1917年10月、レーニンがしたこと
大十月社会主義革命か、それとも、労兵ソヴィエト革命・農民革命
と一時的に重なった一党独裁狙いの権力奪取クーデターか
(宮地編集・6文献の抜粋引用)
〔目次〕
1、宮地コメント
2、ハリソン・E・ソールズベリー『黒い夜白い雪−ロシア革命1905〜1917・下』(抜粋)
3、ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書』「第一章、十月革命のパラドックスと食い違い」(抜粋)
4、ニコラ・ヴェルト『ロシア革命』「蜂起の技術」。(資料3)、レーニン『蜂起の技術』(全文)
5、ロバート・サーヴィス『レーニン・下』「第三部、権力奪取」(抜粋)
6、マーティン・メイリア『ソヴィエトの悲劇・上』「主役はプロレタリアート それとも党」(抜粋)
7、E・H・カー『ボリシェヴィキ革命・2』「(注解D)鉄道にたいする労働者統制」(全文)
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革命か、それとも、一党独裁狙いのクーデターか
10月10日〜25日(新暦11月7日)の16日間
『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが「殺した」自国民の推計』
リチャード・パイプス『ロシア革命史−第6章十月のクーデター』
R・ダニエルズ『ロシア共産党党内闘争史』蜂起、連立か独裁か
アファナーシェフ『ソ連型社会主義の再検討』
ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁の誤り
ダンコース『奪われた権力』第1章
梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1918年
『レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか』ボリシェヴィキのクーデター
中野徹三『社会主義像の転回』制憲議会解散、一〇月革命は悲劇的なクーデター
1、宮地コメント
1991年ソ連崩壊から、早くも十数年が経った。ソ連崩壊後、「レーニン秘密資料」6000点や膨大なアルヒーフ(公文書)が発掘・公表された。そこで、改めて、「1917年にレーニンがしたこと」の性格に関する研究がいろいろ出版された。その性格とは、レーニンがしたことは、ケレンスキー臨時政府にたいして、実質的に権力奪取をしつつあった、また、ソヴィエト政権樹立の寸前になっていたソヴィエト勢力の内部において、レーニン・ボリシェヴィキが強行した一党独裁狙いの権力奪取クーデターだったのではないかという規定である。
10月時点のソヴィエト勢力は、二月革命以来の自然発生的な労働者ソヴィエト、兵士ソヴィエトが中心であり、農民ソヴィエトはあまり組織されていなかった。社会主義を名乗る政党は10以上あった。ソヴィエト体制内部における政党では、ボリシェヴィキ、メンシェヴィキ、エスエル、左翼エスエル(未分裂)が中心で、アナキストも一定の影響力を持っていた。第2回ソヴィエト大会で、ケレンスキー臨時政府打倒・権力奪取を宣言し、行動すれば、「すべての権力をソヴィエトへ」のスローガン通り、ソヴィエト政権が樹立される可能性はきわめて高かった。「『十月革命』と呼ばれてきたボリシェヴィキによる十月権力奪取」の最大の謎の一つは、レーニンがなぜ第2回大会前までにボリシェヴィキの武装蜂起手法で、単独権力奪取を図ったのかという真意である。
このファイルは、「レーニンがしたこと」を単独権力奪取クーデターだと規定し、レーニンの真意・意図を分析する6つの文献の抜粋・引用を集めた。ただし、E・H・カーは、クーデターと規定していないが、第2回大会時点、およびその後におけるレーニンと鉄道従業員組合との対立と結末を分析した。なお、各文献におけるソヴィエト、クーデター、ボリシェヴィキなどの日本語訳の違いは、統一しないで、そのままにした。日付も旧暦・新暦で書かれた記述をそのままにした。なお、私(宮地)の判断により、随所で文を赤太字、青太字、黒太字、茶太字にした。
6文献のほとんどが、数百頁の大著である。そこからそれぞれ数頁分だけを抜粋引用したので、その箇所だけでは理解できない面も多いと思われる。このファイルを読まれた方が、いずれかの著書を購読されれば幸いである。なお、数百頁における各数頁分なので、「引用」の範囲内として、出版社への転載了解はとっていない。
クーデター説について
私(宮地)は、ソ連崩壊後、「レーニン秘密資料」やアルヒーフ(公文書)に基づく研究で、出版された文献のほとんどを読んだ。そこからの見解は、クーデター説である。よって、「十月革命」という用語を使わない。11月7日(旧暦10月25日)をレーニン・ボリシェヴィキによる単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターと規定する。情勢が複雑で、規定もややこしくなるが、二月革命以来の時期において「ロシア革命」は存在した。
一般的に、「革命」の定義の一つは階級間の権力移動を言う。それにたいして、「クーデター」は、同一階級内部、または、支配階級内部における権力の移動を指す。「クーデター」について、広辞苑は「急激な非合法手段に訴えて政権を奪うこと。通常は支配層内部の政権移動をいい、革命と区別する」としている。
クーデター解説『歴史上のクーデター事件、20世紀のクーデター事件』
1917年10月だけに限定しないで、1917年の2月から10月を俯瞰すれば、「ロシア革命」は存在した。
ロシア革命と言う場合は、(1)二月革命そのものと、それ以降の、労働者・兵士ソヴィエトによる革命運動、(2)1917年5月以降の80%・9000万農民の土地革命、(3)権力奪取前までのボリシェヴィキや他社会主義政党の革命運動を指す。(4)、ニコラ・ヴェルトやダンコースは、さらに民族解放・独立の革命運動を含めている。それら二月革命以来の自然発生的な3つの民衆革命からなるロシア革命と、レーニンによる革命勢力内部における権力奪取クーデターとが、一時的に重なった情勢において、それらを峻別できうる大量のデータが、ソ連崩壊後に発掘・公表された。
1991年ソ連崩壊後に発表されたロシア革命史では、ニコラ・ヴェルト、ロート・サーヴィス、リチャード・パイプス、マーティン・メイリア、ドミートリー・ヴォルコゴーノフなどは、膨大な「レーニン秘密資料」やアルヒーフ(公文書)に基づく研究を行い、レーニンによるクーデター説を具体的に立証している。彼らは、2月から10月までの革命情勢・革命運動を分析しつつ、その中から、レーニン・ボリシェヴィキによる一党独裁狙いの権力奪取10月クーデターの詳細な経過を発掘した。その研究結論として、3つの民衆革命とレーニンのクーデターとを峻別した。
ロシア革命の終焉を、私(宮地)は、1921年2、3月のペトログラード労働者の山猫ストライキ、クロンシュタット水兵反乱、「ネップ」後も6月まで続いた農民反乱と、それらにたいするレーニンの数十万人皆殺し作戦・赤色テロルによる大量殺人と鎮圧時期とする。レーニンはそれらによって、民衆革命としての(1)農民の土地革命・(2)労働者・兵士のソヴィエト革命・(3)民族解放独立革命というロシア革命の息の根を止めた。
11月7日の直前までに、労兵ソヴィエト・社会主義諸勢力が、ペトログラード・モスクワなど大都市やクロンシュタット(コトリン島)における実質的な力関係として、国家権力を掌握しつつあった。ここでいうクーデターとは、支配階級となりつつあった労兵ソヴィエト・社会主義諸勢力内部において、レーニンが単独武装蜂起で、多くの社会主義党派からなるソヴィエト権力を、ボリシェヴィキ党独裁政権に強行移動させたことを指す。
当時の情勢は複雑で、錯綜しているが、結果として、ケレンスキー臨時政府を倒したのは、3つの民衆革命と、ボリシェヴィキ、メンシェヴィキ、エスエル等のソヴィエト内社会主義3政党とアナキストが中心勢力で、その性格は二月革命を含めた総体で見れば革命と言える。しかし、単独武装蜂起を敢行したボリシェヴィキによる一党政権が成立した。このレーニンの行為は、革命ではなく、事実上の権力を掌握しつつあった革命諸勢力の中でのクーデターそのものである。
現在のロシア歴史学会では、クーデター説が基本になっている。別ファイルのアファナーシェフらの見解である。
資本主義ヨーロッパでも、その見解が主流になってきつつある。その証拠の一つは、ヨーロッパでは、ポルトガル共産党を除いて、レーニン型前衛党は、すべて崩壊してしまい、社会民主主義政党に転換してしまったという事実である。フランス共産党は、プロレタリア独裁理論とDemocratic Centralism(民主主義的中央集権制)を公然と放棄したので、もはやレーニン型前衛党ではない。それらヨーロッパ全域における転換は、「1917年10月、レーニンがしたこと」とその後の路線を誤りだったと全面的に否定し、レーニンと断絶したことを意味する。イタリア共産党は、マルクス・レーニン主義との絶縁を公然と宣言し、左翼民主党への大転換を「断絶的な刷新」と名付けた。
『コミンテルン型共産主義運動の現状』ヨーロッパでの終焉とアジアでの生き残り
日本においてだけは、このクーデター説がまだ市民権を得ていない。
ただ、加藤哲郎一橋大学教授は、「クー」としている。coup(クー)は coup D'etat(クーデター)と同じ意味である。
中野徹三札幌学院大学教授は、『社会主義像の転回』(三一書房、1995年)で、レーニンのこの行為の詳細な研究をしている。そこで次のように述べている。「ペレストロイカの進展とともにソ連で始まったロシア革命見直しの気運に触発されつつ、これまで自明とされてきた10月革命の『正当性と必然性』を根源的に問い直すこと、とりわけかねてから疑問を抱きながら問題点の指摘にとどめていた(『思想探検』窓社、第10章等)、憲法制定議会の解散問題の、可能な限り詳細な検討を試みることを通じて20世紀社会主義の大分裂の思想的根拠を問うことが主題となった。この解明を通じて、私にとっても永く今世紀の希望の夜明けであった10月革命が、レーニンらの誤算と過信から生じた(悲劇に導くという意味で)悲劇的なクーデターであったこと、さらに制憲議会の武力解散と食糧独裁令がボリシェヴイキの孤立と一千万人に及ぶ人口消滅を招いたロシア内戦を呼び、この状態がスターリン主義体制成立の土壌ともなったことを、ほぼ確認しえたと考えている」(P.14)。
その問題に関して、中野徹三教授から次の内容の手紙を頂いた。「宮地さんは、制憲議会解散をクーデターと規定するということであるが、私は、十月革命自身を一つの(独自の)クーデターとしてまずとらえております。私は、クーデターの語は用いていないが、十月武装蜂起と呼んで、十月革命の伝統的概念の変更を試みている。そして、十月武装蜂起そのもののうちに、制憲議会の受容そのものを不可能にする論理が内包されていたこと、そしてそれは内戦を不可避的によびおこし、他党派への弾圧、および、一党独裁とスターリン主義への道を大きく開いたことを論証したつもりである。」
中野徹三『社会主義像の転回』制憲議会解散論理、1918年
梶川伸一金沢大学教授は、2004年シンポジウムのメイン講演で、明確に「ボリシェヴィキの軍事クーデター」と規定した。
梶川伸一『レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか』ボリシェヴィキの軍事クーデター
レーニンの国家論、国家権力の暴力的奪取論の落とし穴は、このクーデターが成功した瞬間から、蟻地獄のように抜け出せないものとなった。クーデター権力を維持するには、暴力と赤色テロルに依存する道にはまり込むしかなかったからである。
『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが「殺した」自国民の推計』
2、ハリソン・E・ソールズベリー『黒い夜白い雪−ロシア革命1905〜1917・下』「第七部、革命の十月」より (抜粋)
〔小目次〕
53、クーデタ始まる (抜粋)
55、嵐の前 (抜粋)
56、冬宮襲撃 (抜粋)
57、その翌日 (抜粋)
