共産主義黒書−犯罪・テロル・抑圧−〈ソ連篇〉
第2章 プロレタリア独裁の武装せる腕(かいな)(抜粋)
ニコラ・ヴェルト
(注)、『共産主義黒書』(恵雅堂出版、2001年11月)は、ソ連崩壊6年後の1997年にフランスで出版され、大きな反響を呼びました。ニコラ・ヴェルトは、フランスの歴史学教授資格者、現代史研究所研究員・ソ連史専攻で、訳者は、外川継男上智大学外国語学部教授です。私(宮地)は、『労働者』ファイル(2)で、本書の労働者ストライキ・データを多数引用しました。そして、出版社に、第2章の全文をぜひHPで転載・紹介したいと依頼しましたが、全体15章334ページがあっても、目下、好評発売中なので、2章全体の転載は無理とのことでした。出版社からは、「第2章の部分転載、抜粋引用」という形式でのHP転載の了解をいただきました。
以下は、『共産主義黒書・第2章』(P.62〜78)にある、12の「小見出し」の内、〔目次〕のように、全文転載と一部抜粋、全部省略とを合わせたものです。「小見出し」番号は、私(宮地)がつけたものです。データ出典に関する多数の(注)がありますが、省略しました。訳者解題の抜粋における第一章から第三章解題全文によって、15章中、3章全体の概要が把握できると思います。また、中野徹三『「共産主義黒書」を読む』は、翻訳・出版前のドイツ語版に基づいて『共産主義黒書』全体の紹介をしています。このような抜粋内容を契機として、本書に興味を持たれた方が、著書全体を購読されるようになれば幸いです。
〔目次〕
1、プロレタリア独裁の武装せる腕 (全文)
2、人民の敵 (全文)
3、チェーカー創設 (全部省略) 『赤色テロル』ファイルで(全文引用)
4、いたる所にはびこる暴力 (中略)
5、無数の残虐行為 (中略)
6、膨張する組織 (全文)
7、労働者蜂起の脅威 (全部省略) 『労働者』ファイル(2)参照
8、選挙で敗北 (全部省略) 『労働者』ファイル(1)参照
9、独裁の強化 (全文)
10、多発する農民反乱 (全部省略) 『農民』ファイル(1、2)参照
11、反対派掌握のソビエトを武力で解散 (中略)
12、第一回全ロシア・チェーカー会議 (全文)
訳者解題 『ニコラ・ヴェルトの「人民に敵対する国家」について』
(抜粋、および第一章から第三章解題全文)
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「赤色テロル」型社会主義とレーニンが殺した「自国民」の推計 (宮地作成)
「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構
「反乱」農民への『裁判なし射殺』『毒ガス使用』指令と「労農同盟」論の虚実
「聖職者全員銃殺型社会主義とレーニンの革命倫理」 (宮地作成)
「反ソヴェト」知識人の大量追放『作戦』とレーニンの党派性 (宮地作成)
ヴォルコゴーノフ『テロルという名のギロチン』『レーニンの秘密・上』の抜粋
スタインベルグ 『ボリシェヴィキのテロルとジェルジンスキー』
ニコラ・ヴェルト 『ソ連における弾圧体制の犠牲者』
中野徹三 『「共産主義黒書」を読む』
第2章 プロレタリア独裁の武装せる腕(かいな)
1、プロレタリア独裁の武装せる腕 (全文)
新しい権力は次のような複合的な構造物として出現した。ひとつには形式的に中央執行委員会に代表される「ソビエト権力」という正面であり、ついで国内外に合法性を承認してもらうために努力している人民委員会議であり、さらにペトログラード軍事革命委員会(ПВРК)という権力獲得装置を中心とした軍事作戦機構である革命組織である。この委員会の特徴について、最初から決定的役割を演じたフェリクス・ジェルジンスキーは次のように言っている。「これはこまかい法律尊重主義とは無縁の、ただちに軍事作戦を遂行できる、軽装備の俊敏な機構である。そこにはプロレタリア独裁の武装せる腕で敵を叩き、行動するためにいかなる制限もない。」
