校が指揮する四十人の傷痍軍人が、彼らに合流した。ネヴァ川にかかる橋は、市中心部にボリシェヴィキを支持する兵士と労働者が進入するのを防ぐために、引き揚げられた。ボリシェヴィキのコミッサールを逮捕するために、命令が発せられた。

 

 これらの措置により危機的状況が醸し出された。事務所が閉ざされ、人々が家路を急いだため、二時半ごろには、街路は空となった。

 

 レーニンはペトログラードに潜伏していたが、刻々と進展する状況とは連絡がとれず、不安と焦燥にかられていた。蜂起がすでにかなり進展をみていた十月二十四日の夕方に、彼は、さらにもう一つの中央委員会へ宛てた手紙で、「蜂起を遅らすことは破滅である……全てが危機一髪である」と述べた。

 

 「十月二十五日の〔ソヴェト大会の〕当てにならない投票を待つということは、破滅か、さもなければ形式主義であろう。人民は、そのような問題を投票ではなく、力によって解決する権利と義務がある……」。

 

 この危機的な日々におけるレーニンの行動と言明に、「プロレタリア革命」を遂行するために彼が大衆に信頼を置いたことを示すものは、何もない。彼は、ただ物理的な力にのみ信頼を寄せていた。

 

 その日の夕方も遅く、彼は顎髭をそり落とし、顔に包帯をまき、あたかも歯医者に行くかのようにして、スモーリヌイへ向かった。彼は酔っ払いを装い、政府の巡察隊による逮捕を辛うじて免れた。スモーリヌイで、彼は、奥の部屋の一つに潜み、床の上で仮眠をとった。

 

 (十月二十四日から二十五日にかけての)その日の夜に、ボリシェヴィキの部隊は、前哨隊を配備するという簡単な手順で、市の要衝を系統的に掌握した。ユンケルの護衛隊は、退却を命じられ、自ら撤収するか、あるいは、武装解除された。このようにして、暗闇のなかで、軍事革命委員会は、鉄道の駅、郵便局、電信局、銀行、そして橋を一つ一つ占拠していった。どのような抵抗に出会うこともなく、銃撃も交わされなかった。ボリシェヴィキは、思いもよらない不意の方法で、軍参謀部を占拠した。それに加わったある者によれば、「彼らは中に入り、席に着いた、一方、そこに座っていた人々は立ち上がり去った、こうして参謀部は奪取された」。

 

 ケレンスキーは冬宮で閣僚たちから離れて、電話で軍事支援を確保しようとしたが、誰も来なかった。午後九時に、彼はセルビア人将校に扮し、秘かに脱出し、アメリカ大使館から借用した車で前線に向かった。

 

 そのころには、冬宮が、臨時政府の手に残る唯一の建物となっていた。レーニンは、第二回ソヴェト大会の開かれる前に、それを奪取することを主張していた。しかし、何カ月と準備したあとで、ボリシェヴィキの武力ではその任に耐えられないとわかった。勇ましく発射しようとするものは、誰もいなかった。その四万五〇〇〇の赤衛隊と、守備隊における何万と目される支持者は、どこにも見当たらなかった。明け方に、気乗りのしない攻撃が始められたが、最初の銃撃の音をきくや、攻撃に出た人々は退却したのである。

 

 午後八時から九時のあいだに、レーニンは、スモーリヌイのボリシェヴィキの作戦室へ向かった。そこで、彼は、軍事革命委員会の名で次のような宣言を起草した。

 

 ロシアの市民諸君へ! 臨時政府は廃された。政府の権力は、ペトログラード労兵ソヴェトの機関であり、ペトログラードのプロレタリアートと守備隊の先頭に立つ軍事革命委員会へ移った。

 人民がそのために闘ってきた諸課題――民主的講和の即刻の提案、地主的土地所有の廃止、生産への労働者の統制、ソヴェト政府の形成――、これらの課題は確保された。労働者、兵士、そして農民の革命、万才!