(宮地注)、この著書の日本における出版は、1983年(時事通信社、絶版)である。原著は、1978年出版なので、ソ連崩壊後のデータは入っていない。このファイルには、1917年10月にレーニンがしたことのみを抜粋した。ソールズベリーは、ジョン・リードの記録を引用・対比しつつ、クーデタ開始におけるレーニンの方針・態度から、よく翌日までの記録を再現した。彼は、十月革命をレーニンによるクーデタと規定する。この抜粋内容とR・ダニエルズのファイル内容は基本的に一致している。
R・ダニエルズ『ロシア共産党党内闘争史』蜂起、連立か独裁か
ただ、R・ダニエルズの著書は、1959年出版であり、ソ連崩壊のかなり前である。やはり、ソ連崩壊後に発掘・公表された「レーニン秘密資料」6000点やアルヒーフ(公文書)を駆使したレーニンのクーデター分析と規定は、このファイル中では、(1)ニコラ・ヴェルト、(2)ロバート・サーヴィス、(3)マーティン・メイリアらの研究である。それらと、別ファイルのリチャード・パイプスの研究内容はほぼ一致している。
リチャード・パイプス『ロシア革命史−第6章十月のクーデター』
(訳者あとがき・抜粋)、著者ソールズベリーは、いうまでもなく、一九五六年、ソ連邦共産党第二〇回大会において、初めてスターリンを正式に弾劾した、いわゆる『フルシチョフ秘密報告』をスクープし、西側世界にもたらしたことでも世界的に著名な、練達のアメリカ人ジャーナリストである。
一九〇八年生まれ、一九四四年、UP通信社の戦時特派員としてモスクワに赴き、赤軍の死闘する前線から、シベリア、ウラル、中央アジアにわたってロシア全土を歴訪、ついで四六〜五四年にわたり、今度は『ニューヨーク・タイムズ』紙特派員としてモスクワに腰を据え、五三年のスターリンの死の前後の息詰まるようなソ連社会の実相を見つめ続けた。まずは現代有数のソ連・東欧圏通のジャーナリストの一人だろう。
著者はこの作業を、本書においていかにもジャーナリストらしく、革命の現場に赴き、生身の人間を相手に取材したジョン・リード(『世界をゆるがした十日間』)のように、あたかも自分が革命の歳月の間、ロシアに身を置いていて、実際に取材をして歩いたかのような手法で遂行する。ただし、著者の取材の相手、対象は、革命を間にはさむ三〇年間にロシアに生き、革命に際会した無数の人々が、書き遺し、言い遺し、描き遺していった膨大きわまる史・資料である。リードの利点がその迫真性にあるとすれば、ソールズベリーの利点は、まさにその裏返し、現場にいないことによって得られる広大な諸資料の利用と、広範な見通しにある。
53、クーデタ始まる (抜粋)
しかし、内側からみればまだしも、外側からみるかぎり、ペトログラードで蜂起が起こりそうだとはとても思えなかった。保守新聞『言説(レーテ)』は、午後十時現在、「どこにも、市中のどの地点をとっても、重大事件は何ひとつ起こっていない」ことは明々白々だと報じ、メンシェビキ系新聞『兵士の声(ゴーロス・ソルダータ)』は、午後十時、ペトログラードは完全に平穏で衝突はないと伝えていた。
ペトログラードでただ一人、事態の進展ののろくささ、バリケード越しのおじぎの交換、スモーリヌイ、冬宮双方の優柔不断に我慢のならない男がいた。彼はペトログラード郊外、レスノイの端にある最上階のアパートに閉じこめられ、室内を行ったり来たり歩きまわっている。この男、レーニンはいまだに隠れ住み、いまだに手にはいる情報のほとんどが二番煎じのままで、いまだにわずかにフォーファノバと党の伝令の手を通じて外界と接触を保っている有様だった。
レーニンはおおむね終日、一人っきりだったが、ソヴィエト歴史家たちは、彼が伝令使を通じて軍事革命委員会と覚え書(ノート)の交換をしていたと主張する。日が経つにつれ、彼はますます緊張し、いまこそその時だという彼の確信はいよいよ固まっていく。すでに六カ月にわたり、彼はそう感じとっていたのだ。彼はもう待てない。彼には中央委員会が引き延ばしをしているように思われる。彼があんなにせっついたのに蜂起の日取りはいまだに決まっていないのだ。
フォーファノバは仕事に出かけていた。ワシーリエフスキー島地区にあるデブリエン出版社で、忙しく働いていたが、午後四時近くになって、ネバ河にかかるニコラーエフスキー橋が跳ね上げられたことを聞きこんだ――間違いなく騒動の前兆だった。彼女は、この噂を確かめようと急いで外へ飛びだした。たしかに橋は跳ね上がっていたが、サンプソニェフスキー橋は赤衛軍の手中にあった。フォーファノバはビボルグの地区党本部に立ち寄る。レーニンに聞かせるもっと突っこんだ情報が得られないかと考えたのだ。戦々兢々たる流言のほかは何もなかった。彼女は大急ぎで自分の家に帰り、レーニンに聞きこんできたことを伝える。彼は話を聞き終わると、すぐ自室にはいる。彼はすぐさま手紙を書き上げて、これをここからそう離れていないビボルグの地区党本部にいるナジェージュダ・クループスカヤに直接手渡してくれるように依頼する。もうかれこれ午後六時だったが、彼のいうところによれば、蜂起の手はずを整えるためには、今夜その手紙が届くことが不可欠なのだった。いまこそ、彼はスモーリヌイにいなければならない。「いったい連中は何をやっているんだ」彼は中央委員会に触れてこう語った。「何を恐がっているのだろう。連中に忠誠な兵士か小銃を手にした赤衛軍かが一〇〇人がとこいないのかと聞いてみたいもんだ。私ならそれで十分だよ!」
レーニンの手紙にはこうあった。
「私はこの手紙を二十四日夕刻に書いている。情勢は極度に危機的である。いま蜂起を遅らせることは死を待つに等しいということは、このうえなく明らかだ。……待っていてはならない! 万事を逸することになるかもしれない! …誰が権力を掌握すべきだろうか? これは当面重要ではない。軍事革命委員会が権力を掌握してもよいし、「あるいは他の機関が」掌握してもよい。
すべての市区、すべての連隊、すべての勢力をただちに動員し、彼らをしてただちに軍事革命委員会とボリシェビキ中央委員会に向けて代表団を送らせ、いかなる情勢になろうともけっして、断じて権力をケレンスキー一派の手に残しておかないよう、ぜひともきょうの夕刻のうちに事を決するよう、強硬に要求させなければならない。
革命家がことを遅らせるなら、歴史は彼らを許さないだろう。……きょう権力を掌握するなら、われわれはそれをソヴェートに反対して掌握するのでなく、ソヴェートのために掌握することになる。……十月二十五日の動揺的な表決を待つということは、破滅するか、それとも形式主義か、そのどちらかだろう。人民は、自分の代表たち、自分の最良の代表たちさえ待たずに、彼らに指図をあたえる権利と義務をもっている。
政府は動揺している。是が非でもそれをたたきのめさなければならない! 行動を遅らせることは死を意味する!」
レーニン全集第四および第五版においては、この手紙は「中央委員への手紙」と題されている。しかし、実際には、それにはそんな表題はつけてなかったし、それの意図するところは、各地域党団体へ配布して、それらから中央委員会に圧力をかけさせようというところにあった――それは原文文脈によって明らかである。レーニンの文章は、二十四日夕刻という土壇場にあってもなお、ボリシェビキは蜂起実現を目指して実際に動きだしてはいなかったことを示唆している。レーニンの信じるところによれば、彼らはいまだに予想される臨時政府側のボリシェビキ掃討作戦に備えて待機していたのである。
いいかえるなら、ほかならぬクーデタ前夜にあってすら、レーニンはその蜂起計画にあずかっていなかったし、また同志たちが積極的にケレンスキー政権を打倒しようとしていると信じうる根拠ももっていなかったのだ。この夜十一時、またもや彼は中央委員会の頭越しに、彼らを行動へ駆り立てるようにとのアピールを発している。
上述の手紙は、レーニンと中央委員会との連携がほとんどなきに等しかったことと、同志たちの革命への熱意にレーニンが深い不信の念をもっていたことを示している。それはまた、当時レーニンとスモーリヌイとのあいだに交換されていたと想定されている“通信文(メッセージ)”の規模と信憑性にも疑いを抱かせる――通信文は、レーニンの著作ならびにソビエト歴史文献が厖大に出版されてきたにもかかわらず、かつて一度も公開されたためしがない。(P.199〜201)
レーニンの行動にたいする論理的な根拠をみつけるのは困難である。彼はボリシェビキ党の党首である。いったいなぜ、彼はスモーリヌイの同志たちに合流し、直接蜂起準備に参加しなかったのか。彼に向けての逮捕命令が出されてはいた。しかし、政府は無力で、スモーリヌイでそんな命令を実施できるわけもなかった。最後の日がくるまでにはボリシェビキ指導者全部に逮捕令が出されていたが、ただの一度も厄介ごとは起こっていない。
同様に、いったいなぜ、レーニンの同志たちは、彼にスモーリヌイにきていっしょになるように主張しなかったのかも理解に苦しむとろである。事実、党首脳部はレーニンがヘルシングフォルスを立つことを喜ばず、彼が中央委員を辞任するぞという最後通牒(アルテイメータム)を送ったあとになって、やっとペトログラード帰還を“懇願”したのだった。べトログラードに帰ったと思うと、彼はフォーファノバのアパートに閉じこめられる。レーニンの時期感覚と同志たちのそれとが食い違っていたことは明白で――彼らは一歩一歩手探りで進み、レーニンから執拗にせき立てられると初めてそのときだけ反応を示すのだった。
レーニンと中央委員会との連絡は明らかにスターリンの手を通じておこなわれていたが、スターリンは事態の緊急性をめぐるレーニンの感覚には共感をもっていなかった。レーニンが全露ソヴェート大会に先立って蜂起を実行しなければならないという考えを抱いているのを嫌って、スターリンと何人かの同志たちがレーニンを遠方においておく方が好都合だと考える可能性は大いにあった。あるいは、カーメネフ=ジノビエフの、蜂起自体なくもがなで、全露ソヴェート大会が開かれさえすれば、何も戦端を開く必要もなく、権力はボリシェビキの手に転がりこんでくるのは確実だという見解には、記録に残されている以上の共感が寄せられていたのかもしれない。
もう一つ、いったいなぜレーニンは、煽動と緊迫の状況のなかで、二十四日夕方よりずっと以前に全指揮権を手中におさめなかったのか、という疑問が残る。二十四日、彼は焦燥に身を焼きながら一日中アパートに留まり、スモーリヌイ復帰許可をもとめる手紙を小学生よろしく連発している。ここでの彼の身の処し方には、活動の中心にとびこむことに固執するよりむしろフィンランドでの地下活動にとどまることを選んだことを思い出させるものがある。(P.202〜203)
55、嵐の前 (抜粋)
そして陰気な、寒風吹きまく十月のこの日、ペトログラードの市民で、いま何が起こりつつあるのかを知り、あるいは注目しているものはほんの一握りしかいなかった。冬宮に籠城している閣僚たちの指揮下にある総兵力は、せいいっぱい大目に見積もって一五〇〇から二〇〇〇人といったところだったろう。
ボリシェビキが招集した兵力は六〇〇〇あるいは七〇〇〇人――ほとんど全員パーブロフスキーならびにケヒョールム連隊員からなる兵士二五〇〇人、クロンシュタットの水兵二五〇〇人、そして推定――あくまでも推定――約二五〇〇人の赤衛軍。とても全人民的な蜂起といえたものではなかったのだ。
レーニンは午前十一時以来、激怒に身をまかせていた。冬宮の占領が遅れていたからだ。彼は冬宮は日の出前に占拠できると踏んでいた。なぜそうならなかったのかは、この日のほかの多くの事柄と同様、明らかになっていない。トロツキーは、ポドボイスキーとB・A・アントーノフ=オフセーエンコがあまりに手のこんだ計画をつくりすぎたせいだとしているが、それは原因の一半にすぎない。スモーリヌイに到着した瞬間から、レーニンはポドボイスキーに、覚え書につぐ覚え書、命令につぐ命令を浴びせかける――わずか二語か三語のものも度たびあった。「中央電話局、電信局は占拠したか?」「鉄道駅と橋の占領は?」。しかし、レーニンの督促にもかかわらず、敏速に接収された目標は一つもなかった――原因は、一部は兵力不足、一部は全般的な怠慢からだった。そんなに焦っていたのはレーニンだけだったのだ。
ポドボイスキーの計画によれば、冬宮占領は二十五日朝におこなわれることになってはいた。しかし彼の手もとには十分な兵力がない。ソヴェートは開会中であり、宮殿はまだ占拠されず、閣僚は逮捕されていない。レーニンは行動を要求する。さもなければ、彼は軍事委員会を銃殺刑に処したことだろう――それも即座に!