このジェルジンスキーによって「プロレタリア独裁の武装せる腕」と表現され、のちにチェーカーと呼ばれるボリシェヴィキの政治警察を、新政権は最初の日からどのように働かせようとしたのだろうか? 単純で、手っ取り早いやり方によってである。軍事革命委員会は六〇人のメンバーからなっていたが、そのうち四八人はボリシェヴィキで、あとは何人かの左派社会革命党員とアナキストだった。それは形式的にはアントーノフ‐オフセエンコとジェルジンスキーを含む四人のボリシェヴィキが補佐する、左派社会革命党員のラズィミールを「議長」とする指導部の下にあった。しかし、実際にはその存在の五三日間を通じて、二〇人ほどの人間が指導し、軍事革命委員会の名で出された約六〇〇〇の命令書は、たいてい彼らが紙の切れ端に鉛筆でなぐり書きして、そこに「議長」や「書記」の名で署名したものだった。
指令の伝達や命令の実施も「軍事作戦的単純さ」で行なわれた。軍事革命委員会はおよそ一〇〇〇人の「委員」の組織網を介して行動した。これらの委員は部隊、ソビエト、地区委員会、行政機関など様々な組織に向けて任命された。委員は軍事革命委員会にだけ責任があって、しばしば政府やボリシェヴィキの中央委員会の承認なしに対策を講じた。十月二十六日(十一月八日)から政府を組閣するボリシェヴィキのすべての主立った指導者が不在だったところから、誰ともわからぬ無名の「委員」たちが、次のような対策で「プロレタリアの独裁」を強化することに決した。「反革命的」ビラの禁止、「ブルジョワ的」なのと「穏健派社会主義的」な首都の主な七新聞の廃止、放送局と電報局の管理、個人のアパートと自動車の徴発計画の策定である。新聞の廃止は二日あとに政府の布告で法律として決まった。そして一週間あとには十分な討議もなしにソビエトの中央執行委員会によって承認された。
当初、自分たちの力に自信のなかったボリシェヴィキの指導者たちは、一九一七年を通じて効果をあげた戦術にならって、「大衆の革命的自発性」と呼んでいたものを奨励した。プスコフ県の農村ソビエトが代表を送って軍事革命委員会に「アナーキーを回避する」手段について問い合わせた時、ジェルジンスキーは「目下のなすべき仕事は旧秩序を破壊することである。我々ボリシェヴィキには、この歴史的仕事を遂行するためには十分な人数がいない。自らの解放のために戦っている大衆の革命的自発性のおもむくままにしておかなければならない。第二の時期になったら、我々ボリシェヴィキが大衆に進むべき道を示すだろう。軍事革命委員会を通じて大衆は、自分たちの階級の敵、人民の敵に反対して、語り、行動している。我々は抑圧者に対する抑圧された者の憎悪と合法的な復讐心に道をつけ、指導するだけのために存在するのだ。」
2、人民の敵 (全文)
それより数日後の十月二十九日(十一月十一日)の軍事革命委員会の会合において、誰だか不明だが出席していた何人かの代表が、「人民の敵」に対する闘争を一層はげしくする必要を喚起した。これは十一月十三日(十一月二十六日)に軍事革命委員会の声明の中で再確認され、数カ月、数年、数十年後には大成功をおさめる表現となった。「国家、銀行、国庫、鉄道、郵便、電信の高級役人はボリシェヴィキ政府の施策を妨害している。今後、これらの人間は人民の敵と宣言される。彼らの名はすべての新聞に発表され、人民の敵の名簿はすべての公共の場所に掲示される。」 この追放者リストの制度ができた数日後には新しい声明が出された。「サボタージュ、投機、買い占めの嫌疑のあるすべての者は、人民の敵としてただちに逮捕され、クロンシュタットの監獄に移送される。」
数日後、軍事革命委員会は「人民の敵」と「嫌疑」という、とくに恐ろしい二つの概念を導入した。