 

 この文書は、ボリシェヴィキの布告集のなかで最高位を占めるが、ボリシェヴィキの中央委員会を除き、誰もそうすることを正当と認めていなかった一機関が、ロシアに対する最高権力を掌握したと、宣言したのである。ペトログラード・ソヴェトは、ドイツ軍から市を防衛するのを支援するために軍事革命委員会を形成したのであり、臨時政府を廃するためではなかった。第二回ソヴェト大会は、実は正しく代表されておらず、ボリシェヴィキがその名のもとに行動を起こし始めたときには、まだ開会さえされていなかった。クーデターは、承認されていないが、事実上、暴力に訴えることなく遂行されたので、ペトログラードの住民にそれを心に留める理由は何らなかった。十月二十五日に、ペトログラードの生活は正常に復し、事務所と店舗は開かれ、工場の労働者は仕事に戻り、娯楽施設は群衆で満たされた。一握りの主だった人物を除いて、何が起きたかを、すなわち、ペトログラードが武装したボリシェヴィキによってしっかりと掌握され、全てが変わってしまうであろうということを知っているものは誰もいなかった。

 

 その日の残りは、人生劇(コメディ)のための題材をなした。前線では、ケレンスキーは第三騎兵軍団を何とか説得してペトログラードへ向けることができた。この軍団は、二カ月前に、コルニーロフの命令で自分を解任させようと企てていると彼が告発した、まさにそれであった。しかし、その部隊は首都に到着する前に、馬から降り、さらに進攻するのを拒否した。数日後に、彼らはクロンシュタット水兵と散漫な戦いを行い、撤退を強いられた。レーニンが廃止を宣言した内閣は、冬宮の孔雀の間で、救援をまちながら座していた。政府の最後の拠点を制圧するためにボリシェヴィキによって投入された五〇〇〇のクロンシュタット水兵は、戦う気がなかった。レーニンは、閣僚たちが逮捕されるまでソヴェト大会を開こうとしなかったので、代議員があてもなくうろうろと動き回っていた。

 

 午後六時三十分に、軍事革命委員会は、降伏するか、さもなければ、陸海軍の砲兵中隊による砲撃に直面するとの最後通牒を、内閣に伝えた。閣僚たちは、ケレンスキーが救援部隊を率いて到着するのを待ちながら、それを無視した。彼らは無頓着に雑談し、電話で友人と話し、外套を着て、仮眠をとった。午後九時に、巡洋艦アウローラが、砲撃を始めた。それは、まだ実弾を積み込んでいなかったので、空砲の一斉射撃をたった一度だけ行って、沈黙したのであるが、十月の神話において際立った場を確保するには、まさに、それで十分であった。二時間後に、ペトロパヴロフスク要塞が実弾による砲撃を始めた。しかし、その照準は不正確で、三十から三十五発のうち、たった二発しか冬宮に当たらず、わずかな被害を与えたに留まった。

 

 冬宮を防衛する人々は、救援隊が到着しないことに落胆し、退散し始めた。ボリシェヴィキを支持する部隊が、最早、抵抗を受けることがなくなった時、それらの部隊はエルミタージュ宮殿側の開いた窓と、ネヴァに面する鍵のかかっていない門を通って建物に進入した。そして、彼らは、掠奪、乱暴をはたらきながら、巨大な建物を荒し回った。最後まで留まったユンケルたちは、戦いを厭わなかったが、閣僚たちは流血を望まず、彼らに降伏するよう命じた。午前二時十分、閣僚たちは、ケレンスキーを除き逮捕され、保衛をつけてペトロパヴロフスク要塞へ護送された。

 

 それより少し前に、ボリシェヴィキは我慢しきれずに、スモーリヌイの講堂でソヴェト大会を開いていた。ほぼ六五〇名の代議員が出席しており、その内、三三八名がボリシェヴィキで、九八名が左派エスエルであった。その二つの提携した政党が、このように議席の三分の二を制したが、これは、三週間後に行われた憲法制定会議選挙から判断すると、彼らに与えられるより二倍多く代表されていた。最初の時間は、騒々しい論争に費やされた。冬宮陥落の知らせを待ち受けながら、ボリシェヴィキは、社会主義者の反対派に発言権を与えた。嘲りと野次のなかで、メンシェヴィキとエスエルはボリシェヴィキのクーデターを非難し、臨時政府と直ちに交渉することを要求した。トロツキーは、これらの反対者を「歴史の屑」にふさわしい「破産者」と斥けた。