レーニンが午前十時に、臨時政府は打倒されたという宣言を発したとき、ポドボイスキーは正午には冬宮を占領すると約束した。しかし、これも結局はかの見積もり同様、実現されなかった。彼は遅ればせながらやっと午後一時すこし前にマリインスキー宮殿を接収し、冬宮については午後三時という新しい予定を提出する。これが「最終時限」となるはずだった。
しかし時計はレーニンの思惑に逆らってまわっていた。午後二時三十五分、スモーリヌイでペトログラード・ソヴェートの集会が開会される。トロツキーが演説した。革命は成功した。血は一滴たりとも流されていない。冬宮が持ちこたえているのは事実だが、その占領はほんのここ二、三分のうちにもおこなわれるだろう。
スハーノフは午後三時ごろにスモーリヌイに到着する。彼が講堂にはいったとき、禿げ頭の髭をきれいに剃り上げた男が演説していた。声はしわがれていたが、なんとなく親しみがあった。スハーノフは、はっと思い当たる――それこそ、四カ月の地下生活から躍り出てきたレーニンだった。「いまこそロシア史の新しい時代が始まるのだ」レーニンは語った。「そして、この第三次ロシア革命は究極的には社会主義の勝利にまで導かれなければならない」。冬宮については、レーニンがいえることは何もなかった。(P.218〜220)
56、冬宮襲撃 (抜粋)
一晩中、全露ソヴェート大会が開かれっぱなしだった。レーニンは脇部屋で待っていたが、会場には姿をあらわさなかった。大会は、軍事革命委員会がついに冬宮強襲の火蓋を切ったときは、散々っぱら遅延を重ねたあげくではあったけれども、すでに開催されていた。大会場には六五〇人の代議員がいたが、その多くが灰色の外套に身を包んだ仏頂面をしたありふれた男たちだった。うち三九〇人がボリシェビキ、一五九人がエス・エル、八〇人がメンシェビキだった。スハーノフにしてみれば、革命始まって以来、こんなに無秩序きわまる集会を見たためしがなかった。ほとんど全員がボリシェビキ、団長レーニンという幹部団が承認される。
マルトフが敵対行為の終結を呼びかけた。ペトログラードの街頭で流血がつづけられている。ソヴェートはこれに無関心でいることはできない。ルナチャルスキーがボリシェビキを代表して答える。その提案に反対すべき点は何ひとつない。マルトフの提議は議事日程の第一項として記載された。そのつぎになって、議論が割れはじめた。市議会議長が冬宮との調停会談の斡旋を申し出たこと、さらに軍事革命委員会が解決策を探るために代表団を送ったことが発表されたのである。
マルトフが彼の決議案承認を求めて一席ぶち、トロツキーがこれに噛みついた。「妥協はいっさい不可能だ」。トロツキーは叫んだ。「こんなことをしろなどと提案するやからには、われわれはこういってやらなければならない。きみら惨めな破産者たちよ、諸君の役割は終わった。諸君のゆくべきところへいけ、歴史のごみ溜めへ」
午前一時をまわっていた。休憩が告げられる。誰もが怒り、怨みに燃え、疲れきっていた。スハーノフが議場に戻ると、議長のカーメネフが演説していた。「たったいま、つぎのような電話連絡が届いたところであります。軍事革命委員会部隊は冬宮を占領した。逃亡したケレンスキーを除く臨時政府全閣僚がその場で逮捕された」。午前三時十分だった。その報らせはみんなが知っていたが、カーメネフがそれを公式に認めたのだった。(P.223〜224)
57、その翌日 (抜粋)
レーニンその他の連中はほんの二、三時間眠ったきりだった。レーニンは寝る前に土地にかんする布告を書き上げていたことが知られているけれども、彼があけすけに認めたところによれば、それはエス・エル左派の土地綱領をもろに剽窃したものだった。事実、彼はフォーファノバの家に隠れていたとき、エス・エル左派の新聞『農民報知(クレスチャーンスカヤ・イズベスチヤ)』からそれを写し取り、彼女にみせた。「こいつは、われわれの土地法案の土台に使えるぞ」彼は大喜びだった。「エス・エル左派の連中が文句をつけてくるかなあ」。(P.239)
政府を組織しなければならなかったが、それをなんと呼ぶかが問題だった。「大臣(ミステル)というのだけはよそうや」レーニンはいった。「なんともかとも不快で陳腐な言葉だ」。「委員(コミッサール)と呼んだらどうかな」トロツキーが提案した。「あるいは最高委員とでもいうか? いや、“最高”というのはひっかかるな。“人民”委員てのはどうだろう」「“人民委員”か。うん、こいつはいい、気にいった」レーニンが答えた。「で、政府をひっくるめては?」「むろん、協議会(ソヴェート)さ・・・人民委員協議会(ソヴェート)だ。どう?」「人民委員協議会(ソヴェート)?」レーニンは繰り返した。「すてきだ、こいつはすこぶる革命的な響きがする」
それはいいとしても、誰を“人民委員”にするべきか。全員ボリシェビキとするのか。あるいは左派残留者をも参加させるのか。左派――つまりメンシェビキ、エス・エルの大部分、その他の左翼諸派――は昨夜、ソヴェート大会から退場してしまっていた。ボリシェビキ中央委員会は依然として、たぶんレーニンはそうではなかったようだが、むしろ極左派と権力を共有しようという気だった。しかし、マリヤ・スピリドーノバに率いられる左派エス・エルはボリシェビキ派と大会退場諸派との調停をしようと目論んでいる。クループスカヤは、レーニンがスピリドーノバと彼女の同志連を政府に参加するよう説得しようとして、第二回ソヴェート大会の二時間前に彼女と議論を闘わしたことを回想している。彼らはみんなスモーリヌイの小さな部屋に集まっていた。スピリドーノバは小さなえんじ色のソファーにかけ、レーニンは傍らに立って、「独特の穏かな、誠実な態度」で議論をつづけたという。
交渉はまとまらず、全員ボリシェビキの政府で発足しようということに決定する。最初、レーニンは首班の位置につくことを嫌がってトロツキーを推した。トロツキーはぴしゃりとはねつける。レーニンが主導者だ、それ以外考えられないではないか。「なぜ考えられないんだ」レーニンがいう。「きみは権力を奪取したペトログラード・ソヴェートの議長だったじゃないか」。トロツキーの動議でこの提案は棚上げされる。レーニンが議長となり、トロツキーは外務人民委員となった。(P.240)
大会はつづく。土地にかんする布告が承認された。かつてのボリシェビークでいまはゴーリキーの『新生活(ノーバヤ・ジーズニ)』の協力者の一人となっている知的な風貌の、フロック・コートを着こんだ若者のアピーロフが、ささやかな警告をもらした。クーデタが成功したのは左翼に実力があったからではなく、臨時政府が人民に平和とパンをあたえる能力を欠いていたからだ。新政府は果たしてこの問題を解決することができるのだろうか。自分は信を措くことができない。穀物は欠乏している、農民はおそらくおいそれとは協力しないだろう。講和ときたら、話はもっとむずかしいことになる。連合国が話に乗るはずはない。ドイツ、フランス、イギリスの革命運動を当てにすることは論外だ。どの党も単独ではこの難題を解決することはできまい。というわけで、彼は連立を呼びかけたのだった。
ソヴェートはボリシェビキ単独政府を承認する。そこへ、もう一つ警告が放たれた――それは、ロシアにおけるもっとも強力な労働組合、革命勢力の砦、一九〇五年反乱の要め石、反ツァーリ、反コルニーロフ、反ケレンスキーに秤の目盛りを傾けた組織体、そしてボリシェビキが事実上なんの影響力も持たず、であるがゆえにボリシェビキが故意にソヴェートから除外した組織体、全露鉄道労働者組合(ビクジエーリ)によってなされたものだった。
いまや、鉄道労働者たちは組合自治権と上部委員会での議席を要求していた。同組合は権力の一党独占を弾劾した。政府は全革命民主勢力に責任を負うものでなければならない。かかる政府が創設されるまで、あるいは不在であるかぎり、組合は全鉄道路線をその支配下に置く。組合は反革命部隊がペトログラードに到着することは決して許すものではないが、あらゆる行動は組合の承認を得るべきものとする。
午前五時十五分、ソヴェート大会は閉会した。スハーノフはルナチャルスキーといっしょに歩いて家へ帰った。二人とも、タウリーダ庭園近くの彼の住まいでその夜を過ごしたのだった。ルナチャルスキーは無我夢中だった。彼は、すでにトロツキーが外務人民委員就任を承諾している事実を無視して、スハーノフに新政府の外務大臣になるようにと説得する。スハーノフは頭がくらくらしていた。(P.244)
(宮地注)、全露鉄道労働者組合(ビクジエーリ)の問題と、それに対するレーニン・ボリシェヴィキ側の対応は、ファイル最後のE・H・カーが詳細な分析をしている。
3、ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書』「第一章、十月革命のパラドックスと食い違い」より (抜粋)
〔小目次〕
第一節、十月革命をめぐる論争 (抜粋)
第六節、ボリシェヴィズム (全文)
第七節、戦略家レーニン (全文)
第八節、暴力とテロルへ (全文)
(宮地注)、この著書は、ソ連崩壊後の1997年にフランスで出版された。その内容の衝撃度によって、フランス、ヨーロッパの左右両陣営に大論争を巻き起こしたベストセラーになった。日本での出版は、2001年(恵雅堂)である。ニコラ・ヴェルトは、十月革命をレーニンによるクーデターと他の3つの運動=社会革命との同時的な一致と規定した。他の3つとは、(1)農民革命、(2)3%の労働者運動・ソヴィエト革命、(3)非ロシア民族による民族解放・独立革命である。
私も、他3つとの一致であるとともに、その民衆革命情勢を利用したレーニンの一党独裁型権力奪取クーデターだと規定する。農民革命や労働者・兵士ソヴィエト運動は、ボリシェヴィキとは無関係のままで、1917年10月以前から、ロシアの民衆革命として発生し、発展したからである。(1)労働者・兵士ソヴィエトの革命運動と、(3)民族解放・独立革命は、二月革命以来である。(1)地主・貴族から土地を奪い、80%・9000万農民が村落毎の共同所有に移した全農民参加の土地革命は、5月以来の一貫した民衆革命だった。それら3つの自然発生的なロシア革命運動は、ボリシェヴィキの統制や指導とは無関係に勃発し、進行していた。
これは、他3つの民衆革命と少数者ボリシェヴィキによる権力奪取クーデターとを、峻別するロシア革命史観である。4月に帰国したレーニンは、他3革命を利用して、前衛党のクーデターによる権力奪取を企てたとするロシア革命史の解釈である。民衆革命ではないクーデターであるからには、権力奪取時点、その直後からさまざまな無理が生じた。そこでの一党独裁権力を維持・強化し続ける以上、暴力とテロルに頼らざるをえなくなった。
『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが「殺した」自国民の推計』
第一節、十月革命をめぐる論争 (抜粋、P.49〜50)
その後時が過ぎ、論争を生んだきわめて知的に刺激的な多くの歴史学上の著作のおかげで、一九一七年十月の革命は我々にとって、二つの運動の同時的な一致と見なされようになった。
すなわち、一つは、革命の他のすべての党派とは実践からも組織からもイデオロギーからもはっきり違った一つの政党の、丹念な陰謀の準備の結果としての権力の掌握であるということ。
もう一つは、多様で自立的な、大規模な社会革命だということ。この社会革命は、様々形をとって出現した。まず農民の大一揆である。これは土地所有者に対する憎悪だけでなく、農民層の都市、外の世界、あらゆる形での国家の干渉に対する根深い不信から生まれた、長い歴史的根源をもつ底辺からの広範な運動であった。
かくて一九一七年の夏と秋は、一九〇二年に始まり一九〇五〜一九〇七年に初めて頂点に達した巨大な反乱のサイクルの、最終的な勝利、到達点と見なすことができる。一九一七年は農民と大地主との間の所有をめぐる対決であり、待ちに待った「全土地割り替え」の実現であり、各農家の食い扶持に応じて全土地を分割するといった大農業革命の決定的な段階であった。それはまた都市の抑圧に抵抗する農民の、国家権力との対決の重要な段階でもあった。このように見てくると、一九一七年は一九一八〜一九二二年に頂点に達し、ついで一九二九〜一九三三年に強制的集団化によって完全に根を断ち切られた全農民世界の敗北に終わる、対決のサイクルの鎖の一環でしかない。
農民革命と並行して、全一九一七年を通じて、軍隊の根本的な解体が見られた。これら約一〇〇〇万の軍服を着た農民は、あまり意味もわからない戦争に三年余にわたって動員されてきた。彼らは多くの将軍がその愛国心の欠如を嘆いたものだったが、政治的に国民として統合されることもほとんどなく、その公民として生きる世界は農村共同体の枠から出ることもなかった。
社会を根底からゆさぶった第三の運動は、住民のわずか三%を代表するにすぎない社会的少数者の運動だった。しかし、それはこの国の大都市に集中した、政治的に活発な少数者である労働者の運動であった。約一世代にわたって進行してきた経済的近代化のあらゆる社会的矛盾の結節点であるこの社会層は、純革命的なスローガンたる「労働者管理」と「権力をソビエトへ」のもとに、特別な要求をもった労働運動を生み出した。
最後に、旧帝国の非ロシア民族の速やかな解放を通じての第四の運動が浮かびあがってくる。これら少数民族は自分たちの自治を、ついで独立を要求するようになる。
これらの運動はそれぞれが独自の時間性と、内的活力と特別な要求をもっており、もとよりそれらをボリシェヴィキのスローガンやその政治行動に限定することはできない。これらの運動は、一九一七年全一年を通して解体力として伝統的な諸制度や、さらにはあらゆる権威形態の崩壊を強力に推し進めたのであった。一九一七年末という短いが決定的な瞬間に、政治的少数であるボリシェヴィキは、周囲の真空状態をついて、中・長期的目的は互いに異なっていても、最大多数の望む方向へと行動をとった。政治的クーデターと社会革命は一時的に一致した――というより正確には、独裁の数十年へ向かって分かれる前に、重なり合い、融合していったのだった。
第六節、ボリシェヴィズム (全文、P.57〜58)
一九〇三年の設立以来、この党は以下の諸点で他のロシアおよびヨーロッパの社会民主主義の思潮と異なっていた。すなわち、断固として既存の秩序と絶縁する主意主義的戦術と、職業的革命家の前衛である、よく組織され訓練されたエリートの党という考えによって、それはメンシェヴィキやヨーロッパの社会民主主義者一般が考えていた、広く同調者に開かれた大政党とは対極的な政党であった。