十一月二十八日(十二月十一日)、政府は「人民の敵」の概念を制度化した。レーニンが署名した布告は次のように明記している。「人民の敵の政党である立憲民主党の指導部のメンバーは法律外に置かれ、ただちに逮捕されて革命裁判所に召喚されなければならない。」 これらの裁判所は「裁判所に関する布告第一号」によってできたばかりだった。この布告の文言によれば、「労農政府および社会民主党と社会革命党の綱領に反する」すべての法律は廃止された。新刑法が作成されるまで、裁判官は好きなように解釈できる漠然とした概念である「革命的秩序および合法則性」に応じて、現存の法制度の有効性を自分の裁量で決めることができた。旧制度の裁判所は廃止され、人民裁判所と革命裁判所がこれにとって代わった。これらは「反プロレタリア国家的」犯罪と軽犯罪、「サボタージュ〔妨害行為〕」、「スパイ」、「職権乱用」と、その他の「反革命的犯罪」とを管轄権限とした。一九一八〜一九二八年間の司法人民委員だったクールスキーが認めているように、これらの裁判所は言葉の「ブルジョワ的」意味で普通の裁判所ではなかった。それは反革命分子を裁くより、根だやしにすることに専念した、反革命とたたかう機関であり、プロレタリア独裁の裁判所であった。革命裁判所の中には「誤ったニュースを故意に流して人心を惑わす」すべての出版物を差し止め、新聞・雑誌の違法行為を裁くことを担当する「定期刊行物裁判所」もあった。
前代未聞のカテゴリー(「嫌疑」、「人民の敵」)を生み出し、新しい司法体制を設置する一方で、ペトログラードの軍事革命委員会は自らの組織を整備し続けた。小麦粉のストックが一日の配給量−成人一人当たりパン半フント〔約二〇〇グラム〕−にも満たない町で、どうして食糧を調達するかということは、もとよりきわめて重要な問題であった。
十一月四日(十七日)、調達委員会が設置された。その最初の声明は「貧困を利用する富裕階級」を糾弾し、「いまや金持ちの剰余品を徴発し、彼らの財産を徴発する時である」と断言した。十一月十一日(二十四日)、調達委員会は兵士、水夫、労働者および赤衛軍からなる特別分遣隊を「最低必要限度の食糧をペトログラードと前線に確保する」ために穀物生産諸県にただちに送ることを決めた。ペトログラード軍事革命委員会の一委員会が決めたこの「調達軍」の分遣隊による徴発という処置は、およそ三年間にわたって行なわれる政策の先駆けとなった。それはまた新権力と農民の間に暴力とテロルを生み、両者の対決の基本的ファクターとなった。
十一月十日(二十三日)につくられた軍事調査委員会は、多くの場合兵士によって告発された「反革命」的将校や「ブルジョワ」党員や「サボタージュ」の嫌疑ある官吏を逮捕する任務を帯びていた。だが、この委員会にはすぐに様々な任務が付託された。赤衛軍の分遣隊や即席の民警が誰か「コミサール」の署名したあやふやな令状を口実にして革命の名において捜索し、金品を強奪し、掠奪をはたらく、飢えた町の混乱の中で、毎日のように何百という人間が強盗、「投機」、日常必需品の「独占」だけでなく、「酩酊状態」や「敵対階級所属」などといった様々な犯罪によって委員会に出頭させられた。
ボリシェヴィキの大衆の革命的自発性の呼び掛けは、実施する段になると複雑微妙な武器であった。暴力による復讐や暴行事件が増加した。とりわけアルコールを販売している商店や冬宮の穴蔵が武器をもった強盗に襲われた。このような現象が日増しに増えていったので、軍事革命委員会はジェルジンスキーの提案で酔っ払いと無秩序を取り締まる委員会の創設を決定した。十二月六日(十九日)、この委員会はペトログラード市に戒厳令を発布し、「自称革命家を装う不審人物によって起こされた混乱と無秩序を終わらせるために」夜間外出禁止令を発令した。
3、チェーカー創設 (全部省略)
『赤色テロル』ファイルで、(全文引用)
4、いたる所にはびこる暴力 (中略)
ソビエト秘密警察創設のこのテキストを見るとただちに疑問が生ずる。ジェルジンスキーのあの攻撃的な演説とチェーカーに与えられた権限の比較的穏やかな調子との間の不一致はどう説明したらいいのだろうか? ボリシェヴィキは自分たちが少数派だった憲法制定会議の開催を目前にして、社会革命党左派(その指導部の六人が十二月十二日に政府に参加した)とまさに協定を結ぼうとしていた。彼らはまた消極的な政策をとった。政府が十二月七日(二十日)にきめた決議とは反対に、チェーカーの創設とその権能をさだめたいかなる政令も公布されなかった。「非常」委員会であるチェーカーは、いかなる法的根拠もなしに発展し、行動していった。レーニン同様、自由に行動ができることを欲したジェルジンスキーは驚くべき発言をしている。「チェーカーにとるべき道を命ずるのは生そのものである。」 生とはボリシェヴィキの指導部の大部分が自分たちの人民の自発性に対するそれまでの深い蔑みを一時忘れて、当時奨励していた「大衆の革命的テロル」であり、街頭の暴力にほかならなかった。