 

 これは、十月二十六日の午前一時頃のことであった。午前三時十分には、大会幹部会の議長に指名されたカーメネフが、政府は逮捕されたと発表した。午前六時に、彼は、夕方まで大会を延期した。

 

 レーニンは、それから、大会で承認を求める重要な布告を起草するために、友人のアパートへ向かった。

 

 大会は、午後十時四十分に再開された。レーニンは騒々しい拍手喝采に迎えられて、兵士、農民の支持をともに得ることを期待し、平和および土地に関する布告を提案した。

 

 平和に関する布告は、法令ではなく、交戦諸国へのアピールであり、あらゆる民族へ「自決」権を保障しつつ、無併合と無賠償を掲げ、講和交渉に直ちに入るよう訴えかけていた。土地に関する布告は、大胆にも社会革命党の綱領を剽窃するものであった。それは、ボリシェヴィキ自身の綱領が求めるような全ての土地の国有化ではなく、その「社会化」を、すなわち、全ての土地の商取引からの排除および農民共同体への移譲を、指示していた。全ての土地所有は、耕作農民によって所有されているものを除き、補償なしで収用された。

 

 これらの方策が拍手喝采で採択されたあと、主催者たちは、人民委員会議(ソヴナルコム)と呼ばれる新しい臨時政府の候補名簿を提出した。それは、憲法制定会議が召集されるまでの暫定政府となるはずであった。レーニンは、初めは、閣僚のポストを望まず、共産党中央委員会の事実上の議長として、舞台裏で活動することを選んだ。しかし、彼の同志たちはどのポストにも就こうとせず、レーニンの主張により実行されることの大きかったクーデターの責任を、彼に引き受けるように迫った。コミッサールは全てボリシェヴィキ党に属しており、その規律に服していた。レーニンが議長となり、A・T・ルイコフは内務の、トロツキーは外務の大臣職を引き受けた。スターリンは、小さな新設の民族問題を担当する長のポストを受け入れた。旧いイスパルコムは解散され、一〇一人の成員――その内、六二人がボリシェヴィキ、二九人が左派エスエルであった――を有するイスパルコムに取って代わった。カーメネフが、その議長に就いた。ソヴナルコムを設置した布告は、それがイスパルコムに責任を負うものとした。

 

 レーニンは、大会に、その決定の全てが、憲法制定会議による批准、否認、あるいは、修正を経るであろうし、その選挙は先の政府が指令したように十一月十二日に行われるであろうと、保障した。大会は、その活動を終え、散会した。

 

 モスクワでは、権力の奪取はより一層困難であるとわかった。主に軍の士官学校生と学生から成る政府支持の部隊が、クレムリンを制圧した。しかしながら、モスクワ市長が議長を務める社会保安委員会は、その優勢をかって迫るのではなく、ボリシェヴィキとの交渉に入り、それが彼らを殆ど確実な敗北から救うことになった。三日間の停戦のあいだに、軍事革命委員会は増援部隊を集め、十月三十日の真夜中に攻撃を始めた。十一月二日の朝に、政府は、自らの側にある部隊に武器を置くように命じた。

 

 ロシアの他の都市では、驚くほど多様なシナリオに従って状況は展開し、それぞれの都市での闘争の過程と結果は、抗争する側の力と決意にかかっていた。(田舎では、この時点で、十月のクーデターは土地占拠を激化させるという以外は、何ら影響を与えるものではなかった。そのような地域では、これがクーデターであると気付くのは、次の夏のことであった)。ある地方では、ボリシェヴィキがエスエル、メンシェヴィキと提携して、「ソヴェト」による統治を宣言したし、他のところでは、彼らは競合する社会主義者を放逐し、独自で権力を奪取した。十一月の初めまでに、新しい政府は、滅びた帝国の心臓部である大ロシアを、あるいは、少なくとも、その地域の都市を制した。差し当たり、周縁に広がる地域は、農村と同様に、その力は及ばないままであった。