第一次大戦はレーニンのボリシェヴィズムの特殊性を一層きわだたせた。他の社会民主主義的思潮との協力を拒否したレーニンは、次第に孤立していくなかで、その著『資本主義の最高段階としての帝国主義』において、自らの立場を理論的に正当化した。その中で彼は、革命は資本主義が最も強い国で起こるのではなく、もしも革命運動が徹底的に革命を遂行しようとする、ということは帝国主義戦争を内戦に転化しプロレタリアートの独裁にまでもって行こうとする、よく統制のとれた前衛によって指導されるならば、ロシアのような経済的にあまり発展していない国で起こるであろうと説明した。
一九一四年十月十七日付けのボリシェヴィキの指導者の一人であるアレクサンドル・シュリャープニコフあての手紙の中でレーニンはこう書いている。
「目下のところ、最もましなのは戦争でツァーリズムが敗北することだろう……我々の(根気強い、組織的でたぶん長期にわたる)仕事で一番肝心なのは、戦争を内戦に転化することを狙うことだ。それがいつ起こるかはまた別の問題だ。目下のところ、これがいつかは、はっきりしない。我々はその時を到来させなければならない、組織的に『到来するように仕向け』なければならない……我々は内戦を『約束する』ことも『発令する』こともできないが、時いたらばその方向に向かって力を尽くさなければならない。」
「帝国主義間」の矛盾を指摘することによって、このように「帝国主義戦争」はマルクス主義のドグマをひっくり返し、他のどこよりロシアで爆発が起こることが可能だとしたのだ。戦争中ずっとレーニンは、ボリシェヴィキはあらゆる手段で内戦を起こすようにしなければならないという、この考えを何度も検討した。
「階級闘争を認める者なら誰でも――と彼は一九一六年の九月に書いている――すべての階級社会において、階級闘争の自然な継続、発展、強化の表現である内戦を認めなければならない。」
流刑地や国外にいた主要なボリシェヴィキの指導者が誰一人として参加していなかった二月革命の勝利のあと、レーニンは党の指導者の圧倒的多数の意見に反して、様々な意見の社会革命党員と社会民主党員とが多数を占めていたペトログラード・ソビエトがとろうとした、臨時政府への協力政策の失敗を予言した。一九一七年二月二十日から二十五日にかけてチューリッヒで書かれた四通の『遠方からの手紙』――ボリシェヴィキの日刊紙『プラウダ』は、これが当時ペトログラードのボリシェヴィキ指導者のとった政治的立場とまるで異なるところから、その第一書簡しか公刊しなかった――の中で、レーニンはぺトログラード・ソビエトがただちに臨時政府と提携することをやめて、次の「プロレタリア」革命の段階に積極的に備えるように促した。レーニンにとってソビエトの出現は、革命がすでに「ブルジョワ段階」を終わったことを意味した。いたずらに待つことなく、これらの革命的機関はすべての革命の過程で避けられない内戦の犠牲を払ってでも、帝国主義戦争を止めさせて、力によって権力を掌握しなければならないというのである。
一九一七年四月三日にロシアに帰ったレーニンは、その極端な立場を守り続けた。有名な『四月テーゼ』の中で彼は、議会制民主主義と民主的プロセスへの敵意を繰り返した。ペトログラードのボリシェヴィキの指導部の大多数が驚き、反感したのに、このレーニンの考えは、のちにスターリンがいみじくも「理論家」に対して「実務家」(プラクチキ)と呼んだとりわけ新入党員の間に急速に浸透していった。数カ月のうちに兵士=農民が中核をなす平民的要素が、制度化した社会闘争のベテランである都市的・インテリ的要素を圧倒していった。農民文化に根ざし、そのうえ三年の戦争で激化した暴力の持ち主であるこれら庶民出身の戦闘的活動家は、自分たちがほとんど知らないマルクス主義のドグマにとらわれることも少なく、政治的な経験もほとんどなく、平民的ボリシェヴィズムの典型的な代表であった。彼らは「社会主義へ移行」するためには「ブルジョワ段階」が必要か否かといったことはほとんど問題にしていなかった。直接行動の闘士であり武力行使の信奉者である彼らは、ボリシェヴィズムの最も熱烈な行動家であって、この時以後、理論闘争はさしせまった唯一の課題である権力獲得の問題に席を譲るようになった。
一方にはペトログラードの沖のクロンシュタット軍港の水兵や、首都の守備隊の中のいくつかの部隊と、ヴィボルグの労働者地区の赤衛隊といった次第に血気にはやって冒険を急ぐ平民的基盤があり、他方には粉砕されるにきまっている時期尚早の蜂起が失敗するのではという考えがつきまとって離れない指導層とがあった。その間にあって、レー二ン主義の道は狭かった。一九一七年を通じてボリシェヴィキ党は、広く受け入れられた一つの考えでまとまっているのとは正反対に、いまにも爆発しようとする者と、ためらっている者との間で、深く分裂し、二つに割れていた。有名な党規律は、現実というよりも信仰の表明であった。一九一七年の七月初め、政府の武力と戦うことを望んだ底辺層の爆発は、失敗に終わった。七月三〜四日の流血のデモのあと、ボリシェヴィキ党は法律の保護の外にあると宣言され、その指導者は逮捕、拘束されたり、あるいはレーニンのように亡命したりした。
政府が困難な問題を解決できないこと、伝統的な諸制度や権威の失墜、社会運動の進展、コルニーロフ将軍の軍事クーデターの試みの挫折などから、武装蜂起によって権力を掌握する好機となった一九一七年の八月末に、ボリシェヴィキ党は再び政治の表面に浮上してきた。
第七節、戦略家レーニン (全文、P.59〜60)
あらためて権力獲得の理論家および戦略家としてのレーニンの個人的役割が決定的となった。一九一七年十月二十五日のボリシェヴィキのクーデターに先立つ何週間かの間、レーニンは軍事クーデターのすべての段階を設定した。それは「大衆」の即興的な蜂起によって先を越されることもなければ、ジノヴィエフやカーメネフのようなボリシェヴィキの指導者の「革命的合法主義」によってブレーキをかけられることもないものだった。これらの指導者は七月事件の苦い経験から、ソビエト内の多数派である社会革命党員や様々な傾向の社会民主党員と一緒に、権力に到達することを願っていた。フィンランドに亡命中のレーニンはボリシェヴィキ党の中央委員会にあてて蜂起を促す論文や手紙をたえず書き送った。
「即時平和を提唱し、農民に土地を与えることによってボリシェヴィキは誰もひっくり返すことのできない権力をうち建てることができよう。ボリシェヴィキに都合のよい形式的な多数を待っても無駄である。いかなる革命もそんなものを待っていない。もし我々がいま権力を獲得しなかったら、歴史は我々を許さないだろう。」
ボリシェヴィキの指導者のほとんどは、このアピールに懐疑的だった。情況は日毎ますます過激化しているのに、どうしてせきたてる必要があろうか? 大衆に密着してその自発的な暴力を奨励しつつ、もろもろの社会運動の解体的な力を思うままに働かせ、十月二十五日に予定されている第二回全ロシア・ソビエト大会を待っていれば十分ではないか? この大会では労働者の大規模なセンターや兵士委員会の代表が、社会革命党が牛耳っている農村のソビエトの代表より多くの代表権を持っているのだから、ボリシェヴィキが大会で相対的な多数を獲得するチャンスは十分ある。
しかしレーニンにとって、もしソビエト大会の投票のあとで権力の委譲が行われるなら、そこから生まれる政府は連立政権になり、ボリシェヴィキは他の社会主義政党と権力を分かち合わなければならないだろうと思われた。数カ月来、全権力がボリシェヴィキだけのものになることを要求してきたレーニンは、第二回全ロシア・ソビエト大会の開会の前に、武装蜂起によってボリシェヴィキ自身が何としてでも権力を掌握することを欲した。彼は他の社会主義諸政党が蜂起によるクーデターを非難するだろうということ、そうなったら全権力をボリシェヴィキが握って、反対党にまわるしかないことを知っていた。
十月十日に密かにペトログラードに戻ったレーニンは、ボリシェヴィキ党の中央委員会員二一人中、十二人を召集した。十時間の討論ののち、彼は党が採用した最も重要な決議で、出席者の多数を首尾よく説得することができた。できるだけ速やかな武装蜂起の方針である。この決議は十票対二票で採択された。二票は第二回ソビエト大会の前にはいかなる企ても行なうべきではないとの考えに固執するジノヴィエフとカーメネフの票だった。十月十六日、トロツキーが穏健派の社会主義者の反対を押し切って、ペトログラード軍事革命委員会〔ПBPK〕を設立した。これは理論的にはペトログラード・ソビエトから発したことになっているが、実際にはボリシェヴィキの裏工作でできたものだった。そして、これはボリシェヴィキ党を凌駕しうる大衆の自発的でアナーキスティックな蜂起に先立って、武装蜂起の戦術によって権力獲得を実行する組織だった。
レーニンが予期したように、大十月社会主義革命の直接参加者の数は限られたものだった。数千の守備隊兵士、クロンシュタットの水兵、軍事革命委員会に集結した赤衛隊、それに数百の工場委員会の戦闘的なボリシェヴィキである。思いがけぬ事故がほとんどなかったこと、犠牲者の数が取るに足らなかったことは、慎重に準備され抵抗なしに遂行された、この予期されていたクーデターの容易さを証明している。意味深長にも権力の掌握は軍事革命委員会の名において行なわれた。かくてボリシェヴィキの指導者は、全権力がボリシェヴィキの中央委員会以外の誰にも代表されず、したがってソビエト大会にはまったく依拠しないようにしたのだった。
レーニンの戦略が正しかったことが判明した。穏健派の社会主義者は「ソビエトの背後で組織された軍事的陰謀」を告発したあと、既成事実を前にして第二回ソビエト大会から去った。自分たちの支持者だけで多数派になった左派社会民主主義者の小グループであるボリシェヴィキは、まだ残っていた大会の代表によって「すべての権力をソビエトへ」帰属させるレーニンの作成した文章を採択させ、その実力行使を正式に承認させた。この純形式的な決定は、ボリシェヴィキをして彼らが「ソビエトの国」において人民の名において統治するというフィクションを、それ以後騙されやすい人々を何世代にもわたって欺瞞することを許容した。大会は解散の数時間前に、レーニンを首班とする人民委員会議という新たなボリシェヴィキ政府を承認し、新政権の最初の文書である平和と土地についての布告を承認した。
第八節、暴力とテロルへ (全文、P.60〜61)
新しい権力と、旧い政治・経済・社会秩序を自主的に解体してきた社会運動の間に食い違いが生じ、それについですぐに衝突が増大した。
最初の食い違いは土地革命に関してだった。常に土地の国有化を主張してきたボリシェヴィキは、事態が自分たちの思うようにゆかぬところから、社会革命党の綱領を「盗んで」、土地を農民に再配分しなければならなかった。「土地に関する布告」の主要な条項は、「土地の私有は補償金なしに廃止される。すべての土地は再配分のため地方農地委員会の自由裁量下に置かれる」となっていたが、これは事実上、多くの農村共同体が一九一七年の夏以来行なってきた大地主とクラークの土地を有無をいわせず没収するという行為を合法化しただけのものだった。農民を権力の側に容易に引きつけるために、この農民の自主的な決定にやむをえず一時的に「はりついた」ボリシェヴィキが、自分たち独自のプログラムを取り戻すのはほぼ十年あとのことである。一九一七年十月に生まれた政権と農民層との対決の頂点となった農村の強制的集団化こそ、この一九一七年の食い違いの悲劇的な結末であった。
第二の食い違いはボリシェヴィキ党と他の諸制度――工場委員会、労働組合、社会主義諸政党、地区委員会、赤衛隊、そしてとくにソビエト――との間のものだった。それらは伝統的な諸制度の解体に参加すると同時に、自分たち自身の権限の確立と拡張のために闘ってきた。これらの諸制度は数週間のうちに権限を奪われ、ボリシェヴィキ党に従属するか、排除された。おそらく一九一七年十月のロシアで最も人気のあった「すべての権力をソビエトへ」というスローガンは、瞬く間にソビエトに対するボリシェヴィキ党の支配権力へと変わった。ボリシェヴィキがペトログラードや他の大工業地帯のプロレタリアートを行動に駆り立てたもう一つの主要な要求事項だった「労働者管理」は、ただちに企業と労働者に対する「労働者」の名を詐称しての国家管理にとって代わられた。失業と絶えざる購買力の低下と飢えとにつきまとわれた労働者と、経済的効率を心配する政府との間には、相互の無理解があった。新政権は一九一七年の十二月から労働者の要求とストライキの波に直面しなければならなかった。一九一七年を通じて労働界の一部に培ってきた信頼の大部分を、ボリシェヴィキは数週間のうちに失ってしまった。
第三の食い違いは新権力と旧帝国の諸民族との関係だった。ボリシェヴィキのクーデターは、新指導部が当初支持したかにみえる遠心的な傾向に拍車をかけた。旧帝国の諸民族の平等と主権、それに民族自決権や連邦加入権、分離独立権を認めていたボリシェヴィキは、他の諸民族にロシアの中央権力から自由になるように勧めるかのように思われた。数カ月のうちにポーランド人、フィンランド人、バルト人、ウクライナ人、グルジア人、アルメニア人、アゼルバイジャン人が独立を宣言した。ウクライナの穀物やコーカサスの石油や鉱物などの確保といった新国家の死活問題の解決の必要性に迫られたボリシェヴィキは、少なくとも領土問題に関しては、臨時政府より旧帝国の後継者として、やがて諸民族の自決権をはっきり二の次にするようになった。
社会革命および様々な形の民族革命と、権力の分割を拒否する独特な政治のやり方との激突は、速やかに新政権と社会の広汎な諸部門との間の対決へと進み、それが暴力とテロルを生み出すことになった。(P.56〜61)
ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書−第2章、プロレタリア独裁の武装せる腕(かいな)』
4、ニコラ・ヴェルト『ロシア革命』「蜂起の技術」。(資料3)、レーニン『蜂起の技術』 (全文)
〔小目次〕
1、ニコラ・ヴェルト『ロシア革命』「蜂起の技術」 (全文、P.107〜108)
2、(資料3)、レーニン『蜂起の技術』 (全文、P.157〜159)
(宮地注)、これは、1997年にフランスで出版された。日本での出版は2004年(創元社)である。レーニン『蜂起の技術』全文は、その添付資料3(P.157〜159)である。『蜂起の技術』は、レーニン全集第26巻にも『一局外者の助言』として掲載されている。この著書は、『共産主義黒書』と同じく、ソ連崩壊後に発掘されたデータを駆使している。写真や絵も多数載せている。十月革命を、レーニンのクーデターと他革命との一時的一致とする根拠として、レーニンによる第2回ソヴィエト大会前の武装蜂起=ボリシェヴィキによる単独権力奪取の主張とその真意を挙げている。