十二月一目(十四日)軍事人民委員のトロツキーは、兵士中央執行委員会代表を前にして次のように警告した。「フランス大革命の時のように、テロルは一カ月以内に猛烈なものになるだろう。我々の敵に準備されているのはもはや牢獄だけではなく、フランス大革命の時に首を切るのに効率的だと認められたあのすばらしい発明品であるギロチンであろう。」
数週間後、レーニンは労働者の集会で演説し、またしても「階級の革命的裁き」であるテロルを呼びかけた。
「ソビエト権力はすべてのプロレタリア革命がなさねばならないように行動した。それは支配階級の道具であるブルジョワ的裁判をきっぱりと断ち切った……兵士と労働者はもし自分たち自身が助け合わないなら、誰一人助けてくれないということを理解すべきである。もし大衆が自発的に立ち上がらなければ、我々は何一つなしとげられないだろう……もし投機を行なう者に対してテロを実行しないなら―ただちに頭に弾丸を撃ち込まないなら―我々は何一つやりとげないで終わろう。」
(中略)
5、無数の残虐行為 (中略)
一九一七年の終わりと一九一八年の初めには、新政権を脅かすいかなる反対勢力もなかった。新しい政権はボリシェヴィキのクーデターの一カ月後には、ヴォルガ中流にいたる中・北部ロシアの大部分のみか、カフカス(バクー)と中央アジア(タシケント)のいくつかの市街化地帯を支配した。たしかにウクライナとフィンランドは独立して分離したが、それでもボリシェヴィキ政権に敵対的意図は示していなかった。唯一の反ボリシェヴィキ武装組織は、アレクセーエフ将軍とコルニーロフ将軍指揮下に南ロシアにつくられた、将来の白衛軍の萌芽である約三〇〇〇の小さな「義勇軍」だけだった。この帝政時代の二将軍はすべての望みをドンとクバンのコサックにかけていた。コサックは他のロシア農民とは大きく違っていた。旧体制にあっては、彼らの主たる特権というのは、三六歳まで軍役奉仕をするかわりに三〇ヘクタールの土地をもらうことだった。たとえそれ以上の土地を望まないとしても、彼らはいま持っている土地を保持することを望んでいた。なによりも自分たちの身分と独立を守ることを願っていたコサックは、クラーク〔富農〕を糾弾するボリシェヴィキの声明を聞いて、一九一八年の春には反ボリシェヴィキ勢力に加担することになった。
国内戦について語るとすれば、まず初めに一九一七年冬から一九一八年春にかけて南ロシアで開始された最初の戦闘について述べるべきだろう。これは数千の義勇軍とシーヴェルス将軍の指揮する六〇〇〇そこそこのボリシェヴィキ軍の間でたたかわれた。一見して驚くことは、交戦した兵力の少ないのとは対照的に、捕虜だけでなく市民にも向けられたボリシェヴィキの弾圧の前代未聞の暴行のすさまじさである。
(中略)
ボリシェヴィキの指導者たちは、人民大衆の中のこのような「社会的復讐」を補強するかもしれないすべてを奨励した。それは密告やテロやレーニンの言葉を借りるなら「正義の」国内戦という道徳的認知をへてなされる復讐だった。一九一七年十二月十五日(二十八日)ジェルジンスキーは『イズヴェスチア』に「すべてのソビエト」がチェーカーを組織するようにとのアピールを出した。結果はおどろくほどの数の「委員会」や「別働隊」や、その他の「非常機関」が生まれた。そのため数カ月後に中央の当局が「大衆のイニシアチブ」に終止符を打ち、チェーカーの中央集権化された組織網をつくることを決定した時、建て直しのために責任をとるのがきわめて困難であった。
6、膨張する組織 (全文)
その存在の最初の六カ月を特徴づけて一九一八年七月にジェルジンスキーはこう書いている。「それは即興と手探りの時期だった。その期間我々の組織は必ずしも情況を把握してはいなかった。」 それにもかかわらず自由を抑圧する機関としてのチェーカーの行動の規模は、この時点ですでに巨大なものであった。一九一七年の十二月にはわずか一〇〇人はどの小さな機関だったのが、六カ月で総員数が一二〇倍にも増加したのだ!