 

 ソヴェトの名のもとで、それを代表してクーデターを遂行するという策略によって、その実の意義が殆ど全ての人から覆い隠された。二月以降存続してきた二重権力体制において、より強いパートナーであったソヴェトが、正式に全責任を引き受けたのであり、したがって、実際には殆ど何も変化していないとの幻想が広がった。新しい権力が、自らを、臨時政府と呼んだことからも、また、その幻想は強まった。ケレンスキー内閣の廃位を宣言した十月二十五日の声明の最初の草稿で、レーニンは「社会主義万才!」と書いていたが、しかし、彼は考えを変え、その言い回しを線で消した。明らかに、継続性のイメージを(今のところ)強調するためであった。「社会主義」という言葉を公的に最も早く使ったのは、レーニンが十一月二日に起草した文書においてであった。クーデターの余波のなかで、ルーブルは、アメリカ・ドルとの交換価値を半減させたが、ペトログラード証券取引所の株式は安定していた。富裕な人々のあいだでさえ、パニックはなかった。

 

 臨時政府の倒壊は、少しも悔恨を呼び起こすものではなかった。人々はそのことに全く無関心であったと、現場に居あわせた人々は伝えている。街頭を行き交う普通のひとは、誰があずかろうと何ら違いはない、事態はあまりにひどいから、これより悪くなるはずがないと、感じているようにみえた。

 

 

 2、著者略歴

 

 リチャード・パイプス Richrd Pipes

 1923年ポーランドのチェシンに生まれる。ロシア革命が生み出した緊迫した状況とナチスの台頭にみられる戦間期の国際情勢のなかで育ち、1939年にポーランドを襲った危機のなかで、イタリアへ逃れる。さらに、スペイン、ポルトガルを経て、1940年にアメリカに渡り、1943年にアメリカに帰化。1950年にハーヴァード大学で博士号を取得し、以降、同大学を中心に研究活動を続けた。

 

 1981〜82年には、レーガン政権のもとで国家安全保障会議のソ連・東欧問題担当官を務めた。ロシア近代史、革命運動に関係する様々な分野で研究を進め、とりわけ、インテリゲンツィア論、ロシア社会論、革命とソ連体制論と、一連の研究成果を世に問うている。『レーニン主義の起源』(1963)、編著『ロシア・インテリゲンツィア』(1961)には邦訳がある。最近の作品としては、『ロシア革命の三つの《なぜ》』(1996)、『知られざるレーニン』(1996)、『所有と自由』(1999)などがある。

 

 

 3、訳者あとがき―解説にかえて― (抜粋)

 

      西山克典 静岡県立大学国際関係学部教授 ロシア近・現代史

 

 本書は、ロシア史研究の大家リチャード・パイプスのA Concise History of the Russian RevolutionAlfred nopf, New York,1995)の邦訳である。本書は、一九八〇年代後半にソ連で始まる改革、その危機と一九八九年の東欧革命、さらに一九九一年夏のソ連そのものの崩壊といった今世紀末の歴史的な激動のなかで著された、次の二書に基づいている。『ロシア革命』(一九九〇年)と『ボリシェヴィキ体制下のロシア』(一九九四年)である。この二つの、合わせて優に千数百頁を越える大著を、一般読者向けに内容を調整し、学術書として付された注を省き簡略に一冊にまとめたのが本書である。ここには、著者のロシア革命に関する半世紀にわたる研究が、革命とその後のソ連という体制の二十世紀における意義を問いつつ、簡明に論理を提示するかたちで集大成されている。(.409)

 