1、ニコラ・ヴェルト『ロシア革命』「蜂起の技術」 (全文、P.107〜108)
亡命先のフィンランドから,レーニンはボリシェヴィキの党中央委員会に,武装蜂起をうながし,「7月事件」で苦い経験をした指導部の革命的合法主義をとがめる手紙や論文を送り続けた。9月12日と14日に,彼は「ボリシェヴィキは権力を握らなければならない」と「マルクス主義と武装蜂起」と題された2通の手紙を出し,そのなかで「ふたつの首都(ペトログラードとモスクワ)のソヴィエトで多数派となった以上,ボリシェヴィキは権力を握ることが可能であり,そうしなければならない」と主張した。
またレーニンは,即座に和平を結ぶ提案を行ない,農民に土地をあたえることで「ボリシェヴィキは誰も倒すことのできない政府を樹立するだろう」と書いている。
さらに「ボリシェヴィキが『反論の余地がない』多数派になることを待つなど,馬鹿正直なことだ。どんな革命でも,そんなことを待ちはしない。(略)もし,いまわれわれが権力を握らなければ歴史はわれわれを許さないだろう」とつづけていた。
9月15日に中央委員会は,レーニンの手紙をおおまかに検討した。しかし指導部の大半は,レーニンの主張に懐疑的だった。ソヴィエトは急速に「ボリシェヴィキ化」しているのに,なぜことを急ぐ必要があるのか。10月25日に予定されている第2回全ロシア・ソヴィエト大会を,なぜ持てないのか。その大会でボリシェヴィキは確実に多数派,少なくともほぼ多数派になるのだから,そこですべての権力がソヴィエトへ移るだろう,というのである。
しかしレーニンは,ソヴィエト大会の採決によって権力を握った場合,新しくつくられる政府が連立内閣となることを恐れていた。その政府内でたしかにボリシェヴィキは一定の地位を得ることができるだろうが,ほかの社会主義グループ,メンシェヴィキやとくに農村や軍隊で人気のあるエス・エル党(社会革命党)と権力をわかちあわなければならない……。
そのためレーニンは,なんとしてでも第2回全ロシア・ソヴィエト大会が開かれるよりも前にボリシェヴィキが武装蜂起し,権力を握る必要があると考えていた。そしてボリシェヴィキが武装蜂起した場合,ほかの社会主義政党はそれを非難してボリシェヴィキと対立するしかなく,結果として全権力がボリシェヴィキの手中に落ちるものと判断していたのである。
2、(資料3)レーニン『蜂起の技術』 (全文、P.157〜159)
(ニコラ・ヴェルトの注)、「ある欠席者」という署名のあるこのレーニンの文書には,蜂起の技術の大原則が記されている。そこには,民衆が「自然発生的」に革命を起こす可能性は少しも想定されていない。1917年10月25日のクーデターは,なにひとつとしてなりゆきまかせのものはなかった。それは「蜂起の技術」の帰着点だったのである。
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私はこれらの手紙を10月8日に書いているが,これらが早くも9日にペトログラードの同志たちの手にわたることはそれほど期待していない。あまりにも遅く到着して,10月10日に予定されている北部地方ソヴィエト大会に間に合わないかもしれない。それでも私は,ペトログラードとすべての「界隈」で起こりそうな労働者と兵士たちの行動が,まだ実現してはいないがまもなく実行に移されるときのために,この「ある欠席者の助言」をしようと思う。
あきらかに,すべての権力はソヴィエトへ移らなければならない。同じくボリシェヴィキ全体にとって好ましいことに,プロレタリアの革命権力が労働者や世界中,なかでも交戦中のすべての国の被搾取者や,とくにロシアの農民からの非常に大きな共感と全面的な支持を得ていることにも議論の余地はない。これらの事実は誰もが知りすぎていることであり,はるか以前から認められてきたことなので,これ以上語る必要はないだろう。
しかし,おそらくすべての同志にとってあきらかではないひとつの点について,ここで語っておかなければならない。それは,ソヴィエトへの権力の移行は,現時点では事実上武装蜂起を意味するということである。このことはまさに自明の理であるように思われるが,誰もがこの点をつきつめて考えたわけではなかったし,いまも考えているわけではない。いまこのとき武装蜂起をあきらめることは,ボリシェヴィキの重要なスローガン(「全権力をソヴィエトへ!」)とプロレタリア全体としての革命的国際主義を放棄することを意味するのではないか。
ところで,武装蜂起は政治闘争の特殊な形である。武装蜂起は注意深く検討する必要のある特殊な法則のもとに置かれている。この事実について,カール・マルクスは,武装蜂起は戦争と同じく,ひとつの技術である」と記した上で,きわめて見事にいい表わしている。
以下が,マルクスがのべているおもな法則である。
1.決していいかげんな蜂起をしてはならない。蜂起をはじめるときは,それをやりとげるのだと強く確信している状態であること。
2.決定的な場所,決定的な瞬間に,数においてはるかに優勢な兵力を,いかなる手段をもちいても集中させること。そうしなければ,より準備が整い組織化された敵は,反徒たちを全滅させるだろう。
3.いったん蜂起がはじまったら,この上なく決然と行動し,是が非でも攻勢に移らなければならない。「守勢は武装蜂起の破滅である」
4.不意をついて敵を捕らえ,さらに敵の部隊が分散した好機をつかもうとしなければならない。
5.たとえわずかでも,毎日(都市の場合,毎時間)成功を獲得し,いかなる手段をもちいても「精神的な優位」を保たなければならない。
マルクスは,軍事蜂起に関するあらゆる革命の教訓を,歴史上もっとも偉大なる革命戦術家ダントン(フランス革命期の政治家)の言葉,「大胆であれ さらに大胆であれ,つねに大胆であれ」で要約している。1917年10月のロシアにあてはめると,これらの原則は次のことを意味する。
ペトログラードとその内外,つまり労働者街,フィンランド,レーヴェリ,クロンシタットで,同時に,できるだけすばやく,不意の攻勢をかける。艦隊全体の攻勢をかける。われわれの「ブルジョアジーの衛兵」(士官候補生)と「ふくろう党員の軍隊」(コサック兵の部隊)など1万5000人から2万人(あるいはそれ以上)の人員をはるかに超える兵力を集めること。
以下のもの(a.電話,b.電信,c.駅,d.橋)を是が非でも奪い保持するために,われわれが持つ3つのおもな兵力、つまり艦隊、労働者,軍隊を組み合わせる。
非常に毅然としたメンバー(われわれの「特攻隊」,青年労働者,すぐれた水兵)を選び、小分遣隊にわけ,彼らにすべての主要拠点を奪わせ,いたるところですべての重要な作戦に参加させる。それらの作戦は,たとえばペトログラードを包囲して孤立させ,艦隊と労働者と軍隊の計画的な攻撃によってペトログラードを奪うという,この上なく大胆な技術を必要とする任務である。
敵の「中枢」(兵学校・電話・電信など)を攻撃し,包囲し,「最後のひとりまで死んでも,敵を通すな」というスローガンを持つ,小銃と爆弾で武装したすぐれた労働者たちによる分遣隊をつくること。
蜂起が決まったら,指導者たちが首尾よくダントンとマルクスの大原則を適用することを期待しよう。
ロシアの革命と世界の革命の成功は,わずか2〜3日の戦いしだいなのだ。
5、ロバート・サーヴィス『レーニン・下』「第三部、権力奪取」(抜粋)
〔小目次〕
第一七章、権力は思うがまま 一九一七年7月〜十月 (P.54〜79から一部抜粋)
第一八章、十月革命 一九一七年一〇月〜一二月 (P.80〜97から一部抜粋)
(宮地注)、ロート・サーヴィス著『レーニン・上下』(岩波書店)は、658頁の大著である。彼は、1947年生まれ、イギリスの歴史・政治学者(ソヴィエト・ロシア現代史研究)である。この著書は、2000年に出版され、日本では2002年出版である。訳者河合秀和のあとがきは次のようにのべている――ソ連共産党中央委員会所管のレーニン文庫は、一九九一年、反ゴルバチョフのクーデターが失敗に終った後にはじめて公開されるようになった。本書の著者サーヴィスは、「幸運にも」このレーニン文庫解禁の時にモスクワに居合わせ、それを自由に利用できた最初の歴史家の一人となった。こうして史料に接する歴史的な機会に恵まれたことが、著者が新しくレーニンの伝記を書くことを思いつく動機となった。
このファイルは、『レーニン・下』「第三部権力奪取」第一五章から第二一章の内、第一七章と第一八章(P.54〜97)から、さらにその一部を抜粋したものである。一部抜粋の頁はその都度、文末に載せた。抜粋頁だけでも、多数の出典を示す(注)があるが、すべて省略した。
以下の抜粋内容は、レーニンのクーデタ〔perevorot〕意図=第2回ソヴィエト大会前の一党独裁型権力奪取武装蜂起に関する貴重なデータを挙げている。サーヴィスは、なぜ、第2回ソヴィエト大会よりも前にクーデターをする必要があったのかというロシア革命史の最大の謎の一つにおけるレーニンの真意=ボリシェヴィキ中央委員会にも隠した意図を明快に規定している。「レーニンには、メンシェヴィキ、社会革命党と権力を共有する意図はなかった。彼は狡猾にも、蜂起が始まる前にはボルシェヴィキ党中央委員会にこの点を詳しく説明するのを避けていた。もし説明していたら、中央委員会はおそらく武装行動をまったく支持しなかったであろう。」
ロート・サーヴィスが検証した「レーニンの意図」内容に関しては、彼の見解とニコラ・ヴェルト、リチャード・パイプス、マーティン・メイリアらの「レーニンの意図」内容とが完全に一致している。このロシア革命史解釈=「1917年10月にレーニンが意図したこと」の評価こそが、ソ連崩壊後に発掘・公表された「レーニン秘密資料」6000点や膨大なアルヒーフ(公文書)が浮き彫りにした共通認識になってきたと言えよう。その認識とは、「レーニンがしたことは、大十月社会主義革命ではなく、一党独裁狙いの権力奪取クーデターだった」という歴史的真実である。
リチャード・パイプス『ロシア革命史−第6章十月のクーデター』
第一七章、権力は思うがまま 一九一七年7月〜十月 (P.54〜79から一部抜粋)
これら権威主義的革命家たちは、すべてテロ活動を唱えたが、しかし『国家と革命』のレーニンは、国家テロの討論を回避していた。むしろ彼はその点については、その後一九一七年内にほんの僅か書いただけであった。例えば彼はプラウダ紙への寄稿で、一九一七年のロシアを一七九三年のフランスと比較して次のように述べた。
ジャコバン派は、「共和政に反対して団結した専政者たちの策謀を援助する」ものは人民の敵だと宣言した。ジャコバン派の例には教訓がある。それは今日でも古くなっていないし、われわれは二〇世紀の革命的階級、労働者と半プロレタリアートにそれを適用しなければならない。二〇世紀のこの階級にとっての人民の敵は、君主たちではなく一つの階級としての地主と資本家である……
二〇世紀の「ジヤコバン派」は、資本家たちをギロチンにかけたりはしない。よき模範にしたがうことは、猿真似するのと同じことではない。五〇人から一〇〇人の銀行資本を動かす王と女王たち、国庫詐欺と銀行略奪の大物貴族たちを逮捕すれば、それで充分であろう。彼らの汚い取引きを暴露し、すべての搾取されている人民にまさに「誰が戦争を必要としているか」を示すには、彼らを二、三週間逮捕するだけで充分であろう。
彼の計画している政府のテロ行使が、このプラウダ紙上の論文で主張しているように、穏健で短期的なものになると本当に彼が予想していたのかという点については、疑いをもたざるを得ない。レーニンは嘘をついたり欺したりできるだけでなく、政治的にきわめて曖昧な言葉を吐くこともできた。
一九一七年のレーニンは、広く想像されているように解放的な社会主義像を提出したのではなかった。それは以上のことからも明らかであった。彼はむしろ軽蔑の意味で「自由」や「民主主義」のような言葉を使っている。また、立法部、執行部、司法部間の権力分立のような観念を嘲笑している。公共生活そのものさえもが蔑視されている。レーニンは、社会主義革命は社会を「政治の駆け引き」から「ものの管理」へと移行させると予想していた。
「議会主義」は彼にとって、汚い目標であった。したがって彼には、政党間の競争とか、文化的多元主義とか、さまざまな社会的少数集団の利益の擁護とかにかかわっている閑はなかった。個々の市民の権利は彼の知ったことではなかった。彼は、自分の独裁政権が一切のことを「階級闘争」の基準から判断することを望んでいた。
内戦は、彼の恐れるところではなかった。彼は内戦のような紛争は、社会主義の大義の前進から生じる自然の、望ましい結果であると見ていた。『国家と革命』は、政府の自由・民主主義的な価値がもたらす利益をまるで認めていないために、元気をなくさせるような本だとよく言われてきた。その限りでは、まさにその通りである。しかし分析をさらに先にまで進めることができる。われわれは、その本では普遍的な市民的自由を提唱していないだけでなく、現実には市民的自由にたいする断固とした意図的な反対が唱えられていることも認めねばならない。(P.66〜67)
しかし彼は、直ちに武装蜂起するという案に中央委員会の同意を得ようとすれば、やはり中央委員会で直接に自分の主張を論じなければならなかった。一〇月一〇日、左翼メンシェヴィキのニコライ・スハーノフと結婚しているガリア・フラックスマンのペテルブルグ・サイドのフラットで、中央委員会が開かれた。スハーノフは遠慮して、自分の事務所で夜を過ごした。当時の政党間の礼儀はそのようなものであった。フラックスマンがサモワールでお茶を入れ、参加者にビスケットを出した。会合は夜の一〇時頃に始まった。通信と交通が頼りにならない混乱した革命的状態とあって、一二人の中央委員しか出席できなかった。主要な議題は、党の権力掌握という問題であった。それは、レーニンによる「当面の瞬間についての報告」というきわめて漠然とした形式になっていた。
しかし彼らの陽気な気分は、長くは続かなかった。スヴエルドロフが当面の事態の総括を終えると、レーニンはまる一時間も蜂起を支持して熱烈に語った。聴くものは誰もが、彼の怒りと焦燥感を目の当りにした。彼は、中央委員会は「蜂起の問題には一種の無関心」を示したと断言した。今や決断の時が来ている。「大衆」が無関心であるとすれば、それは彼らが「言葉と決議に飽きた」からであった。レーニンによれば、「今では多数者がわれわれの背後にいる。」 農民はボルシェヴィキに投票していないとしても、彼らは土地を没収しつつあり、それが臨時政府の権威を破壊しつつあった。彼は、ペトログラードをドイツ軍に引き渡そうとする臨時政府の企みを非難した。討論は長く、活発であった。レーニンの路線に従うことの危険さは、誰にも判ることであった。しかし彼は、中央委員会を説き伏せた。一〇月一一日の朝が明けた頃、彼の動議が一〇対二で可決された。