たしかにこの機関の最初は地味なものだった。一九一八年一月十一日にジェルジンスキーはレーニンに書き送った。「すでに多大の助力がなされたにもかかわらず、情況は困難。資金はまったくなし。パンも砂糖もお茶もバターもチーズもなしに夜も日も働いている。妥当な配給のための処置をとってくれるか、我々自身でブルジョワから徴発することを許可されたい。」 ジェルジンスキーは一〇〇人ほどの職員を採用していたが、その大部分は昔の非合法活動時代の同志で、ポーランド人やバルト人だった。彼らはほとんどみな以前ペトログラードの軍事革命委員会で働いていた連中で、その後二〇年代にはゲーペーウーの、三〇年代にはNKVDの幹部になった。ラツィス、メンジンスキー、メッシング、モローズ、ペーテルス、トリリッセル、ウンシュリヒト、ヤゴーダである。
チェーカーが最初にやったのはペトログラードの公務員のストライキを粉砕することだった。そのやりかたは迅速だった。「リーダー」の逮捕であり、その根拠は単純に「人民とともに働くことを欲しない者は、人民とともにいる場所をもたない。」 ジェルジンスキーは憲法制定会議に選出された何人かの社会革命党員とメンシェヴィキの議員を逮捕させた時こう断言した。この恣意的な行動は数日前入閣した社会革命党左派の司法人民委員シュテインベルグによってつよく非難された。このチェーカーと司法当局の間の最初のトラブルは政治警察の超法規的地位について根本的な疑問を投げかけた。
「司法人民委員部がなんの役に立つというのです?」 と、この時シュテインベルグはレーニンに言ったと書いている。「社会的皆殺し人民委員部と呼べば、それでこの件はもう落着でしょう。」 「すばらしい考えだ! とレーニンは答えた。まさにわたしはそう考えている。しかし残念にも、そう呼ぶことができないのだ!」
もちろんレーニンは、チェーカーが司法当局にきちんと従うように要求するシュテインベルグより、「旧体制の古い学派の些末的法律尊重主義」に断固抗議するジェルジンスキーの方に軍配をあげたのだった。チェーカーは政府に対してのみその行動の責任をとるべきであった。
7、労働者蜂起の脅威 (全部省略)
8、選挙で敗北 (全部省略)
9、独裁の強化 (全文)
この情況に直面したボリシェヴィキ政府は、経済面と政治面でその独裁を強化した。経済的流通のサークルは、同時にその流通手段の段階で断ち切られた。交通事情、とりわけ鉄道の劇的な悪化と、工業製品の欠乏から農民が販売意欲を失ってしまったことが原因だった。それゆえ、「プロレタリアート」の権力基盤である軍隊と都市に食糧の供給を確保することが死活問題となった。ボリシェヴィキには二つの選択肢があった。崩壊した経済の中で疑似市場を再建するか、あるいは強制を用いるかである。彼らは「旧体制」打倒の闘争の中で前進する必要があるとの論拠から第二の方策を選んだ。
一九一八年四月二十九日、全露中央執行委員会の演説でレーニンは単刀直入に言った。「我々プロレタリアが地主と資本家を打倒することが問題になった時、小地主と小有産階級はたしかに我々の側にいた。しかしいまや我々の道は違う。小地主は組織を恐れ、規律を恐れている。これら小地主、小有産階級に対する容赦のない、断固たる戦いの時がきたのだ。」 数日後、食糧人民要員は同じ集会で言明した。「わたしは断言する。ここで問題になっているのは戦争なのだ。我々が穀物を入手できるのは銃によるのみだ。」 そこでトロツキーがさらに輪をかけて言った。「我々の党は内戦のためにある。内戦とはパンのための戦いなのだ……内戦万歳!」
もう一人のボリシェヴィキの指導者カール・ラデックが一九二一年に書いた文を最後に引用しよう。彼は一九一八年春のボリシェヴィキの政策、すなわちその後二年間にわたって行なわれた赤軍と白軍の戦いへとつながる軍事的対決の発展の数カ月前の政策について、次のように解明している。「農民はちょうど土地を手に入れたところだった。彼らは前線から家に帰ったばかりだった。彼らは武器を持っていた。彼らの国家に対する態度は一言でいえば、こんな風だ。国家なんて何の役に立つのだ? 彼らはそんなものを必要としていないのだ! もし我々が現物で税を徴収しようと決めたとしても、うまくいかなかっただろう。なぜなら我々には国家機構というものがなかったからだ。旧体制は壊され、農民は強制されずには我々に何ひとつ出さなかったことだろう。一九一八年初めの我々の義務は単純だった。我々に必要なことは農民に次の二つの基本的なことを理解させることだった。国家は自らの必要のために農産物の一部に対して権利があるということ、そしてその権利を行使するための武力を持っているということである!」
10、多発する農民反乱 (全部省略)
『農民』ファイル(1、2)参照
11、反対派掌握のソビエトを武力で解散 (中略)
政治面では一九一八年春の独裁の強化はすべての非ボリシェヴィキ系新聞の最終的発禁、非ボリシェヴィキ系ソビエトの解散、反対派の逮捕、多くのストライキの粗暴な抑圧となって表れた。一九一八年の五〜六月には、二〇五の社会主義的反対派の新聞が完全に発行禁止になった。メンシェヴィキや社会革命党が多数派だったカルーガ、トヴェーリ、ヤロスラーヴリ、リャザン、コストロマ、カザン、サラートフ、ペンザ、タンボフ、ヴォロネジ、オリョール、ヴォログダのソビエトは、武力で解散させられた。弾圧はどこでもほとんど同じやり方で行なわれた。反対派が選挙で勝って、新しいソビエトがつくられると、その数日後に土地のボリシェヴィキは軍隊の応援を頼むが、それはたいていチェーカーの分遣隊だった。ついで戒厳令を出して、反対派を逮捕したのである。
(中略)
反対派の掌握したソビエトを解散し、一九一八年六月十四日にソビエトの全露執行委員会からメンシェヴィキと社会革命党員を排除したことで、多くの工業都市において抗議、デモ、ストライキが起こった。一方、そこでの食料事情はますます悪化していった。ペトログラード近くのコルピノにおいて、あるチェーカーの分遣隊長は労働者の食料要求デモに発砲を命じたが、彼らの配給食糧は一カ月小麦粉二フント〔〇・八キロ〕まで落ち込んでいた! その結果、十人の死者がでた。同日、エカチェリンブルク近郊のべレゾフスキー工場では赤衛軍によって十五人が殺されたが、彼らは「ボリシェヴィキの委員たち」が、町でいちばんよい家々を占拠した上に、土地のブルジョワジーから取り立てた一五〇ルーブルを横領したことに抗議の集会を開いたからだった。翌日には地区当局はこの工業都市に戒厳令を宣言し、モスクワの判断も仰ぐことなしに土地のチェーカーによって十四人が即座に銃殺された!