 一九九二年七月のエピソードは、ソ連崩壊後に共産党の合法性をめぐる裁判が行われていたモスクワでのことである。パイプスは、当時、文書局の利用を許されてモスクワに居たが、憲法裁判所から、ソ連共産党が一般的な意味における政党かどうかの判断を求められた。その際、彼は、共産党が禁止された一九九一年も、それ以前においても、共産党が政党であったことはなく、国家に対する「監督の特別な《メカニズム》」であったと答えている(パイプス、前掲『ロシア革命の三つの《なぜ》』四六頁)。(.412)

 

 さて、パイプスの本書は、このような状況のなかで、それを構成する前二書、『ロシア革命』(一九九〇年)と『ボリシェヴィキ体制下のロシア』(一九九四年)への高い評価についで、各種の紹介欄で高い評価を得た。『ロシア革命』については、マーティン・メイリアが、「最も広範囲にわたり全般的な論じ方」を提供してくれると賞賛し、ロバート・コンクエストは『ボリシェヴィキ体制下のロシア』を、「見事な説明である……長い間、誤解され誤り伝えられてきた事件の連鎖への幅広くヒューマンな研究である」と評している。

 

 さらに、本書に対しても高い賛辞が寄せられた。『ブックリスト』(九五年十月一日号)は、次のように紹介している。「忙しいが関心をもつ読者のために、パイプスは、ロシアの悲劇的な激変に関する彼の二巻の古典的分析を要約した。共産主義によって、あの偉大な国がどのようにして重荷を課され破滅させられたかは、歴史的必然性という勝利したボリシェヴィキの主張にもかかわらず、複雑な問題である。……しかし、パイプスが、説得的、かつ、余念なく描いているように、ストルイピンの下での改革の方針は、反動的な帝政派によって妨害されたのである。アレクサンドラとラスプーチンの幕間のあとに、ケレンスキー、赤のレーニンとトロツキー、白のコルチャークとデニーキンが登場し、悲しみに満ちたドラマが展開する。その悲しみにもかかわらず、今までに革命について書かれ、最も信頼のおける方法で研究され、巧みに総合された著作のなかでも、この歴史書は、洞察に富んでいる」。

 

 また、『パブリッシャーズ・ウィクリー』五一号(九五年八月二十一日)では、次のように述べられている。「ハーヴァードの歴史家パイプスは、一九一七年のロシアの十月革命は、実際は、クーデター、つまり、緊密に組織された陰謀による権力の掌握であり、大衆が参加したと見せながら、殆ど大衆の関与なく遂行されたと、強調している。彼の最近の二つの著作−『ロシア革命』(一九九〇年)と『ボリシェヴィキ体制下のロシア』(一九九四年)を沢山の写真と地図を配した見事な語りに総合し要約することで、一冊の極めて読み易く、有益で啓発的な、ロシア革命とその余波に関する年代記をつくり出した。権威主義的で、狂信的で秘密主義者で不寛容なレーニンは、一九一八年に収容所の建設を命じていた。パイプスは、いかに、レーニンの一党警察国家が民主的な推進力を窒息させ、間断のないテロルと接収を通じてスターリンのために道を掃き清めたかを示している。‥…パイプスの際立って生き生きとし引きつけて止まない語りは、ページごとに洞察を呼び起こすのである」。

 

 パイプスは、アメリカの出版・読書界でこのように高(好)評を博し、翌年には、そのペーパーバックが出され広く普及した。また、予期せぬ突然のソ連崩壊を経て「民主化」と「市場化」を目指す新生ロシアにあっても、人々には、この激動を捕らえる新しい歴史観が必要とされた。欧米の研究が競って翻訳出版され、「全体主義」論がロシアで急速に受け入れられていった。マーティン・メイリアの論文は、シベリアのノヴォシビルスクの急進改革派の『エコ』(一九九一年三号)にすでに掲載され、パイプスの一連の著作も、ロシア語に翻訳され出版されることになる。モスクワの学生は、私へ宛てた最近の手紙のなかで「このアメリカの学者〔リチャード・パイプス〕の名はロシアではかなり広く知られています。そして、かれの著作は多くの人文系大学で参照を義務づけられています」と伝え、『ロシア革命』を含む彼の主要著作を挙げている。