この決議は、中央委員会が蜂起計画の「技術的側面」に全力を集中することを決めたということを意味した。レーニンはその結果を喜び、意気揚々とフォファノヴァのアパートに帰った。しかしまだすべてが彼の思い通りになった訳ではない。彼は特に、一〇月一一日にミンスクで開催予定の北方ソヴィエト大会を「決定的行動の出発点として利用」すべきだと論じた。この提案は、最終決議には出てきていない。
中央委員会は、トロツキーとその他の委員の提案で、来るべき蜂起を一つの政党の権力奪取とはあまり見えないようにしようとした。彼らはそのために、権力の移譲は一〇月末にペトログラードで開かれる全ロシア・ソヴィエト大会まで遅らせるべきだという結論に達しようとしていた。彼らから見れば、レーニンの考えは完全に実行不可能であった。彼はあまりにも遅くまで、事態を放置していた。その上、彼の主張通りにすれば、党は首都での行動を組織する前に意図を洩らすという危険を冒すことになるであろう。彼は蜂起を一つの「芸術」のように扱わねばならないことを雄弁に語ったが、彼は自分の説いたことを実践していなかった。それでも彼の信念の強さは巨大なものであった。彼は自分が指導者であることを立証した。
レーニンにとっての問題は、党指導部の最前列にいるカーメネフとジノヴィエフがその夜彼に反対した主な二人だったことであった。二人は、レーニンの勝ちをそのままにはさせておくまいと、党内のさまざまな主要な委員会に連名の手紙を送った。大衆の世論は、間もなくメンシェヴィキと社会革命党に圧力を加え、ボルシェヴィキも含めた連立政権樹立に向かわせるだろうというのが、二人の議論であった。二人は、労働者はボルシェヴィキによる暴力的な権力収奪を支持するだろうという意見に反対した。また、レーニンがヨーロッパ社会主義革命は間近だと信じているのは、経験的には実証できないことだと指摘した。
この論争を解決するために、一〇月一六日にもう一度、中央委員会の会合が開かれた。(P.74〜76)
レーニンは、ボルシェヴィキ党中央委員会が決議の通りに行動すると予想することができなかった。次の数日、彼は中央委員たちに覚書の砲弾を浴びせた。それでも中央委員会は、一〇月二〇日から二四日にかけての三回の会合に彼を出席させるのはよくないと思っていた。同僚の中央委員たちが、彼には計画を立てていくのに必要な詳しい知識と気質の安定性が欠けていると考えた、という結論を下してもよいであろう。彼らは蜂起を組織するが、彼ら自身のやり方で、ペトログラード・ソヴィエトの軍事革命委員会を通じてやりたいというのであった。武装行動は、全ロシア・ソヴィエト大会の開会と時間を合わせることになっていた。
一九一七年一〇月二四日、レーニンは熱病にかかったかのようであった。フォファノヴァは、彼のための使い走りで丸一日を過した。彼女がアパートに帰ってくる度に、彼が次に配って歩く伝言を用意していた。彼は中央委員会に、指導的な同志たちのところに合流する許可を求めた。ペトログラードの街頭の状況については、フオファノヴァからできる限りの情報を引き出した。彼が聞いた知らせは、ひどく心を高ぶらせた。市中の橋はすべて揚げられているとのことであった〔ペトログラードの主要な橋は開閉式の橋である〕。明らかに臨時政府には、戦う意志がまだいくらか残っているようであった。中央委員会はレーニンを激怒させた。「彼らを理解できない。何を恐れているのか。」
その日の夕刻、彼は中央委員にあてて手紙を書き、彼らを次のように叱責した。
遅滞はあり得ない。すべてが失われるかもしれない… 誰が権力を握らねばならないのか。これは今では重要でない。軍事革命委員会でも「それとは別の組織」でも権力を奪取させればよい。人民の利益−軍隊の利益(直ちに平和を提案すること)、農民の利益(直ちに土地を収奪し、私有財産を廃止すること)、飢えたるものの利益――を真に代表するものだけに、権力を手渡せばよいのだ。(P.77〜78)
第一八章、十月革命 一九一七年一〇月〜一二月 (P.80〜97から一部抜粋)
ケレンスキーがボルシェヴィキ党の新聞社を閉鎖し、ネヴァ河にかかる橋を揚げると、トロツキーは政府の妨害行為にたいしてソヴィエトを防衛していると主張できるようになった。軍事革命委員会は、一〇月二五日に開かれる第二回ソヴィエト大会が臨時政府の転覆を既成事実として宣言できるようにしようと懸命であった。(P.80)
午後二時三五分に学院の大ホールで、ペトログラード・ソヴィエトの緊急集会が開かれた。開会の演説をしたのは、ソヴィエト議長のトロツキーであった。異常なことであったが、会場は静まり返っていた。トロツキーの声明は歴史的であった。「ケレンスキーの政権は倒れた。閣僚の数人は逮捕された。まだ逮捕されていないものも、間もなく逮捕されるであろう。」
ペトログラード・ソヴィエトの拍手を受けながら、トロツキーは社会主義的政権が権力を握りつつあると説明を続けた。次いで彼は、他ならぬレーニンの演説があると声明した。拍手は数分間続いた。拍手が静まると、レーニンは意気高らかに演説した。
同志諸君! ボルシェヴィキは労働者と農民の革命が必要であるとここしばらく話してきたが、その革命が実現された。労働者と農民の革命の意義は何か。とりわけこのクーデタ〔perevorot〕の意義は、われわれはわれわれ自身の権力の機関としてソヴィエト政府を有しており、ブルジョワジーはまったく参加していないという事実にある。抑圧されてきた大衆が自らの権力を作り出すであろう。古い国家機構は根元から破壊され、新しい行政機構がソヴィエト組織という形式で作り出されるであろう。
レーニンは誇張していた。現実には臨時政府はまだ存続していたし、ペトログラードの闘争はまさに始まったばかりであった。しかし、それでもレーニンの権力への前進がもう一段階先に進んだのである。ボルシェヴィキ党中央委員会と軍事革命委員会の用心深さはすでに打ち破られた。ペトログラード・ソヴィエトは、社会主義を目指す権力奪取のための決定的闘争にすでにほとんど勝利したと確信していた。
左翼メンシェヴィキのニコライ・スハーノフが、レーニンの演説の途中に会場に入り、腰を抜かさんばかりに驚いた。
私が会場に入った時、壇上には頭がはげ、髭を剃った私の知らない男がいた。しかし彼は、奇妙に聞き慣れた大きなしわがれ声の喉音で話しており、文章の終りに独特の強調をおいていた……ああ、それがレーニンであった。彼はその日、四カ月の地下暮しを終えて人前に登場したのである。ボルシェヴィキ党指導者レーニンは、自分の党を掌握し、そして革命を掌握していた。
今や権力を既成事実として、ソヴィエト大会に提供することができた。メンシェヴィキと社会革命党は臨時政府が打倒されたことに反対するであろうが、彼らには事態を逆転させる力はなかった。それが先ず第一の、しかし今では忘れてもかまわない心配事であった。第二の心配もあまり大したものではなくなっていた。それは――特にレーニンが恐れていたことであったが――、メンシェヴィキ、社会革命党そのものが臨時政府に敵対し、ケレンスキーの罷免を要求するという可能性であった。憲法制定議会までのつなぎとして召集されたいわゆる予備議会は、一〇月二四日に彼にたいする不信任を採決し、東部戦線で直ちに講和を締結すること、富農の土地財産を農民に分配することを要求していた。レーニンには、メンシェヴィキ、社会革命党と権力を共有する意図はなかった。彼は狡猾にも、蜂起が始まる前にはボルシェヴィキ党中央委員会にこの点を詳しく説明するのを避けていた。もし説明していたら、中央委員会はおそらく武装行動をまったく支持しなかったであろう。
したがって一〇月二四日〜二五日の彼にとって、メンシェヴィキと社会革命党から距離をおいておくことが優先的な課題であった。そして次の政権樹立に当ってはボルシェヴィキ党が支配的な役割を果せるような状況を作り出そうと努めていた。したがって、一刻の遅滞もなく権力を奪取しなければならなかった。
レーニンは、自分の政権を確立するには多くのことをしなければならないのを知っていた。ボルシェヴィキにたいして忠誠を誓った戦艦オーロラは、ネヴァ河を冬宮のところまで溯航してきた。国立銀行、郵便・電報局、鉄道の終着駅等は、蜂起軍が占領していた。ケレンスキーは冬宮の周りの非常線を突破して脱走し、首都の外にいる軍隊を結集しようとしていた。(P.81〜83)
午後一〇時三五分、大会の主催者はもう待ち切れなかった。ソヴィエト中央執行委員会を代表してフョードル・ダンが会場のベルを鳴らし、議事を開始することになった。総勢六七〇人の代議員がいた。三〇〇人のボルシェヴィキは最大グループであった。しかし多数を制するには他党の代議員に頼らねばならない。幸い、頼れるものは手近に大勢いた。社会革命党の左翼はすでに別の政党を結成することを決定しており、この新しい政党は――ボルシェヴィキ党と同じく――土地を農民に移譲することを望んでいた。他に政党には全然属していないが、ソヴィエトを基盤にした政府を望んでいる数十人の代議員がいた。他にレーニンが希望していたのは、メンシェヴィキと社会革命党が前夜の事件に憤慨して大会から退席することであった。彼はこの目的のために力を注いだ。その日一日中、公開の場に出たり、公的な宣言に署名したりしないで、静かにそれをやろうとした。彼は大会の開会の行事にも出席しなかった。レーニンでなくてむしろトロツキーが、ボルシェヴィキ党と左翼社会革命党のグループを率いていた。(P.84)
もちろんレーニンは、真の意味の農民の擁護者ではなかった。彼は、農民は土地を入手すれば間もなく資本主義市場経済の枠内で互いに競争を始めるだろう、そして、やがてはソヴィエト政府は「農村プロレタリアート」の側に介入して土地を国有化できるだろうと考えていた。つまり彼の究極の目標は、今も社会主義的集団農場を作ることであった。
彼は、十月革命をいわゆる民主主義的同意なるものによって左右させる意図はなかった。スモルヌイ学院での最初の数日に、彼はスヴェルドロフとその他の党中央委員を威しつけて、憲法制定議会のための選挙の延期を発表させようとした。スヴェルドロフはそれでも拒否した。ボルシェヴィキはそれまで、予定通り憲法制定議会を召集すると信頼できるのは自分たちだけだと言ってきた。直ちにその選挙を延期できるものではなかった。レーニンの民主主義にたいする冷笑的な態度は、少なくともはじめのうちは拒絶された。
ソヴィエト政府にたいする抵抗は容赦なく粉砕しなければならないというレーニンの要請は、ボルシェヴィキ党中央委員会ではそれ程の論議を呼ばなかった。ケレンスキーが結集したコサック部隊に対抗するために、兵士が派遣された。軍事革命委員会の部隊が、今も市中のパトロールを続けていた。さらに一〇月二七日、レーニンの署名つきで新聞についての布告が出た。それは、検閲を可能にする最初の政府の指令であった。ソヴナルコムにたいする抵抗を教唆する「新聞機関紙」はすべて閉鎖されるというのである。現実に新聞は、「事実についての明白に中傷的な歪曲によって混乱の種」をまいたと思われれば、簡単に発行停止にすることができた。ボルシェヴィキは、十月革命前の数カ月には「新聞の自由」の原理を要求して運動したが、革命後には遅滞なく公共通信のメディアを通じて入手される情報の独占権を握った。布告は、ソヴナルコムはそれを一時的な措置と見なすと言ってはいた。しかしレーニンが本当にこの一時的というのを信じていたのかどうか、ここでも疑わしい。一九一七年には彼は繰り返し、「新聞の自由」はブルジョワジーの術中に陥りかねない原則だと言った。彼がこの前提を革命闘争の只中で変更したとは思えない。(P.91〜92)
6、マーティン・メイリア『ソヴィエトの悲劇・上』「主役はプロレタリアート? それとも党?」 (P.178〜195から一部抜粋)
〔小目次〕
1、はじめに (一部のみ抜粋)
2、第三節、主役はプロレタリアート? それとも党? (P.178〜195から一部抜粋)
3、著者略歴
(宮地注)、これは、マーティン・メイリア著『ソヴィエトの悲劇・上下−ロシアにおける社会主義の歴史、1917〜1991・上』(草思社、1997年)の「第三章、十月革命への道(一九一七年)」「第三節、主役はプロレタリアート? それとも党?」からの一部抜粋である。原著は、1994年に出版された。日本での出版は1997年で、「上下」で、845頁の大著である。
第三節だけでも、17頁ある。実は、この節全文を別ファイルとしてHPに転載したいと、草思社に申し入れた。しかし、17頁全文転載では著作権法上まずく、論文中の引用は自由との返事だった。しかし、この節の内容は示唆に富み、貴重なので、そこから飛び飛びに約7頁分を抜粋引用する。このファイルを読まれた方が、本書全体を購読されれば幸いである。
1、はじめに (P.24から一部のみ抜粋)
リベラルな亡命ロシア人歴史家たちの職場が西側諸国に増えるにつれて、次のような見方が広まった。それによれば、十月革命はプロレタリア革命ではなく、一枚岩的統制のとれたボリシェヴィキ党によるクーデターだった。こうした少数派が政権を奪取できたのは、政治的・社会的構造が脆弱だった帝政ロシアが、第一次世界大戦によって痛烈な打撃を受けたからにほかならない。それゆえ、十月革命は、ソヴィエトのマルクス主義者たちが思っていたような、ロシアの歴史的変遷の論理的帰結ではなく、この国の立憲民主制への発展を不合理に妨げた行為だった。それ以上にひどいことに、レーニンの一党独裁が必然的にスターリニズムに発展し、強制的集団化と組織的大粛清をもたらした。
2、第三節、主役はプロレタリアート? それとも党? (P.178〜195から一部抜粋)
この問題は、まるで行動を起こすのは労働者、優先されるのは党という野蛮な事実が、この広範な問題に答えてくれるはずだといわんばかりに、平凡で実証的な言葉で論じられるのが常である。たとえば、一九九一年以前の文献の大部分は、十月革命を社会史のなかに位置づけ、とりわけ、この革命が労働者と有産階級のあいだの「二極化」の産物であるとする傾向が強かった。こうした見方からすれば、ボリシェヴィキの権力掌握は、深遠な社会的変遷のいとも自然な成り行きだったように見える。だが、階級の二極化というのは、明らかにマルクス主義的分類であって、やがてくるはずのマルクス主義革命を説明する場合のひとつの解釈であると同時に大きな問題でもある。すると、何かといえばもちだされる二極化の社会学は、すでに述べたマルクス主義とレーニン主義の考え方にどのように表われているであろうか?