一九一八年の五月後半と六月にはソルモヴォ、ヤロスラーヴリ、トゥーラや、ウラルの工業都市のニジニ‐タギール、ベロレツク、ズラトウスト、エカチェリンブルクなどで多くの労働者のデモが流血の中で鎮圧された。運動の抑圧において土地のチェーカーの役割がますます強くなったことは「コミッサロクラシー〔委員官僚制〕」に奉仕する「新オフラナ(帝政時代の政治警察)」という言葉やスローガンが労働者間で使われる頻度が多くなったことでも証明される。
12、第一回全ロシア・チェーカー会議 (全文)
一九一八年六月八日から十一日にかけてジェルジンスキーは第一回全ロシア・チェーカー会議を開催し、そこに四三地区、約一万二〇〇〇の代表一〇〇人ほどが出席した。このチェーカーのメンバー数は一九一八年の末には約四万に、そして一九二一年初めには二八万人以上に増加した。何人かのボリシェヴィキが「ソビエト以上」「党以上」とさえ言ったこの会議は「ソビエト・ロシアの行政当局の最高機関として共和国全土に反革命に対する闘いの重荷を引き受ける」ことを宣言した。この会議のあとで採用された理想的構図は一九一八年六月から政治警察に割り当てられた広範な活動領域を示している。注目すべきことは、これが一九一八年夏の「反革命的」蜂起の大波が襲う前だったということである。ルビヤンカの本店にならって各地方のチェーカーはできるだけ速やかに以下のような部と課を組織しなければならないとされた。「(一)情報部・課‥赤軍、君主制派、カデット(立憲民主党)、エス‐エル右派とメンシェヴィキ、アナキストと共同権派、ブルジョワジーと教会関係者、労働組合と労働者委員会、外国人居留者。これらすべてのカテゴリーについて担当する課は疑わしい者のリストを作成しなければならなかった。(二)反革命闘争部・課‥赤軍、君主制派、カデット、エス‐エル右派とメンシェヴィキ、アナキスト、サンディカリスト、少数民族、外国人、アルコール中毒、ポグロムと公安、報道関係。(三)投機および公権力乱用闘争部。(四)運輸、道路および港湾部。(五)チェーカーの特別部隊を管理する作戦部。」
この全ロシア・チェーカー会議が終わる二日前に、政府は死刑を法的に復活させることを布告した。死刑は一九一七年の二月革命のあと廃止されていたが、一九一七年七月にケレンスキーが復活した。しかしこれが実施されたのは軍法下にあった前線だけであった。一九一七年十月二十六日(十一月八日)の第二回ソビエト大会で採択されたひとつは、この死刑の廃止だった。この決定はレーニンを激怒させた。「これは間違いだ。許すことのできない弱気だ。平和主義的幻想だ!」 レーニンとジェルジンスキーは死刑の復活がチェーカーのような超法規的機関によって「こまごました遵法」など抜きにして執行されるようになるだろうということは百も承知の上で、その法的復活を粘り強くはかった。革命裁判所において最初に死刑の判決が下されたのは、「反革命」罪のシチャストヌイ提督に対してで、彼は一九一八年六月二十一日に「合法的に」銃殺された。
六月二十日、ペトログラードのボリシェヴィキの指導者の一人であるX・ヴォロダルスキーがエス‐エルの活動家によって殺された。この暗殺は古都を一時期ひどい緊張状態に陥れた。その前数週間というもの、ボリシェヴィキと労働者の関係は悪化し続けていた。一九一八年五〜六月、ペトログラードのチェーカーは七〇の「事件」―ストライキ、反ボリシェヴィキ集会、デモ―について報告した。彼らの主力は一九一七年とそれ以前において、最も熱烈にボリシェヴィキを支持していた労働運動の砦たる金属労働者であった。彼らのストライキに対して当局は国営化された大工場をロックアウトすることで応えたが、このやり方はその後何カ月かの間労働者の抵抗を打ち破る常套手段となった。ヴォロダルスキー暗殺のあと、ペトログラードの労働界はかつてない連続逮捕に見舞われた。ペトログラード・ソビエトに対抗する労働者の真の反権力組織としてペトログラードにできた大部分がメンシェヴィキからなる「労働者全権会議」は解散させられた。二日間で八〇〇人以上の「首謀者」が逮捕された。この大量逮捕に対して労働者側は一九一八年七月二日、ゼネストの呼び掛けで応えた。