 

 このような状況を、時局に便乗した「勝てば官軍」「勝ちはしゃぎ」と処断するには、あまりにも問題は大きい。それは、パイプスの革命論とソ連社会論が、アメリカの戦後半世紀にわたる知的伝統の本流にあり、この「古典」の解読と吸収、位置づけなくしては、研究の進展は覚束ないように思えるからである。(.415〜416)

 

 このような「自由=保守主義」の立場にありながら、彼のロシア革命論は一連の論点で際立っている。帝政ロシアの性格をマックス・ウェーバーを援用しつつ、その家産制を強調し、ロシアの知識人を近代以降の疎外され革命のために権力を志向する知識人=インテリゲンツィア論として展開し、二月革命の叙述ではツァーリの退位の決意と反乱を起こした兵士の役割を強調し、労働者を重視する立場を批判する。十月革命論では少数者によるクーデターとして首都の武装蜂起を位置づけ、革命派の側からの内戦の誘発を指摘し、ボリシェヴィキによるテロリズムと独裁の苛酷さを強調するのである。そして、レーニン主義とスターリン主義の関係については、スターリンは「真のレーニン主義者」であったとし、「彼のイデオロギーとやり方がレーニンのものであったという事実を曖昧にすべきでない」と明言するのである(本書四〇三頁)。

 

 本書で展開されているロシア革命論は、革命派の指導者として活躍したトロツキー、あるいは、臨時政府の首相を歴任したケレンスキーのそれとも異なり、また、イギリスの歴史家EH・カー、ソ連の反体制派のロイ・メドヴェージェフのそれとも異なる対照をなしている。トロツキーのロシア革命論が、革命の渦中で生き生きと、かつ荒々しく登場する大衆を描くことに優れているとはいえ、一党制というソ連史を呪縛する問題領域に充分な説明を与えていないこと、また、ケレンスキーの『ロシアと歴史の転換点』(恒文社、一九六七年)に漂う弁明的立場と比較して、パイプスは、共産主義は勿論のこと、ロシアの自由主義にも極めて厳しい評価を下しているのである。彼自身の政治的立場が、自ら吐露したように「オクチャブリスト」にあるとすれば、当然かもしれない。さらに、メドヴェージェフの革命とソ連論が、レーニンを擁護しスターリン体制を批判することに終始し、カーの『ボリシェヴィキ革命』が実証研究の手堅さのうちに革命とソ連体制の必然性と正当性、その容認に傾いていたのに対して、パイプスの研究は、革命とその後のソ連体制の告発を基底に据えることで、鮮明である。

 

 パイプスの研究は、このように観てくると戦後アメリカの半世紀に及ぶ「全体主義」論の知的伝統のなかにあり、体制の改革と進展を前提にその崩壊を予期できなかったソ連史学と「修正派」への厳しい批判のなかで光彩を放っているといえよう。したがって、全体主義論の立場からのマーティン・メイリアの話題の書『ソヴイエトの悲劇』(上下、白須英子訳、草思社、一九九七年)とともに、パイプスの本書を知的古典として読む必要性を訴えたい。と同時に、メイリアが、ソ連体制を全く新しい現象として共産主義のイデオロギーから把握することを主張するのに対し、パイプスがイデオロギーの過大視に警告を発し、家産制という歴史的性格を基調に帝政とソ連という両体制の連関を問うていることにも注目する必要がある。(.417〜418)

 

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 〔関連ファイル〕

     『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが「殺した」自国民の推計』

     R・ダニエルズ『ロシア共産党党内闘争史』蜂起、連立か独裁か

     アファナーシェフ『ソ連型社会主義の再検討』

     ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁の誤り

     ダンコース『奪われた権力』第1章

     梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1918年

           『レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか』十月革命は軍事クーデター

     中野徹三『社会主義像の転回』制憲議会解散論理、1918年

     八百川孝共産党区会議員『夢・共産主義』ロシア革命の総括No.1〜27