まず第一に、政治活動を階級的に分析するということ自体が、一九一七年当時のロシア人の生活のなかでまったくはじめてだったことに注目しなくてはならない。一九〇五年のロシア国民は、概して革命といぅものを「ブルジョアジー」と「プロレタリアート」という言葉で認識してはいなかった。むしろ(社会主義者仲間以外では)独裁政治を廃して立憲政治を求める政治闘争を推進するといった、古典的なリベラリズムの言葉で革命を論じていた。この年に好んで用いられた言葉は、「ソヴイエト政権」ではなくて、一七八九年のフランス革命時と同じ「憲法制定議会」だった。
第二に、階級の二極化は、マルクス主義社会学の分類法がみなそうであるように、たぶんに形而上学的論議のためのものである。実際、階級分析の公然の目的は、たんに世の中を理解するためではなく、人々の「意識」を刺激して革命的行動を誘発し、それによって世の中を変えることである。したがって、階級の二極化という言いまわしは活動家のもので、マルクス自身はこれをイデオロギーと呼んでいた。
第三に、政治学を社会学に還元するマルクス主義の推論は、公的生活における権力の意図的な行使を目立たなくさせる。なぜなら、社会的勢力というものは、政治組織とはちがって、舞台の上のただひとつの役者といわれているからである。これは、舞台の袖にいるイデオロギーという役者の存在を見えにくくする。おかげで、彼らの政治的意図に対して、扉は大きく開かれている。折があれば、冷酷な社会勢力という仮面を被って、容赦なくしゃしゃり出ることができるのである。そういうわけで、「すべての権力をソヴィエトへ」が、実際には「すべての権力をボリシェヴィキ党へ」という結果になった。(P.178〜180からの一部抜粋)
だが、こうした社会革命の政治的影響は明確ではなかった。一方では、四月から十月にかけて労働者の気持ちは急進的になり、「帝国主義」戦争や「資本主義」臨時政府、そして、この戦争を支持し「ブルジョアジー」と連立政権をつくっている「裏切り者的」穏健派社会主義政党(メンシェヴィキや社会革命党)に対してだんだん敵意をもつようになっていった。他方、労働者の行動主義や闘志は危険をものともせずに一七〇人ちかくの死者を出した二月革命のときがピークで、一九一七年には次第に下火になりつつあった。四月危機と七月事件に市内に動員された労働者は相当数いたが、数としては以前よりも少なかった。しかし、コルニーロフの反乱に対する国民の反応は大したことはなく、十月革命も、一般大衆の事件というよりも、少数のボリシェヴィキ幹部(カードル)とそれに同調した軍隊によって実行されたといってよい。つまり、十月に向かって、一九一七年の革命への意気込みは下火になりつつあったのである。労働者階級もロシア社会の他の構成員と同様、集団としてのまとまりを失い、絶え間ない生活苦にあえいでいた。
では、なぜ労働者階級が十月に政権の座についたのか? もちろん、実際には彼らは政権につきはしなかった。政権の座についたのはボリシェヴィキ党という政治的・イデオロギー的組織だった。このことは二つの問題を提起する。ひとつは、この党の本質と労働者との関係という、はなはだ現実的な問題。もうひとつは、状況のいかんにかかわらず、「社会的土台」と政治権力とはどのような関係があるのかという、一般論的な問題である。
第一の問題については、前章のレーニン主義を論じたところで部分的な答えをすでに出してある。レーニンが『何をなすべきか』のなかでいっている「新しいタイプの党」とは、プロレタリアを当然の社会的土台にして生まれたものを指しているのではなく、プロレタリアのイデオロギーの純粋性と前衛的な政治的役割をもった党を意味している。労働運動そのものの「自発性」から生まれたのは「労働組合的」改良主義にすぎなかったことを思いだしていただきたい。プロレタリアートは外部のインテリから「科学的革命意識」を吹き込まれてはじめて、社会主義達成のための歴史の担い手になることができる。もしも実際の労働者たちがこうした意識をもつことを拒否していたら、彼らは純粋なプロレタリアにならずに、「プチ・ブル」になっていたであろう。
レーニンにとって、社会にはブルジョアと純粋な革命的社会主義者という二つの陣営しかなかった。この二つを分ける線は、イデオロギーであって社会階級ではなかった。したがって、レーニン主義政党が代表していたのはきわめて形而上学的なプロレタリアートであって、実在のプロレタリアートではなかったのである。一九一七年に権力を掌握したのは、こうしたイデオロギー的に定義された政治的前衛部隊であって、実在の労働者階級ではない。
だが、このことから十月革命はたんなるクーデターだったと推論することはできない。政治的なかたちとしては明らかに一種のクーデターではあった。レーニン主義者たちの筋書きはむしろ、危機に乗じて政権を掌握するために、純粋な社会的不満をかきたてて、そのはけ口をつくってやることだった。そしてこの「クーデター」が歴史の論理の表出としての大衆行動であるという幻想を生みだすことでもあった。そういうわけで、共産主義の特徴は、「意識」が「自然に発生した」ように見せかけることにある。それゆえ、一九一七年当時の党は、少なくとも権力の座に駆けのぼるまでは、できるだけ長く、実在する労働者階級の支持がどうしても必要だった。党のリーダーたちもまた、党と実際の労働者とは事実上ひとつであると信じることがぜひとも必要だった。大勢の労働者たちもまた、同じように心からそう信じていた。レーニンと一九一七年の党指導部が、自分たちエリートの作戦をとりあえず民衆組織のかたちにしたところに、こうした解釈のちがいの基盤がある。(P.182〜184から一部抜粋)
一九一七年のボリシェヴィズムのこのような特徴は「民主的」といわれた。だが、この民主制度は労働者というひとつの階級に属するメンバーと党内政治にのみ存在した。そしてこの組織に浸透していたレーニン主義イデオロギーによれば、それ以外の社会の構成員や敵対政治組織はみな、たとえ他の社会主義政党であっても、「ブルジョア」あるいは「プチ・ブル」として、階級の敵とみなされた。それゆえ、正真正銘のプロレタリアートの党が権力を握ったあかつきには、そうしたカテゴリーに入る連中は排除されねばならないとされた。したがって、一九一七年の「大衆のための」ボリシェヴィキ党は、いってみれば、他の集団と権力を共有したり、交互に政権の座についたりすることを辞さないという意味での民主的なものではなかった。
こうした状況が十月の政権打倒の解釈の鍵を与えてくれる。「四月テーゼ」から秋までのあいだに、レーニンの組織は階級を土台にした「ソヴィエト」に味方して「二重権力」を終焉させよという高らかな扇動演説を通じてその影響力を浸透させていった。ボリシェヴィキは「パンを、土地を、平和をよこせ、全権力をソヴイエトに」とくり返し唱えた。レーニンと同じ社会主義の敵対者が常に指摘していたように、この活動方針は、ソヴィエトが権力を掌握しても、事実上パンや土地、平和の問題を解決できなかったという意味では、無責任かつデマゴーグ的なものだった。だが、この活動方針は革命的政治活動としては大きな意味をもっていた。ますます絶望的な状況に追い込まれ、「勤労者」のための政権奪取を求めていた労働者や兵士の怒りを結集させたからである。
だが、すでに見てきたように、「勤労者」が直接、権力を奪取したのではない。二月革命とは対照的に、党が彼らに代わってこれを行なったというのが正直なところだろう。十月革命のときには、二月のときのように五日間にわたって街頭で現実の危険をものともせずストライキを行なった何十万人もの人たちがいたわけではなかった。あの事件のように一七〇人ちかくの死者が出るというようなこともなかった。十月革命のときには街頭に労働者の姿はなく、犠牲者の数も十数人どまりだった。
それゆえ、この「世界を揺るがした十日間」は、事実上のクーデターだった。この明らかな事実を否定するために莫大な努力が払われた。それは、あまり異議を申し立てると何かを隠していることを間接的に認めることになるという真理の典型的な見本のようなものである。実際にボリシェヴィキ自身は一九二〇年代半ばまで、十月革命のことを「政権打倒」または「クーデター」を意味する「ペレヴォロート」(〔perevorot〕)と呼んでいた。それにもかかわらず、このクーデターは、世界史上に前例のない独特のかたちで世界を揺るがした。なぜなら、実在のプロレタリアートは大十月革命には参与しなかったけれども、形而上のプロレタリアートが一躍権力の座に押しだされたからである。このような政治的イデオロギーが実在したということが、世界中の実在の労働者が団結するよりもはるかに革命的であることがやがて判明する。(P.185〜186から一部抜粋)
だが、十月革命は、農村部で貴族の土地保有制度を解体し、農民を(一時的にではあるが)自主的に行動させた一九一七〜一八年にかけての農民一揆があってこそ、はじめて全国規模の革命とみなされるのではないだろうか。この農業革命はもちろん、扇動者が農民による地主の土地の奪取を呼びかけはしたが、ボリシェヴィキが命じたものでも采配を振るったものでもなかった。それなのに、この一揆をたった一度の大十月革命という神話に組み入れて、政治的にいちばん得をしたのはボリシェヴィキだった。
こうした土地没収を助長したのは左派社会革命党だった。彼らは社会革命党主流派から離脱して、十月にはボリシェヴィキの政権奪取を支持した。ボリシェヴィキこそソヴイエト政権であると思ったからである。こうしてレーニンは、ソヴイエト政権が「労農革命同盟」を代表するものと宣言することができた。社会革命党が長年唱えてきた活動計画に従って出された、土地を社会化する十月二十五日付の「土地についての布告」の本当の意図は、まさにこれだった。だが、実際には、この布告は「既成事実」をボリシェヴィキの意図として利用したにすぎない。なぜなら、政府は農村部での事の成り行きについて何ひとつ決めることができなかったからである。当時のレーニンがいっているように、ボリシェヴィキの政策は「農民の駄馬の手綱をゆるめた」にすぎなかった。
農民との「革命同盟」、および社会革命党の土地政策の流用というレーニンの政策は、十月革命が厳密な意味でのマルクス主義革命ではなく、一八七〇年代のロシアのナロードニキの伝統への逆戻りである証拠として(とりわけメンシェヴィキと社会革命党に)引用されることが多かった。これには確かに一面の真理がある。レーニンはチェルヌイシェフスキーとナロードニキの伝統をマルクス主義と結びつけようとした。だが、要(かなめ)とされたのはマルクス主義である。レーニンは、社会革命党の現実政策に従って、土地を農民の所有にするという土地の「社会化」で終わるつもりはまったくなかった。それゆえ、一九一八年二月、レーニン政権はすべての土地を国有化し、法的呼称も国家の所有物とした。ボリシェヴィキがこの措置を実施するまでには少々時間がかかったけれども、少なくとも彼らの真の意図は明示したわけである。(P.187〜188から一部抜粋)
実際、マルクス主義者はみな、プロレタリア革命のあるべき姿として一八七一年のパリ・コミューンと一八四八年のパリの六月事件という二つのモデルをあげるが、ロシアの小コミューン事件をこれらになぞらえるのはとんでもない間違いである。なぜなら、このパリの二つの事件は一部の勇敢な人たち(実際には「プロレタリア」ではないとしても)による純粋に都会的、英雄的な蜂起だったからだ。事実、十月革命には、「歴史はくり返す。一度目は悲劇として、二度目は茶番として」というマルクスの警句を当てはめたい誘惑にかられる。レーニンのペトログラードでの蜂起は、どう見ても後者に属するからだ。
(兵士)反乱−農民一揆−小コミューンという十月革命の三点セットのうち最初の二つの要素のどちらかを除外してみてほしい。すると「ペトログラード・コミューン」は、君主制下で起ころうと共和制下で起ころうと、パリ・コミューンが農民国フランスの政府軍にやられてしまったように、農民兵によって鎮圧されてしまっていたにちがいない。第一次世界大戦がなかったら、反乱も起こらなければ、普遍的階級である農民の一揆というかたちで反乱が持続されることもなかったと思われる。十月革命の現実の社会史を形成しているのは、こうしたファクターすべての相互作用であって、たんなるプロレタリアとブルジョアの二極化ではない。(P.190から一部抜粋)