この時レーニンは、モスクワからボリシェヴィキ党のペトログラード委員会議長のジノヴィエフに手紙を送ったが、これはテロについてのレーニンの見解と、彼の異常な政治的幻想についてよく示すものである。労働者がヴォロダルスキーの暗殺に反対して立ち上がったと考えたことで、レーニンはとんでもない政治的誤りを犯したのだった。
「同志ジノヴィエフ! 我々はたった今ペトログラードの労働者が同志ヴォロダルスキーの暗殺にたいして大量テロをもって応えようとしたこと、そして君(君個人ではなく、ペトログラード党委員会のメンバー)たちが、それを止めたことを知った。わたしは断固そのことに抗議する! 我々は身を危険にさらしているのだ。我々はソビエトが決議した大衆テロを推奨しながら、いざ実行となると大衆の完全に正しい率先的行動を妨害しているのだ。これは許しがたい! テロリストたちは我々を腰抜けだと考えるようになるだろう。いまは非常時なのだ。反革命に向けられたテロの大衆的性格とエネルギーを鼓舞しなければならない。とりわけ決定的な先例をつくることになるペトログラードではそうだ。敬具。レーニン。」
訳者解題『ニコラ・ヴェルトの「人民に敵対する国家」について』 (抜粋)
訳者外川継男 専攻、ロシア史
(注)、これは、外川上智大学外国語学部教授「解題」(P.299〜318)の内、305ページ冒頭の一部抜粋と、第1章から第3章「解題」(P.305〜307)の全文です。『共産主義黒書〈ソ連篇〉』は、ステファヌ・クルトワの『序 共産主義の犯罪』と、ニコラ・ヴェルトの『第一部 人民に敵対する国家』(P.41〜278)という構成になっています。以下は、後者部分の「解題」抜粋です。
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ニコラ・ヴェルトはわが国では先にニコラス・ワースの名前で荒田洋訳『ロシア農民生活誌』(一九八五年、平凡社)の著者として知られている。それは父親が『フランス現代史』などで有名なアレクサンダー・ワースだからである。しかし、フランスで生まれ、フランスで教育を受け、今日ではフランスを代表するソビエト史研究者といえよう。わたしは二〇〇〇年の四月に『ラーゲリ註解事典』(一九九六年、恵雅堂出版)や『さまざまな生の断片』(外川継男訳、成文社)の著者であるジャック・ロッシ氏の紹介で、パリでヴェルト氏に会った。この時まず初めに彼は、自分の見解が一〇〇%クルトワ氏と同じではなく、かなり二人のあいだには相違があることを理解してもらいたいと言った。
ヴェルトはその執筆目的を、「結びに代えて」の中で、明瞭に言っている。それはペレストロイカ以後利用できるようになったロシアの文書館の史料や、ロシアの研究者の最近の研究成果に依拠しながら、「一九一七年以降のソ連の社会史の中心を占める暴力の全段階の展開過程を再現する」ことである。その際に彼は、従来知られている知識と、最近初めて知ったこの分野の知識、さらに実際に自分で調べた史料から浮かび上がってくる疑問とを「総合的に理解できるように」努めたという。
ヴェルトの叙述の優れた点は、このようにして書かれた全体像の見事なまでの一貫性と、演説、命令、手紙、回想記、さらには起訴状や判決などの引用の巧みさである。わが国にもスターリン体制の抑圧や、ボリシェヴィキ政権の農民弾圧の実態を原史料に即して論じた渓内謙、奥田央、梶川伸一氏らの優れた研究があるが、これらのモノグラフを理解する上でも「概説」としての本書は大いに役立つはずである。
第一章 十月革命のパラドックスと食い違い (全文)
著者は一九一七年の十月革命は、旧ソ連の歴史学のように、それが「不可避」なものでもなければ、また六〇年代以降の「リベラル派」がいうような偶然に成功したクーデターでもなかったという。この点で彼は「大衆の運動であると同時に、ごく少数の者だけが参加した」ものだったという、現代フランスにおけるロシア革命研究の大御所的存在であるマルク・フェローにしたがって、それを農民運動と軍隊の反乱、ボリシェヴィキという社会的少数者の運動、最後に帝国内の少数民族の独立運動との複合であったとする。
ヴェルトはロシア革命の「社会史的」アプローチを重視するものだが、政治史、とくにレーニンの理論と行動、その現実とのギャップに注目することを忘れない。「すべての権力をソビエトへ」のスローガンを掲げたレーニンが、実際に十月にとった戦略は全権力が党の中央委員会以外の何物にも代表されず、したがってソビエト大会にはまったく依拠しないようにしたことだった。かくてボリシェヴィキは自分たちが「ソビエトの国=ソ連」において、人民の名において統治するというフィクションを何世代にもわたって続けたのだった。これに続いて新政権の旧制度・秩序との間の「食い違い」が、また新しい諸制度との間や諸民族との間に「食い違い」が生まれ、そこから暴力とテロルが発生したと著者は結論する。
第二章「プロレタリア独裁の武装せる腕」 (全文)
この章は軍事革命委員会のあとをうけてつくられた「反革命、投機およびサボタージュと闘う全ロシア非常委員会」、チェーカーの創設過程を描いたものである。この時レーニンがジェルジンスキーを初代長官に推した理由は、自分たちの仲間で彼がいちばん長くツァーリ政府の獄舎に入っていたから、いちばん相手の「手の内」を知っているに違いないということだった。その後ゲーペーウー、NKVD、KGBなどと名を変え、所属を変えて今日まで存在する国家保安機構=政治警察は、ソビエト権力そのものを代表する暴力装置となった。ここでヴェルトは「赤色テロル」がすでに革命直後に始まっており、それを主として担当したのがチェーカーだったことを指摘する。さらに彼は、この組織がいかなる法令にももとづくものでなかったことを強調する。これと同時に「人民の敵」という新しいカテゴリーがつくられ、以後の弾圧政治において重要な役割を果たすようになる。このほか一九一八年五〜六月には、「戦時共産主義」を開始することになった「食糧徴発隊」の創設と、「貧農委員会」の設立を重視する。この食糧徴発政策は三年間に何千という農民の暴動と反乱を生み、一部農民はゲリラとなったが、体制はこれをこの上ない残酷なやり方で弾圧したのだった。チェーカー隊員(チェキスト)の数は一九一八年の三月には六〇〇だったのが、一八年の四月には二〇〇〇に、年末には四万に、そして一九二一年初めには二八万以上に増加したことを著者は示している。この章において著者はレーニンがチェーカーの創設とその活動において、中心的役割を果たしたことを史料に即して描いている。
第三章「赤色テロル」 (全文)
一九一八年の夏、ボリシェヴィキは三方を白衛軍に囲まれ、かつてのモスクワ公国はどの自分たちの領域内においても、食糧の徴発と徴兵に反対する農民の共同体が反乱を起こしていた。社会革命党やメンシェヴィキの反乱は、これにくらべれば、ものの数ではなかった。このような反乱の鎮圧のために、ボリシェヴィキ政権は首謀者の処刑や「強制収容所」収監を行なったが、これは「赤色テロル」の宣言の出る一カ月前のことだった。九月五日の「赤色テロルについて」の政令の後、テロルはさらにテンポを速め、裁判なしで銃殺される者が激増した。また「人質」作戦も行なわれた。この章の中で著者は、この時期に六号だけ発行された『チェーカー週報』や、地方の『県チェーカー報知』や、地方チェーカーがモスクワに送った秘密の報告書(スヴォトキ)の内容を紹介している。
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(関連ファイル)
「赤色テロル」型社会主義とレーニンが殺した「自国民」の推計 (宮地作成)
「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構
「反乱」農民への『裁判なし射殺』『毒ガス使用』指令と「労農同盟」論の虚実
「聖職者全員銃殺型社会主義とレーニンの革命倫理」 (宮地作成)
「反ソヴェト」知識人の大量追放『作戦』とレーニンの党派性 (宮地作成)
ヴォルコゴーノフ『テロルという名のギロチン』『レーニンの秘密・上』の抜粋
スタインベルグ 『ボリシェヴィキのテロルとジェルジンスキー』
ニコラ・ヴェルト 『ソ連における弾圧体制の犠牲者』
中野徹三 『「共産主義黒書」を読む』