そのうえ、一九一七年末から一九一八年はじめの党と労働者の部分的一致度がいちばん高かったときでさえ、そこには基本的に大きな誤解があった。確かに、十月革命のとき、労働者は「ソヴィエト」による政権を求めていた。だがそれは、すべての社会主義政党の連立政権のようなかたちのものであったと思われる。実際、多くのボリシェヴィキ・リーダーたち、とりわけカーメネフとジノヴイエフはそうしたものを求めていた。この二人が十月革命に乗り気でなく、レーニンは彼らを全面的に信用してはいなかった節があるのはそのためである。それでも、一九一八年はじめの数ヵ月間、レーニンは便宜上、左派社会革命党(エスエル)との連立政権を受諾した。だが、最初から、党指導部の大多数と、明らかに十月革命の立役者だったレーニンとトロツキーとは、党が社会主義を樹立するまではボリシェヴィキ一党体制でいくつもりでいた。(P.192から一部抜粋)
私たちが知っているロシアの労働者が十月革命に求めたものとは、「労働者による産業の管理」と「ブルジューイ」の追いだし政策だった。こうした措置によって、彼らは自分たちの社会環境を直接に自分たちの手で管理できるシステムを確立しようとしたのである。だが、労働者は「社会主義」という言葉を流行語並みに使ってはいたものの、その実態は完全な社会主義にはほど遠いものだった。そのうえ、こうした漠然とした社会主義は、三つの社会主義政党による連立政権を望ましいとする労働者の政治的支持を得てはじめて安定したものになるはずだった。
だが、ボリシェヴィキの本当の目的は、一部の「アナルコサンディカリスト〔ゼネスト、サボタージュなどの直接行動で議会制民主主義を廃し、政治の実権を労働組合の手中におさめようとする無政府主義者たち〕」の「労働者による管理」ではなく、本当の意味での「社会主義の建設」だった。社会主義の建設とは、はっきりいって何を意味するのか、党の指導部さえ一九一七年の時点ではわかっていなかった。だが、明確に要求されるものが何であったにしろ、労働者の意思や選択とは無関係だった。(P.192〜193から一部抜粋)
3、著者略歴
マーティン・メイリア Martin Malia
1924年アメリカ生まれ。44年エール大学でロシア語を学び卒業と同時に入隊。ダッチハーバーでソ連向け援助物資の輸送業務に従事。戦後はハーヴァード大学大学院でロシア史を専攻。パリのエコール・ノルマル・シュペリウールにも学ぶ。ハーヴァード大学助教授を経てカリフォルニア大学バークレイ校教授に。ロシア・東欧をしばしば訪れた。90年には「Z」という匿名で、ペレストロイカは成功しないことを立証した予言的な論文を発表、大きな反響を呼んだ。著書として『アレクサンドル・ゲルツェンとロシア社会主義の誕生』『ロシア革命を理解する』がある。
7、E・H・カー『ボリシェヴィキ革命・2』「(注解D)、鉄道にたいする労働者統制」 (全文、P.293〜296)
(宮地注)、これは、E・H・カー『ボリシェヴィキ革命』3部作の第2巻末における(注解)全文である。それは、1952年出版なので、ソ連崩壊後のデータを含んでいない。レーニンは第2回ソヴィエト大会前の権力奪取クーデターによって、一党独裁権力を意図した。しかし、クーデターによる権力奪取という既成事実の事後報告会となった第2回ソヴィエト大会は紛糾した。その様子や真相は、レーニン・ボリシェヴィキ側情報やジョン・リード『世界を揺るがした十日間』内容などの勝者の歴史以外は、敗者の歴史として抹殺されてきた。
その中で、鉄道従業員組合(ヴィグジェーリ)は、レーニンの一党独裁権力奪取クーデターに強烈に反対した。レーニンがクーデターによって獲得した一党独裁権力に固執したのにもかかわらず、なぜ左翼エスエルとの連立政権になったのかの謎を解くカギの一つが、この問題である。しかも、これは、レーニンが、ボリシェヴィキ一党独裁に反対する労働組合を分裂させる手口をクーデター直後から使ったデータともなっている。それは、資本家・経営者・資本主義国家が、戦闘的な労働組合を分裂させ、別の従業員組合という御用組合をでっち上げて、労働者同士を対立させる手口に酷似している。
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鉄道にあらわれたような「労働者統制」の問題は、二つの点で異例なものであった。
第一に、ロシアの全幹線鉄道は革命前から国有化されていたので、統制に従いながら依然として資本家的所有者によって運営されている企業にたいして労働者が実施する統制という概念はあてはまらなかった。
第二に、ロシアの労働組合のうちでもっとも大きく、もっとも緊密に組織されていた鉄道従業員組合は、肉体労働者とならんで、事務および技術労働者をふくむ点で独特のものであったから、ほかのところで「労働者」が工場を接収しようとしたときにおこったような実際的な困難は、ここではみられなかった。
これらの強みに裏付けられて、鉄道従業員は、生まれたばかりのソヴェート政府にたいし、避けることものばすこともできない正式の挑戦をおこなった。鉄道従業員組合は、十月革命当時、二人がボルシェヴィキ、二人がメジライオンツィ、そして一人が無党派ボルシェヴィキ・シンパで、他はエス・エル右派と左派、メンシェヴィキ、独立派であったといわれる、四〇人ばかりの委員からなる執行委員会(「全ロシア鉄道従業員執行委員会」すなわちヴィグジェーリ)へその業務の処理を委任した。
熟練労働者が優勢な発言権をもっていたたいていの労働組合と同様に、鉄道従業員組合も革命的であるというよりはむしろ急進的であった。十月革命当時から、ヴィグジェーリは鉄道の管理を自分の責任でひきつぎ、独立の勢力として行動した。要するに、それは「労働者統制」を実施するマンモス工場委員会の役割をはたしたのであった。それは、どんな政治的権威も、鉄道従業員の職業的利益以外のどんな利益も、みとめなかった。
挑戦は、十月革命の翌日、第二回全ロシア・ソヴェト大会の席上で、もっともあからさまな、劇的な形でおこなわれた。一九一七年一〇月二六日(一一月八日)、大会の第二会議と最終会議で、カーメネフは、全員がボルシェヴィキからなる新しい人民委員会議の名簿を読みあげたが、そのなかで交通人民委員のポストは「一時空席」としてのこされていた。議事の終りにヴィグジェーリの一代議員が発言の機会を要求したが、それは議長席からカーメネフによって拒絶された。このため「広間は騒然」となった。そして「長い交渉ののち」、代議員の陳述が承認された。そこでかれは、その日はやくヴィグジェーリによって起草されていた声明を読みあげた。
ヴィグジェーリは、「一政党による権力の奪取にたいして否定的態度」をとり、「すべての革命的民主主義の全権機関に責任をおう革命的社会主義政府」が結成されるまでは、ヴィグジェーリが鉄道を引きうけ、その後もこの政府から発せられる命令だけに服従するであろう、と声明し、万一鉄道従業員にたいする弾圧的処置をとろうとする試みがなされた場合には、ペトログラードへの補給を絶つ、と脅迫した。この一斉射撃にたいして、カーメネフは全ロシア・ソヴェート大会の最高権威を主張する形式的回答をなしえたのみであった。いま一人の鉄道従業員は、広間の中央からヴィグジェーリを「政治的な屍」と非難し、「鉄道労働者大衆はずっとまえにそれから顔をそむけている」と明言した。しかし、この発言はまだあまりに事実からへだたっていたので、大きな印象をあたええなかった。
ヴィグジェーリの態度は、普通に考えられていたような労働者統制をこえてしまった。それは、もっとも極端な形でのサンジカリズムであった。にもかかわらず、人民委員会議は無力であった。鉄道はヴィグジェーリの手中にとどまっていた。二日後、鉄道ゼネストをもって脅かす最後通牒によって、ボルシェヴィキは連立政府をつくるため他の社会主義諸政党と交渉にはいらざるをえなくなった。交渉はだらだらと長引き、レーニンとトロツキーがあまりに強い線をとっていると考えたボルシェヴィキの一グループの辞職にみちびいた。しかし、完全に行き詰まったと思われたのち、一九一七年一一月一〇日(二三日)にペトログラードでひらかれた全ロシア農民代表大会でふたたび交渉がおこなわれた。ここで、五日後、三人のエス・エル左派を人民委員会議に入れるという合意が達せられた。それはヴィグジェーリによって承認され、委員会の旧委員が交通人民委員部の空席をみたした。
ヴィグジェーリとの妥協は不安定で、連立政府よりも永続的でないことさえあきらかになった。全ロシア鉄道従業員組合大会が、意法制定議会の会議中にひらかれていて、少数差で議会への信任投票を通過させた。これは、ボルシェヴィキと政府にたいする挑戦として意図され、かつ承認されたのであった。
しかし、ボルシェヴィキはこのたびは、しっかりと足を地につけて、行動によって挑戦にこたえる用意をととのえていた。ひらの鉄道従業員は、ヴィグジェーリを支配していた穏健派よりもボルシェヴィキにより同情的であった。敗れた少数派は大会を脱退して、それ自身の対抗的鉄道従業員大会を組織した。この大会は、レーニンの長い政治演説(注1)をきいた後、二五人のボルシェヴィキ、二二人のエス・エル左派、三人の独立派からなるそれ自身の執行委員会(区別するため、ヴィグジェドールと呼ばれた)を創設した。
新しい大会とその執行委員会はただちに人民委員会議から公式に承認され、ヴィグジェドールの委員であるロゴフが交通人民委員となった。残された仕事は、新制度を実効あるものにすることであった。この目的で、いまやソヴェート政府は、鉄道職員にたいするヴィグジェーリの権威を失墜させるために、労働者統制の原則をひきつづき呼びかけた。
(注1)、レーニン『全集』、第二二巻二三六〜二四二ページ〔第二六巻、四九四−五〇七ページ〕。大会は、一九一八年一月に、第一回全ロシア労働組合大会と同時に開催された。しかし、この二つの大会のあいだにはなんの関係もなかったようである。そして、両者の相対的な力と重要性については、レーニン自身鉄道従業員大会で時間をさいてあいさつしたのに、労働組合大会には党を代表して演説するためジノヴィエフを派遣したことから判断できる。
おそらく、それまでのソヴェト立法のなかでもっとも露骨なサンジカリスト的措置であったと思われる一九一八年一月一〇日(二三日)の規則が、各鉄道線の管理をその線の鉄道従業員によって選挙されたソヴェートに委任し、ロシアの全鉄道にたいする全般的統制を全ロシア鉄道従業員代表大会に委任した。下からうちたてられたこの新組織は、有能ではあるが敵意あるヴィグジェーリを破壊するのに役立ち、未知数ではあるが友好的なヴィグジェドールにとってかわるのに役立った。しかし、それは、ロシアの鉄道運行のための効果的な道具にならなかったし、またなりえなかった。
プレスト=リトフスクの危機が去って、国内組織の問題にもどることがもう一度可能になり緊要となったとき、ソヴェト政府はようやくこの問題にとりかかった。労働人民委員から全ロシア中央執行委員会にあてた一報告書には、ロシアの鉄道の「混乱と退廃」が雄弁にかつ詳しく述べられていた。これは、交通人民委員に「鉄道運輸にかんする事項について独裁的権力」を付与した一九一八年三月二六日付人民委員会議布告の前奏曲であった。全ロシア鉄道従業員大会の機能は、人民委員部参与会員の選挙にはっきりと限定された。これらの選挙は人民委員会議と全ロシア中央執行委員会の確認を得なければならず、参与会の権限は人民委員に反対して上記二機関に訴えることだけに限定された。この布告は、思い切ったもののようにみえるけれども、困難なく守られ、正当化された。
レーニンは全ロシア中央執行委員会でこう述べた。「わたくしが幾多の苦情を耳にするとき、国内に飢えがあるとき、これらの苦情が正しいものであり、わが国には穀物はあるが、それを輸送することができないという事実がはっきりわかっているとき、われわれの鉄道令といったような措置にたいして、われわれが共産党左派から嘲笑と反駁をうけているとき、」――ここでかれは侮蔑の身ぶりをしめしつつ演説を中断してしまった。鉄道はロシア工業の縮図であった。それは、レーニンがのちに述べたように、経済状態の「かぎ」であった。それを処理するためにとられた政策は、工業政策全体の原型であった。労働者統制はひきつづいて二つの目的に役立った。それは革命に敵意をもっていた古い秩序を粉砕した。そして、労働者統制がその論理的帰結にまで追いつめられたとき、それは矛盾の可能性を越えて、より厳格でより中央集権化された新しい統制形態の必要を論証した。(P.293〜296)
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